日々の言葉
僕の人生をアドバイスしてくれた言葉集
2012年04月20日 13:00:18
言葉には力があります。一つの言葉で人が自殺を思いとどまったり自分の人生が開けることもあります。一冊の格言集には沢山の宝が含まれているでしょう。しかしそれを小説を読むように読み流していてはせっかくの宝物が砂の中に埋もれてしまいます。自分にとっての宝物だけを取り出して常に輝きを保つことができる場所に保管しておかなければなりません。
Profile 僕の信条 Guest Book BBS
権力者のごり押し、なし崩し。それを支える「空気を読む」大衆。それが近現代の日本の歴史に通低している。その流れが明治維新から敗戦までの破局の流れを作り、戦後民主主義の成立から、その空洞化、新保守主義の登場、社会の閉塞、人心の荒廃をもたらしている。
憲法に保障された理念、法の下の平等、生存権、思想・信条の自由、労働基本権など、戦後日本人が得た民主主義の内実は、今大きく後退してしまった。ネットカフェ難民を生み出す ような「労働者派遣法」を圧倒的多数の若者が支持し、「終身雇用制に集る給料泥棒」を追い出せと合唱した。こうして多くの大衆が、自ら民主主義を捨てようとしている。「日の丸・君が代」を礼拝しない教師は処分するというのは、明らかに思想・信条の自由を踏みにじるものだろうし、やがてはそれを国民全部に徹底してくるのだろうと思う。その時「思想・信条の自由」「信教の自由」はどれだけ残されているのだろうか。
若者へのボランティア活動の義務化というのは形を変えた兵役義務である。すでに日本商船の安全という名目で自衛艦の海外派兵は行われている。多国籍軍という名目で陸上兵力の出兵も拡大してゆくだろう。そしていつかボランティアの義務化は兵役義務になってゆくだろう。僕は今、地代値上げの係争に巻き込まれているが、20年前の借地借家法改正以後の実情をあまり知らなかった。そして自分自身が当事者になって初めて、この20年の間に、多くの人が知らない間に、「労働者派遣法」や、「国民年金」「健康保険」の制度変更と同じように、庶民に重大な影響を与えるような諸権利の剥奪が、こっそり行われていることを痛感している。
初回は20年、以後は10年で契約関係は解消するという法改正は、土地を借りて終の棲家を建てることは出来ないようになったということだが、それはより利回りの高い地代で新しい借主と契約するという地主の利益を保証する改正だということだ。その結果居住権の優先的保護という精神は、これによって大きく損なわれることになった。
借家なら、値上げに不服ならもっと安い家賃の借家を探せばよいが、借地上に自分の家を建てたら、安い地代の借地を探して自分の家を移すなどということは出来る筈はないから、どうしても地主の値上げ要求をまる呑みしてしまうことになる。つまり始めて契約するときは市場原理が働くが、更新しようとする時はすでに市場原理は働かないことになる。しかし地代値上げはあたかも市場原理が機能しているかのような論理で、類似した借地の地代を参照する。こうして、もともと借地借家法が改正される前に契約している人も、自動的に契約が解除されることはなくても、地代の値上げ圧力に晒されることになるのだ。
知らないうちにどんどん、庶民の諸権利が奪われて行く。多くの庶民がそんな空気を読んで生きている。その結果子供や孫の世代にどうなるかは解り切ったことだと思うのだが・・・・。
江戸時代の初期、年貢は3割だったという。ところが幕末には下層農民の年貢は7割になっていたという。人口は殆ど増えていない。生産量は増えている。なのに・・・・・。
明治時代、自由民権運動が起こった頃には、確かに弾圧もあったが、板垣退助のように、自由民権運動の指導者が大臣になるような面もあった。しかし太平洋戦争の頃には自由主義者も、その言論を封殺され、すべての国民が国家翼賛体制を支持するように強制されるようになっていた。そして戦後も同じことを繰り返している、レジャーや豊かさなどの快適幻想を与えることで、民衆の中で「硬い話」をする人を孤立させ、論理的思考の能力を失った民衆に、権力者が意図する方向にだけ自由が見えるように洗脳して行く。戦前、「民衆の赤色化を防ぐために桃色化を容認する」という策動が行われたが、それと同じような策動が、フジサンケイのメディアを中心にして、或いは企業の中の「社員教育」という名で行われている。
自分にとっては「安全・安心」の保障になるのかも知れない。しかし自分の子供は、その窒息するような閉塞した社会に生きなければならなくなるのだが、それで良いのだろうか ・・・・・。自分の子供や孫の世代の社会が今より不幸な、不自由な社会にならないように、権力者や資産保有者のごり押し、なし崩しに歯止めをかける。その為に、自分に出来ることはしておく。そういう考え方は出来ないものだろうか。
体験的な裏づけもあり、合理的判断や問題解決能力を持った理想主義者もあれば、体験的な裏づけもなく 、問題解決の道筋も持たず、何の現実的な判断力もない、ただ空気を読むだけの現実主義 者もある。つまり現実主義者が現実的な解決能力を持っていると考えるのはとんでもない間違いだ。むしろその逆である方がはるかに多いだろう。
僕は理想的な行動が出来ているということではないが、理想主義者である。理想主義というのは、ともかく現在から未来へかけての、社会の存続・発展の障害となっている問題を解決しようとする意思に発しているのだから、問題解決が最も現実的な課題であるということなら、理想主義は現実的な立場であるというべきだろう。
逆に、もし現実主義というのが、現状を肯定し、或いは容認する立場であるなら、社会の存続のために、現状の打破が不可欠であるような時には、現実主義はもっとも非現実的な立場であるということになるだろう。
僕は坂本竜馬というのは「船中八策」を書く様な理想主義者だったと思う。そして彼の行動は最も現実的な問題解決の方法だったのだと思う。
管理教育というのは、必然的に内発的道徳感、自律的倫理観の成長を蝕む。そのことが今の日本人の劣化、人心の荒廃、社会の閉塞をもたらしているだ。
もちろんこのことを否定する人もあるだろうが、僕は61年半生きてきて、50年以上、人の善意志の現れ方を見てきた。人の不幸を見過ごしに出来ない気持ち、「人情」「惻隠の情」「親切心」、人の純粋さや善意志に感動する気持ち、一緒にそれを実現しようとする「共有感覚」や「共同意識」、それにともなう「義務感」や「責任感」、約束を守ろうとする「誠実さ」、不正を憎む「正義感」・・・・・。すべてが衰退し、果ては逆にそれらの善意志を持った人々を批判し排除するところまで来ている。管理教育の背後には「功利主義」「効率主義」「結果主義」「競争主義」など財界、経団連がばら撒いた即物的イデオロギーがあるが、直接的にはやはり家庭と学校が与える教育の結果だろう。子供の逸脱に対して、殆どの親は「そんなことをしたら叱られるよ」という。無意識の内に道徳を逸脱した場合のリスクとして表現してしまうのだろう。
僕の子供の頃までは、どこの家でも、「誰のお蔭で生活出来ているのか」というのが叱る時のきまり文句だったのだが、いつの間にか「そんなことをしたら叱られるよ」になってしまった。
これでは「叱られなければ我を通しても良い」、「バレなければ嘘をついても良い、不正を働いても良い」、「三人が口を合わせれば、嘘を真実にすることも出来る」、果ては「嘘がバレても効果は残る」というところまで行ってしまう。そして「赤信号、皆で渡れば怖くない」という多数による逸脱の風潮は、多数で孤立した人を攻撃、排除する「いじめ文化」を築き上げ、ささくれ立った世の中を作ってしまった。20年前、10年前、僕は同じことを言い、ホームページにも書いてきた。多くの人が、僕の主張を大げさだと受けとめたし、左翼的な扇動をしているだけだと受け止め、相手にする人も少なかった。しかし今日多くの人が、社会の閉塞や人心の荒廃を訴えるようになっている。
もっと早くから手をうてば良かったのにというのが歴史というものかも知れないが、しかし歴史を見れば、或いは他の国を見れば、理性的判断によって問題を解決している例もあるのだ。
このまま行けば、日本は経済的理由ではなく、人間の質の問題として、世界から取り残されてしまう危惧を感じている。
人間は他人の嘘には容易に気づくものであって、只その嘘が自分におもねる時か、或いは丁度都合の良い時だけ、それを信じるのである。(ヒルティ)
自分の判断が利害によるのか、真偽によるのかによって人間の生き方は全く変わってしまう。 自分の立場や利害に引き寄せて、自分に都合の良いことは嘘でも受け入れ、不都合な事実には目を背けるというのは、もともと日本人の体質の中にあるのかも知れないが、それでも僕の学生時代には、今に比べると道理や筋道が力を持っていたように思う。自分の立場や利害に引き寄せて、事実を継ぎはぎするという体質は、今はやりの「空気を読む」精神と同じものだが、行き着く先は「バスに乗り遅れるな」と言ってヒトラーと同盟した戦前の日本の政治家の精神に行き着くことになる。
ファシストというのは常に人の利害につけ込む。戦前、松岡洋右は「満蒙は日本の生命線」と言って、国連を脱退したのだが、多くの国民がそれに熱狂して無謀な勝ち目の無い戦争に突き進んでいったことを忘れてはならない。
困窮している人、利害に敏感な人の前に詐欺師が現れるように、ファシストはやってくる。社会が閉塞すれば、今まで見向きもしなかった人が政治に目を向け始める。そして組織や国家が強権的に閉塞を打開してくれることを期待するのだ。そして国家や組織に寄生し、そのおこぼれをもらおうとする。そこにファシストが現れるのだ。道理や筋道によらず、自分の立場や利害に引き寄せて、物を見、考えることが、自分の自己実現に役立つ筈はない。それは単にその人の人生にマイナスであるだけでなく、それが集団的なものとなり、社会に広がれば、個人では防ぎようのない社会的な狂気となってゆく。
選択、行動は利害によるとしても、基礎となる認識や判断は真偽よらなければならないのは当然のことだろう。かりに利害によって選択し行動するとしても、認識、判断をゆがめ れば、その利害自身が損なわれることになるに違いないのだから。その時は心理的満足を得たとしても、結局最後は自分の自己実現を失敗させてゆく。 そして真偽によって判断する理性は、結局道理や筋道に従うことを要請する。
悪というのは善から追い出された人にとっての居場所である。善に居場所を持てない人が増えれば増えるほどその社会は病んでいる。
だれだって人に好かれたいし、自分の能力を評価されたいし、尊敬もされたいだろう。愛する人と結ばれたいだろうし、自分の能力を生かして充実した人生を送りたいだろう。生まれた時からの悪人などはいる筈がない。 結局社会の善意志への無関心と排他的な競争心が悪人を作るのだ。
1960年代以後の猛烈な競争主義、管理主義の嵐は人々をストレスの海に突き落とし、競争を煽る環境の中でドロップアウトした子供達のある者は、社会への復讐心にしか居場所を得られない破壊的な人格を形成し、常識では理解出来ないような衝動的な犯罪を引き起こしている。
ストレスは免疫やホルモンの異常をもたらし、遺伝子にまで影響を与えているという。サイコパス(人格異常者)は加速的に増えてきている。善悪に何の感動も持たない、残酷、冷酷な行為に何の躊躇もない、自分の欲求が疎外されたら小児的、自己中心的に破壊的な行動に走る・・・・・。競争の煽り焚き付けは、多くの人々を排他的にし、「勝てるゲームしかしない」人間にゆがめ、さらには勝つためには不正な手段をも平気で 選ぶ人間に堕落させている。しかし、やがて勝てるゲームしかしない人々も玉ねぎの皮を剥くように、周りに負かせる人間は見当たらなくなって、勝てるゲームもなくなって しまう。そしてただ「安全・安心」と自己利益や目先の消費的な快楽を追うだけの人間になってしまうのだ。
日本の歴史を見てみても、敵と戦えと強要される時代はあっても、仲間同士の競争を煽り焚き付けるような時代はかつてなかった だろう。1960年代から「生産性向上運動」を推進してきた日本の経営者は自分達がどんなことをしているのか判かっているの だろうか。排他的競争の煽り炊きつけは日本人を根底から破壊しているのだ。
戦前は火遊び戦争を引き起こし、その責任逃れのために、どこまでも戦争 を拡大し、挙句の果てに日本を破局に追いやった連中が、責任も取らず反省もせず、戦後は国民を仲間同士の「タイマン(仲間同士の殴り合いを強要する)」と企業ファシズムの狂気に駆り立て ている。それもその筈だ。生産性向上運動の推進者は戦前のファシストがそのまま大企業に雇われ、大企業を経営しているのだから。
今の経済的な矛盾は昭和恐慌の時代と実によく似ている。その根源は多額の不良債権の処理問題と金融不安だった。その背景に企業の放漫経営と浮利虚業(バブル)があった点も同じだ。鈴木商店(日商岩井の前身で戦前の巨大コンツェルン)の倒産に始まる昭和恐慌の時代は世界貿易の縮小均衡の中で日本を戦争の狂気に走らせた。平成の大不況の時代に同じように世界 恐慌が襲ったら、いったい何が起こるのか・・・・・。
古来日本を発展させてきた民衆のエネルギーは煽り焚き付けられた仲間同士の競争などではな かった.それは勤勉と正直と従順であった。名もない庶民が身の丈に合った仕事をし、身の丈に合った幸福を求めていた。競争するのではなく、住み分けをしながら、江戸時代には、庶民 も、自分たちのために自分たちの力で寺子屋を作り、自分のスキルを高めていた。幕末、寺子屋の数は全国に1万軒以上あったという。
その一方でお伊勢参りに行く人には乞食にでも1文恵む習慣があった という。この自発的な修学の意欲と「義理と人情」という名の共感、共有感覚、共同意識が、短期間に日本の近代化を実現したエネルギーの根底にあったのだ。今の多くの日本人は「義理と人情」も失い「武士道」も捨て、内発的な知識欲、創意工夫する喜びも失い、ただ「安全・安心」という保身の心理と、功利的な採算主義と排他的な競争で動いている のだろうか。このままでは 日本は衰退し、荒廃してゆく他はない。これ以上管理主義や排他的な競争主義を煽り焚き付ける時代が続いたら、日本人は何もかも失ってしまうだろう。
諸悪の根源は序列競争の煽り炊きつけである。
今の日本人の身体の中には番付意識、序列意識、競争意識というのが、刷り込まれている らしい。番付意識というのは江戸時代の庶民文化の中にも見ることが出来るから、それは遺伝子にすり込まれた相当根深いものなのだろう。しかし、江戸時代は身分が固定された社会だったから、 庶民の序列競争などいう現象はあり得なかった。ただ自分の分際に応じた人生を勤勉と正直を徳として生きるのみだった。
生存競争というのは世界中にあるだろう。 エリートの出世競争というのもどこにでもあるだろう。しかし今の日本のような、すべての庶民、ノンエリートを巻き込む序列競争などというのは、世界のどこを探してもないし、日本の歴史の中にもなかった。
ところが、今の日本の社会は、受験制度や、企業が導入している職能給など、間断なく、すべての庶民を序列競争に巻き込んでいる。庶民の序列競争などというのは、つまりは「目くそが鼻くそを笑う」競争である。ノンエリートの平凡な庶民というのは、生存競争をすることはあっても、名誉や肩書きをあらそうような競争などとは本来無縁である筈なのだが、戦後 の日本企業は、早くから多くの実体のない職制上の肩書きを作って、このノンエリートの上昇志向を煽ってきた。係長の下に主任があり、またその下に副主任があるという具合である。
ところが、企業はそれでもあきたらず、一人々々に差をつける目的で職能給なる給与体系を作り出し、競争を煽り焚き付ける一方で、スケープゴートを作って、報復、見せしめを目的とする査定を行うようになった。序列競争がもたらす弊害を挙げてみよう。
1.個人間競争と組織から排除されることの恐怖の為に、過密ストレスをもたらし過労死や精神的な障害をもたらす。
2.雪印の賞味期限改ざん事件に見られるように、不正を行っても競争に勝とうとし、社員の社会的な倫理感 を忘れさせてしまう。その典型的な実例が、前田検事の証拠改ざん事件である。
3.互いの足を引っ張るような排他性やマイナス志向が 組織の中に蔓延する。すべての社員が巻き込まれる競争だから、一人追い越したり、追い越されたでけでも、そのことに優越感や劣等感を持ち、嫉妬や軽蔑、排他的心理が蔓延する。そのために、連帯感や仲間を 援ける気持ち、尊敬し育む気持ちが失われてゆく。
4.上意に服従し、迎合する意識が蔓延し、社員が去勢されて、同調競争だけが活発となり、リスクを伴うような発案や決断をする社員がいなくなる 。また結果主義が蔓延し、他人の成功の模倣や、横取りが横行し、結果がすぐに出ないような仕事はしなくなってしまう。
5.出世の止まった社員は、自己実現する気持ちを失なってしまう。大多数のノンエリートは、昔は勤勉と、正直、誠実を拠り所として努力し、自分の幸福を追求したのに、そういう価値観が 失われてしまって、競争による地位の上昇が 止まってしてしまうと、目的を見失ってしまい、他律的に仕事をこなすだけで、後は「安全・安心」と目先の快適さを追いかけるだけの生き方になってしまう。
結局、企業が労働者の目先の上昇志向を煽って、超過労働を引き出そうとして導入した、この序列競争は、結局大多数の労働者を虚勢し、内発性を奪い、ただ賃金を得るためだけに、物理的に頭を使い労働するだけの 退廃した人間を作ってしまうのである。年間300万の犯罪件数、5パーセントを超える失業者、3万人の自殺者、少年犯罪、幼児虐待、老人虐待、妻への暴力、校内暴力、学級崩壊、いじめ、ささくれだった車の暴走、親を平気で病院に隔離して放っておく子供、ストーカー・・・・・。品定めするだけで当事者意識がなく、小児的、自己中心的で親離れできない若者・・・・。
これらすべてが「序列競争の社会」と関連付けて説明できる。日本の企業はとんでもないことをやっているのだ。
「嘘を千回つけば真実になる」という 言葉がある。「嘘も3人口を揃えれば本当になる」という現象もある。そして「嘘がばれても効果は残る」という究極の嘘の使い方もある。しかし、その効果は覚せい剤が与える幻覚と同じで、覚せい剤と同じような依存症に陥り、最後はその毒で破滅する。
かつては日本人 も「正直」を価値とする倫理観を持っていた。しかし今は犯罪にでもつながらない限り、嘘を悪だという意識はなくなってしまったのではないか。転居の挨拶で「一度ぜひ遊びに来てください」という嘘は衝突回避の嘘だが、こういう嘘などはむしろ良い習慣だと考えている人が多いだろう。「嘘も方便」という言葉は空気のように日本人の中に浸透してしまっているが、「方便」の殆どは自分のため、自分たちための方便で、相手のためにということは稀である。
足利事件で犯人とされた菅谷さんは、DNA鑑定で無罪となったが、無罪となった後も全く名誉は回復されず、犯人以上の侮蔑と排除の対象にされている。ネットのブログや掲示板を見れば、そんな誹謗中傷が氾濫している。 http://blog.livedoor.jp/monmon12345678/archives/613939.html#
富山県の強姦冤罪事件では、真犯人が出てきたし、厚生労働省の村木局長の冤罪は、前田検事によるフロッピーディスクの改ざんの事実が発覚し、無罪が確定したのだが、これほど決定的に無罪が確定しても、世間の目は元にはもどらないだろう。そこに日本人の中にある「穢れ」を排除する特有の体質がある。
戦前、共産党員だけではなく、横浜事件のように自由主義的な言論をしていたジャーナリストや学者、作家、教員なども、特高警察に逮捕され拷問や過酷な監獄の環境の中で殺されたのだが、殺した警察官が追及された話は聞いたことがないが、殺された人はいまだに謝罪も名誉の回復もされていない。多くの国民にとって、いまだに殺されたジャーナリストは「悪人」どころか「悪魔」というイメージで捉えられている。この日本人の感覚が「穢れ」の感覚なのである。
沖縄戦で日本軍が島民に集団自決を強要したことや、防空壕を軍人が占拠し民間人を追い出してことも、加害者と指摘された人はでっち上げだと裁判まで起こしたのだが、その裁判に負けても、「真偽は確定していない」という印象を日本人に与えることには成功している。
南京大虐殺も同様である、従軍慰安婦の存在も、朝鮮人や中国人を拘束して強制労働させていたことも、百回も、千回も「そんな事実はなかった」と嘘を言い募って「真偽は確定していない」という印象に持ち込み、戦前の非人間的な行為の意味を逆転させようとしている。
そして国民の多くは、「禊」を済ませた戦前・戦後支配し続けている権力者の言い分を「是」とし、非人間的な行為の被害者を「穢れ」として排除するのだ。しかし、この「村境に芥を捨てに行く」ような感覚が、日本の中で通用しても、世界の中で通用する筈はないだろう。この「異物排除」「よそ者排除」「臭いものに蓋」という「穢れ」の思想は、必ず社会を退廃させ、荒廃させ、再び無謀な選択に向かわせるだろう。
日本人は、「国家エゴ」も「組織エゴ」も「身内エゴ」も、そして「異物排除」の感覚も、すべて同じエゴなのだということを認めなければならない。そして「身内エゴ」を去って、「共存・共生」の中にこそ自らの社会の進歩と発展があることを知るべきである。
「空気を読む」というのは道理や筋道を捨てるということだ。
いつの頃からか「空気が読めない」という言い方で、孤立し浮き上がった人を批判するようになった。まるでそれが、社会性を持った倫理、常識のようにである。しかし「空気を読む」というのは一見、人の気持ちを思いやることのように思えるが、似て非なるもので、全く逆さまのものだろう。「空気」というのは、あえて口に出さない多数の意向、欲求、願望のことであり、個人の心の痛みを斟酌するものではなく、むしろ切り捨てる考え方である。
かつてアメリカの社会人類学者ベネディクトは日本の文化を「恥の文化」だと言った。心理学者の河合隼雄は日本人の判断の仕方を、その場にいる人が誰かによって意見が変化する「場の倫理」だと言った。この日本人特有の体質が現代の日本人に引き継がれたものが「空気を読む」というものだろう。
しかし、かつて「恥の文化」とか「場の倫理」と言われた昔の日本人の性質には「義理と人情」という、一種の倫理的判断があった。そんな判断が今残っているだろうか?。結局、今の「空気を読む」という多数の日本人の判断は、人の心の痛みも切り捨てて、多数の利害を主張するだけのものに変貌しているのではないか。「空気を読む」というのが、「多数」や「身内」の暗黙の意向・要求に従うということであるなら、必然的にそれは「よそ者」の意向・要求を排除する。「よそ者」を排除するところに「道理」や「筋道」がある筈はないから、「空気を読む」という精神は、必ず「道理」や「筋道」で考える判断を遠ざけることになる。残るのは「多数」や「身内」の利害だけである。そして「多数」というのはいつでも「権威」「権力」「クレイマー」などに置き換わってしまうだろう。そうして出来上がった社会が、いまの「いじめ社会」なのだ。
かつて心理学者の南博は日本人の特殊な心理として「集団的サディズム」というものがあると指摘した。いじめとはまさに「集団的サディズム」だが、これも一種の「場の倫理」である。いじめっ子とクレイマーは同じ人種である。問題は、今のような排他的な競争主義を正当化する社会で、弱者、少数者を切り捨て、「空気」を読んで判断する多数の人々が主人公になることが、社会を進歩させ、発展させるのかどうかである。これらの人々の目標は大抵「安全・安心」と「快適さ」と「優越感」である。かりに人間的な「連帯感」や「共同意識」が残されるにしても、それは共通の利害であり、功利的なものに収束してしまうだろう。というのは、そこには「道理」や「筋道」という判断が介在しないからだ。
結局「空気を読む」というのは、客観的な見通しを持たず、目先の「安全・安心」「快適さ」「優越感」を追いかけるだけのことになり、社会の存続や、未来への進化・発展とは無縁のもの、むしろ破壊する力になってしまうだろう。未来を作る社会のあり方は弱者や少数者を排除する排他的な「競争社会」ではなく、弱者や少数者もまた精一杯自己実現できる「共生社会」である。そして「空気を読む」のではなく、「道理に従い、筋道を通す」という倫理観である。
自分の立場や利害、保身を離れた時、初めて神の言葉が聴こえて来る。
これは寓意で言っているのではない。自分の欲求と、それを阻んでいる障害しか見えなければ、その間を行ったり来たりして、悩んだり、トラブルを起こしたりするだけで、問題の真相も見えず、結局問題解決とは無縁の所へ行き着くことになる。それは当然のことだ。道理や筋道というのは、自分の立場や利害、安全に引き寄せたところにあるわけではないのだから。
それに対して、自分の立場や利害から離れて、道理や筋道で考える習慣があると、何か問題にぶつかった時には、直感的にそれに従った考えが頭に浮かぶだろう。それは「良心」とも言いかえることが出来るだろうが、「万教同根」を自らの信仰にしたインド独立の父ガンジーが「内なる神の声」と言った直観のことである。「内なる神の声」を聞くのと「内なる欲の声」を聞くのとどちらが自由か?。それは前回の「日々の言葉」に書いたように、泳法を知ることで自由に泳げるようになると例えたように、明らかだろう。
僕はこの「万教同根」の信仰のあり方に強く共鳴しているが、特定の宗教を信じているわけではない。要はどの宗教を信じようと自分の立場や利害を離れた時に、神の声が聴こえるということである。
だから、「願望充足」を求める信仰というのは、むしろ神の声が聴こえなくするだろうと思う。古代人は人間の力ではどうしようもない災害や病気などの運命的な不幸に遭遇した時、その背後にある神の力を確信し、その怒りを鎮めようとした。その信仰の中に人間の良心が生まれるのだが、それは科学的な認識が進歩した現代でも同じことだろう。人は人間の力を超えた者(神)によって生かされているという自覚。その自覚があってこそ、「内なる神の声」が聴こえてくる。
僕は身体よりも、心にきれいなシャツを着て暮らしたい思う。
たとい損することになったとしても、僕は道理に従い筋を通して生きたい。それは柔軟性に欠けるということではない。反対だ。道理に従うことは最も柔軟な選択を可能にするだろう。「ヴェニスの商人」や「大岡政談」の逸話のように、道理は法も慣習をも超えた所にあるのだからだ。それに従うことは泳法を知っている人が最も自由に泳げるのと同じように最も自由な生き方を与えてくれるだろう。
日本人は「理」に拠ることを嫌う。三島由紀夫は「日本では理に拠るものは孤立する。」と言った。「非」は「理」に負けるが、「理」は「法」に負ける。そして「法」は「権」に負け、「権」も「天」に負けるという「非理法権天」のイデオロギーが 今でも染み付いている。
「空気読む」ことが常識のように言う今の日本人は「バスに乗り遅れるな」と言ってナチス・ドイツと同盟し、世界を相手に戦争した戦前の日本人と何もかわっていない。道理を読まず、周りの「空気」とわが身の損得や「安全・安心」ばかりを追いかけている。
「心にきれいなシャツを着る」というのは道理に従うということだ。誠実であるということだ。それをするのに偏差値はいらない筈だ。今日一日、なんとかそのように生きることが出来たら気持ちが良いというだけではなく、自分のキャパシティーが広がっている筈だ。損得で考えれば、回答の範囲はどんどん狭まって行く。むしろ道理に従うことで、利潤原則や快感原則などに縛られず、いつも僕がいう「最大多数の最大自己実現」という目標に方角を定めることによって、どんどん世界は広がり、選択肢も広がって行くのだ。
繰りかえすけれども道理を知り、それに従うというのは、泳法を知っている者が自由に泳ぐことが出来るのと同じなのだ。利潤原則や快感原則はモチベーションになったとしても泳法にはならないのだ。
「最大多数の最大自己実現」というのは個人的にも、社会的にも動かしがたい道理である。そこにこそ真に自由がある。
真実を知りたいという欲求を持っているのでない限り、人はたとえ少々怪しげでも、信じたいことを信じようとするだろう。しかしそれが社会の「空気」になった時、その社会は確実に狂気に向かっている。
大阪の選挙は予想通り橋下徹の維新の会が勝利した。僕は僅差ならまだ救いはあると思っていたが、やはり維新の会の圧勝だった。問題解決の手腕が評価されたわけではない。信じたいことを信じようとする人に信じさせたに過ぎない。それは信じたい、つまりトリッキーな政策に救いを求めようとする心理が民衆の中に充満しているということだろう。言い換えれば博打で借金を取り戻そうという気持ちが多数派になっているということだ。そして火遊びに誘い民衆を躍らせる松岡洋右よりも、踊る民衆の方が時代の狂気を生んで行くだろう。
僕がいつも主張する政治に対する確信だが、有効で有益な政治の理念とは「最大多数の最大自己実現」を可能にするイデオロギーである(「最大多数の最大幸福」ではない)。従わない者は排除し、切り捨てようとする翼賛的イデオロギーは、統制的・強制的方法によって、一見「最大多数の自己実現」を可能にするように見えるが、実際は最大多数の民衆の内発性を最も破壊するイデオロギーであることは歴史が証明しているのだ。
いつも言うことだが、東アジア・太平洋地域が「同一労働・同一賃金」を実現し生活水準が平準化するまで、相対的に日本人の生活は低下してゆく。これは歴史の必然である。その過程を押しとどめようとして、紛争は起こったとしても、必ずそこへ行き着くだろう。
だから、相対的に優位にあった日本人は、アジア・太平洋地域が、相互利益を図り、全体として豊かになる方法を考え、平準化することを受け入れながら日本の産業空洞化を止める他はないだろう。内政では、圧倒的多数の平凡な庶民が、貧しさを共有し、相互扶助する精神を養いつつ、個人の自己実現を、組織や企業の自己実現を果たせるように、環境を整えること、外交では、アジア・太平洋地域全体の発展に寄与する貢献を社会全体で実現してゆくこと。それしか道はないだろう。奪い合いに勝つ道を探すような政治は必ず破産する。
幕末以来日本人が蓄積してきた財産を、ファシストが博打の賭け物にしてすべて失ってしまったように、戦後民主主義の下で日本人が蓄積してきた財産を、再び台無しにしてしまうような危うさを、今僕は感じている。
無能というのは人より能力の劣ることではなく、自分の能力を自己限定して、自己実現を放棄していまうことだ。平凡な能力でも、それを発揮しきるなら、それは決して平凡ではない だろう。
人の賞賛や世間的な評価を追いかけて、人に勝つことでしか自分の存在感を感じることができな いと、人より劣る能力はみんな捨ててしまうことになる。しかし自分の脳みそを人と取りかえることは出来ないのだから、人より劣っていようと、自分の持っている能力は自分にとってかけがえの無い財産 であるはずだ。
競争すれば、いつもビリだとしても、走れないより、走ることが出来る方が良いに決まっている。他の才能も同じことだ。下手な絵でも子供の絵がしばしば大人を感動させるのは、まだ真似をする技術が 身についていないために、はからずも自分の目で見た世界をそのまま描くからだ。それこそ個性ではないか。その目をもち続けることの他に自己実現の道はない。そして、人より劣ってい ようと、人の能力というのは、一生かかってもやり尽くせないほどの可能性を持っている。
人は必ず進歩する。スポーツのトレーニングが、短い時間でも、毎日続ければ少しずつでも進歩させるように、知識や技術の習得も、物を生み出す創造力も、毎日少しでも続ければどんな人でも必ず進歩する。逆に人より 優れた才能があったとしても、使わない才能は錆びつくだけだ。覚えが悪くても本を読めばそれだけ世界は広がる。自分の頭で考え、自分で調べ、自分 なりの考えを持ち、文章を書く。自分で立てた計画で 旅をし、見知らぬ土地の人々の生活を見、自然に親しむ。スポーツに親しみ、料理を作り、工作をし、庭いじりをし、音楽を聴き、歌を歌 い、楽器を奏で、作曲をする。展覧会に行き、自分でも絵を 描いてみる。一つのことを始めればそこからさらに多くの世界が生まれる。なすべきことはいくらでもある。そしてそこから人と繋がることが出来れば、世界はどこまでも広がって行くだろう。
平凡ということに負い目を持つ必要などなにもない。第一、平凡な人が精一杯自己実現することは、他の無数の平凡な人にとって、最も身近で役に立つメッセージになるだろう。そして圧倒的多数の平凡な人々が、精一杯自己実現している時こそ、社会もまた最もよく自己実現しているに違いない。そのような社会であってこそ天分ある人もまた、最も豊かにその才能を開花させているだろう。
圧倒的多数の平凡な人々が、どうせ自分は凡庸だからと思って、自己実現を止めてしまったとしたら、その社会はすでに閉塞と荒廃の中にあるだろう。才能のある人だけが、かっこ良い自己実現とやらをしていれば良いなどという考えはとんでもない誤りである。
創造すること、それが唯一人間的である。
創造性とは奇をてらうことではない。 新しいものを追いかけることでもない。ただ創意工夫することを楽しみと感じながら、身の回りの様々な人、もの、環境、仕事や趣味、生活を育てる気持ち、「育む心」を持つことである。 「育む心」とは愛する心だ。だから愛がなければ創造性など生まれない。
「育む心」というのは、つまりは「愛する心」なのだから、それは「深く知ろうとする心」を生み出す筈だ。知らないものを愛するなどということは有り得ないのだから、深く愛することは、深く知ろうとすることである筈だ。
「深く愛する心」は必然的に「創意工夫する心」を生み出すだろう。なぜなら、愛する人、もの、生活、環境などは知れば知るほど、育てれば実を結ぶべき固有な種子を持っているだろうから、育て方もまた固有なものになるだろうからだ。「育む心」「創意工夫する心」と対極的な精神が「真似る心」である。それは、 マニュアルにしがみつき、世間的な価値を追い、人の愛するものや居場所を盗もうとする。それではいつまでたっても自分の世界は得られない。人を嫉妬し、人を傷つけ、結局自分も不幸になる。
日本人の多くは、創造性というのは、芸術家や技術者や職人など職業的にそれが必要な特殊な人間のもので、普通の人間には関係ないと思っている のかも知れない。日本の教育も創造性などほとんど問題にしていない。ただ知識と理解力だけで人を評価する。
しかし創造性がなければ、創意工夫する気持ちがなければ自己実現などできる筈がない。だから人間としての効力感、充足感、つまりは真の意味での幸福を得ることはできない だろう。創意工夫する心、自己実現のための創造性はすべての人にとって、無くてはならないのだ。あり合わせの材料で作った子供のお弁当でも、おかずで動物の絵をかたどってやる母親の心は愛である。そしてそれが創造するこなのだ。貧しい生活でも、創意工夫して精一杯生きているなら、そこには物の豊かさでは得られない輝きがある。それが本当に生きるということだろう。つまり、創造性とは育む心である。育む心とは愛である。
底荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労はだれにとっても必要である。(ショーペン・ハウアー)
苦労とは自分の理想や希望と現実とのギャップに対する思いである。理想や希望がなければ苦労することもない。 つまり、苦労というのは「自己実現の素材」である。
苦労がなければ今は安楽かもしれないが、そのかわり目指すべき人生の進路を持つこともできず、真の幸福を得ることもないだろう。水浴びをした後の爽快感が、ぬるま湯につかっている人間にわからないように、苦労を避ける人間は自己実現する喜びを知ることもない。憂きことのなおこの上に積もれかし、限りある身の力ためさん。(熊沢蕃山)
砂漠に迷った人は同じ所をぐるぐるまわって死ぬという。何の束縛もない自由はかえって空虚である。薪を戸外で ―― 自由の中で ―― 燃やせばエネルギーにならないが、かまどの中に束縛すれば有効な火力になる。(ライナー・マリア・リルケ)
日本人が自由という言葉を使うようになったのは近代になってからだろうが、未だに「勝手気まま」「我を通す」こととの違いを知らない人が多いのではないか。
むやみに手足をばたばたさせるだけで泳ごうとしても無理だろう。しっかりした泳法を身に付けて、初めて自由に泳げるのだ。無手勝流の剣法がしっかりした剣法修行した者に勝てる筈がない。それを考えれば、自由というのは、「法に従う」という制約の中にあることは明らかだろう。
自由 が法に従う所にあるのは当然だが、主体的にも、自由はさまざまな制約の中で生み出される。つまり与えられた条件をいかに有効に活用できるかという人間のアイデア、能力の中に 自由が生まれるということだ。
何でも手に入る豊かさの中よりも、 貧しく、制約されている時の方が、人はそれを乗り越えるための様々なアイデアを生み出し、かえって豊かで充実した人生を獲得するものだ。
或いは貧しさや苦しさ、孤独や逆境の中で人は強靭な精神力を獲得する。そして人の心の痛みへの共感、同情心を得るだろう。それは人を愛する心を生む。愛する心は育む心を生む。育む心は、創造する心を生み出す。
鍛えるということが、しばしば困難の中に身を投じることであるのは、結局、生み出す力、耐える力、育む心を得るためだろう。自由はそこにこそある。自由とはつまりは自分の内面世界の大きさ、 容量のことである。
社会が困難に直面したとき、それを克服することが新たな生きがいと思える人。それが英雄ではないか。
英雄というのは必ずしも、歴史上に名を残した有名人のことではないだろう。また悲劇の英雄という言葉があるように、成功者 ということでもない。勝敗は時の運、敗北しても、その行為は真に英雄的という人はたくさんいるし、その人から学ぶことも多い筈だ。
つまり英雄的というのは生きる態度のことだろう。社会が困難に直面したとき、困難に目を背けて生きるのか、その困難の克服、問題解決を自らの生き甲斐にするのか、それが 凡人と英雄の違いだろう。しかし今の日本人は、スポーツ選手にヒーローという言葉を使っても、人の社会的な業績を評価するのに「英雄」という言葉を決して使わない。 大震災の時、英雄的な行為をした人は少なからず居たし、「英雄」という言葉を使った人もいるかも知れないが、それでも「英雄」という言葉は「正義」という言葉と同様に日本人には死語になってしまっているように感じている。
少なくとも61年間の僕の人生で、誰かがその言葉を使うのを僕は一度も聞いたことがない。結局、今の日本人は、倫理的価値、人の善意思にランクを持ち込 んで、人の価値に差をつけることを拒否するのだろう。1人の英雄的な行為で多くの人命が救われたり、破局に瀕した状況が克服されたりするようなことは、高度に複雑化した現代社会においては、事故や自然災害を除けば少ないだろう。1人の決断では、複雑化した社会では対応しきれないのは当たり前だと思う。だからこそ多くの人の英知、多くの人の英雄的行為がなければ、これからの社会が遭遇する困難は立ち向かえないのだろうと思う。
閉塞した今の日本で、多くの人が織田信長のような英雄を求めているのかも知れない。しかしそれは不可能だ。社会の進化に比して1個人の能力は殆ど進化していないからだ。そして有能な指導者を待望する民衆の意識は、それを利用するポピュリストを擬似的な英雄に仕立て上げてしまうだろう。今、その兆候が濃厚に感じられる。
英雄的行為というは、つまりは個々人の職業的使命感、社会的、人間的使命感の延長にあるだろう。人が誠実に生きている限り、それらすべての人が小さな英雄である筈だ。その中に、その延長に、大きな英雄が生まれる筈だ。日本人1人ひとりが、自分もその1人だという自覚をもってこそ、優れた英雄、優れた指導者が生まれるのだと思うのだが・・・・。
どんな栄耀栄華も愚者の鈍い意識に映じたものであってみれば、セルヴァンテスが居心地よからぬ牢獄でドンキホーテを書いた時の意識には比すべくもなくみすぼらしい。(ショーペンハウエル『幸福について』)
自分の世界を持つ者は、たとえ牢獄の中にあっても、生きる目的を見つけて自己実現をする だろう。それに対して、自分の世界をもたず、ひたすら「安全・安心」を追いかけ、ただ世間的な価値や快楽を追う者は、どれだけ目先の欲求を満たしても、またすぐに別の飢えにとらわれて、どこまでいっても充足することがない。
高い地位、多大な財産にめぐまれた人が、どこまでも自分の境遇に満足を得られず、しばしば不幸に陥り、破滅する危険を孕んでいることは、エリエールを見れば解るだろう。
外的、物質的条件が、人の幸福の、一つの要因になるとしても、それは要因の一つに過ぎず、しかも間接的なものでしかない。外的条件がその人の主観を満足させ なければ、そもそも幸福とはなり得ないからだ。世間的価値、物質的価値というものは、ある人に必要なものであっても、他の人には全く意味のないものであるかも知れない。 いかに高価な道具を持っていても、それを使いこなせなければ、高価なものを持っているという見栄の満足は得られても内実のある効力感は得られる筈がないのだ。それに対して、内面的な世界が与える価値は、そもそもが主観的にも価値として認めたものだから、それは直接的に幸福の条件となる。 逆に世間がそれを無価値だと決め付けても、主観が満足を与えるならば、それは幸福感を満たすものとなるだろう。そういう意味で自己満足というのは大いに価値があるのだ。
結局、固有な内面的価値、自分の世界を持っていなければ、人は決して幸福を得ることが出来ない。
老いては子孫のために。残すこと。伝えること。それが老人の役割だろう。
「老いては子に従え」という諺がある。しかしこの言葉は誤解を招く。長い人生経験がもたらす見識というのは、しばしば社会の困難な問題や、身近な人間関係のトラブルを解決する智恵となる。それが否定されてしまうことになりかねないからだ。
僕は今61歳だが、周りを見ていると、年寄りというのは嫌でも二種類の人種に分かれて行く。一つのタイプは利益や快楽への執着がなくなり、温厚だが執着がなくなっただけ俯瞰的なバランスの取れた見方が出来る人格になるタイプと、もう一つのタイプは、弱くなればなるほど、死期が近づけば近づくほど、 自分の「安全・安心」に執着し、人生経験が与える見識を若い世代に語るどころか、自分の財産に必死にしがみ付いて、猜疑心を深め、保身的で狷介な性格に変貌してゆく人々である。
若い人は、これから自分の生活を築き、家族を守らなければならないのだから「安全・安心」を求めるのは当然のことだが、あと30年生きれば、市の広報に載るというような年齢の人が、「安全・安心」に執着して自分のことしか考えないというのは、見苦しいだけではなく、現役を退いた世代 の役割を果たさないということだ。
昔は、父母が野良に仕事に行けば、年寄りが子供の世話をしただろう。庶民の家の教育は、職業上、生活上のスキルを身に付けることも含めて、そのようにされていただろう。もちろん人間関係や生活上の経験的な智恵を発信することや、現役を退いた故にできる、報酬 がなくとも社会のために無くてはならない仕事もしただだろう。
そのように社会は維持されて来た筈なのに、いまやすべての仕事や社会的な役割が、本来人間の善意志によって支えられている筈の仕事まで、利益に置き換えられるようになって しまった。そして年寄りは自分の「安全・安心」のことしか考えないような風潮が蔓延するようになってしまった。そして今は50年前に比べてはるかに息苦しい人間関係、暮らしにくい社会になって来た。
年寄りは子孫の為に、次の時代の社会の為に種子を残すという仕事がある筈だ。それが老人の最大の役割である筈だと思うのだが・・・・。
同じ言葉が異なった配置によって別の思想を形成するのと同じように、同じ思想でも配置が異なれば別の論旨を形づくる。(パスカル『パンセ』)
事実のつまみ食いというのは嘘と同じだと僕は書いたが、諺にあるように「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」と思っている人は多いだろう。自分に都合の良い事実を並べ、果ては憶測も動員して自分の立場に引き寄せるのだ。道理や真理を見出すために、筋道や論理を立てる日本人は明治維新から150年経た、まがりなりにも民主主義制度を持ち、多くの人が高等教育を受けることが出来るようになった今の日本でも増えていないように見える。
日本人の理屈ぎらいというのは、断じて美徳ではない。とくに理屈ぎらいを補完する筈の「人情」がすでに消え去ってしまた今の日本ではなおさらである。道理や真理を軽視し、筋道や論理的判断を立てる訓練が出来ていなければ、簡単に人に騙され、洗脳されてしまう。
すでに知っている言葉や概念、思想を、知っているからといって軽視してはいけない。それがどういうところで使われるかで新しい意味を持つことになる。
適切な例えかどうかは解らないが、「人間は動物である。猫も動物である。だから人間も猫も同じである。」という主張は必ずしも間違いではない。しかし「人間は猫である」というのは間違っているだろう。人の主張の中にそうしたすり替えがなされている時、直感的に「それはおかしい」と感じるには子供の頃から論理的に考える訓練が出来ていなければならない。
「人間は皆同じだ。誰でも良いところも、悪いところもある。」という言葉は保守的な人ほど良く使う言葉で、一見「人情」とか「博愛」とかを感じる錯覚を受けるが、こういう主張は「人間は猫である」というのと同じようなナンセンスを含んでいる。「赤いりんごも一皮剥けば白い」、つまり「赤い(左翼−平等・公正は誰もが負うべき根本的な倫理)」人も心の中は「白い(現実主義・保守主義−競争心と物欲は人間の本性)」とひと昔の保守主義者は言ったものだが、この「人間は皆同じ」という主張の中に、すでに自己利益を正当化させる意図が隠されているのだ。
また平凡なことがら、判りきった事実を注意深く考察し、新しい意味を発見できる理性と感受性を持つこと は、騙されない、洗脳されないためだけではなく、そういう習慣が身につけば、自分の世界は飛躍的に大きく育ってゆくだろう。
マルセル・ブルーストの言葉に「真の発見とは新しい風景を探すことではなく、新しい目を持つこと」である というのがあるが、発見する目というのは論理的に考える力とともに自己実現のためには無くてはならないものだと思う。
脱皮の出来ない蛇は滅びる。精神の脱皮が出来ない人もまた同じである。(ニーチェ)
自己実現をし続けている人間というのは蓄積されてゆく体験や知識によって、ある時飛躍的に変化し、それまでの自分から脱皮する。彼の内面は、生まれた時から持っている生理的欲求や求愛衝動、小児的な認知欲求や自己顕示欲、出世欲、支配欲などの低次な欲求から、自分の個性を開花させようとする自己実現欲求や、さらには人間らしさを実現しようとする審美的な欲求へと飛躍するものだ。
或いは環境や社会的な規制の中で抑圧されたアニマやアニムス(潜在意識下の欲求や願望)が、大きな内面的エネルギーとなって、人生の半ばで昇華する時期をもたらし劇的な変化を遂げる。まさに青虫が脱皮し美しい蝶に変身するように・・・・。
シュリーマンが中年になってトロイの発掘を始めたように、伊能忠敬が隠居してから天文学を学び始めたように、さらに言えばキリストが伝道を始め、釈迦が悟りを開いた時のように・・・・。しかし内面的な自己実現を忘れた人間と言うのは、もはや変ることはない。彼は成長することも忘れ、ただ世間的な地位や価値を追い 求め、仲間の中で優位を占めることに執着し、出世や名声を得ることを自己実現だと取り違え、他人の個性や能力を嫉妬し、不都合なものから目を背け、目先の安全や快楽に拘泥して生きている。彼が変ったように見えても、それはただ功利的な目的で見せかけを変えているか、リスクを考えて仮面を被っているだけである。
そういう人が、僕にそれまで悪意や敵愾心を示していたのに、僕が彼に取り合わずにいると、今度はその態度を変えて妙に神妙に 、人間が変ったように、善意らしい様子を示してくることがある。
しかし彼は一見変ったように見えても、何も変っていない。ただリスクを計算し、功利的に態度を変えているだけなのだ。それを感じた時、彼が僕に敵意をあからさまにしていた時以上に、僕はさみしい思いをするのだが、考えてみれば彼に僕と同じものを求めること自体が幻想なのだ。
自分の個性を開花させようとする自己実現欲求や、人間らしさを求める審美欲求を持たない人間というのは別種の生物と考える方が当たっているのだろう。彼は生物的には、目先の欲望を充たしながら生き続けるだろうが、人間としてはもはや生きていない。それは学歴にも社会的な地位にも関係ない。自己実現しようとする意思があるかないかだけの問題なのだ。愛するということが、何かに、誰かに価値を認め、それが開花するように育もうとする心なら、自己実現しようとする意思は当然「愛」である。それは当然、自分だけではなく、自分が大切にしてる仕事、趣味、場所、持ち物から自分が繋がっている自分の家族やペット、友人、勿論恋人、そして社会にも広がるだろう。
それゆえ、自己実現する意思とは、必然的に「育む心」、「善意志」のことである。
(君を批判する)その人が全く正しいか、あるいは幾分正しいならば(これは人々が普通に考えるよりしばしば起こることだ)、そのために彼に腹を立てる理由は無いし、また彼の考えや行いが間違っていれば、彼はむしろ憐れむべきである。(ヒルティ『幸福論』)
しばしば人は自分が批判されると感情的に反発して、相手の言葉を受け入れない。そして相手に報復を企て、またひとつ人間関係を壊してしまう。
自分に非があるなら、相手の言葉を受け入れ、相手が間違っているという確信があるなら、感情的な反発を避けて、時を置いて相手に理解してもらうようにすれば、また一つ実の有る人間関係を築くことができるだろう。ただし、自分を批判する者が、自分や自分の組織の利害を守ることしかないような、ただ人の手柄を奪って自分の手柄にするような、相手を貶めて自分の人気を得 ようとするような、相手を蹴落として自分の居場所を守ろうとするような人間ならば話は別である。こういう人の批判は初めから罠がある。
自分の立場や利益を超えて、「道理」と「筋道」に従う精神。それこそが、問題解決の根本的な方法だろう。その精神に従って、批判を受け入れるべきは受け入れ、批判すべきは批判する。それが出来ていれば迷うことはない。
組織や社会、国家が繁栄するか、衰亡するかは結局それに属する人の中に傍観者がどれだけいるかによって決まるだろう。
この言葉は20世紀初めの中国の思想家梁啓超の言葉を言い換えたものだが、今の世の中は、お客様意識、品定め根性、評論家体質が蔓延しているように見える。多くの人々は自分のかかわりが及ばないことには、さかんに噂をし、品定めするが、自分にかかわりが及ぶと、すぐに沈黙する。
周りの空気を読んで「安全・安心・自己利益」は追求するが、問題解決の当事者意識がなく、目撃者の義務、遭遇した者の義務はおろか、受益者としての義務すら自覚がない。今の日本の多くの人々、「空気を読む」という言葉を良いことだと考えている人々は、恐らく「道理に従う」とか「筋を通す」という感覚は希薄だろう。「空気を読む」という神経は、「多数の利害を把握して、それに従う」ということでしかない。結局それは「多数のエゴ」を正当化するだけのもので、「道理」でもなければ「筋を通す」ことでもない。
そもそも「空気を読む」人が「人の気持ちを思いやる」ことなど、到底信じられない。そういう人が多数であるような社会では、多数や権威を背景にした無責任が横行し、不正が蔓延し、退廃し閉塞せざるを得ないだろう。
リーダーになる必要などない。率先する必要もない。ただ日本の1億3千万分の1人として、せめて自分たちの子孫、後輩が、我々の時代より苦しい、辛い、惨めな生活をせずにすむように応分の責任と義務を果たすべきだろう。
自己実現というのは人より劣る能力も含めた全人的なものである。自己限定 すればするほど自己実現は遠ざかる。得意なものだけ努力するという「一芸主義」は、その「一芸」をも滅ぼしてしまうだろう。
複数の数式から未知数の解を得るように、人の脳の働きも、多様な知識や技術、経験から有用なアイデアを生み出す。音楽を構築している形式が、科学的創造のアイデアを生むこともあれば、その逆もあるだろう。 脳細胞の活動は、人間の功利的な分類とは無関係なのだ。
アインシュタインは音楽を非常に大切にしていた。左利きのまま左手に弓を持って演奏したというが、その技量はプロ並だったと伝えられている。物理学と音楽は何の関係もないなどとは脳細胞は考えていない。音楽を聴いて刺激された脳細胞が、物理学のアイデアを生み出すために働く。物理学者として成功するのに、音楽なんか必要ないなどという「一芸主義」は、結局脳細胞の自由な活動を制約し、その「一芸」自身も干からびさせてしまうのだ。
ニーチェもピアノを弾いたが、相当な技量だったと聞く。ワグナーはショーペンハウエルに心酔し、そこから自分の芸術を構築した。そして自ら物語を構想し、自ら脚本を書き、自ら演出をし、物語のモチーフと音楽のモチーフを完璧なまでに関連付けて「ニーベルングの指輪」を作曲したという。
得意なものに努力を傾注し、苦手なものは切り捨てるという「一芸主義」が何か常識のように今の日本にはびこっているが、それは全くの誤謬だろう。苦手な能力を標準に近づける努力の中に、全人的な円満な人格が形成されるし、その中に得意な能力をさらに成長させるアイデアが秘められているのだ。
即物的な功利主義に汚染された今の日本の思想的風潮は、研究や教育の場まで汚染している。立命館大学が教育の指針に「一芸主義」を掲げていると聞いたが、教育者でありながら、教育の何たるかを知らない者のたわごとだ ろう。「一芸」を追いかければ、その「一芸」をも滅ぼしてしまう。
信条
僕は純粋でありたい。
深く果てしない心の海を見るために。僕は美しく生きたい。
醜い音を出すことを恐れる音楽家のように
醜い生き方を僕は憎み恐れる。僕は信念を持ちたい。
起き上がり小法師のように
重心が身体の底辺にあれば
幾度倒されても苦もなく起き上がれるだろう。僕は強く生きたい
象が虎やライオンを恐れることなく負けることもなく、
しかしどんなに小さな動物も踏み潰さずに生きるように。そして僕は暖かな春の日に
名も知らぬ草花が精一杯咲くように
ただ自分に与えられた小さな命を全うしたい。
不都合なものから目を背ける者
責任を回避し、他人に転嫁する者
人の才能や個性を嫉妬し、否認し、中傷する者
自分の世界を持たず、他人の世界を真似し虚栄を追う者
失敗や挫折から学ぼうとせずリセットスイッチを押してすませる者
危難に遭遇しても、知らぬ顔をして、遭遇した者の義務を果そうとしない者
そんな人がどれだけ多くても、僕はこれらの人々を友とはしない僕はただ育む心、愛する心を持って生きる人を求め友とする。
育む心は、すべてのネガティブな人の心を乗り越えられるだろう。
そして自分と隣人、同胞の自己実現のために、
必要な義務と責任を果たす勇気を与えてくれるだろう。
どんな不幸にも一筋の光明がある(ことわざ)
Every cloud has a silver lining. という英語のことわざがある。どんな黒雲も、その裏側には銀色に輝く光があるのだ。
「どんな不運の中でも、そこには何か一つ小さな幸運が残されているものだ」というのは『大草原の小さな家』のローラのお父さんの口癖だった。大きな不運の中で、悲嘆に流されて、この小さな幸運、一筋の光明を見落とすのか、大切に育てるのか、人生の幸福と不幸の差とは、結局それだけのことだろう。日航機が山中に墜落し、2人の少女を残して全員死亡する事故があった時、何人かの人が手帳に遺書を書いていた。極限状況の中でも、出来ることを、なすべきことをしようとする。これは人間の本性がどういうものかということを示しているのではないか。それは書くことによって、不安や恐怖を軽減しようとする心理かも知れない。或いは信仰に近いものだったかも知れない。それをどう捉えようとも同じことだ。極限状況においても、何か後に伝えよう、残そうとする本性が人間には、確かにある。
「極限状況の中には、極限状況の中の自己実現がある。」というのは2000年にこのホームページを始めて、Syuugoroが考え出した念仏だが、僕の日常生活を律する呪文になっている。どうしようもない状況に遭遇すれば、その状況を出来る限り冷静に観察し、後の人に残せばよい。それは必ず誰かの役に立つだろう。そのことによって滅びてゆく自分の命は永遠の生命として受け継がれてゆくだろう。それが究極の自己実現である。
すべてを失う悲しみというが、すべてを失って悲しんでいる自分は残されている。それは失う前の幸福な生活の記憶を残している。そしてすべてを失うという稀有の体験をしている。それ自身貴重な財産ではないか。
すべてを失って、自分の選択、行動を省みて、後の祭りだとしても、問題解決の方法を見出すことが出来たら、それも誰かの役にたつなら、大きな価値になるだろう。人間の能力を超えた自然の脅威に遭遇したというなら、人間の力を超えた者の存在(人はそれを神と名づけた)に帰依するという、実感を伴った真の信仰を見出すことが出来るだろう。
生命は受け継がれて来たものである。そして受け継がれてゆくものである。つまり生命とは類的な存在である。そのことを自覚する限り、すべてを失うなどということは有り得ない。そして生命の意味と価値は究極「未来に残すこと」である。
利によりて行なえば、怨み多し。(論語)
自分の利益だけを考えて行動すれば、当然人の恨みを 買い、孤立する筈なのだが、現代は排他的競争が正当化される異様な時代である。だから「自分の」利益、或いは「自分たちの」利益しか考えず、他人の利益を侵害するような人間が組織のリーダーになって しまうようなことがしばしばある。しかしそういう人がリーダーになって組織が、或いは社会が発展するようなことは決してないだろう。
そして「自分の」、「自分たちの」利益だけを考えるような生き方が幸福をもたらすとは思えない。人間には親和欲求という本性がある。だから 、利己的、排他的な価値観がすり込まれず、素朴に育っていれば、自分のかかわる人々や集団が自己実現するのを助けたいという自然の要求を持っている。それを否認するのは、後天的な屈折 した思想だろう。人の「認知欲求」というのも、本当の姿は自分の価値を認めて欲しいという自然な欲求なものであり、権威や権力を手に入れて、人を服従させたいと思う 「支配欲」というのはやはり後天的な屈折だろう。金をいくら持っていても、それを使って買うものがなければ何の価値もない。高価なものを手に入れても、それを使いこなす能力がなければ何の意味もない。人を支配する権力を握っても、人の価値を価値として認識する能力を持ち、組織をよりよく運営する能力がなければ、結局組織は崩壊し、人々の軽蔑と怨嗟を受けるだけだろう。
結局、相応しい能力も人格も、育む心もなく、ただ地位と利益だけを欲しがって人の上に立とうとする人間の行き着く先はくたびれ損の孤独で不幸な人生でしかない と思うのだが・・・・・。
財産が人間を支配するという倒錯、それが資本主義の本質である。(カール・マルクス)
現在の資本主義は『ヴェニスの商人』のシャイロックのように弱者の生存権まで奪ってしまうほどに極端な搾取は容認しなくなったかも知れない。しかし財産が人間を支配しているという現実は 変わっていない。財産が人を支配する道具になるならば、革命はやはり正当化されるだろう。マルクスの剰余価値学説と 弁証法的歴史観というのは、19世紀の世界の分析に画期的な視点をもたらした。近代経済学の父といわれるケインズの経済学もマルクスの研究した過剰生産恐慌の分析を踏まえて構築されている。そして現代の社会においてもマルクスの時代と変らない資本主義の矛盾、階級社会の矛盾は何も解決していないことはリーマンショックを見れば解ることだろう。
現代の社会主義思想の低迷はマルクスの責任ではない。ひとえにマルクスの後継者と称する既成左翼の不毛だろう。マルクスも時代の子だから、当時の理性や科学に対する万能感に支配されている。マルクスの後に確立された心理学の業績も知らないし、個人の内面や主観を捉えて人間の存在価値を探求した実存主義的哲学の業績も知らない。経済学における労働価値説も21世紀の世界の分析には通用しない。
そのことを踏まえて現代の世界の中で生きる人のあり方、社会のあり方を考察する哲学が構築されねばならない。とりわけ日本においてそうした新しい哲学が生み出しえない不毛が、今の日本の時代閉塞をもたらしているのだろう。
マルクス以後の近現代の思想だけではなく、マルクスが批判し乗り越えたとされるサン=シモンやロバート・オーウェン、さらにはギリシャ・ローマの古典哲学や、中国の古典哲学に学ぶべきものもある。そうした人類の遺産、先人の智恵を継承し現代に相応しい、そして専門家ではない普通の庶民の糧となる哲学思想、倫理観が構築されなければならない のだが・・・・。
汝の力に余る重荷を汝の肩に乗せるな。(ホラティウス)
人は自分の脳みそを取り替えることは出来ない。生まれ持った頭脳と身体の能力がすべての元手なのだ。 だから自分の能力で請け負えるだけの仕事、自分の身の丈にあった人生の目標を持つことこそ、自分にとって最も大きな人生を実現できる条件なのだろう。
もちろん、出来るかも知れないのに出来ないと自己限定して目標を萎縮させることは愚かなことだ。要は自己限定せず、自分の能力の限界を超え るような背伸びもしないということである。しかしそれを知ることがなかなか難しい。やってみなければわからないことも多いだろう。
その試行錯誤は一生続くものだろうが、やはり若いときにいろいろ試してみることが大切だろう。エネルギーもあり柔軟性もある若い時代に多くの経験をすることは、自分の目標や限界を知ることになるし、自分の人生の容量を大きくすることにもなる。しかしもう若い時には戻れない、今となってはもう手遅れだという人がいるかも知れない。しかしどんなに遅くとも、その時自分に残されている可能性を実現することは、自己限定して放棄することよりは 、はるかに幸福への手がかりになる。それは死ぬまでどんな状態であっても同じことだろう。
人より劣っていとか、人に負けるとか気にしても何の益にもならない。要は自己限定しないことだ。自分の持てる能力と可能性を精一杯実現すれば、自分にとってはそれが最高の人生 なのだ。人に比べて惨めであろうと何であろうと、自分にとっての幸福は今自分に残されている可能性を実現してゆく中にしかないのだ。
それを実現するためにも、自分に負えない荷物はさっさと降ろすことだ。身軽になればそれだけ自己実現の歩みは速くなる。
志をたてるのに遅すぎるということは無い。(ボールドウィン)
たとえば『大草原の小さな家』を書いたローラ・インガルス・ワイルダーは、ジャーナリストになった娘に勧められて65才になって初めて 自伝小説を書き始めた。シュリーマンがトロイを発掘するために専門的な勉強を始めたのは46才の時である。 伊能忠敬が隠居して天文学の勉強を始めたのは50歳、日本地図を作る測量の旅に出たのが56歳だった。
むしろ本当に人生の花が開くのは人生の後半になってからだろう。何才になろうと、自分に出来ることで昔からしたいと思っていて、まだしていないことはある筈だ。なければ今持っている能力や環境を新たなものに役立てることを考えれば良い。それもなければ自分の生涯を振り返って自分史でも書 けば良い。とりたてて書くこともなく、記憶も定かではないというなら、こんなつまらない人間になるなと後の人のために書き残せば良いのだ。これは冗談ではなく、本当の話である。勝海舟の父勝小吉(夢酔)はひらがなしか書けなかったし、正式な文章も書けなかったので、ひらがなのべらんめえ調で『夢酔毒言』という自分史のような物を書いて海舟に与えた。その 結論は「自分のような人間になってはならない」ということだった。
子供の頃から貧乏旗本の子供を集めて、町人の子供グループと喧嘩ばかりしていた。ある時、町人の子供に大怪我をおわせて、親に連れられてその町人の家に行き、相手の親の前で顔が腫れあがるほど殴られた。それでもまじめな生活ができず、とうとう家出をするが行くところがない。しかたなくお伊勢参りに行く。当時お伊勢参りに行く人には 、請われた人は1文(今なら20円ほどだろう)与えるのが仕来りだった・・・・。という風に自分の粗末な人生を回想し、こんな人間にはなるなと書いているのである。もし自分の子供が勝海舟のような有名人にならなかっ たとしても、実に面白くて感動的な物語である。
どんな平凡な人生でも、下住みの人生でも、探せば必ず貴重なドラマがある。それを見過ごしにしないことだ。社会的な評価などというのは結果論だ。自己限定は命に対する冒涜である。
良心とは道理に従って判断する精神だろう。
「道理」とはなにか。それは人間に関する真理のことだろう。生き方、考え方、人との関係、家族、友人、組織、社会、人間に関するあらゆることについて、動かしえない得ない前提、人の考え方や行為、社会のあり方に関して、証明証明し得る 原理・原則。それが「道理」だろう。
「人間は学習しなければ人間になれない」というのは道理だろう。学習しなければ、服を着ることも、自転車に乗ることも、言葉を使うことも、歩くことすら出来ない。
それ故、学習が成就すること、自分の世界が広がることに、人は効力感、充足感、満足、喜びを感じる。
それ故、「学習」とは本来「喜び」である。これは「道理」だろう。ならば、どうして学ぶことを止めてしまうのだ。どうして学ぶことが苦痛になり出すのか。道理に従えば死ぬまで学習する ことは喜びである筈なのだが。「喜び」というのは、「快感」の充足ということを含め、何であれ「価値」を獲得する充足感、効力感にあるだろう。これは真理だろう。しかし、「快感」というのは消費的である。減衰する喜びである。それに対し、「価値」を創造する充足感、効力感というのは発展や進化を伴っているから減衰することのない恒常的な「喜び」となるだろう。それ故、創意工夫する精神は幸福の源泉となる。これは「道理」だろう。
「人は一人では生きてゆけない」というのは証明する必要もない前提だろう。親や大人たちがいなければ学習をすることも出来ないのだから、人間になることも出来ない。自分を育んでいる社会があるからこそ、人は生きて行ける。ならば、自分を育む人々や社会を破壊してはならない。これは道理だろう。
この「育む」という心が「愛」であり、逆に「奪う」という心が「欲」である。見かけは同じ「好き」という気持ちでも
「愛」と「欲」とは、全く逆の、正反対の心象だろう。だから「欲」ではなく「愛」を育てなければならない。これは道理だろう。「人は快感原則に従って行動する」「欲望は発展・進歩の原動力である」という通念が、今の日本を支配している。そして「排他的な競争」は社会の進化の原動力だという。しかし、それならどうして環境問題 や人口問題など口にする。どうして苛烈な「受験競争」をしていながら学力が低下しているのだ。どうして苛烈な「個人間競争」を煽っている企業で、職場の人間関係が荒廃し、企業としての活力が失われるのか。
「競争意識」は究極、モチベーションを減衰させ、集団の活力を失わせる。それは「欲」に依拠するからだ。それに対して「共同意識」はモチベーションを減衰させることはない。それが「愛」に、「創造」に依拠するからだ。
「愛」とは「育む心」「創造する心」である。「欲」とは「奪う心」「消費する心」である、価値に対する感情ということでは同じでも、そのベクトルは正反対のものである。「愛」は人を育み、未来に価値を残すが故に、その価値の中に永遠の生命を得るだろう。「欲」は人のものを奪い、消費し尽くす故に、未来に何も残さぬ、救いのない生命の断絶をもたらすだろう。何も未来に残さず、自分の肉体が滅びてゆく。それが「地獄」ではないか。
弱者が、強者の理不尽な要求、ごり押し、なし崩しから自分を守るには、道理に従い筋を通すこと、それ以外にはない。
強者には 逆らわず、クレーマーやモンスターに近寄らなければ、害を受けることはないと、多くの日本人は思っているだろうと思う。しかし多くの人が見て見ぬ振りをし、衝突を回避すればするほど、クレイマーやモンスターは太り、繁殖して行く。そして自分の代は「安全・安心」を確保したとしても、子供の代には必ず強者の無理・難題に晒されることになるだろう。
弱者が物量で強者を凌ぐことは出来ない。数の力も一時的には力になるように見えても、利害が消滅すれば、雨散霧消してしまう。本当に力になるのは道理に従い、筋を通す、論理の力しかないだろう。公の判断を仰ぐというのは勿論そういうことだが、「ペンの力」もそういうことである。その意味での多数の支持というのは力になる。
僕もこうしてホームページを書いているのだが、現代は誰でもネットワークを通じて情報を発信することが出来る。理不尽なことをする人の行為も、人の目に晒すことが出来る。それだからこそ、伝えることは道理に従い、筋を通したものでなければならない。そうでなければ誰も信用しなくなるだろう。
「嘘も百回言えば真実になる」という言葉がある。この言葉をゲッペルスが言ったということ自体が嘘だとか、左翼の嘘をゲッペルスが批判したのだなどと得意げにブログに書いている人がいるが、身近な問題として、原発を推進してきた財界・自民党の「原発は安全」という嘘を思い出せば良いだろう。彼らは広告の専門家や心理学の専門家を大動員して国民の洗脳を行う。国民の方は、自分が弱ければ弱いほど、洗脳されることによって「安全・安心」を得ようとする。自分は「屠殺場に行くまで、太って行く豚の幸福」で満足だとしても、自分の子供は育つ前に飢餓にさらされるだろう。
もしかすれば、封建時代には、「長いものに巻かれろ」という言葉は、ある意味で正しかったかも知れない。「百姓は生かさず、殺さず」という言葉通り、支配者にとっては殺してしまったら収奪も出来ないから、殺しはしないし、少々は勤労努力によって豊かになる道も与えたのかも知れない。
しかし、社会ダーウィニズムを正当化する現代日本の資本主義は、労働力を人間ではなく、物質として処理する。次の時代の人的資源を育てるという常識さえ、目先の利益に沈黙してしまう。
現代の日本では、弱者が「長いもの」に巻かれて「安全・安心」を得ようとしても、巻かれて絞め殺されてしまうのだ。3万人を超える自殺者の多くは、そういう人だろう。行き当たりばったりの強盗事件を起こしたり、自暴自棄になって行きずりの傷害事件を起こしたり、逆切れ暴力を振るう若者たちもそういう人々ではないか。今の日本ような、人の心が閉塞し、荒廃した時代でも、自分の居場所を作ることは出来る。たとえ働き口がなく生活が破綻していたとしても、或いは奴隷のような労働条件で働かされていたとしてもだ。それはただ「道理に従い、筋を通す」ことでしか得られないだろう。
僕は道理を考えながら、筋道に従って生きる。
今の多くの日本人は道理ではなく空気を読んで考える。筋道に従うのではなく、多数や強者に寄って生きている。多数や強者に従い、利害を共有する仲間との衝突を回避し、「安全・安心」を求めて生きることが、何よりも選択や行動の原理になっている。その結果今の世の中はどんどん道理から離れて行くようだ。
自分はそれで良いかも知れない。しかし自分の子供や孫の、後の世代の世の中はどうなるだろう。道理ではなく、「得」と「安全・安心」をを追いかけることだけを教えて育てたら、日本の未来はどうなるだろう。今の政治家の嘘臭さは、特に保守系の政治家は、自分はボランティアなど一度も経験したことがないのに、今の若者にはボランティアを強制し、法律まで作ろうとしていることだ。弱者救済などという思想は「アカの人寄せ手段だ」「強者だけが生き残る」「利益の出ない仕事はするな」などと 吹聴しながら、ボランティアを「愛国心」と結びつけ、将来の徴兵制の復活をもくろみ、「日の丸・君が代」を強制し、そして敬礼を強制する日の丸の前には自分が立とうとする。
醜悪この上ない話だが、こうした権力者の精神の荒廃現象が続けば日本の未来はないだろう。皮肉な話だが、あの悲惨な震災と原発事故だけが、今の日本人の良心の荒廃に歯止めをかけているように思える。
60歳までは、家族の生活を守るために、自分のやりたくない仕事もしなければならないだろう。付き合いたくない人とも付き合わなければならないだろう。強者の押し付ける無理難題も飲まなければならないこともあるだろう。
しかし60歳になってリタイア出来るのなら、いくらかでも年金を受けることが出来るのなら、その分だけ、自分のためにではなく、子孫のために、未来のために、利益にならない仕事を請け負うべきではないのか。その仕事のなかに受け継がれる命、永遠の命、「あの世」があるのではないか。僕は60歳からの命は「おまけの命」だと思っている。その命は自分のためにではなく、利益にならなくても、子孫のために、未来のために、価値のある、必要な、無くてはならない活動をするために使うべきだと思っている。それが老人の役割だと思っている。
死ぬまで「安全・安心」と目先の快楽を追いかけるような生き方が幸福だなどとは僕にはどうしても思えないし、生物的な本性に反していると思っている。
人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことには、人間は天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する。(パスカル『パンセ』)
「一切衆生悉有仏性」という言葉がある。どんな悪人にも、心の中には「仏」が住んでいるという仏教の根本理念である。その「仏性」とはつまりは、自分や他人、社会や自然を育む心、 人が潜在的に持っている可能性を自己実現しようとする意思だろう。
その人間の本性である「善」を育む心が「愛」である。しかし、その愛に疎外された時、人の仏性は沈黙し、獣性の中に居場所を求めようとする。人を傷つける者、人の生活を奪う者が幸福になることはないだろう。しかし彼はそれを信じることが出来ない。ただ、ひたすら人の居場所を奪って、自分の幸福を得ようとする。 今の個人間競争を正当化する右翼的な思想が人を傷つける排他的な心理を蔓延させている。
人の純粋な愛が、彼にそれを気づかせることもあるだろう。しかし、そんな純粋な愛を持った人というのは稀にしかいない。やはり家庭や学校、社会が愛を持っていなければ、本当に彼が救われることはない。多数の人が誰かを仲間外しにしたりいじめたりする時の排他的悪意、攻撃性というのは椅取りゲームに似ている。表向きは排除されている人の「自分 勝手」を論うが、本当の所は自分の椅子を確保しようとする心理に他ならない。この保身の心理は、クレイマーやモンスターの理不尽な行為を決して論うことはない。大抵は妥協し、容認するだろう。こうして今の日本はクレイマーやモンスター、果ては逆切れする人間の天国になってしまっている。
僕は、かりに「自分勝手」というレッテルを貼られて仲間外しにされても、人の善意を得るために自分の冤罪を認めるようなことは決してしない。自分を陥れ、自分を排除している張本人を冷静に告発し、まだしも善意の人間 だとしても、彼が張本人の仲間である限り、決して彼にも近づかない。その時僕はすべてのエネルギーを自分の内面の充実のために費やすだろう。
その行為は多数派から少数派への転落の道、孤立の道だろう。しかし空気を読んで多数の利害に服従するという「場の倫理」や「自己保身」の心理で功利的な目的で結びついている人間関係の中でうごめいている 限り、あるいは逆に、イジメや仲間外しへの小児的な復讐心に押し流されている限り人間としての完成の道は閉ざされているだろう。善意思と愛、自分の内なる仏性を発現する道は長い孤独の道かも知れない。しかしそこにしか自分を完成させる道はない。僕を「孤立させて、ひきずり落として、思い知らせてやろう」とする人間が、その行為が無意味だと感じるまで、僕は孤立し、自分の内面をみがく。
そして人が幸福になる道は、「居場所を人と奪い合うことではなく、自分の居場所は自分で作り、自分を育み、人を育むところにしかない」ということを繰り返し、繰り返し人々に訴えてゆくだろう。
良心のない知識は人間の魂を滅ぼすものである。(ラブレー/16世紀初めのフランスの小説家)
今の世の中、技術的、科学的、物質的万能感が蔓延している。しかし科学や技術というものは道具でしかないし、知識の高さは決して倫理の高さを意味しない。技術や知識は人間の幸福の為に役立つと同時に、使い方を間違えれば、人間の不幸ももたらすことは近代の戦争や革命・内乱を考えてみればわかるだろう。
エリートが一般の人に比べて高い倫理観を持っているわけではないことは、東大を卒業した大王製紙の元会長のスキャンダルを見ても明らかだが、倫理観の低いリーダーが人の上に立てば、単に本人が墓穴を掘るだけではすまないことは容易に解るだろう。多くの人が実害を受けるだけではなく、そのリーダーの下にいる人を初め、多くの人の倫理観が荒廃してしまうのだ。
人は知識や技術を身につける前に生きる意味を知らねばならない。そして人の上に立つ人は、一般の人よりも高い倫理観を持っていなければならない。良心、すなわち人と社会の自己実現を促す心、育む心を身につけなければならない。この最も基本的で単純な道理すら現代の多く の人が見失っているように思える。今の時代の多くの人が「人より良い思いをするために一流大学に行くのだということは、当然のことではないか。能力は自分の幸福のために使うのは当たり前だ」と言う。そういう考えの人が人の上に立てば、庶民の仕事への使命感や自己実現するモチベーションは崩壊してしまうだろう。そして人々の精神は荒廃し、社会は閉塞してしまうだろう。現に今、その兆候は出ていると思う。
人間は孤独でいるかぎり彼自身であり得るのだ。だから孤独を愛しない人間は自由を愛しない人間に他ならぬ。けだし孤独でいる時にのみ人間は自由なのだから。(ショーペンハウエル)
世間的な価値や目先の快楽を追い求め、「安全・安心・自己保身」に身を尽くし、そのために人にすがり、そのために人を排除する。見えるものしか信じず、不都合なもの は否認し、目を背ける。そのような人・・・・彼は、自分の内面に向き合うことが出来ず、孤独な時間を得ても、わずかばかりの省察も厭う人間だろう。
孤独の中に無限に拡がる内面の宇宙は、彼にとっては深く暗い底なしの、不快で恐ろしい淵となる。裏切りや欺瞞、恨みや嫉妬、敵意、軽蔑や嘲笑、優越感や劣等感、責任転嫁、自己正当化・・・・自分が目を背け心の底深くに捨ててきた魑魅魍魎があぶくのように浮かび上がってくる。
しかし目を背ければ背けるほど、自分の内面世界は淀み、腐ってゆく・・・・。そしてますますそれを正視することが出来なくなる。「私は明るく軽く、決して深くは考えずに生きる。適当に世間に合わせ、快適な世界を求めて、だめなら諦め、“空気”を読んで要領よく生きている・・・・ 」、孤独を厭う彼、彼女は言う。そうして生きて来た年老いた人間を僕は、数多く傍で見て来た。夜中は電気をつけっぱなしに、テレビをかけっ放しにして、そしてため息ばかりつきながら、もう目の前に迫った人生の終わりを、今日明日ということはないだろうと無視しながら、芸術にも、文学にも、テレビのドラマにさえ、何も感動することなく、ただ平板に 、目先の快楽と生理的な欲求が充たされることだけを喜びにして、残されたわずかな人生の終わりの時間を生きている・・・・。彼はどこまでも不快なものから目を背け、軽く、軽く生き ながら、深い暗黒の淵から目を背け続けてきた。
僕は孤独を厭う彼、彼女がどこに行くのか知らない。ただ「内面世界を築くことの喜び」「内的自己実現・自己完成する 喜び」とは縁のない人間であることは確かだ。ゲーテは「霊感を受けるのは、ただ孤独においてのみ」と言っている。孤独の中に身を置けば人に依存することが出来ないし、人を恨むことも、人を妬むことも出来ない。いやでも自立して、自分の心の内にあるものと対話せざるを得ない。そうすると、世間的なさまざまな雑念は消えて、心の中で眠っていた思いもかけないアイデアに遭遇する。そしてそれは、孤独であるが故に真に自分自身のものであるだろう。
本物の自分、自分の個性を見つけるにはどうしても孤独になることが必要だ。そしてそこから再び人々の中に入ってゆき、そこに見出す人こそ真に自分自身にとっての友であるだろう。
人間性は変わらないものだという月並みな言葉は、ただもっとも人間らしからぬ一面だけに注目するあいだだけ、正しいように思えるのである。(トーニー/イギリスの歴史家)
日本人の多くは「誰でも良いところも悪い所もある」「善も角度を変えてみれば悪だ」などという。仏教思想が「分別智」は「迷い」だと、絶対者(神・覚者)のみが言えるような思想を「凡夫」の逃げ道として普及させてしまった。
生まれた時は確かに人間はみな同じだ。悪人として生まれてくる人間などはいない。しかし成長するに従って否応なく人間は二種類に分かれて行く。「善」と「悪」というのは見かけだけの問題だ。分かれるというのは、自分の自己実現を生涯続け、人の自己実現を助ける人と、自分の自己実現を放棄し、人の自己実現を妨げる人に分かれるのである。
自己実現しようとしている人は決して「人間性は変らないものだ」などとは言わない。彼は人間はその個性によって、その思想によって、その意思や努力によって一人々々異なる価値を持っていると考える。そして自分を 成長させ、取りまく環境をよりよく変革し、人の自己実現を助け、自分自身もよりよく変わろうとすること、これこそが人間の本性だと考える。
自分の世界を求める者と、自分の世界を持たず、ただ世間的な価値を追いかける者、理想を追う者と現実に拘泥する者、育む心を持って生きる者と、人を妬み貶めようとする者、自分の与えられた可能性を精一杯実現しようとする者と、どうせ自分は平凡でつまらない人間だと自己限定して生きる者、究極は自分の与えられた環境 、繋がる人々を愛し育んで生きている者と、人の幸福を破壊することにしか満足を得られない者、それが同じものである筈がない。
人間の中にあるなげやりな即物性を人間の本質と見て、理想をあざ笑う者が、今日の文明を築いただろうか。そういう即物漢だけが、人間の本質は変わらないなどと嘯くのだ。
「ネアカ人間」とは最も暗い人間である。
不都合なものから目を背け、深刻な問題を切り捨てて、周りの人との衝突回避を処世訓にして、「安全・安心」と目先の利益と快楽を追いかける だけの人間が、「ネアカ」とか「前向きに生きている」とか言われて、今の世の中では主人公になっているが、とんでもない倒錯した論理だろう。
不都合なものから目を背け、鬱陶しいもの切り捨てる生き方が積もれば積もるほど、人生は深い闇を背負ってゆくことになる。倒産や失業、自殺が蔓延している今の社会を見れば良い。不都合なものをから目を背けて、向こうの方からやってくる不幸にどう対処するのか。彼は薄氷の上に立ちながら、やがて氷が割れることを知ろうとしないのだ。彼があざ笑う「ネクラ人間」は不幸を直視して泣きながら、それでも目を背けることなく生きている。そして自分が薄氷に立っている危険を知り、船を作り、それに乗って進もうとする。
深刻な問題を直視し、立ち向かう勇気を持つ人こそ真に明るい人である。彼は幸福な人だけでなく、失意や不幸に苦しみ悩んでいる人にも同じように話しかけ、手を差しのべるだろう。そしてともに困難に立ち向かおうと呼びかける。
彼は不幸や困難を乗り越えて、たとえ失敗しても、その経験が与えてくれる智恵の力を信じて、希望を求めて生きて行く。「臆病者には臆病者の自己実現がある」「弱虫には弱虫の自己実現がある」。しかしそれは不都合なものから目を背けることではない。深刻な問題を切り捨てることではない。周りの人との衝突を回避することではない。「安全・安心」や目先の利益に執着することではない。
「臆病者の自己実現」とは自分出来る問題解決を実行し、出来ない問題は人と協力して解決する道を模索し、それでも解決出来ない問題は、自分がそれに関った経緯を、次の世代の人が解決出来るように、資料として、教訓として残す。それが自己実現だろう。そしてそれは臆病者にも出来ることである。
芸術は選択科目ではない。直観と感受性と創造性を育むための 、人間性を育てるための必修科目である。
「俺はスポーツ系」だからとか、「俺は理系で芸術は苦手でね」「好きな人はやればいい」「そんな高尚なねえ」などといって芸術に接することを避けて、それを何とも感じない人が多い。しかし脳の働きは科学的な真理を発見する直観と芸術的な直観を分けたりはしない。分かれていると思うのは人間の功利的な先入観 が別のものだと思わせる錯覚である。
創造性も同じことだ。科学的な創造性と芸術的な創造性が別の脳の働きであったりはしない。悲しみや喜びを感じる感受性も心の世界に触れる体験がなければただの快感と不快感になってしまう。今の世の中、哀感や感傷や、真善美に共鳴する喜びを感じる感受性を失って、ただ快感と不快感だけで生きている日本人が実に多い。感受性という点では、どんどん人間が動物に近づいてしまっているようである。
人間らしい感情を持つには、情緒的な体験がなければならない。音楽でも絵画でも詩歌や芸術的な文学・演劇・映画(即物的な代償満足得るためのようなものはダメだ)でも何でも良いが、ともかく自分の感受性や想像力を育むものに接することが必要だろう。昔から文武両道という価値観がある。戦国時代の武将は好んで古典や能などの芸能、文学や禅や茶の湯などに接した。それは決して見栄などではない。戦闘という即物の極に身を置いていたからこそ心の糧を求めていたのだ。『平家物語』を読めば、猛々しい武者が、人間の悲哀に触れてしばしば泣く場面が出てくることに気づくだろう。
現代の日本は専業化や専門化を正当化して、人間の精神活動をひどく歪曲してしまっている。一般の人間が芸術に接することを、ただの遊び、趣味、果ては無駄と貶めてしまっている。
どれだけ物質的に豊かになっても、人間らしい感受性が無ければ、それを享受しても何にもならないだろう。給料は高給を与えるが、それを使う時間は与えられないというのと同じだ。人は何の為に生産しているのかという意味が逆転してしまっている。
即物的、功利的な価値を追い求めて、芸術を軽視して、多くの日本人が直観や創造性や感受性を失うことになれば、新たなアイデアを生み出す力も失って、生産の拡大という即物的、功利的な目的も 、結局挫折してしまうことになるだろう。
老人の使命は、後の世代のために「種を残して枯れて行く」ことだろう。
60歳からの人生を、第2の人生というが、それが「今までに出来なかった楽しみを求めること」だろうか。或いは「健康で長生きすること」だろうか。老人が自分の「安全・安心」や個人的な快楽を生きがいにして生きれば、日本を支えて行かねばならない若い世代が迷惑するだけだろう。
老人というのは、人生経験と、事態に対処するスキルにおいてのみ、若い世代よりも優越しているだろう。それを生かさずに自分の利益を求めて生きるとすれば、老人は、社会的には不要で迷惑な存在でしかなくなってしまう。それは老人自身にとっても不幸なことだろう。
若い世代は、生活のために、不本意でも採算を考えて、生活するための所得を求めて仕事しなくてはならない。しかし天災と遭遇した時のことを考えればすぐにわかることだが、利益がなくても、何の得にもならないことでも、せざるを得ない仕事というのは無数にあるだろう。災害時のボランティアだけではなく、日常生活のうえでも、損得では計れない必要な仕事というのは山ほどあるだろう。
何でも金銭で計る戦後社会の価値観が、その損得では計れない仕事の存在を見えないようにしてしまって、人の善意志を荒廃させてしまっている。60歳からの人生は「おまけの人生」である。そのことは、採算では計れないけれど、社会に必要な仕事を担うに相応しい世代的役割を持っていることを意味するだろう。
自分の経験や、蓄積したスキルを整理し伝えることも大きな世代的役割だが、採算を考えれば手を出せないような商売や仕事を請け負うことも老人の世代的役割だと思う。そしてその役割を実現することこそ、老人にとっても幸福であるに違いない。
韓国や中国を含めて、日本は市民革命を経験したことのない唯一の先進国だろう。それを自覚しなければ、その毒が日本を再び閉塞と荒廃、破局へと向かわせる。
ヒトラーは世界で最も民主的な憲法といわれたワイマール憲法下の制度を利用して、独裁政権を樹立した。その憲法は第1次世界大戦のドイツの敗北から生まれた憲法だった。日本の今の憲法も第2次世界大戦の敗北から生まれた憲法である。その「まま子」扱いの憲法が戦後60年の民主主義社会を実現したのだが、今の憲法を「実の子」と思う人は少ないだろう。
今の日本の民主主義が「貰いものの民主主義」でしかないということは、民主主義を維持し、発展させる「主体」が自分自身であるという実感を持っている人が少ないということだ。民主主義的主体としての自覚の代わりに、日本人が「安全・安心」の拠り所にしているものが「身内意識」と「衝突回避」の心理だろう。「身内」「よそ者」の意識が「私的な身内」の形成と、「イジメ」という、「よそ者」の排除の心理を生み出し、「安全・安心」を求める心理がそれを助長する。それは「身内」との「衝突回避」からさらに、「権威」や「多数」との衝突回避の心理へと助長して行く。
橋下大阪府知事が大阪市長選に出馬すると言明したというニュースが今朝のニュースに出ていたが、彼は、実にヒトラーと同じことをしようとしている。今の民主主義のシステムを使って、今の民主主義を殺し、国家主義的な強権政治を実現しようとしているのだ。日の丸・君が代に敬礼することを義務付ける条例を作るなどの国家主義的体質に加え、大阪都構想などの大風呂敷もヒトラー的と思えるし、ナチズムの理論であった社会ダーウィニズム的な競争主義も「学区廃止」の政策などに現れている。
そもそも、自分自身が弁護士でありながら、光市の母子殺人事件の犯人を弁護する弁護士を、メディアを使って叩き潰そうとする精神自身が、すでに狂気を孕んでいる。一般の市民ならいざしらず、弁護士としての職業的使命感があれば絶対に出てこない精神だろう。凶悪犯罪を犯した者は、一切弁明の余地を与えず抹殺する精神だと考えざるを得ない。橋下を生み出した力というのは、NHKを除く民放のメディアの力だが、この民放メディアをコントロールしているのが経団連、財界だろう。そのコントロールによる国民の洗脳によって、ブレーキのない車を走らせるような原発推進政策を生み、それが現在の放射能汚染の問題を引き起こしているのだ。
残念なことだが、市民革命の経験を持たない、「衝突回避」する多数派日本人の体質は、戦争か天災によって破滅するまでブレーキが利かないだろう。僕に出来ることは、その有様を市井の中から見つめ、見たものを次の世代に残す他はないようだ。
使っている鍵はいつも光っている。(B.フランクリン)
年を取ったと言っても、まだ61歳なのだが、それでもあちこちが錆ついて来る。身体はもちろんのことだが、知的、精神的な面でも錆ついて来たなという自覚がある。それでも、毎日新しい本を読んだり、初めての音楽を聴いたりすれば、知識や経験は増えていることも確かだ。読んだ本の内容は少しは覚えているのだから。
脳学者が脳細胞は死ぬまで学習すると言っていたが、それは証拠があってのことなのだろう。
せっかく脳細胞が学習しようとしているのに、頭脳を使わず錆つかせることはないだろう。錆ついた老人が幸福だとはとても見えない。やはり光っている方が幸福に違いない。僕は、役に立つかどうかは後輩にまかせるとして、ともかく自分の人生を整理し、残すことが老人の仕事だと考えているが、そのためにも、それでなくても貧弱な自分の頭脳を錆つかせてはならないと肝に銘じている。
海の他何も見えない時に、陸地がないと考えるのは、決して優れた探検家ではない。 (F.ベーコン『学問の進歩』)
戦後の即物的な風潮は、「見えるものしか信じない人々」を大量生産してきた。いわゆる「現実主義者」と自認する人々である。経団連の日本生産性本部によって焚き付けられ、広範な民衆を洗脳した「利潤原理」や「個人間競争」の正当化は「結果主義」「成果主義」というとんでもない思想を常識にしてしまった。
「結果主義」「成果主義」というのは、見えるものしか信じない典型的な姿である。こんな思想が蔓延すれば、失敗の蓄積によるノウハウの獲得という「過程主義」は死に絶えてしまって、成功の模倣だけが蔓延してしまう。結局、進歩のための努力に大きな障害となってしまうだろう。見えるものしか信じない人間は当然ながら無能である。しかし計算できるものしか信じられない人間も、やはり臆病で暗愚である。 情勢を正確に判断出来る理性を持ち、さらに可能性に向かって針路を決断出来る者こそ、真に優れた探検家だろう。
これは何も選ばれた者だけのことではないだろう。我々凡人の人生においてもこのセオリーは変らない。平凡な人生でも、賭けに出なければならない局面は何度かあるものだ。その時に、何の計算もせずただ猪突猛進するのも愚かだし、勝算が見えないといって諦めることも愚かである。
「細心にして大胆(大胆にして細心ではない。細心が先にあるべきだ。)」というのは最も合理的な勝利の方程式である。
良心こそわれわれの持っている買収のきかない唯一のものである。(フィールディング/18世紀のイギリスの作家)
買収されない良心を持つことは自分の世界を持つということである。目先の利益のために自分の良心をすてることは自分の世界を捨てることである。他人の世界に追随して、自分の世界を捨てれば、その時だけの卑屈な快楽を得ることは出来るが、最も大切な自分の居場所を失ってしまう。良心とは「真・善・美」を求める心である。「真・善・美」というのは、同じことの異なる視点からの表現であり、そのものの本性が実現された姿を言う。 「真」とは、文字通り、そのものの見かけではなく、本質のことであり、「善」とはそれに到達しようとする意思のことであり、「美」とはそれが立ち現れた姿のことである。それは人間にとっては 自分の本質、自分が内在している能力と可能性を実現することであり、同時に人と社会が内在している可能性を育み、その自己実現を助けることである。人の幸福はその中にある。つまりは良心の中にこそ幸福はあるのだ。
だから良心というのは自分を捨てて人の利益を図るというような難しいことではない。人のものを奪うのではなく、自分の中にある可能性を育てる気持ちに立てば、おのずと嫉妬や人の価値を否認する心は 退き、人の価値に憧れ、感動する心に変るだろう。そうすれば、自然と人の個性を育み、そこから学ぶ心が生まれてくる。平たく言えばともに助け合い、ともに育み合って、お互いの人生を豊かにしてゆこうということが良心なのだ。お抱え運転手を持つことよりも、自分で運転できる方が良い。豪邸を与えられて、かわりに好きなことを禁止されるよりも、小さな借家でも、その中で自分の生きがいに出来るようなものを持っている方が良い。自分が成長し、完成してゆく喜び、愛する人、愛する社会が豊かさを増してゆく喜び、それを願う心が良心である。
人生というのは描きつくせないほど広いキャンバスだ。それなのに、たった18才で、一流大学に合格したからといって、それでゴールに到達したつもりでいる 、あとはその報酬としての快楽を得るだけだと考えているような、そんな若者がいる。そしてただ餌場に餌を取りに行くような就職をして、毎日々々、餌場に通い、目先の快楽を追いかけて生きるというのだろうか。
何度も失敗し、様々な可能性をためし、様々なことを経験したら、たとえゴールにたどり着けなくても、その道のりだけでも価値がある。 凡人の人生は各駅停車の旅である。しかし各駅停車の旅は特急列車に乗る人間には得られない本当に旅をしたという価値がある。
もちろん、ただ止まった駅で寝ていたのでは何にもならない。しっかりとその駅で得られるものを体験することが、凡人にとっての人生の秘訣だ。才能がない故に、苦労して技術を得た人ならば、左うちわでこなす人よりも、 はるかに上手に、出来ない人に価値あるアドバイスをするだろう。ただしその場合 でも自分の進歩の奇跡を再現できるだけの、自分を観察する努力がなければうまく伝えられない。
繰り返す平凡な日常の中の平凡な生活の中に、変化してゆくもの、育ってゆくものを観察する力は、才能ではない。習慣だ。そして人より劣っていることなど気にせず、自分の能力を使って、与えられた条件 に応じて、目的を探してゆけば、平凡な人生でも、一生かかってもやり切れないだけの仕事があるだろう。
夕暮れ時に散歩をすれば、貧しい家の軒先でも、暖かな愛情に満ちた家族の笑い声が聞こえてくることもある。自転車に乗れるなら、日頃行かない隣町に出かけてみる と思わぬ風景に遭遇するかも知れない。そうした気持ちで一日々々の経験を財産にしてゆくことだ。
人生の意味は、仕事の中にも、家庭の中にも、自分が打ち込んでいる趣味の中にも、友達付き合いの中にも、あるいはボランティアや社会運動の中にもあるだろう。それらすべての 関わりの中で、全人格的な自分の可能性が生き生きと実現できている時、どんな平凡な人生でも輝いているに違いない。成功をしないということは感謝すべきだ。少なくとも成功は遅く来る方が良い。その方が君は徹底的に自分を出せるだろう。(モロー/フランスの画家)
悪貨は良貨を駆逐する(グレシャム)という言葉があるが、これは自然現象ではなく、人間の心理現象である。
だから人間のかかわるものには何にでも通じる。本当に日本や日本人のために有益な、有能な人は雌伏し、権力欲や支配欲、出世欲、名誉欲、自己顕示欲で「なりたがる」人間が政治家になったり、組織の中で出世する。 今の日本は、クレイマーやモンスター・ピアレントに類する人々が、さまざまな所で主人公におさまっている。一方で「イジメ」や「仲間外し」がいたるところに蔓延している。競争の煽り炊きつけと自由の履き違えが生み出した世相である。理想や善意志を形成する思想は耐えて久しいから、こういう風潮に歯止めがかからない。
戦前、現実主義者とは軍国主義者のことであった。合理主義的に考えて、英米と戦争するのは無謀だと言って日米開戦に反対する人を、彼らは「アカ・非国民・国賊」と罵って弾圧した。その軍国主義者が戦後は自分のことを自由主義者と言っている。彼らは戦前、戦争に反対した人々を弾圧したことを何とも思っていない。いま自由主義や民主主義を標榜していることと何の矛盾も感じていない。
目先の欲を追いかける者、「なりたがる」者が、良識ある者、合理的に将来を予見し警告する理性と見識を持った者を排除するという構造は今もまったく変わっていない。
それでも社会が成り立っているのは少数の有能な本物のエリートと働き蜂の大衆がいるからだろう。それで成り立っている社会に、多数の見せかけのエリート、名誉と地位だけ欲しがるだけで何の内実もないエリートがたかり、社会を腐敗させ、さらには火遊びをして社会を混乱させているのだ。
しかし、本物のエリートと誠実で勤勉な大衆はどんどん数を減らし、もはや日本を支えきれなくなってきたように感じる。悪貨が良貨を駆逐するのを放置するなら、社会は混乱し閉塞する他はない。今の日本の政治の腐敗、社会の閉塞状態を考える時、エリートの中の悪貨を取り除く「選銭」が何よりも必要である。
君が智恵を学ぼうとするなら、人に笑われるであろうこと、「あいつは急に哲学者になってきたぞ。何だって我々にえらそうな顔をするのか。」と、嘲りながら言われるであろうことを覚悟しなければならない。
君はけっして傲慢な態度を示してはならない。ただきみが最善を認めるものを固持せよ。そしてこれを守って動かぬならば、初め君を嘲笑した者も、後には必ず賛嘆するであろうことを確信せよ。しかし彼等に譲歩するならば、彼等はきみを二重に嘲笑するであろう。(ヒルティ『幸福論』)僕はヒルティには比べるべくもない、爪の垢以下の存在だが、ヒルティと同じヒューマニストであり、理想主義者である。そして60年の人生の中で、ヒルティと同じような経験を何度もしてきた。
人の価値を否認したり、偏見で見たりして、ネガティブな方法で自分の心理を安定させるために、人の行為や言動を攻撃したり非難するというのは、 倫理的な未成熟を意味するが、得てしてその人の思想の中に雑草のようにはびこるものだ。そういう人からの攻撃は、それを知って受け止めなければならない。彼の敵は自分ではなく、彼の心の中にあるのだということを。人の対人関係や社会性は子供の頃の同質的な対人関係から、異なる性格、価値観、能力を持った人にあこがれる相補性へと発展して成熟するものである筈なのだが、他者の才能や自己実現、善意志や理想を否認することで、自分を守ろうとする人というのは、相補的的対人関係を放棄することになり、必然的に自分の精神空間を制約してしまう。それは当然、その人の人格的、思想的な成長を阻害することになるだろう。
思想というのは、「価値判断の基準」であり、「生き方の設計図」なのだから、思想的な成長が阻害されるということは、非常に狭い視野でしか価値判断が出来ず、自分の人生を理性的に見通した目的意識を立てることが出来ないということになるだろう。同質性のみで人と繋がろうとする典型が不良グループや、自分の思想を暴力的に他者に強要しようとする右翼などだが、最近は右翼や不良グループなどだけではなく、広く同質性で繋がる傾向が見られるようになった。しかも同じ趣味を持ったということでさえなく、同じような経済状態、同じような成績などという、ただコンプレックスから逃れるためだけのような人間関係で固まろうとする人が目に付く。つまり、日本人の相当に多数の人が相補的人間関係への脱皮をせず、「不良化」してしまったと言えるのではないかと思う。
そういう人にとっては、自分にない才能を持っていたり、自分の持たない理想や善意志を持ち、自己実現をしている人が、自分の人間関係の中に入ってくることは、自分の「安全・安心」を脅かすものとなるだろう。そして否認と排除によって自分を守ろうとする習性が発揮され、その「身内」ではない者、「よそ者」「異質物」を非難したり攻撃をするのだ。
こうした「よそ者」「異質物」を排除して自分の居場所を守り、欲求を満たそうとする習性を身につけてしまった人には、決して妥協してはならない。妥協すれば彼の心の中にある否認や偏見 の習性は増幅するだけだろう。
淡々として、自分が確信する真理に向かって歩むことが、結局彼と和解する、好意までは行かなくとも、不毛な悪意を自分に向けてくるのをやめさせる唯一の道なのだろうと思う。
老人という存在を輝かせるものは、ただ「思想」のみである。
年を取れば体力はもちろん、新しい技術や知識を吸収する力も衰えて行く。そして老人の仕事は、そもそもそんなところにはないのだ。老人の仕事とは「伝えること」である。そのためには新しい技術や知識を吸収することよりも、むしろ自分が蓄積してきた知識や技術、経験を整理するために残された能力を使わなければならない。新しい技術や知識の習得は、その仕事のために限ってすべきである。
蓄積された技術、知識、生活の経験、事件に遭遇した体験、内省的体験などを整理してゆく時、おのずと人が生きることの意味と本質が見えてくるだろう。人の人生全体を俯瞰する目、それが本当の「思想」である。「本当の」と僕は言ったが、「思想」というのは、単に目先の「価値判断の基準」ということだけではないということである。人生全体に渡って通低する生き方の原理というものでなければならない。それを語る立場にあるものが老人である。
だから、思想を持っている老人は、おのずと存在感が現れるだろう。しかも自分の人生の体験に裏打ちされたものだから本物である。人生の半ばにある者は、その後の後半の人生を体験していないのだから、どこまで行っても「仮説」であることの難を免れない。老人には体験したという発言力がある。
老人に思想という、老人唯一の存在価値がなかったら、老人はただ醜く朽ち果てる他はない。どれだけ新しい体験を求めても、まして単なる新奇な快楽を求めても、全く無意味である。自己満足すら砂に水を撒くように消えてゆくだろう。
そして、人間の精神というのは、使わなければ簡単に錆付いてしまう。錆付いてしまった老人の姿を、嫌というほど街で見かけるが、その姿は人から見て、見苦しいだけではなく、本人自身も決して幸福ではあり得ないだろう。
錆付くのを防ぐためには、使い続けることである。もちろん新しい知識や技術を得ることも、確かに精神を使うことだろうが、個人差もあるだろうが、それは自分の容量を無意味・無目的に使い果たしてしまうことになる。
老人の仕事は「残す」ことである。そのために過去を整理し、反芻し、そこから新たな認識を得る。そのためにこそ使うべきだろう。
迷誤に至る道は無数にある。しかし真理にいたる道はただ一筋である。(シラー)
世間が価値だというものだけを追いかけて、安全・安心と、あとは行き当たりばったりに、目先の楽しみだけを追いかける人生で良いのならば、真理などは必要ないだろう。
しかし、自分にとっての最良の人生を、最善の自己実現したいと思うのならば、真理とは何かを思索することを避けて通ることは出来ないだろう。それは「疑い得ないことは何か」ということを、一つ、一つ積み重ねる努力である。
僕はまず自己実現ということ、「その人にとって生きることというのは、その人が持てる能力と可能性を形にすることだ」という考えをまず最初においた。
その次に僕は「愛とは価値を認めるものを生かしたい、育みたいと思う気持ちであり、欲とは価値を認めるものを奪いたいと思う心だ」と考えた。
その次に僕は「信仰とは〈見えるものしか信じない〉という蒙昧と傲慢を捨てて、自分を生かし、育んでいる真の力を知り、それに帰依することだ」と考えた。
その次に僕は「職業とは自分が持てる能力と可能性の中で、社会が必要とし対価を支払ってくれる仕事である。真に自分の生涯に大切な仕事は職業にしている仕事であることの方が稀だ。だから職業以外の自分の自己実現、生きがいは、たとえ職業を捨てても、決して捨ててはならない。」と考えた。その様に疑い得ないものは何かという思索を常に積み重ねる努力は、自分の価値が社会でどのようなものであれ、自分にとっては最善の人生をつくる唯一の道だと考えた。
たとえば音楽の形式のように
その制約の中にこそ
美を創造する自由がある
たとえば生活の貧困の中に
わずかな自分の持ちもので
宝石のように輝く生活をを築くなら
ふりかかる困難や苦しみの中で
戦い乗りこえる智恵と勇気を得るならば
人の人生は芸術となる。目先の快楽、安逸や飽食、家柄や学歴、社会的地位などが与えてくれる既得権を捨てるというのは勇気のいることである。
生理的な欲求や自己保存の欲求、人に愛されたい、保護されたいという求愛欲求、人から認められたいという名誉欲や出世欲などの認知欲求、さらには支配欲など、そのような低次の欲求から、より高次の、自分の持てる能力と可能性を形にしたいという自己実現欲求や美しく生きたいという審美的な欲求へ飛翔するには勇気と決断と忍耐がいる。しかし一度その世界へ旅立てば、その世界は無限に広い。既存の価値や目先の快楽に満ち溢れた世界は狭く、真善美を求める世界は果てしなく広いのだ。未踏の荒野に踏み込めば、その世界は今日の命をつなぐ糧もおぼつかないかも知れない。しかし荒野の中で得られたわずかな材料を、工夫し、作り出したものは、すべて自分の世界、自分の宇宙になるのだ。
その自由の荒野は、何も修行僧のように在家の世界を飛び出さなければ見つからないというものではない。日々の平凡な生活の中にも、目を開けば無限に広がっているのだ。繰り返す日常の中に変化し成長しているものを発見する目、何気なく見過ごしていたものに新たな価値を発見する目、そして何よりも既存の与えられた価値を求めて生きるのではなく、どれだけ 人より劣っていても自分の固有なものを作りだす能力を磨くことである。
子供の頃に、木切れやボール紙や電池、豆電球を使って家やお城を作ったように、その心をいつまでも持ち続けるところに自由の荒野がある。それは能力の問題ではない。捨てるか捨てないかだけの問題だ。自分の創造性を劣ったみすぼらしいものと考えて捨ててしまったら、もはや自分の世界 を作れる筈がない。
もし自分の創造性を保ち続けるなら、無限の世界はすべての人に用意されている。自分の能力がどんなに平凡でも、そこには一生の内にやり尽くせないほどの仕事がある。
皮肉屋はあらゆるものの価格を知っているが、何ものの価値も知らない人間である。(オスカー・ワイルド)皮肉というのは、結局自分の心理を安定させようとする心の働きで、いかにひねくれた批評を下そうと、その心理は小児的なものだろう。 自分の立場を守り、鬱陶しいもの、不都合なもから目を背ける否認の心理だと思う。
それは決して新たな価値を発見する精神ではなく、屈折しながらも既存の価値に拘泥していて、自分の立ち位置に矛盾するような、新たな価値や考え方が自分の価値観をかき乱すことを恐れているのである。皮肉屋の皮肉の多くは、人の正義感や善意志に向けられるが、例えば「戦前は国家主義を賛美し、お国のためにと戦争に賛成していた同じ人間が、戦争に負けたら、今度は人民の為に、個人の尊厳のためになどと社会主義やリベラリズムを吹聴する」というような見方をする。
この皮肉屋は、国家主義と社会主義やリベラリズムの両方を批判しているポーズをとり、自分では両方見ているように装って、視野の広さを見せようとしているが、人の善意思をこき下ろし、懐疑に身を寄せながら、本心は戦前と同じように体制に依存する精神を持っているのだろう。社会主義思想の原点は、貧しい人が、貧しさの故に、自己実現の機会を奪われてはならないという「平等主義」の考え方である。過去の社会主義国家がその理想と乖離していたからといって、「機会均等」の原則が否定されるものではない。これから後の歴史も、必ず「機会均等」を実現し得る社会が、「最大多数の最大自己実現」を可能にする筈で、さらに言えば、平均以下の下積みの人々の能力が最大限に自己実現される社会、それが最も生産性の高い、豊かな社会を実現することは疑いがない。
裕福な者たちが、専門的職業や社会的地位を独占してしまったら、その社会は必ず衰退してゆくことは自明の理であり、歴史はそれを証明しているではないか。本質的な価値を見出す自分の目を持たず、ただ今の世間的な評価だけを知っていて、ものを見、値踏みする人間というのは、例えば芸術に接する時のことを考えてみればわかることだが、自分の固有な世界を持っていないから、新たな価値に出会った時、自分の目で 新しい価値を見つけることが出来ない。それがどんな賞を得たか、権威のある人がどんな評価をしたか、どんな経歴の人がそれを作ったかなどという知識で判断し、ただ「誰々の作品に似てるね」などと既存の価値に結び付けてすませるのだ。
こういう値踏み根性だけで出来ている人間というのは、人の価値が見えず、既存の価値になぞらえて皮肉に見ることしか出来ない。だから、 新しい価値を発見することはもとより、本当に人の個性に触れるような人間関係も作れないし、自分の世界を持つことも出来ない。
私たちのまわりになければならないのは、快楽ではなくて人生です。(ライナー・マリア・リルケ)幸福とは安全・安心を確保して、欲望を充たし、快楽を得ること、幸福とは地位や名誉や財産など人々が価値だというものをより多く得 、人との競争に勝ち、人を支配し服従させること・・・・・。即物的な現実主義者の言に従えば、実に単純明快である。
ところで、彼は自分の手で庭に撒いた花の種に、水をやり、肥料をやって、芽を出し、毎日少しずつ背を伸ばし、やがて誇らしげに満開に咲かせた花を見る喜びを知っているの だろうか。
生まれた子犬にミルクをやり、餌をやり、病気にならないように気をつけ、一緒に遊んでやり、やがて大人の犬に成長してゆく、育ってゆくものが自分に示す求愛と信頼、それを育もうとする 心。そういう経験を彼はどれだけしたこがあるのだろうか。
芸術にふれ、文学を読み、そこに描かれた美や真実に同化し、一体となった時の喜び。それを彼はどれだけ体験したのだろうか。
人に遅れても、初めて自転車に乗れた時の喜び、誇らしさ。たとえ下手でも、自分が持っている能力が発揮されることの喜び、自分で考えた自分のアイデアで、自分で工夫したものを作る喜び。それを彼はどれだけ経験した のだろうか。
家族や職場、サークルなどの人々とのつながりの中で、人々が持っている可能性を実現するために、挫折や障害や困難を克服して、ようやく一つ何かが実現した時の充足と感動、それを彼はどれだけ体験したの だろうか。地位や名誉や肩書や富や、現実主義者が指標にしているような価値には、一切縁がなくても、自分の家族や仲間を、自分の世界を育んで生きている人がいる。「大草原の小さな家」のローラのお父さんのチャールズのように生きている人がいる。
いなごや竜巻に襲われて、取り入れ間際の収穫が全滅しても、借金の形に大切な馬が人手に渡っても、「大きな損にも、必ず小さな得が残っている」といつもの口癖を呟きながら、全滅した小麦の藁を 町に売りに行き、明るい笑顔をローラに向けるチャールズのような人がいる。ローラの物語は作り話ではない。典型的な庶民階級の平凡な貧しい農夫の家庭の実話である。生きようとすれば必ず障害があり、困難がある。生きようとすればこそ不幸に直面し、悲しみ、苦しみ、絶望する。 それでも命ある限り、起き上がり小法師のように自分を育み、家族や周りの人々を育み、持てる力で自分の世界を築こうとする。
これが 僕の 戦いだ
あこがれに 身を清めて
日々をつらぬき進むことが
それから 強く どっしり
幾千の根を張って
人生に深く食いいることが ―――
そして苦しみを通して成熟し
はるかに「人生」から 立ち出ること、
はるかに「時間」から 立ち出ることが! (ライナー・マリア・リルケ)
Woltuen, wo man kann,
Freiheit über alles lieben,
Wahrheit nie, auch sogar am
Throne nicht verleugnen.
出来るかぎり善を行ない
何にも まして自由を愛し
たとえ王の側であろうと
決して真理を裏切らず (ベートーベン)
ベートーベンが22歳の時の言葉である。ベートーベンはボン大学在学中に、フランス革命を擁護するシューリヒトから大きな影響を受けた。この年、ハイドンに作曲法を学ぶためボンを離れウィーンに旅立つが、その時の記念帳に記された言葉だという。
フランス革命は理想とは裏腹に恐怖政治をもたらし、恩師のシューリヒトもギロチンの露と消えたのだが、ベートーベンの理想と信念は終生変わらなかった。それがシラーの詩による第九交響曲として結実する。
救いは「育む心」の中にある。堕落と退廃の中にしか居場所を見つけられない人がいる。人の幸福を嫉妬し破壊することでしか満足できない人がいる。地位や既得権にしがみつくことでしか、生きる糧を得られない人がいる。それはブラックホールのように抜け出すことの出来ない人生の罠だ。彼らはそこに安住することしか生きる術を知らない。生きることが 自己実現すること、自分の力で、自分の持てる能力と可能性を形にすることだということを知らない。そして多くの場合、罠のなかでうごめきながら死んでゆく。
どれだけ正論を説いても、彼らにはよそよそしい、嘘々しい、きれいごととしか感じられない。そんな人が救われるのは理屈ではだめだ。人の愛か、それもだめなら信仰しかないだろう。
ところがそういう人は、たいてい宗教から得られる即物的な効果を求めるから、オーム真理教のような、顕示的な、毒々しい宗教に引っかかってしまう。
呪縛する宗教は偽の宗教である。神の仕事は万物の自己実現である。ならば、・・・しなければ祟りがあるなどと、自己実現しようとする人を呪縛する筈がない。神はただすべてのものを育むだけである。絶望の中で、どうしようもないと感じた時には、「持てる力を育め、残されたものを育め、自分 を、繋がる人を、育め、育め・・・・・」と何度でも念じてみればよい。
命は残っているはずだ。身体は残っているはずだ。考える力は残っているはずだ。紙や鉛筆は残っているはずだ。少なくとも自分の話しを聞いてくれる人は探せばいるはずだ。それらの価値をかけがえのないものと見出した時に、人は生きる意味を知るだろう。「育む心」という言葉はいかなる呪文よりも救いになるに違いない。それはどんな絶望の中にあっても、救いは育む心の中にしかないからだ。そして祈りというのは、心の奥底の中に沈んでしまった力を引き出す力を持っている。
歴史を記録することによって社会が進化を遂げるように、日記をつけることによって、自己が進化する。他のことはどうでもいい。すべてが3日坊主でもいい。ただ日記を書くことだけは生涯続けることだ。そうすれば人と比べてどうであれ、少なくとも最大の自己を実現出来るだろう。
1.国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
1.人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
1.国家人民のために立たる君にして君のために立たる国家人民にはこれなく候 (上杉鷹山)日本にも、聖徳太子のような伝説上の聖君だけではなく、実際の治績をともなう、このような世襲君主もいたのだ。細井平洲の薫陶もあるが、「・・・・心に自慢なき時は人の善を知り 、心に迷いなき時は人を咎めず」という先祖の上杉謙信の言葉も、そのルーツにあるのだろう。日本人も捨てたものではないと思いたいのだが・・・・。
運命が僕から、何もかも奪ってしまったとしても、僕の意思まで奪い去ることは出来ない。
何もかも失い、あるいは最も大切なもの、かけがえのない人を失った時、僕らはすべてが空しく、生きることに意味を感じられず、もう生きていてもしかたがないと思うかの知れない。
しかし愛する人は僕の心の中に生きているではないか。僕が死んでしまったら、心に残された愛する人も死んでしまうではないか。生きてきた道が、未来への道程である。過去は心の中に実在するのだ。すべてを失っても過去を失うことはないのだ。過去を創造の中で再生しよう。一切のものは創造の中で蘇るのだ。すべてを失っても、なお生きて行く、それは失ったものを生かすことではないか。自分に残された可能性を実現しようと思うことが出来れば、その意思の力を持つことが出来れば、人は生き続けることは出来る。行き続けることによって、失ったものに辿り着くことが出来るのではないか。
僕らは失業したり商売に失敗したり、大きな挫折に遭遇するとやる気をなくして捨てばちになるのかも知れない。しかし大きな物を失った時に、よく探してみると、かならず何か、小さな役に立つものが残されている。そのわずかに残されたものを育む心。その愛が本物の人生を再生させる可能性を持っているのだ。
ローラ・インガルス=ワイルダーの『大草原の小さな家』の話の中で、ローラのお父さんチャールズが、いつも言っていた。「大きな損をした後でも、探せば必ず小さな得が残っている。」と。日本の民話『猿蟹合戦』の中で、蟹がだまされておにぎりと交換した柿の種を大きなりっぱな木に育てるというのも、同じことを言っているのだろう。残された種は、往々にして、失ったもの以上に大きな木を育てる。
挫折の後に残されたものに自分の活路を見つける心を持っているか、それとも捨て鉢になって、リセットスイッチを押そうとするのか。それが人の人生を隔てることになる。人間は大きな破壊、大きな喪失、大きな停滞を経験した時、過去を振り返り、過去を再生させることによって再び新たな未来を築いてきた。古代ギリシャ・ローマ文化の知恵を復元しようとしたルネサンスの精神が近代文明を築いたように。
しかしそれは決して過去を繰り返しているのではない。過去の人々が築いた知恵、精神を再生させることによって新たな未来を創造しているのだ。それを誤ると、単なる「復古主義」「反動思想」になってしまう。人が歴史から学ぶというのは、過去の進化の「公式」を復元しているのではなく、進化の根源となる「微係数」を復元しているのだ。それが歴史の意味だろう。それが人類の「類的生命」、人間という個体にとっての「永遠の生命」「彼岸」ということだろう。
愛する人が、非業の死を遂げても、それは生き残った人の心の中で生きてゆく。それを切り捨てたり、歪曲してはならない。その事実をそのままに受け入れ、生き残った人の心の中に生かし続けなければならない。そのことの中にのみ開かれた未来はあるだろう。そのことの中にのみ人間の「永遠の生命」があるだろう。
幸福は自足する人のものである。(アリストテレス『エウデモス倫理学』)
自分の世界をもって、自分に与えられた能力と可能性を形にすることが自分の生き方になれば、おのずと自己実現することが幸福になるだろう。しかし、しばしば世間の人は、それが世間の認める価値でなければ「自己満足だ」とか「そんなものが何の役に立つ」とあざ笑う。そんな言葉に惑わされてはいけない。
自分の個性、自分の内なる欲求に発する、自分の世界を持たなければ、どれだけ世間的な価値を手に入れても自己実現にはならないし、本当の充足感は得られないだろう。ただ目先の快楽を手にして、束の間の満足を得るだけだ。そしてまた次の快楽を探してさ迷わなければならない。
少数でもいい、僕を真に理解してくれる人を探そう。僕と同じように、凡庸無才でも、自分の世界を育み、それを大切にする人を探そう。彼の世界と同じように僕の世界を理解してくれる友を。この広い世界に、僕と同じような人がいない筈はない。
肉体の奴隷である者が、どうして自由であろうか。(セネカ)
人間も動物である以上、肉体的・物質的な欲望を持ち、自己保存をはかり、不快を避け、快感を求めて生きるのは自然の摂理である。ただそれ は動物性であって、人間性ではない。
動物的な欲望だけに支配され、動物的な本能だけに呪縛されて生きるならば、人間的な精神的価値、とりわけ感じ、考え、育み、創造する固有な精神的空間を持つという人間の本性がその下位に置かれるなら、彼は動物としては人間であっても、人間としては人間ではない。そしてもとよりそこには自由などはない。自由は人間固有の精神世界の中にしか存在しないのだから。しかし日本人の多くにとっては「自由」はいまだに外来語である。自由とは「勝手、気まま」のことだと思っている人がいる。「勝手、気まま」は、ただ快楽を追いかけ、居場所を奪い合うだけだ。自分の 持っている能力と可能性を育て、自己実現するという自由を忘れさせ、身動き出来ない自分を作ってしまう。倫理的な、審美的な人格を育て、美しく、豊かな自己を完成するという最も人間的な精神の自由を奪ってしまうのだ。
欲望を否定することは、人間であることを否定することには違いない。しかし、過食が健康をそこなうように、際限のない欲望は人間性を破壊すると言っているだけのことだ。そして充足することの喜び(束の間の快感ではない)を忘れさせてしまう。
自由を求めるなら、幸福を求めるなら、自分に与えられたささやかな能力と可能性を実現する喜びを知らねばならない。その小さな喜びを想像し、反芻し、 心に再現できる感受性をもたなければならない。その感受性があればこそ、自分の精神の空間をどこまでも広げて行くことができるのだ。真の自由はその中にこそあるだろう。実に「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテスは牢獄の中にあっても自由であった。「ユートピア」を書いたトマス・モアは死刑を宣告されても自由であった。
人間と動物を隔絶するものは、人間が「精神」を持っているということである。そして自由とは精神の所産である。精神とは可能性を想起する能力である。その空間の大きさこそが、人間性の大きさである。
断言と強情は、愚か者であることの明白な証拠である。(モンテーニュ)
断言と強情というのは、自分の意見を持たず、権威や権力ににすぐに影響を受ける人の別の側面である。つまりは自分の思想、人生観に確信が持てないから断定的になるのだ。本当に信念を持つ人は、自分が信念を持つに至った道筋を、決して断言的にならず、解き明かしながら話す。
利害や立場を自分の思想にする人は、真理を拠り所に自分の思想を築くという考えがないから、決め付けざるを得なくなる。決め付ければ決め付けるほど、自分の思想は不確かなものとなってしまう。しかし、昨今はやっている愚か者は、この種の人々ではない。断言しない、責任を伴うような自説を吹聴しない、一切を相対的だと考える、断定する者を隠避する・・・・・そうした責任回避の相対主義を匿名的に断定している人々である。これは結局、もっとも達の悪い「断言と強情」ではないか。
その背後には、やはり利害得失、或いは自分の心理の安定、自己保存がある。そのの色眼鏡で見れば、結局真実など何も見えない。現に存在するものを誤認してしまって、得を求めながら損をすることになる。今の世の中、「空気を読む」という言葉が何か常識になってしまってるが、この精神は多数派追随という相対主義の典型だろう。この種の人々は、「マイノリティーは排除します」という札を首から下げて歩いているようなものだが、ややこしいことには、この種の人々は、「マイノリティーを排除するのは人権を侵害することで、不道徳な行為だ」という「空気」が支配すると、知らぬ間にマイノリティーを擁護するような宗旨に、見せかけだけ、乗り換えることだ。
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「自由」が目的に適った秩序によって実現することは、泳ぎ方を考えれば容易にわかるだろう。泳法が自由に泳げる手段であるのと同じように、行動選択の自由もまた法と秩序の中でこそ実現されるのだ。
「自由」を勝手気ままのことだと考える人というのは、見ていると水の中でただあがくような行動をする。結局いくらも進むことが出来ず溺れてしまう。「我がまま」というのは、セルフコントロール出来ないことだから、必ず自分で自分をどうすることも出来なくしてしまう。最も不自由な境遇に、自分で自分で追いやってしまうのだ。