Syuugoroの格言集
僕の人生をアドバイスしてくれた言葉集
2011年10月07日 08:36:12
言葉には力があります。一つの言葉で人が自殺を思いとどまったり自分の人生が開けることもあります。一冊の格言集には沢山の宝が含まれているでしょう。しかしそれを小説を読むように読み流していてはせっかくの宝物が砂の中に埋もれてしまいます。自分にとっての宝物だけを取り出して常に輝きを保つことができる場所に保管しておかなければなりません。
Index
【あ】愛 愛国心 挨拶 悪 与える 【い】生きがい 生きること 依存心 急ぐ 怒り 居場所 【う】嘘 自惚れ 噂話 運 運命 【え】エゴイズム 選ぶ えり好み 厭世家 【お】老い 男 男と女 思い出 愚か者 女 【か】快楽 革命 学歴社会 学習 陰口 勝ち負け 悲しみ 金 神 勘 環境 感受性 感傷 感動 【き】記憶 希望 逆境 教育 競争 今日の日の大切さ 虚栄 共感 恐怖 【く】苦労 苦悩 【け】芸術 軽蔑 結婚 潔癖 謙虚 権利 言動 【こ】恋 好意 幸運 後悔 向上心 公正 狡知 幸福 傲慢 心 心の持ち方 志 コスモポリタン 個性 克己心 孤独 言葉 コミュニケーション 【さ】猜疑心 災難 才能 避ける 挫折 悟り 差別 【し】 死 事業 自己 自己限定 自己実現 自己中心 仕事 思索 辞世 自制 思想 持続力 自尊心 嫉妬 失敗 自分を知る 自分の世界 社会 自由 秀才 習慣 宗教 羞恥心 出世 準備 傷心 衝動 職業 正直者 自立 信仰 人生 信念 信頼 真理 【す】ずるさ 【せ】正義 誠実 青春 精神 精神力 成長 生命の尊厳 世間 善 善と悪【そ】創造性 想像力 即物漢 即物性 【た】旅 多忙 魂 騙す 堕落 【ち】智恵 知識 チャンス 中道 中年【つ】罪 【て】抵抗 敵 天才 天性【と】読書 【な】悩み 慣れ 【に】憎しみ 日記 人気 人間 人間関係 人間性 人間不信 人情【ぬ】盗む 【ね】年功 【の】能弁 【は】破産 恥 発明・発見 早起き 万能感【ひ】美 卑怯者 非難 皮肉屋 否認 品性 【ふ】不安 夫婦 不可知 不幸 侮辱 不良 仏性【へ】 平衡感覚 平凡 へつらい【ほ】誇り 母性 凡人 【ま】満足【み】未来 【む】無常 無知 【め】目先の利益 【も】模倣 目的 【や】約束 野心【ゆ】勇気 友情 友人 ユーモア 許す 【よ】欲求 喜び 【ら】【り】リクルート 理性と感情 理想 良心 倫理【る】ルサンチマン 【れ】劣等感 【ろ】労働 浪費 【わ】笑い
《あ》
【愛】
◆愛とは育む心である。
愛とは欲しいと思う人を守り育むことが自分の喜び、生きがいになる、そんな気持ちである。それは日本人が古くから持っている「人情」というものとは違う。人情は、その人を好きか嫌いかという感情を越えて、自分と場を共有する人に施す善意である。ある意味では、それは「愛」を越えているのかも知れない。しかし一方で「人情」は、何の努力もしない人が、人や社会の為に努力をしている人と、同じ恩恵を受けるという、甘え・たかりの温床にもなる。そしていかにすぐれた人であっても、場を共有しない者を排斥する。
日本人は「人情」の歴史しか持っていない。そして「愛」をただ欲しいもの、価値に対する感情、執着であると考え、価値と無価値を峻別する心を、「場」の論理を破壊する身勝手なものとして罪悪視してきた。つまり、「愛慾」という言葉のように、「愛」と「欲」を同一視してきたのだ。
しかし「愛」と「慾」とは正反対のものである。「愛」は価値を育む心である。それに対して「欲」はただ価値を奪おうとする。
ずるい人間でも仲間であれば、その人に何となく同じ善意を施してしまう「人情」では、それに寄生する日本人の依存体質、模倣精神、「お客様意識」、自分を棚にあげた「品定め根性」などは克服できない。日本人の社会生活のあり方が、欧米と同じような近代的な契約社会に変貌した現在、価値を無価値と峻別して、価値あるものを育む「愛」の考え方は、どうしても身につけなければものになっているのだと思う。(1月2日)愛とは「育む心」のことである。それは人間関係の中で最も本質的な価値である。そしてより深く人を愛するためには、誘惑や人の悪意・嫉妬にも動じることのない心の港−自分の世界がなければならない。
愛とは自分が価値と感じたものや人の個性を生かしたいという心だと思う。採取を禁止されている高山植物をかってに切り取って、花を愛しているということは出来ない。愛する心とは、その人を生かす為には、必要なら身を引く心だ。やはり野に置け蓮華草ということだろう。
世間というのは大抵、欲と保身のコンセンサスだから、考える人間はしばしば孤立する。しかし世間や仲間から孤立したとしても、自分の世界を持っていれば動じることはない。自分の世界を持っていれば、いつか自分を包囲している人の中から、自分の価値を認めてくれる人が現れてくるだろう。そういう中で生まれる愛こそ本当の愛だ。◆その人がやがて自ら足りて我が側を離れ去るとも、その人のために祈る覚悟なくして愛するは初めより誤謬である。(倉田百三『愛と認識との出発』)
人は感動を与えてくれる人に接して、その人を愛する。その愛はそれで完結しているのだ。それは芸術を求める心と同じで、受け取るものは感動以外には何もない。
すばらしいと思う人を愛する。その報酬はすばらしいと感動させてくれたことなのだ。そしてたとえ自分の恋人や夫婦になることがなくとも、その人の価値を守り育てたいという愛は、何も聖人君子のきれい事ではない。それによって自分を育て高めてくれているのだから。◆愛はそれが自己犠牲としてある時の他は、愛の名に値しない。
(ロマン・ロラン『トルストイの生涯』)
今の日本の思想状況では、殆どの人が何を絵空事をというのかも知れない。今の日本の風潮は、功利主義が蔓延し、愛と欲との区別がつかなくなってしまっているからだ。
愛とは育む心である。好きになった人が生きて欲しい、育って欲しいと願う心である。もし自分が助けることで、その人が育つなら何とかしたいと思う心が絵空事であるはずはない。自己犠牲によって愛するものが育つなら、自分はその人中に生きることができるのだから。
生かしたいという心もなく、ただ好きな人を奪おうとする心は愛ではなく欲である。それを奪ってもその場限りの快楽を得るだけで、愛する人を育んだという充足はない。その人の中に生きることは出来ない。(7月23日)◆真に愛する心の中では、嫉妬が愛情を殺すか、愛情が嫉妬を殺すかのどちらかである。(ブールシェ『近代恋愛の生涯』)
愛情が嫉妬を殺すことが人間性である。しかしそれは、嫉妬を抑圧することではなく、愛に昇華させることである。◆愛するものは誰も不幸と言ってはならない。報いられない愛でさえもその虹彩を持っている。(ジェームズ・バリー/イギリスの劇作家)
遠くから見ていることしか出来なくても、いつまでも見守りたいと思う人がいることは、それだけでも自分を満たしてくれる。誰かにあの人のことを聞かれたらその人の真価を伝えよう。それだけでも愛を育むことになるのだ。(8月5日)◆心から愛する人は決して老け込まない。(ことわざ)
愛とは「育む心」である。だから常に何かが生まれ成長している。老け込まないのは当然だ。欲は「快楽を求める心」である。それはただ消費する心だ。肉体は若くとも心はすっかり老化してしまう。
愛と欲とは見かけは同じでもその心は全く正反対のものだ。戦後、大人たちは欲を愛だと子供に教えた。育った子供達は育む心を失ってしまった。愛する心を、育む心を取り戻さなければならない。(7月9日)◆敬天愛人(西郷隆盛)
「天を敬い人を愛す」という言葉が西郷隆盛は座右の銘だった。夏目漱石は「則天去私」などと自分が悟ることしか考えていないのに比べて、すごく暖かい言葉だ。どんな気持ちで倒幕運動をし、西南戦争を起こしたのかがわかる。
夏目漱石が「天に即する」のに対し、西郷は「天を敬う」というように自分の謙虚さと能動性を大切にする。そして漱石が「私を去る」のに対し、西郷は「人を愛する」のだ。◆知ることが少なければ、愛することも少ない。(レオナルド・ダ=ヴィンチ)
人でも、自分が生きがいにしているものでも、それを深く知ることで、それを愛し、守り、育もうとする心が生まれる。だから知ろうとする心を育てる好奇心と感受性がなければ愛する心も生まれない。(4月22日)◆わが子への没我的な愛は、すなわち子供を一体化したエゴイズムである。しかし命をもってしても我が子を救おうとする時、確かにそれは真の愛である。(Syuugoro)
「お受験」などという変な欲が、子供の脱落・非行・逮捕などという挫折で消し飛んで、今はただ我が子が生きていてくれるだけでいいと子供の前で泣き崩れた時、真に子供はその心を開くだろう。◆愛は惜しみなく与える。(聖書)
愛は惜しみなく与え、欲ははてしなく奪う。愛は好きになった人を生かし、育もうとする。欲は好きになった人を、たとえ相手が壊れても手にいれようとする。
ある人は「好きな人にすべてを与えようとするのは、それによって自分が快感を得るのだから、やはり奪うのと同じだ」という。レベルの異なる欲求を同一視した危険な誤解だ。愛は「育む心」である。欲はただ「消費する心」である。
与えたものはいつまでも人の心の中に生きる。与えることなく自分で独り占めするものは、ただ消費されて忘れ去られてしまう。(4月23日)◆人の不幸に同情することは人間的であるに過ぎない。それを救うことは神聖である。(ホーレス・マン/アメリカの教育改革家)
今の日本人にとっては人を救うどころではなく、人に同情する心を取り戻さなければならない状態になっている。「情けは人のためにならない」と諺の意味を誤解することにもそれが現れている。
「共感」や「同情」は人間であることの最も本質的な心の働きである。それがなければ、その他のどんな能力も人間的なものでは有り得ない。(6月13日)◆愛する−それはおたがいに向かいあっって見つめることではなく、一緒に同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュベリ)
サン=テグジュベリは『星の王子様』の作者。肩を寄せ合って夕暮れの海を見ている二人の後姿は絵になる。何も言葉を言わなくても、二人は同じ希望と憧れに満ちた未来を見ているのだ。何億もの世界の恋人が体験しただろうこの風景も、決して色あせることはない。人間のある限り美しい感動がある。(8月16日)◆あなたのためにたとえ世界を失うことになっても、世界のためにあなたを失いたくはない。(バイロン/イギリスの詩人)
「世界を失ってもあなたを失いたくはない」というのは究極のエゴであると同時に究極の自己犠牲である。人は恋人のために、愛する妻や夫のために、愛する子のために命を捨てることがある。それは才能とか教養とかいうものとは無縁の情念だ。それは生死を賭けた命の炎だ。その命の炎があってこそ本物の人生を生み出すのだろう。(10月30日)◆人の愛を得たいと思うなら、人の心を理解するのではなく、人の心に共感する能力を養わなければならない。(Syuugoro)
まじめで教養もある経済的にも中流以上の家庭の子供が、ドロップアウトして社会に適応できず不登校になったり、事件を起こしたりするケースが非常に増えている。それは「競争原理」や「利潤原理」などに煽られる今の社会の問題もあるが、それと同時に「感じる能力」ではなく「理解する能力」のみを与えようとする親や教師の育て方にも原因がある。
どれだけ正しい考えでも理屈だけでは人を動かすことは出来ない。共感があって初めて人の心は動く。共感する心が育たなければ人の心につながることは出来ない。(11月7日)◆山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり(石川啄木)★
【愛国心】
◆人類から愛国心をたたき出してしまわない限り、あなた方は決して平穏な世界を持たないだろう。(バーナード・ショウ)愛国心というのは決して、自分を育んだ自然、風土や文化に対する愛着ではない。多くの場合、「愛国心」を鼓吹する者の本性は、国家に依拠して既得権を守ろうとする、あるいはそれにたかって餌にありつこうとする、あるいは国家を功名心の踏み台にする、あるいはそれを利用して民衆をどこかへ引きずって行こうとするならず者の陰謀である。
真に民族の文化や風土を愛するものは民族の文化や風土を愛するのであって、国家を愛するのではない。国家は政治の執行機関であって、それ以上でも以下でもない。(9月12日)◆いつの時代でも悪人どもは自分たちのけがらわしい行為に、宗教と道徳と祖国愛とに奉仕するのだという、仮面をかぶせようと努力してきたのである。(ハイネ)
★
【挨拶】
◆挨拶は時の氏神。(諺)
誰かとけんかをしている時、仲裁をしてくれる人が現れて、助け舟になるという意味。【悪】
◆悪を避けようとする決意がつくられるのは、多くの場合、もはや避けることが出来ないまでに悪が進行した後のことである。(トーマス・ハーディー/イギリスの作家)
これが悲しい人間の性というべきか。ロッキード以来、リクルート事件や佐川事件、ゼネコン汚職など、どこまでもとどまることを知らない政治家や財界の腐敗で、失業者や自殺者が記録を更新し、犯罪や家庭内暴力、児童虐待が蔓延して、このまま落ちてゆけばどうなってしまうのかと思える社会である。
ここまで来ると「清濁あわせ呑む」などと腐敗を正当化するような言葉はあまり聞かれなくなって、脂ぎった政治家が、一見まじめくさった顔をするようになってきた。しかしこれから少しはまともな社会になるのか、もっともっと落ちてゆくのか予断を許さない状況だろう。(4月8日)◆生まれつきの悪人などはいない。誰でも、一度に悪人になることはない。どこかで防ぐことは出来るのだ。(不詳)
最近の少年の犯罪を見ると、今の社会の病理が最も深い所、つまり子供が育つ環境そのものを蝕んでいることを示しているようだ。どんな人間であれ、生まれた時からの悪人という人間はいない筈なのに。
子供の倫理観を育てるという価値観が大人の中で崩壊してしまっているのだ。大人自身が倫理というものを生活のための功利的な道具としてしか考えていない。損得を超えた所に真偽、善悪の価値を認めなければ、社会は早晩退廃してしまって、誰も健康な精神を持つことが出来なくなってしまう。(11月14日)
◆悪意は、さらに悪辣になろうと善意の仮面を被る。(ププリリウス・シルス)
要領主義者や功利的な人間は、いつも自分の言葉や行為の効果を計算しながら人に接している。彼が人に悪意を持つとき、決してその悪意を表面には出さず、親切にふるまったり好意を示したりして自分の手の内に引き込もうとする。彼は多くの人から善人と見られている。そして二人きりになった時にのみ悪意を持つ人間を攻撃する。要領主義者や功利主義者に注意せよ。彼は君が孤立した時、敵の同調者の中に見出されるだろう。(6月7日)◆悪というの善から追い出された人にとっての居場所である。善に居場所を持てない人が多ければ多いほどその社会は病んでいる。(Syuugoro)
だれだって人に好かれたいし、自分の能力を評価されたいし、尊敬もされたいだろう。生まれた時から悪人などという人はない。僕は50年の人生の中で、勉強も仕事も遊びも普通以上に出来て道徳を持った家庭に育ち善良に生きている人達に、仲間に入れてもらえず悪くなってゆく人をたくさん見てきた。
法を守る警察官や法律家、法を作る政治家、人を育てる教育者は、そうした悪の中にしか居場所を持てない人にまともな居場所を与えようとする努力を仕事上の義務として持っていなければならない筈だ。(4月9日)◆悪人だけが悪いことをしているのなら、その社会は健全だ。善人まで悪いことをし始めたら、もうその社会は衰退する他は無い。(Syuugoro)
新潟県警で明るみに出た国会議員を利用した交通違反のもみ消し疑惑。これは戦後民主主義の本性を暴露したものだろう。社会を荒廃させている主犯が政治家よりもまずそれにたかる有権者であることを示している。就職や公団住宅への入居、果ては進学にまで政治家を利用する国民、彼らは善良な市民といわれる。皆が不正を始めたら、社会のシステムは根幹から崩れてしまうだろう。(4月24日)◆悪行の呪いは、たえずそれが悪を生まざるを得ないところにある。(シラー/ドイツの詩人)
ところで「悪」というのは一体何か。普通に言えば法や社会的な規範・秩序、人との約束を破り、破壊することをいうのだろうが、もっと本質的に言えば個と集団の自己実現を否認し、破壊することだろう。ひらたく言えば自分の与えられた能力や可能性を育てることを忘れ、人を嫉妬し、人の居場所を奪い、たかり、あるいは否認し、破壊することだ。そんな癖がつくと、もう人に寄生してしか生きられなくなるから、悪心というのは必ず常習化する。それは麻薬のようなものである。
自分の居場所を育てるよりも、人の居場所を奪う方が得だと考えるのは愚かな幻想である。育てることは物だけではなく心も豊かにするが、奪うことが心を豊かにすることはないからだ。(11月25日)
【与える】
◆浪費したものは、すでに無いものだが、与えたものは今も生きているものである。
《い》
【怒り】
◆怒りは敵と思え。(徳川家康)
徳川家康という人は「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」「勝つことばかり知りて、負けることを知らざればその害身に至る。」などの言葉でもわかるように、耐えることと冷静に状況を見ることを常に自分に言い聞かせた人のようだ。自分を抑える人もいれば、感情的に行動する人もいる。見えるものしか信じない人もいれば、直感的に見る人もいる。しかし、どんな人にとっても、感情的な人にとっても、怒りがその人に有益なものをもたらすことはない。たとえ怒りで相手を黙らすことが出来ても、決して相手を得ることにはならない。「怒ること」と「叱ること」の違いを知ることが大切である。【生きがい】
◆面白きことも無き世を面白く
住みなすものは心なりけり(高杉晋作)
高杉晋作が27才の生涯を閉じる時の辞世の歌である。晋作が上の句を作り下の句が出来ず苦しんでいると、看病していた野村望東尼が下の句を詠んだ。晋作はそれを聞いて頷いて「面白いのう」と言って息を引きとったという。
彼は天才的な機略で「奇兵隊」という平民で組織された軍隊を作り、佐幕派が牛耳った長州藩の軍を破って藩の指導権を握る。その後長州藩ただ一藩で幕府軍を破ってしまう。そしてたった27才で結核で死んでしまった。時代的環境的な制約があっても、その中で自分の持てる力を使い切った。だから人生は「面白い」のだ。(4月9日)◆ドン・キホーテは風車と戦う。ともかくも、それが、真実彼にとって生きることなのだ。(Syuugoro)
愚かといわれようと、自己満足といわれようと、ともかくも生きているという実感は自分に発する。世間的な価値を追いかけても、それが自分の居場所にならないなら、決して生きているという実感を得ることは出来ない。それを「自己満足だよ」などとあざ笑う者など放っておけ。自己満足で結構だ。自己満足すら出来るものの無い者がどうして幸福になることが出来るだろう。
自分の世界を持とう。ひとつの音楽に接して「生きていて良かった」と思う心は嘘ではない。感受性の無い者に幸福が訪れることなどありはしないのだ。
幸福とは主観の世界である。それゆえ感受性のないところに幸福は存在しない。(5月9日)【生きること】
◆良く生きることと、美しく生きることは同じものである(ソクラテス)
人間には「審美欲求」というものが備わっている。しかし恐らく歴史上、今日ほどこの審美欲求の存在が疑われ否定された時代は無いのではないか。戦前の社会で、審美欲求は国家主義によって歪められ強制され破産しまい、その反動で思想・倫理観というものが懐疑されるようになってしまった。しかし思想を持たず生きることは、羅針盤を持たず航海するようなものだ。
人が生きることとは、自分の持っている人間としての可能性を具現することである。その最も人間的なものが「美しく生きる」という欲求だろう。
美しく生きるということは、「自分を育み、人を育み、社会を育む」心である。美とはその物が持つ個性が最も完全に実現された姿だから、人の美もその人の個性が最も実現されている姿ということが出来る。そして人が社会的な存在であるということを考えれば、他人の自己実現、社会の自己実現に対して自分に出来る援助・貢献を最も良く成し得ている姿であるといえるだろう。
自分と人と社会と、それらが持っている可能性が最も良く実現されていること。それが善であり、正義であり、美であり、そして真理であることは、右翼であろうと左翼であろうと否定することは出来ない。(1月3日)◆もっとも尊重せねばならないのは、生くる来ることにあらず、良く生くる事である(ソクラテス『クリトン』)
◆考えたことが多ければ多いほど、成し得たことが多ければ多いほど、それだけ君は生きたことになる。(カント)
◆自分の能力が平凡でも、それを発揮しきっている人があれば、それは決して平凡ではない。(Syuugoro)
平凡な人でも、やはりその人の持っている可能性は無限に広い。それは自分が今までやってきたことを考えてみればわかるだろう。自分に出来ることで、まだやっていないことがどれだけあるかを考えてみれば。(4月27日)◆生きることとは人が持っている可能性を形にすることである。(Syuugoro)
45才の年に僕が考えた言葉で、それ以来もっとも僕を支えている言葉である。「自己実現」という言葉はよく使われる。しかしそれは、社会的な価値を生み出すという意味合いが強い。僕のいう意味は「花は、それを愛でる人がなくとも、精一杯咲いている」という意味だ。確かに人間には認知欲求というものがある。しかし、人に評価されるものを求める前に、自分が持っている様々な可能性を、条件が許す限り実現することが、生きることの前提になければならないと僕は考えるようになった。人が認めてくれないものでも、人間として捨ててはならないものがたくさんある。それを大切にしながら、僕が得たものの中で人が受け入れてくれるものを示して行くといいうのがもっとも合理的な考え方だと思う。
そして間違っても世間の価値を追って、自分を自己限定するようなことがあってはならない。人にとって必要は無くとも、自分が生きるために必要なのだから。◆真理の導く処へ赴かん。それがいかなる処であろうとも(プラトン)
人間は本来、審美欲求を持っている。損得ではなく、真理か虚偽かに従って生きることが本当の生き方だろう。人間は人に嘘をついても自分に嘘をつくことは出来ない。自分に嘘をつけば、自分の内面に自分の世界を持つことが出来ないだろう。
自分の内面に心の港になり、生きるための羅針盤ともなる自分の世界を築きたいと思うなら、少なくとも自分に嘘はつけない。そうであるなら、損得を捨てて真理の導く所へ赴くというのは結局自分の為なのだ。(4月11日)◆力が充実している時なら、出来ないことにチャレンジすればよい。しかしそれだけの力が無い時には、出来ることを磨けばよい。それも充分に意義あることだ。(Syuugoro)
よく言われることだが、大人になってから児童文学を読むと、子供のときには気付かなかったことを発見する。そしてそれは人生にとって非常に重要なものであることがしばしばである。
より高いものを求めるだけが能ではない。これまで蓄積してきた知識や経験をもう一度繰り返して学習すると、必ず新しい発見があるものだ。
【急ぐ】
ゆっくりと急げ(アウグストゥス)
自分が秋に咲く花ならば、春に咲く花を羨むことはない。自分の持っている可能性以上のものを追いかけても挫折するだけだ。他人の成功や成長の速さなどを気にせず、自分の能力に応じた速さで生きてゆくことだ。
しかし自分の持っている可能性の実現を怠っては成らない。今日、与える肥料は今日与えなければならない。今日出会えるチャンスは今日だけのものである。
人生の肥料は自分の外にあるけれども、自分の人生の種子は自分の中にあるのだ。それを間違ってはいけない。(1月4日)【依存心】
人城に頼らば、城人を捨せん。(織田信長)
「攻撃は最大の防御」という言葉があるが、二千の兵で三万の大軍に勝った桶狭間の戦いは、その真骨頂だろう。篭城していれば、その後の織田信長は決してなかっただろう。常識を破る勇気と情勢を判断する理性を持っていなければ出来ないことだが、誰の人生にも一度か二度は、こんな場面がある。(5月23日)【居場所】
◆人の本性を善と見るか悪と見るか。そんなことは現象的な問題だ。善人も、悪人もみな居場所がなければ生きて行けない。(Syuugoro)
正義や倫理を振り回して、人を追い詰め、その人間が悪に居場所を求めたら、追い詰めたその「善人」は決して良いことをしたことにはならない。人の居場所を荒らさない。このことが最も大切なことなのだ。
《う》
【嘘】
◆人間は他人の嘘には容易に気づくものであって、只その嘘が自分におもねる時か、或いは丁度都合の良い時だけ、それを信じるのである。(ヒルティ)
自分の判断が利害によるのか、真偽によるのかによって人間の生き方は全く変わってしまう。選択、行動は利害によっても認識、判断は理性よらなければならないのは当然のことだろう。認識、判断をゆがめることは、その時は心理的満足を得ても、結局最後は自分の自己実現を失敗させてゆく。(4月1日)◆真(まこと)らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず。(徳川家康)
現実主義者の鏡とも言うべき徳川家康らしい言葉である。この家康のイデオロギーが江戸時代三百年を支配し、さらには現代に及ぶまでの日本人の価値観を支配してきた。マキャベリと共通するものがあるかも知れない。僕は真を真らしく語り、人とともに感動できる生き方がしたいと思っている。◆嘘や言い分け、陰口などというものは、甘え・たかりの仕事である。(Syuugoro)
自立して、自分の世界を持って、自分に与えられた可能性を実現することに邁進する者は、嘘などつく必用がないだろう。嘘というのは、結局無いものを有るように見せる詐術だ。
「相手を傷つけないように嘘をつく」という言い分けは二重の詐術だ。誠実ならば相手を傷つけないように本当のことを言う努力をするだろう。
自分が大きく見せたいと思うことを、謙遜を装って小さく見せるというのも感心したものではない。やはり詐術の心がある。大きく見せたいものは大きく見せるのが誠実だろう。「自慢になるけど、やっぱりうれしい。迷惑と思うけど、話を聞いて。」そんな言い方がニュートラルな言い方だろうか。
嘘をつかなければ自分の居場所を保てないということがあるだろう。しかし、大抵それは幻の居場所だ。それでもいいと言うかもしれない。しかし人間の本性に反している。いかにみすぼらしくとも、自分に与えられた可能性を形にすることが人間の、いやそれどころか生物の本性なのだ。
それでも人は嘘をつく。釣りをするのに餌をつけるような嘘がある。身を守るために自分の身体を木の葉に見せる虫がいる。そんな嘘もあるだろう。しかし本物の魚がつれないならば餌など付けても無意味なように、魚が釣れた幻想を自分や他人に与えるような嘘をついてはならないということだ。【自惚れ】
自惚れの 他に褒め手は なかりけり(江戸川柳)【噂話】
◆噂話というものは、最初の人が好意を持ってしたものでも、伝わる内にそれを別な目的に利用しようとする者の手に渡る。(Syuugoro)
皆が知っていることは話の素材にはなっても噂話にはならない。プライバシーに関わることは、たとえ良い話であっても、それを噂をされる人の同意がなければならない。結局、噂話というのはするべきことではないだろう。
【運】
◆運はその日限りのものである(エウリピデス)
一時の気分や感情で、人の誘いや依頼を断って、後で後悔をすることがある。惰性に流されて見過ごしにしているものの中に、後になったら締め切りの終わっているチャンスがあったりする。毎日々々自分の選択する行為によって、自分の人生は変わってゆく。毎日新たな気持ちで人の話を聞き、自分の周りを見渡す習慣を持てば、新たなチャンスにめぐり合い、新たな運命が開けるのだろう。(11月21日)◆幸運は勇者に味方する。(ベルギリウス)
勇者とは損得や勝ち負けに執着せずに真偽・善悪に着いて実行できる者のことだろう。純粋な感受性を持って居ればこそ、チャンスを見逃さない目を持つことが出来る。◆偶然は、準備の出来ていない人を助けない。(L.パスツール/仏の科学者)
希望とか意志を持っていなければ、チャンスがやって来ても何も感じない。歌手になりたければ、毎日歌を歌っていなければならない。「求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉があるが、求める心のない者はチャンスをつかむどころか、気づくこともないだろう。成功しようと失敗しようと、自分の今日ある可能性を実現する人の所にチャンスは訪れるのだ。(12月13日)【運命】
◆運命が僕から、何もかも奪ってしまったとしても、僕の意思まで奪い去ることは出来ないのだ。(不詳)
何もかも失って、あるいは最も大切なものを失って、すべてが空しく、生きることに意味を感じられなくなる。そんな時にも「自分に残された可能性を実現しよう」と思うことが出来れば、その意思の力を持つことが出来れば、人は生き続けることは出来る。希望とは意思の力に宿るものである。
◆運命は我々の行為の半分を支配し、外の半分を我々自身に委ねる。(マキャベリ)◆神は自然に原理と法則を与えるが、決して運命を予定しない。運命を決定するのは人間の意志である。(Syuugoro)
神が人の運命を予定するなら、人間に「意志」などを与える筈がない。すべての生物、自然がみずからの可能性を全うし、人間もまた持てる能力と可能性を実現し、より良く生きようとすることが神の意志ならば、より良きものを選択する意志こそが人が生きることの証であり神の意志である筈だ。それならば運命は人が何を選択するかによって不断に変わってゆくことになる。人は意義のある生き方も、無意味な生き方をすることも出来る。幸福になることも、不幸になることも出来る。それはすべて人の意志によって決まるのだ。♪
《え》
【エゴイズム】
◆わが子への没我的な愛は、すなわち子供を一体化したエゴイズムである。しかし命をもってしても我が子を救おうとする時、確かにそれは真の愛である。
「お受験」などという変な欲が、子供の脱落・非行・逮捕などという挫折で消し飛んで、今はただ我が子が生きていてくれるだけでいいと子供の前で泣き崩れた時、真に子供はその心を開くだろう。個人のエゴなど大したことはない。組織や集団を騙(かた)るエゴこそ悪質だ。
自分のことしか考えないという人間でも給料だけの仕事はして、人の居場所を荒らさないなら、その人間は倫理観の崩壊した今の世の中なら上の部だ。人を巻き込み、人を排除し、人を支配したがるエゴほど悪質なものはない。彼らはいつも仲間のためとか、会社のためとか、国のためとか言って、組織や集団にたかるのだ。♪◆その膝に枕しつつも
我が心
思ひしはみな我のことなり(石川啄木)【選ぶ】
◆えり好みするものは、いちばんつまらぬ物をつかむ。(ことわざ)
育む心を持っていれば、決してえり好みなどはしないだろう。自分の持っている物を育てる。それが育ってゆくことが幸福なのだ。「人の羨むような物でなければ、手に入っても嬉しくもない」という心は、仮に人の羨むものが手に入っても、それを育もうとする心がないから、その価値を充分に生かすことも出来ない。そして自分にとって最も価値あるものが手に入ってもそれを見出す心が無いから、気づかずに放り捨ててしまう。
育む心、すなわち愛を持っていれば、無数の宝を持っている。愛が無ければ何を持っていても、何も持っていないのと同じである。(5月25日)
【厭世家】
◆厭世家とは、すべての人が自分と同じようにいやらしい人間と考え、そのためにかれらを憎む人間である。(不詳)
学校や職場の「いじめ」や「仲間はずし」のように、自分に悪意をもった人間がまとわりつくことがある。そんな時、すべての人が醜く疎ましく思えて、人がみな損得や勝ち負けや世間体を追いかけ、目先の快楽や保身にしがみついているように見える。そして人嫌いになってしまう。
しかし彼らの自分に対する悪意の動機になっている邪魔者を排除し、気に入った人間関係を独占しようとする気持ちに嫉妬する心が自分に無いのなら、たとえ孤独であっても、そんなに苦しむことは無いだろう。自分の心に同じものがあるから苦しむのだ。
そしてたとえ数は少なくとも、必ずまわりに同調せず、自分の目で見ている人はいるものだ。自分の利害に流されず、理想の実現に希望を持っている人がいる。それを見落としてはいけない。(5月22日)
《お》
【老い】
◆夕映えが美しいように、老人の場所から見た世界は美しいのです。(伊藤整)
豊かな人生の経験があれば、たしかに世界を夕映えの美しさと感じる感性を持つことができるだろう。しかしそのためには豊かな人生の経験という前提がある。たゆまず学び、たゆまず考え、たゆまず自分に出来ることをなす。その日常があってはじめて人生の完成という輝きを獲得できるのだろう。◆千年木は枯れる日までその幹を太らせ続ける(Syuugoro)
老いることが価値を失うと考えるのは、惨めと言うよりは本性に反している。年を取ることは価値である。本来人間は千年木が枯れるまで幹を太らせ続けるように、死ぬときまで成長し続ける能力を持っている。つまらぬ自己限定をしなければ、頭がボケない限り、死ぬまで人間は成長するはずだ。それまでの経験の蓄積は、決して若い人間が手に入れることの出来ないものだ。老いを迎えて、死が近づいたとき見せる姿がその人間の本性だ。(5月31日)◆精神の一番美しい特権の一つは老いて尊敬されることである。(スタンダール『恋愛論』)
豊かな経験と知識によって、迷っている若者に適切なアドバイスすることが出来たら、そしてその経験と洞察する力の故に決して動揺することのない落ち着きを持っているとすれば、老人は多くの人の尊敬を得ることが出来るだろう。そしてそれを実現するのは、ただ人生を真面目に生きることであって、誰でも可能なことなのだ。(11月13日)◆老年の悲劇は、彼が老いたからではなく、彼がまだ若いところにある。(オスカー・ワイルド)
年を取ることが価値であるのは、その人の知識や技術、経験の蓄積やそれが生み出す洞察力と思想、人間性である。つまりは精神的な価値の中にしか老人の価値は無いのだ。
いつまでも若い人間と同じような欲望を持ち、遊べることが価値だと考える消費的な人間にとっては年を取ることは価値を失うことでしかない。その人にとっては人生は死に近づけば近づくほど不幸なものとなり、死は絶望となる。
精神的な自己実現を人生の目的にし、日々努力をする人にとっては、年を経ることはより自分を育て大きくすることである。いかに肉体が衰えても、精神は豊かさを増し、死は人生の完成となる。(6月26日)
【男】
◆両雄並び立たず(漢書)
男はの本性として同性に対して排他性を持っている。その原初的なものがエディプスコンプレックスだ。少年時代も同世代の同性と本能的に優劣を意識し、劣等の者を攻撃して満足を得る。
そうした同性に対する排他性・敵愾心を克服するためには倫理的・思想的な自我の成長がなければならないが、思想的な価値が一切崩壊し、競争原理・利益至上主義が正当化される今の日本では歯止めのかからない状態になっている。
しかし自分と人と社会の持てる可能性を形にすることが、唯一正当化しうる生き方である。排他性を剥き出しにして、他人の自己実現を疎外することが正当化される筈がない。
小牧・長久手の戦いで、徳川家康に敗れた豊臣秀吉は自分の姉を家康に送り、それでも上洛しないのを見て、母親を人質として家康のもとに送り、ついに家康はそれに応え上洛し、秀吉の政権を是認した。両雄は和し、並び立ったのである。【男と女】
◆男は憎むことを知っている。しかし女は嫌うことしか知らない。(レニエ『反面の真理』)
ユングの性格分析で、女は感情型が多いという話を心理学の本で読んだことがあったが、相対的には、男は思考的で女は感情的という傾向があるかも知れない。女が男に比べ親和欲求が強いことも心理学の実験でよく聞く話だが、それとも関係している感じがする。つまりは母となる営巣本能に源を発する傾向だろうか。◆男は知っていることをしゃべり、女は人に喜ばれることをしゃべる。(ルソー『エミール』)
★
【思い出】
◆思い出のうちに残っていないような喜びは真の喜びではない。(ダニエル・サンダース)
日々楽しさ快適さを求めて、手帳を遊びの予定で埋めるような生き方をする人がいるが、それは「思い出に残る喜び」どころか、たえず新たな快楽を補充しないと所在を失ってしまう人である。人生の深刻な問題を切り捨てる人は、明るいどころか最も暗い人だ。
逆に人の哀しみ・苦しみに共感し、みずからもそれを率直に表現できる人は、育む心−愛を知る人であり、真の喜びを知る人である。そして彼は豊かな思い出を人々に語るだろう。(7月17日)
◆喜びも、悲しみも、苦悩も、挫折も、一切の思い出は新たな創造の為の宝箱である。(Syuugoro)
芸術の多くは芸術家の思い出の中から生まれる。思い出を反芻するなかに、いつも新たな感動があり、新たな発見がある。それは新たなものを創造するための、かけがえのない宝箱だ。豊かな思い出を持ち、豊かな感受性を持つこと。それはただ心の持ち方の問題だから、誰でもできることだし、その心を持ち続けるならばいつまでも創造性を失うことはないだろう。
(1月5日)ある人は言う。「会社に入ってからの30年は、一瞬のようだった」と。しかし思い出を大切にする人は言う。「その30年の中に散りばめられた一瞬、一瞬は永遠の輝きを持っている」と。(Syuugoro)
人間の価値は、その人の持っている空間の広さだ。思い出はその人の体験が作った空間の拡がりだ。そして憧れはその人の未来への可能性が作る空間の拡がりだ。それは同じ心が生み出すものだ。懐かしむ心と憧れる心は同じものだろう。
培った知識、経験した出来事、成し遂げた仕事、未来への憧れ、それを実現しようとする志の強さ。それらすべての総和がその人の価値であり、魅力だろう。◆思い出という花壇を持って、
人はそれぞれの胸に
季節ごとの花を育てている
(西岡光秋『淡い記憶のように』/1934〜詩人・小説家・文芸評論家)
◆かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど(石川啄木)★
【愚か者】
◆賢人の舌は胸にあり、愚か者の心は口先にある。(聖書)◆断言と強情は、愚か者であることの明白な証拠である。(モンテーニュ)
断言と強情というのは、自分の意見を持たず、権威や権力ににすぐに影響を受ける人の別の側面である。つまりは自分の思想、人生観に確信が持てないから断定的になるのだ。本当に信念を持つ人は、自分が信念を持つに至った道筋を、決して断言的にならず、解き明かしながら話す。
利害や立場を自分の思想にする人は、真理を拠り所に自分の思想を築くという考えがないから、決め付けざるを得なくなる。決め付ければ決め付けるほど、自分の思想は不確かなものとなってしまう。
◆小人は非を飾り、君子はこれを改む。
自分の犯した罪を隠す者だけでなく、仲間で犯した罪を、しらばくれて、うやむやにしようとするあらゆる身内エゴイストにこの言葉を捧げる。いじめ事件をもみ消す親や教師。不祥事を隠す企業や役所・学校・警察。汚職を秘書の責任に転嫁する政治家。日本の戦争責任を、戦勝国のでっち上げだと強弁する保守主義者。これらの人々は、疑いなく日本人の名誉を傷つけているのだ。
人の噂が75日で消えるのは日本人の巷間だけで、世界の中で歴史の記憶は永久に保存されるということを、知らなければならない。【女】
◆女はやはらかに心うつくしきなんよき。(紫式部)
これを男尊女卑の時代の女性観と考えるべきではない。ハーローのアカゲザルのように、赤ちゃんサルはエサをくれる固い人形より、エサをくれなくてもやわらかい人形にすがりつく。
「やわらかさ」は「やさしさ」「たおやかさ」「愛らしさ」を生む。大人になっても、人が傷ついた時、もっともその心を癒してくれるものが「やわらかさ」である。
「やわらかさ」は女の特性である。それは肉体のみならず、その精神においてもそうである。女が男に比べ親和欲求が強いことはさまざまな心理学の実験で証明されている。父親が理で諭し、母親が情で庇うという性格の違いは同等の価値をもった有益な性差だ。現代の日本は理を失った父親や情を失った母親が氾濫する歪んだ男女均質主義がはびこっている。それは生まれてくる子供にとって、もっとも残酷な環境ではないか。◆世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳の
今も目にあり(石川啄木)