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全共闘世代は今日も行く
〜半生の自分史〜

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Syuugoroの格言集 Syuugoroの残日録 ゲストブックに書く
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 1969年4月、僕は大阪府立池田高校を卒業して同志社大学経済学部に入学した。その年は東大闘争の影響で東大の入試は中止されるという異常事態の中での受験だった。僕自身池田高校で「池田反戦会議」というグループに加わり、反戦デモに行ったり、制服の廃止や卒業式の日の丸掲揚の中止などを高校に要求するなどの運動をやっていた。
 今考えると僕らの学生運動は日本の社会を変えるには変えたが、僕らの思う方向とは全く逆の方向に疾風怒濤のごとく変えてしまった。「管理教育」「生産性向上運動」(マル生運動と言った)という支配イデオロギーがどんどん日本中を覆いはじめた。「利益至上主義」はいつのまにか正義となった。それは「ロッキード事件」が起こっても、「リクルート事件」が起こっても歯止めがかからなかった。不動産や有価証券をたらいまわしするだけで所得や資産が膨張して行く経済などいつか破綻するという理屈は冷静に考えれば、子供でもわかることなのに、国民はみは株を買い、土地を買った。そしてバブルは弾けるべくして弾けた。
 自殺者が3万人を超え、モラルは無くなり、人情は消えうせ、凶悪犯罪が横行し、いじめが蔓延する社会。すべては僕らが大学を卒業してから始まった。僕らの運動はそれを阻止するどころか、その反対の「管理主義」「利益至上主義」を蔓延させるパンドラの箱を開けたようなものだった。

 それでも僕は何も後悔しないし、パンドラの箱を開けない方が良かったなどとは思いもしない。そして学生運動をやっていたことを誇りに思っている。ただし学生運動の各セクトが主張していたイデオロギーやスローガンがみんな正しかったなどとは、僕自身、その頃でも思っていなかったし、後で考えると世界情勢の見方でも随分甘かったと思うことが多い。
 自分の考えていたことには認識が正しかったことも間違っていたこともあるが、それらはみんな今の僕の考え方の基礎になっているし、力になっている。その中でもベトナムの解放に賛成の意思表示をし、自分の高校に制服撤廃の要求をしたことは、たとえそれが1億の日本人の中のたったの1人という小さなものであっても確かな手ごたえのあるものであったし、自分自身のアイデンティティーを固めるものになったと思う。

 全国に吹き荒れる学生運動の中で、同志社大学も6月に入り授業料値上げ反対やカリキュラムの学生参加をめぐり本格的に大学紛争が起こり学生自治会は大学をバリケード封鎖した。5月に、僕は大学の交響楽団に入部していたが、バイオリンをしている先輩ののSさんが時々デモなんかに参加しているらしく、僕にクラブの中に今の大学紛争の問題について考える会をつくろうと話し掛けてきた。僕はまだ入学したばかりなので大学では何もしていなかったが、高校生運動を一緒にやっていた仲間と時々会ったり、その頃まだ同志社大学で教えていたべ平連の発起人である鶴見俊輔の自主講座を聞きにいったりしていた。そこで自然にその会にも出席したりしたので、僕が2年になる前に渡りに船とばかりに、クラブの執行部から文化団体連盟(同志社交響楽団の上部団体)の常任委員にされてしまった。この役はとりもなおさずブント(社会主義学生同盟という学生運動のセクト)の兵隊になることを意味していた。つまりどこの大学でもクラブを運営する上部団体は学生運動のセクトが握っていたのだから、そこに誰かを委員として派遣しなければならず、間接的にでも学生運動に関わらざるを得なかったのだ。こうして僕は大学でも本格的に学生運動に関わることになった。

 1年の7月、入学して初めての前期試験は大学紛争のため、語学以外はすべてレポート提出ということになった。全学闘争委員会(学生自治会が授業料値上げ反対とカリキュラムへの学生参加を要求し、一般学生を組織して出来た闘争組織)は、そのことによって人気を得た。
 東大・日大闘争に端を発した全共闘運動ははしかの様に全国に拡がった。そして同志社大学も全学バリケード封鎖という事態となった。しかし想像がつくようにオーケストラの兵隊は軟弱である。百人いるクラブ員の中で7人ほどが学生運動に参加したが1人減り、2人減りして結局残ったのは僕と後輩が1人だけ。別に喧嘩したわけでもない。みんな気持ちはあっても身体がついてこないのだ。デモに出れば牛の様に大きな機動隊がジュラルミンの盾を持って狩りを楽しむハンターの様に襲いかかって来るのだから。
 4・28沖縄奪還闘争とか、6・15安保粉砕闘争とか10・21国際反戦デーというようなビッグイベントに東京行きを指名されようものなら、内ゲバ相手のセクトがゲバ棒や果ては鉄パイプ、竹槍をもって襲いかかってくる。
 しかし日本人というのは祭りの日を作るのが本当に好きだ。そのことについては右も左も、共産党も新左翼も変わりはない。ただ祭りは祭りでも血祭りだが。


 1969年7月、僕はオーケストラの合宿費用を稼ぐために大阪の城東区にアルバイトに通っていた。7月19日の土曜日、僕は朝からかなりひどい腹痛を感じていたが、もともと鈍感な性格なので、そのままアルバイトに行った。しかしアルバイトをしている間も腹痛はひどくなるばかりである。それなのに途中で早退することなく夕方まで仕事をして家に帰った。その後も腹痛はひどくなるばかりで、夜通し苦しんだあげく、やっと日曜日にかかりつけの医者に頼んで往診しもらった。そこではじめて「これは盲腸かもしれんから、市民病院に行って見てもらった方がいいで」と言われた。しかし日曜日なので明日行くことにして、そのかかりつけの医者から痛み止めをもらって、その日は家で寝ていた。
 月曜になって市立病院に行くと、やはり盲腸だった。しかも発病して3日も放っておいたからひどい状態になっているらしい。「もうちょっと放っておいたらえらいことになっていたで」と手術してくれた医者に言われた。

 盲腸の手術を待つ2時間程の間、病室で僕は半分朦朧とする意識の中でテレビを見ていた。アポロ宇宙船が月面に着陸したところを実況で中継していた。この人類の歴史的な瞬間に、僕は盲腸の手術をまっているのだ。その取り合わせが奇妙で、何かそのことをもう少し考えたいと思っている自分が可笑しかった。「これは一生の思い出になるな」などと考えていた。

 僕は1年前からこの年にかけて、米軍の武器・弾薬を作っている大阪空港近くの新明和工業にベ平連などが毎週抗議デモをしていたのに参加した。日本は国是として武器を輸出しないことになっているのに、その材料・部品を作って輸出するのだ。「なんと姑息なやり方だ」という感情が、ますます反体制的な気分を醸成した。
 そのアメリカが今月面に立っている。人類が宇宙に進出するということは、敵とか味方とかいう判断を超えていた。宇宙開発は米ソにとってもっとも軍事的な問題である。そして今その優位を確実にしたのはベトナムという小国を蹂躙しているアメリカ帝国主義であった。それなのに人類が月へ行くことが出来たという事実は、素直に感動せざるを得ないのだ。「この瞬間だけは右翼も左翼もみな見ているだろうな」と僕は思った。
 

 僕らの世代も、もちろん日本人であることには変わらないから、「恥の文化」や「横並び意識」は持っている。そして学年が1年違えば敬語を使うという染み付いた序列意識からも逃れられないでいる。しかし僕らの世代の価値観を醸成したものの中に、一つだけ他の世代と違うものがあった。それはアメリカのホームドラマであった。
 僕らが小学生の頃、庶民の家にもテレビが普及し始めた。そしてまだ番組を作る金もスタッフも不足していた為か、アメリカのドラマが最も視聴率の高い夜の6〜7時頃にいつも放映されていた。
 日本人というのは、肩書や立場、役割で人格が決定される国民である。だから「お父さん」は家に帰ると「お父さん」の人格で子供に接する。しかしアメリカのホームドラマでは違っていた。子供の精神的成長に応じて、子供の目線に降りて、ある時は人生の先輩として、ある時は親友としてふるまった。小学生くらいの男の子に「今日は男同士の相談があるんだ。実は君の母さんのことでだか・・・」という様なせりふをしばしば聞いた。
 そんなシチュエーションは日本の家庭では考えられなかった。戦後になっても日本では「しつけ」の教育だった。「しつけ」という言葉は、そもそも「型にはめる」という意味なのだから、アメリカのホームドラマのような育む心をもってどこまでも子供の自覚を促すという「甘っちょろい」考え方が入り込む余地はなかった。親達にとってはアメリカ流は「甘やかす」ことだった。
 「パパ、大好き」「うちのママは世界一」「ビーバーちゃん」「名犬ラッシー」など、そんな番組を、丁度思想的な核が形成される小学生の時期に見ていたから、僕らの上の世代に与えたものとは全く違っていた。ホームドラマで無くても、親や年の離れた兄や姉も好んで見た「ローハイド」や「ララミー牧場」「拳銃無宿」などのアクション映画でも、ちょっとした会話や人間関係の中で、大人がただドラマの展開を見ているだけなのに比べ僕ら子供はホームドラマと同じような要素を嗅ぎ取っていたのだ。

 日本人の教育観は戦後も何も変わっていなかった。それは「礼儀」と「分際意識」、そして「勤勉」であった。ただ戦争に負けて「自由」という言葉が家庭に入り込んで来た為、どんどん「礼儀」や「勤勉」の力は色褪せていったが。しかしその「自由」という意味を親達は「勝手・気まま」と何の区別もつけていなかった。ただ、戦争に負けて勝手・気ままもある程度許さざるを得なくなったと考えるようになっただけであった。そのことは、それまで日本人が持っていた「礼儀」と「勤勉」という価値観まで破壊し、とうとう法・秩序を(それもリスクの問題として)守るという以外、何の倫理思想も持たない国民を作りあげてしまった。

 僕らの世代には、少なからずアメリカ的な個人主義と愛(家族や友人、廻りの人を育む心)の価値観が入り込んでいる。それは僕らを教えた親や教師の与えたものではなく、たまたま垂れ流されたアメリカのホームドラマだった。そしてその後それが日本のテレビに氾濫する時代は来なかったということを考えると、僕らの世代は特殊な世代だろうと思う。60年安保世代がアメリカから影響されたものが「豊かさ」と「勝手気まま(自由といっているが)」であったのとは全く違っている。現代の即物的な快楽主義を生み出したのは断じて僕らの世代ではない。少なくともそんな価値観は僕らの世代の思想的なマジョリティーではなかった。僕らの世代は「自由」という言葉を「勝手・気まま」の意味に使わないことに非常に注意した。そして「個人主義」が「自己中心主義」の意味にならないように。

 僕らの世代は「自由」という意味をもっと精神的な意味で、しかも古典的なニュアンスではなくカウンターカルチャーをも包含するものとして受け入れた。そういう中で「全共闘」と「フーテン族」が生まれた。「フーテン族」は殆ど「全共闘」に加わることのない、社会問題、とりわけ政治問題などに背を向ける、多くの場合ドロップアウトした人種だったが、やはり同じ時代に育まれたメンタリティーをもっていた。

 日本は敗戦によって、それまでの天皇制国家主義という支配イデオロギーを喪失したわけだが、かといって崩壊したわけでもなかった。戦後も政権を担う政治家の多くは、戦前の政治勢力を継承する者たちだった。 東京裁判でA級戦犯の判決を受けた岸信介が首相となり、その判決を下したアメリカとの間に日米安全保障条約を結んだ。

 戦後の日本の政権政治家や財界を中心とする支配層は、国家主義が破産した後、それに変わる国民的な政治理念を提唱したわけではなかった。精神的な理念や美意識の喪失は思想の即物性に拍車をかけた。それは「競争原理」と「利益至上主義」、そして「物質的快楽主義」という戦後の支配イデオロギーというものに結実した。

 全共闘運動が大学に吹き荒れている時、サラリーマンの世界では「マイホーム主義」という言葉が流行っていた。植木ひとしは「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という歌詞で知られる『スーダラ節』などで庶民の心を捉え、「無責任」という言葉が半ば肯定的な気分で流行した。
 それは一見、戦前の全体主義や戦後の貧困からも解放され、無責任を謳歌する小市民の時代の到来を告げているように見えた。

 しかし庶民が安逸を謳歌している時、すでに「生産性運動」と呼ばれる企業ファシズムの波が始まっていた。それはすべての労働者を「競争原理」という論理に巻き込み、企業による際限の無い「煽り・炊きつけ」の意図に躍らせるものだった。
 それまでの日本人は「勤勉」と「従順」という価値観を持って労働していた。「競争」などという考えは出世しようと考えている人間が持っているくらいで、自分の生活が脅かされている時以外考えもしなかった。

 表面的には社共共闘によって美濃部革新都政が実現し大都市圏での革新自治体が実現し、大学では学生運動の波が全国に押し寄せ左翼イデオロギーの勢いは盛んかのように見えた。また米軍によって南ベトナムの反共のモデル村として作られたソンミ村で村民が皆殺しに会うという事件が発覚したことで、アメリカのベトナム介入への国際世論は日増しに高まっていた。
 しかし学生運動はすでに普通の学生の感覚を離れつつあった。同志社大学の学友会も握っていた社会主義学生同盟(社学同)というセクトは次第に先鋭化しその一部は赤軍派という世界同時革命をスローガンに武装蜂起を目指す組織を結成し、密かに大菩薩峠で軍事訓練をしていたのが発覚。さらに翌年3月によど号ハイジャック事件を起こした。全共闘運動は「大学の運営に学生の参画を」という出発点からまるで糸の切れた凧のように舞い上がって沈静化していった。

 企業はこういう学生運動に近寄らない、むしろ自分のことだけ考えて遊びに熱中する学生に好感を示したから、当然その「即物的快楽主義」は彼らの目論む「競争主義」「管理主義」とともに支配イデオロギーとして根を降ろして行くことになる。この「ノンポリ学生」といわれた層を中心に広がってゆく風潮はやがて理想を失った「しらけ世代」に受け継がれ、さらに「ネアカ」という言葉に変えられて時代のマジョリティーに定着して行く。すでに思想に関心を寄せるような学生は「ネクラ」のレッテルを貼られて排除され、こうした背景の中でイジメ社会が生まれてゆくことになる。一見左翼的うねりが日本を覆う中に、強力なイデオロギー支配が準備されていたのである。


 1969年8月、僕はオーケストラに入部してから初めての合宿に行った。サークルで遠くに行って合宿をするというのは始めての経験だった。そして信州に旅行するというのも初めてだった。
 もう盲腸の傷も全く気にならなくなっていた。合宿の費用を作るために、ほぼ1ヶ月間アルバイトをしたというのも始めてだった。大学に入ると何もかもがめずらしい。何もかもが新しい経験だった。

 合宿は毎年長野県の野尻湖畔の旅館で行われた。そこは学生の合宿場として使われることが多く、同志社のほかのクラブも利用しているようだった。旅館は湖畔に面して立っていて庭からボートに乗り込む桟橋が続いていた。ここで一週間生活する。監督する大人なしに、団体で旅行するのも初めての経験だ。責任者は3年生の先輩達である。

 夜は湖畔に出てキャンプファイヤーをしたり、かくし芸大会をしたりして楽しんだ。もちろんオーケストラだから部内の発表会もする。中にはプロになった先輩もいるし、プロに近い技術を持った人もいるから、僕にとっては興奮することばかりだった。

 卒業して大阪フィルに入ったバイオリンの先輩が来ていて、「チゴイネル・ワイゼン」を弾くのを聞いて感心し、先輩達がベートーベンの「七重奏曲」をやるのを聴いて感心した。とくに「七重奏曲」は僕がやっているクラリネットのパートがある室内楽だからすごく惹かれたし、僕らのオーケストラの中の選りすぐりのメンバーだったから、演奏が実にすばらしかった。

 合宿は秋の定期演奏会の曲を練習する。その年はシベリウスの交響曲第2番とモーツァルトの交響曲第39番だった。二曲とも僕が好きな曲だった。特にシベリウスの第2交響曲は中学の3年生の時にラジオではじめて聞いてた時にすぐに好きになった音楽だった。描写音楽ではないのに行ったこともないフィンランドの風景が目に浮かぶ。その風景は森と湖と草原と風。そしてこの音楽は叙景的なのに内面的だ。
 はじめて聞いた時、第4楽章の圧倒的なカタルシスに身体が震えたのを覚えている。その構築の仕方はベートーベンの『運命』と同じなのに、心に食い入るリアリティーが格段に違う。確かに芸術は猛烈に進化していると思った。

 夏の合宿はあっという間に過ぎてしまった。1年生は楽器運びや雑用をしなくてはならない。そんな役回りもまったく苦労と感じなかった。何もかも珍しかった。そして楽しかった。

 




 夏休みが過ぎて2学期が始まった。しかし学期が始まった早々に全学闘争会議は今出川キャンバスをバリケード封鎖した。折りしも早稲田大学や京都大学に機動隊が導入され学生運動の活動家や、それに同調する教員が次々逮捕された。
 僕の通う同志社はバリケード封鎖しているものの奇妙に平和だった。僕も駆り出されて先輩とバリケードの中に寝泊りした。事態は異常なのだが、不思議に落ち着いている。機動隊が導入されるという予想も誰もしていない。そんなことをすれば大学も自分の顔に泥を塗ることになるだろうと思っていた。新島襄の精神からすればそんなことは出来ないなどと勝手なことを考えて納得していた。
 バリケードの中で朝が来て、ビラまきをしてくれと言われる。僕は単なる兵隊なのだ。言われる通りにビラを撒きに行く。アジビラなどは大したことは書いていない。

 10月9日、自民党は期限切れになる日米安保条約を自動延長することを決定した。その翌日、新左翼系学生はゲバルトをしないベ平連も含めて、全国で反対集会やデモを行った。また1972年に予定されている沖縄返還交渉などで佐藤首相が11月に訪米することになっており、日米安保に反対し、基地なし返還を求める学生や労働組合が首相訪米阻止をめざして全国でデモや反対活動をストライキを続けていた。
 日本を支配している資本家や自民党には抗すべくもないが、しかしそれでも訪米阻止の運動は全国に広がりをみせた。

 11月4日には小西誠という航空自衛隊が反戦ビラを撒いたという理由で逮捕されるという事件があった。自衛官が反戦ビラを撒いていたというニュースは大きな驚きだった。
 自衛隊はすなわち資本家や保守政治家の守り本尊だから、自衛官の中にそんな人間がいることなど予想もしていなかった。
 自衛隊といえば、一年前の1968年に自殺した円谷幸吉の自殺のイメージが焼きついていた。東京オリンピックで初めてマラソンで銅メダルを獲得したヒーローだった。彼は正月の明けた1月9日、自衛隊の宿舎で手首を切って自殺した。取ったメダルが銅だった為に次は金だと過大な期待を押し付けられる。日本人のこのたかりの暴力は2000年の現在も少しも衰えていないが、その舞台が自衛隊だった。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅう。ございました
喜久造兄、姉上様、ブドウ酒、養命酒美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に乗せて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅう。ございました
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、
みよ子ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な大人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒お許し下さい。
気が休まることもなく御苦労、御心配お掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。

 こんな日本人の心が、2000年の現在も日本のどこかに残っているのだろうか。


 11月の初め、西山の三鈷寺でオーケストラの合宿があった。電車で阪急向町駅からバスで30分くらい行った山の中である。山の中なので、11月になると夜などはずいぶん寒い。僕はグレーの地に小豆色の模様のついたカーデガンを着ていた。これは今年の2月豊中の家が火事に遭った時、母の知り合いのSさんから貰ったものだった。そのカーデガンはその後僕が結婚してもまだしばらくの間、10年くらいは着ていた。それは焼けた子供時代と京都に住むようになった時代をつなぐ思い出のタイムトンネルのようなものだった。

 豊中の家は僕の生まれた家だった。戦前からの家で戦争中の爆撃で家の前の塀もなくなってしまい、親父は戦後何度も失業していたから、ぼろぼろのままで放ったらかしにしていたのだが、僕が中学校の頃からようやく落ち着いてきて内風呂をつけたり家の横手に塀を着けたりして何とか住みよいように工夫していた。貸家だったが、大家が父が高校の教員をしている時の教え子だったので、好きなようにさせてくれたのだった。
 その家は僕が生まれたときから18年の間の思い出を残した家だった。その家が僕が同志社を受験する3日前に全焼した。日記も、アルバムも、僕が集めた本やレコードもみんな焼けてしまった。

 豊中の家が焼けてからは同じ阪急電車の服部駅から15分程歩いた所に棟続きの建売住宅を買って住んだ。今度の家は庭がなかった。それでもその二階建ての家は今風の部屋割りがしてあり、二階には三畳と、6畳と5畳の洋間があって、僕はその洋間をもらった。それまで住んでいた豊中の家は昔風の日本式の建築で庭や廊下はあったが部屋の数が少なくて、僕は廊下の突き当りを本箱とカーテンで仕切って自分の勉強部屋にしていた。その家のことは30年以上経った今でも思い出せるけれど、大学に入って服部に住むようになってからは、同じ年のことなのに火事に合ったのが何か遠い昔のことのようだった。


 秋の合宿を三鈷寺でやるのは、ずっと前からのようだった。2泊3日なのだが、山の中の寺でやるというのが面白い。山の中の秋の夜は静かで、深い闇に覆われる。
 その頃、僕はモーツァルトやウェーバーのクラリネットコンチェルトなどを片っ端から練習していた。音色や音楽性というものにはお構いなく、ただ運指とタンギングだけをこなしていたのだが、音色や音楽性を身に付けるようにと先輩によく注意された。それでも僕は即物的に運指の難しい曲が出来ると嬉しかった。
 合宿の夜に三鈷寺の庭でR=コルサコフの『シェラザード』の冒頭のクラリネットパートを練習していたのを覚えている。この曲は演奏会でやることは無かったが、僕の十八番になった。

 


 この秋中バリケード封鎖は続きキャンパスが封鎖されているために、オーケストラの練習は学外の施設をかりてやることになった。韓国会館ということころでもやったし、ある時は北区の船岡山という公園までバスで行って練習した。
 これも過ぎてしまえばなつかしい思い出だが、楽器を持って移動しなければならないから大変だった。ティンパニーなどはトラックを借りなければならないから余計な費用もかかる。
 そんな苦労を乗り越えて12月の定期演奏会の日が来た。僕はメインのシベリウスの2番のアシスタントをやったのだがかっこよくソロなどやるわけではないが、大好きな曲だったし音を出せるだけで嬉しかった。演奏もすばらしかった。指揮をされた常任指揮者の宮本先生は同志社のOBで、大阪音楽大学の指揮科の教授をされていたのだが、たまたま同じ時期に大阪音楽大学のオーケストラも同じシベリウスの2番をやっていた。宮本先生は二つのオーケストラを指揮されていたのだが、プロのたまごの音大のオーケストラよりもアマチュアの同志社のシベリウスの方が良かったと言われた。一人一人の技量は劣っている筈なのに、全体で作る音楽になるとまた違う力が出てくるのだろう。
 ともかく僕らは熱中し打ち込んで、心酔した。それが客席まで伝わったのだろう。野外の公園にまでいって練習をして作った音楽だった。それだけに熱いものがたぎっていた。

 演奏会の後、打ち上げの飲み会があった。ビアホールのようなところで一次会があった後、二次会へ、そして友人の下宿にころがりこむまで正体不明になるまで飲んだ。学園紛争は続いているが、オーケストラの仲間は僕ら学生運動をしている者は別にして、「音楽命」だった。

 同じ月のクリスマスの頃、恒例の「全同志社メサイア演奏会」があった。同志社は新島譲がキリスト教の精神で開校した大学である。それ故この演奏会は大学の主催する行事だった。コーラスは同志社女子大の音楽科の学生と同志社大学グリークラブ、それに応募した有志によって合唱団が組織され、それと僕らがオーケストラを受け持って行なわれた。

 オーケストラに初心者で入ってきた者は、このメサイアの演奏会で初めてステージに上がることが多かった。だから平均したレベルはどうしても定期演奏会よりも落ちる。しかしアマチュアオーケストラだから、それはしかたがない。
 僕らのオーケストラでは、エキストラを頼まれた人以外は卒業生はメンバーに入れない。レベルを考えれば卒業生も入れた方が良いのだろうが、現役の学生の活動が占め出されてしまう。そして初心者として入ってきた人も参加できるようにしなければならないのだから、その為に多少レベルが落ちてもやむを得ないのだ。

 ヘンデルの「メサイア」というのは全曲2時間半にも及ぶ大曲である。その中の「ハレルヤコーラス」はよく知られているが、その他の曲も美しい曲がたくさんあって、最後の「ラッパは鳴りぬ」から「アーメンコーラス」は傑作だとおもう。その至福感に満ちた終曲は、すばらしく荘重だけれども決して大げさではなく、「メサイア」という内容にふさわしい神聖さを感じさせる。
 この曲は毎年秋から冬にかけて練習し、クリスマスの頃に演奏会をするので、その中の50曲ものアリアやコーラスなども一曲一曲胸に刻まれている。30年経った今も、昨日のように練習風景や演奏会の情景が目に浮かぶ。

10

 翌1970年は大阪で万国博覧会が開かれた年である。この年僕はオーケストラの上部団体である文化団体連盟の常任委員になった。というより、させられた。多くの大学の学生自治会が学生運動の巣であるように同志社大学もご多分に漏れずブント(社会主義学生同盟)の影響下で学生運動をしている活動家が牛耳っていた。
 オーケストラなどの文科系のサークルは学生自治会やさまざまなサークルを統括する学友会という組織の傘下にある文化団体連盟という組織に入っている。だから各サークルは1人代表を出さなければならない。学友会は学生運動の活動家が握っているから、相手を見ていろいろな要請をしてくる。学生運動とは縁の無い体育会系のサークルは放って置いて、主に学生運動に勧誘できそうな文科系のサークルに目をつけてデモに参加する学生を出すように要請してくるのだ。これは、その気のないサークルにとっては大そう迷惑な話だったが、サークルの予算や活動の場所を確保するためには、その決定権を持っている学友会に無碍に逆らえないから、サークルの中に学生運動をしている人間がいたりすると、それは渡りに船、救いの神だったのだ。

 かくして学生運動とは比較的縁の遠いオーケストラにとっては、僕は渡りに船となった。僕は学友会が組織した全学闘(全学闘争委員会)の要請するデモに兵隊として参加するとともに、サークルの中で啓発活動を展開するコマンドとなった。
 毎週毎週デモだ。いいかげんいやになる。ひきまわしている全学闘の方も、慣性の法則に陥っている。デモといっても両側を機動隊に並身規制されているから デモを見ている人間には、いったい何をデモしているのかわからない有様だった。

 3月31日(火)、文化団体連盟の常任委員になったため、オーケストラの幹事長のUさんと宮津の山嘉旅館で行われたリーダーズキャンプという文化団体連盟の合宿に行った。山嘉旅館は僕が手配したのだったが、この旅館は先日同響の新2年の仲間達と小旅行に行ったところだった。安くて部屋も良かったのでここに決めた。
 旅館に到着してすぐ、日本赤軍によるよど号のハイジャック事件のニュースに遭遇した。
赤軍派を名のる9人組が日航機よど号が乗っ取り、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国 に行くよう要求したのだ。当局は韓国の金浦空港を平壌の空港に偽装したが見破られ、結局、政府の山村運輸政務次官が乗客の身代わりになり、よど号は4月3日平壌に到着 した。

 人を殺さず北朝鮮入国に成功したので、赤軍の ハイジャックに拍手する学生もいたが、僕は去年の秋に、同じクラスの北朝鮮籍の I という友達に誘われて北朝鮮の映画を見に行ったのだが、画面のいたる所に粛清された政治家や官僚の顔が塗りつぶされてい るのを見ていたから、日本赤軍はどうしてそんな国に行くのかと疑問に思っていた。

 

11

 4月の新学期が始まって、キャンパスはオリエンテーションで学生が溢れていた。サークルの紹介で僕らも新入生の勧誘に出る。そして時々池田高校から入学してきた旧友にも出くわした。池田高校で一緒に学生運動をしていた仲間も何人かいて、自然と新しいネットワークが出来た。
 またこの春休みに、池田高校で活動をしていた仲間の1人が大島渚にスカウトされて東京に出るということがあり、高校時代の仲間と一緒に東京まで訪ねていった。小田急沿線にある下宿にざこ寝をして夜通し話をし、怪獣映画で有名になった円谷プロダクションのスタジオを見に行ったりした。東京に行ったのは、この時は最初だったが、そのすぐ後にオーケストラの演奏会と、デモの動員で東京に行くことになる。

 6月13日(土)、同志社・立教交歓演奏会の為東京へ行った。合同練習の後、都内のユースホステルへ泊まったのだが、この時、後に結婚する妻も参加していて、食事の後 一緒に卓球をして負けてしまった。
 翌日の演奏会で僕はウェーバー『オベロン』序曲の 第1クラリネットをやった。後は、立教がベートーベン『交響曲第2番』と同志社がドボルザーク『交響曲第8番』 を演奏した。アンコールに外山雄三『ラプソディー』をやったのだが、立教と同志社全員が参加していたからすごい迫力だった。このアンコールが一番印象に残っている。

 それから10日後、全学闘争委員会から動員がかかって、反安保統一行動のデモに参加するために、再び東京に行った。それまで何度もデモには行ったが、東京に行くのは初めてだった。夜行の普通列車で行って、砂埃がもうもうと舞う代々木公園でジグザグデモデモした。分裂状態にあったブントの過激派が竹槍で武装して重傷者も出る衝突をしたのを目の前で見た。何のためにうちゲバをするのか?。何のために竹槍など使うのか?。これが反戦運動と何の関係があるのか?。心底そんな疑問を持って見ていた。しかし極左セクトが何をしようと、アメリカのベトナム侵略と、それに加担している財界・右翼・政府自民党には対抗しなければならぬ・・・・。集会が終わった後、また夜行の普通列車で帰るという強行軍で帰った。夜行列車の中で泥のように眠ってしまい、気が付くとジーパンを履いた女子学生の膝の上に頭を乗せて寝ていた。同じようにデモに参加した女子学生だろうが、知らない人だった。僕がそうしたのか、彼女がそうしたのか。何かまぼろしの中の出来事のようだった。

 

12

 この月からオーケストラの夏の合宿の費用を作るためアルバイトを始めた。「石長」という修学旅行の中学生や高校生も相手にしているホテルだった。とにかく金が無いので食事付きというので ホテルに決めた。それに配膳とふとんの上げ下ろしが主な仕事で、朝と夕方だけで良かったから、昼は授業にも出ることが出来た。しかし、このアルバイトはなかなかの重労働だった。ふとんを敷くのも、膳を運ぶのもハンパな数ではない。膳は何人ぶんかを重ねて運ぶから注意しないとひっくり返す可能性がある。それを調理場から客室まで運ぶのだが、繰り返しになるとかなりの労働になる。旅館に寝泊りして、朝は5時に起きて仕事をした。昼は大学に行って、また夕方仕事に出る。その繰り返しだった。 夕方5時から仕事は始まり、夜仕事が終わるのは10時頃になった。そして朝は又5時に起きなければならないから、毎日6時間ほどしか寝られない。それでも時々は、夜の仕事が終わってアルバイト仲間と外に遊びに出 た。夜の繁華街をうろつくというのは、何か大人びて、なまめかしい体験だった。

 従業員の食事というのは、一汁一菜と漬物という内容だったが、客の人数は大抵予約より1人、2人欠けるから、手を付けていない、残り物の客の料理を食べることが出来た。しかし刺身、天ぷら、焼き魚、煮つけ、茶碗蒸しなど、殆ど内容は同じで、毎日食べていると一汁1菜の方がまだ飽きずに食べられるという風になってしまった。

 この石長というホテルは修学旅行生も泊まるが、一般の旅行客も泊まる、そこそこに大きなホテルで仲居さんも何人かいる。水商売だから普通の会社の女子従業員などとは違う。服装も、話す話題もまだ社会的な体験もない20歳の学生にとっては艶かしい。そんな大人の世界に踏み込むことも、ハードな住み込みアルバイトの中でも、好奇心を擽る楽しみだったように思う。

  7月になって前期試験が始まった。語学を除くと、この前期試験が大学に入って始めての試験だった。前年は大学紛争ですべてレポートになり試験が全くなかったからだ。本来なすべき大学の勉強をしない状態が続いたことは、その後も僕の生活態度に大きな影響を与えてしまった。癖がすっかりついてしまって、どうにも元にもどらない。住み込みのアルバイトと学生運動とオーケストラの練習。試験勉強はその次だったから、そんなスケジュールをこなせるわけがない。皺寄せはすべて勉強時間の削減ということになった。1年生の時にレポートで済んだという経験が、大学の勉強を甘く考える体質を作っていたから、遂に4年まで皺寄せは持ち越され、必修科目のドイツ語を落とし、留年こそしなかったものの、追試で1ヶ月遅れで卒業するということになってしまったのだ。 

 

13

 8月から、上京区寺町 通上立売本満寺の奥にある一乗院という末寺が新しく建てた学生アパートに下宿するようになった。クラブの友人のAの親戚が住職をしており、Aも一乗院に下宿することになり、その紹介で この下宿に入ることになった のだった。僕の下宿は4畳半で4千5百円だった。オーケストラの下宿している友達は月3万円仕送りしてもらっている者が多かったが、僕は家からの仕送りは2万円だけしてもらって、後必要な費用はアルバイトで稼ぐことにした。当時アルバイトの時給は千2百円くらいのものだったから、月1万円稼ぐとなるとフルタイムで10日ほどアルバイトしなくてはならなかった。後には小学生の家庭教師のアルバイトにありついて安定収入を得られるようになったが、下宿した当時は、ともかく食事つきで、授業に出られる時間帯のアルバイトを渡り歩いていたものだった。

 Aは同じ学年で、パートも同じ木管だったから、それまでもアンサンブルを一緒にやったりして親しくしていた。2年の夏までは僕は豊中の自宅から半球電車で通っていたのだが、Aも阪急桂に下宿しており、オーケストラの練習からの帰りに利用する交通機関も、市電、阪急と同じだったから、 自然話をする機会も多くなったのだった。同じ下宿になるとさらに親密に話をするようになった。彼は子供の頃、小児喘息で長い間学校を休まなければならず、友達が出来なかったという話も聞いた。そんなこともあってか、彼は宗教や哲学の話に関心が深く、夜中に 、時には徹夜でそんな話をすることもあった。

 8月の野尻湖畔のオーケストラの合宿が終わった後、同じ学年の友人と5人で、友人の親戚の会社の別荘だという戸隠高原のペンションで遊んだ。 朝夕の食事は、免許を持っている友人が運転をして買出しに行き、自分たちで料理を作った。テントを張って飯盒炊爨をするキャンプは高校時代にも経験したが、ペンションで自炊するというのは初めての経験だった。幸い天気にもめぐまれ、白樺林の中を散歩したりして、武者小路実篤や堀辰夫の小説に出てくる軽井沢の避暑地の世界もこういうものかと思ったりした。

 オーケストラの合宿とペンションでの一週間程の旅行が終わると、再びアルバイトを再開した。ホテル石長は、朝が5時から、夜が10時までという時間帯がやはりきつ過ぎて 、戻る気になれず、それでも下宿生活を考えると食事付きが良いと思って春陽堂というレストランで働くことにした。今で言えばファミレスという感じ、広さから言えばハイカラな大衆食堂という感じのレストランだった。ホテルのように客の料理がキャンセルで余るなどということはないが、コックさんが作ってくれる料理は石長の給食よりは上等だった。

 その春陽堂から派遣されて、千里丘陵にある支店に行くことになった。この年開催されていた万博のイルミネーションが美しかった。僕は全共闘運動に加わっており、全共闘運動の一翼を担うべ平連は、万博をもじって「反博」という反戦と、資本主義イベントとしての万博批判キャンペーンをやっていたから、自然と僕は万博には行かないつもりになっていた。しかし夜景の中の万博の大観覧車の光を見ていると、そういうこだわりも小さなものに感じられた。しかし結局僕は万博には行かなかった。
 ただ万博のイベントとして5月に来日したオーケストラは聴きに行った。ジョージ・セルのクリーブランド管弦楽団の演奏会だった。ところが、予期せぬことが起こった。演奏会に先立って「君が代」が演奏され、「ご起立をお願いします。」というアナウンスが場内に流れ て、僕の周りの人々は皆起立した。
 僕は多くの沖縄県民が、家族や親戚を日本軍に殺されたことに恨みを持ち、それが「日の丸」「君が代」への反感になっていることを知っていたし、経団連や自民党に巣食う国家主義者が国民を思想的に洗脳する道具に利用していること も知っていたから、ご起立くださいといわれても、立つことなど出来なかった。戦前、不敬の態度を追求され東大を追われた内村鑑三の気持ちはこういうものだったのかと思った。

 

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 千里の春陽堂のアルバイトは終わり、その後今度は北山のショッピングセンターの中にある春陽堂のファーストフードの店に行くことになった。その頃僕は少し生活に余裕があったので、新品の自転車を買った。北山の春陽堂に通うには丁度良かった。レストランではアルバイトは調理するということはなかったが、北山の店が扱うのは焼きそば、お好み焼き、ソフトクリームなどで、作る仕事もまかされた。ここでも商品のおすそ分けにありついて食費を浮かすことが出来たのだったが・・・・。
 何日か経った時、これから店に行くという時、右の細い道から出てきた若いアベックの乗った車に跳ねられた。幸い大きな怪我はなかったが、前歯が欠けてしまった。オーケストラでの僕の楽器はクラリネットである。クラリネットは前歯でマスピースを噛んで鳴らす楽器だったから、しばらく楽器を吹くことが出来なかった。幸い継歯などをしなくても演奏することが出来、自然治癒にまかせて、結局卒業するまで少し欠けた前歯でクラリネットを吹いていた。

 この事故で歯の治療費として10万円を受け取ったが、結局治療しなかったので、これはすべて臨時収入になった。ただ自転車は車体が歪んでしまっったから、もし同じ自転車を買えばその分減ることになるのだが、結局その後自転車も買うことはなかった。その自転車は学生運動をしている仲間が持っていってしまった。

 当時の学生の一月の生活費は3万円が相場だったから、10万円という金額は3ヶ月分以上の生活費になる、フルタイムのアルバイトで80日分くらいだから、ちょっとした大金である。下宿生活を始めた当初は本箱1つと机が一つ豊中の家から持ってきただけの部屋だったのだが、質屋でテレビを買ったり、小さなモジュラーステレオを買ったり、本を買ったり、後は飲み代になったりして、いつしかその金も雨散霧消してしまった。

 この年の11月25日、三島由紀夫が新右翼の「盾の会」とともにクーデターを夢想し、市谷の自衛隊の基地を占拠し、決起を促したが応じる隊員もないまま、そこで割腹自殺して果てた。この事件は全共闘運動をしている学生にも大きな衝撃を与え、この事件に影響を受けて右翼に転じる学生も少なからずいた。

 僕の仲間の1人も北一輝の思想に傾倒し、人民のための天皇制、天皇制平等主義、天皇制共産主義を吹聴し始めた者もいた。それは現実と乖離した夢想だが、心理的な真実を含んでいたのだろう。「義に殉じる」というのは武士道の精神だが、敗戦後、そうした伝統的な日本的倫理観は崩壊し、世の中には棚から落ちたぼたもちのような、借り物の西洋民主主義、社会主義があるばかりで、全共闘世代を除けば、殆どの日本人は目先の利益と快楽を追いかけるだけの即物的思想に洗脳されていた。三島はそんな日本人の有り様に強い危機感を感じたのだろう。三島の夢想は確かに現実から乖離したものだったが、彼の危機感は、21世紀の今の日本の危機に繋がっているのだろう。

 「義に殉じる」という武士道のような決然とした意思まで行かなくとも、「たとえ自分の損になっても、道理に従う」という内発的な倫理観を日本の民衆が失ってしまったら、日本人は衆愚の民、ソドムの民とならざるを得ないだろう。確かに今の日本人はソドムの民に近づいている。「モンスター・ピアレント」のような「クレイマー」が主人公になり、多くの人が、巻き添えを避けて彼らのしたいようにさせている。しかしその衝突を回避する自己保身的な態度は、結局自分の「安全・安心」も脅かしてゆく。

 この頃、巷には「恨歌」と呼ばれる歌が流行った。「生まれた時が悪いのか、それとも俺が悪いのか・・・」という昭和ブルースや、「15、16、17と、私の人生つらかった・・・・」という藤圭子の歌が、インターナショナルの歌とともに、全共闘運動をしている若者によく歌われていた。

 

15

 1965年の日韓条約や沖縄返還交渉に対する反対闘争(新左翼の諸セクトは「反対」という言葉を嫌い「粉砕」と言った。)、ベトナム反戦運動と続いてきた内外の政治状況に加え、何よりも日大闘争と東大闘争が火を付けた学生運動のうねり の中で、同志社でも1969年には学内デモには3千人以上の規模のデモが行われ、今出川通りや烏丸通りには、バリケードが築かれ、市電(路面電車)が立ち往生する事態が繰り返されるほどだったのだが、そのブームのような学生運動も、1970年の安保条約自動延長とともに下火になり始めた。そして「活動家」と言われる学生だけが人数を減らしながらデモや集会を繰り返し ていた。
 「活動家」の人数が減れば減るほど闘争は先鋭化し、そして分裂を繰りかしていったのだが、僕のようなセクトに入っていない学生は、対立するセクトの間で何が起こっているのかわからない。ただ「過激さ」を競争しているだけのように見えるのだ った。

 ベトナム反戦というのは、学生運動の要だったが、僕は北ベトナムと南ベトナム解放戦線は必ずアメリカに勝つと確信していた。それだけのリアリティーがあった。解放戦線の兵士は、政治宣伝の目的で政府軍の拠点を一時的に占領するような、生還の見込みが少ない作戦でも、勇敢に任務を遂行したが、南ベトナム政府軍の兵士は、強制的に挑発された兵士が多く、士気が低いのは明らかだった。写真やフィルムで見るだけでも目の輝きが明らかに違っていた。ソ連や中国は北ベトナムと南ベトナム解放戦線を支援していたが、たとえ支援がなくても、アメリカと戦い抜くだけの実質的な力を持っているように見えた。事実解放戦線はアメリカ軍や南ベトナム政府軍の武器を捕獲して、その武器で戦ったし、北ベトナムでは旧式の火砲で、武装ヘリはもとより、ジェット戦闘機も打ち落とした。アメリカ軍が枯葉剤やナパーム弾、ボール爆弾など、核爆弾以外のあらゆる非人道的兵器を使ってゲリラ殲滅作戦を行っても、解放戦線の兵站ルートは維持され、レジスタンスを支える解放戦線の経済体制は維持されているようだった。

 しかし日本の学生運動、労働者、市民による大衆運動は、三島のクーデター夢想事件と同様に、どこか本質的にリアリティに欠けていた。確かに安保に反対し、アメリカのベトナム戦争に加担することに反対して、百万に及ぶ学生、労働者、市民が集会を開いた。しかしベトナム反戦、安保反対闘争の本質は倫理運動でなければならなかった筈だ。つまり、戦前日本が中国で火遊び戦争を始めた挙句、世界を敵にまわして破局をもたらした結果、憲法第九条を持った平和憲法に拠って成立している政治体制であるにも拘わらず、喉もと過ぎれば熱さを忘れて、再軍備を始め、世襲特権階級を再生し、現行憲法を占領憲法だと否認し、「非核三原則」は国是だといいながら、米軍の核搭載艦船を寄港させ、そしてベトナムで使用される米軍の弾薬の材料を日本で作る、この「二枚舌」、それをどうするのかという問いかけこそが、運動の目的にならなければならなかった筈だ。九条を守ろうとするのであれば、たとえ遠い将来の話になろうと極東地域の国家経済体制を超えた共同安全保障体制、国連中心主義、国連の改革と国連常備軍も含む国連組織への日本人の参加などの構想が打ち出されなければならなかった筈だ。

 全共闘運動に火を付け、十万人以上の学生をデモに駆り立てた、そのエネルギーは日大闘争、東大闘争に見られるように、「大人たち、権威、権力の不正と二枚舌を糾弾する」倫理運動だったのだ。そのエネルギーを既成左翼や、新左翼のセクトが自らの組織拡大に組み込もうとした時、運動はおのずとリアリティーを失っていったのだった。

 社会の変革はもとより「永続的」なものだし、それが社会の根幹に及ぶ時、歴史はその変革を「革命」と名づけるが、大多数の民衆の意志が権力によって封殺された時に武装蜂起が起こることがあったとしても、暴力的であることが「革命的」なのではない。世界同時革命の企図して北朝鮮に根拠地を作るなどということなどは、三島のクーデターと同様の夢想に過ぎないことは明らかだったのだが・・・・。