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生きることの意味


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1.生きることの意味

 僕は「生きること」というのは「自分の持っている可能性を形にすることだ」と考えています。そしてその中にこそ人は自分のアイデンティティーを見出すことができるのだと思います。たとえば花は、たとえ見てくれる人がいなくても、あるいは自分が人から賞賛されるような華やかな花でなくても、それをひがむこともなく、ただ自分が天から与えられた能力の中で精一杯咲くでしょう。
 生きることとはそういうことだと思います。自分の持っている可能性がよりよく実現されている、それが人より優れた能力ではなく、かりに劣った能力であったとしても、それが自分にとって必要なものなら、少しでもそれが実現されることは、それだけ生きることの喜びになる筈です。
 自分が持っている可能性がもっとも実現されている時、人はもっとも美しく輝いているのではないでしょうか。このことは、その人の能力やステイタスや年齢がどうあろうと同じことだろうと思います。そしてこれは死ぬまで変わらない原理だと思います。

 自己実現ということは、何も人より優れた能力だけを伸ばすというだけではありません。劣った能力であっても、人間として生きるために必要なものならば実現されなければならないはずです。
 例えばスポーツが苦手だといって全くスポーツをしない人間は、すでに人間としての全体性を失っているのです。人より劣っていようとも自分にはその運動能力しかないのです。それを捨ててしまえばスポーツすることによって得られる人間性はもはや永久に身につけることが出来ないのです。不得意でも自分の出来る範囲でスポーツをすれば、それだけ自分の世界は広がる筈です。それがより良く生きるということだと思います。(こんなことを書きながら全然僕自身実行できずにいるのですが。)

 優越した能力だけが実現され、劣った能力を切り捨ててしまったような人格はやはり醜いと思います。それは知能だけが進化し肉体が退化してしまったウェルズの火星人の様なものでしょう。人より劣っていると自己限定して、あるいは人に勝てる物だけ見せようとして自分の多くの可能性を捨ててしまう人間が多いのは嘆かわしいことです。立命館大学は入試の選考基準に「一芸主義」の導入などというものがあり、あたかも進歩思想の様に吹聴していますが、そのような考え方は人間の人格をゆがめてしまうものだと思います。ただし国立大学の多くが採用している5教科入試も本質的には「理解力」のみを評価し「創造力」など全人的な能力を評価してるわけではないという点では同根かもしれませんが。
 得意な分野の能力だけのばそうとすることは柔軟な個性を実現することを妨げ、狭量で硬直した人間を作ることでしょう。

 社会的に評価されるものを求めて生きる以前に、自分の持てる可能性をより良く実現すること。人に見下だされようと馬鹿にされようと人として必要なものは決して捨てないこと。まずそのことが生き方の基礎としてなければならないと思うのです。

 いかなる生命も生きる意味を持っています。老いることも、死ぬことも意味を持っていると思います。千年木の様に枯れる時まで幹を太らせ続ける生命を持っているのです。死ぬということも意味をもっているというのは、恐らく人類という生き物が成長するためには、人間という細胞が新陳代謝する必要があるということなのでしょう。聖書にある「一粒の麦」の意味です。
「自分の持っている可能性を形にする」ということの意味は生まれた時から死ぬときまで全く変わらないと思います。年を取ることが価値を失うことだと思っている人が多いようですが、それは生命に対する冒涜です。 ヴェルディやユトリロの様に70歳を越えて傑作を書いた芸術家はいくらでもます。そして70才を超えることによって初めて作れるものもあるでしょう。なるほど技術や知識を吸収する力や計算能力などは若い人間の方が優れているかも知れません。しかし人生の豊富な体験が生み出す価値は、それだけの経験を積んだ者しか決して持ちえないものである筈です。 

 


2.仕事と趣味



 生きるためには人は職業を持たなければなりません。しかし、それは自分の持っている可能性の一部を実現できても、全部ではありません。仕事は社会的な活動ですから、最も人の評価を受けるものです。それ故、人の価値や、人の生きがいを仕事だけで考える傾向がありますが、そんなことをすると、やはり人間の全体性を失ってしまいます。そして結局自分を見失ってしまう。しかも本当に自分がやりたいことを仕事に出来る人というのは、むしろ稀なわけですから、そんなことで自分がやりたいことを捨ててしまっては、自己実現などできるはずがありません。もっとも大きな自己実現は仕事の他にあることの方が一般的な筈です。
 自分に出来ることは、たとえ下手でも苦手でも何でもやってみる。その中から自分にとって重要なものの優先順位を作る。
 そして自分の与えられた能力を最大限発揮できるように努力する。それが仕事なのか、ボランティア活動なのか、家庭生活なのか、趣味なのかということなどは問題ではありません。生きることは自分の持っている可能性を形にすることなのですから。

 自分のやったことが社会にどう評価されるかは後の問題です。確かに社会が受け入れてくれるものを作らなければ社会の中で自分の居場所を作ることは出来ませんから、それを優先しなければならないということはあるでしょう。しかし繰り返して言えばどんな国でもどんな民族でも自分たちの芸術、自分たちの文学を必要とするのと同じで、どんな人でも自分の思想や情念を表現できる手段というものは必要なはずです。そしてどんな平凡な人生でも、その人生を表現したものは、それがオリジナルなものである限り固有の価値を持っているでしょう。

 そういう風に考えれば生き方というのは単純明快なものです。しかし単純明快なのにそれが出来ないのは何故か。その最も大きな理由は、世間的な価値に支配され自分が持っていないものを追いかけるからだということです。優越感を持てる仕事につきたがるけれども、それが自分の個性からら来たものではなく、それを愛することが出来ないということでは優越感を満たすという満足感を得ることが出来るだけで、自己実現という道からは遠ざかってしまいます。「優越感」というものは「自尊心」と違って、それを示せる人がいなければ影のように消えてしまうものです。

 だから趣味というのは非常に大切な自己実現の一部でしょう。趣味の方が仕事よりも大きな業績を残し、歴史に名をとどめた人も多いでしょう。伊能忠敬が商売を息子に任せて隠居してから、やりたかった天文学を勉強しはじめ、そして日本で初めての科学的測量地図作る旅に出たのは60歳の頃でした。これなどは趣味こそ自己実現という典型でしょう。

 自己実現というのはプロになることではありません。プロになれるほどの実力がなくても、野球が趣味なら、町の草野球チームでやっていても充分自己実現でしょう。少年チームのコーチや監督として役立つことが出来れば、自己満足を超えた価値を生み出していることになります。


 

3.心的エネルギー

 生きることが自分の可能性を形にすることだということがわかっていても、それが出来ないということもあります。自己実現の道は、群れに従って惰性で生きることとは違うから自分で自分を走らせる自覚と力が必要です。
、それは肉体的な活動が物質的なエネルギーによって維持されているように、精神的な活動もやはり心的なエネルギーによって維持されているのだと思いますが、そのエネルギーが不足するからでしょう。やるべきことがわかっているのに出来ない時、たいていの人は自分の克己心の無さを責めるでしょう。しかし栄養失調の状態でマラソンをするのが無謀であるのと同じように、心的エネルギーが欠乏しているときに大きな目標を立てて実行しようとしても出来るはずがありません。
 自分の持っている可能性を実現するということは、自分の持っている心的エネルギーの範囲でしか実現できないものなのです。「自分の持てる可能性」という意味にはそれをも含んでいるのです。何も出来ないほど疲れてしまった時は、ただ寝ることだけが唯一の自己実現でしょう。

 そう考えると生き方を改善するということは、心的なエネルギーをどうして培うかということのようです。それは当然身体的なものと連動していますから、自分の精神活動が最も活発になるような生活のリズムを作ることを心がける必要があることは言うまでもありません。早起きやちゃんと朝食を取ることが脳の活性化と関係していることは科学的に証明されているのですから、そういうことを馬鹿にせずに、時間に追われていても朝食は取ることぐらいはするべきでしょう。適度なスポーツや散歩なども生活のリズムの中になければならないでしょうし、キリスト教徒の「安息日」のような自分の生き方や、生活を省みる時間も無ければんりません。そうした思索の時間をも含んだ、余裕を持った生活のリズムの中で、心的エネルギーは培われるのだと思います。

 しかし心的エネルギーを喪失させるものには、外的な要因もあります。そしてむしろこちらの方が人を挫折させるものとしては多いでしょう。人から無視されたり、排除されたり、軽蔑されたり、侮辱されたり、そんな人間関係の中で心的エネルギーを喪失してしまったら、どうしてそれを回復すれば良いのでしょうか。
 一つには「人間は本来孤独である」という事実を受け入れることです。「それでも野の花は精一杯咲いている」という原点に帰ることです。もう一つは寂しいからといって多数に迎合したり同調したりするのではなく、自分を理解し必要としてくれる人を粘り強く探すことです。1億2千万人も日本人がいれば、そういう人がいないわけがありません。相手も自分を探している筈なのです。

 もし自分を殺して、多数に迎合したり同調したりすると、表面的には生きやすくなるのかも知れませんが、本当に自分を理解してくれる人と遭遇することは困難になるし、コミュニケーションが自己実現を育むということにもならないでしょう。
 たとえば僕が全く異なる性格の人間が集まる集団に迎合して入っていったとします。その集団は仕事の話のほかといえば野球の話と同僚の噂話、それと遊びに行く話ばかりしていて思想的な話はおろか、文学や芸術の話すらしないというものだったとします。そして一人一人の価値観が世間的な価値をのみ追いかけ、「勝ち負け」「損得」と「快不快」以外何も持たないような人間だったとしたら、その中に僕が居て得るものといえば、人間を観察するためのサンプルを見るという以外は何の意味を持たないでしょう。

 そういう人間の典型ともいうべき人を僕は見ています。92才の義理の父親です。まさに世間的価値を追い求め、ともかくも大企業の重役になりました。息子には自分が日課表を作って勉強させ、その甲斐あって京大に入り、博士課程に進みました。その結婚相手にも干渉し大学時代に付き合っていた恋人とも別れるように仕向けました。
 テレビで少し深刻なドラマをやっているとすぐにチャンネルを変えてしまうし、何か芸術など文化的な番組をやっていると、しきりと品定めはするのですがそれに感動するということが全くない様です。その心理状態を見ると「快・不快」を感じる感覚のみで、懐かしい思い出に心をふくらませたり、人の生き方に感激したりするということが少しもないのです。

 「快」と「不快」しかなくなってしまった人間はものに感動することがありません。「悲しみ」はただ「不快感」になるだけですし、「勝った」とか「得した」とかいう快感も一人っきりになれば影のように消えてしまいます。
 世間の人のすることや持つものに敏感で、いち早くビデオカメラやパソコンを買ったりしますが、手に入れて一度使ったらお蔵入りです。自分の中から出てくる興味や願望では無いのですから当然でしょう。
 内面に自分の世界を持たない人は、いつか一人きりになった時、自分には何もないということを気づかされるでしょう。

 義理とはいえ、自分の父親のことをそんなに悪くいうものでは無いと僕を叱る声が聞こえて来そうですが、僕はかりに実の父親でも、その生き方の評価を避けるべきではないと思っています。もし肉親であるからとか、職場の仲間だからという理由で、人の生き方の評価を避けるなら、逆に価値を価値と認める目も失ってしまいます。

 



4. 「立ち向かう心」と「受け入れる心」


 どんな人でも自分が実現したいレベル(理想自我)と実現可能なレベル(現実自我)との間にはギャップがあるでしょう。あるいは実現可能だと思っていたことも外的な障害で、非常に困難になってしまうこともあります。
 例えば、東大入試に合格するだけの能力があることは、廻りの人も認めるほどなのに、父親が亡くなって大学進学自体を諦めざるをえなるという人も、これだけ失業者が増えてきた今の日本ならたくさんいるでしょう。

 そんな時、ある人はどんな無理をしてでも自分の希望を実現しようとするでしょう。本当なら進学を諦めて、残された母や妹、弟の世話をしなければいけないところなのですが、家族の世話は母にまかせて、親戚に借金をして進学しようとするかもしれません。
 またある人は、あっさり現実を受け入れて、高卒の受ける社会的評価に甘んじて、小さな幸せを追いかけるのかもしれません。

 どちらが良いのかは一概に言えないでしょう。ただ最も必要なのはこの「立ち向かう心」と「受け入れる心」はどちらか一辺倒というわけにはいかないということです。自分の持っている可能性を最も大きく育てる道はこのバランスの取り方によって左右されます。
 多くの人は向上心を持っているときは、「立ち向かう心」ばかりに支配されています。そして人との競争に敗れて、自分の限界を知ってしまうと今度は「受け入れる心」に支配されてしまって、自分はここまでだと思って自己限定してしまいます。

 自分の持っている可能性のつぼみを最も大きく開かせる道は、自分の能力の限界を把握して、受け入れなければならない現実を自覚し、そして自分の能力で立ち向かえることには勇気を持って立ち向かうということでしょう。

 ただ「受け入れる心」といっても、それは自分のコンプレックスから逃げたり、避けたり、無視したりすることではありません。「受け入れる」ということは自分が人より劣っているという事実や、自分の目標が実現不可能なものだということを自覚する心です。それを自覚せず逃げたり、避けたり、無視したりすれば、結局自分を見失ってしまいます。
 得ることが出来ないということははっきりと自覚し、自分が努力すれば得ることが出来ることを実現する、それが自分の世界なのです。

 

5.孤立と孤独

 日本という国は、内向的な人間にとっては非常に生きづらい国です。三重大学の集団セクハラ事件を考えてみると、いやがらせを受けたのが女だったから問題になったので、もし男だったら、怪我でもしないかぎり何の問題にもならなかったのではないでしょうか。そんな集団サディズムの標的にしばしば内向的な人間がなります。だから、内向的な人間も無理をして外向的な行動が取れるように自分を改造しようとします。多数に同調すること。しかも器用にそれが出来なければ、すぐにからかい・ひやかしの標的にされてしまいます。

 内向的ということと意志の強さというのは別のものだから、内向的で多数に合わせて行動することが苦手で、反面はっきりした自分の主張や生き方をもっている人もたくさんいます。そういう人はよほど良い環境にめぐまれていないと孤立します。
 かりに多数に合わせて、飲みに行くとします。しかし内向的な人は自分の世界に生きようとするわけだから、よほどそういう人をリードしてくれる人がいない限り、遊びの話や人の噂話などの共通の話題に終始する雰囲気の中では、どうしても孤立してしまうでしょう。そして自分を出せばすぐに多数の力によって異質物として包囲されてしまう。

 孤立すれば孤独になります。孤独はつらい。寂しい。だから自分の世界を捨てて皆に合わせて生きるように努力するべきでしょうか。しかし、自分を捨てて皆に合わせたら、もっと大きな自我不確実感、自己喪失感が待っているのではないでしょうか。孤立を逃れても孤独を逃れることは出来ない。

 ドイツの哲学者カントは「私は孤独である。私は自由である。私は自らの王である」と言っています。孤独に耐えてでも自分が自分の主人、王であれと言っているのですが、どんな人でも自分を支配する王にはなることが出来るのです。孤独はいやだから、奴隷でもいい、人と一緒にいたいと思うかもしれません。しかし、自分を捨てて多数に合わせて生きる中に幸福(自我充足感)があるとは思えません。

 自分を捨てずに友達や恋人を求める道は険しい道かも知れません。しかし自分が自分の王であることが出来なければ、「自分の持っているものを形にすることが生きることだ」といっても、それを実現することが出来ないでしょう。世間や会社、仲間などの要請するものに応えることを生きることにしてしまうと、それに利用され、使い捨てられたら破滅するしかありません。自殺や復讐的な犯罪がここから生まれます。ブリジストンの元課長が起こした事件など、しばしばそんな事件が新聞に報道されていますが、それは氷山の一角で、無数の人が「自分の王」になる道を捨てた為に破滅してしまっているのです。

 

6.競争と序列意識

 いまの世の中、「競争は正義」という考え方が蔓延しています。競争によって個人も社会も進歩すると信じている人が多いようです。競争に勝った人が高く評価されるということは、当然相対的に競争に負けた人が低く見られるということです。その結果本当の実力よりも、競争に勝つ技術がはやります。
 競争に勝つ技術が進歩すればするほど、実力をもった人が、得点の仕方を身に付けた要領の良い人に負けてしまったり、 競争に勝つことに目を奪われて、本当に自分の目標に関心を深め、実力を養おうとする人も減るでしょう。
 そして何よりも、競争に負けた人が自己実現する意欲を捨ててしまうことになるでしょう。社会にとっては、それだけ潜在的生産性を失ってしまうことになるのです。

 多くの企業では、競争によって社員の意欲を引き出し、下積みの社員も更に序列を作って、下積みの中で競争させ、意欲を引き出そうとしています。しかし、結局下積みの仕事などはスキルアップして勝てるような仕事はそもそも与えられていないから、上司や仲間に取り入るというような本来の仕事の能力とは無縁な「競争に勝つ技術」が横行するだけで、そのことがますます本当の実力を劣化させてしまうのです。今の日本の閉塞状況は、実はこの「競争の煽り炊きつけ」こそが原因しているのです。

 たとえ競争すれば最下位であったとしても、走れないよりも走れる方が、自分のためにはもちろん、自分が生活している家庭や地域、仕事場、社会にとっても価値になることは自明のことでしょう。他人との優劣とかかわりなく、人が能力を身につけ、自己実現することの意義は「歩ける」とか「走れる」とかいう身体的能力だけではないでしょう。家庭や地域、職場でのさまざまな技術、創意工夫する能力なども同じことです。競争すれば最下位であろうと、何かが出来るということは、自分のためにも、人のためにも役に立つのです。

 それに自分がスキルアップすることは、日本人の平均的能力がわずかでも上昇することになります。ドロップアウトして自己実現を放棄してしまった人が立ち直ることに成功すれば、日本人の能力の平均はそれだけ上昇するのです。日本人の平均的な技術力や教養、倫理観が世界の模範となるような水準になった時、日本は疑いなく世界の模範となるような社会になっているでしょう。

 排他的に競争に勝つ人がヒーローになるのではなく、人の自己実現を助ける人がヒーローになれば、自己実現しようとする人は飛躍的に増えるでしょう。それが結局は社会を豊かにする最善の策であることは疑いありません。勝ち負けとはかかわりなく、すべての人が自己実現している社会、それが理想社会ということだと思います。

 


7.挫折・絶望

 会社が倒産したり、リストラで解雇されたり、商売が行き詰まったりする不幸は、これだけ倒産やリストラが増えてくるといつ自分に降りかかってくるか知れない時代になりました。若い頃ならその犠牲も少ないでしょうが、結婚し子供が大きくなってから失業すればすぐに子供の進路に影響を与えるでしょう。僕の父も、僕が高校のときに失業しました。僕は音楽大学に進学する希望をもって、ピアノを習ったり音大志望者の補習を受けたりしていたのですが、進学のための費用の見通しがたたないために結局諦めました。
 家の経済的な破綻は、子供の進路に影響を与えるだけでなく、人間関係の破綻につながることもしばしばあるでしょう。たとえば失業したために恋人同士が結局うまく行かなくなって別れてしまうとか。
 また東日本大震災や阪神大震災などの天災や、犯罪、事故などに巻き込まれて人生が狂ってしまう可能性もますます増えています。さらに表面的には何の問題も無く大学を卒業して、就職をしてもうまく適応できず挫折してしまうケースも増えているようです。

 下関駅で無差別殺人をやった男は会社勤めがうまく行かず退職した後、親に出資してもらって始めた商売もまたうまく行かず自暴自棄になって社会に無差別に復讐してやろうと考えたようです。新宿 や秋葉原の通り魔殺人や、大阪教育大付属小学校での無差別殺人などの犯人も同じような心理状態だったのでしょう。この社会ぐるみ道ずれ自殺してやろうという心理は挫折がもたらす最も極端な人格崩壊なのでしょうが、その社会に対する復讐心という点では 放火や毒物混入事件の犯人にも共通するものでしょう。

 こうした事件を見ると、挫折した人を支える人情が失われた世の中が背景にあるようにも思います。それはそれで深く考えなければいけない問題なのですが、もっと大きな要因があるように僕には思われます。
 それは戦後の日本人の生活や社会的地位に対する欲求水準の肥大化という問題です。 これだけ失業者が増え、非正規雇用の労働者が蔓延していても、いまだに自分は中流だと思っている人が多いでしょう。
 決して豊かでは無いのに豊かさを装って生きている。それをテレビのコマーシャルやトレンディードラマなどが煽っている。多くの国民が中流幻想を持ち、 多くの若者が「擬似貴族幻想」を持って生きている。日本人の心理的「バブル」はまだ続いているのでしょう。それがはじけた時、社会への復讐心という形で現れるのでしょう。

 僕は「受け入れる心」と「立ち向かう心」と言いましたが、心の「バブル」状態、擬似貴族心理を考える時、とりわけ「受け入れる心」を持つことの必要を痛感します。人より貧しい、人より劣っている。それがそんなに耐えられないことなのでしょうか。
 よく感じることなのですが、生まれつきの身障者は、健常者に比べて心の屈折が少ないように感じます。それははじめから自分の能力を受け入れる心が出来ているからでしょう。彼らはハンデを背負いながら、健常者と同じように社会で活動できる機会を与えられると、それが健常者の感覚ではみすぼらしいと思える仕事であっても喜びを感じて出来るようです。

 健常者に比べたらはるかに恵まれた身体を与えられながら、どうして人より貧しいとか人より劣るということくらいで自暴自棄になったりするのでしょう。僕は結局それは、今の日本人が外面的な価値、人との相対的な比較の中にしか自分の価値を感じられなくなっているからだと思います。

 僕はいつも思います。僕の能力など、自慢できるほどのものは何もない。しかし自分の持っている可能性を考えればこれまでに出来たことは本当にわずかだ。僕は今自分の50年の半生を振り返って、その体験を誰かに、特に若い人に伝えようとして文章を書いている。その一つの仕事だけを考えても、今までに成し得たことはほんのわずかだと。

 失業する、多額の借金を抱える、失恋するなど自分が生活の、そして心の拠り所にしていたものが崩壊する。そして絶望する。もちろん大切なものを失って絶望しないですむ筈はないでしょう。しかし絶望してもなお自分に残されているもの、それを実現することが生きることであることは、仮に不治の病気に罹されていても同じことだと思います。
 馬鹿の一つ覚えみたいに「自分の持てる可能性を形にする」と僕は心に念じるのです。

 

 


自殺  

 新聞によれば自殺が前年(1998年)4割増えたために、平均寿命が0.2歳引き下げられ、脳卒中などの死亡率の改善の効果をうち消したそうです。そして女性が過去最高の84.01才になったのに、不況で中高年の男性を中心に自殺が急増。男の自殺は女の2.4倍で、そのため男性の平均寿命は77.16才で前年を下回ったそうです。

 女性は困った時に抵抗なく周囲に救いを求めます。そして女性のほうが生物学的に衝動をコントロールしやすく、自殺以外の道として多様な解決策を模索する能力があると新聞は指摘しています。

 自殺の理由にはいろいろあるでしょう。しかしそれはそんなに多くないと思います。商売の失敗と多額の借金。リストラ。子供の非行、家庭の崩壊。失恋。イジメなどの人間関係。受験の失敗など将来への絶望。生きている意味の喪失。癌などの不治の病気など。

 しかし、精神のまだ健康な状態の人に、1億の借金をかかえて自己破産するのと末期癌で半年の命と宣告されるのとどちらを選びますかと聞いたら、殆どの人は借金の方がましだと答えるのではないでしょうか。 

 自殺に至るには、必ずそれまでに精神的にうつ病状態になってゆく期間があると思います。例えば自分の事業がうまく行かず借金がどんどん増えて、好転の見通しも立たない。そんな状態がボディーブローのように毎日々々自分を苛む。そんな状態がかなりの間続く。そして将来に対してもネガティブな予想しか立てられない。そんな中でうつ状態になり、自殺しか逃げ場所がないように思えてくるのではないでしょうか。

 自分の商売のことしか考えないような人生を生きてきたとしたら、倒産による絶望は相当なものでしょう。自分で築いた会社はもしかしたら自分の子供以上に可愛いかも知れない。それを失ったらもう自殺するしかない。そう考えるのかもしれません。確認できているわけではありませんが、倒産で自殺する経営者は大企業より中小企業の方が多いのではないでしょうか。つまりそれだけ自分一人が手塩にかけたという思いが強いように予想されるからです。

 しかしもし仕事のほかに、別の生きがいがあればどうでしょうか。例えば若い頃から小説を書くのが好きで同人誌をずっと続けているという人だったらかなり心理状態は違うのではないでしょうか。自己破産しても小説は書けますから自己実現するものはまだ残されているのです。
 自殺という問題を考えてみても「一芸主義」というのは非常に恐い。それを失ったら何もなくなるのです。自分の多様な可能性を実現することが生きることだと僕は一貫して主張するのですが、絶望から脱却するためにも自己実現するオプションは多いほうが良いのです。1億円の借金を抱えても自分に残された可能性を形にすることが生きることなのです。

 


9.
非行

  人間の歴史というのは、ある意味でいうと悪の歴史ということが出来ます。人は社会をつくって生きる動物です。そこには社会を維持するための法や慣習、規範、宗教的な教義などが生まれます。そうすると必ずそれをやぶる人間が出て来ます。さらに言えば破らなければ生きていけない人間が出てくる。光が影を作るように、人間が社会をつくる限り、非行に走り、犯罪を起こす人が必ず出てくるでしょう。革命・暴動・一揆などは社会の法や慣習、規範を破壊するという意味では最大の悪ですが、人間の歴史は革命・暴動・一揆のエネルギーによって作られてきたともいえるわけです。

 人には生きるための居場所が必要です。家庭・学校・職場、その中で目的を持ち、生きがいを見つけ、幸福を得ようとする。多くの人は社会のルールに従った所に居場所を見つけることが出来る。しかしそれをもてない人がいます。
 母親・父親の浮気や不仲、子供への無関心などによって起こる家庭崩壊、学校や職場で、要求される仕事をこなせない、仲間の競争についてゆけない、いじめなどの疎外。貧しさのために他の人のような進学するための費用や環境など生きて行くための条件を得られないなど。社会のルールの中にどうしても居場所をつくれない人は、そのルールを破る人たちの中に自分の居場所を作ろうとします。

 戦後、日本は物質的な豊かさは実現されたと言います。しかしそれは決して犯罪や非行を減らすことが出来ませんでした。それどころか政治家や経営者などの人の上に立つ人々が率先して汚職をしている有様です。人の居場所は決して物質的な豊かさでは得られないということでしょう。「衣食足りて礼節を知る」などというのは大嘘です。

 非行する人が最も居場所を持たない人間であるということは確かでしょう。それは同情されるし、環境に問題があるならば救済されなければなりません。しかし最も居場所を持たない人間が、他の人の居場所をに抹殺するような犯罪をするのは、これは悲劇です。

 人間の人格も機械と同じで壊れ方が大きければそれだけ、修理が難しいしあまりに大きいともう永久に治らなくなってしまいます。修理が出来ないほど壊れてしまうまえに非行から立ち直って、人の花を奪うのではなく、自分の花を咲かせる生き方、喜びを見つけられるように環境の改善をし、彼に生きることの意味を教えなければなりません。 

 

 


10愛について

 日本人は「愛」という言葉に何か嘘々しい響きを感じているようです。あるとき、たぶん『愛は地球を救う』という番組をなんとなく見ていました。すると出演しているゲストが「何か、愛という言葉は嘘々しいですねぇ」と言っていました。その言葉の中には、気恥ずかしいとか、サンタクロースなどは存在しないけれど、子供には信じさせておくほうがいいか、というようなニュアンスがありました。

 愛というのは好意を持っている人、あるいは価値を感じる対象への感情をいうのですが、それだけでは愛は欲と何の変わりもありません。愛が単なる欲と違うのは、その対象となる人や物を守ろう・育もうとするからでしょう。愛はそれ故に必要ならば身を引こうとする心であり、たとえ得ることが出来なくてもその物、その人を見守り続けようとする心です。
 いくら寂しくても親は子供が巣立って行くのを妨げません。自分の楽しみを減らしてでも子供の自立のために努力するでしょう。そしてある極限状態においては自分を犠牲にしてでも愛する人を守ろうとするでしょう。自分の子供や妻・恋人や親友の為に、無償の気持ちでその人を生かそうとする、それが愛でしょう。
 ところがどうも日本人は「愛」と「欲」との違いをはっきりとさせようとしません。愛と欲とを同居させたままにしているようです。そしてしばしば人の愛を欲だと貶め、自分の欲を愛だと見せかけます。「愛という言葉が嘘々しい」という感覚も、そうしたものへの猜疑から来るように思えます。

 一方で日本人は昔から「情」という言葉を使いました。「情」という言葉には「欲」のニュアンスが絡んでいません。気恥ずかしくないのです。
 「情」という言葉は肉親や友人、さらには仲間や行きずりの人にまで及びます。そして必ずしも好きでは無い人に対しても及ぶ心なのです。これは博愛というよりは、日本人が古くから、人間を個的存在としてではなく、類的存在と意識していたことの反映だと思えます。その体質は、変質しながらも今も日本人の体に染み付いているもののようです。昔は藩や村や家のようなフォーマルな集団の成員の中で培われた心情が、今は遊び仲間や気の合った者どうしというようなインフォーマルな集団に変わりながらも、決して個人と個人ではなく、集団の成員に対する心情として親近感を持つのです。
 また「情」という言葉は妻に対しては使うことがあるでしょうが、恋人に対しては使いません。恋人に対してはやはり「愛」という言葉を使います。妻は家族の成員ですが、恋人は、これだけは日本人でもどうすることも出来ず、個人と個人の関係だから「情」ではなく「愛」なのでしょう。あるいは恋人に対する心情の中に「愛」と「欲」が同居していることもその理由になるでしょう。

 「愛」という字は「情」にも「欲」にもかかります。美しくもなり醜くもなる響きを持っているのです。日本人は「愛」という言葉をそういう風に受けとめてきました。もとより「欲」がなければ人間は生きることが出来ません。しかし帰属集団の価値の中に個人の価値を埋没させる文化を培ってきた日本人は、個人の「欲」が集団の価値を損なう危険性を持っているということから、「欲」が表に出ることを抑制する習慣を持ってきました。しかしかえってそのことが「欲」を個人の中に原始的な、幼児的な状態に放置し、内面的には「欲」に拘泥しながら、外面的には「欲」を否定するという虚構の精神状態を生み出してしまいました。これは『建前と本音』という形に現れています。外国人からしばしば受ける不信感もそれに根差しているでしょう。これはどうしても直さなければならない日本人の体質だと思います。そして日本人が自分の中の「欲」を公なものにすることが出来るようになれば、「愛」という言葉を恋人だけにではなく、もっと広く自然に使えるようになっていると思います。

 心理学の実験によれば、猿は餌を持っているとき、他の猿が傍に来ると、餌を分けなければならないという心理の為に、非常なストレスがたまるのだそうです。ところが餌を分け与えてやると、それとともにストレスは解消するといいます。まだ猿と種の分化が起こる前に人間は分配という本能を持っていたのです。そのことは自分の属する種を生かそうとする本能が人間に存在するということを意味していると思います。そして「愛」というような心理・価値観・思想を規定する観念も、そもそも動物の本能の延長上に存在しているのだと考えられます。だから「愛」は決して嘘々しい ものではありません。人間を生かしている「欲」をまず積極的に受け入れ、なおかつ自分と人と社会を育もうとする心に成長させることは、嘘々しいものの筈はなく、人間が生きるために必用な最も本質的な要素だと思うのです。


11.
倫理について

  
   今の世の中、道理ではなく空気を読んで考える人が多いでしょう。筋道に従うのではなく、多数や強者の主張に逆らわず生きている。多数や強者に従って、利害を共有する仲間との衝突を回避し ながら、「安全・安心」を求めて生きることが、何よりも選択や行動の原理になっているように思えます。その結果今の世の中、人の価値観や判断はどんどん道理から離れて行くよう に思えます。
 自分はそれで良いかも知れない。しかし自分の子供や孫の、後の世代の世の中はどうなるでしょう。道理ではなく、「得」と「安全・安心」を追いかけることだけを教えて育てたら、日本の未来はどうなる のでしょう。

 今の政治家の嘘臭さは、特に保守系の政治家は、自分はボランティアなど一度も経験したことがないのに、今の若者にはボランティアを強制するような制度や、法律まで作ろうとしていること です。弱者救済などという思想は「アカの人寄せ手段だ」「強者だけが生き残る」「利益の出ない仕事はするな」などと 吹聴していた筈なのに、最近はボランティアを「愛国心」と結びつけ、ボランティア活動を学校の必修科目にしようとしています。それは将来の徴兵制の復活を 意図してのことでしょう。一方で「日の丸・君が代」を強制して、戦前の「国民精神総動員」を再現を目論んでいるのでしょう。

 ボランティア活動などやったこともない保守政治家が、学校教育でボランティア活動を強制するなどということは、醜悪この上ない話ですが、去年の大震災と原発事故はこうした 保守権力者の意図を超えて、強制的ではなく内発的な意志によるボランティア活動の広がりを生み出し、日本人の良心や倫理観を再生させる機会を与えてくれたように思います。

 僕は良心とは結局道理に従って判断、行動する精神だろうと思っています。では、「道理」とはなにかということになります。僕はそれは人間に関する真理のことだろう と思っています。生き方や考え方、人との関係、家族、友人、組織、社会、人間に関するあらゆることについて、何人も否定できない、動かしえない得ない前提、人の考え方や行為、社会のあり方に関して、証明し得る 原理・原則。それが「道理」だろうと思っています。

 「人間は学習しなければ人間になれない」というのは道理でしょう。学習しなければ、服を着ることも、自転車に乗ることも、言葉を使うことも、歩くことすら出来ません。
 それ故、学習が成就すること、自分の世界が広がることに、人は効力感、充足感、満足、喜びを感じるのでしょう。
 そしてそれ故、「学習」とは本来「喜び」である筈です。これも「道理」でしょう。それなら、どうして多くの人は学ぶことを止めてしまうのでしょう。どうして学ぶことが苦痛になり出すの でしょう。道理に従えば死ぬまで学習する ことは喜びである筈なのですが。

 「喜び」というのは、「快感」の充足ということを含め、何であれ「価値」を獲得する充足感、効力感にあるでしょう。これは真理のようです。しかし、「快感」というのは消費的 な感覚で、減衰する喜びでしかないでしょう。それに対し、「価値」を創造する充足感、効力感というのは発展や進化を伴っているから減衰することのない恒常的な「喜び」となるだろう と思います。それ故、創意工夫する精神は幸福の源泉となるでしょう。これは「道理」だろうと思います。

 「人は一人では生きてゆけない」というのは証明する必要もない前提でしょう。親や大人たちがいなければ学習をすることも出来ないのだから、人間になることも出来ない。自分を育んでいる社会があるからこそ、人は生きて行ける。ならば、自分を育む人々や社会を破壊してはならない。これは道理 でしょう。

 この「育む」という心が「愛」であり、逆に「奪う」という心が「欲」だと僕は定義していますが、「愛」と「欲」は見かけは同じ「好き」という気持ちでも、全く逆の、正反対の心象 でしょう。だから「欲」ではなく「愛」を育てなければならない。これは道理だろうと思います。 

 「人は快感原則に従って行動する」「欲望は発展・進歩の原動力である」という通念が、今の日本を支配しています。そして「排他的な競争」は社会の進化の原動力だと 考えられています。しかし、それならどうして環境問題 や人口問題などを問題になるのでしょう。どうして苛烈な「受験競争」をしていながら日本人の学力が低下していると心配されるのでしょう。どうして苛烈な「個人間競争」を煽っている企業で、職場の人間関係が荒廃し て、企業としての活力が失われるのでしょう。
 「競争意識」は結局、多くの人のモチベーションを減衰させ、集団としての活力を失わせるだろうと思います。それは「欲」に依拠するからでしょう。それに対して「共同意識」はモチベーションを減衰させることはない。それが「愛」に、「創造」に、「育む心」に依拠するからでしょう。

 繰り返し言いますが、「愛」とは「育む心」「創造する心」、「欲」とは「奪う心」「消費する心」であると僕は定義しているのですが、それらは価値に対する感情ということでは同じでも、そのベクトルは正反対のもので す。「愛」は人を育み、未来に価値を残すが故に、その価値の中に永遠の生命を得ることが出来るでしょう。しかし「欲」は人のものを奪い、消費し尽くす故に、未来に何も残さぬ、救いのない 、生命の断絶をもたらすものでしょう。何も未来に残さず、生命の意味も考えず、自分の肉体が滅びてゆくのに逆らって、一日でも長く生き延びようとする。そ の先にある絶望、それが「地獄」ではないでしょうか。

 結局、道理というのは生命の本質を捉え、「育む心=愛」によって判断された理念のことだと思います。社会の制度なども、それが特定の人々の利益のためのものでなく、社会的に合理的なものである限り、分解して観察すれば、結局人や社会を存続させ、発展させるためのルールだとういうことが分かるでしょう。その根底は「育む心=愛」ということになるでしょう。そのようにして出来た共通認識やルールが、僕の考える「道理」ですが、その「道理」を守り、「筋道」に従って生きること。それが僕の考える「倫理」です。

 

 


12.
宗教について

  
「この世のすべては、俺が眼を開いた瞬間に誕生し俺が眼を閉じた瞬間に消滅する。」とある人は言います。しかしその人のその眼を開いたのは誰なのでしょう。誰があなたを作ったのでしょう。親が作った。たしかにそうです。しかし人間を生み出したのは、地球を生み出したのは・・・・。
 宇宙。そう、宇宙は人間という精神を持った生命を生み出すプログラムを持っている。ならばそれはとても無機的なものではあり得ない。そのプログラムとは生命の遺伝子と同じように有機的なものです。何しろ精神を持った生物を生み出すのですから。

 宇宙が遺伝子を持った生命であるとすれば、それは何十億年という寿命を持った生命です。それを人は神と考えたのです。しかし神の意志が、すなわち宇宙の遺伝子が何を生み出しているのかをわたしたち人間は知りえない。けれども人間が生きて行くためには、不可知なものとも遭遇しながら歩まねばならないから、どうしても不可知な暗闇の中をあるくために蝋燭の明かりが欲しい。だから神を信じるのだと思います。

 しかし信仰は本当に必要なものなのでしょうか。本当に不可知な暗闇を照らす蝋燭の明かりになるのでしょうか。
 人間が知りえる科学で不可知な部分に光を当てる。そうしてうまく行けば科学で知りえる領域は広がります。しかしさらに無限に拡がる不可知な領域が残されている。しかも科学で知りえる領域が拡がれば広がるほど、不可知な領域も広がってゆくようです。
 人間は可知の中だけで生きて行くことは出来ませんから、どうしても不可知な世界がどうなっているのか手探りででも確かめて前に進まなければなりません。

 原始宗教は必ず占いから始まっています。それは最も単純明快な不可知な世界を照らす蝋燭の光です。さいころを振って進路を決めるのも、初めから友人の助言に従おうと決めることがあるのも同じことです。
 しかしさいころを振るだけの光では、あまりに当てずっぽうです。これは当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界で、いかにも頼りないものです。
 そこで信仰する人は「啓示」というものに頼ることになります。「啓示」とはつまり直感によって不可知な部分を、つまり科学では説明できない部分を知ろうとすることですね。
 「直感」というものは意識的なものも無意識的なものも含めて、人間が経験したもの一切の記憶が無意識の中で融合して、化学反応のように新たな概念を生み出して意識化されることです。科学や芸術の創造は、殆ど直感によるものだと言っていいと思います。
 科学的に認識されている知識をどれだけ並べ変えても、それだけでは新しいものは生まれません。必ず発明や発見のあるところには「直感」の力が働いている。
 人間が生活している空間は、普通、不可知なものの存在など意識してはいないのですが一皮向けば殆どが不可知なものです。例えば人間の体温というのは燃焼ですが、一定に維持することがどうして可能なのかもわかりません。その他のホメオスタシスといわれる恒常性を維持する機能のどれをとってもいかに科学で説明できる部分がわずかであるか。
 ところが不可知な現象も、不断に人の無意識の記憶の倉庫に体験として蓄積されており、それがある時可知な知識と反応して新たな飛躍的な概念を生むのでしょう。そこに新たな法則や真理を見出すことが出来れば、それはとりもなおさず宇宙のプログラム、つまり神の意志の片鱗を見ているのだと言えます。
 日常、人間が不可知なものの中で生きているからこそ、「直感」による発明や発見がもたらされ、芸術作品が生み出されるのです。

 「直感」による成果は、科学的に説明しきれなくても、よりよい選択肢を示すことがあります。例えば薬や医療の多くの部分は経験的に効果があると解かっているだけのものも多いわけですが、そういう科学的には説明できないが確かに効果があるという選択肢を発見するのも「直感」の仕事によることが多いでしょう。
 そういう「直感」を得たとき人はそれを「啓示」と言います。そして信仰することによってその「啓示」を得ようとします。
 そうすると信仰とはよりよく「啓示」得るための精神状態を作るための行為や態度を作ることだと言えそうです。

 

 

 

 

 13.死について

 不可知な物の中で、とくに現代の人間にとって重要な問題は生死の問題と精神現象のことでしょう。古代人の様に自分の生存を脅かす自然現象を納得させるための宗教という物はあまり必要無くなりました。しかし生死の問題を含めた生命現象や精神現象がすべて科学的に説明、再現されることは未来においても有りえないでしょう。もし科学的に説明しきれるならば再現出来る筈で、再現できれば人間の科学で、生命や精神現象を永久に保存出来る筈です。そうなれば、そもそも人間が神と言っていた者に人間がなることになります。しかしどんどん科学が発達してDNAの正体が解かって仮に人工生命が作れる時代が来ても、そのときには又とてつもない多くの不可知な問題を抱え「人工精神」を作るという目論みから遠ざかってしまうのではないでしょうか。
 つまりどれだけ大脳生理学や心理学が発達しても、それは人間を救済し精神現象のシステムを把握するための補助的な手段にとどまって、心の問題はどこまでいっても心の問題として解決しなければならないのではないかと思います。

 人間は「死」ということをことさらに問題にし、その為に宗教を生み出したのでもあるのですが、「死」とは一体どういうことなのでしょうか。人間にとっての「死」とは肉体の死というより、精神現象が終わるという意味でしょう。人間の一つの細胞が死んでも何も問題にならないし、サイボーグのように、仮に肉体が完全に死滅してもなおかつ意識が持続し、精神が生き続けていれば、生きているということになるのでしょう。しかし人間は本当に個体として生きることのみが生きているということになるのでしょうか。

 ウィルソンの社会生物学では白蟻が個体としてはたいした知能を持っていないにもかかわらず、白蟻の社会としてはかなり高度な知能を持っていることを指摘しています。あたかも社会が生命体であり個々の白蟻は単なる細胞でしかないかのようです。さらに言えばカマキリのように自らをを仲間に食べさせるという本能を持った生物もいます。本能を全うすることが快楽なのであればカマキリは殺されることに快楽を得ているということになります。
 ウィルソンは人間が同じ種族の為に自己犠牲を行なう本能を持っているといいます。人間も白蟻と同じような面があるというのです。
 もし人間にとって、自分のポテンシャルを実現するすることが「生きる」ということであるというのであれば、場合によっては「死ぬ」ことが「生きる」ことになることもあるわけです。

 「死」の問題が宗教を生み出した大きな要素になっているとすれば、「死」を知ることは自分のポテンシャルを見出だすこと、すなわち「生」を知ることと同義ということになるでしょう。そして「永遠の生命」は自分の属する種のなかにあるというのがとりあえずの真理となるでしょう。このレベルでの宗教をあげれば日本の神道はもっともそれを体現しています。人類が社会形態として世襲王政を生み出したのも「種の繁栄」の為のもっとも適した形であったと考えるべきかもしれません。

 


信条

1.「育む心 」こそ真の生命である。「育む心」が愛である。自分を育み、隣人を育み、社会を育むために人は生きている。

2.たとえビリでも走れないより走れた方が良いではないか。他の能力も同じだろう。どうして人に負けるからといって、自分の能力を捨てるのだ。捨てたほうが良い能力など何もない。
 人より劣った能力でも、身につける方が良い。人との勝ち負け、優劣ではなく。自分の能力を高め、世界を広げようと思う気持ちこそ大切だ。たとえ 人より遅れ最後になっても、自転車に乗ることが出来れば、それだけ自分の世界は広がるだろう。その時の喜びを思い出せ。
 得意なものだけに執着するより、苦手なものを克服する方が、はるかに人間は成長する。「一芸主義」は精神的な不具者を作るだけである。

.自己実現することを忘れなければ、樹木が枯れる時まで年輪を加えるように、人は人生の終わりの時まで 世界を広げ、成長し続けるだろう。「生きる」ということは自己実現するということだ。それだけは忘れないようにしよう。

.生きることの意味と価値は、主観的には無数にある。しかし客観的には、「社会の存続と進化に何を残し、何を伝えたか」ということ以外には無いだろう。身の丈に合ったものを残せば良いのだ。名前などは残す必要はない。人の記憶に留まる必要もない。ただ社会の存続と進化のために役立ったといえる何かを残すこと。伝えること。そこに永遠の生命があるだろう。

.疲れた時は静かに眠れ。理想への道程を思い描きながら。そうすれば明日の生活が少しずつ変ってゆくだろう。それが疲れて何も出来ない時の自己実現だ。 病気の時には病気の時の自己実現がある。失意の時には失意の時の自己実現がある。いかに苦しくても、創意工夫出来ることがあるだろう。その苦しみを記述することは出来るだろう。それが自己実現だ。

.競争しないと自分を成長させることができないというなら、まず自分と競争せよ。そして親しい友と、お互いの意思で競争せよ。決して人や世間に煽られて競争してはならぬ。そんなことをしたら負けるゲームはみな捨て る人間になってしまう。まして人と競争する心が利己心ならば、それは究極、人も社会も退廃させる。

.年をとっても好奇心を持って雑学を増やせ。それが自分の世界を広げるだけでなく、中年、老年になると、新しい知識を記憶することは、既知の知識との関連付けでしか出来なくなるからだ。

8.古来、勤勉と誠実、義理と人情こそ日本人の美徳であった。いま非人間的な管理と利己的な競争を煽り焚き付ける支配イデオロギーが日本人の美徳を果てしなく破壊している。
 日本人の美徳を取り戻せ。勤勉と誠実、義理と人情を。

信仰について僕は考える。いかに科学が進歩しても、人は、つねに人智を超えた「力」に生かされている。それを知り、その「力」に帰依し、その力の導く所に行こうとすることが信仰である。 自分を生かしている「力」を見つめ、そしてその「力」が万物を、生命を進化させる存在であることを悟り、その「力」の命じるままに生きること。

10「神」とは一切の事物や現象を現前させている「力」のことである。自然がその摂理を全うし、人が自己を全うすることが神の意思なら、神は決して呪縛 などしないだろう。神が自己実現を阻む筈はない。

11.自分の時間は朝食の前に作れ。 日中の仕事や生活に流され、失うことはないし、仕事で疲れた夜より、はるかに頭は活発に働く。自分の仕事はまず朝の時間にせよ。


 

自己実現

    疲れた時には、疲れた時にも出来ることがある。
    例えば仕事をやめて、心休まる音楽を聴けば良い。
    それは安らぎとともに、啓示を与えてくれるだろう。

    眠たい時には、眠たい時にも出来ることがある。
    例えば自分の夢や理想を
    心の中にに描きながら眠りにつけば
    それは明日からの生きる指針になるだろう。

    孤独であれば孤独だからこそ出来ることがある。
    孤独は自分の内面に目を向ける。
    そして自分の個性や可能性を見いだし
    それを育てる時を与えてくれるだろう。

    病の時には、病の時にも出来ることがある。
    例えば寝ながらでも出来る仕事を見つけて
    或いは闘病記を書いて、
    同じ病気に苦しむ人に勇気を与えるならば
    それはかけがえの無い価値となる。

    すべてを失った時には、
    すべてを失った時こそやるべきことがある。
    すべてを失ってなお、残されているもの、
    それこそ最も大切な宝だろう。
    かけがえのない人を失ったのなら、
    自分の思い出の中に生きている
    愛する人の記憶のすべてを紡ぎ出して残せ。
    それが真に永遠の生命だろう。

    死に直面したら、死に直面した時になすべきことがある。
    これまでの自分の一生を凝縮し
    後の人の糧となるような、一世一代の遺書を書いて、
    自分を知る人の為に残せ。