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岸信介は、叔父松介の義弟松岡洋右や東條英機、その片腕の星野直樹、日産の鮎川義介らとともに満州の「ニキ三スケ」と呼ばれ、戦前の統制社会、国家社会主義(ファシズム )の実験を満州で行い、 それを日本の国家体制として実現した中心的人物の一人である。
外では松岡洋右が国連を脱退し、日独伊防共協定を締結、ファシズム国家の枢軸国体制を作り、内では 岸らが国家総動員法による翼賛体制を企画・立案 した。そして岸信介は東條内閣では商工大臣となってアジア諸国地域での戦争継続を可能にする戦時体制を遂行した。しかし敗色が濃くなると、東條英樹から離反し、倒閣に動いて自らの延命をはかる。
そして戦後、岸は、ファシズムを支える高級官僚の1人であった実弟の佐藤栄作とともに真逆さまな筈の戦後民主主義社会でも国家権力を握り続け、 兄弟で首相になり果せたのである。
しかも佐藤栄作は戦後史上唯一「指揮権発動」によって「造船疑獄」と呼ばれた汚職をもみ消し、「非核三原則」を標榜してノーベル平和賞まで貰ったのだが、その「非核三原則」のうちの「持ち込ませず」 も嘘であったことが毎日新聞の記者によって暴露されたのだった。しかし裁かれたのは、佐藤ではなく暴露した西山記者の方だった。岸・佐藤兄弟のサクセスストーリーは、出世譚としては太閤記に匹敵する成功話になるだろう。しかしこの兄弟のような右翼的、国家主義的な出世主義者によって日本は無茶苦茶にされたのである。
封建的な「家」思想から生まれた「身を立て名をあげ やよ励めよ」という精神が生み出した強烈な出世主義と支配欲が昭和前半の日本社会、そして戦後の社会に何を残したのか、それを岸信介の生涯を見ながら検証して行きたい。
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岸信介は1896(明治29)年、山口で生まれた。父秀助はその当時県の役人をしていたため山口に居たのだったが、元々は田布施の岸家の出で、同じ田布施の旧家佐藤家の婿養子に入り、分家を立てたのだという。父秀助はまもなく県庁を辞めて、田布施に帰り、佐藤家が持っていた造酒の権利を貸していた人から返してもらって、酒造りをすることになる。信介の少年時代はそのような環境だったのだが、一般の田舎の旧家と異なるのは、母茂世の祖父佐藤信寛が島根県令(知事)をしていたことである。信寛は吉田松陰に軍学を教授したという人物で、伊藤博文などとも親交があったという。又、母茂世の叔父 (鼓)包武は陸軍少将、もう1人の叔父(井上)太郎は井上馨の養子となり陸軍少佐となっている。 井上侯爵家と親戚ということだから、単なる旧家という以上に、名家という誇りをもっていたのだろう。岸信介自身が生まれた佐藤家や養子先の岸家は名家でも華族ではなかったが、後に岸が華族制度の廃止を考え、提起したというのは、同じ長州藩士の家で、華族となった伊藤家や井上家と自分の家との落差が影響しているのかも知れない。
岸信介は高等小学校2年の時、岡山医専の教授をしていた母方の叔父松介が住んでいる岡山の内山下小学校へ転向し、1909(明治42)年に俊才の集まる岡山中学へ入学する。それは信介の教育を医専の教授をしていた松介に委ねるのが最善だと考えたからだろう。もちろんまだ小学生だった信介の意思ではなく、両親の意思であっただろうが、現代の感覚と全く違うのは、両親の
意志以上に佐藤一族の意思が働いていると思われることだ。
信介は小学校時代は、長州の多くの男子児童がそうであったように軍人に憧れたらしい。信介の兄市郎は後に海軍中将になっている。しかし中学校時代には次第に政治家になることを目標にするようになったようだ。
またこの年1911(明治44)、中国に辛亥革命が起こり、日本政府は清朝を援助するが、多くの日本人が孫文を中心とする革命勢力に共感したという。しかし
、その共感は同床異夢で、中国が近代化を達成し、列強からの解放と自立を実現することを期待する人々が居た一方、混乱に乗じて中国での日本の権益を拡大しようとする軍人、政治家、資本家、さらには大陸浪人が暗躍し始める。そして歴史は彼らの意図するように動いて行き、満州の権益独占を図り、満州国建設から翼賛(ファシズム)国家の建設、そして日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでゆくのである。これを主導した
「満州の3スケ」とよばれた松岡洋右、鮎川義助、岸信介や久原房乃助などの多くが長州出身で、しかも縁戚で結ばれていた。 |
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岸信介が一高に入学した1914()年の2月20から7月31日まで、上野で東京大正博覧会が開かれた。不忍池の上をロープウェイが走り、第1会場と第2会場を結ぶ斜面はエスカレータで結ばれた。このエスカレーターは有料で、最初10銭だったのが15銭に値上げされたという。因みに15銭という額は、この当時の日雇い労賃が60銭ほどだったから、その4分の1になる。エスカレーターだけで日当の4分の1の値段だったが、閉幕までに750万人が訪れたというから当時の日本人の人口の10人に1人が訪れたことになる。
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岸信介は一高時代にドイツの哲学者の著作を中心に濫読していたらしい。そのことが当時のインテリ層の流行だっただろうが、岸の場合は特に、明治前半期の福沢諭吉に代表される「脱亜入欧」の精神、科学技術だけではなく、社会制度や倫理観も含めて、欧米の先進国に学ぶという精神とは違っているだろう。 すでに「和魂洋才」という精神が時代の精神となり、日清、日露戦争後は欧米に追いつき、追い越せという精神が広がり、第1次大戦に戦勝国となり戦後国際連盟の常任理事国となったことで、「和魂和才」というところまで、日本人の優越感は増長して行った。幕末から半世紀で、科学技術の成果という点では、途上という面はあるにしても、少なくとも指導者階層の知識水準という点では欧米列強に追いついた。その知識を吸収する早さという点では、世界の諸民族の中で一番ではないかという優越感幻想が根底にあったのではないか。 岸は高校時代に諸書を跋渉したという話は、岸について書かれた本では大抵書かれているのだが、哲学思想に関してははカント、ヘーゲル、ニーチェ、ショーペンハウアーなどの名しか見えず、イギリスやフランスの民主主義の母胎となった哲学思想の名は出てこない。そのことに、諸書を跋渉したと言いながら、すでに偏っていたという感じを受ける。
信介が一高の2年になる1915(大正4)年1月、日本政府は中国に対して「対華21ヶ条要求」を突きつける。軍事力に劣る中国はこの要求を受け入れ協定を結ぶが、この協定こそが、この後の日中戦争の根本的な原因となるのである。 岸信介は一高・東大で常に上位の成績を保ったエリートである。しかし「知力」は「倫理観」とも「道徳感」とも「良識」とも無関係である。多くの体制的エリートにとっては、「知力」を使って個人的に目指すものはただ「立身出世」であり、組織・集団として目指すものはただ「国益」「組織益」「階級益」だけである。それを体制エリートたちは「愛国心」と言った。しかしその内実は「民族利己主義」「組織利己主義」「階級利己主義」でしかない。しかし多くの日本人にとっては「愛」と「欲」は同じものだから、日本の利益のための火事場泥棒もまた「愛国心」を満たすものなのである。岸は北一輝や大川周明などの超国家主義者に私淑したという点で、少し毛色が違うとしても、その思想が体制的エリートの域を超えるものでは無かっただろう。 欧米の列強がようやく、帝国主義の毒を知り、国際倫理に目覚め始めようとしつつあった時、日本やドイツ、イタリアなどの後進帝国主義国は、本格的な毒を生み出そうとし始めたのである。 岸信介の時代の体制的エリートを駆り立てた「立身出世」主義とはどういうものであったのか。少しだけ孫引きしておきたい。 尋常小学校の修身の教科書にはこんな記述がある。
教育、とくに国民が近代的な科学的知識と技術を持つことは、民衆からの要求ではなく、国家の支配階級を形成しつつあった資本家と「富国強兵」を実現しようとする政治家や軍人の強い要求であった。それ故に、民衆に学問立身を炊きつけたのである。この国民意識は、現代では知識や技術を身に付けるという意識から離れた、ただの「偏差値立身」となりながらも、脈々と受け継がれている。 |
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1915(大正4)年9月1日、長く伊藤博文の片腕として主要閣僚を務めた侯爵井上馨が死去する。岸信介の曽祖父信寛の一子太郎は井上馨の養子となっているから、信介とは縁続きになる。この井上馨の兄五郎三郎の子勝之助は馨の養子となり侯爵家を継承するが、外交官となり、この当時イギリス駐在大使をしていたが、馨の死去で帰国する。又馨の娘千代子を養女とし、陸相、首相を務めた陸軍出身の桂太郎の三男三郎を養子に迎えている。
戦前、山口県出身の首相は5人に上り、3人の鹿児島とともに薩長藩閥政治といわれるが、その政権を日数でみると約40パーセントが長州出身の首相が政治が行ったことになる。そしてもう一つ特徴的なのは、陸軍軍人が目立つことである。初代首相のい博文を除くと、皆陸軍の出身である。山県有朋は帝国陸軍の実質的な創設者であり、桂太郎、寺内正毅、田中義一らは皆その後継者であった。
明治後期から大正時代にかけて「立身出世」という国民意識が一般庶民にまで広がり始めるが、山口こそはそのメッカであった。「立身出世」は個人の問題としては人生の目的、幸福の追求であったが、社会的には「富国強兵」の原動力と考えられた。 山口県においては子供の夢は、まず陸軍軍人になることであった。陸軍軍人は英雄になる道であると同時に総理大臣となり天下人となる道であった。首相となった軍人ばかりではない。山口出身の乃木希典は「軍神」として崇められていた。その次が松岡洋右のように 欧米列強と渡り合う外交官になることだっただろうか。それから官僚となり国家の青写真を作り実現する道、そして「富国」を実現する実業家になることだったのかも知れない。
同じ山口県出身者には種田山頭火や中原中也、金子みすずなどの文学者や河上肇のようなヒューマニズムを追及した学者もいるが、彼らはむしろ山口出身の政治家が作った社会に押しつぶされた存在だった。今はどうか知らないが、これまでは多くの山口の民衆にとっては、決して目標になるような存在ではなかっただろう。 |
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1915(大正4)年11月10日、大正天皇の即位大礼が京都で行われ、東京でもさまざまな祝賀行事が行わ た。日本橋には電車道を跨いで、鳥居の形をしたい巨大な奉祝門が作られ、その下を花電車が通った。12月9日には天皇は上野公園に行き、市民の歓呼に応えた。一高2年の岸信介も、この行事を間近に見た ことだろう。 この頃、日本は大戦景気で立会が停止になるほどの株価の暴騰が起こり、日本中に戦争成金が生まれた。戦争成金が遊んだ料亭を出る時に、百円札に火をつけて探したという話も残されている。当時、日雇いの日当は60銭、紡績工場の女工の1日の賃金は15銭だったという。百円というのは女工の賃金の2年分、日雇い賃金の167日分、小学校の教員の初任給は12円ほどだったが、その8倍にもなる札に火を付けて下駄を探したのである。 こうした「天佑」と呼ばれた大戦景気は、戦争が起これば豊かになるという感覚を民衆に植え付ける一方、戦争特需と無縁の農村の暮らしを疲弊させ、やがて景気の反落とともに工場労働者を路頭に放り出し、構造的な社会矛盾を引き起こして行く。
大正天皇即位の祝賀行事があった頃、中国では権力を掌握した袁世凱が、皇帝になるという動きが出てきた。袁世凱の主張は、中国では欧米のような共和制は国民性に合わず、権力の継続性がなければ近代化も出来ないというのだが、袁世凱が皇帝になれば、それに反発する勢力が各地で起こり、中国は再び動乱になることが予想された。 年が明けて1916(大正5)年1月、首相大隈重信が袁世凱を支援する政府を糾弾する福田和五郎らに爆弾を投げつけられるという事件が起こった。しかし爆弾は不発に終わり、事なきを得た。大隈はかつて1889(明治22)年、伊藤内閣の外務大臣だった時にも右翼の来島恒喜に爆弾を投げつけられ、この時片足を失っている。福田和五郎は徳富蘇峰の民友社の社員で、「国民外交同盟会」を結成し、かねてから大隈内閣の外交を弱腰外交と攻撃していた。 大隈暗殺未遂事件以前にも、1913(大正2)には外務省政務局長阿部守太郎が、政府の軟弱外交を理由に右翼に刺殺されている。 右翼の暴力というのは、ちょうど家畜を追う鞭に似ている。鞭を打たれない方向に政治家を誘導しようとするのだ。そして多くの国民はそれに追随する。日本は日清戦争に勝った。日露戦争にも勝った、そして今回の戦争でドイツにも勝った。欧米諸国に負けることはない。戦争に勝って得た利権は日本のものだ。「富国強兵」は日本の国是、天皇陛下の御意思だ。外国に妥協する政治家は国を売る政治家だと。一高生の岸信介も、この考えの外にはなかっただろう。 大正時代までは、選挙権というのは税金10円以上を納める3パーセント人々に限られたいたから、多くの貧しい庶民は政治的要求を主張する手段を持たなかった。そのことはテロや暴動以外に手段がないことを意味するから、必然的にテロや暴動を起こして逮捕される人への同情が集まり、テロリストが英雄視されることになる。大正末から昭和初期に、治安立法とと抱き合わせで普通選挙が実施された意味は、それに対処するものとしてあったのだろう。選挙権を与えることで、テロの正当化を出来ないようにし、かつ普通選挙による代表者が決定した国策は絶対命令で、国策としての徴兵、戦争に対する批判は絶対許されないという論理が成立する。
こうして出来上がった、絶望的な戦闘にも突貫するしか選択の余地がない究極のロボットとしての日本兵、日本人が形成されてゆくのだが、それこそ長州藩閥、長州軍閥の支配者が理想とした姿ではなかったか。そのロボットをいかに合理的に、科学的に活用し、「富国強兵」を実現するか。それが岸信介が革新官僚として活躍する舞台となってゆく。 |
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当時の長州藩閥は実際どういうものだったのか。大阪の呉服商の家に生まれたの山中峯太郎は陸軍軍医山中恒斎の養子となり、軍人を目指し、陸軍幼年学校に入学する。そして幼年学校、士官学校と優秀な成績をおさめ、明治天皇の前で御前講演もしたことがある程の秀才で、士官の中から優秀な者だけが行ける陸軍大学にも進むのだが、山口県の出身でなければトップにはなれないという現実に直面し希望を失う。そして士官学校時代に知り合った中国人留学生の李裂鉤を援けて袁世凱打倒の第二革命に参加するが、その為に陸軍大学校を退学にされてしまう。 優秀な幹部候補生の進路を曲げてしまう程に陸軍は長州閥に握られていたことになる。歴代首相も伊藤博文以来、山形有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一と昭和初期までに5人の首相を出しているが、伊藤博文以外はすべて陸軍軍人である。又乃木稀典は軍神として祀られ、 寺内正毅の子寿一は親子2代で元帥になっている。
これらの長州閥の政治家・軍人は社会主義はもとより、自由主義や、そもそも政党政治そのものを嫌悪する体質を持っていた。戦前の、大逆事件にみられるような左翼や労働組合の弾圧 、治安立法、軍人勅諭や教育勅語などもすべて長州藩閥の政治家によって企図された。そして「富国強兵」、帝国主義的膨張も長州藩閥が主導し、満州の「2キ3スケ」と呼ばれた「3スケ」、つまり松岡洋右、岸信介、 日産の鮎川義助はいずれも山口県出身で、しかもこれら3人に加え、右翼の資金源となった日立製作所の創始者久原房之介も山口出身で鮎川義助の縁戚である。鮎川義介や久原房之介などの実業家は新興財閥を形成し、 革新官僚と呼ばれた岸信介らとともに、統制経済、国家総動員、ファシズムを実現することによって、日本と東アジア経済の独占体制を築こうとしたようだ。知れば知るほど、戦前のファシズム、国家主義、軍国主義の発信源は長州のイデオロギーだと感じられて来る。岸信介の思想は、北一輝や大川周明の影響を受けたと、自らも言っているが、それ以前にこうした長州閥族のイデオロギーを踏まえなければ見えてこないだろうと思う。
岸信介の青春時代は大正前半である。一方には漱石などの文人的理性や立憲政治の根を育てようとする吉野作造などの政治的理想が小さい花を開かせてつつある時代だったが、 その一方では「富国強兵」の名の下に、即物的な「立身出世主義」や「帝国主義的発展」を待望する空気がそれ以上の勢いで蔓延しつつあった。その根源を探せば、どうしても山県有朋に行き着く。足軽よりも低い身分の山県狂介が「奇兵隊」という場を与えられて出世に出世を重ね、首相となり、昭和初期にまで及ぶ 長州閥族による支配体制を作り上げた。明治の「今太閤」である。そして長州藩閥=長州軍閥は徹底的に政党政治的な要素、自由主義的な要素を嫌悪し、弾圧し、後はファシズムしか選択の余地がないという環境を作り上げ ていった。貧しい庶民が「立身出世」を考えれば、陸海軍の幼年学校や士官学校は学費も給付されるから、優秀であれば貧乏人の子でも出世できる軍人になるのが何より手っ取り早かった。士官学校に入ることは「優秀」かつ「勇敢」であることの証明になった。
しかし仕官になってさらに立身出世をしようと思えば、手柄を立てるしかない。そうして手柄を立てる場、「ことあれかし」を求める精神が蔓延していった。 河本大作が起こした張作霖爆破事件などは、偽装工作が稚拙だったから昭和天皇の耳にまで入ったのだが、それに類する軍事衝突を画策する陰謀や挑発は頻繁に起こされている。その挙句が日本の破局をもたらす日中戦争、太平洋戦争への道だった。
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久原は第1次大戦中に、日本領となっていた朝鮮・樺太・台湾を初め、中国・シベリアや東南アジアなどの鉱物資源開発の調査に乗り出す。すでにここに後の「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」の発想を見ることが出来るだろう。
後に久原は右翼の後ろ盾となり、2・26事件の黒幕だったとも言われている。 岸信介の母茂世は井上馨の養子となった井上太郎の姪に当たるから、久原房之助は縁戚になる。又キヨの弟鮎川義介は、山口中学、東大の岸の先輩に当たり、後に久原財閥を引き継ぎ、日産コンツェルンを形成、満州に進出して、岸信介、松岡洋右、そして東條英機、星野直樹とともに満州の「ニキ三スケ」と呼ばれた。その中でも井上馨家の縁戚として結びつく山口出身の松岡洋右、鮎川義介、岸信介は「満州三角同盟」とも呼ばれることになる。
岸信介が高校時代に見た戦争特需と資源需要による久原房之介の成功とアジア各地の資源開発の企図、工業都市の企図は大きな刺激を岸に与えただろう。
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1916(大正5)年、元老山形有朋の工作で、長州軍閥の寺内正毅内閣が成立する。山形は第1次大戦の戦時中であることを理由にして、不偏不党、挙国一致の内閣でなければならぬという理屈で、退陣した大隈重信首相の推薦する加藤高明を退け、寺内内閣を実現したのだった。 為政者を国民の選挙によって選ぶ政党政治を嫌悪し、元老、枢密院の輔弼を得た天皇親政を実現するというのが長州藩閥政治家の特質だが、寺内は みずから首相、外務、大蔵の要職を兼務し、すべての閣僚を官僚から選び、選挙で選ばれた政党政治家を一切排除した。そのため寺内内閣は「超然内閣」と呼ばれ国民の不人気をもたらしたが、 この軍閥を背景とする天皇絶対主義と吉野作造の民本主義思想に支えられた立憲議会主義の二つの流れは帝国主義的膨張の是非や軍部の政治介入の問題、国内の治安・統治の問題で様々摩擦を孕みながら、やがて天皇絶対主義を標榜する軍閥・官僚による国家主義が圧倒してゆくのである。長州藩閥の軍人や高級官僚らは、その流れを作り、その流れの中心にあり続け、昭和の軍国主義時代を築いて行ったのである。 寺内正毅という人物は、陸軍大将で韓国を併合した時の初代朝鮮総督である。その祝賀の時「小早川 加藤小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という歌を作ったという有名な話がある。小早川、加藤、小西というのは豊臣秀吉の時、朝鮮侵略をした武将のことである。朝鮮総督は寺内の後、同じ長州軍閥の長谷川好道が就任しており、その間平和裏に始まった3・1独立運動に対し、軍隊による弾圧を行い、朝鮮の資料によれば一万人以上の人々が殺戮されたという(日本の発表によれば死亡者数は抵抗した者のみ300人あまり)。寺内は南満州鉄道の設立の責任者にもなっている。山口県民にとっては朝鮮・満州はまるで長州の植民地のような意識で見えたのかも知れない。この後、満州国建設に至るまで、大陸の植民地支配の流れを見ると、田中義一、久原房之介、鮎川義介、松岡洋右、岸信介など山口県の軍人、官僚、実業家の果たした役割は異様なほどに大きい。 寺内正毅も長谷川好道もともに、軍人としての功績によって伯爵になっている。山口県には明治維新以後、下級士族出身で華族になった家が驚くほど多い。華族というのは単なる叙勲ではなく世襲特権であるから、叙爵というのは究極の出世である。
もはや維新の功労で出世するということは無くなった今、出世するのは軍人となって戦争で手柄を立てるか、官僚となって国策に関与するか、実業家となって成功するかである。実業家としての成功は浮き沈みが定まらないから、多くの人は陸軍大学校や海軍大学校まで進み高級将校となるか東大法学部を出て高級官僚になるかを第一の目標とすることが、一番確かで安定した出世の道であった。そして彼らは自らの立身出世の道そのものが「お国のため」であると言う事が出来た。個人や一族のエゴイズムが愛国心に置き換えられるからくりがそこにあるのだが、「仰げば尊し」の歌詞にある「身を立て名を挙げやよ励めよ」という言葉が示すように、その自覚すらないほどに個人の「立身出世」は「富国強兵」の原動力と考えられたのである。
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この年、1916(大正5)年1月、吉野作造が『中央公論』に代表論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済(な)すの途(みち)を論ず」を発表 し、日本の天皇制立憲議会政治に沿った民主主義である「民本主義」を提唱する。それは「大正デモクラシー」と呼ばれ、時代を画するイデオロギーとして知識人の間に広がって行く。しかし、その一方で長州閥族のイデオロギーである天皇親政を借りた輔弼官僚・軍人による独裁的政治と、帝国主義的膨張主義の動きは着実に進行していた。やがて、大正デモクラシーは彼らによって踏み潰されて行くのだが、この当時は危うさを示しながらも或る程度の言論の自由が花開いていた。 またこの年、山口中学の出身で、岸信介の先輩に当たる経済学者の河上肇は朝日新聞に『貧乏物語』の連載を開始し、大きな反響を呼んだ。
この年、初めて12歳以下の労働を禁止するなどの労働者の過酷な労働を制限する「工場法」が施行されたが、当時の実情は繊維工場の女工が、休憩わずか20分で、一日15、6時間働かされていたという。そして女工の6人に1人が結核にかかるという悲惨な状況だったが、この法律が施行されても実効性は乏しく、労働環境を改善するには程遠かった。 11月8日、神奈川県葉山で社会主義者(無政府主義者)の大杉栄が愛人だった神近市子に刃物で刺されるという事件が起こり、人々の耳目を集めた。無政府主義者といっても、現代であれば急進的自由主義者の範疇にはいるのだろうが、神近市子とは男女が双方の自由意志によって結ばれ、他の異性と交遊しても干渉しないという契約で同棲していた。しかしその後大杉は伊藤野枝という新しい恋人を作り神近市子を捨てたために起こった事件だった。
大杉栄は軍人の家庭に生まれ、栄も幼年学校に入ったのだが、成績は抜群だったのにもかかわらず、様々なトラブルを起こし、その屈折が国家権力への敵意となってその後の思想を形成していったらしい。神近も津田英学塾を卒業し、新聞記者になった才女だったようだが、女性解放運動を志し「青鞜社」に参加していた。大杉と神近、伊藤野枝のスキャンダルは社会主義や女性解放を否定する格好の材料として使われ、今、手元に資料が見つからないのだが、当時の新聞でも「悪魔の痴情」などと書かれていたと思う。 この年の末12月9日、夏目漱石が死去した。岸信介も漱石は読んでいたというが、漱石の死は「文明開化」の中で育まれた「明治の健全な精神」の死ということでもあったのかも知れない。
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1917(大正6)年1月、
寺内首相は、朝鮮総督時代から出入りしていた大陸浪人西原亀三を使い、袁世凱の後継者で北京を拠点とする軍閥、段祺瑞を援助するため総額1億4500万に及ぶ借款を与える。日雇労働賃金の比較でいえば、物価は当時と現在では丁度1万倍程度になるから、現代ならば1兆5千万の借款になる。この借款は段祺瑞の北京政府の崩壊とともに償還不能になり、結局国民の税金で負担することになる。 この寺内内閣というのは選挙によって選ばれた政党政治家の大臣は1人もおらず、長州閥の寺内首相を初め、長州閥の総帥である山県有朋に近い官僚政治家で作られた内閣で、それ故超然内閣と言われ、寺内首相の風貌からくるあだ名の「ビリケン」を「非立憲」にかけて揶揄された。 その強権的で、非立憲的な政治は全国的には不人気だったのだが、山口出身の「立身出世」を望む者にとっては、その立身出世のチャンスが広がることを意味していた。 岸信介が岡山中学時代に親身になって指導してくれた叔父松介の妻藤枝は外交官となった同じ山口出身の松岡洋右の妹だったが、松岡洋右は長らく中国の上海や関東都督府に勤務し、当時満鉄総裁後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得ていた。寺内内閣が成立すると後藤は内務大臣となり、さらに翌年外務大臣となる。松岡はこの寺内内閣の時に総理大臣秘書官兼外務書記官を務めることになる。 1917(大正6)年3月ロシアで革命が起こり、臨時政府が成立する。ロシアは第一次大戦の同盟国で、大隈内閣の時にも第4次日露協商が締結され、中国での権益に関して両国が協力して確保することを密約していた。そのロシア帝政が崩壊したため、その密約も消滅することになるが、寺内内閣は、第一次大戦で日本が火事場泥棒的にドイツが保有する中国での権益と租借地、南洋諸島の植民地を手に入れたように、ロシア帝政の崩壊によって、ロシアが極東での勢力を失ない、同じようなチャンスを日本に与えることを期待していただろう。これは、この年の11月にソヴィエト政権が成立した後、革命政権への干渉を目的とした「シベリア出兵」という形で現実のものとなる。松岡は首相秘書官・外務書記官として日本の権益、とりわけ満州の権益拡大を企図する中心人物となってゆく。 岸信介はこの年の秋東京帝国大学法学部に入学する。 岸は強烈な序列的な上昇志向があったようで、それは母親の茂世のスパルタ教育や佐藤一族の立身出世主義の中で培われたものだろうが、一高入学時には、辛うじて合格したというのに、その後は急速に席次を上げ、大学に入学てからは後に民法の権威となった我妻栄と首席を分けるまでになった。 |
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岸信介が東大法学部に入学した頃、東大には政治の目的を民権に置く吉野作造のグループと国権に置く上杉慎吉のグループの流れがあった。そして憲法の解釈についは、天皇機関説を唱える美濃部達吉がやはり天皇絶対主義を掲げる上杉慎吉と対立していた。 明治維新を実現した薩摩・長州・土佐などを中心とした倒幕勢力といっても、欧米列強の侵略から日本を守るために、幕府を倒して近代的集権国家を建設しようする点では一致していても、そもそも同床異夢のイデオロギーの対立があった。つまり欧化主義と国粋主義の対立であり、民権主義と国権主義の対立である。 大学時代に岸信介は東大法学部の山口中学出身の先輩に誘われて上杉慎吉の家に通うことになるが、上杉の思想は天皇制絶対主義である。つまりは選挙で選ばれた政党政治家による政治を否定して、天皇を補佐する貴族と軍人、官僚による専制政治を理想とする思想である。それは長州出身の軍人やエリート官僚の多数が共有している藩閥的イデオロギーに重なるものだったのだろう。
その思想が生み出す思想は、政治は「民権」を目的としたものではなく、「国権」を目的としたものであり、法は「人権」を守るためのものなどではなく、「国権」を高めるための秩序を構築するためのものであるということになる。教育もまた個人の幸福のためなどではなく、国家のため、富国強兵を実現するために、国民が能力を身に付けるのを目的とするということになるだろう。 この後岸は北一揆の思想に強く惹かれ、中国から帰国した北を訪ねるのだがその核心は主権は人民にあるのでも天皇にあるのでもなく、国家にあるという思想だっただろう。主権が国家にあるということは、結局国家を運営する官僚と軍人が主権者だということになる。そして選ばれたエリートによって計画的に社会政策、経済政策を遂行する統制社会を実現する「国家社会主義」を目ざすことになる。
上杉慎吉の天皇制絶対主義にせよ、北一揆の国家社会主義にせよ、結局は政治の目的は国権であり、それを実質的に担う者は選挙で選ばれた政治家ではなく、エリート官僚と高級軍人であるという点では同じことになる。 そうした思想から見れば、吉野作造の民本主義などという思想は、民衆を甘やかすだけの、富国強兵にブレーキをかける遺失物でしかない。まして幸徳秋水の言う社会主義などは富国強兵を破壊するものである。そして「貧乏物語」を書いた河上肇は岸信介と同じ山口中学の先輩に当たるが、国家のためにヨーロッパに留学しておきながら、国家発展の足を引っ張るような左翼思想を学んで帰って来た分際を踏まえぬ独善家であるということになるだろう。
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第一次大戦は「天佑」と言わしめる程の経済成長と莫大な利益を日本にもたらしたのだったが、「富国強兵」を実現するべき重工業や化学工業、輸送手段として必需品となる自動車の生産や、先端技術である航空機などの開発は、先進列強に比べると未だ大きな差があった。兵器に使用する火薬の原料となる薬品も輸入に頼らなければならなかった。第一次大戦は時の政治家や資本家に、日本の工業の発展の必要性を痛感させたのである。 3月10日−日本工業倶楽部(経団連の前身)が設立され三菱の豊川良平が会長、三井の団琢磨が理事長に就任する。 富国強兵のイデオロギーは第一次世界大戦の間に新たな段階を迎えた。 造船は1913(大正2)年から1918(大正7)年の5年間に12倍の62万6千トンに、企業の資本金総額は1914(大正3)年から1919(大正8)年の間に16.2倍の40億6850万円に増加した。しかし飛行機の開発は、欧米列強とそれほどスタートラインは変わらない ものの、自動車の普及は歴然たる差があった。この頃アメリカはすでにフォード社のT型フォードを中心に年間50万台の生産を超えており、まもなく庶民が自動車に乗る時代を実現する。しかし日本はまだ試作品を作るレベルだった。保有車両の差は戦争になれば兵站線の維持に圧倒的な差となって現れる筈である。国産自動車の量産は富国強兵を実現しようとする軍人や官僚、政治家の重大な問題となってゆくだろう。 岸信介は東大卒業後、文官試験に合格するが、二流と見られていた農商務省を選ぶ。岸は日本の産業の規模が欧米に比べてはるかに劣っている現実を見ており、そこに自分の仕事を見出したということだろう。 この年、海軍大尉であった信介の兄佐藤市郎は、半年に渡り世界各国を航海する海軍士官候補生の練習航海に、鈴木貫太郎中将の通訳として同行する。訪れたアメリカでは、日米の軍事衝突が取りざたされ初めていたのだが、晩餐会で、鈴木中将は日米戦は双方に何の利益ももたらさないという演説を行い、その内容はアメリカで高く評価され、通訳した佐藤市郎大尉の英語訳がそれに大きく貢献したという。
しかし日本社会は富国強兵を実現し、一部の資産家が巨富を得れば得るほど、一般民衆が零落するという社会矛盾を起こしていた。
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1917(大正6)年も終わりに近い
12月22日、外交調査委員会でロシア革命に干渉し、シベリア出兵を主張した本野一郎外相を召喚し元老会議が開かれた。前年大山巌が死去しており、当時の元老は山県有朋、松方正義、西園寺公望だが、全権力を掌握している天皇を輔弼するため維新の元勲の意見を聞くというものだったが、憲法上の機関ではない。また外交委員会というのも国会の意思に影響されず外交方針を決めるために山県有朋が作った
脱法的な機関であり、ともに長州藩閥の意思・利益を実現するために作られたものだった。
年が明けて1918(大正7)年1月4日、政府は居留民保護を名目に加藤寛治少将率いる「石見」など2隻の軍艦をウラジオストックに派遣することを決定、12日出航し
た。 岸信介は後にソビエトの計画経済に衝撃を受け、満州で統制経済の実験を始めることになるが、このシベリア出兵にともなう投機買いを、すでに経済官僚の目で見ていたのかも知れない。あるいは長州イデオロギーに立つ岸は「国権思想」の立場から、細民の疲弊は国力の損失であると考えていたのかも知れない。 シベリア出兵問題は、日本の極東進出を警戒するアメリカの牽制もあり、寺内内閣を支える政友会の原敬や臨時外交調査会の委員を務める牧野信顕も反対を表明していた。 3月3日、ソビエト政権がドイツと事実上降伏という内容のブレスト・リトフスク条約を締結する。ロシア国内ではバルト3国やグルジアが独立を宣言、ウクライナでは英仏の援助を得た反ソビエト軍が成立する。2月23日にはすでにペトログラードの内田康哉大使は、大使館員とともに引き上げており、3月10にはハルピンの佐藤尚武総領事が反革命勢力への武器援助を要請してきたが、寺内のボスである元老山県有朋も時期尚早とする書簡を寺内に送り、シベリア出兵にはまだ紆余曲折があった。
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1918(大正7)年5月16日 日華陸軍共同防敵軍事協定が調印される。
表向きは対独共同防敵ということだが、実態はロシア革命に介入し、中国への支配力を強めるのが狙いであった。前年末に石井・ランシング協定によって、アメリカとの全面対立を回避し
、中国権益の機会均等を謳いながらも、日本が地理的に特殊な立場にあることをアメリカに認めさせ、満州、中国での権益拡大を目指していたのだが、シベリア出兵はその目的のために、軍事的
な実効支配地域を拡大しようとするものであり、日華軍事協定はその布石であった。 日本は8月2日シベリア出兵を宣言し、8月12日にウラジオストックに上陸を開始する。一旦出兵すると、陸軍は、当初日米で確認した兵数をたちまち無視し、議会の頭越しに外交政策を実施するために寺内内閣が作った外交調査会も無視して、統帥権を盾にアメリカの兵数の10倍の7万の軍を送り込み、日本軍による実効支配地域を広げようと計った。これまでも日系移民の低賃金労働によるアメリカの労働者の反感などは反日感情を引き起こし、日米関係には隙間風が吹いていたが、シベリア出兵以後アメリカは日本の大陸進出に警戒感を強めるようになり、日米開戦まで両国の関係は悪化の一途を辿って行くことになる。 このシベリア出兵は、大戦景気で太った成金資本や大地主、米穀商による軍需食料を当て込んだ投機買いで、米価は天井知らずの高騰を続けていた。
7月23日、富山県魚津町で、出漁中の留守を預る猟師の主婦らが、米の県外への輸送を中止するよう業者に要求したことをきっかけに、米の買占めに反対する大衆運動が全国に広がり、大阪では数十万の群集が街頭に溢れる事態にまで発展していった。米騒動である。多くのマスコミは、投機による食料の高騰で苦しんでいる庶民に同情的で、警察が1升につき5銭値下げして売るよう、業者との仲介をする所もあったが、寺内内閣は徹底した弾圧で民衆の抗議行動に応えた。 全国各地の騒動は、警察ではなく軍隊が鎮圧し、扇動者と見なされた者は次々と逮捕された。こうして日本の近代史最大の大衆運動は弾圧されて終わったのだが、山県有朋から桂太郎、そして寺内正毅と続く長州藩閥の軍人宰相の引いた「警察国家」「軍国主義・国権主義・天皇絶対主義イデオロギー」のレールは日本を確実に破局へ導いてゆくことになる。
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1918(大正7)年
秋、シベリア出兵と狂乱物価と米騒動の最中、岸信介は東大法学部の2年になる。この年の11月ドイツに革命が起こり、ドイツの帝政が崩壊する。ドイツ革命の影響は、日本にとって非常に大きな意味を持っていただろう。 ドイツ帝政というのは、帝政という政体のみならず、「富国強兵」という政策イデオロギーという点でも、最も日本の政治環境に近い先進国の政権だったから、ドイツ法典は最も研究され、 日本の法律に応用されていた。そのドイツ帝政が崩壊したのである。第一次大戦ではドイツは日本の敵国になったが、それは国家利害の対立であってイデオロギー上の対立はない。日本の世襲的特権を持つ上流階級や高級官僚、軍人、政治家などの支配階層に取って、 ドイツは最も近い、最も親近感を持てる先進国だった筈である。そのモデルとなるドイツ帝国が崩壊したのだから、今後、日本は独自の政体を模索せざるを得ない。そのことが、この後の日本の軍国主義的膨張政策という迷走の一因となっ てゆく。 岸信介は大学に入って、まず天皇制絶対主義の立場に立つ上杉慎吉の影響を受ける。そ の立場は国学の影響の強い長州藩閥の支配イデオロギーにも通有し、政党政治を否定する天皇制絶対主義の内実は、つまりは議会に左右されない高級官僚・軍人 らによる支配体制だという点で、官僚や軍人を目指して立身出世をしようとする者にとっては、最も都合のよい体制 で、しかも長州出身のエリートは政界や軍部に強い藩閥を作っていたから、多くの山口県民にとっては、その思想は自然に身に付けたイデオロギーだっただろう。岸信介もそのように上杉に接近したのだと思われる。 しかしこの後、岸は大川周明や北一輝などの超国家主義や国家社会主義に関心を深めてゆくことになる。
大川周明は1886(明治19)年生まれで岸より10歳年長で、五高時代、栗野事件で反対運動の中心となる。栗野事件というのは、父親が外交官であった五高の学生が、父親の身分上の権威を利用して官立高校の在学生が他の官立高校に受験したり移籍したりすることを禁止する文部省の原則を破って、一高編入が認められた事件だが、大川は五高の学生を集めて教頭排斥運動の中心になっている。こうした社会運動家的な体質が青年時代からあったのだろう。 大川の思想は「大アジア主義」が中心で、近代化を果たした日本が中心となってアジアの民族解放をするという情緒的側面が強かったが、北一輝の思想は、早くから具体的な社会・政治・経済体制の変革を目ざして出発しており、1906(明治39)年には天皇機関説の立場に立つ国家社会主義を標榜した『国体論及び純正社会主義』 を著している。この書は出版されると同時に発禁処分となるが、北の思想は、無規制な資本家の利潤追求や藩閥政治のもたらす弊害を批判する人々に浸透してゆく。 |
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1918(大正7)年
9月21日、寺内内閣は米騒動の責任を負って総辞職する。結局米騒動は、民意を無視した藩閥政治や軍人官僚による強権的支配が民衆の自然発生的な反体制運動を阻止し得ない現実を示したのだった。それほどまでに米騒動の衝撃は大きかった。街頭行動に参加した民衆は百万を越えると言われ、全国百以上の市町村で、延べ総数5万人以上の軍隊が出動して鎮圧に当たった。 9月28日、政友会の原敬が組閣の大命が降下され、初の政党内閣が成立した。それは政党政治を嫌悪し、高級軍人・官僚よる政治体制を維持しようとして来た長州藩閥の元老山県有朋らが、もはや政党を無視しては民衆の掌握が出来ないと自覚せざるを得なかったことを示している。
原敬は爵位を持たない初めての宰相で、しかも南部藩の士族の実家から分家して戸籍上「平民」となっていた。そこで民衆は原を「平民宰相」と呼び、熱狂的に歓迎した。
岸はこの民衆の反乱と長州藩閥・陸軍軍閥を背景にした寺内内閣の倒壊をどう見ていただろうか。上杉慎吉の師事している意味では当然吉野作造とは対極的な思想、山県や桂、寺内らと同じ国権思想に立っていた筈だが、岸は恐らく、この事態をもっとクールに見ていただろう。 民主主義を嫌悪する寺内正毅は辞任する時、米騒動を起こした民衆に同情的な記事を書いた朝日新聞を天皇に逆意ありとして告発し、社長や編集責任者を辞任に追い込み、さらに右翼国龍会の池田弘寿らが白昼大阪中之島後援で襲撃する事件があったが、右翼は一斉に民権主義者の攻撃に乗り出し、右翼浪人会は長州軍閥の寺内正毅による言論弾圧を批判する吉野作造を襲い脅したが、吉野は怯むことなく、立会い演説会で是非を明らかにすべしと提案した。浪人会は朝日新聞襲撃で勢いにのっていたので、公開の場で行うよう提案し、11月23日夜、神田南明倶楽部で行われることになった。 右翼の暴力的な威圧を心配する東大や早大の学生が吉野を守ったため、右翼側は本領を発揮することが出来ず、さらに浪人会の弁士佐々木安五郎や田中捨身らは「思想に対するに、暴力を持ってすることが、すでに思想的に敗北している」という吉野の論理に反論できず、聴衆は吉野の論理に共感し、その弁舌に熱狂したという。
岸は吉野に対立する国家主義者、天皇絶対主義を標榜する上杉慎吉のグループだったから、吉野を暴漢から守るためにこの演説会に行った筈はなく、さりとて北一輝や大川周明のような知識や理性を持たない、国権に集るだけのチンピラ右翼を軽蔑していただろうから、恐らくこの聴衆の中には居なかっただろう。
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1918(大正7)年12月21日、京大を卒業し、すでに貴族院議員となっていた近衛文麿は『日本及日本人』誌上に「英米本位の平和主義を排す」という論文を書き、「正義人道に本く世界各国民平等生存権の確立」を主張し、
人種差別撤廃を要求し、欧米列強によるアジアの植民地支配を批判し、その解放を訴える。それはこの当時、インドの独立運動を支援していた大川周明の「大アジア主義」に同調するものであり、この後の「大東亜共栄圏」へと結びついてゆく。上杉慎吉から離れ、大川に心酔してゆく岸
信介も、この論文は読んでいたのではないか。
また近衛は京大時代、河上肇の教えを受け、社会主義に共感し、翻訳し書籍が発禁処分を受けたこともあるという。岸も後に北一輝の影響を受け、国家社会主義に基づく政治を推進しているから、知識階級が社会や経済を合理的にコントロールし、国家の意思決定をしてゆくという考え方で共通しているだろう。
年が明けて1919(大正8)年1月、パリで第一次大戦の講和会議が開かれる。戦勝国の英米仏伊日の5ヶ国は「10人委員会」を作り、各国2人ずつの全権によって議論
し講和会議を進めた。日本は西園寺公望元首相と牧野元外相が全権として出席するが、この会議に近衛も随行している。
この講和会議の日本の代表団は首席全権の西園寺公望以と、外交委員会の委員で元外相、牧野伸顕が10人委員会のメンバーとなり、以下松井慶四郎駐仏大使、珍田捨巳駐英大使、伊集院彦吉駐伊大使の5人が全権を務めた。
松岡洋右は岸信介の叔父松介の妻がその妹という親戚関係に当たり、寺内内閣の時、総理大臣秘書官兼外務書記官をしていた。長らく外交官として中国に駐在し、中国での日本の権益ついて主導的に発言する立場にあったのだろう。
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1919(大正7)年2月9日、河野広中らによって普選期成大会が行われ、2月 11日、憲法発布30周年の日には東京都内の東大、早稲田など17校2千人の学生が日比谷公園で普選期成大会を行い、衆議院前までデモを行った。そして翌3月1日には日比谷から銀座まで1万人のデモが行進した という。米騒動が、民衆の政治意識を大きく変えた。というよりもそれだけ政治が身近に迫ってきたといえるのかも知れない。 普選期成大会は岸信介東大の2年の時だったが、まだ全国の大学生が1万人ほどという時代に、2千人の学生が日比谷公園で集会をしたというのだから、国家主義者の岸が見に行ったかどうかはわからないが、参加した学生が回りに沢山いただろうから 無関心ではいられなかっただろう。普選の問題は岸なりに考えを持っていただろう。 つまりすべての国民の力を国益の為に利用する為には、選挙権を与えざるを得ないと考えていたのではないか。
世界大戦によって日本の経済は急成長し、企業の資本金総額は1914(大正2)年に2億5千万だったのが、1919年には40億6千万と16倍に膨れ上がった。
その結果、鉱山成金や商船成金などさまざまな成金が生まれ、手にした金で、更に利益を漁る資本は、米などの庶民の生活物資の買占めに走り、
庶民の暮らしを圧迫し米騒動が起こる。米暴騰の引き金になったシベリア出兵は大義名分も無く、しかも得たものは何もない。そんな戦争に一家の働き手が徴兵され命を的にしなければならない。
一方、日本に併合された朝鮮では、3月1日、最後の王(皇帝)となった李太王の葬儀を前に、朝鮮の独立を求める運動が起こり、朝鮮全土に拡がっていった。
初めその運動は平和的な請願運動として始まった。パリ講和会議を主導するウィルソンの理想主義が「民族自結」を謳っていたから、独立を求める朝鮮人は、講和会議に参加している各国に請願することで独立を実現できると考えていた。しかしパリ講和会議はウィルソンの理想主義を踏みにじり、帝国主義諸国の再分割のための妥協の場と化していった。そして旧ドイツ領の無条件移譲を要求する日本が朝鮮の独立運動を容認する筈がなかった。そして武器を持たない朝鮮人を
朝鮮総督府は軍隊を出動させ大弾圧する。
岸信介はこの朝鮮の情勢に無関心ではなかっただろう。そして朝鮮の独立運動に理解を示すようなことは決してなかっただろうし、日本人と朝鮮人を平等に扱うなどという感覚もなかっただろう。 後の朝鮮人の強制連行や従軍慰安婦の徴発も、軍や行政府が直接行うことはなかっただろう。民間の右翼や暴力団にさせればよいだけのことで、ただ暴力団が朝鮮人を強制連行する為に傷害事件を起こしたとしても、朝鮮を統治している行政府も警察も知らぬふりをすれば済むだけのことである。
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朝鮮の独立運動が弾圧されて、騒擾は沈静化したが、今度は5月4日、中国で山東問題をめぐって反日運動が始まる。「5・4運動」である。 運動はたちまち労働者・市民に広がり、翌月5日には上海の日系紡績工場で2万人が参加するストライキが発生し、中国各地に反日運動が広がって、日本商品の不買運動が起こった。この結果、日本の中国向けの輸出は3割減少したという。 その頃、シベリアに出兵し、反革命軍を援助して赤軍と戦っていた日本軍は2月にパルチザン討伐に向かった田中勝輔少佐の指揮する大隊がユフタで全滅したのだったが、その後もパルチザンは鉄道や送電線を破壊し、日本軍の孤立化を図った。
日本は白軍(反革命軍)のオムスク政権を援助したが、連合国がコルチャーク将軍を後押ししていたのに対し、日本はその指揮下にあるセミョーノフを後押ししていた。この欲得ずくの分派・反主流派支援の体質は、これ以前の段祺瑞への支援や、後の満州国皇帝溥儀の擁立、汪兆銘支援、チャンドラ・ポーズ支援などにも通じるものだろう。そこに長州藩閥と満州開発に乗り出す新興財閥、陸軍、関東軍が深く絡んで行くことになる。 シベリア出兵は、米価の暴騰に始まる米騒動を引き起こすなど、国民の間では非常に不人気だったが、その出兵目的には、国民を欺くような利権が絡んでいた可能性があっただろうし、シベリア出兵の背景にある満州の利権独占は、日本のため以上に長州軍閥の寺内正毅、田中義一など山県有朋の直系の後継者や、岸信介の縁戚でもある久原房之介や鮎川義介などの満州を発展の場にしようとしている長州の新興財閥の悲願であっただろう。
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1919(大正8)年8月、大川周明と満川亀太郎らが国家社会主義結社「猶存社」を結成する。その目的は日本国家の改造と民族解放運動ということだった。日本国家の改造という主張は、もはや明治国家が老朽化し世界に通用しないという思いだっただろう。 大川周明は、上海に居る北一輝を指導者として迎え、帰国を要請するため渡航する。丁度その頃、北一輝は『国家改造法案大綱』を書いていた。それは辛亥革命に成功した中国が革命後、分裂混迷に陥った現実を見て、革命を実現した後の社会体制のビジョンを持つ必要を痛感したからだった。
まず在郷軍人の決起を促し、クーデターを起こして、3年間憲法を停止し、国家改造を実行する。そして新体制では、普通選挙を実施し、枢密院・貴族院・華族制度を廃止、天皇財産の国有化、私有財産・私有地の制限などの社会主義的な変革を行うという内容だった。 北が帰国するのは翌年1月だが、『国家改造法案大綱』の草稿は先に大川によって持ち帰られ、手書きで書き写されて、北を信奉する人々の間に拡がり、青年将校や学生たちの間に急速に拡がっていったという。 岸信介は在学中に、帰国して間もない北一輝を訪問したほどだから、それまでに北の思想に相当心酔していたのだろう。岸は『国家改造法案大綱』の草稿を借りて筆写したという。
大学に入った頃、最初は天皇絶対主義を標榜していた上杉慎吉に私淑していたのだが、北一輝はその上杉の思想を「土人部落の偶像崇拝」と痛罵していた。天皇の存在というのも歴史の発展とともに変化してきたものであり、天皇を監禁・幽閉したり、島流しにしたような過去の権力者を今の価値観で「逆賊」だと判断するような歴史観自身が蒙昧で、そんな天皇崇拝は「土人部落の偶像崇拝」だと言うのである。
岸はこうした思想に接する中で、3年生になる頃には上杉慎吉の思想から離れ、北一輝や大川周明の思想、天皇制国家社会主義と大アジア主義を自らの思想としてゆくのである。
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北一輝はもともと幸徳秋水や堺利彦らと同じ社会主義から出発しているから、理想の社会のビジョンはマルクスの影響を受けている。ただマルクスが国家が階級の非和解的産物だとし、国家は死滅すると考え、世界の労働者の団結を呼びかけたのに対し、北は国家の死滅、或いは世界連邦の実現という想念は持っているが、それは列強の植民地争奪戦の後に来るものだと考え、それまでは日本は天皇制を保持して、アジアの欧州列強からの解放と世界の再分配を目指すという帝国主義の肯定へと向かったところで、マルクスとは逆さまの右翼的イデオロギーを展開することになる。北によれば、世界連邦は世界の争奪戦に勝利した「類神人」によって実現されるというわけだ。
しかし岸は北や大川から強い影響を受けながらも、自分自身は「『資本論』も読むには読んだが、マルクスには参らなかった」と言っている。一方で岸は国粋主義者で大アジア主義者の鹿子木員信の影響も受けたといっているから、結局のところ「
国権 ←→ 民権・人権
」を両翼とする座標のどこに自分の思想の中心を置くのかという点で、マルクスの持っている人間解放のイデオロギー、さらに言えばキリスト教文化が持つ博愛主義に馴染めず、終生、国権思想と日本主義を自らの思想の核にしたということだろう。 山口県出身のエリートには他県にはないような「防長倶楽部」という組織があり、現代もまだ存在しているという。岸の頃は高級軍人や高級官僚、大学教授などでないと入ることの出来ないエリートだけの県人会だったが、つまり平たく言えば長州人の縁故の力で互いの出世を助け合うというものだ。その組織の目的は今も「愛国心」だというから、戦前の日本を牛耳っていた長州閥族の鼓吹する「愛国心」の正体が見えてくる。
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