生きることの意味
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1.生きることの意味 僕は「生きること」というのは「自分の持っている可能性を形にすることだ」と考えています。そしてその中にこそ人は自分のアイデンティティーを見出すことができるのだと思います。たとえば花は、たとえ見てくれる人がいなくても、あるいは自分が人から賞賛されるような華やかな花でなくても、それをひがむこともなく、ただ自分が天から与えられた能力の中で精一杯咲くでしょう。 |
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だから趣味というのは非常に大切な自己実現の一部でしょう。趣味の方が仕事よりも大きな業績を残し、歴史に名をとどめた人も多いでしょう。伊能忠敬が商売を息子に任せて隠居してから、やりたかった天文学を勉強しはじめ、そして日本で初めての科学的測量地図作る旅に出たのは60歳の頃でした。これなどは趣味こそ自己実現という典型でしょう。 自己実現というのはプロになることではありません。プロになれるほどの実力がなくても、野球が趣味なら、町の草野球チームでやっていても充分自己実現でしょう。少年チームのコーチや監督として役立つことが出来れば、自己満足を超えた価値を生み出していることになります。
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3.心的エネルギー 生きることが自分の可能性を形にすることだということがわかっていても、それが出来ないということもあります。自己実現の道は、群れに従って惰性で生きることとは違うから自分で自分を走らせる自覚と力が必要です。
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5.孤立と孤独 日本という国は、内向的な人間にとっては非常に生きづらい国です。三重大学の集団セクハラ事件を考えてみると、いやがらせを受けたのが女だったから問題になったので、もし男だったら、怪我でもしないかぎり何の問題にもならなかったのではないでしょうか。そんな集団サディズムの標的にしばしば内向的な人間がなります。だから、内向的な人間も無理をして外向的な行動が取れるように自分を改造しようとします。多数に同調すること。しかも器用にそれが出来なければ、すぐにからかい・ひやかしの標的にされてしまいます。 内向的ということと意志の強さというのは別のものだから、内向的で多数に合わせて行動することが苦手で、反面はっきりした自分の主張や生き方をもっている人もたくさんいます。そういう人はよほど良い環境にめぐまれていないと孤立します。 孤立すれば孤独になります。孤独はつらい。寂しい。だから自分の世界を捨てて皆に合わせて生きるように努力するべきでしょうか。しかし、自分を捨てて皆に合わせたら、もっと大きな自我不確実感、自己喪失感が待っているのではないでしょうか。孤立を逃れても孤独を逃れることは出来ない。 ドイツの哲学者カントは「私は孤独である。私は自由である。私は自らの王である」と言っています。孤独に耐えてでも自分が自分の主人、王であれと言っているのですが、どんな人でも自分を支配する王にはなることが出来るのです。孤独はいやだから、奴隷でもいい、人と一緒にいたいと思うかもしれません。しかし、自分を捨てて多数に合わせて生きる中に幸福(自我充足感)があるとは思えません。 自分を捨てずに友達や恋人を求める道は険しい道かも知れません。しかし自分が自分の王であることが出来なければ、「自分の持っているものを形にすることが生きることだ」といっても、それを実現することが出来ないでしょう。世間や会社、仲間などの要請するものに応えることを生きることにしてしまうと、それに利用され、使い捨てられたら破滅するしかありません。自殺や復讐的な犯罪がここから生まれます。ブリジストンの元課長が起こした事件など、しばしばそんな事件が新聞に報道されていますが、それは氷山の一角で、無数の人が「自分の王」になる道を捨てた為に破滅してしまっているのです。
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6.競争と序列意識
いまの世の中、「競争は正義」という考え方が蔓延しています。競争によって個人も社会も進歩すると信じている人が多いようです。競争に勝った人が高く評価されるということは、当然相対的に競争に負けた人が低く見られるということです。その結果本当の実力よりも、競争に勝つ技術がはやります。 多くの企業では、競争によって社員の意欲を引き出し、下積みの社員も更に序列を作って、下積みの中で競争させ、意欲を引き出そうとしています。しかし、結局下積みの仕事などはスキルアップして勝てるような仕事はそもそも与えられていないから、上司や仲間に取り入るというような本来の仕事の能力とは無縁な「競争に勝つ技術」が横行するだけで、そのことがますます本当の実力を劣化させてしまうのです。今の日本の閉塞状況は、実はこの「競争の煽り炊きつけ」こそが原因しているのです。 たとえ競争すれば最下位であったとしても、走れないよりも走れる方が、自分のためにはもちろん、自分が生活している家庭や地域、仕事場、社会にとっても価値になることは自明のことでしょう。他人との優劣とかかわりなく、人が能力を身につけ、自己実現することの意義は「歩ける」とか「走れる」とかいう身体的能力だけではないでしょう。家庭や地域、職場でのさまざまな技術、創意工夫する能力なども同じことです。競争すれば最下位であろうと、何かが出来るということは、自分のためにも、人のためにも役に立つのです。 それに自分がスキルアップすることは、日本人の平均的能力がわずかでも上昇することになります。ドロップアウトして自己実現を放棄してしまった人が立ち直ることに成功すれば、日本人の能力の平均はそれだけ上昇するのです。日本人の平均的な技術力や教養、倫理観が世界の模範となるような水準になった時、日本は疑いなく世界の模範となるような社会になっているでしょう。 排他的に競争に勝つ人がヒーローになるのではなく、人の自己実現を助ける人がヒーローになれば、自己実現しようとする人は飛躍的に増えるでしょう。それが結局は社会を豊かにする最善の策であることは疑いありません。勝ち負けとはかかわりなく、すべての人が自己実現している社会、それが理想社会ということだと思います。
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7.挫折・絶望 会社が倒産したり、リストラで解雇されたり、商売が行き詰まったりする不幸は、これだけ倒産やリストラが増えてくるといつ自分に降りかかってくるか知れない時代になりました。若い頃ならその犠牲も少ないでしょうが、結婚し子供が大きくなってから失業すればすぐに子供の進路に影響を与えるでしょう。僕の父も、僕が高校のときに失業しました。僕は音楽大学に進学する希望をもって、ピアノを習ったり音大志望者の補習を受けたりしていたのですが、進学のための費用の見通しがたたないために結局諦めました。 下関駅で無差別殺人をやった男は会社勤めがうまく行かず退職した後、親に出資してもらって始めた商売もまたうまく行かず自暴自棄になって社会に無差別に復讐してやろうと考えたようです。新宿 や秋葉原の通り魔殺人や、大阪教育大付属小学校での無差別殺人などの犯人も同じような心理状態だったのでしょう。この社会ぐるみ道ずれ自殺してやろうという心理は挫折がもたらす最も極端な人格崩壊なのでしょうが、その社会に対する復讐心という点では 放火や毒物混入事件の犯人にも共通するものでしょう。 こうした事件を見ると、挫折した人を支える人情が失われた世の中が背景にあるようにも思います。それはそれで深く考えなければいけない問題なのですが、もっと大きな要因があるように僕には思われます。 僕は「受け入れる心」と「立ち向かう心」と言いましたが、心の「バブル」状態、擬似貴族心理を考える時、とりわけ「受け入れる心」を持つことの必要を痛感します。人より貧しい、人より劣っている。それがそんなに耐えられないことなのでしょうか。 健常者に比べたらはるかに恵まれた身体を与えられながら、どうして人より貧しいとか人より劣るということくらいで自暴自棄になったりするのでしょう。僕は結局それは、今の日本人が外面的な価値、人との相対的な比較の中にしか自分の価値を感じられなくなっているからだと思います。 僕はいつも思います。僕の能力など、自慢できるほどのものは何もない。しかし自分の持っている可能性を考えればこれまでに出来たことは本当にわずかだ。僕は今自分の50年の半生を振り返って、その体験を誰かに、特に若い人に伝えようとして文章を書いている。その一つの仕事だけを考えても、今までに成し得たことはほんのわずかだと。 失業する、多額の借金を抱える、失恋するなど自分が生活の、そして心の拠り所にしていたものが崩壊する。そして絶望する。もちろん大切なものを失って絶望しないですむ筈はないでしょう。しかし絶望してもなお自分に残されているもの、それを実現することが生きることであることは、仮に不治の病気に罹されていても同じことだと思います。
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新聞によれば自殺が前年(1998年)4割増えたために、平均寿命が0.2歳引き下げられ、脳卒中などの死亡率の改善の効果をうち消したそうです。そして女性が過去最高の84.01才になったのに、不況で中高年の男性を中心に自殺が急増。男の自殺は女の2.4倍で、そのため男性の平均寿命は77.16才で前年を下回ったそうです。 |
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人には生きるための居場所が必要です。家庭・学校・職場、その中で目的を持ち、生きがいを見つけ、幸福を得ようとする。多くの人は社会のルールに従った所に居場所を見つけることが出来る。しかしそれをもてない人がいます。 戦後、日本は物質的な豊かさは実現されたと言います。しかしそれは決して犯罪や非行を減らすことが出来ませんでした。それどころか政治家や経営者などの人の上に立つ人々が率先して汚職をしている有様です。人の居場所は決して物質的な豊かさでは得られないということでしょう。「衣食足りて礼節を知る」などというのは大嘘です。 非行する人が最も居場所を持たない人間であるということは確かでしょう。それは同情されるし、環境に問題があるならば救済されなければなりません。しかし最も居場所を持たない人間が、他の人の居場所をに抹殺するような犯罪をするのは、これは悲劇です。 人間の人格も機械と同じで壊れ方が大きければそれだけ、修理が難しいしあまりに大きいともう永久に治らなくなってしまいます。修理が出来ないほど壊れてしまうまえに非行から立ち直って、人の花を奪うのではなく、自分の花を咲かせる生き方、喜びを見つけられるように環境の改善をし、彼に生きることの意味を教えなければなりません。
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日本人は「愛」という言葉に何か嘘々しい響きを感じているようです。あるとき、たぶん『愛は地球を救う』という番組をなんとなく見ていました。すると出演しているゲストが「何か、愛という言葉は嘘々しいですねぇ」と言っていました。その言葉の中には、気恥ずかしいとか、サンタクロースなどは存在しないけれど、子供には信じさせておくほうがいいか、というようなニュアンスがありました。 愛というのは好意を持っている人、あるいは価値を感じる対象への感情をいうのですが、それだけでは愛は欲と何の変わりもありません。愛が単なる欲と違うのは、その対象となる人や物を守ろう・育もうとするからでしょう。愛はそれ故に必要ならば身を引こうとする心であり、たとえ得ることが出来なくてもその物、その人を見守り続けようとする心です。 一方で日本人は昔から「情」という言葉を使いました。「情」という言葉には「欲」のニュアンスが絡んでいません。気恥ずかしくないのです。 「愛」という字は「情」にも「欲」にもかかります。美しくもなり醜くもなる響きを持っているのです。日本人は「愛」という言葉をそういう風に受けとめてきました。もとより「欲」がなければ人間は生きることが出来ません。しかし帰属集団の価値の中に個人の価値を埋没させる文化を培ってきた日本人は、個人の「欲」が集団の価値を損なう危険性を持っているということから、「欲」が表に出ることを抑制する習慣を持ってきました。しかしかえってそのことが「欲」を個人の中に原始的な、幼児的な状態に放置し、内面的には「欲」に拘泥しながら、外面的には「欲」を否定するという虚構の精神状態を生み出してしまいました。これは『建前と本音』という形に現れています。外国人からしばしば受ける不信感もそれに根差しているでしょう。これはどうしても直さなければならない日本人の体質だと思います。そして日本人が自分の中の「欲」を公なものにすることが出来るようになれば、「愛」という言葉を恋人だけにではなく、もっと広く自然に使えるようになっていると思います。 心理学の実験によれば、猿は餌を持っているとき、他の猿が傍に来ると、餌を分けなければならないという心理の為に、非常なストレスがたまるのだそうです。ところが餌を分け与えてやると、それとともにストレスは解消するといいます。まだ猿と種の分化が起こる前に人間は分配という本能を持っていたのです。そのことは自分の属する種を生かそうとする本能が人間に存在するということを意味していると思います。そして「愛」というような心理・価値観・思想を規定する観念も、そもそも動物の本能の延長上に存在しているのだと考えられます。だから「愛」は決して嘘々しい ものではありません。人間を生かしている「欲」をまず積極的に受け入れ、なおかつ自分と人と社会を育もうとする心に成長させることは、嘘々しいものの筈はなく、人間が生きるために必用な最も本質的な要素だと思うのです。 |
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今の政治家の嘘臭さは、特に保守系の政治家は、自分はボランティアなど一度も経験したことがないのに、今の若者にはボランティアを強制するような制度や、法律まで作ろうとしていること です。弱者救済などという思想は「アカの人寄せ手段だ」「強者だけが生き残る」「利益の出ない仕事はするな」などと 吹聴していた筈なのに、最近はボランティアを「愛国心」と結びつけ、ボランティア活動を学校の必修科目にしようとしています。それは将来の徴兵制の復活を 意図してのことでしょう。一方で「日の丸・君が代」を強制して、戦前の「国民精神総動員」を再現を目論んでいるのでしょう。 ボランティア活動などやったこともない保守政治家が、学校教育でボランティア活動を強制するなどということは、醜悪この上ない話ですが、去年の大震災と原発事故はこうした 保守権力者の意図を超えて、強制的ではなく内発的な意志によるボランティア活動の広がりを生み出し、日本人の良心や倫理観を再生させる機会を与えてくれたように思います。 僕は良心とは結局道理に従って判断、行動する精神だろうと思っています。では、「道理」とはなにかということになります。僕はそれは人間に関する真理のことだろう と思っています。生き方や考え方、人との関係、家族、友人、組織、社会、人間に関するあらゆることについて、何人も否定できない、動かしえない得ない前提、人の考え方や行為、社会のあり方に関して、証明し得る 原理・原則。それが「道理」だろうと思っています。
「人間は学習しなければ人間になれない」というのは道理でしょう。学習しなければ、服を着ることも、自転車に乗ることも、言葉を使うことも、歩くことすら出来ません。 「喜び」というのは、「快感」の充足ということを含め、何であれ「価値」を獲得する充足感、効力感にあるでしょう。これは真理のようです。しかし、「快感」というのは消費的 な感覚で、減衰する喜びでしかないでしょう。それに対し、「価値」を創造する充足感、効力感というのは発展や進化を伴っているから減衰することのない恒常的な「喜び」となるだろう と思います。それ故、創意工夫する精神は幸福の源泉となるでしょう。これは「道理」だろうと思います。 「人は一人では生きてゆけない」というのは証明する必要もない前提でしょう。親や大人たちがいなければ学習をすることも出来ないのだから、人間になることも出来ない。自分を育んでいる社会があるからこそ、人は生きて行ける。ならば、自分を育む人々や社会を破壊してはならない。これは道理 でしょう。 この「育む」という心が「愛」であり、逆に「奪う」という心が「欲」だと僕は定義していますが、「愛」と「欲」は見かけは同じ「好き」という気持ちでも、全く逆の、正反対の心象 でしょう。だから「欲」ではなく「愛」を育てなければならない。これは道理だろうと思います。
「人は快感原則に従って行動する」「欲望は発展・進歩の原動力である」という通念が、今の日本を支配しています。そして「排他的な競争」は社会の進化の原動力だと
考えられています。しかし、それならどうして環境問題
や人口問題などを問題になるのでしょう。どうして苛烈な「受験競争」をしていながら日本人の学力が低下していると心配されるのでしょう。どうして苛烈な「個人間競争」を煽っている企業で、職場の人間関係が荒廃し
て、企業としての活力が失われるのでしょう。 繰り返し言いますが、「愛」とは「育む心」「創造する心」、「欲」とは「奪う心」「消費する心」であると僕は定義しているのですが、それらは価値に対する感情ということでは同じでも、そのベクトルは正反対のもので す。「愛」は人を育み、未来に価値を残すが故に、その価値の中に永遠の生命を得ることが出来るでしょう。しかし「欲」は人のものを奪い、消費し尽くす故に、未来に何も残さぬ、救いのない 、生命の断絶をもたらすものでしょう。何も未来に残さず、生命の意味も考えず、自分の肉体が滅びてゆくのに逆らって、一日でも長く生き延びようとする。そ の先にある絶望、それが「地獄」ではないでしょうか。 結局、道理というのは生命の本質を捉え、「育む心=愛」によって判断された理念のことだと思います。社会の制度なども、それが特定の人々の利益のためのものでなく、社会的に合理的なものである限り、分解して観察すれば、結局人や社会を存続させ、発展させるためのルールだとういうことが分かるでしょう。その根底は「育む心=愛」ということになるでしょう。そのようにして出来た共通認識やルールが、僕の考える「道理」ですが、その「道理」を守り、「筋道」に従って生きること。それが僕の考える「倫理」です。
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13.死について 不可知な物の中で、とくに現代の人間にとって重要な問題は生死の問題と精神現象のことでしょう。古代人の様に自分の生存を脅かす自然現象を納得させるための宗教という物はあまり必要無くなりました。しかし生死の問題を含めた生命現象や精神現象がすべて科学的に説明、再現されることは未来においても有りえないでしょう。もし科学的に説明しきれるならば再現出来る筈で、再現できれば人間の科学で、生命や精神現象を永久に保存出来る筈です。そうなれば、そもそも人間が神と言っていた者に人間がなることになります。しかしどんどん科学が発達してDNAの正体が解かって仮に人工生命が作れる時代が来ても、そのときには又とてつもない多くの不可知な問題を抱え「人工精神」を作るという目論みから遠ざかってしまうのではないでしょうか。 人間は「死」ということをことさらに問題にし、その為に宗教を生み出したのでもあるのですが、「死」とは一体どういうことなのでしょうか。人間にとっての「死」とは肉体の死というより、精神現象が終わるという意味でしょう。人間の一つの細胞が死んでも何も問題にならないし、サイボーグのように、仮に肉体が完全に死滅してもなおかつ意識が持続し、精神が生き続けていれば、生きているということになるのでしょう。しかし人間は本当に個体として生きることのみが生きているということになるのでしょうか。 ウィルソンの社会生物学では白蟻が個体としてはたいした知能を持っていないにもかかわらず、白蟻の社会としてはかなり高度な知能を持っていることを指摘しています。あたかも社会が生命体であり個々の白蟻は単なる細胞でしかないかのようです。さらに言えばカマキリのように自らをを仲間に食べさせるという本能を持った生物もいます。本能を全うすることが快楽なのであればカマキリは殺されることに快楽を得ているということになります。 もし人間にとって、自分のポテンシャルを実現するすることが「生きる」ということであるというのであれば、場合によっては「死ぬ」ことが「生きる」ことになることもあるわけです。 「死」の問題が宗教を生み出した大きな要素になっているとすれば、「死」を知ることは自分のポテンシャルを見出だすこと、すなわち「生」を知ることと同義ということになるでしょう。そして「永遠の生命」は自分の属する種のなかにあるというのがとりあえずの真理となるでしょう。このレベルでの宗教をあげれば日本の神道はもっともそれを体現しています。人類が社会形態として世襲王政を生み出したのも「種の繁栄」の為のもっとも適した形であったと考えるべきかもしれません。
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1.「育む心 」こそ真の生命である。「育む心」が愛である。自分を育み、隣人を育み、社会を育むために人は生きている。 2.たとえビリでも走れないより走れた方が良いではないか。他の能力も同じだろう。どうして人に負けるからといって、自分の能力を捨てるのだ。捨てたほうが良い能力など何もない。 3.自己実現することを忘れなければ、樹木が枯れる時まで年輪を加えるように、人は人生の終わりの時まで 世界を広げ、成長し続けるだろう。「生きる」ということは自己実現するということだ。それだけは忘れないようにしよう。 4.生きることの意味と価値は、主観的には無数にある。しかし客観的には、「社会の存続と進化に何を残し、何を伝えたか」ということ以外には無いだろう。身の丈に合ったものを残せば良いのだ。名前などは残す必要はない。人の記憶に留まる必要もない。ただ社会の存続と進化のために役立ったといえる何かを残すこと。伝えること。そこに永遠の生命があるだろう。 5.疲れた時は静かに眠れ。理想への道程を思い描きながら。そうすれば明日の生活が少しずつ変ってゆくだろう。それが疲れて何も出来ない時の自己実現だ。
病気の時には病気の時の自己実現がある。失意の時には失意の時の自己実現がある。いかに苦しくても、創意工夫出来ることがあるだろう。その苦しみを記述することは出来るだろう。それが自己実現だ。 7.年をとっても好奇心を持って雑学を増やせ。それが自分の世界を広げるだけでなく、中年、老年になると、新しい知識を記憶することは、既知の知識との関連付けでしか出来なくなるからだ。 8.古来、勤勉と誠実、義理と人情こそ日本人の美徳であった。いま非人間的な管理と利己的な競争を煽り焚き付ける支配イデオロギーが日本人の美徳を果てしなく破壊している。 9.信仰について僕は考える。いかに科学が進歩しても、人は、つねに人智を超えた「力」に生かされている。それを知り、その「力」に帰依し、その力の導く所に行こうとすることが信仰である。 自分を生かしている「力」を見つめ、そしてその「力」が万物を、生命を進化させる存在であることを悟り、その「力」の命じるままに生きること。 10.「神」とは一切の事物や現象を現前させている「力」のことである。自然がその摂理を全うし、人が自己を全うすることが神の意思なら、神は決して呪縛 などしないだろう。神が自己実現を阻む筈はない。 11.自分の時間は朝食の前に作れ。 日中の仕事や生活に流され、失うことはないし、仕事で疲れた夜より、はるかに頭は活発に働く。自分の仕事はまず朝の時間にせよ。
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