Syuugoroの
虫めがね郷土史2011年10月07日 13:36:51
葛野の歴史
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『日本書紀』推古31年(623)年7月、新羅の大使奈末智洗爾が任那の達率奈末智とともに来朝した。そして仏像一具 と金塔、舍利、大灌頂幡一具、小幡十二条を貢納した。そこで朝廷は、仏像を葛野秦寺に置き、その他の舍利、金塔、灌頂幡等を皆四天王寺に納めた。この時 唐に留学していた僧の恵斉、恵光、そして医師の恵日、福因等が、智洗爾等に従って帰国した。恵日等は「唐に留まっている留学生は、皆学業 を達成しています。帰国させるべきでしょう。また唐は高度な法や制度が備わった優れた国です。常時国交をするべきでしょう。」と進言した。
新羅が仏像などを贈り、それらを聖徳太子の建立した葛野秦寺と四天王寺に納めたというのは、聖徳太子の追悼のためだったのだろう。聖徳太子は603(推古11)年、新羅征討を中止し平和外交に転じた。そして610(推古18)年には新羅使が任那使を携えて来朝し、その時秦河勝は新羅使の導者を務めたのだったが、この時以来、新羅は日本の主張を容れて、名目的に新羅使と任那使の両使を送り、新羅が伽揶諸国を併合する以前の日本の朝鮮貿易の権益を保障するという協定に従って、日本と新羅の友好関係が続いていた。新羅との友好関係を実現し、隋と対等な関係で臨み、朝鮮三国と全方位外交を展開した聖徳太子の存在は、新羅のみならず、高句麗や百済にとっても非常に大きなものだったのだろう。
しかし、聖徳太子の死去は、それまでの平和外交を破産させることになる。この年、新羅が任那を伐ち、任那は再び新羅 に附いたと『日本書紀』は書いている。つまりは再び任那を新羅から分離する画策があったのだろう。これまで新羅が、新羅と任那の二役を演じることによって日本との友好関係を維持 されてきたのだったが、それは一面日本が潜在主権を主張する根拠にもなった。聖徳太子が死去してわずか1年で、軍事力を使って、火遊びを始めようとする豪族が出てきたということだろう。
推古天皇は新羅征討について、大臣の蘇我馬子と議政に預かる豪族達に諮った。田中臣は「急いで新羅を討 つのは良くありません。まず状況を調べて、新羅に日本と敵対する意図があるかどうを確認してから、軍を派遣しても遅くはないでしょう。 使者を派遣して、実情を視察させましょう。」と言った。
それに対して中臣国(藤原鎌足の叔父。御食子の弟)は「任那はそもそも、我国の内官家 (ウチツミヤケ−朝貢国)です。それを新羅が伐って、これを占領しているのです。遠征軍を送って新羅を撃ちましょう。そして任那を百済に附けましょう。 どうして、それ以上の策がありましょう。」と言った。
田中臣は「そうではありません。百済は反覆の多い国です。道路の間隔でさえ詐りを言う。凡そ百済の言うことはろくなことがない。百済に着くべきではありません。」と反論した。結局、その場では征討は中止 されることになった。
そして吉士磐金を新羅に派遣し。吉士倉下を任那に派遣して、任那問題を調べさせた。これに対し、新羅王は8人の高官を派遣し、新羅の事情を吉士磐金に説明し、任那国の事情を吉士倉下に説明して、「任那は小国ではありますが、日本の天皇に帰属している国です。どうして新羅 がこれを覆したりしましょう。今まで通り天皇の内官家と定めて、心配なさらないように。」と約束した。
そして新羅の使者として奈末智洗遅を吉士磐金に副え、任那人の達率奈末遅を吉士倉下に副えて、両国の貢納品を持って日本に向かった。ところが磐金らがまだ帰朝しないうちに、朝廷では再び新羅遠征が決定され、大臣蘇我馬子の一族で大徳位の境部臣雄摩侶 と小徳位の中臣連国を大将軍とし、小徳位河辺臣禰受、小徳位物部依網連乙等、小徳位波多臣広庭、小徳位近江脚身臣飯蓋。小徳位平群臣宇志、小徳位大伴連 、小徳位大宅臣軍を副将軍として数万の軍が新羅に派遣された。
磐金らは港に集まり出航のための風波を待っていたところ、日本の軍船がやってきて海に満ちたので、両国使人は、これを見て愕いて 日本へ行くのを中止してしまった。そして事情はよくわからないが堪遅大舍という人物を、任那調使に代えて貢上した。磐金 らは「軍船が来たのは新羅との協定違反だ。これでは任那問題は成功しないだろう。」と語り合い、船を出発させ帰国の途についた。ただし将軍らは任那 に到り、新羅を伐とうとした。新羅王は日本の大軍が来ると聞いて、すぐに降伏した。将軍らは協議して、新羅王の降伏を上表し、天皇はこれを聴した。
冬11月、吉士磐金と吉士倉下らは新羅より帰り、大臣蘇我馬子に状況を説明した。「新羅 は天皇の命を奉(ウケタマ)わって、驚き懼(カシコマ)りました。そして新羅と任那両国の朝貢使を派遣することになりました。 ところが日本の軍船がやってくるのを見て朝貢使は帰ってしまいました。ただ調はそれでも貢上しています。 」と。これを聞いた馬子は「早まって軍を送ったことは、残念だ。」と言ったという。
時の人は「今度の軍事行動は境部臣や阿曇連が、新羅から多額の賄賂を得 ていたので、使者の帰朝を待たずに、新羅を征討するのみと、大臣に動めたのだろう。」と噂した。
初め磐金らが新羅に渡った日に、新羅の港に着く頃、海の浦に荘船(カザリブネ)が一艘出迎えていた。それを見た磐金は「この船はどの国の迎船か。 」と聞いた。すると相手の船から「新羅の船です。」と答えがあった。磐金はまた「どうして任那の船は出迎えないのか。 」と言った。それに対して、新羅はすぐに任那用に一船加えた。新羅が迎船二艘で出迎えるのは、この時に始 まったか、と『日本書紀』はこの記事を結んでいる。目先の利益に動かされて、火遊び的な軍事行動を起こし、外交戦略を誤る。これは昭和史の教訓なのだが、聖徳太子を尊崇した筈の昭和の政治家や軍人達は、この物語をどのように理解していたのだろうか。
「春より秋に至まで、霖雨大水あり。五穀登らず。」と『日本書紀』推古31年条は締めくくっている。
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聖徳太子の妃橘大郎女は、太子が死後往生して住むという天寿国の様子を描いた繍帳を作りたいと推古天皇に上奏した。天皇はこれを許し、椋部秦久麻 (クラベノハタノクマ)に製作の指揮をさせ、東漢末賢(ヤマトノアヤノマケン)、高麗加西溢(コマノカセイ)、漢奴加己利(アヤノヌカコリ)らに絵を描かせ繍帳を作らせたという。椋部秦久麻の椋部秦氏というのは内蔵、つまり朝廷の収入管理に携わっていた秦氏だが、絵画を描いたり、工芸の技術を持った渡来人集団との繋がりも持っていたということだろう。
願主の妃橘大郎女は敏達天皇と推古天皇の間に生まれた尾張皇子の王女で、推古天皇の孫にあたるから、聖徳太子が死去した時は、まだ20歳代の若い妃だっただろう。
『天寿国繍帳』に書かれた文には聖徳太子が日頃「世間虚仮唯仏是真」と言っていたことが記されている。祭祀と託宣と祈祷ということしか信仰の意味を知らない日本人の中にあって、「世間虚仮 唯仏是真」、或いは「色即是空 空即是色」という一切の事物や現象の内奥にある本質を知り、その実体に到達することを信仰の意味と捉えた在家信者は聖徳太子が初めてだったのかも知れない。この高貴な生まれ育ちと、どこまでも探求しようとする叡智を持ち合わせたゆえの純粋な理想家の資質が、聖徳太子信仰を生み出したのだろう。
聖徳太子の業績が、すべて虚構で、『天寿国繍帳』も、釈迦三尊の光背銘も後世に作られた偽物で、「聖徳太子は居なかった」という説を吹聴して印税をかせぐ専門家が氾濫しているが、それ らの主張をすべて認めても、なおそこに仮託された「聖なる精神」を信仰しようとした古代人が居たことは否定できないだろう。聖徳太子信仰を広めていった人々の多くは渡来人であったことは間違いないだろう。秦河勝、椋部秦久麻などの秦氏の人々、鞍作止利と 出家して僧都となった鞍作徳積など鞍作氏の一族、舎人の調使麻呂も渡来人だった。四天王寺を氏寺にしたという外交官氏族 の難波吉士氏も、大彦命の子孫と称し、阿倍氏と擬制的な同族関係を結んでいるが、実際は秦氏と同じ新羅系の渡来人であるという。
聖徳太子信仰が広まる中で、太子をめぐるさまざまな伝説が生まれて来るが、とくに有名なのは「片岡遊行」の伝説だろう。
619(推古27)年11月15日(現代暦12月26日)、山西 (二上山の西・河内)の科長山(磯長。ここには敏達陵・用明陵があり、太子と母后の陵もここにある。)の 本陵に行った。帰り道、申の時に片岡山(香芝市)の辺りで人家に入った。その時、飢えた旅人 が道端に横たわっていた。そこを離れて三丈(9メートル)ほど行き過ぎた所で、太子の馬 が進まなくなり、鞭を打っても動かなくなった。太子は「哀しい。哀しい。」と言って馬を下り、飢えて横たわっている旅人に「かわいそうに。 どのような人なのか。このように伏せっているのは。」と言って、着ていた紫袍を脱ぎ、その人の身を覆い、歌った。しなてる 片岡山に 飯に飢て こやせる その旅人あわれ 祖無きに なれ成りけむや 刺竹の 君はやなきも 飯に飢て こやせる その旅人あわれ
すると横たわっていた人は首を起し、進んで答えた。
斑鳩 の 富の小川の 絶えばこそ 我が王(おほきみ)の 御名忘らやめ
その後、太子と旅人はしばらく話をしていたが、とうとう旅人は死んでしまった。そこで太子は悲しんで、その人を手厚く葬ったが、太子はその旅人が只人ではないことを感じていた。そこで、しばらくして臣下に命じ、死んだ旅人の墓の中を改めに行かせた。すると棺の中に旅人の屍は無く、太子が与えた衣服や新たに与えた彩帛は棺の上にきれいにたたんで置いてあったが、紫の紫袍 だけが無かったという。
この伝説は細部は少しずつ異なるが、『日本書紀』『聖徳太子伝暦』『七代記』『日本霊異記』にもあり、『万葉集』にも聖徳太子の歌と伝える、行き倒れの人を哀しむ歌がある。
家にあれば妹が手まかむ草枕 旅に臥(コヤ)せるこの旅人あはれ
徴用や納税などで飛鳥に来る民衆が、行き倒れになることがしばしばあり、これらの歌は、それに同情する民間の歌が聖徳太子の作として広まったのだろう。しかし、その歌を聖徳太子の歌としたい気持ちは、たしかに民衆の中にあったということだろう。
聖徳太子は鞍作氏のような渡来人の中で育った。そして知識を愛する故に先進的な知識を持つ渡来人を愛した。それは逆に言えば、聖徳太子は渡来人にとって、頼むに足る存在だったということだろう。仏教は渡来人の宗教である。聖徳太子はそれを擁護し興隆するために尽力した。
少なからぬ渡来人たちは技術や芸能、情報を伝えるために日本各地に、或いは日本各地から飛鳥に移動する民であったから、聖徳太子の伝説を日本全国に広めていっただろう。そうして聖徳太子 への信仰は各地に形成されていったのだと思う。中でも秦氏は最も大きな影響を与えたのではなかったか。
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620(推古28)年、聖徳太子は嶋大臣(蘇我馬子)と議り「天皇記」及び「国記」、臣・連・伴造・国造・百八十部并びに公民等「本記」を録したと『日本書紀』は伝える。しかし後に645(皇極4)年、大化の改新の時、蘇我蝦夷が自邸を焼いて自刃した時、それらは蝦夷の邸にあり、かろうじて船恵尺が火中から「国記」だけを取り出し中大兄皇子に奉ったと『日本書紀』は伝えている。
その後、天武天皇の時代に修史事業が行われ、681(天武10)年に帝紀および上古諸事を校定させたという。それから約30年を経て、712(和銅5)年に『古事記』が、720(養老4)年に『日本書紀』が完成するのだが、それは聖徳太子が「天皇記」「国記」などを録した時から丁度100年後のことになる。その100年の時間によって、聖徳太子が録したという「天皇記」「国記」の内容がどれだけ変貌したか 、或いは意図的に改竄されたかはわからない。天武朝に、命によって「帝紀」「旧辞」を暗誦した稗田阿礼の誦唱をもとに太安麻呂によって書かれたという『古事記』は 「帝紀」的内容と、「旧辞」的、本辞的内容から構成されているが、本辞的内容は顕宗天皇で終わっており、その後は「帝紀」的部分のみで、推古天皇で終わっている 。そのことは或いは聖徳太子と蘇我馬子が議って録したという「天皇記」「国記」の内容を反映しているからなのかも知れない。臣・連・伴造・国造・百八十部并びに公民等「本記」と書かれているのは、王家や政権に関わった諸豪族だけでなくさまざまな職掌に携わる末端の氏族や一般の人民の話も 記録しようとしたということだろうが、それはどこまで出来たのだろうか。『古事記』の記事には、地方の国造や中小の伴造氏族の始祖についての系譜的な説明が非常に多い が、それは聖徳太子の時に計画された「伴造・国造・百八十部并びに公民等」という内容を反映しているということだろうか。
また『古事記』には 『日本書紀』にはない大年神の神統譜があったり、応神天皇の所で、神功皇后の母方が新羅の王子天日鉾の子孫であることを示す詳しい系図を載せて、天日鉾伝説を書いていたり、『日本書紀』と同じように、歴史 や伝承を王権の正当性を諸豪族に認知させるために利用するという意図が底辺にあったとしても、それでも祖先の伝承を出来るだけ忠実に残そうとする意図が感じられる。『古事記』の上巻は神々の物語である。神々の物語といっても日本の神というのは、すなわち現実に存在している豪族、氏族の祖先のことであり、氏族の紐帯となる存在であり、信仰の対象であると同時に、その氏族の一員であることの存在証明であ った。他の豪族に優越した大王家(天皇家)が、征服統一する過程というのは、宗教的には諸豪族の神を大王家の神統譜に統合することであり、他の豪族の持っている祭祀権を掌握することである。その意味で諸神の祭祀というのは、極めて現実的な 、政治的な意味を持っていた。
大和朝廷が成立する過程で王朝は何度か交代したのだろう。神武、綏靖、安寧、懿徳・・・・という中国風の謚が作られた奈良時代にも、その記憶はまだ残っていたのだろう。大国主の国譲りや邇藝速日命の服従はもちろん王朝交代の事実を反映した神話だろうが、天皇の時代に入っても何度か王朝交代はあっただろう。「神武」「崇神」「応神」というように「神」の字を謚に含む天皇は、交代した王朝の始祖だという記憶の反映ではないか。その中でも特に王朝交代の状況証拠が神功皇后の異母兄麛坂王、忍熊王の反乱だろう。
麛坂王、忍熊王の母は大中姫といい、景行天皇の皇子彦人大兄の王女だという。一方、応神天皇の母神功皇后の出自は父は「欠史八代」の王である開化天皇の4世の孫彦坐王で母は新羅王子天日鉾の子孫だという葛城高顙媛と伝えられているが、伝えられる系譜を認めても、母親の出自も、長幼の序からしても麛坂王、忍熊王の方がはるかに皇位継承権の序列は高い。その麛坂王、忍熊王を差し置いて、神功皇后が政権を握り、二人の王を謀反人として討伐し、わが子を皇位につけたのである。神功皇后の実在を多くの専門家は否定的に見るが、応神天皇が倭の五王の時代の実在の王だとすれば、その名はともかく、母親はもちろん実在したわけで、その女性が新王朝の成立に大きく関わり、それが伝承になって残されたとしても怪しむには足りない。ただしそれは、『古事記』や『日本書紀』が伝える崇神天皇に始まる王朝を継承するものではない。
応神天皇と神功皇后を祭る宇佐八幡宮は、『隋書倭国伝』に「秦王国」と書かれている豊前の秦氏が奉祭した神社だという。秦氏は応神天皇の時に弓月君が一族を率いて、新羅から渡来した氏族だが、そのことは秦氏の渡来が、応神王朝の成立そのものに深く関わっていたのだと思わせる。
また新羅王子天日鉾の伝承、すなわち新羅の有力者が率いる部族単位の移民の伝承も、秦氏の存在と深く関わっているだろう。一部の専門家は秦氏が『古事記』の編纂に関わっていたとする。その説に依拠して想像すれば、聖徳太子の録した「天皇記」「国記」「本記」に秦河勝も関わっていたのかも知れない。聖徳太子の時代に、大王家の系譜がどのように伝えられていたかはわからないが、かりに万世一系的な系譜が出来ていたとしても、王朝交代の記憶は、多くの豪族が共有していただろう。しかし前王朝の子孫や、それに従っていた豪族が、新王朝の系譜に組み込まれ、前王朝が奉祭した神を新王朝が奉祭することは、聖徳太子の「和」の精神に合致するものであっただろう。
聖徳太子は、この日本最初の国史編纂の仕事を最後に、622(推古30)年2月22日、斑鳩宮で死去する。
『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、その前年12月21日に太子の母穴穂部間人皇女が死去した。そして年が明けて1月22に太子と妃の膳菩岐々郎女と、二人とも病に倒れ、2月21日妃が死去し、翌日太子も死去したという。3人は河内の磯長陵に合葬されたと伝えられる。
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隋の滅亡を聖徳太子はどのように聞いただろうか。聖徳太子は隋を理想として近代国家を作ろうとした。ところがその理想の国家を引き継いだ煬帝という皇帝の過ちによって、建国からわずか37年で 、隋は滅んでしまった。聖徳太子は隋のような近代的な国家を建設するためには、先進的な知識を身につける学問こそが必要だと考えただろう。その学問のためにこれまでの人生を賭けてきたのだろう。しかし後を嗣ぐ指導者が愚かであれば、どんなに近代的な 、合理的な国家を建設しても水の泡のように崩壊してしまう。
当時の日本の支配階級は隋王朝の滅亡をどのように考えただろうか。後の皇国史観のような「万世一系」などという確信など存在しなかっただろう。せいぜい前王朝を征服した新王朝が権力的に外戚関係を作り、系譜的に繋ぐという支配 の仕方を知っていただけだろう。隋の崩壊は日本の王権にとっても起こるかもしれない教訓だった筈だ。むしろ近代的な律令国家の建設に反対し、自分たちの権益の確保に余念のない頭の古い豪族たちの主張の方が、国家の維持存続のためには良いのかも知れない。隋の滅亡は、そういう皮肉を聖徳太子に投げかけただろう。そしてこれまで聖徳太子に従っていた豪族達 の中にも「それ見たことか」と陰に陽に言う者もあったのかも知れない。
聖徳太子は政治の理想に挫折し、それまで以上に仏教に傾斜していったのかも知れない。『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、 隋が滅亡に向かう内乱状態にあった推古24(616)年 5月3日 、推古天皇が病気になったため、太子は病気平癒のために諸寺建立の願を立て、諸臣、諸豪族もきそってそれにならったという。その翌年、推古25 (617)年4月8日、灌仏会の日から3日間かけて、太子は「勝鬘經 」を講説したが、その威儀は僧侶のようで、聞いていた皇族や臣下に、信受しない者はなかったという。天皇は大いに悦んで、太子に針間(播磨)国の佐勢田の地の五十戸を 与えたが、太子はそれを斑鳩寺・中宮寺等に施入したという。
この逸話は『日本書紀』推古14(606)年の記事と共通するもの で、『日本書紀』の方が時期的に正しいとすれば、太子の心境を忖度する内容も変わってくるのだが、ともかく太子が斑鳩宮に移ってからは、師である慧慈を中心とした仏教研究が行われ、「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」「法華経義疏」の、いわゆる『三教義疏』と呼ばれる仏教経典の注釈研究書が出来たのだろう。また『聖徳太子伝暦』には619(推古27)年春正月より、太子は畿内諸國の臣・連・國造・伴造ら諸豪族の造寺を巡検し 蜂岡(蜂丘)に至った時は、広隆寺の塔の心柱を建てたという。
山背の古代寺院の中で聖徳太子が創建に関わったという伝承を持つ寺は、広隆寺の他に八坂の塔で有名な法観寺や六角堂として有名な頂法寺、そして乙訓寺などがあるが、伝承を裏付けるものは残されていない。しかし仏教を広めることは、律令国家を建設すること以上に聖徳太子にとって生涯の仕事だっただろうから、畿内巡検まではともかく、縁の深い山背の寺院を訪れた可能性は高いだろう。そして諸豪族も、時の権力者や時流に迎合するだけであっても、競って寺を造ったのは事実だろう。ただし、まだ大規模な寺院を建築出来る豪族は限られていただろうし、技術者もまだまだ少なかっただろう。瓦の生産も始まったばかりの頃だから、現代にまで遺物として残るような寺院ではなく、私宅寺、草堂寺というものが大半だったのではないか。そうしたレベルの寺ということでは、豪族が競って寺を建てたというのは事実だろうと思う。奈良時代より以前の葛野の古代寺院跡としては葛野郡の北野廃寺、愛宕郡の北白川廃寺や乙訓郡の樫原廃寺などがあるが、北野廃寺は葛野秦寺のことだと考えられている。また北白川廃寺は粟田氏の氏寺ではないかとい う。
樫原廃寺は7世紀中頃の創建と考えられており、八角形の三重塔の遺構が確認され、高句麗の影響が指摘されている。秦氏との関係を指摘する専門家もあるが、この辺りには 古代の有力な豪族土師氏が住んだ地である。 この樫原の土師氏からは、後に桓武天皇の外祖母土師真妹が出ており、子孫は多くの官僚・学者・文人を輩出した。長岡京時代に、この一族は「大枝」と改姓、さらに平安時代になって「大江」と字を改めたが、樫原には今も「大枝」という地名が残っている。
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兎田野(宇陀野)で薬猟が行われた611(推古19)年2月、大陸では煬帝の高句麗親征が始まった。 揚州に居た煬帝は大運河を北上し高句麗との国境に近い琢(王偏→三水偏)郡に到った。翌年2月、煬帝と宇文術ら本軍は陸路から遼東城を攻撃し、来護児の指揮する水路軍は黄海を渡り唄(口偏→三水偏)水(大同江)に入り平壌に迫った。
作戦では陸路軍が遼東城を陥落させた後、水路軍と合流し平壌を攻撃する筈だった。しかし功を焦った来護児は単独で平壌城を攻撃し、羅城内の諸寺院に隠れていた伏兵の為に大打撃を受けて敗走した。その報に接した煬帝は遼東城攻撃を中止し、直接平壌城攻略に向かったのだが、遠征で疲労困憊していた隋軍は、612(推古20)年7月、薩水の戦いで、大敗し撤退した。威信を傷つけられた煬帝は翌613(推古21)年2月、再度親征による高句麗遠征を命じ、4月には、再び遼東城を包囲した。ところが、6月、兵站の任にあった楊玄感が反乱を起こし、 副都落陽を攻撃した。この反乱は遼東城攻撃を中止した高句麗遠征軍によって鎮圧され、反乱にかかわった疑いのある者への大殺戮が行われたのだが、大運河の工事に続く高句麗遠征の為の大規模な徴兵や労役の徴発、さらには過重な課税から逃れる民衆が各地に蜂起する事態となった。
それでも煬帝は、翌614(推古22)年、再度高句麗親征を命じる。これに対して、高句麗も、さすがに戦争で疲弊していたため、高句麗に亡命していた楊玄感の一味斛斯政を隋に引き渡すなどして講和した。しかし、この頃すでに、煬帝の支配力は失われ、突厥は蠢動し始め、各地にに群雄が割拠し始める状態になっていった。 煬帝はもはや隋を再建する意欲も失い、揚州で日々逸楽に耽っていたと伝えられるが、618(推古26)年ついに側近の宇文化及に殺される。その前年、太興(長安)を制圧した李淵(唐高祖)は煬帝の孫恭帝を擁立するが、619(推古27)年恭帝に譲位させ隋は滅亡した。このように隋の国内が騒然としている中、614(推古22)年6月13日、犬上御田鍬と矢田部造が隋に派遣されている。 御田鍬が出発したのは、隋が第1次高句麗遠征に失敗し、第2次高句麗遠征で遼東城を包囲している頃で、出発した6月には楊玄感が反乱を起こしている。『隋書倭国伝』は、この時の遣隋使のことには何も触れていないし、607(推古15)年の遣隋使の帰朝とともに隋使裴世清が来日したことを記した後は「此後遂絶」と書かれている。御田鍬は隋では謁見はおろか外交活動は何も出来なかったのだろう。そして翌614(推古23)年、御田鍬は百済使を同伴して帰国しているが、それは中国と半島の情勢を百済使とともに詳細に報告する目的もあったのだろう。、とりわけ高句麗が30万の隋軍を壊滅させ、それが引き金になって隋国内で反乱が起こっていることは、後の外交政策に大きな影響を与えたに違いない。この後15年後の630(舒明2)年、御田鍬は第1次遣唐使として、再び渡海している。
犬上御田鍬は、近江国犬上郡の豪族で、大伴、佐伯氏と並ぶ軍事氏族健部氏の同族だという。小野妹子も近江の豪族だったのだが、遣隋使に近江の豪族が選ばれているのは、恐らく近江の豪族が古くから水上交通に関係していたことがあるだろう。また近江は山背と同じように渡来人が非常に多く住んでいる土地でもあった。滋賀郡には錦部村主、大伴村主が住み、後に園城寺(三井寺)となる地には新羅神社があり、今も新羅善神堂が境内に残されている。湖東では後に百済が滅亡した後、亡命した百済人が蒲生郡に住んだが、蒲生郡日野町には百済の貴族鬼室集斯の墓と鬼室神社がある。
おそらく山背国や近江国は政策的に渡来人を住む土地と定めらていたのだろう。また犬上郡に隣接する愛知郡は秦氏の住む土地であった。遣唐使となった犬上御田鍬と秦氏は地縁的にも交流があったのではないか。後に愛知郡の秦氏の出身、朴市秦(エチノハタ)田来津(タクツ)は百済救援軍の将軍となり渡海し、白杉江戦いで戦死している。犬上御田鍬が帰朝した615(推古23)年11月15日、聖徳太子の師であった高句麗僧慧慈が祖国に帰った。恐らくは祖国が隋との戦争し、国土が荒廃し、国民が疲弊していることへ、慧慈が思いを馳せた故だったののではないか。
618(推古26)年8月、高句麗の使者が来朝し、隋の捕虜2人と捕獲した鼓吹、弩、抛石などを、駱駝など高句麗からの献上品とともに貢納したと『日本書紀』は伝える。
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『日本書紀』推古19年(611年)5月5日、兎田野(宇陀野)で薬猟が行われた。 端午の節句の初見である。元々は5月の最初の午の日に行われたのだが、「午」と「五」の音が通じることから、この風習が日本に入ってきた時には5月5日に固定していたらしい。薬猟というのは、元々は薬用に使う鹿の角を取る猟だったのだが、後には薬草を採る行事に変化した。この時の薬猟は男性は鹿狩りをし、女性は薬草を摘んだとも言うが、実際どのようなものだったのかはわからない。
薬草というのは、単に病気を治す為ではなく、邪気を払うという道教起源の信仰に基づくもので、古くから蓬(よもぎ)や菖蒲のような身近な薬草が邪気払いに使われた。
この日、「鶏鳴時」というから、夜明け前に、大宮人らは藤原池の辺に集まり、陽が上がる頃、兎田野(宇陀野)に向けて出発した。 藤原池というのは、607(推古15)年の冬、高市池・藤原池・肩岡池・菅原池 を造ったという『日本書紀』の記事があるから、高市郡の小墾田宮に近い所に造られた人工池だろう。宇陀野は、柿本人麻呂が軽皇子(文武天皇)の狩猟に随行し、「東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて、かへり見すれば月傾きぬ」と詠んだ安騎野もこの地で、旧大宇陀町の阿紀神社東方の平地部から旧榛原町に向かう地域である。この地は古くから飛鳥の大宮人の猟場となっていた。
飛鳥から山田道を磐余(桜井市)へ、朝倉(桜井市朝倉)から忍坂を経て安騎野(宇陀市・旧大宇陀町)までは約10キロほどの距離になる。611(推古19)年5月5日は現代の暦では6月20日で、大和の日の出は4時40分頃である。10キロほどといっても徒歩の人がいれば3時間ほどはかかっただろうか。前の部領 (指揮官)を務めるのは、小野妹子の同族で山背国愛宕郡粟田郷の豪族、粟田細目で、608年来日した隋の裴世清を迎えた「阿輩台」(『隋書倭国伝』)のことだろう。 後の部領を務めたのは額田部比羅夫連で、やはり隋の裴世清を、200騎で迎えたと『隋書』が伝える「哥多毘」のことだろう。
諸臣の服色は皆冠の色に従ったものだった。そして各々髻華を著け大徳と小徳は金を用い、大仁と小仁は豹尾を用い、大礼以下は鳥の尾 を用いたと『日本書紀』は伝える。小野妹子は2度目の遣隋使としての使命を終え、609(推古17)年の9月に帰国しているから、この日の薬猟にも参加していたのではないか。一度目の遣隋使の時には大礼の冠だったが、二度目の遣隋使の役目を終えて一年を経たこの日は位が上がっていたのかも知れない。『続日本紀』に載せられた妹子の孫毛野の薨伝に「小治田朝大徳冠妹子」と書かれているから、追贈かも知れないが「冠位十二階」の最上位まで栄達している。しかし小治田朝とのみ書かれているので推古天皇の治世には死去したのかも知れない。妹子の子の毛人は「小錦中」という位階の他は不明だが、孫の毛野は従三位中納言まで登った。また粟田細目の子孫の真人は701(大宝元)年の遣唐使となり、帰国後大宰師、中納言を歴任した。
聖徳太子や秦河勝はこの行事の中に居たのだろうか。聖徳太子はどうしていたのだろうか。聖徳太子は『十七条の憲法』を発布した翌年605(推古13)年に斑鳩宮に移っている。その後の聖徳太子の記事は、606(推古14)年7月、天皇に「勝鬘経」を推古天皇に講じ、この年「法華経」を斑鳩の岡本宮(後の法起寺)で講じて、播磨国の水田百町を賜ったので、斑鳩寺(法隆寺)に施入したというのと、607(推古15)年2月、皇太子及び大臣が、百寮を率いて神祗を祭拝したというものがあり、610(推古18)年の新羅使が来日した時には、聖徳太子の側近の秦河勝や膳大伴も、案内役や接待役をしているから、聖徳太子も新羅との外交行事に関わっていたのかも知れないが、その後は613(推古21)年の伝説的な「片岡遊行」の話を除けば、620(推古28)年、聖徳太子が死去する2年前、嶋大臣(蘇我馬子)と議り「天皇記」及び「国記」、臣・連・伴造・国造・百八十部并びに公民等「本記」を録したという記事以外にはないから、斑鳩宮に移って後は、次第に政治や飛鳥宮廷の人間関係からは遠ざかっていったのかも知れない。
聖徳太子の政治との関わりは、600年の遣隋使の派遣、新羅征討の中止、「冠位十二階」と「十七条の憲法」、607、608年の遣隋使、610年の新羅との友好関係の確立、そこで終わっているのかも知れない。聖徳太子の移り住んだ斑鳩には、後に中宮寺となった太子の母親穴穂部間人皇女の宮も有った。穴穂部間人皇女は同母の兄の穴穂部皇子も、崇峻天皇も蘇我馬子に殺されている。飛鳥に居る馬子は母にとって実の兄弟2人を殺した仇であった。そうした事情も斑鳩宮に移った要因になっていたのかも知れない。
聖徳太子は晩年「世間虚仮唯仏是真」と言ったというが、その心境も権力抗争の悲惨が太子に与えたものだったのだろう。法隆寺は法隆学問寺とも呼ばれるが、斑鳩で学問に没頭することが太子の晩年の生き方だったのかも知れない。
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『日本書紀』推古17年(609年)4月4日条によると、筑紫大宰が百済僧道欣、恵弥を首とする 僧侶11人と俗人75人を乗せた船が、肥後国葦北津に停泊したと報告してきた。朝廷は遣難波吉士徳摩呂と船史竜 を遣わして事情を聞くために派遣した。5月16日、徳摩呂らが復奏して言うには、道欣らは百済王の命で呉国に遣わされたが、その国で乱があり入ることが出来ず、百済に帰ろうとしたところ、暴風 に遭って漂流し、ここに辿り着いたという。
そこで朝廷は難波吉士徳摩呂と船史竜の二人を百済人らに添えて本国に送った。ところが対馬に到った時、11人の僧侶らは皆、日本に留 まりたいと請うたので、上表して僧侶らを日本に留めることにし、元興寺に住まわせたという。 この頃、中国の南部で反乱があったのかも知れない。隋はこの9年後に滅亡する。しかし11人の僧侶が日本に留まりたいと請願したのは、今回の事件が、単純な遭難ではない ということなのかも知れない。
この記事にある「筑紫大宰」は太宰府の前身で、『日本書紀』に出てくる最初の記事になる。この頃は中央からの派遣官だったのか、有力な地方豪族を任命したのかはわからないが、7世紀中葉の大化の改新の頃には有力豪族の中央官が派遣されている。
また4月初めに筑紫太宰から報告があって、難波吉士徳摩呂が派遣され、5月16日に復命しているというのは、当時大和から筑紫に20日ほどで移動したこと がわかる。翌610(推古18)年3月、高句麗王が僧曇徴、法定を貢上した。曇徴は五経に通じているのみならず。絵具、紙、墨 の製法や水力で動かす臼を日本に伝えた。さらにその年の7月。新羅使人沙喙部奈末竹世士と任那使人喙部大舍首智買が筑紫に渡来した。
この前後、公式、非公式を別にして、朝鮮半島の三国が相次いで来日している。日本は半世紀前の562(欽明23)年に、任那が新羅に滅ぼされて以来新羅と対立し、武力を背景に任那の復興を企てたが、新羅は任那に持っていた日本の権益を、任那(金官加羅国)の形式的な存在の認知と、「任那の貢」を別途用意するという形で講和した。600(推古8)年、日本が初めて遣隋使を派遣した年のことである。その後、再び新羅との講和条件は破れ、日本は新羅遠征を企てるが、撃新羅将軍に任じられた来目皇子の死などで頓挫すると、聖徳太子は平和戦略に転じる。それに新羅が応じ、日本の主張する任那の権益を受け入れて、新羅使人・任那 使人がともに日本に来朝し、貢納するという形を取ったのである。
新羅は高句麗と敵対関係にあったが、隋と同盟することで高句麗の脅威に対処していた。しかし百済との昔年の対立関係は修復出来ず、百済と友好関係にある日本が背後から攻撃して来れば、いかに隋との同盟関係があるとはいえ、三方に敵を持つことになる。日本が任那と呼ぶ伽揶地方の小国家群はもはや存在しないのにもかかわらず、任那使人を別途立てて日本に朝貢するというのは、そうしなければならないだけの実情があったのだろう。
話は横道に入るが、なぜ朝鮮で伽揶とよばれる地域を日本人だけが任那と呼んでいるのかについては、さまざまな説があるが、僕はやはり江上波夫の騎馬民族説にいう古代朝鮮語の「nim(王)」に由来のだろうと思う。だから「みま」と読むのに「任」の字を当てるのだろう。そして「な(那)」は「土地」の意味だろう。つまり任那は大和朝廷の始祖「ミマキイリヒコ」の故郷、「王の地」だったのだろう。新羅に併呑されて50年経っても、取り返そうとするのは、単に貿易の根拠地が必要だったという以上に、大和朝廷の故郷だったが故の執着があったのだと思う。610(推古18)年9月、朝廷は使者を遣わして、筑紫に滞在していた新羅と任那の使人を大和に招いた。そして10月8日、新羅。任那の使人が入京した。この日、額田部連比羅夫に命じて、新羅の客を迎える飾り馬の長とし、膳臣大伴を、任那客を迎える飾り馬の長とし て威儀を正して出迎え、大和の阿斗の河辺館に入らせた。
額田部比羅夫は隋使裴世清が来日した時も、飾騎七十五疋を率いて海石榴市に出迎え、禮の辞を述べ ている。さらにこの後、翌年611(推古19)年5月5日に兎田野(宇陀野)で初めて薬猟が行われた時にも、粟田細目とともに行事を指揮している。 額田部比羅夫というのは行事を指揮するのが似合う人物だったのだろう。推古天皇の名は額田部皇女であることを考えると、当時の皇族の命名の習慣から、額田部連氏は天皇を養育した豪族だった可能性があり、そういう繋がりから重用されていたのかもしれない。『新撰姓氏録』には右京神別、山城神別に額田部連がある。 山背の豪族の一員である。膳大伴は系図によれば、欽明朝の末年高句麗使が来日した時に饗応使を務めた傾子の子で、聖徳太子の妃の膳菩岐々郎女の兄という。10月9日、新羅と任那の使人らは朝庭で謁見した。この時、秦造河勝と土部連菟を新羅使人の案内役とし、間人連鹽蓋(シホフタ)。阿閉臣大籠 (オホコ)を任那使人の案内役とした。ともに使人を引いて、南門より入り、宮廷の中庭に立った。その時、大伴咋(齧)連、馬子の子の蘇我豊浦蝦夷臣 、そして坂本糠手臣、阿倍鳥子臣の四大夫がともに席から起ち、進んで中庭に平伏した。ここで両国の客等は各々再拝し、使者の旨を奏上した。それを受けて四大夫 は起って進み大臣(蘇我馬子)に奏上し、大臣は席から起ち庁殿の前に立って、それを聴いた。 拝謁の儀式が終わり、使者には、それぞれ地位に応じた禄を賜った。
10月17日、使人らを朝廷で饗応した。河内漢直贄を新羅の接待役とし、錦織首久僧を任那の接待役とした。そして10月23日、すべての行事が終わり両国の使人が帰途に着いたと『日本書紀』は伝える。この後、新羅は日本の要求する通り、別に任那使人を用意して日本に朝貢する時代がしばらく続く。その間日本は等距離平和外交を続けながら、多くの先進文化を隋や朝鮮半島諸国から摂取することが出来た。
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推古15年(607年)、 小野妹子を太子とする第2次遣隋使が派遣された年、「国ごとに屯倉を置く」と『日本書紀』は伝える。天皇家の財政源である「屯倉」は、筑紫君磐井の反乱後の領地没収のような形で、大和王権の拡大とともに急速に増えていったが、それが推古朝になって「国ごとに置く」という一種の収税制度の形に転化したことに大きな意味がある。つまり大和朝廷に反抗し た豪族を鎮圧し、土地を没収したというのでも、大和朝廷の権力を利用しようとする地方豪族の貢納ということでもなく、国ごとに朝廷の財源として屯倉を供出するように、地方豪族に義務づけ たということで、それを実行するだけの権力を持ったということになる。
また、この年の2月には天皇の皇子の養育のための財源として「壬生部」を置いたという。かつて敏達朝に、皇后のための財源として「私部」を置いたのと同じ趣旨だが、これも私的に伝領される、それまでの「子代」や「名代」ではなく、皇后や皇子が代替わりすれば次の皇后や皇子に受け継がれるという意味で、「子代」や「名代」が朝廷の恒久的な公的財源に転化したものだと言えるだろう。 これも「冠位十二階」と同じように、律令国家への萌芽だと考えられる。『隋書倭国伝』には、「軍尼120人あり。なお中国の牧宰のごとし。80戸に1伊尼翼を置く。今の里長のごとし。10伊尼翼は1軍尼に属す。」と書かれている。軍尼(クニ)は国造のことと思われ、伊尼翼は稲置のことと思われる。稲置は朝廷の財源となる屯倉の管理者のことだという。
この記事は、『日本書紀』推古15年の「国ごとに屯倉を置く」という記事に対応しているのだが、推古朝の日本の政治体制について遣隋使が聞かれた時に、日本の地方の行政組織は、中国と同じように整備されていると説明 しようとしたものだったのだろう。しかしそれは、実際には将来的なビジョンに過ぎないもので、現実の地方行政制度を説明したものではなかっただろう。そもそも、推古朝の朝廷は各国造の支配している地域の人口や生産量を正確には把握していなかった 筈だ。「10伊尼翼は1軍尼に属す。」という説明自体が、まだ実現出来ていない制度だということを示しているだろう。実情は、屯倉は畿内と、地方では九州と 中国地方に集中しており、それは大和朝廷の支配地域の拡大、成長過程の所産であって、朝廷と諸豪族との力関係の所産だっただろう。「国ごとに屯倉を置く」というのは、せめて屯倉のない国をなくすという推古朝の当面の目標を示したものとと思う。こうして、推古8年(600年)の遣隋使が隋の文帝に「大いに義理なし」と言われた屈辱を踏まえて、近代国家としての体裁を大急ぎで整え、推古15年(607年)、小野妹子を大使、鞍作福利を通事とする遣隋使が派遣された。
小野妹子の氏である小野氏は近江滋賀郡小野郷を本拠とする豪族で、山背国愛宕郡小野郷や宇治郡小野郷にも居住し、妹子の子である毛人の墓誌が愛宕郡で発見されている。和珥氏は孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後といい、臣の姓を持つ氏族であるが、孝元天皇の後とする葛城氏系の豪族や阿倍氏系の豪族と同じで、欠史八代の皇別氏族である。皇別の臣系豪族の成り立ちと、欠史八代の伝承は、日本の国家形成を示す「伝承の化石」といえるような意味を持っているのだと思う。 つまり大和朝廷以前の在来勢力が欠史八代の皇別氏族という形で伝承され、系譜的に結びつけられていったのだろう。
小野氏と同じ和珥氏系の豪族には春日氏や粟田氏があり、粟田氏は山背国愛宕郡上粟田郷・下粟田郷にその地名を残し、現代でも「粟田口」という地名を残しているが、小野氏とは極めて近い関係にあったらしく、『続日本後紀』承和4年(837年)の記事に、近江滋賀郡の小野神社の春秋二度の祭祀に官符を持たず向かうことを許すという記事がある。推古朝には粟田細目という人が居り、小徳冠を授けられているが、『隋書倭国伝』に伝えられる隋使裴世清を迎えた「小徳阿輩台」というのはこの粟田細目のことではないか。粟田細目の子孫も、小野妹子の子孫も 、ともに遣唐使や遣新羅使などを輩出する氏族として活躍するのだが、和珥系氏族がもともと琵琶湖の水運に関係が深く、また渡来人との交渉も多い氏族であったことが想像される。推古15年(607年)7月3日、小野妹子と通事鞍作福利、そして『隋書倭国伝』によれば、「沙門数十人」が隋に向かったという。「使者曰く。海西の菩薩天子(煬帝のこと)、重ねて仏法を興すと聞く。故に遣して朝拝せしむ。兼ねるに沙門数十人来たりて仏法を学ぶ。その国書に曰く。日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや、云々。」
この国書の文言は、しばしば日本の背伸びと言われるのだが、真意は「海西の菩薩天子(煬帝のこと)、重ねて仏法を興すと聞く。」と言い、その文化の高さを賞賛し、「沙門数十人来たりて仏法を学ぶ。」と言うように、先進国の隋に学びたいと言っていることが真意だろう。ただ朝鮮半島との関係では、任那諸国を併呑した新羅に対して、半島での日本の権益を保証させるという意味から、隋に全面的に臣従している新羅と同列の朝貢国になることは出来ないだろう。新羅と同じ朝貢国になれば、隋が宗主国として、日本にとって不利益な仲裁をしかねないからだ。また聖徳太子は新羅遠征を断念して以後、朝鮮半島諸国とは等距離平和外交を取ろうとしていたから、高句麗遠征を企図している隋に追随する考えはなかっただろう。その意志の表明が「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。」という対等な独立国を意味する文言となったのだろう。つまり朝鮮半島政策には隋の影響を受けないという意思表示だったのだろう と思う。
隋の煬帝は、この国書を「蛮夷の書、無礼なるものあり。復た以て聞することなかれ。」と言ったというが、翌年、帰朝する小野妹子とともに答礼使裴世清とその部下12人を派遣している。小野妹子が隋使裴世清を伴って帰朝した時の経路は百済を経由したものであったことが、『三国史記』に記されている。後の遣唐使が、直接中国に向かって航海し、二度に一度は遭難したのに比べれば、非常に安全な旅であっただろう。
『隋書倭国伝』によれば、百済より竹島(不明)に到り、その後耽羅国(済州島)を南に臨み、対馬国に到る。さらに壱岐国に到り、 そして筑紫国に至る。また東に行くと秦王国に到る。そこに住む人は中国と同じであると書いている。恐らくは秦氏が蟠踞していた豊前のことだろう。そこから十 余国を経て海岸に達すると書いている。山陽道を陸路摂津まで来たということだろうか。恐らくそこから船で大阪湾に入り難波に向かったのだろう。
『日本書紀』には、推古16年(618年)4月に筑紫に小野妹子と隋使が到着し、この時難波吉士雄成を筑紫に遣わしたという。そして難波の高麗館の上に新しい館を造ったと記す。6月15日、隋使らは難波津に停泊する。この日飾り船30艘を淀川河口に浮かべて歓迎し、施設は新しい館に入った。この時中臣宮地烏麻呂、大河内糠手、船王平が接待 役となった。この時、小野妹子は煬帝の返書を、百済を通過する時、掠め取られたと報告している。返書の文面が推古天皇や聖徳太子、大臣蘇我馬子らに、見せることが出来ない内容だったとも思えるが、諸臣が「隋の国書を失ったことは、流刑に値する」と言ったのに対して、推古天皇は「其の大国(隋)の客等聞かば、亦良からず。」と言って妹子を許したという。8月3日隋使一行は大和に入り、海石榴市に到着する。朝廷は飾騎七十五疋 を向かわせて隋使を歓迎し、額田部連比羅夫が挨拶の辞を述べた。
この時のことを『隋書倭国伝』は「倭王、小徳阿輩台を遣はし、数百人を従へ、儀仗を設け、鼓角を鳴らし、来たり迎へる。後十日大礼哥多毘〔田+比〕を遣はし、二百騎を従へ郊(郊外)に労(ネギ)らふ。既に彼の都に至る。」と記している。
「大礼哥多毘を遣はし、二百騎を従へ郊に労らふ。」というのは『日本書紀』の「朝廷飾騎七十五疋 を遣して唐客(隋使)を海石榴市の衢に迎ふ。額田部連比羅夫以て禮の辞を告す。」に対応しているのだろう。
とすると、哥多毘というのは額田部比羅夫のことで、額田部(ヌカタベ)を「カタビ」と聞き取ったということらしい。
またその10日前に遣わされた小徳阿輩台というのは『日本書紀』には記されていない。思うに「阿輩台」は「粟田(アハタ)」で、粟田細目のことではないか。粟田細目は小徳冠を授かっている。以下、『日本書紀』に書かれた隋使一行の記事を、そのまま載せておく。
8月12日、隋使を朝庭に召して、使の旨を奏上させた。阿倍鳥臣と物部依網連抱の2人を隋使の案内役とした。隋の献上品が庭中 に置かれ、裴世清が国書を持ち、二度再拝して使いの旨を言上した。
(国書の内容は儀礼的なものなので省略)
この時、阿倍臣が進み出て国書を受け取り大伴齧連が迎え出て、その書を引き継ぎ、大門の前の机の上に置いて奏上した。居並ぶ皇子、諸王、諸臣は悉に金髻華 を頭に著けて、衣服は皆錦・紫・繍・織及五色綾羅を用いていた。一書には服の色は皆、冠の色を用いたという。
8月16日隋使を朝廷で饗応した。
9月5日、隋使を難波大郡(難波の迎賓館)で饗応した。
9月11日、隋使裴世清 らが帰途についた。この時再び小野妹子臣を大使に、吉士雄成を小使、鞍作福利を通事とし、送使として同行させた。
(日本からの国書の内容が続くが省略)。
そして留学生として倭漢直福因、奈羅譯語(ナラノオサ)恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧として新漢人日文(僧旻)、南淵漢人請安 、志賀漢人慧隠、新漢人広濟等8人も一行に加えた。第3次遣隋使である。僧旻、南淵請安 、高向玄理らは、帰国後、大化の改新に際して、中大兄皇子や藤原鎌足のブレーンとなった人材である。山背国愛宕郡上高野で見つかった小野妹子の子毛人の墓誌によれば、毛人は天武9年(677年)に死去しているから、古代では長寿の70歳まで生きたとしても父の妹子が遣隋使となった607(推古15)年頃の生まれになる。当時の平均余命からすればそれより10歳は若く死去した可能性の方が高いだろう。それを考えると小野妹子が遣隋使となったのは20歳前後ではなかったか。 遣隋使となった時の妹子は大礼(後の正六位)だったが、子の毛人の墓誌によれば妹子は「冠位十二階」の最上位である「大徳冠(後の正四位)」と書かれている。蘇我氏などの大氏族に与えられる地位を除けば、 この後小野妹子は最高の官位を与えられたということになる。
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『日本書紀』推古13年(605年) 4月1日、推古天皇は大臣蘇我馬子、聖徳太子、諸王、諸臣に詔し、皆が礼拝するための銅(アカガネ)と繍(ヌイモノ)の丈六仏を作ることにした。そして鞍作(鞍部)鳥(止利)を、その工匠に任じた。この話を聞いた高句麗の大興王(嬰陽王)は黄金300両(元興寺縁起では320両)を贈ったという。
高句麗僧の慧慈が来日し、聖徳太子の師となっていたが、推古10年(602年)にも高句麗僧の僧隆と雲聡が渡来し、推古18年(610)年には高句麗王が僧曇徴・法定を献じた。曇徴は絵具・紙・墨・碾磑(水力を使う臼)の製法を伝えた。このように推古朝の高句麗嬰陽王の親日政策は、さまざまな技術や知識を日本にもたらしている。この年の翌年推古19年(611)年に隋の煬帝による第2次高句麗征討が開始されるのだが、高句麗は背後の新羅や二枚舌外交ををする百済とも対立し、しばしば軍事衝突ていたから、日本と友好関係を結ぶことは非常に重要な外交的課題だった筈である。聖徳太子は当初、新羅征討を企てたが、将軍となった同母の弟の来目皇子の死に続いて、その任を引き継いだ異母弟の当麻皇子に同行した妃も九州に向かう途上で死去するという事態となり、対新羅強攻策を断念して以来、新羅に対しても友好的な政策に転換し、平和主義的な全方位外交を目指すようになった。それは仏教への帰依が思想的、内面的にも深化し、現実の外交政策にも影響を及ぼしたとも考えられる。
しかし、それは現実的な国内問題でもあっただろうと思う。古代の日本は弥生時代以来の先住日本人の他に、伽邪(任那)系、新羅系、百済系、高句麗系の民族が同居している多民族社会だったから、朝鮮半島での国家間の対立は、日本社会の諸氏族に影響を与えないわけには行かなかっただろう。
聖徳太子の「和」の精神というのは、そうした意味で、極めて現実的な問題だっただろうと思う。これまでのように百済との同盟関係に偏る政策を取れば、それは律令制のような合理的・法治的な集権国家を構想するのに障害とならざるを得ない。諸民族が結束できる社会を築くためには、諸民族を平等に扱わざるを得ない。その要になる思想が「和」ということだっただろう。
だから、『十七条の憲法』の第一条にうたっている「和」の精神というのは、後の百済一辺倒の政策に立ち戻り、そのあげく白杉江の戦いで日本の半島干渉が潰えた時代よりも、推古朝の政治情勢にこそ現実味を持った思想だということが出来るのだと思う。秦氏というのは渡来系氏族の中で、最も多数の人口を擁する新羅系の氏族たが、日本に渡来して200年を経ていたから、渡来系であるという系譜的な自覚は持ちつつも、帰属意識は日本人そのものになっていただろう。葛野の地は渡来系が人口の7割にも達したというが、遺跡から発掘される遺物には渡来系のものが非常に少ないという。また秦氏が祀った松尾大社や伏見稲荷や木嶋神社も、みな葛野郡や紀伊郡に古くから住んでいた人々の祀った農業神を引き継いだものだった。鴨氏との婚姻譚も、秦氏の持っている性格が、「和」の精神に共鳴するものだったといえるのではないか。
推古13年(605年)に鞍作鳥に命じて作らせた丈六仏が完成したのは、『日本書紀』によれば翌推古14年(606)年としているが、『元興寺縁起』では戊辰年(推古16・608)に隋使裴世清が来た、その翌年、己巳年(推古17・609)4月8日に作り終えて元興寺に納めたと記している。高句麗王とのやりとりや、隋使が来た翌年と明記していることを考えれば、『元興寺縁起』の方が正しいだろう。
『日本書紀』推古14年条には、この年に初めて4月8日と7月15日の斎会を始めさたと記しているが、これも推古17年(609年)、隋使裴世清が来日した翌年のことだろう。この飛鳥大仏を作った鞍作鳥は、飛鳥大仏を作った功に加え、祖父の司馬達等、父多須奈、叔母善信尼らが仏教興隆に果たした功績を併せ、冠位12階の第3位である大仁位を与えられ、近江国に水田20町を与えられたと伝える。鞍作(鞍部)氏は雄略天皇紀に鞍作堅貴を桃原・真神原に遷したという記事がある。元興寺は真神原にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の宅地に建てられたから、鞍作氏の住んでいたのも元興寺の近くだったのだろう。また推古15年(607年)の遣隋使には鞍作福利が通事として加わっている。
この時代は、先進文化の基礎をなす、さまざまな技術が入ってきた。紙の製造技術と、筆記するための墨の製法や絵具の製法や絵を描く技術などは、この後の日本文化、政治、経済の進歩の根幹を作るものとなった。それまでは紙も墨も朝鮮半島からの輸入に頼っていたから、それらを社会全体に普及させることは不可能だった。しかしこの後は日本各地で紙や墨が製造され始めるから、さまざまな情報を、大量に記録し、通達し、保存することが、一部の人々の間ではなく、社会全体で記録し保存することが 出来るようになる。推古朝は真に日本の歴史時代の開幕となるのである。
『日本書紀』推古12年(604年)条には、黄文画師・山背画師匠を定めるという記事がある。山背画師というのは出自はわからないが、黄文画師は、後の黄文連につながる氏族とすれば、高句麗系の渡来人である。
こうして見てみると、山背国というのは政策的に渡来人技術者を住ませたという感じがする。それは大和に接して製品を搬送しやすいということがあったのだろうが、秦氏の他民族的なネットワークは、益々広がっていったのだろう。
今年(2010年)の5月の末に広隆寺の東北辺で飛鳥時代、広隆寺創建当時の竪穴住居跡10棟が見つかったと新聞の報道にあった。住居は3.5〜5メートル四方で四隅に屋根を支えた柱跡も見つかり、内部は調理の際に出る焼土も検出されたという。この辺りは御室川流域の高台になっており、取水しやすく、水害を受けにくい所で、集落を作るのに適した場所である。広隆寺は初め蜂丘寺と呼ばれたというが、この辺りの高台を蜂丘と呼んでいたのだろう。今も蜂丘の地名は残されており、蜂丘中学がある。
広隆寺が創建された7世紀の初めの葛野は、まだ双ヶ丘に最後の首長墓が造られる一方、家父長の墓といわれる群集墳が盛んに造られていた時代である。群衆墳は6世紀中頃から各地で造られ始めたが、それは家父長制家族が形成されるようになり、造墓階層が増えたためだといわれている。
家父長制家族というは、残された奈良時代の戸籍を見ると、20人から50人に及ぶ大家族で、有力な家は奴婢(奴隷)も所有していた。そして山背など、畿内の諸氏族に属する家父長家族の有力な者は、大和の皇族や中央豪族の下で働く下級官吏となることも多かった。一般の民衆も、族長の命令で飛鳥に行き、兵士や仕丁として働いたり、或いは道路や水路の開鑿や宮殿、寺院の建設などに徴発されることも多かっただろう。渡来系の民衆は、在来の日本人よりも識字率も高かったと思われ、そのため豪族らの末端で働くことも多かったのではないか。ここで、古代の葛野の民衆の生活を想像してみたい。秦氏のような渡来氏族は、鉄製農具の普及にも大きく貢献したようで、その普及が大規模な潅漑工事や農地開発を可能にし、また畑作農業の技術も普及させた。それは水田として利用できない土地でも生産できるということであり、また様々な食物を供給出来るということであり、施肥技術の進歩にともない二毛作も可能となるということだ。今日、二毛作が行われていたことが確認されるのは平安中期からだということだが、素人判断で想像すれば、京都の冬が厳しいとはいえ、太秦は南に傾斜したなだらかな斜面だから、さまざまな植物が生育する。肥料さえ補給されれていれば、偶然でも二毛作が出来る可能性はあるだろう。
農業労働の他には、養蚕の仕事が課せられ、竪穴住居の中では糸を紡ぐ仕事があっただろう。紡いだ糸は奈良時代に愛宕郡として立郡された所に居る錦織氏に届けられたのだろうか。錦は庶民の着るものではない。庶民は麻や楮(コウゾ)を着ていた。その麻糸を紡ぐのも家の中の仕事である。麻衣の色はどんぐりの殻を似て染料とした橡(ツルバミ)色だという。橡は媒染の種類によって白、赤、青、黒などの色を出すことが出来るそうだが、たいていは、そのまま染め付ける鼠色のものだったようだ。
『隋書倭国伝』によれば、男は桾襦(肌着様の衣)を着け、庶民は大抵裸足だったという。住居は地面から40〜50センチ掘り下げた床に筵を敷いて生活していたが、貧しい家では藁を敷くだけのものだったらしい。山上億良の貧しい庶民の生活を歌った『貧窮問答歌』を見ると、「麻衾」という言葉が出てくるから、麻に防寒用の藁や草などを入れた夜具で寝たのだろう。『貧窮問答歌』では、父母と夫婦と子供が一部屋に生活している様子が描かれているが、そうした家が家長を中心に集まって、家父長制家族を構成していたのだろう。太秦は南に2キロ行けば大堰川(桂川)の辺、梅津に出るし、西に2キロほど行けば嵐山に出る。大堰川は古代から鵜飼漁をしており、後の時代にも大堰川の鮎は名物だったそうだ。鵜飼漁は鵜の飼い慣らしが必要だから、特定の人によって行われたのだろうが、庶民も釣りで魚を取ったりはしていただろう。
大堰川から南に下ると、大原野には墳墓の石棺や石槨を造る石作りの職人集団が居住しており、淀の羽束師には土器製作の集団、泥部(ハツカシベ)の一族が居た。聖徳太子の母は穴穂部間人(アナホベノハシヒト)皇女だが、間人(ハシヒト)は泥部(アセツカベ)のことで、皇女は泥部穴穂部とも記す。皇女を養育したのが泥部氏だったということだとしたら、聖徳太子との関連もあるのかも知れない。
このように葛野には農民以外にも様々な職掌集団が居たのだが、7世紀に入ると、山科や岩倉では須恵器生産も始まる。そのうち岩倉の窯業は瓦と陶器の両方を作っていたそうで、そこで作られた瓦は葛野秦寺と考えられている北野廃寺でも使われていたという。
それまでの土器が酸化焼成であるのに対し、須恵器は窖窯(あながま)を使った還元焔焼成による高温で焼かれ、叩くと金属音のする硬質の土器で、また轆轤(ろくろ)を使って作るのため、均質な製品を量産することができる。7世紀初頭は日本史の中でも特筆すべき技術革命の時代だったのである。山背のような海を持たない地域では塩は他の国から運ばれて来たものを買わなければならないが、山背で消費する塩は、古代は若狭からもたらされたらしい。今「鯖街道」と呼ばれている国道367号線は、古代は「塩街道」だったらしい。距離的には大阪湾の方が近いと思えるのだが、若狭と摂津、播磨、和泉と両方から来たのか、それとも様々な要因で主として若狭からもたらされたのかはわからない。
塩を買う場所、土器や衣料、農具や食品を買う場所、大和の海石榴市のような市が、飛鳥時代の山背にもあったのだろうが、どこにあったかという記録は残されていない。まだ寺院は作られ始めた頃だから、神社などの傍で市が開かれたのだろうか。
太秦には通称「蚕ノ社」と呼ばれる木嶋神社がある。東本殿に蚕養神社があり、養蚕の神として信仰を集めているが、正式には木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社と言い、本来は太陽神を崇拝する農業信仰の神で自然の湧水を神泉として信仰された。この神社の傍には秦氏の氏神である大酒神社があり、秦氏の祖秦酒公を祀っている。
604(推古12)年の正月元旦、朝廷は初めて冠位を諸臣に授与した。600年の遣隋使は、官司制が整っていないため、遣使の身分も説明出来ない状態だった筈で、その時の体験が早急に官位を定める必要性を痛感させたのだろう。しかし冠位を与える官人は皇族や蘇我氏を除く中下級の官人だけで、蘇我氏などの大豪族の権力に制限を加えるというものではなかった 。伝統的な氏族の地位と妥協しながらも、官吏の能力や業績に応じて地位を与えるというもので、律令制へ一歩近づこうとしたものだった。
この冠位は「徳」を最上位とし、以下儒教の「五常の徳目」の「仁」「義」「礼」「智」「信」の順序を変えて、「仁」「礼」「信」「義」「智」の順序で5階級とし、それぞれ大小に分け12階としているのだが、順序を 「仁」「礼」「信」「義」「智」に変えているのについて、専門家は当時日本にも入って来ていた「五行思想」の「木・火・土・金・水」に当てはめたと説明している。しかし、『隋書倭人伝』では「内官に12等あり」として「徳」「仁」「義」「礼」「智」「信」という 本来の順序で紹介している。これは情報が曖昧に中国に伝わったということだろうか。それ以上に本当に「五行思想」が、あえて「五常の徳目」の順序を変えるほど当時の日本人に影響を与えていたのだろうか。
僕はそうではなく、やはり個々の徳目そのものに優劣の判断があって、そこにこの制度の性格が出ているだろう思う。この冠位制度を聞いた中国人が、その意図を理解せず、「五常の徳目」の順序で理解し書き留めたということではないか。
「礼」を「仁」の次に置いていることは、最も大切なものは「仁」であるとは言っても、「仁」は計り難く、及び難いもので、ふつうの人の実質的な日常的な規範としては「礼」が最も重要なことだと考えているのだろう。そして「信」を「義」や「智」よりも大切なものと考えるということは、命令に信服して、誠実に仕事に従事することの方が、道義に適うことよりも、すぐれた智恵を持つことよりも大切だと言っているのだろう。実に日本的価値観は604年の推古朝にすでに出来ていたという感がある。
もう一つ、『日本書紀』には、この年の4月に『憲法十七条』を作ったと記している。「和をもって尊しとなし、・・・」という言葉は、その後長く日本人の精神の骨格とも見られるようになった精神だが、この官人のための規範集の言葉や内容は、推古朝ではなく、天武・持統時代の政治状況を反映していると見られる点などから、聖徳太子の作ったものではないという専門家の説が多い。そこで、この規範集が聖徳太子の作ったものかどうかは問題にせず、7世紀の社会状況 、官人の有り様を見る資料として考えたい。この『憲法十七条』でも「礼」と「信」が出てくる。「四に曰く、群卿、百僚、礼をもって元とせよ。・・・・・」「九に曰く、信はこれ、義の本なり。・・・」と、「礼」と「信」が、特に条文として書かれている。その他の条文も、仏教的な思想 に基づくものも含めて、『日本書紀』の「十五に曰く、私に背き公に向くは、これ臣の道なり」という言葉にある「背私向公」の精神に収束 している。官人は「公」の目的を実現するために行動しているのだから、「私」の利益や立場に執着してはならないという自覚を求めているのだ。その為に まず必要なものが「礼」であり、「信」だと言っているのだろう。
「礼」とは「礼法」のことであり、社会や組織の中で、人と接する時の作法ということだろう。すべての人々が人と接するときの作法を身につければ、おのずと社会も組織も治まるというのだ。「信」とは「誠実」ということだろう。その誠実が無ければ、人間関係も仕事も、結局すべてがうまく行かなくなるだろうと言うのだ。道理に従う「義」があっても、正しい判断する「智」があっても、人々が一緒に暮らす社会や組織の中では、まず人間関係の作法を守り、誠実に人に接し、仕事をやり遂げる気持ちがなければ、宝の持ち腐れになるということだろう。
そして官人の仕事は「公」の目的を実現することで「私」に執着してはならないというのだ。
この『憲法十七条』が推古朝のものであろうと、天武・持統朝のものであろうと、ともかく7世紀の官人に要求された理想として、このような考え方があったということだけは歴史的な真実である。しかし、いつの時代でも同じだが、現実は理想とは逆の姿であっただろう。5条では、このごろ、訴訟を裁く官人が、賄賂を出す者の訴えを聞くので、賄賂を出せない貧乏人はどうしてよいかわからないと言 い、16条では農繁期に人民を使役してはならないと、特に一条を割いているいることを考えれば、情実や賄賂による裁定や、庶民の生活を破壊するような使役が現実に蔓延していたのだろう。
『憲法十七条』が『日本書紀』編集者の捏造だという、最も懐疑的な説に立っても、官人の腐敗や人民の酷使を問題にする視点が、少なくとも『日本書紀』が出来た奈良時代に、たとえ建前だけであったとしても、存在した事実を消し去ることは出来ない。「冠位十二階」と「憲法十七条」という律令制の萌芽のような制度と規範は、あくまで官人の世界の話だから、ただちに葛野で暮らす庶民の生活に影響を与えることはなかっただろう。しかし次第に律令制の確立に向かう流れは、庶民を直接支配している豪族に制限を加えるものになっていっただろう。
葛野は東国や九州ではなく、朝廷のある大和に隣接する山背の国にある。しかも山背は渡来人が占める割合が非常に高い国だったから、新しい理念、新しい規範は、比較的浸透しやすかっただろう。 そういう意味で葛野はさまざまな社会変革の実験場となっていたのではないか。
推古天皇が小墾田宮に遷った翌月、603(推古11)年11月1日、聖徳太子は諸々の大夫(マエツヒギミ)に「自分の持っている仏像を、誰か礼拝する者はないか。」と聞いた。すると秦河勝が進み出て、「私が礼拝しましょうと」と申し出た。このようなことから蜂丘寺(太秦寺・広隆寺の前身)が創建されることになったと 『日本書紀』は伝えている。
その後の623(推古31)年には、聖徳太子の死去を悼んで、新羅が仏像と金塔ほかを貢ったので、仏像を葛野秦寺に、金塔ほかを四天王寺に納めたと『日本書紀』は伝えている。しかし603年の記事にある仏像を納めた蜂丘寺と、623(推古31)年の記事にある葛野秦寺が同じ寺かどうかはわからない。京都の北野白梅町周辺に飛鳥時代の寺院遺跡の北野廃寺跡があるが、 そこから斑鳩宮との関連を想像させる「鵤(イカルガ)室」と書かれた土器片が見つった。この地は平安時代に成った『朝野群載』所収の『広隆寺縁起』に書かれた、広隆寺の旧地 とほぼ一致することから、ここがもともとの広隆寺の寺地であると多くの専門家は指摘している。しかし仏教が解禁されて間もない頃に、仏像を納めた建物が、本格的な伽藍を持った寺院 ばかりであったとは言えず、603年の記事にある蜂丘寺は、それ以前に多数存在していたと思われる草堂の寺であったかも知れない。 司馬達等が草堂を建て仏像を礼拝したというのもそうだし、蘇我稲目の小墾田の家に仏像を安置したというのもそうだろう。そうだとすれば寺院遺跡は残らない。
北野廃寺の遺跡のある、現在の北野白梅町の周辺は、どう考えても丘という風景ではない。現在の広隆寺のある太秦の辺りの方が、起伏が大きく、丘と呼ぶに相応しい地形と言えそうだ。 それを考えると、603(推古11)年の蜂丘寺は太秦にあり、その後、本格的な葛野秦寺を建立したのが北野廃寺で、平安京が建設された後に再び太秦の地に統合されたということも考えられるだろう。603(推古11)年に秦河勝が賜った仏像は、国宝「宝冠弥勒菩薩像」だと言われている。弥勒菩薩は新羅で尊崇された未来仏で、広隆寺の仏像と韓国中央博物館所蔵の弥勒仏が極めて似た特徴を持っているという。また広隆寺の 宝冠弥勒はアカマツ材を使っているが、日本ではその例が他になく、新羅の仏像に多いことなどから、この仏像は新羅から献じられた可能性が高いという。
623(推古31)年に葛野秦寺に納められたという仏像も新羅から献じられたものだったが、『聖徳太子伝補闕記』には、616(推古24)年の記事に、それ以前のこととして、聖徳太子が山代(山背)の楓野(葛野)の蜂岳(蜂丘)村に宮を造った折、秦河勝が一族をあげて奉仕したので、「小徳」の位を与え、その宮を河勝に預けた。そして新羅が献じた仏像を賜って、この宮を寺にし、宮の南の水田数十町と山野を施入したと伝えている。この時代は政治的には任那をめぐって新羅との関係が再び悪化し、新羅遠征のために出兵するまでに至った時期である。そうした背景を考えれば、603(推古11)年の『日本書紀』の記事 のようにに、聖徳太子が「誰か礼拝するものはないか」と言ったのが事実ならば、それは 敵国の仏像を礼拝することを、多くの臣下が躊躇することを予想して言った言葉だったのかも知れない。
この頃、隋・高句麗・新羅・百済など東アジアの国際情勢は刻々変化していた。隋の文帝は皇太子楊勇を廃嫡し、楊広を皇太子にしたのだったが、604(推古12)年、病中、楊勇を廃嫡したことを後悔し、再び楊勇に後事を託した。ところが楊広は腹心の部下を文帝の病室に入れ、後官らを病室から排除した。そして密室の中で文帝が死去すると、遺詔と称して即位を宣言し、楊勇や弟らを殺害し後憂を絶った。これが隋の楊帝である。
もともと楊広は文帝の覇業を助け、南朝の陳を征討した時には、その総司令官となり殊勲を立てた人物だったから、反対派が粛正された後は政情は安定し、再び大帝国の皇帝としての威圧を周辺諸国にもたらした。これに最も機敏に反応したのは新羅である。新羅は真平王(在位579〜632)の時代で、国内は後世にまで残る官司制度が整備され、隋とは積極的な朝貢外交を行い、煬帝が即位した604年7月にも入隋している。つまりは隋の力を頼んで、高句麗、百済、日本に対処しようとしたのである。
百済は、日本が新羅出兵を準備していた時には、高句麗・日本と一度は対新羅同盟の関係が出来たように見えたが、その後隋の政情が安定すると、高句麗に対して、再び二枚舌外交をする。高句麗には危機には援軍を送るように見せかけ、隋には高句麗を挟撃するように見せかけ、どちらが勝っても良いような立場を取ったのである。しかし隋の煬帝の強大な権力が安定したことを確認すると、607(推古13)年3月、隋に高句麗遠征を要請する。それに対し、高句麗は5月、百済に侵攻、これを知った隋は9月、高句麗に入貢を促す。さらに翌608(推古14)年2月に、高句麗が新羅北境に侵攻したとして、新羅も隋に高句麗征討を要請する。この後隋は、610(推古18)年、ついに第2次高句麗遠征の準備を開始することになる。百済・日本との同盟関係が崩壊した高句麗は超大国の隋のみならず周囲がすべて敵という状況に追い詰められたのである。しかし百済と新羅も相変わらず抗争を続けていた。このような国際情勢の中で、任那を復興させたい、というよりも半島での利権を回復したい日本はどういう外交をすればよいのか。議政に関わる皇族・豪族の中にはさまざまな主張や立場が出来ただろう。『日本書紀』の608(推古14)の記事には、この年に新羅人が多数渡来したと書いている。新羅が高句麗遠征を隋に要請した年である。しかしそれ以上のことは何も書かれておらず、新羅の国内情勢を反映したものか、日本の外交政策によるものかはわからない。
ただ弥生時代以来、朝鮮半島の人々にとって日本列島は移民の国であり続けたし、日本と新羅の国家間の対立が激化し、戦争状態になっても新羅からの移民も続いていただろう。そして日本に来た新羅人は、先 住の新羅系渡来人の有力者に従い、頼らざるを得なかっただろう。このようにし、秦氏のような渡来系氏族は成長し、発展していったのだろう。
『隋書倭国伝』、文帝の開皇20年、600(推古8)年に当たる年の記事に、「倭王、使を遣わして闕(長安)に詣る。上(皇帝)、所司をして、その風俗を訪わしむ。・・・・」と書かれている。ところが『日本書紀』には何も書かれていない。次の遣隋使、小野妹子が入隋した607(推古15)年のことは、『隋書』大業3年の記事にも 、『日本書紀』推古15年の記事にも、ともに書かれている。
『隋書』大業3の記事は「遣使朝貢す。使者云く・・・」となっており皇帝に謁見しているようだが、『隋書』開皇20年(600年)の記事には「遣使闕 に詣(イタ)る」と書かれているだけなのだ。つまり607年の遣隋使は国書を持った正式な外交使節として皇帝にも謁見したのだが、600(推古8)年 の日本の使者は、長安に行くには行ったが、正式な外交使節としては扱われなかったのだろう。 当時、日本には官司制も整わず、遣使の身分も説明出来なかった筈で、もしかすると国書も持っておらず、それで謁見できなかったのではないか。ただ120年ぶりに中国に来た倭国の話に興味を持った文帝が使者を遣わして、倭国の風俗を聞かせたということだったのではないか。この頃の朝鮮半島の情勢は大きく変化していた。隋の高句麗遠征に荷担しようとした百済の恵王は、高句麗が隋と和睦し、逆に高句麗の侵略を受けるという事態の中で、在位1年で死去し、王位を継いだ法王もまた在位1年で死去してしまった。そして武王が即位したのが、この600年だった。
こうした情勢の中で、日本は任那の復興を計り、日本の権益を復活させるべく、和戦両様の構えで新羅に圧力をかけたらしい。この年の『日本書紀』の2月の記事に、「新羅と任那相攻む。」と 記し、任那を救援するため、境部臣を大将軍に、穂積臣を副将軍に任じて、万余の軍で新羅を攻め、5城を攻略したと記している。
任那諸国はすでに新羅に併呑されてしまっていたのだが、旧任那諸国の民衆に反乱する動きがあったものか、それとも、歴史的な経過を『日本書紀』の編集者が捏造したのかはわからない。この時の出兵そのものは、将軍の名も、氏しか記されず、具体的な戦闘の内容も書かれていないことを見れば、我田引水の架空の話という感がするが、その後、難波吉士神(ミワ)を新羅に派遣し、難波吉士木蓮子(イタビ)を任那に派遣し て、新羅は、日本が権益を主張する6城を割いて講和したという。この当時は新羅を孤立させる絶好の情勢ではあったから、外交交渉そのものはやったのかも知れない。
高麗の時代、13世紀の末に成立した『三国遺事』に「新羅の真平王(579〜632)の頃、三人の花郎(選ばれた貴族の若者)が楓岳という所で遊ぼうとした時、彗星が心太星を犯そうとしたのを見て、(日本軍が来るという)不吉な事が起こると思い、遊びを中止しようとした。その時、融天師という者が歌を作って歌うと、星の異変はたちまち消えて、恐れていた日本軍は帰って行った。喜んだ真平王は花郎らに岳で遊ばせた。」という記事を載せている。日本軍の侵攻が現実的な脅威として存在したことは事実なのだろう。このような情勢の中で、日本の遣使が隋を訪れたことを考えると、何のための遣使であったかおおよそ見当がつく。恐らく日本の半島での利権回復の為の新羅征討戦に、隋が介入するのを止めようとしたのだろう。しかし 遣使は文帝に謁見できず、新羅はその後、再び任那を侵したという。
これに対し、日本は翌601(推古9)年3月5日に大伴齧(クイ)を高句麗に、坂本糠手(アラテ)を百済に派遣し 、任那の復興に協力するよう要請した。三国で新羅を包囲しよというのである。その前月、601年の2月に聖徳太子は斑鳩宮を創建している。斑鳩は朝鮮半島に向かう玄関口である難波に最短距離で通じる竜田道の麓にある。いち早く半島情勢に対処しようという意図があったのだろうか。或いは大臣蘇我馬子の影響力から脱しようという意図もあった のかも知れない。またこの地は愛妃膳菩岐々郎女の実家の地でもあった。 『伝暦』の伝えるところでは、聖徳太子は598(推古6)年に膳菩岐々郎女と結婚しいる。 聖徳太子には蘇我馬子の女の刀自古郎女という妃もあり、後に一族全滅の悲劇に見舞われる山背大兄王を生むのだが、聖徳太子にとって膳大郎女と呼ばれた菩岐々郎女は特別な存在だったようだ。菩岐々郎女は8人の王子、王女を生み、母の穴穂部間人皇女と聖徳太子と三人で同じ墓に埋葬されている。
また菩岐々郎女の妹の比里古郎女は、この後撃新羅将軍に任じられる聖徳太子の同母弟来目皇子の妃となっている。
膳氏はその名の通り、朝廷の膳部を職掌とする氏族だが、一方で外交にも活躍しており、菩岐々郎女の父傾子は欽明朝の末年高句麗使が来日した時、饗応使をしている。高句麗僧慧慈が聖徳太子の師となったということも併せて考え併せると見えて来るものがありそうだ。601(推古9)年9月8日、新羅の間諜が対馬で捕らえられ、上野に流されるという事件があり、緊張が高まる中、朝廷では11月5日に新羅征討軍の派遣について議せられた。 この年、隋では文帝が皇太子を廃嫡し次子の楊広を皇太子にするという出来事があった。隋宮廷の混乱は高句麗の背後を安定させることを意味する。機は熟した。そして翌602(推古10)年2月4日、太子の弟来 目皇子を撃新羅将軍とし、神部、国造、伴造を中心とする2万5千の兵を集め、筑紫に出兵した。
今回の出兵が主要な豪族ではなく、聖徳太子の同母弟の来目皇子を最高指揮官とし、「諸々の神部、国造、伴造を併せて」大軍を編成していることに、豪族連合という政治体制を脱して天皇を中心とした官司制に脱皮しようとする聖徳太子の意志が感じられる。
しかし2万5千という兵士の数は、当時の人口からすれば子供老人を含めた総人口が5百万人だとして、その内の男子の数250万の1パーセントに当たる 数だから、兵士となるに適した年齢の男子人口からすると30人か40人に1人くらいの数が動員されたということになるだろう。これだけの兵を集めるとなれば秦氏の民も徴兵され、出兵した可能性は大いにあるだろう。
秦氏は山背国の葛野郡や紀伊郡深草の他に、河内の茨田郡、近江愛知郡、播磨西部にも広がっており、豊前や周防にも蟠踞していた。その地域は北陸、畿内から九州への水上交通につながっていたから、兵や物資の搬送などに大きく関わっていたかも知れない。602(推古10)年4月1日、新羅征討軍は九州に向かい来目皇子は筑紫国嶋郡(糸島郡)に駐屯した。そして船舶を集め、兵糧を運び渡海に備えた。 ところが6月3日、高句麗に派遣されていた大伴連囓と百済に派遣されていた坂本臣糠手が帰朝し、いよいよ作戦を開始しようという時、俄に久米皇子 が病に倒れ、渡海を延期せざるを得なくなった。その後も来目皇子の病は日増しに深刻さを増し将軍の任を果たせない状態となった。
日本軍が渡海できないでいる中、百済の武王は、8月に単独で新羅の阿莫山城を攻めたが大敗してしまった。そして翌603年2月4日、ついに来目皇子が筑紫で死去し た。軍営は駅使を使い飛鳥の朝廷に急報した。推古天皇は、土師猪手を周防に派遣し殯を行うとともに、聖徳太子と大臣蘇我馬子を召して新羅遠征について協議した。そして4月、聖徳太子の異母弟の当麻皇子(麻呂子皇子)を後任の大将軍に任じた。 当麻皇子は7月3日に妃の舎人皇女を伴い難波津を出航し、6日に播磨に着いた。ところが、今度は妃の舎人姫王が滞在地で急死するという事態が起きた。皇子は妃の亡骸とともに大和に帰り、遂に新羅遠征は中止されることになったのである。
この間の経過は小説風に考えれば、新羅の諜者の仕業という風にも描けるだろう。しかし恐らく古代人はもっと霊的なものに原因を求め、 出兵を止めよという神の意志だと考えたのではないか。
推古天皇という史上初の女帝は、この後の時代に相次ぐ、中継ぎの天皇ではなく、いまだシャーマン的な性格を残していたのではないか。推古天皇の和風謚号は炊屋媛尊である。「炊屋媛」という名は「 神に神餐を供える媛」ということではないか。そして「神は大将軍を病にすることで警告したが、それでも中止しない故に死を与え、次の大将軍には妃に死を与えることで警告した。」、そういう風に解釈したのではないか。
大将軍が病死し、引き継いだ大将軍の妃が急死し、新羅遠征を中止するという失意の中、この年の10月4日、推古天皇は小墾田宮に遷った。
599(推古7)年、4月29日、大和に大地震が起こり、舎屋がことごとく倒壊した。朝廷は四方に命令を発して、地震の神(ナヰノカミ)を祭らせたという。(『日本書紀』)
史上初めて記録された地震である。「ナ」は「土地」のことで、「ヰ」は「居る」、「ナイ」で「地盤」、地震を「ナヰフル」と呼んだ。そして地震の神を「ナヰノカミ」と言った。
震源地がどこだかわからないが、大和で舎屋がことごとく倒壊したというのだから、山背でも相当な地震であったに違いない。古代の人々は地震に対してどう考え、どう行動したのだろうか。当然ながら、古代の人々は自然の恵みも、自然の驚異も、みな神の技だと考えただろう。そもそも、神とは「事物や現象を現前させている『力』」なのだから、豊作も凶作も、自然災害もみな「神の技」なのである。そして事物や現象に対する科学的、合理的に理解できる範囲が少なければ少ないほど、それは「不可思議」な「神の技」と考えるのは当然のことで、古代人の理解力が低かったわけではない。古代人は精一杯「不可思議な現象」を理解し、説明しようとしただろう。雷が天上に居る鳴神の仕業だと考えたように地震は大地に住む神だと考えただろう。聖徳太子の訪れた伊予の温泉は「神の井」と言われたのだが、それが「神の慈しみ」であるように、地震は「神の怒り」と考えたのではないか。
地震の神とはどういう神なのか、どこに祭ったのかということは、『日本書紀』には何も記されていないが、三重県名張の名居神社は、その名から地震の神を祭ったのではないかと言われているそうだ。現在の主祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)だそうで、大国主命のことである。「オオナムチ」は「大・オオ」は「大いなる」、「己・ナ」は「土地」、「貴・ムチ」は「神」で、「大いなる大地の神」である。古代から大己貴命が地震の神と考えられていたのなら、『日本書紀』にも、そのように書かれただろうから、「牛頭天王」が「素戔嗚尊」と同一視されるような過程があったのだろう。ともかく大地の神が怒るのである。
推古天皇の時代から、『日本書紀』には、天災や異常気象、天文現象などの記事が数多く記録され始める。 翌々年の601年5月の記事にも、推古天皇が耳梨の行宮に居た時、大雨が降って川が氾濫し宮庭に水が満ちたという記事を載せている。旧暦の5月といえば今の6月だから、梅雨の時期の集中豪雨だったのだろう。
暦法の利用が次第に広がり、事件や気象現象などの時間的な順序を記録し、その因果関係を考えるという合理性もこの頃から広まっていったのではないか。
また暦法や時間、方位に使われる十二支は、一般にも次第に浸透していっただろう。古代の人名には蘇我馬子や土師猪手など、他にも兎とか子麻呂というように生まれた月の干支から取ったと思われるような人名がしばしば出てくる。暦法とともに、天文地理、遁甲方術などの知識を持った朝鮮半島の人々が次々日本に渡来してきて、そうしたことへの関心も広まっていった。602(推古10)年10月、百済から僧観勒が来日し、暦本及び天文・地理書、并びに遁甲・方術之書を献じた。朝廷は陽胡史 の祖の玉陳に暦法を習わせ。大友村主高聡に天文・遁甲を、山背臣日並立に方術を学ばせた。それぞれ学んだ知識を仕事としたという。
天文というのは天体の現象と地上の現象は関連していると古代人が考え、天体の変化を見て天災や事件や事故に備えようとしたのだろうが、天災や異変 に予め対処をしたり、見落としていた危険を発見したするのには役だっただろう。また遁甲というのは、特に軍事的な決断をする時、巫女の神託で得ていたような占いを、 道具を使って実現しようとしたもので、霊能力がなくとも道具の使い方と情報の意味を学べば占いが出来るというものらしい。 また方術というのは、場所や、時間、方角に運気や吉凶の変化があり、それを得て意志決定しようとしたものらしい。こうした占いも、やはり、その結果の意味を考えることで情勢分析を深めることになっただろうし、見落としていた可能性を発見することにもなっただろう。
いかに科学的認識が進歩し、行動の選択を合理性で絞り込むことが出来るようになっても、最後はさいころを振って決めるという事態は、現代でもしばしば起こる。科学的な情報が限られた古代において、占星術や易学が重視されたことで、古代人の能力を過小評価するには当たらないだろう。こうした道教につながる文化は仏教より、かなり早い時期から庶民の中にも浸透していったと思える。道教は庶民が手に入れることの不可能な仏像や仏具を 必要としないし、道教の教えは長命と現世利益である。「不老長寿」を究極の目標とする薬学、気功術であり、意志決定の方向を示してくれる占術であった。
飛鳥時代、すでに吉野は神仙境と見なされおり、皇極天皇の行幸の後、しばしば皇族が訪れているが、吉野は「不老長寿」の薬と考えられていた水銀朱の産地で、薬用食物として 現在でも利用されている葛の産地でもあった。
葛は庶民が手にいれることの出来る薬用食物で、飛鳥時代の庶民の住居遺跡に葛根や葛餅が見つかるそうだから、庶民も風邪や腹痛の薬として、食事を出来ないような重病の時の栄養源として使っていたのだろう。611(推古19)年の5月5日、初めて兎田野で薬猟を行ったという記事が『日本書紀』に現れるが、これも中国から伝来した道教の文化に由来するという。そもそもは旧暦の5月の最初の午の日に行われたので「端午の節句」と呼ばれたが、「午」が「五」と同音なので、最初の「午」が最初の「五」に置き換えられ、後には5月5日に固定するようになったらしい。5月は悪月なので、菖蒲や蓬を取って邪気を祓うという道教の教えに由来しているとのことだ。蓬も菖蒲も薬草として使われていた。また「七草」も薬草だが、やはり道教に由来するという。
道教で不老長寿の薬と考えられた水銀朱は古墳の石室に使われることが多いが、道教で邪気を封ずるとされる桃の種も古墳から発見されることがあるという。それらが道教の影響 だとすれば、古墳時代を築いた人々は、すでに道教の文化を受け入れていたことになる。
そしてこれに関して思うことだが、死者の住む世界と桃の実という関係は、『古事記』や『日本書紀』などに書かれている、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げる時に、桃の実を投げて難を逃れる話を思い起こさせる。それは、大和朝廷の神話が古墳時代の記憶を元にしており、その起源が古墳時代を遡るものではないということを意味しているのではないか。 しかも黄泉の国への行き来は墳墓の横穴式石室を想像するが、もしそうだとしたら、伊弉諾尊の黄泉の国訪問の話、つまり天皇家の神話は6世紀以後、継体天皇以後の文化を反映したものだということになる。道教の文化の日本社会への浸透について、もう少し付け加えると、七夕も道教起源の風習だそうで、万葉集にも出てくるが、奈良時代より以前にすでに広まっていたらしい。
また「人形」や「流し雛」「藁人形」「てるてる坊主」「物忌み」「方違え」「護符」なども道教の影響を受けて浸透していった習俗、信仰だという。
さらに『日本書紀』や『丹後国風土記』に記載されている『浦嶋子』も道教の神仙思想を色濃く反映している。浦嶋子の行き先「蓬莱山」は道教の描く、不老不死の神仙境だが、「とこよ」と訓が付けられている。常世国といえば、垂仁天皇が死去する前に田道間守が非時香菓(ときじくのこのみ)を得るために行った所だが、これも道教の思想が日本に伝えられたものだとすると、実在したと考えられる天皇の最初の頃から、つまりは大和朝廷の草創の頃から道教の文化は入ってきていたということになる。後に644(皇極3)年に東国の不尽河(富士川)辺の人、大生部多という者が 、蚕に似た緑色で黒い斑点のある親指ほどの虫を「常世の虫」だと言い、それを清座(しきい)に置いて「常世の神」を拝めば、老人は若返り、貧しい者も富み栄えると説き、人々がそれを信じて福を求めて財産を捨てたので、多くの人が零落してしまった。これを知った秦河勝は大生部多を討伐した という。人々は「太秦は神とも神と聞こえ来る 常世の神を打ち懲(きた)ますも」(秦河勝は神の中でも神といわれた常世の神を打ち懲らした)と賞賛したという ことだ。
現代でも変わらぬ新興宗教の害悪が7世紀中葉の古代にもあったのだが、秦氏はそれに掣肘を加える存在だったということらしい。それまでの古代の人々の信仰というのは、新興宗教のような棚からぼた餅が落ちて来るような福徳を期待する信仰では無かっただろう。雷を神の姿と考え、災厄をもたらす「荒ぶる神」を祭り、その怒りを鎮めるために祈る。五穀豊穣の時には、神に感謝を捧げ、人事を尽くす誠実、神を尊ぶ敬虔を誓う。そのような信仰だっただろう。
山背の神は鴨氏の祭った鴨社、秦氏の祭った稲荷社や松尾社が後には山背だけではなく国家の尊崇する神社として発展するが、それは神奈備(神の住む山や森)や磐座を祭る、いずれも最も古い形の農業神への信仰を引き継ぐ形で成立している。
北野社も、菅原道真を祀る以前からあり、雷神を祭り、降雨を祈る農業神であった。蚕の社の名で知られる秦氏ゆかりの太秦の木嶋神社は平安時代には、朝廷から祈雨の使者が派遣された神社だが、ももともと地下水のわき出る聖泉の場所に太陽神を祀った、やはり農業神であった。仏教が広まる以前の古代の山背の人々の信仰はこういう農業神への祈りであっただろう。それは豊穣だけではなく災厄ももたらす神への信仰である。そして福徳を期待するよりも、むしろ災厄をもたらす神の怒りを鎮めることこそが、古代の信仰の基本的な姿だっただろう。
『日本書紀』は、597(推古5)年、4月1日、百済王が王子阿佐を遣わして朝貢したと伝える。この時の百済王は威徳王だが、すでに治世44年目で、翌年には死去しているから、王家の継承も問題になっていた時期だろう。威徳王は隋が中国を統一する前には北朝の北斉や北周とも、そして南朝の梁とも外交関係を結んでいたのだが、隋が陳を滅ぼす前年の588(崇峻1)年、隋の戦船が耽羅国(済州島)に漂着すると、これを手厚く持てなして隋へ送り届け、翌588(崇峻2)年に隋が陳を平定すると、祝賀の遣使を送っている。
しかし朝鮮半島三国の抗争は対隋関係や対日関係も含め国際関係を複雑にし、どの国とも安定した友好関係・同盟関係を結ぶことは出来なかった。
高句麗は589(崇峻2)年、隋が陳を滅ぼすと、大いに動揺し、翌590(崇峻3)年、「拒守之策」を取り、随の侵攻に備え、陳の残兵を集める一方、隋には朝貢するという和戦両様の政策で臨ん だ。この事がまず隋の文帝の不興を買った。また高句麗は南の百済や、東の新羅との対立の他に北方の遊牧民族契丹(後の遼)との紛争も抱えていたのだが、この契丹との対立関係が隋の政策と衝突した。文帝は璽書を送って「歳常朝貢,雖稱藩附,誠節未盡。王既人臣,須同朕コ,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。・・・・」、朝貢して臣従していると言うが、靺鞨(後の渤海)を駆り立て契丹を束縛している」と高句麗の平原王を詰問した。その年、高句麗の平原王は死去し、嬰陽王が後を嗣いだのだが、隋と戦端を開くどころではなかったのだろう、隋に表を奉って陳謝した。597(推古5)年5月、百済の阿佐王子が来日した翌月に、高句麗は隋に遣使を送っているが、結局、国境問題や契丹をめぐる隋との対立は解決できず、翌598(推古6)年、高句麗が靺鞨(後の渤海)の兵を率い、万余の軍で遼西に侵入すると、ついに隋の文帝は高句麗征討の軍を起こした。
この情勢に乗じて百済はさっそく、隋に高句麗征討の先導を申し出た。しかし隋軍は食料の欠乏や疫病に罹るなど、進軍が思うにまかなかった所に、隋が征討軍を起こしたことを知った高句麗の嬰陽王が百済との挟撃を恐れ、「遼東糞土の臣元(嬰陽王の諱)」と称し上表文を奉り臣従を誓ったので、隋の文帝は高句麗征討を中止した。隋との停戦が成立すると嬰陽王は、踵を返して百済を劫掠している。この後にも百済は、611(推古19)年、隋の煬帝が第二次高句麗遠征を発令すると、高句麗との国境に兵を送って、隋には高句麗を挟撃すると説明し、高句麗には、危機には援軍を送ると説明し 、どちらが勝っても、百済が生き残れるように、小国ならではの二枚舌外交をやっている。しかし最後に百済は、日本の援助にすべてを賭けて、白杉江に滅亡してしまうのである。
話は逸れるが、古代日本の支配階級は、いつの頃からか、中国の皇帝も言わない「天から天下った太陽神の子孫」という系譜を作り上げ、「皇帝」の称号の上を行く「天皇」という称号を発明して、中国皇帝の風上に立とうとし、しかし結局中国を模倣した「小中華思想」の虚栄で背伸びしたのだが、その虚栄が、この後奈良時代以後幕末に至るまで、1200年に及ぶ 「箱庭の中の歴史」を作ることになる。
そこに築かれた文化は、閉鎖社会の中に、外から知識や技術や文化を取り入れては、それを日本風に改良する、「輸入と改良だけで成り立つ」、世界でも希な 精神風土を生み出すのである。しかし、飛鳥時代は「箱庭の歴史」ではない。外交や対外派兵という問題は最も重要な現実の課題であった。「倭王武の上表文」に書かれているような海を渡った土地での戦略問題は、そもそも大和朝廷が成立して以来、存在し続けている問題だっただろう。それは、 朝鮮半島に基盤を持つ政治勢力が日本列島を征服し、大和朝廷を築いたと考えるのが、最も自然だろうことを示している。
「天(アマ)」というのは「海(アマ)」だと江戸時代の学者新井白石は看破していたのだが、幕末・維新以後の、奇矯な「神風思想」が、新井白石のような合理思想をブチ壊してしまい、今日まで引きずっているのだ。「腐漢腐女のしつこさ」で、「騎馬民族説」を中傷する記事が、古代史を扱った歴史雑誌に、一応 専門家の肩書きを持った人々によって、さかんに書かれている が、彼らは未だに日本の中で自生的に成立した政治勢力が、朝鮮半島に進出し、半島の小国の人々を、中国に匹敵する大国である日本に、「帰化人」として呼び寄せて、役に立つ技術や文化を、自らの意志で、選択的に吸収したと主張しているのだ。
「世界に冠たる日本」などという言い方を喜びとするような「小中華思想」の打算と虚栄は、日本に寄生し、集(タカ)る思想を助長するだけで、もとより日本を害する思想であることは戦前の歴史が証明しているだろう。それはさておき、阿佐王子が来日した年の11月22日に朝廷は新羅に難波吉士磐金を派遣している。恐らく、九州に駐屯していた新羅征討軍を大和に帰還させたことを伝え、平和戦略に出たのだろう。日本にとっては、任那諸国が存在した頃の半島での権益を復活させることが、最大の外交課題であった。
翌598(推古6)年4月、難波吉士磐金が新羅から帰朝し、鵲(かささぎ)二羽を奉った。「かささぎ」という名も日本名ではなく朝鮮語だそうで、この時、初めて日本にもたらされたということ である。鵲は人家の庭に巣を作り、人になつきやすいので、この後日本の貴族に愛されたようだ。
さらにこの年の8月、新羅は孔雀二羽を献った。これは朝鮮にも生息していない、外国から手に入れた貴重な動物だっただろう。つまり、この年時点では新羅は日本の平和戦略に応えて来たのである。
すると、今度は翌599(推古7)年9月1日、百済が駱駝、驢馬、羊、白雉を送って来た。朝鮮半島三国が、自国の存亡の為に必死になっている様子が、動物の献上記事に現れている。新羅に派遣された難波吉士磐金の属する吉士氏というのは、外交を職掌とする氏族で、「吉士」というのは古代朝鮮語の「首長」を意味する語に由来するそうだ。それを考えると渡来系の氏族だと思われるが、『新撰姓氏録』では大彦命の後の皇別氏族となっているので、阿倍氏の勢力下にあったのだろうか。とくに推古朝までは、任那問題で外交関係の難しい新羅、任那に派遣されることが多く、新羅系の渡来人だったのかも知れない。いずれにせよ外交を職掌とした氏族だから、新旧の渡来人と関わりの深い氏族である。聖徳太子の側近にあった秦河勝とも接触の多い氏族だっただろう。
596(推古4)年11月、6年の歳月をかけて日本で初めての仏教寺院法興寺(元興寺・飛鳥寺)が竣工した。 大臣蘇我馬子の長男善徳が寺司となり、高句麗から来日した慧慈と慧聡が住持となった。
その前月には聖徳太子は慧慈と葛城臣と連れだって伊予の温泉に行っていることが『釈日本紀』などに引用された「伊予国風土記逸文」に見える。前年、九州に駐屯していた新羅征討軍が大和に引き上げているから、そのことと関係があるのかも知れない。
新羅征討軍は591(崇峻4)年に派遣され、5年の間九州に駐留していた。大和に帰還することになったのは2万の大軍を長期に渡って維持することの困難もあっただろうが、隋の中国統一がもたらす朝鮮三国への影響を考えた上での、新羅に対する平和戦略だったのだろう。事実、翌年難波吉士磐金を新羅に派遣して以後、新羅との外交関係は非常に活発になって来る。聖徳太子は慧慈や葛城臣と道後温泉でくつろいだ時を過ごしながらも、超大国隋が勃興したことや、朝鮮半島三国の情勢について話をし、かつ有事の際に、今旅をしている瀬戸内海と筑紫から難波に至る地域の防衛や朝鮮半島までの兵站線の問題などについてさまざま相談したのではないか。葛城臣というのは、恐らく、物部守屋征討戦の将軍で、新羅征討軍の将軍の一人であった葛城烏那羅だと思われる。そうすると葛城臣は最新の軍事情報と知識を持っており、慧慈は最新の大陸・半島情勢を持っていたのだから、この逍遙の旅の目的が何であったか想像がつく。
「伊予国風土記逸文」というのは、伊予の湯岡に聖徳太子が来た時に作った碑文があり、それを載せたものだが、それには「惟(おも)ふにそれ日月は上に照らして私せず。神井は下に出でて給はざるなし。万機(まつりごと=政治)の妙應する所以、百姓(おおみたから=人民)の潜(ひそ)かに扇(うご)く所以なり。若乃(かの)照り、給ふこと偏(かたより)私(わたくし)無きは、何ぞ壽国、華臺に隨ひ開合せるに異ならんや。神井に沐(あみ=浴)して病を□(いや=癒)すは、□(なん)ぞ花池に落ちて弱きを化するに舛(ことな)らんや。(以下略)」と書かれていたという。
聖徳太子の文か慧慈の文か、或いは聖徳太子に傾倒する後の人で、風土記が出来るまでの時代に生きていた漢文の素養のある人の文かはわからないが、聖徳太子や慧慈の文ではなく、後の人の手によるものだとしても、平等に光を照らす太陽のように、平等に病を癒す神泉のように人民に政治を行うという理想が、少なくとも、聖徳太子を尊崇する人々のイデオロギーであったことは疑う余地がないだろう。そして聖徳太子がそういう人々から尊崇を受けた人であったことは否定出来ないだろう。
秦河勝は後の皇太子傅のような立場だったから、伊予の湯へ同行した可能性は大いにあるだろう。そして、秦氏の人々が、河勝から旅先の話を伝え聞いた可能性もあるだろう。そうして聖徳太子信仰は徐々に人々の中に浸透していったのだろう。
この旅の航路、そして朝鮮半島や中国へとつながる瀬戸内地方、豊(豊前・豊後)、周防、播磨などには秦氏が蟠踞していたらしい。 『隋書倭国伝』には隋使裴清が来日した時、「一支(壱岐)国に至り、はるか大海の中にあり。また東して都斯麻(対馬)国に至り、また竹斯国(筑紫)国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ。」と記録している。華夏というのは中国のことで、大和への途上、筑紫の次に着いた場所に中国人と同じ人が住む「秦王国」があったというのである。ことさらに「秦王国」と記すのは、「竹斯国」などのように、地理的な地域としての把握ではなく、「秦氏」の支配する土地という認識があったからだろう。筑紫の次に立ち寄る地域ということであれば豊前、長門、周防などだろうが、そこには中国人が訪れて、「華夏(中国)に同じ」と特筆するような秦氏の支配する地域があったのである。
また用明天皇が病に倒れ、仏教に帰依することを群臣に諮った時に、宮廷に呼ばれた「豊国法師」も、豊国の僧侶と法名を伏せた書き方をしているが、豊前は早くから仏教が広まり、椿市寺など7世紀に創建されたらしい寺院もあるという。もしかすると「豊国法師」というのは秦氏の縁で朝廷を訪れた豊前の僧侶だったのかもしれない。
秦氏は雄略天皇の時に養蚕の技術を伝え、庸調を徴収するために、秦の民を諸国に派遣した伝えられるように、日本各地に移住しているから、山背の秦氏の民は、遠く九州のことも、或いは祖先の住んていた朝鮮半島のことも身近なこととして聞いていたのかも知れない。
593(推古1)年、大后額田部皇女(炊屋媛)が即位すると、厩戸皇子を皇太子とし、加えて摂政としたという。そして厩戸皇子は死後に偶像化され、聖徳太子と尊称されるようにな るのだが、摂政はもちろん皇太子という地位も、当時まだ確立していたわけではない。ただ聖徳太子は父が堅塩媛の子用明天皇で、母が小姉君の娘穴穂部間人皇女だったから、対立する堅塩媛家と小姉君家の調停者となるべき位置に居た。そのことが、 王族の要になる立場に押し上げたのだろう。
厩戸皇子という名の由来については様々の説があるのだが、多くの場合養育された場所や養育した豪族名、豪族の所在地、家政の財源となった名代、子代が冠せられることが一般的だった。 厩戸皇子の生誕地と伝えられる橘寺の近くには厩戸という地名もあったらしいが、 母の穴穂部間人皇女が馬司の所に来た時、急に産気づて、生まれたという『日本書記』の記事を史実の反映だとし、さらに『続日本紀』の天平神護元年(765)年の記事に、播磨国加古郡に住む馬養造人上が、「先祖である上道臣牟射志は馬司として上宮太子に仕えたので、庚午年籍が造られた時に誤って馬養造に編入されてしまった」という申し立てがあり、それを採用するならば、厩戸皇子は馬司をしていた吉備上道氏によって養育された為に厩戸皇子と命名されたということになる。
或いは堅塩媛家と縁の深い司馬達等の子孫の鞍部(クラツクリ)家に養育されたのかも知れない。ともかく、聖徳太子は生まれた時から仏教思想や仏教美術、 儒教倫理、そして乗馬の文化の中で育っていった。聖徳太子が少年時代、誰から教育を受けたかは伝えられていないが、敏達朝に大別王が預かったという百済僧や蘇我馬子が石川精舎に招請した高句麗僧恵便にも教育を受けたのかも知れない。仏教だけではなく儒教も渡来人の知識人から学んだだろう。
588(崇峻1)年には、百済から仏法を伝えるために聆照律師ら6人の僧侶が渡来、そして日本で初めての本格的な寺院となる法興寺(元興寺・飛鳥寺)を建立するために、仏舎利がもたらされ、寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工などの 多くの専門家が渡来した。聖徳太子はそうした人々から様々な知識や刺激を受けながら育っていったと思われる。推古元年、聖徳太子の発願によるという四天王寺が難波の荒坂に創建され、翌推古2年、仏教興隆の詔が出されると、諸豪族は競って 仏像を求め礼拝し始めた。鞍部氏のような仏師は日本にはまだまだ少なかっただろうから、仏像を手に入れることが、すでに富と権力の象徴となったのではないか。当時の人々にとって、といっても豪族に限られただろうが、仏教は外国の神を礼拝することだった。しかし大王家と最大の権力者となった蘇我氏が仏教に帰依し、広めようとしている以上、仏教を受け入れることは、豪族にとって利益になることに違いなかった。
翌推古3年5月10日、高句麗僧慧慈が来日し、同年やはり高句麗から三論成実の学僧慧聡が渡来した。2人は推古4年法興寺が完成するとそこに住み、仏教の教えを広めて、三宝の棟梁となり、また聖徳太子の師となったという。
その頃、中国では北周の大司馬であった楊堅が581年に隋を建国し、さらに589年、南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。高句麗は巨大な帝国の出現に背後を脅かされるようになり、にわかに緊張を増してきたのである。そのような情勢の中での慧慈と僧慧の来日であった。
『日本書紀』は何も記していないが、かつて584(敏達13)年に、大臣蘇我馬子は、高句麗から渡来した還俗僧恵便を播磨から招請したのだったが、今回の高句麗僧の来日は、それと繋がりがあるのかも知れない。恐らくは物部氏を滅ぼして実権を握った大臣蘇我馬子の要請によってのことだっただろう。また馬子の祖父は高麗という名であったと伝えられているのだが、蘇我氏と高句麗とは何らかの繋がりがあったのかも知れない。高句麗から渡来する人々は北陸の海岸に着いて、丹波か近江から山背を経て大和に向かうという場合が多く、近くには高句麗の使者を逗留させる 相楽館などの施設も置かれた。南山背には泉河(木津川)の辺に高麗人が集落を作り、飛鳥時代にそこに高麗氏の氏寺とみられる高麗廃寺を造った。その地域には今も上狛、下狛 、高麗という地名を残している。また南山城の高麗人の一派は愛宕郡、今の京都市内にも住み着き、八坂氏を称した。 そして高句麗人は、葛野の樫原にも進出し、白鳳時代に創建されたと見られる樫原廃寺は、その伽藍の配置が高句麗の清岩寺廃寺に共通したものであると指摘されている。
崇峻天皇の時代は、 旧豪族を代表する物部氏の本宗家が滅びたことで、中国、朝鮮諸国に倣った官僚的な王権を確立しようとする新豪族蘇我氏の権力が大きく成長する。崇峻2年近江満を東山道に派遣し、蝦夷との境を確認させ、宍人雁を東海道へ派遣し、東国諸国の境を確認させ、 さらに 阿倍臣を北陸道へ派遣し越の国の境を確認させた。これまでは、中央や地方の豪族に対して宗主権を認めさせるだけの連合国家だった大和王権が、実体的にも地方を支配するだけの軍事力と経済力を獲得するに及んで辺境の支配地域を拡大させ、或いは服属させる余裕が生まれてきた のである。
翌590(崇峻3)年、半島遠征の英雄大伴狭手彦の娘が出家し善徳尼と称した他、大伴狛の夫人、新羅媛善妙、百済媛妙光、又漢人善聡、善通、妙徳、法定照、善智聡、善智恵、善光、鞍部多須奈(徳差斉法師)らが同時に出家した。馬子の子も善徳と名乗り、建設の始まった法興寺(元興寺・飛鳥寺)の司となる。
仏教興隆は崇峻朝に始まり、蘇我氏の権力が確立する中で、渡来人のみならず、旧来の豪族からも次々と入信出家する者が出始めた。蘇我氏による集権的国家の成立は敏達・用明朝の悲願であった半島に於ける日本の根拠地(任那日本府)の再建の為に、大軍を派遣するという計画も現実のものにした。
591(崇峻4)年、紀男麻呂、巨勢猿、大伴咋、葛城烏奈良を大将軍に任じ、2万の半島遠征軍を九州に発遣した。そして外交交渉のため、吉士金を新羅に吉士木蓮子(イタビ)を任那に派遣した。
6世紀末の大和王権の支配地域の日本の人口というのは、5百万以下ではなかったか。古代国家が完成する奈良時代が推定7百万の人口だというから、まだ九州南部や東北地方など未統一地域を残した時代である。そしてこの時代は民衆を直接支配しているのは豪族であり、朝廷が諸国の民衆から徴兵できる地域などは相当に少なかっただろう。もとより徴税や徴兵の基礎となる戸籍などは天皇家の屯倉でようやく普及し始めたばかりである。律令体制下の健児制、軍団制などは、この時代にはもちろん存在しない。そのような社会で2万の軍を編成するというのは相当大きな規模だっただろう。しかしこれらの集権的な権力は大王家の権力ではなく、豪族間の権力抗争に勝ち残った蘇我氏の権力であった。崇峻天皇は、蘇我馬子の思うままの政治に次第に不満を募らせ、ついに592(崇峻5)年、宮殿に兵を隠し馬子を暗殺する計画を立てるに至ったという。『日本書紀』の一書によれば、天皇の寵愛を失った妃の大伴糠手古の娘小手子媛が馬子に天皇の計画を密告したのだという。
それに対して馬子は大后炊屋媛の了解を得て、機先を制して東漢駒に命じて天皇を殺させた。そして殯宮も設けられることなく、その日のうちに 倉梯岡陵に葬られたという。崇峻天皇の運命は奈良時代、阿倍皇女(孝謙・称徳天皇)に廃された淳仁天皇と同じことだったのだろう。それだけ古代においては大后という地位は大きなものだったのだろう。つまり外戚である大豪族蘇我氏の実力だけではなく、 炊屋媛が14年君臨した敏達天皇の皇后であった太后として成り立ての天皇より遙かに大きな発言権を持ち、臣下を服従させるだけの力を持っていたということだろう。
伝説では密告したという小手子媛の生んだ蜂子皇子は飛鳥を逃れ越に逃れようとして、丹後の由良海岸から出港する。しかし佐渡沖で難破し佐渡島で船を修理することになる。再び出発して辿りついたのは、出発地と同じ「由良」という名の 出羽国の海岸だった。そこに現れた八人の美しい乙女が、笛の音に合わせて舞う姿を見ながら眠ってしまった時、夢の中に、白髪の老人が現れ、三本足の烏の導くままに行けという。目覚めてから、その言葉のままに、羽黒山に辿り着いたのだった。皇子は飛鳥を逃れる前に聖徳太子の勧めて出家していたのだが、 この地に修験道の出羽三山を開いたという。そして後に皇子が多くの民衆の苦しみを除いたということから「能除大師」と呼ばれるようになった。
小手子媛と父の糠手古、そして妹の錦手皇女も蜂子皇子の後を追いかけ出羽に落ち延びて来、小手子媛は養蚕を教え機を織って暮らしていたが、娘の錦手皇女は病に倒れ亡くなり、やがて父の糠手古も亡くなって小手子媛一人が取り残されて しまったという。そして身を嘆いた小手子媛は、とうとう池に身を投げて自殺してしまったということだ。この伝説は単なる貴種流離譚ではない真実味を持っているように感じられる。抹殺される運命を背負わされた皇族は、皇族故の過酷な目に遭ったことだろう。有馬皇子、山背大兄王、古人大兄皇子、大津皇子、そして長屋王など奈良時代になるとそのような皇族が枚挙に暇がないほどの数に上る。その一族は蜂子 皇子伝説のように朝廷の放った追手が来ない土地まで落ちのびて行った者もあっただろう。
伝説では聖徳太子が仏門に入ることを勧めたということになっているが、崇峻天皇は聖徳太子の母穴穂部間人皇女と同母の姉弟である。蜂子皇子は聖徳太子にとって父方の従兄弟であった。聖徳太子の母穴穂部間人皇女の兄弟たちは穴穂部皇子も、そして崇峻天皇も蘇我馬子によって殺されたのだった。「世間虚仮 唯仏是真」という聖徳太子の言葉は、こうした体験が生み出したものだったのだろうか。大伴小手子媛は福島では養蚕の神様として祀られているという。養蚕といえば、秦氏が雄略天皇の時代に、技術を全国に伝えるように命じられたと伝えられているが、小手子の落ち延びた先にも秦の民も行っていたのかも知れない。もっと小説風の想像をすれば、聖徳太子に命じられて、秦河勝が蜂子皇子とその一家を助けるために秦の民を派遣したというストーリーも出来そうだ。
用明天皇を嗣いだ崇峻天皇の母は、聖徳太子の母穴穂部間人皇女と同じ蘇我小姉君だった。一夫多妻の古代の皇族や貴族の家は、母親とそれを後見する父母という単位で形成されていた。つまり母親が違えば、異なる家なのである。だから崇峻天皇と穴穂部間人皇女は本当の意味で兄弟であり家族であった。
その穴穂部皇子が排仏派の大連物部守屋に擁立され、皇位を望むようになった。そして敏達天皇が死去した後、大きな発言権を持っていた大后(皇后)、額田部皇女(炊屋媛尊・推古天皇) の居る殯宮に押し入り、皇位を要求したのだったが、穴穂部皇子は却って大后の嫌悪と大臣蘇我馬子の 不興を買い、物部守屋が軍事的な蠢動をする前に、機先を制した馬子によって殺されてしまった。
崇峻天皇となる泊瀬部皇子は物部討伐戦の時には、馬子の側に着いた。穴穂部皇子が殯宮に押し入り、警備していた三輪逆が阻止したことを逆恨みして殺したことで、その行為を非難する世評が支配していただろうし、形勢が蘇我氏の側に有利であることは明らかだっただろう。そして恐らくは、馬子は泊瀬部皇子に皇位を約束もしたのだろう。そして大后炊屋媛と大臣蘇我馬子が推戴して崇峻天皇が即位することになった。物部氏が滅びた今、排仏を主張する勢力はなくなり、諸豪族は先を争うように仏教を受け入れ始めた。そして有力な氏族は、次々に氏寺を建立し始めることになる。これまで氏族の権力と信仰の象徴であった古墳に変わって、氏寺が氏族の象徴となってゆく。その最初の本格的な寺院が法興時(元興寺・飛鳥寺)であった。
しかし本格的な寺院を建設するためには、造仏や教典の入手ばかりではなく、寺院そのものの建築技術も朝鮮から導入しなければならなかった。そして正式な仏法を伝える僧侶も養成しなければならなかった。588年(崇峻1)年、百済は僧恵総。令斤。恵寔等を遣して仏舍利を献った。百済国は恩率首信、徳率益文、那率福富味身等を遣して、調 を進上し、併せて仏舍利と6人の僧侶、聆照律師。令威。恵衆。恵宿。道厳。令開等と、寺工太良未太(ダラミダ)、文賈古子(モンケコシ)、鑪盤博士将徳白昧淳 (ハクマイジュン)、瓦博士麻奈文奴(マナモンヌ)、陽貴文(ヨウクイモン)、陵貴文(リョウクイモン)、昔麻帝弥(シャクマタイミ)、画工白加 (ビャクカ)らを献った。
大臣蘇我馬子は百済僧らに僧侶を養成するための受戒之法を問い、それを日本に確立するよう要請した。そして善信尼らを百済に帰国する恩率首信 らに同行させ、留学させることにした。この年、飛鳥真神原にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の家を壊して、仮の垣と僧坊を建て、百済から来た6人の僧侶を住ませて法興寺 とし、その本格的な工事が始まった。また尼寺としてすでに在った桜井寺の中に工人を住まわせ豊浦寺の工事も始まった。こうした大規模な建築作業に、山背秦氏の民も動員されたのだろうか。秦氏は蘇我氏の支配下にあった。そして秦氏は山背にある屯倉(天皇家直轄領)の管理をしていた可能性が高いというから、地理的にも近い飛鳥の工事に動員された可能性もあるだろう。この先十数年後には山背の葛野の地にも同じような大寺院、広隆寺が建てられることになる。
今までに見たことのない瓦葺きの屋根の巨大な建物や数十メートルの高さの塔が立てられてゆく。それは巨大な墳墓に畏敬を持ったのとは異なる、先進技術や文化への新たな敬服の念を生み出しただろう。
そして話に聞く新しい宗教、仏教は、これまでの呪術と祭祀の宗教ではなく、倫理と哲学を持った宗教であった。善因は善果を生み悪因は悪果を生む。それは死んだ後にも及び、生まれ変わっても及んでゆく。だからこそ善を積まねばならない。その思想は、渡来人や豪族から民衆の中に急速に広がって行き、やがて国家的な紐帯として機能しはじめる。
それはこれまでの宗教が、氏神を祀り、磐座や神奈備を崇め、神域を侵してはならず、卜占によって神意を伺い意志決定をしなければならない。荒ぶる神は宥め、犠牲を捧げて鎮めなければならないというものだったのに比べると、きわめて合理的な主体性、倫理観を要請するものだったから、古代日本人の精神的な進化に大きな影響を与えることになっただろう。
仏教伝来についての歴史の記録は、平安時代に書かれた『扶桑略記』の継体16年(522年)に「大唐漢人案部(クラツクリ)村主(スグリ)司馬達 止が大和国高市郡坂田原に草堂を結び仏像を礼拝した」という記事が年代的には最も早い。『扶桑略記』は平安時代に書かれた書物だから、「大唐」という書き方をしているが、つまりは韓人ではなく漢人ということなのだろう。 『扶桑略記』の記事にある継体16年という時期の信頼性については何とも言えないが、『日本書紀』 や『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』などに記載された仏教公伝よりも以前に、渡来人の間で仏教が信仰されていたという可能性は、当然あり得ただろう。ただ、司馬達 止(達等)は62年後に再び仏教興隆のため、蘇我馬子とともに活躍しており、62年という間隔はあまりに長すぎるので、渡来した漢人とその子の親子二代の話が司馬達等という一人の話として伝わったのかも知れない。 そもそもこの一族は渡来して後、案部(鞍部・鞍作 クラツクリ)という氏の名を与えられており、「司馬」というのは、渡来前の氏の名を意味するのではなく、馬を管理する、或いは馬具を作るという職名を意味するに過ぎないのかも知れない。
その後、『帝説』『元興寺縁起』によれば、戊午年(538)、欽明天皇の7年に百済聖明王より仏教が公式に伝えられ たが公的に受容することにはならず、大臣蘇我稲目が私的に礼拝するということで、仏像を小墾田の自邸に安置したという。『元興寺縁起』によれば己丑年(569)に蘇我稲目が臨終に臨んで、 甥と姪にあたる、池辺皇子(大兄皇子・用明天皇)と大大王(額田部皇女・推古天皇)に仏法を尊崇するよう遺言したという。しかし稲目が死去すると、物部尾興ら排仏派の攻撃が強まり、庚寅年(570)年、仏堂は焼かれ、仏像・経論は難波江に流されるなどの迫害を受けた と伝える。
欽明天皇を嗣いだ敏達天皇も仏教受容に消極的であったが、来日する渡来人技術者が増えれば増えるほど、仏教を信仰する官吏、技術者が増え、渡来人氏族を率いる崇仏派蘇我氏の影響力は増していった。そして敏達5年(576年)、敏達天皇の大后(皇后)広姫が死去し、蘇我稲目の娘堅塩媛の生んだ額田部皇女が皇后となると、額田部皇女は兄の池辺皇子(大兄皇子・用明天皇)とともに仏教を擁護する立場に立った。そして、翌敏達6年(577年)には、百済に派遣された大別王が帰国する際に、百済威徳王は経論とともに、律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工など6人を贈っ たのだったが、朝廷は、それらを難波の大別王の寺に安置することとした。大別王というのは出自の不明な皇族だが、百済王から贈られた6人の僧侶や造仏工・造寺工らを難波にある自分の寺に置いたというのだから、蘇我氏に近い崇仏派だったのだろう。さらに敏達8年(579年)には新羅が枳叱政奈末(キシサナマ)を日本に遣わし、仏像を奉った。敏達天皇13年(584年)9月には、鹿深(甲賀)臣が、百済より弥勒の石像をもたらし、また佐伯連も、仏像をもたらした。蘇我馬子はそれらの仏像を得、石川の宅に安置した。馬子は司馬達等と池辺直氷田を遣わし、諸国に僧侶を求め、 還俗していた高句麗僧恵便を見出し招いた。そして司馬達等の娘嶋(善信尼)と2人の弟子、漢人夜菩の娘豊女 (禅蔵尼)、錦織壺の娘石女(恵禅尼)を出家させた。
司馬達等の子の鞍部多須奈は、(用明2)年、天皇が疱瘡で病没する前に、天皇の病気平癒のために、自ら出家し、仏像を造り、寺を建立する誓いを立て た。その後多須奈は、徳斉法師と名の り、南淵(明日香村稲淵)に坂田寺を造営し、木造の丈六仏と脇侍の菩薩を作って本尊としたと伝える。飛鳥時代には、この寺は大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と共に飛鳥五大寺に数えられた。その子が 有名な鞍作止利 (鳥)である。この南淵には、推古朝に遣隋僧として渡海した漢人僧南淵請安が出る。 また聖徳太子の弟、殖栗皇子の子衣縫王は南淵に住み、子孫は蜷淵真人の姓を与えられている。
これら仏教公認前に崇仏運動を展開した人々は、崇仏派の皇族や蘇我氏の人々を除けば、すべて外交関係に携わった人か、渡来人であった。司馬達等とともに活動した池辺直も東漢氏の一族である。漢人夜菩の娘豊女 (禅蔵尼)はもちろん、錦織壺の娘石女(恵禅尼)も渡来人だった。聖徳太子は、崇仏運動の中心にあった蘇我氏と、崇仏派の皇族の中に生まれ、渡来人の先進文化と開明的な思想を吸収しながら育ったと思われる。
秦河勝(川勝)の名前「河勝」というのは、個人の名前ではなく「河に勝つ(人)」という尊称だという説がある。秦氏は葛野川(桂川)や、その支流の浚渫をし、葛野大堰を造り、或いは堤を造り、水路を開き、新たな農地を開発した。築堤技術は、大雨の時、洪水をもたらす暴れ川の流露を安定させ、人々の暮らしを守っただろう。まさに「川に勝つ」という名に相応しい仕事をする渡来人氏族の長だったのだろう。
水田のための水路を引くことが出来ない高台には桑を植え養蚕をし、機織りをする。秦氏の「秦(ハタ)」は機織りの「ハタ」という説もある。「肌のようにやわらかな絹を織る」ので「ハタ」というようになったという伝承もある。先住日本人にとっては、実に文明開化をもたらした偉大なリーダーであっただろう。秦河勝の出自は葛野ではなく河内の寝屋川だという説がある。そして秦山という丘陵地に河勝の墓があるらしい。近くには秦町や川勝町、太秦の地名が今も使われているという。仁徳天皇の時、淀川の流路を定め、河内平野を開発し、屯倉(天皇家の直轄領)を設定する目的で作られた茨田堤の工事を担ったのは秦氏だとする説もある。寝屋川は淀川流域だから、淀から桂川を登れば葛野とは容易に往来出来る土地である。そうした可能性もあるかも知れない。
『上宮聖コ太子傳補闕記』 や『聖徳太子伝暦』は、蘇我馬子を中心とした崇仏派の軍と物部守屋の軍が戦った時、秦河勝は兵を率いて厩戸皇子を守っていたと伝えている。もしこの伝承が 本当なら、厩戸皇子付きの侍従のような役を与えられていたのだろうか。
『日本書紀』によれば、644(皇極3)年、秦河勝が常世神を触れ回る大部多を討ったという記事が載せられているから、少なくともこの時まで生きていたということになる。物部守屋討伐は587(用明2)年だから、その間は57年に もなる。物部守屋討伐に加わったという伝承が事実とすれば、秦河勝も厩戸皇子と同じような少年で、皇子の小姓のような存在だったのだろうか。或いは討伐の時は20歳代で、常世神を討った時は80歳くらいになっていて、命令だけしたということか。その辺は全くわからない。秦河勝が史書に現れる前、欽明天皇の時に秦大津父が天皇に重用され、大蔵掾に任じられたという。それは50年ほど前のことだが、氏族が職掌を世襲した時代だから、その後も大蔵の管理の仕事を続けていただろう。欽明朝以来、忌蔵、内蔵、大蔵の三蔵を統括していたのは蘇我氏であった。秦氏はその部下という立場で、大臣の指示の下で働いていただろう。
天皇家の財政を支えているのは「屯倉」と呼ばれる直轄領だが、収税の基礎となる戸籍の整備は、屯倉を増やすこと以上に重要な課題であった。つまりは戸籍と収税の品目と量を文字で木簡に記録することが出来るだけの、最低限の知識と技術が、末端で実務に携わる役人になければならない。それは多くは渡来人に委ねられたのだろう。そして渡来人を統率することによって、蘇我氏は急速に頭角を現したのだろう。秦氏はその右腕として朝廷で働いていたと思われる。そして宮廷で大蔵掾の仕事をする中で、厩戸皇子付の側近を命じられたのだろう か。
敏達天皇が死去するとすぐに、皇位継承をめぐって争いが起こった。先の皇后であった広姫には押坂彦人大兄皇子という皇位継承権を意味する「大兄」という名を持った皇子がいたのだが、広姫は尾張氏らとともに継体天皇を擁立した近江の豪族息長真手王の娘で、その勢力に支えられたと思われる安閑・宣化朝が欽明 朝に敗北したという二朝対立説に立てば、朝廷でのその勢力は大きく後退していただろう。結局、 蘇我馬子の姉堅塩媛の生んだ大兄皇子が即位し用明天皇となるのだが、そこには、大臣蘇我馬子はもちろん、広姫の死後、皇后となった額田部皇女(推古天皇)の意向があっただろう。額田部皇女は 大兄皇子の同母妹であった。
ところが、堅塩媛の妹小姉君もまた欽明天皇の妃となり穴補部皇子や 泊瀬部皇子(崇峻天皇)らの皇子を生んでいた。その穴穂部皇子が敏達天皇の殯宮(天皇の死後、弔いのために作られた宮)で、「なぜ死んでしまった王に仕えて、生きている王 である自分に仕えないのか」と憤ったという。さらに用明天皇元年となった5月に、殯宮に行き、額田部皇女皇女に会おうとしたが、敏達天皇の寵臣で殯宮を警備をしていた三輪逆 (サカウ)は、再三要求されても門を開けず、阻止したという。穴穂部皇子は額田部皇女に皇位を要求するために行ったのだろうが、『日本書紀』は「奸せんと欲し」と記述している。
穴穂部皇子は、三輪逆の行為を「無礼」として、大臣蘇我馬子と大連物部守屋に処断させようとした。そして穴穂部皇子は守屋とともに逆を殺そうとし、海石榴市にある皇后の宮に 逆が隠れていたのを突き止め、自らの手で殺そうとした。しかし話を聞きつけた馬子が皇后の宮の門の所に居た穴穂部皇子に、「古より、王者たるものは刑人に近づかずと申します。」と諫めたという。結局、守屋が逆を殺してしまったのだが、この時には馬子も穴穂部皇子を「王者」と言い、皇位継承者 といて対している。
皇位継承の争いは、用明天皇を即位させた大臣蘇我馬子や皇后額田部皇女と、蘇我氏に対抗するため穴穂部皇子を皇位につけようとし 、後には太子彦人大兄皇子を担ぎ出そうとした大連物部守屋や中臣勝海との争いであったが、結局敏達の寵臣で、殯宮を守った三輪逆を殺したことで、 大連物部守屋に対する諸臣の信望は失われてしまったようだ。
用明天皇は即位した年に、疱瘡に罹ったらしい。『法隆寺薬師如来光背銘』には丙午(586年・用明元)に額田部皇女と厩戸皇子を召して、病平癒の ため発願 し、607(推古15)年に完成したと書かれている。この光背銘は、書体や文体などから天武・持統朝のものだという説が有力なっているが、発願そのものは用明天皇元年の病平癒の時であったという記事に従って話を進める。額田部皇女は33歳 、厩戸皇子は13歳の時であった。
しかし鞍部多須奈(司馬達等の子)が出家して、丈六の仏像と寺を造ることを誓い、天皇の病平癒を祈るなどの甲斐もなく、用明天皇の病気は結局平癒することなく、在位2年で死去した。その間、大臣蘇我馬子を中心とする崇仏派の勢力は拡大し、身の危険を知った大連物部守屋は本拠の河内国阿都に帰り、兵を集め始めた。 大臣蘇我馬子は皇后額田部皇女を奉じて、佐伯連丹経手 ・土師連磐村・的(イクワ)臣真噛(マクイ)に命じ、物部守屋が擁立する穴穂部皇子と、それに味方する宅部皇子(宣化天皇の子)を殺させた。
物部守屋に味方する中臣勝海は、最初、太子(ヒツギノミコ)彦人大兄皇子と皇位継承の可能性がある竹田皇子 (母は額田部皇女)の像を造り、呪い殺そうとしたが果たせず、次善の策として水派宮の彦人大兄皇子に帰順しようとした。しかし水派宮を出た所を、舎人の途見(トミ)赤檮(イチイ)に殺されたという。
『日本書紀』はその後、太子彦人大兄皇子がどうなったかについても何も記していない。それには書けないような事情があって、黙殺されてしまったのかも知れない。
三輪逆が殺され、穴穂部皇子・宅部皇子・中臣勝海らが殺された後、額田部皇女を初め、多くの皇族を味方につけた蘇我馬子と物部守屋の戦争が始まるのだが、物部守屋が皇位継承者を擁さずに戦うことは出来なかった筈で、恐らくは太子彦人大兄皇子の存在があったのだろう。蘇我馬子方の軍には敏達天皇の弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)・敏達天皇の皇子の竹田皇子(母は額田部皇女)・・難波皇子(母は春日臣仲君の娘老女子)・春日皇子(母は春日臣仲君の娘老女子)、用明天皇の皇子である厩戸皇子(母は穴穂部間人皇女)らの皇子を戴き、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳(カシワデ)臣賀陀夫、葛城臣烏那羅らが蘇我馬子の軍に加わり、大伴連噛、阿倍臣人、平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣らは志紀郡から渋川の守屋の陣地へ至った。
『上宮聖コ太子傳補闕記』は、この時、軍政秦川勝が厩戸皇子を護ったと伝える。又『聖徳太子伝暦』は、軍允秦造川勝に命じて、白膠木を取らしめ、四天王の像を刻んで、頂髪に置いて、「もし私が勝つことが出来たら必ず護世四天王を奉じ、寺塔を建てましょう」と願を発したと伝える。
これらの伝承を信じるならば、秦河勝は、この時すでに聖徳太子の側近にあり、秦氏の軍を率いて聖徳太子を護っていたということだ。律令制が成立する以前の古代社会は、朝廷が発する軍でも、各豪族が部民を挑発した軍によって構成されていたわけで、秦氏もまた兵を率いて参戦し、厩戸皇子を護った ということだろう。
葛野に暮らす農業や養蚕や機織り、鍛冶や土器製造、瓦造りなどで働く秦氏の民人たちも、兵士として召集され河内での戦争で戦ったのだろうか。
秦氏が支配した葛野郡には6世紀を中心に、7世紀初めまでに作られた嵯峨野古墳群がある。ちょうど秦酒公の時代から秦河勝の時代までにあたる。古墳の被葬者は特定できないという少数意見もあるものの、学説の多くは、それらの古墳が秦氏の首長墓だと言っている。
しかし、そこには謎がある。つまり嵯峨野古墳群が作られた6世紀も後半になると、他の地域では大きな古墳はもはや作られなくなるのだが、嵯峨野古墳群は連綿と作られ続けていることである。そしてまたもう一つ不思議なことは、日本書紀にも書かれており、『新撰姓氏録』にもはっきりと諸蕃と書かれているにもかかわらず、嵯峨野地域からは渡来系遺物の出土が少ないことである。これらのことは何を意味するのだろうか。
秦氏は新羅系の渡来人集団で、秦は新羅の波旦(ハダ)の地名に由来するというのが多くの学者の意見なのだが、どうも腑に落ちないところがある。
弓月君が渡来した時、一緒に来るはずの120県の民が新羅によって加羅に留められ、日本に来ることが出来ず、そのため応神天皇は葛城襲津彦を派遣し、さらに平群木莵(ヅク)宿禰・的(イクワ)戸田宿禰を派遣して新羅を撃ち、新羅は罪に服して、ようやく120県の民を日本に連れてくることが出来たと『日本書紀』には書かれている。
もし弓月君と120県の民が本当に新羅人なら、新羅王が新羅の民をどうして制止出来ないのだろう。どうして新羅は罪に服さなければならないのだろう。もともと朝鮮半島は漢の時代から三国の時代は漢人の支配地域となり、楽浪郡など四つの郡が置かれていた。それが晋の時代になって四郡が高句麗に滅ぼされ、その後に新羅、百済、伽邪諸国が独立したのだが、その時には多くの漢人も土着していただろう。
弓月君を祖とする秦氏が秦の始皇帝の末裔だと自称するのも、あながち荒唐無稽とは言えないのではないか。秦の始皇帝の子孫というのはともかく、本当に漢人であったのかも知れない。秦氏は松尾大社や稲荷大社を創建したが、いずれも在来の人々の祭っていた神を引き継ぐ形で創建している。また神武東征の道案内役をしたという始祖伝承を持つ鴨氏とも緊密な婚姻関係を築き、北山背の安定した共存関係を築いている。この柔軟で融和的な性質は、常に異民族に接して生きてきた、今日の華僑にも通じる漢族の体質から来たとすればどうだろう。
「郷にいれば郷に従え」という考え方が、渡来系の遺物があまり出土しないという事態を生み出したのかも知れない。7世紀初めまで、古墳を作り続けたというのことは、一度築いた、或いは受け入れた文化は、相当頑固に守り通すという一族の体質が感じられる。それは他の氏族に比べて同族意識がきわめて強いことにも繋がっているかも知れない。雄略天皇の時、酒公が諸国の秦氏が臣連に勝手に使役されていると訴え、秦氏の統率者としての地位を求めたという記事は、そういう側面を窺わせる。雑多な移民集団であるアメリカが星条旗への忠誠抜きにはバラバラになってしまうと考えられているように、雑多な移民集団である秦氏もまた一族のアイデンティティーとなる文化を守らなければならなかったのかも知れない。古墳文化を守り続けた根底にはそういうことではなかったか。さらには応神から雄略という血脈は秦氏の渡来時から繁栄までの擁護者の血脈であった。そのことが、古墳文化を守り通すことに繋がったのかも知れない。
敏達天皇の末年、国中に疱瘡が流行し、罹った人は「身焼かれ、打たれ、砕かるる ごとし」と涕泣して死んでいったと『日本書紀』は伝えている。敏達天皇も物部守屋大連も疱瘡に罹り、守屋は治癒したが、天皇はそのため死去したという。
当時のことだから、伝染病は、すべて神の祟りだと解された。崇仏派は仏教を禁圧したからだと言い、排仏派は仏教を許したから、日本の神が怒っているのだと言う。一時は大臣蘇我馬子が立てた寺も焼かれ、安置した仏像も難波堀江に捨てられ、出家させた善信尼ら三人の尼は人々が集まる海石榴市(ツバイチ)で法衣を剥が され、鞭で打たれたというが、その後天皇が発病し、仏教を禁圧したからだという噂が広がる中、馬子の作戦だったとも思えるが、「2月病気になって以来、いつまでも治りません。自分の病気を平癒させるためには、仏の力に頼るほかはありません。」と奏上するに及んで、天皇は「馬子に限って許す」と答え、三人の尼を返ざるを得なくなった。馬子はさっそく仏像を安置し、三人の尼を拝み、石川精舎を建てて、仏教への帰依を再開する。そして敏達天皇の死去とともに仏教は急速に普及してゆくことになる。全国で流行したというのだから、疱瘡は山背国の葛野でも流行し、多くの人が疱瘡で死んでいったのかも知れない。人々は、それを神の祟りだと考えただろうが、仏教が神道と異なるのは「因果応報」という考え方をした所だろう。単に荒ぶる神を鎮めるのではなく、「善因」は「善果」をもたらし、「悪因」は「悪果」をもたらすと考え、日常から「善い行い」を積まなければならないと考えたことである。つまり後ろ向きの「祟り」という考え方ではなく、前向きの「慈悲」や「功徳」という考え方をしたから、人の共感を呼びやすく、大きな民衆の力を結集するイデオロギーとして成長してゆくことになる。
そして仏教は当然ながら渡来人の間に先に普及したに違いないが、彼らは灌漑や新田開発などの土木技術、鉄製農具を量産する技術、太陰太陽暦を使った農業栽培の技術などの他に、薬草学という点でも先進技術を持っていた。そして渡来人の中から出てくる僧侶は、それらの技術指導者でもあった。それは、民衆にとってはまさに拝むべき神であったに違いない。後に社会に大きな影響を与える道照や行基らも、みな渡来人の子孫であった。
物部守屋を後ろ盾とする穴穂部皇子を抑えて蘇我馬子が押す大兄皇子(用明天皇)が敏達天皇を嗣いだ年、疱瘡に罹ったらしく、在位はわずか二年に終わった。しかし馬子の影響もあって、早くから仏教に親しんだと思われる。この時敏達天皇の皇后で馬子の姪であった額田部皇女 (推古天皇)は31歳、用明天皇の第2子である厩戸皇子(聖徳太子)は11歳であった。この聖徳太子の時代に山背秦氏で最も名高い秦河勝が登場する。
派閥を作って、それにぶら下がろうととするのは、人間の抜き差しならない本性である。祭政一致で意志決定する古代社会であろうと、科学と合理性を標榜する現代社会であろうと変わらない だろう。その派閥を作る本性を、進歩の原動力となるエネルギーだと居直り的に正当化するのが、近・現代の複数政党を前提とする西欧型民主主義である。 それはそれとしての矛盾を孕んでいるのだろうが、いかなる社会体制になろうと、人間が人間である限り、派閥を作る本性はなくならないだろう。
継体天皇に始まる新王朝においても、やはり派閥が政治を動かしていただろう。雄略天皇の孫娘、手白髪皇女を母とする欽明天皇は、先進技術を持った渡来人を掌握する新興豪族蘇我氏から二人の妃を入れ、多くの皇子・皇女を儲け、蘇我氏とそれに繋がる王族は一大勢力を成した。
それに対して、欽明天皇を嗣いだ敏達天皇は、欽明天皇と対立する王朝を立てたとも言われる宣化天皇を父とし、その母石姫皇女は継体天皇の即位を支えた勢力である尾張氏を母とし、最初の皇后である広姫もまた継体即位を支えた息長真手王の娘であった。 そしてこの皇后石姫の生んだ押坂彦人大兄皇子の子孫が蘇我氏の政治支配を打倒することになる。有力な渡来系豪族であった秦氏は雄略天皇の時に酒公が寵愛されたといい、欽明天皇の時には大津父が重用されたと伝えられているが、敏達天皇の時代は 、秦氏にとっては、その反動の時代、冬の時代だったと言えるかも知れない。
明治時代に西欧の先進技術を受容する時に、民主主義とキリスト教の影響も受けざるをえなかったように、飛鳥時代も、大陸の新技術や律令制を受容しようとする時に、 それと一緒に仏教や儒教のイデオロギーが入ってくるのを防ぐことは出来なかったのである。しかし最初は必ず抵抗があり、反動がある。崇仏をめぐる蘇我氏と物部氏の権力抗争は、社会・経済 的には新技術による開発・生産を主導する勢力(蘇我氏)と伝統的な権力基盤を維持・存続させようとする勢力(物部氏)との対立であり、諸豪族の基盤が、そのどちらに属するかによって旗色を明らかにすることになっただろう。
しかし歴史的は、好むと好まざるとによらず、氏姓制度による土地・人民の支配は解体され、中央集権的な律令国家へと向かってゆく。
『日本書紀』 欽明天皇13年(552)、百済聖明王の遣使が来朝し、金銅の仏像一体と経論、幡(ハタ)蓋(キヌガサ)若干を贈った。仏教公伝である。仏教公伝は『元興寺縁起』では宣化天皇3年とし、『上宮聖徳法王帝説』では、欽明天皇は継体天皇没後に即位したとし、仏教公伝は欽明天皇7年のこととする。いずれも西暦538年に当たるが、ここでは『日本書紀』の伝承に沿って話を進めたい。
百済の遣使の言上を受けて、天皇は仏教を受け入れるべきかどうかと諸臣に下問した。これに対して大臣蘇我稲目は「韓3国など西の国々がみな仏教を受容している時、日本だけがどうして受け入れないですみましょう。」と賛成したが、大連の物部尾輿や中臣鎌子らは「外国の神を受け入れたら、日本の神々の祟りを受けるでしょう。」と反対した。そこで天皇は、試みに仏教の受容を願っている蘇我稲目に礼拝させた。稲目は小墾田(オハリダ 飛鳥)の家に安置し、向原(桜井)の家を寺とした。これが豊浦寺の起こりである。
仏教の伝来については、『扶桑略記』に継体天皇16(522)年、漢人の司馬達等が渡来し、大和の高市郡坂田に草堂を造り仏像を安置したと伝えているように、公伝より早くに、新しく来た渡来人の間に広がっていたと思われる。ところが、その後疫病で多くの人が死んだので、物部尾輿や中臣鎌子は、疫病が起こったのは外国の神を礼拝したからだとし、仏教を禁止するように主張した。天皇はそれを許し、尾輿や鎌子らは仏像を難波の堀江に捨て、寺を焼き払った。『元興寺縁起』では、疫病が起こったのは欽明30(569)年のこととして、翌年蘇我稲目大臣が薨じたのを機に、そのほかの朝臣が計って、寺を焼き払い、仏像や教典を難波堀江に捨てたと伝える。
稲目が死んだ機会を捉えて仏教禁圧を断行したという方が真実味がありそうだが、崇仏派と排仏派の対立は、587(用明2)年に物部氏が滅亡するまで続く。それは渡来人を掌握した新興豪族蘇我氏と譜代の旧豪族物部氏との対立の象徴ということだっただろう。伝説では蘇我馬子と聖徳太子が物部守屋と戦った時、秦河勝は軍を率いて聖徳太子を援けたという。宗教というものは、人の価値観を根本的に改変するものだけに、そう簡単に受容されるものではないだろう。ところが、大臣蘇我稲目は、仏教公伝と同時に、それを受け入れている。それを思うと、蘇我氏というのは、やはり渡来人だったと考える方が理解しやすい。稲目の祖父の韓子という名は韓人との混血児という意味である。父の名である高麗も高句麗のことである。かりに蘇我氏系図に伝えられるように葛城氏の同族とするような血縁関係があったとしても、やはり渡来人だったのではないか。「韓子」とか「高麗」という名は、系図を飾るためには何の役にもたたないのだがら、蘇我氏の子孫が作った虚構だとは思えず、むしろ信頼するに足りるものではないか。
その蘇我氏を頂点とする渡来人集団が日本の古代国家を作り上げてゆく。山城秦氏もその一翼を担うことになってゆく。
『日本書紀』によれば、欽明天皇元年(540年)8月、秦人、漢人ら、帰化した者を招集して諸国郡の戸籍に入れた。この時、秦人の戸数は7053戸だった という。そして大蔵掾 (ツカサ)であった秦大津父に秦部を管掌させた。
これが事実であれば、戸数を数量的に記録した最初の記事となる。この後、553(欽明14)に大臣蘇我稲目は百済からの渡来人、王辰爾(オウジンニ)に船舶の貢納物を記録させた。この功によって、王辰爾は船(フネ)史(フヒト)の姓を賜ったという。さらに569(欽明30)年には王辰爾の甥胆津(イツ)を吉備国の白猪屯倉に派遣し、初めて戸籍を作った。戸籍がないために納税を免れる田部(タベ 農民)が多かったからである。朝廷の財政や人民の実態を数量的に記録し管理する。そうした体制が、欽明朝になって、渡来人の知識を借りながら初めて実現するのである。
これは、蹈鞴製鉄や鉄製農具の普及、水路や貯水池、大堰の建設などの治水灌漑技術、登り窯や須恵器、瓦などの技術革新に匹敵する社会の革命的な進化であっただろう。文字というものは、一部のエリートだけが知っていても、それ程大きな価値は生み出さない。地方の下級の役人や村長が、実用的に文字を使えるようになって、初めて財政や 政策に生かすことが出来るのである。
そうした点で、欽明朝は文明開化を現出した王朝であった。そしてその原動力になったのが秦氏や東漢氏などの渡来人と密接につながる蘇我氏であった。『日本書紀』 欽明天皇17(556)年10月条には、蘇我大臣稲目宿禰等を遣わして、倭国高市郡に百済人の居住地に韓人大身狭屯倉を置き、高句麗人の居住地に高麗人小身狭屯倉 置いたと記す。『日本書紀』欽明天皇26年(565年)5月、高麗人頭霧 ロ利耶陛らが筑紫に渡来したので、山背国に置いた。これは今(奈良時代)の畝原。奈羅。山村高麗人の先祖 であると伝えている。
さらに欽明天皇31(570)年4月2日、越国の江渟臣裾代が上京し、「高句麗の使人が、風浪に苦しみ、浦や津を見失い。漂流した後。越国に着岸 しました。郡司が隠匿したので、私が知らせるために参内しました。」と言上した。7月、許勢(コセ)臣猿と吉士(キシ)赤鳩(アカハト)が難波津 より船で出発し。狭狭波山(逢坂山)に船を引き上げて、飾り船を装い、近江北山で高句麗使人を迎えた。そして山背国の高槭館(相楽館)に入れ、東漢坂上直子麻呂 と錦部首大石を遣わして守護とした。そして高句麗の使者を相楽館で饗応したと伝える。高句麗からの渡来人は山背国では、愛宕郡八坂(東山区)に住み八坂氏を称した が、八坂氏は秦氏の様な大族ではなく、愛宕郡に住み始めたのも秦氏より遅いと思われる。貴族として扱われる従五位を得た人物は出ていないが、牛頭天王を祀り、それが八坂神社の起源となった。また今も南山城には上狛、下狛の地名が残るが、ここには飛鳥寺と同形式の瓦が出土し、秦氏の建てた広隆寺と同様に、飛鳥時代の創建と考えられる高麗寺があった。この地域には高句麗系渡来人が多数住み狛氏を称した。こうした渡来人の住む地域は最も早い時期に仏教寺院が建設されたと思われ、仏教公伝以前からすでに渡来人の間では信仰されていた可能性があるだろう。
『日本書紀』『古事記』によれば、継体天皇の後は、安閑、宣化、欽明と続くのだが、安閑、宣化が即位していたか、二朝が対立していたのか、或いは『百済本記』が「天皇、太子、皇子ともに崩薨す」と伝える内容が、継体天皇が死去した時に、安閑、宣化はクーデターで暗殺されたのかということなのか。それは詮索しないことにして、安閑、宣化紀が伝える重要と思える記事を2つだけ取り上げる。
1つは安閑天皇2年に、武蔵国造の同族争いに介入し四つの屯倉を得たのを初め、諸国に大王家の財源となる多数の屯倉を置いたことである。この頃から大王家は九州から関東に及ぶ支配権を獲得し、地方の豪族を実質的に支配することが出来るようになった。そして地方を支配する国造からは、一族の子女を男は舎人、女は采女として貢進する義務を負わせることになる。
秦大津父は大蔵の司に任じられたと伝えるが、こうした屯倉からの収入と支出を管理したのだろう。欽明天皇前紀には、大津父が商売のために伊勢に行っていた道中の話が書かれているが、秦氏は物産の流通にも関与していたのだろう。そして葛野秦氏と同じように、紀伊郡の農業経営や新田開発もしていただろう。深草の秦氏が祀った稲荷社は「イネ(稲)ナリ(成り)」の神であった。そして伏見稲荷は今日商売の神様として信仰を集めているのだが、それは大津父の頃からの秦氏の氏族精神だったのかも知れない。2つ目は、大臣に蘇我稲目が任じられ、娘の堅塩媛と小姉君が欽明天皇の後宮に入り、その子が次々と即位し天皇になったことである。それまで代々天皇家の外戚となり、大臣の地位にあった葛城氏平群氏と同様、蘇我氏は武内宿禰の後裔と伝えられているが、稲目の祖父と伝えられる韓子(カラコ)という名は韓人との混血という意味である。韓子は雄略天皇の時に新羅と戦ったという記事が残る軍人だが、その父と伝える満智(マチ)は百済の貴族木満致と同一人物だとも言う。また父の名は高麗(コマ)と伝えるが高句麗人とのかかわりが有ったのだろうが、治績は全く伝えられていない。
その子の稲目が突然、宣化天皇の時に大臣となり、大連物部麁鹿火(アラカヒ)とともに国政を掌握することになり、欽明天皇に2人の妃を入れ、用明天皇などの天皇の外戚となり、645年に大臣蘇我入鹿が滅ぼされるまで、蘇我氏は百年間繁栄し続けることになる。
この突然にも見える蘇我氏の登場、その実力の背景には何があったのだろうか。明確なことは蘇我氏が東漢氏という秦氏に匹敵する渡来系の大族を支配していたということだ。祖父が韓人との混血であったということと東漢氏を率いていたということは関係ありそうだ。そしてその力が大和朝廷の確立に貢献して、台頭の原動力になったのだろう。
『日本書紀』によれば欽明天皇は 、継体天皇3年(509)に生まれた。この時、継体天皇はすでに59歳で、多くの男子や女子の子供があった。それらは殆どが、東海や近江、北陸の豪族との間で結ばれた政略結婚によって儲けられた子供たちであった。皇位継承に関わる男子だけ取り上げると、尾張連草香の娘目子媛(メノコヒメ)との間に生まれた勾大兄皇子(安閑天皇)はすでに43歳、同母弟の檜隈高田皇子(宣化天皇)も42歳であった。そのほか琵琶湖西岸の高島の豪族三尾君堅槭の娘倭媛との間には椀子(マリコ)皇子と耳皇子、和珥臣河内の娘ハエ(草冠+夷)媛との間には厚皇子、根王の娘広媛との間には兎皇子と中皇子があった。
継体天皇と手白香皇女との結婚は、皇位継承を正当化するための婿入りだったから、即位さえ済めば、生まれた手白香皇女の子は排除される可能性もあっただろう。欽明天皇は死後に命名される諡(オクリナ)を天国排開広庭(アメクニオシハルキヒロニワ)天皇というが、日常家族などが使う名前である諱(イミナ)は伝わっていない。広庭皇子と言ったのだろうか。
『日本書紀』によれば、広庭皇子は子供の頃、不思議な夢を見たという。ある人が、秦大津父(ハタノオオツチ)という者を寵愛すれば、大人になったとき、天下を治めることになるだろうと言った、そんな夢だった。夢から覚めて、使いを出して探してみると、山背国の紀伊郡の深草の里に確かにその名の人が居た。そこで大津父を呼んで不思議な夢の話をし、心当たりはないかと聞いてみると、大津父は「思い当たることはないのですが、商売で伊勢に行った帰りに、山の中で二匹の狼が血だらけになって喧嘩しているのに出会いました。そこで私は馬から下りて、口と手を洗い、神に請い祈りました。おまえたちは、尊き神であるのに、荒っぽいことを好むものだ。猟師にでも会ったら、簡単に捕まってしまうぞ。」と。そして喧嘩を止めさせて、傷の手当てをしてやって、放してやりました。」と答えた。皇子は、きっとそれが夢に現れたのに違いないと思い、傍近くに大津父を置いて寵愛した。大津父も良い後ろ盾を得て、非常に裕福になった。そして広庭皇子が即位すると、大津父は大蔵の官に任じられたという。
先に雄略天皇紀で見たように、秦氏の族長の地位というのは大王(天皇)の権威を以てして初めて氏族の統率が可能なものだった。それを考えれば、雄略天皇の死と、その後の皇位継承にともなう政治的混乱と空白は、秦氏にとっても大きな痛手であっただろう。そして、継体王朝の成立というのは、渡来人を重用し、或いは専制的な権力を行使した雄略天皇に対する在来豪族の反発であったのではないか。 それは丁度、織田信長に対する反発と同じような性質のものだったかもしれない。専制君主の実力主義。能力主義に立った人材登用が、既得権にしがみつく守旧的な豪族の反発を買い、その反発を糾合する形で継体王権が成立したのであれば、秦氏 を初め雄略天皇に重用された渡来系の朝臣にとっては、宮廷は針の筵になったであろう。しかも大和に入る前、8年間に渡って、秦氏の住む葛野に継体天皇は宮を置いていたのだった。
『日本書紀』は『百済本記』と照合する形で、継体天皇25年(531年)2月に、天皇が崩御したと伝え、更に『百済本記』の伝として、天皇、太子、皇子がともに死去したと書いている。疫病によるものか、クーデターによる殺戮があったのか、具体的な内容は何も伝えていない。
この記録に基づいて、昔から学者や小説家、さらには一般の歴史愛好家などが、安閑ー宣化対、欽明の内乱二朝並立説、或いは欽明によるクーデター説など様々な説を書いている。しかしここでは、事実だけを確認しておくにとどめたい。継体天皇の次に皇位を継承したとされる安閑、宣化の二代の天皇は、いずれも母親が尾張草香の娘、目子媛である。そしてその後を継いだとされる欽明天皇の母は仁賢天皇の娘手白香皇女である。しかも手白香皇女の母は雄略天皇の娘、春日大娘皇女である。すなわち応神天皇に始まる本宗の血脈を明確に受け継いでいるということである。
王朝が権力抗争の最中にあって、後宮の秩序が保たれていない時には、その中で生まれた子の父親が誰かなどは誰にもわからない。はっきりしているのは母親が誰かだけである。応神天皇に始まる王朝の正当な後継者を大王に戴こうとする豪族にとっては、当然ながら欽明天皇が最も相応しい大王であっただろう。
応神天皇に始まる倭の五王の王朝は、武烈天皇で途絶える。そして、近江と北陸、そして東海の豪族を基盤とする男大途王が顕宗天皇の娘の手白香皇女を后として皇位を継承するが、20年に渡り大和へは入れず、河内国の樟葉で即位し、その後南山背の筒城、そして518(継体12)山背国葛野の乙訓に移り、526(継体20)、大和国磐余玉穂宮に遷るまで8年間乙訓に在った。継体天皇の新王朝が大和に入るまで、淀川、木津川水系に居たのは、基盤としている近江や北陸、東海や、河内和泉との交通路を掌中に収める為だっただろう。つまり、大和の反継体朝勢力を包囲する体制を取っていたということだろう。
継体天皇が弟国(乙訓)に居た8年間には、何の記録も残されていない。その前の筒城に居た時には、512(継体6)年、日本は任那四県を百済に譲ったという。さらに515(継体9)年、物部連至至(チチ)の率いる倭の軍が任那北部の伴跛(ハエ)国と戦い敗退したと伝えている。
雄略天皇の時、中国南朝の宋に、念願だった韓国6カ国の軍事権を認知させたのだが、雄略天皇の専制的な権力に対する国内諸豪族の反発で、王権は内部崩壊し、継体朝が王権を継承する過程の混乱の中で、半島での軍事権を喪失していったということだろう。そして継体天皇が大和に入り、半島での情勢を挽回すべく近江毛野が大軍を擁して出発するが、筑紫国造磐井が反乱を起こした。新羅と同盟して継体王権と対立したのだという。
それ以外の『日本書紀』継体紀の内実のある記事は、殆ど『百済本紀』から取られている。そのこと自体が、内乱状態の混乱を示しているのだろう。横道に逸れるが、応神王朝の前史とも言える『神功紀』もまた同様に権力の空白という事態のために、中国、韓国の記録に依拠した記事を載せざるを得なくなったのだろう。日本武尊と同様、神功皇后は実在しないというのが、歴史学の常識になっているが、応神天皇が実在したとすれば、応神天皇にも母親はいた筈である。女性が最高権力者になる可能性は卑弥呼の実在が示している。草創期の大和朝廷が、祭政一致で、一々占いを立て、シャーマンが神託を受けて、政治的、軍事的決断をしていたことは『古事記』『日本書紀』の記録が示している。古代初期の日本人が、そういう方法で意志決定をしていたこと自体に虚構はないだろう。巫女の伝統は卑弥呼の時代から、今日まで連綿と継承されているのだ。
『日本書紀』の顕宗天皇3年2月に、阿閉臣事代が任那に遣いした時、月読神が人に神懸かり「我が祖先の高皇産霊神(タカミムスビノカミ)は予め天地を造った功がある。よろしく民地を、我れ月読神に奉れ。そうすれば良いことがあるだろう。」と言ったので、このことを朝廷に奏上したという。そこで朝廷は山背国の葛野郡の宇多の荒樔田(アラスタ)に月読神を祀り、壱伎県主の先祖である押見宿禰に奉祀させたという記事を載せている。
荒樔田(アラスタ)というのは、桂川の荒れた川の洲に造った新しい田ということだろうか。嵐山や桂川の分流である有栖川の地名も語源が同じということかも知れない。今松尾大社の傍に月読神社があるが、この『日本書紀』の記事を信じれば、5世紀の末頃に、朝鮮半島へ行く道にある壱岐島に祀られていた月読尊を松尾大社の地に勧請したということである。松尾神社は、もともと松尾山を神(大山咋神)として尊崇していた信仰を、桂川流域を開発し支配した秦氏が受け継ぎ、朝鮮半島の神である韓神(カラノカミ)、曽富理(ソフリ)神などとともに祀ったようである。
秦氏は5世紀に先進技術を持って日本に渡来して、治水・灌漑工事によって新田を開発し、発展していったのだが、宗教的にも土着の信仰を引き継ぐ形で、先住の豪族とも融和しながら支配を強めていったようである。
山城秦氏のもう一つの根拠地である深草には秦伊呂具が創建した稲荷大社があるが、稲荷山に住む祖先霊を信仰する在来の信仰を引き継ぐ 形で信仰されたようである。「イナリ」というのは、イネナリ(稲成り)ということらしい。そして神の使いをする狐は、「ケ(食)ツ(の)ネ(根)」から来ているという。農民の豊作を祈る信仰が、そもそもの形だったらしい。
北山背には秦氏、鴨氏の他に、愛宕郡には高句麗系の渡来人である八坂氏、出雲系の出雲氏や和珥氏の一族である小野氏などが居た。この愛宕郡から、677年に死んだ毛人(エミシ)の墓誌が発見されている。小野氏の子孫は、小野篁や小野小町など、多くの文人を輩出した。
また葛野地方の南部、後の久世郡には土師氏が居た。「崇神紀」に、殉死を止めさせ、代わりに埴輪を作らせたという話が載せられていることは、少し触れたが、その埴輪を作ったのが土師氏の祖、野見宿禰であったと伝える。土師氏は陵墓の造営や、宮中の葬礼、埴輪や土器の製作を職掌とした伴造(トモノミヤツコ)氏族で、河内、和泉の他、山陰、北陸、関東などに蟠踞しているが、山背国では、秦氏が進出した桂川流域の南にあたる久世郡に住んでいたという。
野見宿禰は当麻蹶速(タイマノクエハヤ)という豪傑と力比べをさせる為に、出雲から呼び出され、相撲で対決し、蹶速を蹴殺したたと伝えられる伝説上の人物だが、陵墓の造営や埴輪の製作を職掌とする氏族の始祖が出雲から来たとい伝説は見逃せない。それは出雲と大和朝廷の関係を示唆しているかも知れない。また畿内の他、山陰、北陸、関東にまで氏族が広がっているという点も、古墳の築造技術の波及という点で留意する必要があるだろう。『日本書紀』雄略天皇17(473)年、天皇は土師連等に、朝夕御膳に盛る清器を進上せよと命じた。そこで土師連吾笥(アケ)は摂津国久狭狭村、山背国 の内村と俯見(伏見)村、伊勢国の藤形村、そして丹波、但馬、因幡 の部曲(カキベー私有民)を奉ったと伝える。伏見と言えば、秦氏の拠点の一つである深草に隣接する所である。
後に土師氏の一流は、土師甥(オイ)が遣唐留学生となり、漢学で身を立てる家風を作った。その子孫土師古人は平安時代初め、桓武天皇の侍読となり、さらに一族の土師真妹が桓武天皇の生母高野新笠の母親であったことから、中級の貴族としての地位を確立した。この古人の子孫が菅原、大江、秋篠などと姓を改め菅原道真や大江許[などの学者、文人を輩出することになる。
この頃、5世紀初め頃までに、大和王権によって山背国に葛野県と栗隈県が設定されたようで、 『日本書紀』の「仁徳天皇紀」には「冬十月。掘大溝於山背栗隈県以潤田。是以其百姓毎年豊之。」とあり、或いはこの頃、栗隈(宇治市大久保)で運河の造成工事をしたのかも知れない。ただし栗隈の大溝の記事は推古天皇15年(607年)に「是歳冬。於倭国作高市池。藤原池。肩岡池。菅原池。山背国掘大溝於栗隈。且河内国作戸苅池。依網池。亦毎国置屯倉。 」と、再び栗隈に大溝を掘るという記事が出てくる。仁徳紀の記事が5世紀初めから中頃の大和朝廷による土木・灌漑工事の史実を反映している可能性はあるが、重複の可能性もある。しかしいずれにしても木津川流域、宇治地方の特記すべき開発が6世紀 中までにはあったということだろう。
その後 『日本書紀』によれば、雄略天皇 の時、天皇が、工匠であった闘鶏御田(つげのみた)が采女(宮廷の女官、天皇以外の者が接することはできない)と通じていると誤解して、処刑しようとした時、弓月君の孫の秦酒公(さけのきみ)は琴をひいて、誤解であることを歌に託して天皇に知らせ、御田を助けたと伝える。この 伝承が実話に基づくものであったとしたら、秦酒公の人徳を伝えるとともに、当時の技術者同士の紐帯を示しているのかも知れない。
雄略天皇15年、秦酒公は、 「諸国の秦氏の民が豪族たちに私的に使役され、ばらばらになっている。」と訴えた。秦氏一族は、応神天皇の時、朝鮮から日本にやってきて天皇の臣下となったのだが、他の豪族の臣下になったのではない 、というのが酒公の気持だったろうか。それにに対して、天皇は「愛(うつくし)び寵(めぐみ)給う」と『書紀』に書かれているから、酒公は非常に天皇に可愛がられていたのだろう、天皇は秦氏の一族の技術民らを統括するよう酒公に命じた。こうして秦酒公は技術者集団秦氏の族長となったのである。酒公は天皇への感謝のために、多種多様な庸調の(税として納められる)絹 (きぬ)縑(かとり)を奉献(たてまつ)り、朝庭にうずたかく積み上げたという。それを見て天皇は、酒公に禹豆麻佐(うつまさ)という 姓を与えたという。これが太秦「うずまさ」という姓と地名の由来だということだ。
太秦広隆寺の傍にある秦氏の氏神大酒神社は秦氏の祖先だとする秦の始皇帝、応神天皇の時に日本に渡来した秦氏の祖弓月君(ゆづきのきみ)、そしてこの秦酒公を祭神としている。『日本書紀』雄略天皇16年、すなわち酒公が太秦の姓を与えられた翌年の7月には、天皇が諸国に桑を植えさせ。又、秦の民を散遷して庸調を奉 るように命じたという。絹生産の技術指導のために秦氏の民を派遣したということらしい。そういう事実も現実にあったのだろう。
『古事記』の仁徳天皇の段に、秦氏が茨田堤と茨田屯倉の造営に従事したと伝える。『倭名抄』には茨田郡幡多郷が記載され、近世には秦村・太秦村の地名を残している。秦氏の首長墓と考えられている嵯峨野古墳群は4世紀後半、雄略天皇の頃から現れる。そして秦河勝の時代7世紀前半まで造られ続けている。
5世紀になると中葉には京都盆地最大の古墳、恵解山古墳(長岡京市)が出現する。全長120メートルの前方後円墳で、この古墳も南原古墳の近く、三つの川の合流地点の近くにある。この水系を管理・支配した豪族の力を示すものだろう。
この頃桂川の治水工事が秦氏の手によって進められ、秦氏は桂川流域を支配することなる。5世紀後半から6世紀になると桂川を少し上流に上った地域に、松尾古墳群、嵯峨野古墳群があらわれるが、これらの古墳の多くは秦氏の首長墓であると考えられている。秦氏の「ハタ」という名は鮎飼房之進によれば朝鮮半島の慶尚北道蔚珍の波旦という地名に由来するという。日本書紀によれば、応神天皇の時、秦氏の祖弓月君は 灌漑・土木・農業・養蚕・織物などの技術を持った120県の民を率いて渡来しようとした。しかし新羅がそれを阻んだので、弓月君は、しかなたく民を残したまま 日本にやってきた。そこで応神天皇は葛城襲津彦を遣わして、その民を日本に連れ帰ったという。
秦氏の本拠となる葛野の地名が『日本書紀』に初めて出てくるのは、応神天皇3年、天皇が近江に行幸した時のことである。その折、天皇は宇治で国見をし、
千葉の葛野を見れば 百千足る 家(ヤ)庭(ニワ)も見ゆ 国の秀(ホ)も見ゆ
と歌を詠まれた。
葛野は今の太秦を中心とする地方で、桂川(大堰川・葛野側)流域だが、古墳時代に入って、つまり応神天皇の頃 、4世紀末〜5世紀初のから急速に発展していった場所である。国見をしたのが、どの辺りということは書かれていないが、平等院から宇治川を渡った所、朝日山の麓には世界遺産になった宇治神社、宇治上神社がある。この神社は、もともと応神天皇の皇太子菟道稚郎子皇子の宮殿があった所だという。皇子は兄の大鷦鷯皇子(仁徳天皇)と皇位を譲り合い、思い余って自殺してしまったという話が『古事記』や『日本書紀』に伝えられているが、百済から帰化した阿直岐や王仁らの学者を師として学んだという。
『日本書紀』に伝えられた伝説によれば、垂仁天皇は初め開化天皇の皇子彦座王の娘で、四道将軍丹波道主命の妹、狭穂姫を皇后にした。 ところが、狭穂姫の兄、狭穂彦が天皇を殺せという。崇神紀には開化天皇の弟、武埴安彦が反乱を起こしたという伝説を載せるが、今度は開化天皇の孫が皇后になっている妹を利用して天皇を殺そうとしたというのだ。開化天皇が前王朝の最後の大王だとすれば、その弟が新王朝に対して反乱を起こし、その孫が旧王朝の復興を企図してして次の天皇を殺そうとしたという構図になる。
ところが、狭穂姫は、兄の謀反を天皇に打ち明けてしまう。狭穂彦の邸が朝廷の軍に包囲されるが、狭穂姫は兄が許されないことを知り、兄の邸に入り、焼け落ちる炎の中で、兄とともに死んでしまう。死ぬ前に、子の誉津別命を朝廷の将軍八綱田に預け、自分の姪にあたる 日葉酢媛ら、丹波道主命の5人の娘を後宮に入れるように遺言する。
ところが天皇は5人の娘の内、竹野媛が、容姿が良くないという理由で、丹波国(後の丹後)に 帰されてしまう。竹野媛は、帰された恥に耐えられず、帰国の途上、山背国葛野の乙訓で自殺してしまう。この伝説から窺えることは、
@崇神王朝が丹後地方の豪族と婚姻関係を結んだらしいということ。
A葛野が丹後地方に向かう経路にあったこと。
である。この竹野媛の名は、『古事記』には旦波(丹波)大県主(オオアガタヌシ)由碁理(ユゴリ)の娘で、開化天皇の妃として見え、比古由牟須美(ヒコユムスミ)命を生んだという。この比古由牟須美命は、『日本書紀』垂仁紀の一書にはとして見え、この彦湯産隅命の子が丹波道主命であるという。いずれにせよこの丹波道主命の娘の一人の日葉酢媛が垂仁天皇の皇后となるのだが、河出書房新社刊の『京都府の歴史』によると、丹後の首長墓で最大の墳長を計る網野銚子山古墳と、日葉酢媛命陵は、きわめて類似した設計になっているという。また竹野媛が帰途、自殺したという葛野の地にある首長墓、天皇の杜古墳も規模は小さいが類似した設計であるという。
この葛野の首長墓は時期的にも崇神、垂仁朝に合致するようだ。それは葛野に秦氏が進出してくる前の、この地方の首長の古墳だが、それは葛野県主の墓で、後に愛宕郡に移った鴨氏の祖先の墓ということだろうか。
鴨氏は『日本書紀』によれば、その祖先、頭八咫烏が神武東征で道案内を務め、その功でその子孫が葛野主殿県主となったと書かれている。『山背風土記逸文』には頭八咫烏は神魂命の孫の鴨健津之身命(カモノタケツノミノミコト)で、丹波の伊可古夜日売(イカコヤヒメ)を娶り、玉依日子と玉依日売(タマヨリヒメ)を産んだ。そして玉依日売は乙訓に祀られている、丹塗矢に変身した火雷神(ホノイカヅチノカミ)の子を身ごもり、鴨別雷神を生んだ。玉依日子の子孫は鴨県主となりそれらの祖先神を奉祭することになったという。『日本書紀』の垂仁紀には、もう一つ山背に関係する記事がある。垂仁天皇の34年春、天皇は山背に行幸した。その時、随行した臣が、この国には山背大国不遅の娘で、綺戸辺という名の佳人が有ると奏言した。そこで天皇は綺戸辺を後宮に入れることにした。綺戸辺はその後、三尾君の祖である磐衝別命を生んだ。これより先、天皇は山背国の苅幡戸辺を妃としていた。苅幡戸辺は、祖別命、石田君の祖となる五十日足彦命、胆武別命の3人の子を生んだ。
崇神紀には、任那の遣使、蘇那曷叱智(ソナカシチ)が来朝したという記事を載せる。そして次の垂仁紀のは蘇那曷叱智の帰国と、別伝として大加羅国の王子都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が、崇神天皇に謁見するため、日本にやってきたが、朝廷に来た時にはすでに天皇は亡くなった後で、垂仁天皇の時代になっていた。そして朝廷に3年間滞在し、帰国することになったが、その時、天皇から先代の崇神天皇の名である御間城の名に因んで任那という国名を与えられたと伝える。
日本が半島の諸国の宗主国であったとする主張は、もちろん大和朝廷の国威発揚の意図で作られた虚飾だろうが、崇神王朝の初期から辰韓諸国との交流があり、少なくとも支配豪族を要する倭人集団の居住している地域が辰韓の地域にあったことは、最近の考古学上の出土物から見ても明らかだろう。そして『魏志韓伝』には倭人がその地の鉱山から鉄を得ていたと書かれている。当時の辰韓は小国が分立している状態で、少なくとも居住地域わ持っていた倭人の母国と友好関係を結ぶことは利益があったに違いない。日本で任那と呼ばれている小国家の王子が大和朝廷と友好関係を結ぶためにやってきても不自然ではないだろう。
この『日本書紀』の記事から解ることは、日本の国家形成の最初の段階から朝鮮半島との繋がりがあったということだ。そして国家形成を実現した古墳王朝は蹈鞴製鉄の技術と騎馬戦術で統一を実現したということである。それは疑いなく朝鮮半島から得た技術である。おそらくは辰韓諸国の一勢力(それは倭人の国かも知れない)が日本に上陸し、先進技術と軍事力で統一を実現していったのだろう。その征服王朝の祖地が高天原の実体だったのではないか。天津神と国津神という表現も、征服した渡来人の神と先住人の神ということだろう。
弥生時代の葛野の人々は、馬に乗り、鉄製の優秀な武器と鎧で武装した異国の人々の支配を受けることになった。その新しい支配者は桂川の流域に古墳を作って、その権力を誇示した。しかし彼らは在来の神を祀ることを禁じることはなく、在来の神も大切に祀り融和的に支配した。
崇神紀には、もう一つ大きな出来事として武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の反乱の記事が出てくる。武埴靖彦は前天皇の彦大日日(ヒコオオヒヒ 開化)天皇や大彦 命(オオギコノミコト)、そして倭途々日百襲姫命の異母兄弟である。
大物主神を祀ることで、ようやく民の流離や反乱、疫病も鎮ったので、地方に将軍を派遣して国土を広げようということになり、4人の皇族将軍を派遣する。その一人大彦命が越の国に出発してまもなく、和珥坂まで来ると、少女が「ミマキイリヒコ(崇神天皇)は、殺されるのも知らないで、女の子と遊んでいる」という意味の歌を歌っているのを聞いた。大彦命は驚いて、そのことを天皇に報告すると、 倭途々日百襲姫が、先代の開化天皇や大彦命、そして倭途々日百襲姫の異母兄弟である武埴安彦が反乱を起こそうとしているのだと予言する。するとまもなく 、予言どうり武埴靖彦が反乱を起こし、武埴安彦は山背から、そしてその妻の吾田媛が大坂(奈良県香芝市)から攻めてきた。そこで天皇は五十狭芹彦命( イサセリヒコノミコト:吉備津彦命と同人物と伝える)を大坂に向かわせ、敵軍を破り、吾田媛を殺した。一方、山背には和珥氏の祖彦国葺(ヒコクニブク)を遣わした。彦国葺は和珥の武スキ坂の上に忌瓮(イワイベ)を据え、山背国との国境、奈良山で合戦した後、泉川(木津川)を挟んで対峙することになった。そして先に武埴安彦が矢を射かけて来たが、矢は当たらなかった。その後彦国葺が矢を射ると、その矢は武埴安彦に命中し、武埴安彦は戦死した。彦国葺は残った敵兵を祝園から樟葉まで追撃し勝利した。
『日本書紀』の物語に山背(山城)国が出てくるのは、これが最初であるが、この伝説からも、様々な古代の歴史的事実を知ることが出来るだろう。
@祝園は近鉄京都線の駅名にもなり、樟葉は京阪電鉄の駅名になっているが、少なくともこれらの地名は『日本書紀』に書かれた伝承が成立した時代にさかのぼることがわかる。
A戦いに臨む時、神に捧げる器(瓶)である忌瓮(イワイベ)に神酒を入れ、神の加護を祈る習慣があった。B矢が当たるか外れるかは神意によるものと古代人が考えていた。山背の鴨社の伝説でも、矢は雷神の化身であった。
B吾田媛が軍を率いて戦ったという伝承は『古事記』にはないが、ともかく『日本書紀』に記載された物語が成立した頃には、女性が武装して、軍を率いるという伝承があったということだ。神功皇后の伝説はもちろん、天照大神が高天原をめぐって素戔嗚尊と争った時も、天照大神は武装して素戔嗚尊を待ちかまえた。
Cそして最も歴史的な事実として大きな意味を持つのは、『日本書紀』にある伝承が成立した頃には、崇神紀に描かれる初期大和王権は、まだ非常に不安定で、民衆の反抗もあり、豪族の反乱もあったと 伝えられていたということだ。そして河内との国境の香芝からと、山背国からと、二方面から反乱軍が進入し、大和国を挟撃したことは、敵が河内や山背を制圧していたということで、抜き差しならない大規模な戦争だったということだろう。反乱を起こした武埴安彦というのは開化天皇の異母兄弟である。そして崇神天皇の后は開化天皇の兄弟大彦命の娘御間城姫(ミマキヒメ)である。かりに開化天皇までの歴代天皇が、崇神天皇に先立つ前王朝であったとするなら、前王朝の王族が二派に分かれ、一方は新王朝と外戚関係を結んで同盟し、一方は敵対し 政権を奪還しようとしたということになる。
また前王朝に婿入りする形で新王朝を開くという政権継承の方法は、神武天皇に始まる神武・綏靖・安寧の三代の天皇が、国譲りをした事代主神の娘や孫であったとい う伝承にも現れている。そしてこの後も政権継承の常套手段となっていったと思われる。応神天皇の后、仲姫命は景行天皇の子五百城入彦 (イオキイリヒコ)の孫であり、継体天皇の后手白髪皇女(タシラガノヒメミコ)は顕宗天皇の娘であったのもそういうことだっただろう。
崇神天皇に始まる王朝が、古墳文化をもたらした実在の王朝だという前提で、その後の『日本書紀』の記事を見てゆきたい。 崇神紀では、まずこう書かれている。
人民が流離したり反乱を起こしたりするものが後を絶たず、徳政を以てしても治まらない。これは、皇祖神である天照大神と、国ッ神である大国魂神を宮中に一緒に祀っているのが良くないのではないかと考え、天照大神を大和の笠縫邑に移し、堅固な石の神籠 (ヒモロギ)を造って、豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に祀らせた。また大国魂神を淳名城入姫命(ヌナキイリヒメモミコト)に祀らせた。
ところが、国ッ神を祀った淳名城入姫命は髪の毛が抜け、痩せ衰えてしまった。そこで天皇は神浅茅原に出御され、八百万神に占いを立てた。すると倭途 々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)に神懸かりして、太田々根子(オオタタネコ)という者に大物主神を祀らせよという神託があった。また他に、3人の者が同じ夢を見て、太田々根子に大物主神を、市磯長尾市 (イチシノナガオチ)に倭大国魂神を祀らせよというお告げがあった。天皇が、この太田々根子を探させると、和泉国の茅渟(チヌ)県の陶邑 (スエムラ)で見つかった。そこで神託に従って、太田々根子に大物主神を祀らせることになった。これだけの記事だけでも、古代国家の草創期のさまざまな様子を知ることが出来る。
@崇神天皇の政権の初期には、人民の流離や反抗を押さえられなかったこと。
Aたんなる形式や儀式などではなく、本当に祭政一致の政治をしていたこと。
B先住豪族の祀る神(国神)を祀ることによって、支配を安定させようとしたこと。
C石に神が宿るという信仰思想があったこと。
D天皇家の皇女が、神を祀ったり、神懸かりして、神託を聞いたりしたこと。
E古代人は、夢が神託を得る場であり、未来を予知する場であると信じていたこと。
少なくとも、『日本書紀』に伝えられた伝承が成立した飛鳥時代には、これだけのことが、古い時代のこととして信じられていたということである。石(磐座)や山や木や森(杜)に神が降り宿るという信仰思想は、現在の神社信仰に残されている。石も山も木も森も、すべて雷の落ちる所である。日本人は古代から雷は神であると考えていた。
4世紀になると、近畿を中心に古墳が出現する。京都盆地では、西部の向日町丘陵近くに、4世紀中葉に作られたと考えられる南原古墳(長岡京市)や五塚原古墳(向日市)、一本松塚古墳(右京区)が現れる。南原古墳からは卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡4面を含む多数の副葬品が出土し た。 この古墳は桂川、宇治川、木津川が合流する地点を一望できる所にあり、川を支配する首長の権威を象徴するものとなっている。川を統治する者は農業を統治するだけではなく、交通を統治する者でもある。
この南原古墳に続く時期、5世紀初め頃の古墳 には、西京区の鏡山古墳、百々池古墳、塚の本古墳などの首長墓の他、桂川流域に首長以外の有力者の古墳と見られる古墳も出現する。この古墳時代の文化をもたらしたのは、『日本書紀』や『古事記』が伝える崇神天皇を始祖とする王朝ではなかったか。それは『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国に近接する次の 古墳時代の文化を築いた政権ではないか。
『日本書紀』の垂仁天皇の巻に は、殉死を止めて、代わりに人・馬・そのほかの埴輪を作らせるという記事が出てくる。横道に逸れるが、そのことは、人形・馬形などの埴輪が出土する陵墓は、垂仁天皇以前の天皇の陵墓ではあり得ないということだが、実際はどうなっているのだろう。宮内庁は、そのことを踏まえて神武天皇から、垂仁天皇までの陵墓を決めているのだろうか。もし人形埴輪が出てきたら、唯一の根拠にしている『日本書紀』の記事すら無視して、『日本書紀』に書かれた陵墓の場所の推定だけで決めたということになるのだが・・・・。邪馬台国には馬がいなかったと『魏志倭人伝』は伝えるが、少なくとも騎馬戦術というのはなかったのだろう。しかし古墳時代に入ると、馬形埴輪や馬具が遺跡の主要な遺物として登場する。また『魏志倭人伝』には卑弥呼が死んだ 時、奴婢百余人が殉死したと伝えるが、古墳時代になると埴輪がその代わりをしている。
このことは垂仁天皇の殉死の停止と埴輪の始まりの記事から考える限り、崇神天皇に始まる王朝が、邪馬台国より後の時代で、古墳時代を築いた王朝であることを示唆しているだろう。
日本神話は天皇家の祖先伝承という特殊な神話である。国生みや天の岩戸の神話のところからすでに馬が出てくるのだが、日本で騎馬や家畜としての馬が登場するのは4世紀以後だから、 大和王権に服従した在来豪族の伝承が組み込まれた部分を除いては、日本神話というのは4世紀以後の文化しか反映していないと言えるだろう。そして歴史的な事件を記録している可能性があるという意味では、神武東征伝説を除いては、10代の崇神天皇以後になる。それ以前の天皇については、記録された外戚の豪族が、もしかすると歴史的事実を反映しているのかも知れないが、事件が全く記憶されていないというのは、少なくとも崇神天皇以後の王朝と断絶していると考えないわけには行かない。
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京都の弥生時代前期の遺跡は鴨川の氾濫原の烏丸中立売遺跡や桂川下流の雲ノ宮遺跡に始まり、その後、桂川流域や盆地東北部の高野川や白川流域に広がっていった。弥生中期には稲荷山西麓の深草遺跡や山科盆地の中臣遺跡などの集落が現れる。その中でも桂川 流域がもっとも開発が進んだ。
葛野の歴史は、この桂川流域の開発から始まる。鶏冠井遺跡は縄文時代晩期に始まる遺跡で、弥生時代の遺跡も見つかっており、この地で銅鐸が作られていたことも確認されている。右京区梅ヶ畑からは銅鐸が4個見つかっている が、この地は裏日本に続く周山街道を登った標高130メートルの京都盆地を一望できる場所にあるが、わざわざこのような山中まで銅鐸を運んで埋めたのだろうか。1世紀後半、弥生時代の後期になると、遺跡の出土状況から判断して、石器の生産が急速に減り、鉄器の普及を想起させる。
『魏志韓伝』によれば、韓国南部の弁辰で鉄が出て、韓・シ歳(ワイ)・倭がこれを取っていたという。又、この鉄が貨幣として交易に使われていたという。この当時の倭は韓国南部にも居住していた見え、『韓伝』に倭は弁辰の1国のシ賣廬(トウロ)國に接すると書かれている。日本列島で鉄が採掘されていたかはわからないが、韓国に住んでいる倭人によって日本列島に運ばれたのだろうか。しかし、その量は石器の生産を収束させるほどの量だったということは確かである。この頃、弥生時代後期には、桂川流域を中心に京都盆地の低地帯全域に渡る開発がすすんだ。弥生時代の末、邪馬台国の卑弥呼が女王として共立される以前には、分立する国々が互いに争っていたと『魏志倭人伝』には書かれているが、京都盆地の遺跡の状況も、その時期の遺跡から、戦争状態を想起させるような、焼失した集落跡などが見つかっているという。この倭国の大乱の時期は、外敵に備えるための高地性集落が出現し、収束してゆく時期と重なり、銅鐸が消滅する時期、石器が消滅する時期とも重なっている。
ただ、その時期の遺跡が物語る社会状況と結びつくような神話や伝承が確認されないので、今日に残されている神話や伝承が形成される以前の社会のように思われる。あえていえば、天照大神の神話伝承の、日神であり、巫女的な性格は、太陽を尊崇する農業の民の神として、そして小国家間の戦争状態の中で行動選択を要求される民の神として相応しいだろう。鬼道をよくしたと書かれている『魏志倭人伝』の卑弥呼になぞらえることも可能かも知れない。
【編集中】
《欽明天皇十三年(五五二)十月》冬十月。百済聖明王〈 更名聖王。 〉遣西部姫氏達率怒〓[口+利]斯致契等。献釈迦仏金銅像一躯。幡蓋若干・経論若干巻。別表、讃流通・礼拝功徳云。是法於諸法中、最為殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無辺福徳果報。乃至成弁無上菩提。譬如人懐随意宝。逐所須用。尽依情。此妙法宝亦復然。祈願依情、無所乏。且夫遠自天竺。爰〓三韓。依教奉持、無不尊敬。由是百済王臣明謹遣陪臣怒〓[口+利]斯致契。奉伝帝国。流通畿内。果仏所記我法東流。是日。天皇聞已、歓喜踊躍。詔使者云。朕従昔来、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。乃歴問群臣曰。西蕃献仏相貌端厳。全未曾看。可礼以不。蘇我大臣稲目宿禰奏曰。西蕃諸国一皆礼之。豊秋日本豈独背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子、同奏曰。我国家之王天下者。恒以天地社稷百八十神。春夏秋冬、祭拝為事。方今改拝蕃神。恐致国神之怒。天皇曰。宜付情願人稲目宿禰。試令礼拝。大臣跪受而忻悦安置小墾田家。懃脩出世業、為因。浄捨向原家為寺。』於後国行疫気。民致夭残。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿。中臣連鎌子、同奏曰。昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復。必当有慶。宜早投棄。懃求後福。天皇曰。依奏。有司乃以仏像、流棄難波堀江。復縦火於伽藍。焼燼更無余。於是天無風雲、忽炎大殿。
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山背国の帰化系の豪族には葛野郡と紀伊郡を支配した秦氏の他に、 少し遅れて相楽郡や葛野郡には高句麗から渡来した高麗氏が居た。秦氏より遅く、6世紀頃に渡来するようになったらしい。