Back

雑記帳

辿ることのは〜いろはつづれ〜



【い】
石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも
                 志貴皇子
                 (萬葉集 巻八 1418番歌)
まずは春の歌から始めましょう。
「いわばしるたるみのうえのさわらびの」と先へ先へと突き進む感じの上の句のテンポのよさがいい感じですよね。中身は結局の所、「春になった」って事くらいしか言ってないですけど(笑)
ちなみにこの歌、時代下って新古今集にも取り入れられてます。
『岩そそぐ垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかな』だったかな?少し形が変わってるんですね。
この時代の文学は基本的に口承や写本によるもの。伝えに伝えられていくうちに当代らしい形に変わっていったそうです。私は、「〜かな」でぼやけた感じのする新古今よりは、「〜かも」と言い切る萬葉集バージョンの方が好きですねー。
同様に萬葉集から新古今集に少し変えられて掲載されているものとして有名な和歌は持統天皇の『春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山』⇒『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山』ですかね。こちらは百人一首にもあって見慣れているためか、新古今バージョンの方がしっくり来るんですけど(^^;;


【ろ】
楼の上の秋の望みは月の程春は千里の日暮の空
                 藤原定家
                 (拾遺愚草員外 四十七首歌 202番歌)
私は結構古典、というか和歌が好きでいくつか諳んじているんですが、ら行らりるれろで始まる和歌って一つも知らなかったんですよね。で、調べてみました。まず二十一代集。(天皇が勅命を出し、国家事業として編集された勅撰和歌集21集の総称。総勢33662首)…ざっと見たところ、見つかりませんね。見落としてなければ。
んでようやく見つけたのがこの歌。四十七首歌というのはいろは47文字を頭に置いた歌を集めたものらしいですね。つまりこれ、一連の作品を読めば私が今やってるいろはつづれ歌を一人の作者だけで完結することができるってわけ。ビバ定家!
藤原定家といえば「小倉百人一首」の撰者にして、新古今集とそれに続く新勅撰集の撰者でもあります。さらに下って続後撰集と新後撰集では最多掲載首数を誇る当代随一の歌人であるわけで。「九十九は撰みて一は考へる」なんて揶揄した古川柳がありますが、これだけの歌人なら当然かも。
『こぬ人をまつほの浦の夕凪にやくやもしほの身も焦がれつつ』これが百人一首に取られている彼の歌。だけど敢えて言うほど好きってわけでも(苦笑)いや、専門家に言わせれば技巧たっぷりの裏の裏まで楽しめる歌らしいんだけどね。


【は】
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
                 小野小町
                 (古今集 巻二 春歌下 113番歌)
絶世の美女の誉れ高く「世界三大美女」などとも言われている(言われてるのは日本でだけらしいですが…)小野小町だからこその名歌かもしれないですね。
長雨が降り続く間に花の色が移ろってしまった、というものとそれを眺めて物思いに耽っている間に自らの容姿が衰えてしまったことを二重写しにしてるわけですが。。。
花、といえば美しいものの代名詞のようなものですから、いくら「古く」なったとて自分を花にたとえているあたり随分肝が据わっているというかなんと言うか。ま、私はこんな小野小町の作風は結構好きなんですよ。
百人一首にも出てくるこの歌以外にも、いい歌いくつも残しています。このいろはつづれ歌でもういくつか取り上げるかもしれません。
小野小町は六歌仙の一人としてもその知名度はあるかと思います。六歌仙の中だと、あとは在原業平もいいですよねー。彼も何首か紹介しようと思っていますのでお楽しみに。
作者ならではの作、というと、萬葉集で山上憶良の『憶良らはいまは罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ』という和歌を思い出します。和歌を詠むのは当然相手がいる場でのこと。子煩悩な憶良ならではのこの句を残してスタコラと家に帰ってしまう図を想像すると、なんとも微笑ましくなります。

小野小町⇒【お】


【に】
憎からぬ人の着せけん濡れ衣は思ひにあへず今乾きなん
                 中将内侍
                 (後撰集 巻十三 恋歌五 957番歌)
「中将内侍」って、人物を表す表記としてまわりくどいなぁと思うのは私だけでしょうか?まぁこの時代の女性みんなに言えることですけど。○○の内侍、△△の母、□□のむすめ。例外は、小野小町みたいな通り名が付いた人だけですね。ま、社会がそんなだったとしか言えませんけどね。
さて、憎からぬ人とは何ぞやといえば「憎くない=愛しい」というのが和歌の世界。そんな相手にどんな濡れ衣着せられたって、まぁ要は男と女のお話ですから…(笑)
濡れ衣、「袖をぬらす」という行為にはもう一つというかむしろこっちが本筋の意味がありまして、「愛しい人が逢いに来てくれないと泣く涙を衣の袖で拭う」という行為があるわけです。ならばそれが乾いたってのは何を意味するかといえば?
もう涙すら枯れ果てて衣が乾くほどというのに、貴方は逢いに来てはくれないのですね、と恨み言をいう歌なわけなのですよ。
二重写しがあたりまえの古典の世界。読み出すと止まりませんぜこれ。
袖をぬらす、を話題にした歌といえば百人一首にも『わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし』二條院讃岐、なんてのがありますね。


【ほ】
ほととぎす鳴きつるかたを詠むればただ有明の月ぞ残れる
                 右大臣実定
                 (千載集 巻三 夏 161番歌)
百人一首の一字決まりの歌ですな。
雅心をくすぐるのはやっぱり春と秋。それに挟まれた夏をテーマにした和歌ってのは結構数少ないもんでして。冬の方がまだ「さびしい冬」として詠まれることがあるだけいいってもんですか。(因み夏の歌は、この和歌を含め「短い夜」がテーマなのが殆どです。この話もまたいつか紹介しましょうか。)
その数少ない夏の和歌、ホトトギスは最頻出です。和歌に詠まれるホトトギスはいろいろな字があてられています。不如帰、時鳥、郭公、杜鵑、蜀魂、杜宇、子規…探せばもっとあるはず。しかし…読めないって(苦笑)
そう書いてみて、正岡子規って人は「ほととぎすさん」だってことに改めて気付きました。彼は「日本」という新聞に『歌詠みに与える書』を発表し、その中で「貫之は下手な歌詠みにて『古今集』はくだらぬ集にこれあり候」と大胆に王朝和歌黄金期ともいえる時代の和歌や有名な歌人を批判してますけど。。。
彼ほどの人ですから、紀貫之の『ほとときす鳴くなる声を早苗とる手間うちやめてあはれとぞ聞く』ってのは勿論知ってたんでしょうね。
そういえば正岡子規は松尾芭蕉の俳句もかなり散々に貶してたんだっけか。歴史に残る学者ってのは強烈な意見持たないとイカンのだろうかねぇ。


【へ】
へたてこし蓬の垣も霜枯れてあらわに冬の初めをぞみる
                   衣笠内大臣家良
                   (弘長百首 冬 353番歌)
以前「らりるれろ」で始まる歌がない、って話をしましたけど、「へ」とか「え」で始まる歌もかなり少ないんです。「ゑ」ならまだいくらかあるんだけどね。最多は「あ」かなぁ?(多すぎてカウントしてない)
そんな中でいろはつづれ歌、記事のために探してまいりましたよ、この歌。「弘長百首」とは弘長元年(1261年)に後嵯峨院の下命で、実氏・基家・家良・為家・為氏・ 行家・信実の七人が詠んだ百首歌みたいですね。7人で、計700首。
当然一人で100首詠むにはすごい技量が求められるわけで、百首歌に召されることは歌人としてお墨付きを得られる相当な名誉なわけです。小倉百人一首や新古今集の藤原定家は25歳ですでに3回もこなしていると言うから驚き。
と、無理して持って来たのに初句の「へたてこし」(和歌そのものは仮名表記ですから)の意味が読み取れず。枕詞か何かかなぁと最初思いました。けど多分「隔ててきた」って解釈であってると思います。これでお判りの通り、仮名表記かつ濁点無しの和歌から、すこしわかりやすいように漢字変換&濁点付けを私が独断でやってますので、もしかしたら間違いあるかも。霜枯れる冬。霜といえばってことで『心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花』凡河内躬恒、なんて歌を持ってきてみたり。古今集の撰者ですね。冒頭の歌に比べて同じ霜でも哀しい感じはないですなー。
あ、でもこの歌は「初霜」だから秋の季語か。

衣笠内大臣家良⇒【ぬ】


【と】
年の内に春は来にけりひと年を去年とや言はん今年とや言はん
                   在原元方
                   (古今集 巻一 春上 1番歌)
記念すべき第一号の勅撰和歌集古今集の、これまた記念すべき第一巻1番歌です。因みに古今集の最後は紀貫之の『みちしらば摘みにも行かむ住の江の岸に生ふてふ恋忘れ草』という歌。紀貫之は古今集最多掲載ですね。
旧暦の一年の終わりは、太陰暦だから月が新月を迎えるとき。しかし春がくるのは太陽暦の春分を迎えるとき。そんなわけで、この歌の意味は「年が明ける前に春分が来てしまったけど、今年の、というのか去年の、と言うのかどっちなんだろう?」って言ってるわけですね。
太陰暦の場合、1月から12月だけでなく閏月ってのが入ってくるからまたややこしい。確かこの歌を読んだ年は閏月があったという話です。
因みに2005年の12月31日には「閏秒」なるものがあった、って話は皆さんご存知ですかね?原子時計で厳密に測った時刻と地球の回転周期がずれてくると、地球の回転の方に合わせて23時59分59秒と0時0分0秒の間に23時59分60秒を挟むんだそうな。グリニッジ時に合わせているので、日本では今年の1月1日8時59分60秒、ってことになります。
あぁ、いろはつづれ歌なのに理系チックなことを語らってしまった。そんな今も昔も時というものは悠久に流れて続いていくもので、と無理やり締めてみよう。


【ち】
千早振る神代もきかず立田川から紅に水くくるとは
                   在原業平朝臣
                   (古今集 巻五 秋下 294番歌)
さて、余りにニッチ過ぎて突っ込みどころに困るのかもしれないとも思いながら一人で突っ走るこの企画。今日も行きます。
この歌、落語で知ってる方もいるかもしれない。ってここを見てるような人は落語聞くような世代じゃないか?竜(立)田川と言う相撲取りが千早さんとか神代さんとかに恋をするのだが報われず…ってな話ですね。まぁ私も聞いたことないのでどんな話運びかは委細はわかりませぬ。確か最後は入水自殺だっけか?(注:違った。相手の女の人を井戸に沈めちゃうんだった…怖)
元々は、同じく百人一首に取られている陽成院の歌『筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる』もセットで珍解釈のストーリーが出来ていたそうですよ。今は演じる人がいないみたいですが。
から紅とは「韓の紅」、紅花のことだそうです。別名末摘花とも言います。染料として使われるものですね。染料で染めるがごとく竜田川がこんなにも見事に紅葉で真っ赤に染まるなんて、神代の昔から聞いたことがないよ。って詠んでおります。
末摘花、といえば思い出すのが源氏物語の登場人物。紅花なんて名前、艶っぽいじゃないと思うのだけれど、源氏物語の中での彼女の扱いはどちらかといえば醜女。。。あ、でもそういえば彼女は「鼻の頭が赤い」という理由でそんな名前がつけられたんだっけか。なかなかいい味を出している人なんだけどね。

在原業平⇒【つ】【な】
源氏物語⇒【わ】


【り】
流俗のいろにはあらず梅の花珍重すべき物とこそ見れ
                   右大将実資
                   (拾遺集 巻十八 雑賀 1179番歌)
拾遺集の成立は1006年と言われています。古今集が905年だから、その約100年後。間には後撰集(951年頃)が入ります。これを合わせて三代集といいますが、この名前「昔と今のいい歌を集めた」古今集、「古今の後に撰んだ」後撰集、「古今後撰の拾い遺しを集めた」拾遺集と、名づけ方にも繋がりがあるんですね。さらに言うならその後の5勅撰集を合わせた八代集も更に続く十三代集も、「新古今」とか「続後撰」とか「新後拾遺」とか影響を受けた名前が並んでますよ。
それにしても、拾遺集は平安時代、この時代の和歌で漢字を音読みする歌は珍しいのでは?というかそもそも漢詩文学と別流にある、かな文学の和歌が音読みを多用するようになったのは、多分近代以降なんじゃないかと思います。
和歌で音読みが珍しい、と言いましたがこの時代、人の名前も音読みはまずなかった、はず、です。
春といえば『はかなくて過ぎにし方を数ふれば花に物思ふ春ぞ経にける』なんて歌を残した式子内親王も「しょくしないしんのう」と呼ぶし、ほかにも例えば「中宮定子=ていし」とか「中宮彰子=しょうし」とか呼ぶのが一般的ですよね。これ、本当は「しきこ(?)」だったり「さだこ」「あきこ」だったりするんじゃないかと思われますが、正確な呼び方がわからないから仮に「しょくし」「ていし」「しょうし」と呼んでいる、それが定着しただけらしいですよ。


【ぬ】
濡れて干す暇こそなけれ夏かりのあしやの里の五月雨の頃
                   衣笠内大臣家良
                   (続拾遺集 巻三 夏 182番歌)
はい再び衣笠内大臣家良から。この歌、五月雨を歌ってます。「短夜」を詠まない夏の歌は少ないです。えーっと、今だと五月雨って夏のイメージ余り無いかもしれませんが、そこは旧暦なんで、約1ヵ月半ずらして考えてくださいまし。つまりは梅雨ですね。同じく「五月晴れ」なんて言葉も、今では梅雨より前のさわやかなイメージがありますけど、本来は梅雨明け後の夏空のカーッと晴れた空を指す言葉なんですよね。
そんな旧暦と新暦のズレってのは、節句で顕著に現れるわけで。桃の節句は桃の花には早すぎる、端午の節句は菖蒲がまだまだなんてのがあります。それから七夕。藤原興風が『契りけん心ぞ辛き七夕の年に一度逢ふは逢ふかは』なんて歌を残してますが、新暦の7月7日はまだまだ梅雨。年に一度しか会えない約束なんてのは、「逢ってる」といえるものなの!?と詠んでいるそれですら雨で流れてしまっては可哀想なものです。旧暦の七夕なら(仙台とかそうでしたっけ)もうちゃんと梅雨も明けてますから、星空のもと織姫彦星会えるわけですよ。
しかもよく考えてみれば7月、ってことで七夕は夏じゃなくて秋の季語なんですね。。。すっかり見落としてた。

衣笠内大臣家良⇒【へ】


【る】
るり草の葉におく露の玉緒さへ物思ふときは涙とぞみる
                   順
                   (順集 全 39番歌)
この順集(したごうしゅう、と読みます)ができたのが983年ごろ。それから私が好きな歌人の一人和泉式部が『るりの地と人も見つべし我が床は涙の玉と敷きにしければ』と詠んだのは、詳しくは判らないですが1000年前後でしょう。(和泉式部の生没年は未詳ですが978年〜1034年頃?と言われています)
二つの和歌を比べてお判りの通り、かなりテーマが似てますよね。るり、露、そして涙。短い三十一文字で詠める事だから、ただ単にも似てくる可能性もそれはもちろんありますけど、これだけ似ているとしたらやっぱり「本歌取り」という技法を意図した可能性もありますかね。
今更解説の必要は無いかもとは思いますが、本歌取りとは既にある有名な和歌の言い回しを一部借りることによってその和歌の詠んだ心情や風景を自らの歌にも内包する、和歌特有の「二重映し」の技法のひとつです。
当時の知識人は、古い歌をどれだけ知っているかが即ち教養そのものだったわけで、誰もが認めるような有名歌だけでなくいかに適切な作を織り込めるかが腕の見せ所でもあったわけです。現代に生きる私たちにとっては、相手が知ってるか知らないかわからないような和歌を織り込むことにどれだけ意義があるのかなぁと、少々疑問にもなるところですけれどね。まぁ着物の裏地に刺繍施すようなもんでしょうか。(ちょっと違う?)


【を】
少女子が袖ふる山の瑞垣の久しき世より思ひ初めてき
                   柿本朝臣人麿
                   (拾遺集 巻十九 雑恋 1210番歌)
出典は拾遺集ですが、古和歌です。柿本人麿は萬葉集の中の歌人として名高いですが、当時としてはかなり高度なテクニックを駆使した人で、「歌聖」と称されたりもしてます。持統天皇や文武天皇に仕えた宮廷歌人でありながら正史に載ってないのは、政治的失脚により柿本佐留という名に改名されたからだとか、変わった伝説というか言い伝えもまた多い人でして。
乞食者(ほがいびと:家々をまわって寿歌(ほぎうた)を歌って食を乞うた芸人)を引き連れて各地を漂泊放浪したなんて話もあり、それ故近畿地方を中心とした各地に祭祀に関連した人麿伝説が数多くあるんですね。
言い伝えの一つに「猿丸太夫人麿説」があります。彼自身柿本人麿の名でも百人一首に取られていますが、その人麿が『奥山に紅葉ふみ分け鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき』の猿丸太夫と同一人物ではないか?っていう説もあるそうで。人と猿(=佐留?)、相対するものとして付けられた名前にも何か意味がありそうな気もします。
しかしもし、柿本人麿が猿丸太夫と同じ人だとしたら。百人一首が「百人」じゃなくなってしまうんですよね。どうしたものやら。(どうでもいい、って突っ込まないでね)


【わ】
忘るるはうき世の常と思ふにも身をやるかたのなきぞ侘ぬる
                   紫式部
                   (千載集 巻十五 恋五 908番歌)
紫式部も、千載集新古今集を中心に数多くの歌を残した歌人ですが、一般には「源氏物語」の作者としての方が有名な気もします。
この源氏物語、ストーリーはもはや私以上によく知ってるひともたくさんいると思いますので細かい説明はしませんよ。この源氏物語、主人公光源氏の恋愛物語という形で、その実「和歌の用例集」的な位置づけでもあったという話です。そりゃまぁ、いろんな立場の人といろんなシチュエーションで恋話綴ってるんだから、いろんな用例が並ぶことにもなるわなぁ。因みに私は、ごりごりの恋愛談よりは花散里とのくだりとかがほっとする感じでお気に入り。
ほぼ同時代の女流文学といえば、誰しもが枕草子・清少納言を挙げますよね。もちろん彼女も数多くの和歌を後世に残していますが…私が個人的な好みで軍配を上げるなら和歌は明らかに紫式部。冒頭の歌と似た感じの歌で『わすらるる身は理と知りながら思ひあへぬは涙なりけり』ってのを清少納言が詠んでますけど、「理」と「うき世の常」の言い回しの微妙な違いとか、なんか清少納言が頭で和歌作ってる気がしてならないんですよね。

紫式部⇒【め】


【か】
かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる想ひを
                   藤原實方朝臣
                   (後拾遺集 巻十一 恋一 612番歌)
百人一首の中でもお気に入りの51番歌。指示語の意味をしっかり把握しないと読み取れない歌です。
かくとだに⇒「こうである、とは」、さしも⇒「まさか」って感じですかね。間に入る「えやは伊吹のさしも草」は続きの「さしも知らじな」を引くための言葉であって、直訳はしません。とはいっても「さしも草」と「燃ゆる」が縁語としていい流れを作っていますよ。もぐさのごとく、炎を激しく上げるわけではないけれど中でじっくり熱くなる想いを、抱えているのですよ。あなたはそのことを知らないだろうけど。そんな歌です。
このさしも草、どうやら当時の言葉ではもぐさ=蓬のことだそうです。蓬を燃やしてたのか。。。
百人一首において、恋の歌の占める割合は確か43/100。古今集とか拾遺集とか新古今集にしても、百人一首ほどではないにしても「恋」に関する題だけで複数の巻になるほど、最大テーマになってます。これはやはり、宮廷の漢詩文学に対してかな文学が、私的なやりとりに根付いたものであるからなのでしょうね。例えば『小倉山峰たちならし鳴く鹿の経にけむ秋を知る人ぞなき』なんていう紀貫之の歌も、一見秋の侘しさを読んでいる歌に見えますが(実際分類上は秋の歌ですが)、鹿の鳴き声は雄が妻を呼ぶために鳴くものと考えられていて、ここにも恋とか愛情とかいうものが隠されているんです。


【よ】
夜を残すね覚の友と成にけり老のまくらに衣うつこゑ
                   一品法親王寛尊
                   (新後拾遺集 巻八 雑秋 760番歌)
衣うつ声、のように体言止で終わる和歌が多くなるのは、新古今集の前後から。
(【ろ】で紹介した定家の歌も「空」と体言止ですね)この作のある新後拾遺集は新古今集(1205年)の2世紀近く後、1385年のことです。古今集や後撰集、拾遺集の頃にはあまり見かけません。勿論皆無ではないと思いますが…
古典に慣れてきた方なら、このいろはつづれ歌に挙げられたいくつかの和歌を読んだときに「なんとなく語調が違う感じがあるのかも」というところに気づく方もいるかもしれません。種明かしをすれば簡単なことですが、いわゆる「ますらをぶり」「たをやめぶり」ってヤツです。その言葉ぐらいは聞いたことありますよね。
ますらを(益荒男)ぶりは、基本的には萬葉集の和歌に見られるような率直な力強さを感じさせる歌風。たをやめ(手弱女)ぶりは、新古今時代の繊細で精巧に織り込まれた歌風。宮廷での教養としての位置づけが高まるに従って、和歌の技巧が積み重ねられて複雑なものとなってきたことの表れな訳です。折句なんかもその一つ。『逢坂も果ては行き来の関もゐず尋ねて訪ひ来来なば帰さじ』という村上天皇の和歌、折り込まれた意図、判ります?
ただ、ますらをたをやめのどちらが上位である、って訳ではないですよ。どちらもいい所はありますし、私の好みの歌もどちらにも満遍なくありますのでどっちがいいとは言いません。ただ、古いますらをぶりの方が内容を読み取ることは簡単かもしれませんね。


【た】
たらちねの親のいさめの絶しより花にながめの春ぞへにける
                   入道前摂政左大臣道家
                   (続後撰集 巻十六 雑上 1042番歌)
はい、見事なまでの枕詞の基本的使用例ですね。「たらちねの」は元々「垂乳根の」ということで「母」にかかる枕詞です。ってこのくらいは基本解説必要ないか?とはいえ枕詞というもの、成り立ちはともかくあまり直訳的な意味で使われることは無いと思っていいかもしれません。この歌の場合も、「親」にかかってはいますが必ずしも母かは判らないですね。なんとなく「(今は亡き)母親に諌められた」記憶のような気もしますが。
枕詞で有名なのと言うと「あしひきの」山(裾を引くように延びた感じ、あるいは山登りが大変で足を引きずる様子)とか「あをによし」奈良(青丹の産出、あるいは都の建物の色美しさ)とか「ぬばたまの」黒・闇(ヒオウギの黒い実)とかでしょうか。カッコ内に成り立ちを書こうとしたら随分長くなりましたが、つまりは成り立ちにも色々説があって、確実なことはわからんってことですよ。
百人一首にも柿本朝臣人麿が『あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を一人かも寝む』と詠んでいますが、これなど「あしひきの」⇒山(鳥)と枕にしただけでなく、そのさき「山鳥の尾」⇒長いと繋げてようやく本題「長い夜に一人寝だ」とそれだけ言ってるんですよね。うん、枕詞ってほのかな雰囲気作りと語調あわせのためにあるみたい。


【れ】
例よりもうたてものこそ哀しけれわが世の果てになりやしぬらむ
                   和泉式部
                   (和泉式部集 第二 272番歌)
…また困ったらりるれろですが、探せばあるもんですね。和泉式部万歳。しかも和泉式部の和歌で3首も発見。さすがです。でも全部『例よりも時雨やすらむ神無月袖さへ通る心地こそすれ』とかで初句が同じだけど。その中ではあえてこの歌を選んでみました。
前にも書いたとおり、和泉式部も結構好きな歌人の一人です。彼女の和歌は、その背景にあるストーリーを知るとおもしろい、ってものが多い。基本的には情熱的、それでいて「お転婆娘」とでもいうべき部分も併せ持つ女性で、求愛の和歌を男性から貰ったときも、それを上手く捻ってからかうような返歌をするのが得意な人です。同僚の赤染衛門なんかにそのお転婆っぷりをたしなめられてる歌も残っていたりして。
そのわりに、冒頭で紹介した歌は妙にさびしい感じなのがこの人にしては珍しいかも。今回、和泉式部集の和歌だけを見て探し出したのでこの背景がわからないのが残念。またいつか調べてみたいと思います。
古今集や新古今集などの和歌集の場合、和歌の前にはタイトル兼状況説明とでも言うべき「詞書」というものが付いているのが普通です。この習慣はどうやら古今集くらいから増えてきたらしく、古いものには無くても意外では無いんだけど、新しい(といっても平安後期〜鎌倉時代辺りか)もので詞書がない場合、あえて「題知らず」とつけて紹介されてたりします。和歌が詠まれた背景を知ると、またもっと興味深いものになりますよ。お勧めです。


【そ】
袖乾く時なかりける我身にはふるを雨とも思はざりけり
                   読み人知らず
                   (後撰集 巻二十 慶賀哀傷 1414番歌)
このいろはつづれ歌、今まではとりあえず作者のわかる歌を優先的に持ってきてたんですけれど、あえて「読み人知らず」について語ってみるのもありかなとふと思ったのでこの歌で。和歌の内容は、皆様お解かりですよね?「袖乾く」の意味、「ふる」の意味、どちらも既に紹介した和歌にもありました。
この歌、後撰集というれっきとした勅撰和歌集に選ばれているわけですから、しかるべき所で詠まれた歌であるはずです。で、しかるべき所で歌を詠めるのは、しかるべき地位にある人のはずです。普通なら記録に残らないはずはありません。
この場合考えられている説のひとつは、詠んだ人物の政治的失脚。勅勘などで公の記録を抹消されてしまったために名前が無い場合。ただこの説にも、いくら良い歌だとしても人の記録が抹消されるほどなのに和歌は勅撰集に残るなんてことがあるの?という疑問が残っていたりします。
もうひとつの説は、(当時)巷でよく知られている古和歌がたまたま歌合などで場に適したものとして出され、それが正式なものとして残った場合。つまりは、童謡とか、ある種のことわざやら格言みたいなものと同じで著作権のありかがわからないものである場合、って事ですね。
ただ、この紹介した和歌が巷で口承されると考えると…まぁ哀しい歌もありなのかなぁ。『恋ひ恋ひて逢ふ夜は今宵天の川霧立ち渡り明けずもあらなむ』とかだったら明るい感じでいい名と思うのだけれど。

袖⇒【に】
ふる⇒【は】


【つ】
筒井筒井筒にかけしまろが丈過ぎにけらしな妹見ざる間に
                   在原業平朝臣
                   (伊勢物語 49番歌)
伊勢物語の主人公として知っている人も多いと思います、六歌仙の一人在原業平は恋の名手でもあります。この和歌も伊勢物語に入っていますが、伊勢物語を見ると旅物語の体裁を取っていながら恋愛エピソードがかなりの部分を占める。歌の名手は恋の名手、なんてのがここでも明らかになってますかね。
宮仕えに出てしまって幼馴染の貴女に会えないうちに、昔良く背比べをしていた井戸より私の背は高くなってしまったよ。なーんて幼馴染ってもんのいない私にはちょっと羨ましいような羨ましくないような(笑)どうなんですか、幼馴染って?(問いかけてみる)
同じく幼馴染相手の恋の歌で『比べこし振り分け髪も肩過ぎぬ君ならずして誰か上ぐべき』ってのも有名ですかね。伊勢物語では冒頭の筒井筒の歌のすぐ後、50番歌です。(確か「返歌」だったはず)♪僕の髪が〜肩まで伸びて〜君と同じに〜なったら〜…って私達の年代だとわからんかな。(吉田拓郎「結婚しようよ」)正にそんな感じの歌詞か。でも立場は男女逆か。
行く先々で恋愛を繰り広げる人、といえば源氏物語の主人公光源氏。学説では源高明をモチーフにしたとか言われておりますが、在原業平もイメージの一人にあったのではないか、って説もありますよ。時代としても確か結構近いはず。。。日本史は苦手だから時代の前後関係は良くわかってなかったり。

在原業平⇒【ち】【な】


【ね】
ねぬ夢に昔の壁を見てしより現にものぞ哀しかりける
                   兼輔朝臣
                   (後撰集 巻二十 慶賀哀傷 1399番歌)
もののあはれを詠むが王朝和歌の真骨頂、というわけでこの時代の和歌は男も女も事あるごとに涙を流しております。花鳥風月、春夏秋冬、愛別離苦にあはれを感じるだけでなく、この歌ではついに家の壁を見て泣いておりますよ。。。とはいえまぁ愛別離苦のひとつといえばそうか、昔の落書きを見てそんな時もあったのだなぁと懐古しているわけです。
もちろん、こんな和歌の全盛時代ですから、男でもむしろ涙を流せる人のほうが心ある繊細な人として高い評価を受けるわけです。男が泣かなくなったのは、武士という階級が生まれてからの話。武士が泣いてちゃ話にならないですからね(笑)
後撰集は全20巻、1425首の歌を集めた和歌集ですから、これはかなり最後の方の歌。勅撰集はどれも和歌の並びに非常に凝っていまして、もちろん元々の歌が作られた経緯もひとつのストーリーですが勅撰集を順番に読んでいくだけでも見事なストーリーになっていたりします。初春から始まって春夏秋冬の刻々と変わる季節の変化とか、場合によってはゆり戻しまでをも丁寧に追っていったり、人との出逢いや別れがあったり。
この歌のある「慶賀哀傷」の章は、前にも【れ】の所で書いた「詞書」が非常にしっかり付いていて、そのストーリーの追いやすい部分でもあります。
この歌に続いているのは『夕されば寝に行く鴛のひとりして嬬恋すなる声の哀しさ』閑院左大臣という歌。どちらも妻に先立たれたやもめの心境ですよ。

詞書⇒【れ】


【な】
名にし負はばいざ言問はん宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと
                   在原業平朝臣
                   (古今集 巻九 羈旅 411番歌)
再び在原業平です。京を離れ東へ旅することしばらく。「むさしのくにとしもつふさのくにとの中にあるすみた河のほとりにいたりてみやこのいとこひしうおほえけれは…」この歌を詠んだのはもう関東平野(といってもその頃は人口も少ない単なる湿地帯ですが…)まで来ています。東京は浅草の、隅田川花火大会会場に近いあたりに「言問橋」という橋が掛かっているのは、ご存知でしょうか。つまりはあの辺りで詠んだ…かは知りませんが、言問橋はそれにちなんだ名前な訳です。因みにその道を西にしばらく進めば、私がいつもいる大学の本郷キャンパスと弥生キャンパスの間を通る通称「ドーバー海峡」に辿り着けます(この名前は…ウチの大学の人でもあんまり使わないかな?)。まぁともかくこういう身近な所から古典を辿ってみるのもまた面白いかと。
とはいっても私が住んでるような関東地域は和歌の世界ではわりとアウトサイドでして、京や奈良あたりを外れた所の歌は「東歌」なんていう括りにされることもありますね。「かきつばた」の折句で有名な『唐衣着つつ慣れにし〜』の歌もそうです。あとは百人一首の『田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ』山辺赤人も有名でしょう。「東歌」の「東」とは、大体関が原以東くらいの感覚なんでしょうかね。それとももっと都近辺に境があるのか。関東人が「箱根の向こう」っていうのと同じような感覚かもしれない。

在原業平⇒【ち】【つ】


【ら】
らいしをかむただ秋萩のひと枝も仏のたねは結ぶとぞきく
                   藤原定家
                   (拾遺愚草員外 四十七首歌 222番歌)
困ったときの定家頼み。四十七首歌から引っ張ってきました。探して引っ張ってきただけなのでまともな解説は書けません(爆)拾遺愚草員外ってタイトルなんだか拾遺集との関連を考えてしまいそうですが、別にそういうわけではなく。時代も、定家ですから新古今(1205年頃)時代以降。実際は、1216年に正紹の三巻が成り、以後何次かにわたって追補されたとのことで、最終的には1241年成立との話。
この時代、すでに鎌倉幕府が1192年に成立し武家社会が成立しており、またそれは戦乱の世の中でもありました。その厭世感(末法思想)の中で仏教、とくに浄土宗や禅宗といったわかりやすい宗教が広く民衆に広まった時代でもあります。もちろん定家は知識階級ですから、平安時代の難解な仏教思想にも理解はあったと思いますがね。政治的権力を持つようになった平安仏教に対する違和感のようなものを、この歌から読み取れるような気もします。
苦手苦手といいつつも日本史、古典好きとしてはまったく避けて通るわけにも行かないものでして。『この世をばわが世とぞおもふ望月の欠けたることもなしとおもへば』藤原道長、なんて和歌は社会科の教科書で読んだことがあるような気がします。主だった歌集には残ってない、和歌・歌人としては売れてないんですけどね。。。

藤原定家⇒【ろ】


【む】
村雨の露もまだ干ぬ槇の葉に霧立のぼる秋の夕暮れ
                   寂蓮法師
                   (新古今集 巻五 秋下 491番歌)
このいろはつづれ歌の中で百人一首の歌をいくつか取り上げてますが、これもそうですね。百人一首の中では「一字決まり」として覚えている方も多いでしょう。「むすめふさほせ」ってやつです。「さ」の『寂しさに宿をたちいでて眺むればいづこも同じ秋の夕暮れ』良暹法師もたまたまだけど「秋の夕暮れ」詠んでますな。
一方決まり字が遅い方だと、六字決まりが3種類(あさぼらけ、きみがため、わたのはら)6首あることもまた知ってる人は多いですよね。歌留多では紛らわしくて嫌な部類に入るかな?
一方取り札のほう、即ち下の句の決まり字というものはあんまり話題に上ることも無いようですが、歌留多で強くなろうと少しでも思うなら必ず気にするであろう事。一字決まりに相当するのは「おきさすつとぬねを」の9首、そして決まり字の遅い方だと「いまひとたびの」で始まる2首が八字決まり、「わがころもで」で始まる2首と「みをつくして」で始まる2枚が七字決まりと、こちらの方が紛らわしいですかね。あと、下の句が「ひと」で始まる和歌が9首もあるのがまた面倒だった覚えがあります。


【う】
うかりける人を初瀬の山おろしよ激しかれとは祈らぬ物を
                   源俊頼朝臣
                   (千載集 巻十二 恋二 708番歌)
続いてまた百人一首の話題で。一転この歌はすごく覚えやすかったという記憶があります。上の句の「うかりける」と下の句の「激しかれ」を繋げて「うっかり禿げ」という感じで覚えたなぁと。内容とは全く意味関係ないですけれど、覚えたのなんて古典の知識身につけるよりずっと前、小学生くらいの話ですから。
同様に『淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守』という源兼昌の歌は「淡路島行くよ」と覚えたものでした。こっちの方がまだまともか。他にも語呂合わせみたいなことで覚えた和歌があるって人もいるんでないかな?
高校くらいになって古典文法を習うようになって初めて(もちろん特に古典知識無くても判る部分はありますが)その本当の意味を知ることになるわけです。「うし(愛し)」の語尾変化で「うかり」、助動詞「けり」の語尾変化で「ける」。単なる丸暗記のお題目だったものがひとつずつ意味を成す言葉になっていくときの面白さ、それが私が古典に嵌ったきっかけです。こうして考えると、小学生の頃に意味もわからず百人一首丸暗記したのも無駄ではなかったなぁ、と。大学受験のときも古典を武器にして入ったしね。


【ゐ】
ゐくひにも紅葉の錦かかりけり朽ちぬる身にも思ひなけかし
                   源明国朝臣
                   (金葉集・初度本 巻三 秋 365番歌)
「紅葉の錦」という言葉、以前こるもごろふ君が挙げた菅家の和歌にも出てましたが、美しい紅葉を表す言葉として多用されます。それも京の都は盆地ですから、四方が山に囲まれて紅葉の季節はさぞ美しいことかと。その裏返しとして、山寺からみた都の春の花霞を「春の錦」と詠んだ歌もありましたっけ。
花咲く春と葉の色づく秋、どちらがよりすばらしい?っていうのは当時よく話題にされたことらしく、歌合なんかでも御題として「春秋争い」がよく使われているようです。一方が「春はすばらしい」と歌を詠めばもう一方は「秋も負けていないぞ」と切り返す。そんな中で紀貫之などは『春秋に思ひみだれてわきかねつ時につけつつうつる心は』なんてちゃっかり判断を保留しちゃったりもしていますが。
春秋は、和歌のシーズンであるとともに神事や例祭のシーズンでもあります。今でこそ「神事例祭」と人くくりにされていて正直私もよく判ってませんが、当時は春が神事、秋が例祭と色分けもきちんとされていたみたいですよ。春が一年の作物の成長を祈る「願掛け」、秋が豊作に感謝する「祭」、っていう感じの色分けでいいのでしょうかね。


【の】
法の道あと踏むかひは無けれども我も八十の春にあひぬる
                   蓮生法師
                   (続拾遺集 巻十九 釈教 1361番歌)
蓮生法師が80歳の新春を迎えたときの歌ですね。この頃の年齢は数え年だから春がくるごとに年を取るわけで、満年齢なら78歳。とはいっても当時の平均寿命からすると、40代になったら殆ど老人だったようなものですから(老人だから欲を削ぎ落とした「不惑」に達することができるのです)彼の長寿っぷりはすさまじいものが。今だと120歳オーバーとかそんなイメージかな?
蓮生法師は浄土宗の僧侶として今でも有名な様子。彼の最も有名なエピソードの一つが「東行逆馬」。阿弥陀様がいらっしゃる西方を敬うあまり、関東への布教の旅に出るときも、「西におしりを向けて進むことはできない」として、馬に逆さに乗って西をおがみながら進んで行ったのだとか。こんな信心深い敬虔な人だからこそ長生きできたのでしょうか。
一方、信心が無いわけではないですが夭折した歌人としては宮内卿が有名でしょうか。20歳前後と言われていますから、今の私の歳よりは下。それでも『うすくこき野べのみどりのわか草に跡までみゆる雪のむら消』の和歌はじめとした43首の歌を勅撰和歌集に残しており、後鳥羽院(新古今の勅命を下した人物)の覚えもめでたかったようです。


【お】
思ひつつ寝ればや人の見えつらん夢と知りせば覚めざらましを
                   小野小町
                   (古今集 巻十二 恋二 552番歌)
歌の名手は恋の名手、小野小町からです。
とはいえ、この歌もそうですが、和歌において恋を詠むときそれが「恋愛が成就して幸せである」ということを詠む歌はありません。「逢いたいのに逢えない」とか「後朝の別れが寂しい」とかそんな歌ばかり。まぁ「幸せだ」というものは「あはれ」を詠む和歌には合わないものなのかなぁという気もちらっとはしますが、もうちょっと突っ込んでみると。。。
元々、「恋う」という言葉自体が、「手に入らないもの」に対する感情を表す言葉なわけです。例えば恋愛の場合なら、成就する=手に入るということは男女の仲になること…そういう場合は古語だと「見る」とか「逢ふ」という言葉を使って表現するわけですね。そもそもこの時代公に女性が出てくることは無いのですから、「見る」即ち…(以下不適切な表現になりそうなため省略w)ともかくそういうわけだから「恋」カテゴリには直接は入らない、ってこと。
せめて夢の中でだけでも愛しい人に会えたなら、そう思うこともあるわけで。会うことができたのだけれど、目が覚めた所で夢だと気づいた。夢だとわかってたら目を覚まさずずっと一緒にいられたのに…と残念がるわけです。そして『うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき』と次の夢に期待する、とな。

小野小町⇒【は】


【く】
草も木も色かはれどもわたつうみの浪の花にぞ秋なかりける
                   文屋康秀
                   (古今集 巻五 秋下 250番歌)
六歌仙の一人、文屋康秀です。今まで小野小町と在原業平しか紹介してこなかったのですが、ここで残る三人も含めまとめて紹介しましょうか。平安初期の850〜890年頃に活躍した6人の歌人のことで、具体的には僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大伴黒主ということです。「仙」とつくからには高尚な人のはずですが、実は古今集内での評が特別高い人、って訳でも無いみたい。古今集の仮名序において紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として掲げたのがその定義というか成り立ちらしいので、まぁ具体例に挙げるくらいだから、一般より高いことは確かでしょうが…
なんとなく似た名づけに三十六歌仙というものもあります。こちらは時代下って1000年頃、藤原公任の『三十六人撰』に載っている和歌の名人36人の総称です。多分六歌仙意図したんだろうなぁ。この中にも、小野小町、在原業平、僧正遍照が含まれていますね。この藤原公任の撰は、非常に的確であったと後世にも高い評価を受けていますね。自身もかなりな歌人で『春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ』と拾遺集に残っていたり、三十六歌仙に倣って後に選ばれた中古三十六歌仙なんてのにも名前が挙がっています。

文屋康秀⇒【ふ】
六歌仙⇒【は】【ち】【つ】【な】【お】【ふ】【さ】【す】


【や】
山桜あくまで色を見つるかな花散るべくも風吹かぬ世に
                   平兼盛
                   (続古今集 巻二 春下 104番歌)
平兼盛は三十六歌仙の一人。三十六歌仙を選んだ藤原公任によれば、その中でも中務と並んで最高の歌人と評されています。この歌も、とりあえずは続古今集から引いてきましたが、他にも有名な歌集に何度も取り上げられています。和漢朗詠集とか、三十六人撰とか。
平安中期の代表的歌人なのですが、この歌もまさに平安中期っぽいですよね。同時代の有名人といえば、藤原道長。執権政治の成立期なわけですから、まさに風も吹かぬ太平の世なわけです。
ただし、続古今集は1265年の成立なので、既に鎌倉時代。あと、割と知られていないことかもしれませんが新古今和歌集もすでに1205年ということで鎌倉幕府成立の13年も後なんですよね。そう考えると、八代集はともかくとして(7個目の千載集までは平安時代)その後一三代集は全て武家政権の最中に作られた勅撰集。むしろ、武家が実験を握った世の中だからこそ、貴族社会の栄華を纏めた歌集を作り残そうとしたのかもしれませんね。
『人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は』そう詠んだ後鳥羽院のように、貴族が実権を持った時代への懐古の産物、なのかもしれません。

平兼盛⇒【し】


【ま】
松虫のなくとも誰か来て問はんふかき蓬のもとのすみかを
                   従一位宣子
                   (新後拾遺集 巻八 雑秋 754番歌)
この時代の男女のありかたは、恋愛であろうと結婚であろうと、基本的に「通い婚」から成立しています。もちろん、ちゃんとした家の主とその正妻ならば、同じ家に住むことになりますけれども。その家にしたって、もともとは女性の方の親の持ち家だったりするものでして。
というわけで貴族の恋愛において待つのは女。愛しい人を待って涙するのも女。待つ、泣く。それを「松虫が鳴く」にかけているわけですよ。もちろんこの歌の形式上は秋の歌の中に入っているわけですけれども、そんな背景知識を絡めて読むとあら不思議。蓬のもとの棲家を訪ねて来てくれないのは誰なのか、途端に想像が膨らむわけです。(実際誰を意図したのかは、知りませんが…)
因みにここでの松虫は今の鈴虫、逆に「鈴虫」は今の松虫、なんだそうです。同様に蓬ってのも今で言うヨモギ餅のヨモギでは無いみたいですね。【へ】の所でも「蓬の垣」って表現がありましたが、生垣にできるんだからちゃんとした低木なのでしょう。また、現代のヨモギは【か】の所でも書いたように「さしも草」なんて言われてるみたいです。もちろん、学問的に分析していくと解釈が深まる場合もありますが、時にはイメージだけで楽しむのもまた味わいあっていいものです。

待つ女⇒【ゑ】


【け】
今朝みれば夜半の嵐にちり果て庭こそ花のさかり也けれ
                   左兵衛督実能
                   (金葉集・二度本 巻一 春 58番歌)
嵐の夜が明け、庭を見てみたら昨日まで咲いていた花がみな風で散ってしまい、地面一杯に広がった花びらが木より庭の方を彩っているな、と詠んだ歌ですね。
おそらく、この場合の「花」は桜ではないかと考えられます。しかし、古典の世界、とくに古今集やそれ以前の時代では、「花」といえばそれは梅を意味しました。梅が中国から日本に伝来したのは西暦700年以前といわれています。当時の文明の中心地中国に倣って、当時の日本でも梅は花の姿や色彩よりも芳香を有するか否かという点で愛でられるものとなり、萬葉集などでもその香を詠む歌が多く残されています。
一方、在原業平が『世の中に絶えて桜の無かりせば春の心はのどけからまし』と詠んだのは西暦800年代半ば。そのころ、つまり平安時代のころから桜が一般に広まるようになり、だんだん市民権を得てきます。そして武家社会になるとその散り際の潔さから大ブレーク、日本の象徴的地位を占めるような位置づけになって行くわけです。
古典の和歌の中で「花」がどちらの花を意味しているか、それを見分けるのは簡単。香りを詠んだ歌なら梅のこと。見た目、とくに霞などになぞらえたりして儚さを詠んだ歌なら桜だと思ってほぼ間違いないでしょう。

花⇒【ひ】


【ふ】
吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしといふらむ
                   文屋康秀
                   (古今集 巻五 秋下 249番歌)
何度も書いている通り私が和歌を諳んじるようになったのは小学校の頃。この歌も、百人一首の一字決まりのひとつとして結構早くから暗誦していたものです。百人一首にも、高校に入って古典を習いはじめて、古文の意味が分かるようになってきてから改めて読んで「なるほど!」と思った作品は数多くあるのですが、その中でもこれはかなり記憶に残った歌です。
というのも、この和歌の下の句「むべ山風をあらしといふらむ」を一つひとつ丁寧に現代語訳してみると…「なるほど、(だから)山風を『嵐』と言うんだなぁ」って感じ。嵐という字の成り立ちを考えているわけで。まさに「むべなり!」合点がいった!
因みにこの康秀の息子文屋朝康も歌人としてはなかなか有名で、百人一首にも『白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける』という歌を残しています。まぁ歌は貴人の嗜みということで上流階級の狭さと、そもそも才能自体の遺伝もあるのかどうなのか、親子歌人というのも珍しいことではないのでして、調べてみたら百人一首には18組36人もいましたよ(未詳の平兼盛−赤染衛門を含む)。そのわりに兄弟関係は在原行平−在原業平の1組だけみたいなのがなんとなく意外な気もしますが。

文屋康秀⇒【く】
一字決まり⇒【む】


【こ】
東風吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春を忘るな
                   贈太政大臣道真
                   (拾遺集 巻十六 雑春 1006番歌)
「春を忘るな」を「春な忘れそ」としている文献もありますが、「な+動詞+そ」での禁止表現の典型みたいな後者を推そうかとしたら、どうやらこちらが大元らしい…「春な忘れそ」の初出は175年後の宝物集という歌集からだそうな。
菅原道真が大宰府に流されたとき、京に残した館の梅の花を詠んだ歌ですね。私がいなくても春がくればちゃんと花開いてほしい。そんな、願いというよりは左遷の憂き目に陥れられた恨みつらみの見え隠れする歌でもあります。彼の歌には他にも『筑紫にも紫おふる野辺はあれど無き名かなしぶ人ぞきこえぬ』など左遷とはいえ事実上の流罪扱いに対して無実を訴えるようなものが多いです。
菅原道真は天神様、学問の神様として有名ですよね。大学の傍にも湯島天神がありますが、実は私の自宅の傍にも小さな天満宮があります。どうやらこの天満宮、日本で3体しかない菅原道真手彫りの像があるレアな天神様なんだとか。毎年初詣に行っているご利益あるかな(笑)
というわけで智の人として有名な道真ですが、同時に、仮名文学=女性中心のものと考えられがちであった和歌を男社会に広めた立役者でもあります。勿論漢詩文学への深い造詣という裏打ちがあったわけですが。
流された先の大宰府で903年に死去する以前から既に、京では生霊として恐れられていたという話もあり、古今集の編纂はその鎮魂の意味もあったのではないかと考えられているそうです。


【え】
えひらにはあやめやさしく挿し添えて左のまゆみ今日やひくらむ
                   二条為忠
                   (為忠家後度百首 雑 724番歌)
「らりるれろ」と「へ」「え」の和歌が少ない、って話は既にしましたね。故に、この和歌も諳んじているものではなく、いろはつづれ歌のために探してきたのです。しかし…初句の「えひらには」の意味が分からない…付け焼刃知識では最後まで乗り切れないものです(恥)誰か意味教えて…(何か器のようなものらしいです)
「いずれアヤメか杜若」なんて使われる美しさの代名詞、あやめ。ただし当時はアヤメも菖蒲もたいして区別なく使ってたみたいですね。菖蒲といえば現代は端午の節句「勝負」に掛けて用いられていますが、王朝和歌の時代は厄除け守りとしての位置づけだったようですよ。
眉を引くという行為も、単に化粧というだけでなく呪術やまじないの位置づけがあったみたいです。「眉がかゆいと好きな人に会える」「好きな人に会うために眉を掻く」という幸運の予兆やおまじないに使われています。
そして、字面の二重写しは「まゆみ」。在原業平『梓弓真弓月弓年を経て我がせしがごと麗しみせよ』の「真弓」(正確には「梓弓真弓月弓」の全部)が「年」を引き出すための序言葉であるのと同じでしょう。眉を引くような年、会いたいと思う好きな人ができる年になったってわけです。初々しやねぇ。アヤメの似合うような美少女を想像できるわけですよ。


【て】
照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜に如くものぞなき
                   大江千里
                   (新古今 巻一 春上 55番歌)
大江千里は古今集を中心に活躍していて、「中古三十六歌仙」の一人にも数えられる歌人としても勿論名の知れた人ではありますが、彼の場合は漢詩の名手という側面の方が大きいのでは。
漢詩も和歌も詠める人ということで、彼の和歌は漢詩を訳したものが多くあります。たとえば冒頭の和歌は『不明不暗朧朧月』という漢詩と対になるもの。「不明不暗」が「照りもせず曇りもはてぬ」、なるほどねって感じの訳になってます。正直漢詩はよくわからないけれど、どちらも歴史に残る作品なんだから大したもの、なんだと思います、多分。894年に宇多天皇の勅命により、唐の時代の代表的詩人、白居易の「白氏文集」という漢詩集を翻訳した歌集「句題和歌」(「大江千里集」とも)を献上したとの記録もあります。
漢詩と和歌両刀の人としては、菅原道真とほぼ同時期になるようですが、こちらはあまり漢詩との絡みがある作品は見当たりませんね。
あとは時代遡って柿本朝臣人麿の『東の野に陽炎の立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ』と『東野炎立所見而反見為者月西渡』の組み合わせは有名でしょうか。でも人麿の時代だと、あえて漢詩で書いて訳したというよりは仮名で書く文化が無かっただけといった方が正しそうです。一説には『あずま野の煙の立てる所見て顧みすれば月傾きぬ』とする読みもあるそうですし。


【あ】
逢ひみての後の心に比ぶれば昔は物を思はざりけり
                   権中納言敦忠
                   (拾遺集 巻十二 恋二 710番歌)
あなたに逢って(一夜を共にして)以来の恋焦がれる気持ちに比べたら、それ以前に抱いていた恋心など無いに等しいものだったなぁ…という感じでしょうか。これだけ激しい愛を詠む歌もなかなかないものです。彼は従三位任権中納言。一応、殿上人(てんじょうびと)の中でも上達部(かんだちめ)という上級貴族の身分にあるわけですが…それ以上に身分の差とかが問題になるような恋でもしていたのでしょうか?斎宮(内親王)に文を送ったという記録もありますし。
激情を詠う歌人として有名な人だと、式子内親王が挙げられますかね。たとえば『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする』なんて歌が典型的。恋心を秘めておけなくなるくらいなら、玉の緒=自らの命よ絶えてしまえ、と命令口調なわけですから…彼女は内親王。つまり天皇(後白河天皇)の娘な訳で、基本的には男性上位の結婚しか認められない当時としては、結婚など望むべくも無い。それどころか自由に恋愛をすることすら許されていなかったわけです。だから、内親王は斎宮として神に仕える身になる事が多いのですよ。
悲恋の姫というストーリーを考えると、なんだか小説とかの主人公にもできそうですよね。それ以外にも、藤原定家の秘めたる恋人なのだとか、源平の争乱の時源頼朝に命令を下した以仁王の異母きょうだいだとか、話題には事欠かない人物です。


【さ】
五月雨にみだれて人を思ふとて夏の夜をさへ明しかねつる
                   僧正遍昭
                   (新千載集 巻三 夏 259番歌)
このいろはつづれ歌の最初の方に、夏の歌が少ないとか夏の歌は短い夜がテーマだとかいう話をしようとして中座したっきりでしたが、ここで一席。
そもそも王朝和歌の中心地は当然都のあるところでして、平城京平安京にしても飛鳥藤原その他(実はあんまり遷都の地を知らない)にしても、大抵が盆地にあるわけです。で、盆地といえば当然、夏は暑く冬寒い。なのにどうして暑い夏を詠んだ歌が見当たらないかといえば(まぁ風流じゃないから、というのが答えといえばそうかもしれません)、夏の暑い時は貴族が活動する時間じゃなかったから、ってことですね。
例えば、「朝廷」って言葉。宮殿に昇って公の仕事をするのは「朝」なんです。一方私事の人付き合い、恋愛なんかは当然「夜這」なわけで、陽が落ちてから。そして夜が明ける頃には「後朝(きぬぎぬ)」の別れを惜しみ、再び「朝廷」へ出向くわけです。要は、夜行性だから暑い昼間は寝てるわけですよ。
といってももちろん毎晩必ず愛しい人を尋ねられるわけでもなく。来ぬ人を待っているうちに『やすらはで寝なましものを小夜更けて傾くまでの月を見しかな』(赤染衛門)となることも多いわけで、夏の短い夜は、すぐに朝がきてしまう恨めしいものであるわけですね。

僧正遍昭⇒【す】


【き】
君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまで
                   読み人知らず
                   (和漢朗詠集 巻下 776番歌)
ご存知、日本の国歌です。国歌としては作詞者不詳というのが公式見解になるのでしょうかね?おそらく、国としては立場上誰か個人の作と特定することは出来ないでしょうし、特定できない歌だからこそ国歌として選択できたのではないかという気もします。 今までいろはつづれ歌の中では、和歌と共に作者(「読み人知らず」もありますが)と出典も挙げてきたのですが、この歌は出典をどうするかに悩みました。というのは、資料によっていくつか食い違う記述があるから。
たとえば、原型となったのは古今集の巻七:賀、343番歌の、初句が「わが君は」となっている和歌ですね。これも読み人知らずとなっていますが、この歌の作者は文徳天皇の皇子惟喬親王に仕えた藤原朝臣石位左衛門と言われています。10世紀前半ごろの人ですが、地位が高くない人の歌なので勅撰集には読み人知らずとして残された一例です。賀歌の、民謡的な側面から採用されたのでしょう。
そして、冒頭の形「君が代は」として残された歌は、和漢朗詠集にあるとしたのですが…資料によっては和漢朗詠集でも「わが君は」となっていて、「君が代は」とする和歌は存在しないという記述もありまして…
歌自体、「君」の解釈でいろいろ言われてますよね。古今集や和漢朗詠集のこの歌の前後の歌の配置から考察する説も複数あるそうです。因みに和漢朗詠集でこれの次の歌は『よろづ世と三笠の山ぞよばふなる天の下こそたのしかるらし』(読み人知らず)繋がりを考えると…


【ゆ】
由良の門を渡る舟人舵を絶え行方も知らぬ恋の道かな
                   曾根好忠
                   (新古今 巻十一 恋一 1071番歌)
中学校で初めて百人一首大会があったとき、既に百首諳んじていた私は、最初は非常に有利だったのですけど、だんだん周りが歌を覚えていくにつれて瞬時の判断力とスピードの勝負でだんだん劣勢になっていったという思い出があります。最初の頃は1人対8人くらいで歌留多やってもそこそこ勝負になってたのに…
この百人一首大会、もちろん国語科の指導という側面もあったのでしょうが、最後にはクラス対抗で結構熱い勝負になったものです。で、勝ちに行くためには「一人最低一首、これだけは取る、という札を作れ」と言われて撰んだのがこの歌。上の句と下の句が両方「ゆ」で始まる歌なので。。。
同様に上の句と下の句の一文字目が共通な歌は『よをこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ』(清少納言)やら『ありあけの〜あかつき…』(壬生忠峯)、『みちのくの〜乱れそめ…』(河原左大臣源融)くらいでしょうか。(因みにみちのくの〜は古今集に取られているバージョンと百人一首に取られているバージョンでは第5句が違うみたいです)
あとは思い出すのはミカさんが『みかの原〜』の歌を、キリヤマくんが『きりぎりす〜』の歌を撰んでいたのが記憶に残ってますな。。。そんな覚え方だって、きっかけとしてはいいもんかもしれません。


【め】
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな
                   紫式部
                   (新古今 巻十六 雑上 1499番歌)
愛しい人のことを詠んだ歌かと思ったら、分類は「雑」。本当は昔の友のことなんだそうで。旧い友達、といえば私の好きな小野小町も『わびぬればみを浮き草の根を絶えて誘う水あらばいなんとぞ思ふ』なんて詠んでますね。
紫式部が話題に上った所で話は飛ぶのですけど、私の姉の高校の頃の話。同級生に非常に汗が臭い人がいたそうで。ちょうど夏の一番臭いのきつい頃、文系クラスでは古典の授業で源氏物語を習ったところ、その人の陰のあだ名が源氏物語の登場人物の名をとって「匂宮」になったそうです。んでさらに。同じ頃理系クラスでは有機化学を習っていて、同じ人に「芳香族」というあだ名も同時に付いたとか。その話を聞いたときは爆笑でしたよ…見事なコンボ。
当時の貴族は、風呂に入らないから(特に女性は髪長いですし)汗の臭いを誤魔化すためにお香の文化が発展したともいえるわけで。お香の「匂う」宮=汗の「臭う」宮であながち間違いじゃなかったかもしれません(笑)ただ、そんな人だったらすぐに雲隠れしてしまっても臭いでわかるとか(爆)根無し草になって誘われてもついて行こうとは…思わないでしょうなぁ(苦笑)

紫式部⇒【わ】


【み】
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけん
                   後鳥羽院
                   (新古今 巻一 春上 36番歌)
春秋争いの歌の一つですね。春霞の漂う山々と、滔々と流れ行く水無瀬川。昨夜は「春秋はやはり秋の勝ちだろう」と思ってしまったけど、この景色に比べたらもう何でそんなことを思ったのだろう、やはり春の勝ちに違いない…とのこと。
ここまで後鳥羽院を紹介してなかったかもしれません。彼は歴史上では承久の乱で鎌倉幕府と対峙し、隠岐に流された人として有名でしょうか。隠岐で隠遁生活をする傍らに新古今集の勅命を下し、かつ自らも深くその成立に加わっています。編纂は藤原定家をはじめとした宮廷歌人たちとなっていますが、ある程度歌集の形ができた後にも後鳥羽院自らが歌を撰び直して並び替えたりとかなり手間がかかっている様子。なので新古今集を「親撰」の歌集であるとすることもあるようですね。後鳥羽院自身非常に優れた歌人であり、また「千五百番歌合」の主催など和歌文学史上でも相当な影響力を持った人物でもあったわけです。
新古今集における名コンビ(って言うと身分違うからマズイか?)の藤原定家も同じ初句の形で見事な歌を詠んでます。『見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ』。「見渡せば」の雄大さ、花と紅葉を並べる華やかさ。そして第3句で「そのどちらも無い」とすっぱり切り落とす鮮やかさ。下の句の浦、苫屋、秋、夕暮れと立て続けに寂しげな描写が一層引き立ってます。

春秋争い⇒【ゐ】


【し】
忍ぶれど色に出にけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで
                   平兼盛
                   (拾遺集 巻十一 恋一 622番歌)
百人一首には恋の歌が43首も入っていますが、そのなかでもお気に入りの和歌がありまして。【か】の所で紹介した藤原實方の歌、【あ】の所で紹介した権中納言敦忠の歌、そしてこの平兼盛の歌、それからもう一つ、壬生忠見の『恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか』という歌。
冒頭の平兼盛の歌も壬生忠見の歌も、公にするつもりの無い(もしくは公にできない、という事情でもあったのかもしれません)恋心だけれども、「恋の病」というやつでしょうか、周りの人にどこか見抜かれてしまったよ、といった感じの歌です。一方【か】の藤原實方の歌は、ひた隠しにしたままだから気づいてないでしょうが心は熱く燃えているのですよ、という歌でした。
こうして挙げたらなんだか男性歌人の歌ばかりです。作品単位じゃなくて人名で好きな歌人挙げたら女性ばかりになるのに。恋愛はやっぱり男の視点の方が共感できるからでしょうかね(^0^;
どちらにしても、人に知られた所で切実な問題があるようには思えない、どこかほのぼのとした情景が思い浮かびます。式子内親王みたいな激しさは、彼らには無いですなぁ。

平兼盛⇒【や】


【ゑ】
ゑにかける鳥とも人を見てしかなおなじ所をつねに飛ぶべく
                   本院侍従
                   (後撰集 巻十一 恋三 709番歌)
女の恋は待つもの、と以前書きましたがこれもまた待つ女の立場を詠んだ歌ですね。あなたは私のことを絵に描いた鳥とでも思っているのでしょうか、都合のいいときだけここにくればいつも私に逢えると。私は鳥の絵ではないのですから、いつまでもずっとこのままあなたを待っているとは限らないのですよ。と、離れがちな男に対して恨み言を言っている歌ですね。
春夏秋冬の情景を詠むのに使われる、梅に鶯、藤にほととぎす、萩に鹿などといった定番の組み合わせがあります。そしてもうご存知の通り、和歌の情景の裏には恋愛などの背景知識が折り込まれているわけで、それらの定番の組み合わせは、男女の姿に投影されるものでもあります。梅には女、鶯には男。藤には女、ほととぎすには男。萩には女、鹿には男。
で、この投影に共通して、女は植物の方に、男は動物の方に投影されています。やっぱり、動くことなく待つのが女、そしてそこに通うのが男な訳ですね。
そういう視点で考えると、絵とはいえ鳥に女を投影している冒頭の和歌は結構珍しいかもしれません。あとは寵という人が『東雲の別れを惜しみ我ぞまづ鳥よりさきになきはじめつる』という、「悲しんでます」っていいつつユーモアたっぷりの歌を詠んでいるのは見たことありますけど…

待つ⇒【ま】


【ひ】
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける
                   紀貫之
                   (古今集 巻一 春上 42番歌)
さぁねぇ…人(あなた)の心はどうだかわからないけど、花は昔と変わらず匂い豊かに咲いているよ。毎年花の咲く時期に訪ねていた古い知人(おそらく女性?)の家にも、久しく足が遠のいてしまった所。家の主から無沙汰を責める文を貰ったときに送り返したという歌。無沙汰を詫びるわけでなし、といって縁を切るでなし。むしろあなたの心はどうだかなぁ?と問うている返事です(笑)
もちろん、「花の香」といっているのですからこの花は梅のこと。初瀬詣でへ行く途上の時の話らしいです。
初瀬詣でとは奈良の長谷寺の十一面観音堂への参拝のことらしいですが、たとえば源氏物語の玉鬘が初瀬へ詣でたとか、枕草子や蜻蛉日記、更級日記、松尾芭蕉・与謝蕪村・高浜虚子の俳句の中にも記述があったりする古代から近世まで長期にわたる人気スポットのようですね。
元々初瀬渓谷は古代人にとっては葬送の地で、飛鳥藤原の都から死者への思いを込めて眺めやる谷であったそうな。万葉集の時代から『隠口の泊瀬の山の山の際にいざよふ雲は妹にかもあらむ』(柿本人麿)のような、親しい人をこの地に葬った心情を詠んだ挽歌が幾つか選ばれている地でもあります。

花⇒【け】


【も】
百敷や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
                   順徳院
                   (続後撰集 巻十八 雑下 1205番歌)
百人一首の最後の歌として覚えている方もいるでしょう。100番歌だから、「百」敷や〜というやつ。この順徳院という人、99番歌の後鳥羽院の第三皇子で、天皇の継承順で行くと途中に順徳院の兄土御門天皇(土御門院)を挟んでいます。
和歌集の中では、その歌集の顔になるという考えがあるからでしょうが、最初と最後の歌というのは「名高い人か名高い歌」が占めるのが通例となっています。歌集自体の最初と最後、各章立ての中の最初と最後など。それに倣った部分もあるのでしょうね、百人一首も天智天皇の『秋の田の刈穂の庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ』という歌で始まり、順徳院の歌で締められています。
ただしこの百人一首、最初からこの百首で構成されていたわけではないらしいです。もともと藤原定家が百人秀歌という(だけど101首あります)秀歌撰を作ったのが基礎となっているらしく、百人一首と共通する歌は九十七首。百人一首に選ばれ百人秀歌に漏れているのは、後鳥羽院・順徳院の2人。この2人が入っているのは、成立時期的に2人が遠流の身にあったかどうかの違いでしょうか。
反対に、百人秀歌のみに見られる歌人は一条院皇后宮(藤原定子)・源国信・藤原長方の3人。また、源俊頼の歌は、両者で別の歌が選ばれています。配列は違いが大きく、百人一首が時代順を優先しているのに対し、百人秀歌は二首一対の歌合形式に比重が置かれているようですね。


【せ】
芹薺御形繁縷仏の座菘蘿蔔是ぞ七草
                   四辻の左大臣(源善成)?
                   出典不明
…これを和歌としていいものか(笑)どっちかというと狂歌の類か?ご存知、春の七草を詠んだ歌ですね。因みに秋は『萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝顔の花』となります。これは短歌でなく旋頭歌という形式、作者は山上憶良だそうな。春は食べられる植物ですが秋は食べません。食べられないかどうかは知りません。どうも春の七草の方が有名な気がしますが、和歌として成立したのは秋の方が先な様です。山上憶良はもちろん萬葉時代の歌人、源義成は南北朝時代末期の人です。
新年の儀礼食の七草の行事は、1月7日の七草粥(ななくさがゆ)として残ってはいますが、みなさんちゃんと食べてますか?(私のようにおせち料理が続く生活をしない家なら胃を休める必要も無いですが)室町時代に成立した御伽草子の中の一つの話『七草草紙』の記述では羹(あつもの)として食べていました。七草粥として食べるようになったのは江戸時代からのようです。平安時代にも1月7日に粥を食べる慣習があったのですが、これは米・粟・稗(ひえ)・黍(きび)・胡麻・小豆・皇子(みのこ・水田雑草の1種のタネ)の7種類の穀物や豆類を粥に炊いて食べたもので、七種粥(ななくさがゆ)と呼ばれていました。発音は同じでも字と中身が違っていたようです。
そういう意味では、「七草」と書くと秋、「七種」と書くと春、というのが本来の使い分けだという意見も尤もかなぁと思いつつ。


【す】
末の露もとの雫や世中の遅れ先立つためしなるらむ
                   僧正遍昭
                   (新古今 巻八 哀傷 757番歌)
いろはつづれ歌、最後の歌を何にしようかなーと考えていたんですが特に特別な事もなく…って言っちゃ僧正遍昭に悪いか。六歌仙だしな。
露ははかなさの象徴、そしてはかなきものといえば人の命。遅れ先立つはそれぞれなれど、人はいつか必ず死んでいくもの。その早さ遅さをどうこう言っても仕方ない事ですよ、という僧侶らしい作品といえばそうかもしれません。この歌をマイナスに取るのもプラスに取るのも読み手次第ですね。はかないものを詠んでおきながら、その歌が遺す悠久の時間をイメージさせるなかなか素敵な歌だと、私は思います。
そうは言いつつ、愛する人ができれば『君がため惜しからざりし命さへ永くもがなと思ひけるかな』(少将藤原義孝)と思うのもまた人の理なり、ってね。そうそう遍昭のような悟りの境地に至れるもんではありませんよね(笑)
明日からお彼岸。お彼岸とはそもそも「彼岸会(ひがんえ)」といって梵語の「波羅蜜多」の訳で、迷いに満ちあふれたこの世=此岸(しがん)から悟りをえた世界=彼岸(ひがん)へ到ることを願って、行いを慎む期間なんだそうな。常日頃は忙しさに追われ自分自身の仏心を見つめることのできない人々が、春と秋の七日間だけでも善事を行い先祖への報恩感謝を表わすための七日間の法会、という役割があります。
和歌を通して見る「仏の精神」というのもまた、ひとつ人生に資するものなのかもしれないと思うのですよ。

僧正遍昭⇒【さ】



Back