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青春時代1(Syuugoro曲)

Syuugoroの残日録 ゲストブックに書く
旅情(Syuugoro曲) Syuugoroの文学
                 
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ベートーベンの生涯と作品



 ベートーベンは1770年、ケルンの南ライン川沿のボンで生まれた。祖父ルードヴィヒはケルン選帝侯の宮廷楽長を務るほどの才能を持った人で、父ヨーハンも宮廷音楽家だった。父は天才を示したベートーベンの年齢を2歳も若くごまかして音楽会に出演させ、モーツァルトの成功にあやかろうとしたらしい。
 正式な教育は最初祖父の友人で宮廷オルガニストを勤めていたエーデンから受けたが、1780年10歳の時、ネーフェにオルガンや鍵盤楽器、作曲法を学んでベートーベンの才能は開花したという。ネーフェの作品はモーツァルトの「『魔笛』の司祭の行進による変奏曲」「『魔笛』の主題による6つの小品」がナクソスで聴くことが出来る。
 ベートーベンは、多数の変奏曲を書いているが、そのルーツをネーフェの作品の中に見出すことが出来るだろう。

 ベートーベンの最も初期の作品は12歳の時に作曲した「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲ハ短調WoO63」がある。翌13歳の時に作曲した「選帝侯ソナタWoO47」はベートーベンの習作を知ることが出来て興味深い。確かにモーツァルトなどの古典派ソナタの模倣なのだが、単なる模倣なら音楽が模倣の中に閉じ込められてしまうのだが、ベートーベンの場合はやはり音楽が生きていると感じ た。

 14歳の時師のネーフェの助手として、無給の宮廷オルガン奏者助手の地位を認められ、翌1785年、正式に宮廷オルガン奏者となる。その後ボンの貴族の師弟にピアノを教えるようになり、 次第にベートーベンの生活空間は広がっていった。

 1787年、ベートーベンはウィーンに行き、モーツァルトを訪ね、弟子入りを申し出た。その時ベートーベンが与えられた主題で即興演奏をするのを聴いたモーツァルトは、傍に居た人に「この人はこれから世間を騒がすことになるだろう」と言ったという。
 しかし、そのウィーン滞在中に母が死去し、ベートーベンはすぐにボンに引き返すことになり、モーツァルトと再び会うことはなかった。
 母が死去した後、父はアルコール依存症になり宮廷楽団を退職しなければならなくなるほどに廃疾した。そのためベートーベンが二人の弟の面倒を見、一家を支えなければならなくなった。父の母もアルコール中毒で施設に隔離されており、ベートーベン自身も、いつも酒を飲んでいたという。遺伝なのかも知れない。ベートーベンが自殺まで考えた失聴の原因は大量の飲酒によるものだという説もある。

 1788年、ボンの有力者ブロイニング家の娘エレオノーレにピアノを教えることになり、家族同様に付き合うことになる。そこで多くの文化人と知り合いさまざまな教養を身に付けた。そしてエレオノーレは ベートーベンの初恋の女性となる。その後エレオノーレは医師ヴェーゲラーと結婚するが、その後もヴェーゲラー夫婦とベートーベンの友情は終生続いた。

 1789年5月、ベートーベンはボン大学に入学し、ウィーンに行くまでの3年間在学する。 同じ時にボン大学に入学した学生に宮廷楽団の同い年の親友ライヒャがいた。ベートーベンは宮廷楽団でヴィオラを奏いており、ライヒャはフルート奏者だった。ライヒャは後にフランスに帰化し、 パリ音楽院の教授となり、ベルリオーズやフランク、リストなどを指導したが、その音楽理論は多くの作曲家に影響を与えることになる。
 ライヒャは作曲家としても多くの作品を残し、木管楽器を中心とした室内楽は現在でもしばしば演奏されている。 木管楽器の室内楽のCDは数多く出ているが、ナクソスのライブラリに交響曲変ホ長調Op.41がある。僕はもちろんナクソスで初めて聴いたのだが、ベートーベンの第1交響曲がモーツァルトの影響を受けているのに対して、ライヒャの交響曲はハイドンの影響を感じる。そしてライヒャがフルート奏者の出身だったせいか、ホルンを含めた木管楽器の音色が目立つ。管弦楽法の大家となるベルリオーズはライヒャに学ぶが、その管弦楽法は、ライヒャの木管楽器の使い方にルーツがあるのかも知れない。さらに後のラヴェルやドビッシー、シャブリエなどの色彩感豊かなフランス音楽の伝統も、もしかしたらライヒャに繋がるのかも知れない と思った。

 ボン大学で、ベートーベンは哲学・思想や文学を学び、フランス革命を支持するシュナイダーから大きな影響を受けた。そしてシラーやゲーテの文学に出会い、それらはこの後のベートーベンの芸術に 影響を与えてゆく。
 
 その間、20歳の年には開明的なヨーゼフ2世の死去を悼んで、「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」を作曲する。この曲は習作期を脱した内容らしく、日本の合唱団も取り上げることがあるようなのだが、ナクソスでは見つからず、僕はまだ聴いたことがない。

 ベートーベンはブロイニング家で、ウィーンの名門貴族ヴァルトシュタイン伯爵と知り合う。ヴァルトシュタイン自身も作曲もする音楽愛好家だった。1791年、ベートーベンは伯爵の作品として「騎士バレー」という曲を代作する。この曲はナクソスで聴くことが出来るが、もはや習作ではなく、本格的なオーケストラ曲だと思える。

 翌1792年、ハイドンがボンを訪れた時、ベートーベンは自作のカンタータの譜面を見せ、弟子入りを申し出る。ハイドンは快く了承し、ベートーベンは、この年の11月、いよいよウィーンに行くことになる。
 ボンの友人たちはベートーベンに餞別の寄せ書きを書いた。ヴァルトシュタイン伯爵は「モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」と書き、初恋の人エレオノーレは「友情は夕暮れの影のように人生の落日の時まで続く」というヘルダーの詩の一説を書いた。

 



               【ピアノ三重奏曲第1番変ホ長調 Op.1−1・
                         第2番ト長調 Op.1−2・
                         第3番ハ短調 Op.1−3 】

 ベートーベンの作品1というのは三曲のピアノ三重奏だが、リヒノフスキー公爵家の家庭音楽として作られたという。しかしこの作品1の2のト長調ですでにスケルツォが使われ 、ベートーベンのスタイルがすでに現れている。
 これらの三曲は1793年から94年、ベートーベンが23歳から翌年の頃の作品という。ベートーベンはこの曲を作曲する少し前 、1792年の7月にボンを訪れたハイドンに、自分が作曲したカンタータの楽譜を見せ、弟子入りを許されてウィーンに旅立ったのだった。そしてウィーンの音楽愛好家であったリヒノフスキー公爵は、ベートーベンのために自分の持ち家を提供してくれ、この家でハイドンのレッスンを受けることになったという。
 こうしてウィーンでの新たな生活の中で、これらの三曲のピアノ三重奏曲が作曲され、1795年に作品1として出版され、リヒノフスキー公爵に献呈された。
 ハイドンはこの三曲のピアノトリオを聴き、ハ短調(Op.1−3)だけは出版を見合わせた方が良いとアドバイスしたという。ハイドンにしてみればピアノトリオというのは、家庭音楽会に相応しいようなディベルティメント風のイメージがあったのだろう。ベートーベンはそのアドバイスがひどく不満だったらしく、ハイドンが自分の才能を嫉妬しているのではないかとさえ思ったという。

 しかし、この曲を聴いてみると、冒頭の ド−−|♭ミ−ド|シ-ソ|ソ ・ ・  とユニゾンで奏される主題動機は、少し不気味な感じがする。ターフェルムジークやディベルティメントという雰囲気ではない。

 ベートーベンは作曲家としてのスタートの時から、貴族や裕福な人々のサロン音楽というものからは離脱していたのだろう。そして今日、三曲の中で最も頻繁に演奏されるのはハ短調だという。ハ短調というと、「運命」やピアノ協奏曲の第3番、そしてピアノソナタ第8番「悲愴」など、ベートーベンの生涯を通じての心象風景の一つの幹になっているらしい。

 ベートーベンは1789年、フランス革命が起こった年にボン大学に入学しウィーンに移るまでの3年間在学している。特にシュナイダーの授業から大きな影響を受け、そこで「自由・平等・博愛」という革命思想やシラーやゲーテの文学に遭遇 する。そしてシラーの詩は30年後に交響曲第9番として結実することになる。ベートーベンの芸術の性格には、生得的なものもあるのだろうが、フランス革命の時代に多感な青春時代を送り、その時代に受けた大学での知識・思想は、それ以上に大きな影響を与えたのかも知れない。

 1792年、22歳のベートーベンが、自らの思想を表明した言葉が友人への手紙の中に残されている。

 Woltuen, wo man kann,
 Freiheit über alles lieben,
 Wahrheit nie, auch sogar am
 Throne nicht verleugnen.  

 
出来るかぎり善を行ない
何にも まして自由を愛し
たとえ王の側であろうと
決して真理を裏切らず

 

 


               【ピアノソナタ第1番 ヘ短調 Op.2−1・
                       第2番 イ長調 Op.2−2・
                       第3番 ハ長調 Op.2−3 】

 この3つのピアノソナタもリヒノフスキー公爵家の 夜会で初演され、1795年8月にハイドンがウィーンに帰って来た時に、ハイドンの前で演奏されたという。出版は翌年作品2としてアルタリアから出版され、ハイドンに献呈された。

 ベートーベンの凄さは、他の作曲家が、独自の作風を持っているとしても、やはり自分の作風の類型を踏襲する。例えばロッシーニクレッシェンドという言葉があるが、「セビリアの理髪師」の序曲でも、「セミラーミデ」の序曲でも、曲の最後は景気の良い速いテンポのリズムで次第にクレッシェンドしてゆく。その様なものだ。
 ところがベートーベンは自分が作った作風を自分で破る。9つの交響曲を聞いても、同じようなものは1つとしてない。ブルックナーなどは1番から9番、0番も含めて、みんなブルックナーだ。それが悪いというのではない。やはり進化しているし、もっと長生きしてもっと作品が残っていれば良いとは思う。しかしすべてブルックナーの作風、ブルックナーの響きがする。ブラームスでもやはりブラームスの作風で、聞けばブラームスだなと感じる。

 ところがベートーベンの作品は「英雄」は他の作曲家の作品だと言われても納得してしまうような、その曲の独自性がある。第4楽章の主題  ♭ミ|ソ−♭ミ|レ−ファ|♭ラ−ファ|♭ミ− という主題は「プロメテウスの創造物」に使われていたもので、他に変奏曲形式で書かれたコントルダンスにも使われているが、いくら自分で作った同じ主題を使っても、全く作風の異なる音楽になっている。

 作品2の三曲のピアノソナタも異なる性格、表情を持った曲で構成されている。特に第1番のへ短調のもの言いたげな主題は青春期特有の悲壮感を感じさせ、印象に残る。第1楽章の第1主題は少しモーツァルトの40番の第4楽章を連想させる。
 第2番は「春」という表題を付けてもよいような、はつらつとして明るい。そして第2楽章のラルゴなどは、ベートーベンがいつも実験的なことを考え、試しているように思わせる。
 第3番は非表題的で構築的ということだろうか。第3楽章のスケルツォはフーガになっていて印象的である。ベートーベンはピアニストとしてだけではなく、若い頃教会のオルガン奏者をしており、バッハの音楽を深く愛していた。バッハの対位法からも多くを学んだことだろう。

               

                  ピアノ協奏曲第1番ハ長調 Op.15・
                  第2番変ロ長調 Op.19】

 ハ長調の協奏曲は第1番となっているが、楽譜の出版が2番の変ロ長調よりも早かったために1番となった。作曲は1794年頃から、第2番とほぼ平行して行われたようだが、初演は1798年のプラハ旅行中コンヴィクトザールの演奏会で行われた のが最初らしい。
 曲はベートーベンが「大協奏曲」と銘々しているように、当時のピアノ協奏曲に比して、規模の大きさ、壮大さ、華麗さを追求しているようだ。曲想も第2番が地味な感じがするのに対して、1番は外向的、顕示的な感じがする。 何せ冒頭の主題が 
 |ド−↑ドド|ド・・↓ドレミファソラシ|↑ドレミファ|ミレ ・ ・| という風にハ長調で主音を叩くのだから、嫌でも耳にこびりつく。第2楽章の主題も第2番に比べると記憶に残る歌謡的なメロディーだ。第3楽章の |ミレドドミ|ミレドドミ| という第1主題もそのアウフタクトに始まる風変わりなリズムが嫌でも耳に残る。第3主題の
 ・ミ♯レミ|ラミ・ミ♯レミ|ファミ のリズムなどは、まるでジャズのようで、後の7番の終楽章もそうだが、時々ベートーベンは思いの丈、開放的な気分に酔った音楽を作る。

 第2番は1794年に作曲が始められ、1795年の3月29日にウィーンのブルグ劇場で行われた義捐演会で初演されている。 楽譜は1801年12月に作品番号19として出版された。初演の評判は良かったようで、ウィーンでのベートーベンの名声を高めたのだが、ベートーベンはこの曲をあまり良い出来栄えとは思っていなかったらしく、また今日でも演奏される頻度がもっとも少ない曲になっている。しかし、第3楽章 ロンドの冒頭の主題
|レ♭シ−レ♭シ−|♭シラ♭シド−・|  という主題は印象に残る。

 第5交響曲と第6交響曲など、ベートーベンは、全く対照的な性格の同じジャンルの曲を平行して作ることが多いというが、このピアノ協奏曲の第1番と第2番もそういうことが言えるのかも知れない。第1番は初期のベートーベンの作品では非常に演奏されることが多いようだが、その外向的でやや感情過多な音楽に疲れを感じた時には、むしろ印象の薄い第2番の方が落ち着いて聴けるように思う。

 

 



               【チェロソナタ第1番ヘ長調 Op.5‐1・
                        第2番 ト短調 Op.5‐2・
                ヘンデルの主題による7つの変奏曲・
                「魔笛」の主題による12の変奏曲】

 

 1796年に ベートーベンはチェロソナタ第1番、第2番、「ヘンデルの主題による変奏曲」「魔笛の主題による変奏曲」など、チェロのために集中的に作曲している。ボン時代の友人のチェロ奏者ベルンハルト・ロンベルグの演奏を聴き、チェロの持つ表情の豊かさに惹かれたからだという。
 この年、ベートーベンはリヒノウスキー公とともに、プラハからドレスデン、ライプツィヒにしばらく滞在し、その後ベルリンを訪れたのだが、2つのソナタはチェロをプロ並みに奏いたプロイセン国王のヴィルヘルム2世に献呈され、王室楽団のチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポールによって国王臨席のもとで初演されたという。

 時代はフランス革命のうねりがドイツ諸邦をも洗い、ボンはフランス革命軍に占領された。次弟のカールはすでにウィーンに移り音楽教師をしていたが、薬剤師をしていた末弟のヨハンは、この年難を逃れてヴェートーベンを頼り、ウィーンに移り住んだ。プロイセンはフランス革命軍とバーゼルの和約を締結し、プロイセン宮廷にもフランス色が強まっていた。
 ベートーベンはフランス化したベルリンの聴衆に違和感を覚え、ベルリン滞在継続を求めた王宮の意向にも拘わらずウィーンにもどる。ベートーベンは思想的にはフランス革命に共感を覚えていたが、文化的な感受性という点では、フランス色を受容できなかったようだ。

 楽器や声部というのは民族性と無関係ではないだろう。テノールといえばイタリア、バスといえばロシアである。同じようにチェロというのは、ドイツ人の民族性に合っているのかも知れない。
 バッハの無伴奏チェロ組曲とベートーベンのチェロソナタは、クラシック200選にも入るだろう名曲だが、それらがドイツ人のバッハやベートーベンによって作られていることは偶然ではないように思える。

 この2つのチェロソナタも、やはりヘ長調とト短調というように対照的な性格を持っている。ただ構成は同じ形をしていて、アダージョの序奏を持ったアレグロ、ソナタ形式の第1楽章と、アレグロ、ロンド形式の第2楽章という構成になっている。2楽章にした意図はわからないが、常に実験的なことを考えていたということだろうか。3楽章形式、4楽章形式の曲の第1楽章と、終楽章だけで出来ているのだが、序奏のアダージョを除くと、アレグロ、アレグロで出来ている。そのことにチェロの為の作曲法、表現法についての実験的な意図があったのだろう。

 第2番はト短調で書かれているが、深刻さを持った短調ではなく、青春期の感傷という風で、続く第2楽章は快活で楽しげな青春賛歌になっている。

 



               【ピアノソナタ第4番 変ロ長調 Op.7】

 

 ピアノソナタ第4番は、作品2の3曲のピアノソナタに続いて、1796年 から翌1797にかけて作曲されたという。ベートーベンのピアノソナタは、それまでのピアノソナタのスタイルから大きく踏み出しているようだ。 モーツァルトのピアノソナタが殆どすべて3楽章形式なのに、ベートーベンのピアノソナタは第1番から交響曲や弦楽四重奏などと同じ4楽章形式で書かれているから、緩徐楽章の他にスケルツォなどの楽章が入る。それだけ全曲の構成の規模が大きくなり、個々の楽章に盛り込まれる表現の幅も広くなり深くな っている。モーツァルトのソナタは、街角から、どこかの家で子供がピアノの練習をしている風情だが、ベートーベンは、どうしても大人の、音大生の練習している風情になる。

 第4番のピアノソナタが書かれた1796年から97年といえば、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを訪れた長期旅行から帰った後だが、 ナポレオンの率いるフランス軍がウィーンにせまり、オーストリアはカンポフォルミオ条約でベルギーやロンバルディアをフランスに割譲してようやく和平を得るという重苦しい空気に包まれていた。ベートーベンの故郷のボンもフランス軍に占領され、マクシミリアン・フランツ選帝侯は亡命していた。2人の弟も故郷のボンを去り、ウィーンのベートーベンに身を寄せていた。
 フランス革命に共感したベートーベンだったが、祖国が侵略され、同じドイツ人の国オーストリアもフランスに破れたことは、やはり心穏やかざるものがあっただろう。 そうした環境は、ますますベートーベンを音楽の変革という情熱に向かわせたのかも知れない。

 第1楽章の第1主題は畳みかけるような3連譜の連続で出来ている。情熱のようでもあり、いらだちのようでもある。メロディーラインというものはなく、あるのは和音とリズムだけである。第2主題も下降する音階と和声でしかない。それだけで壮大な音の建築を作ってみせる。それこそがベートーベンの音楽の革命だったのだろう。

 第2楽章のラルゴは、多少のメロディーラインはあるが、さほど印象的なものではなく、終始ただ癒しの響きである。
 第3楽章はスケルツォともメヌエットともつかない三拍子の楽章で、やはりベートーベンは常に実験的、改革的だと感じさせる。一見快活なようで、中間部の変ホ短調の低音部の三連譜の分散和音の連続はこの楽章も単純に快活には終わらせていない。
 第4楽章のロンドになると、同じように中間部に相当長い変ホ短調の部分があり、低音の
 |ド♭ミソ↑ド♭ラソ♯ファソ ド♭ミソ↑ド♭ラソ♯ファソ|というような8連譜の音型が繰り返され、
|♭ミ ・|レという音に乗せた和音のリズムが叩かれる。これも又情熱とも焦燥とも感じられる音画になっている。
 

 


 

【弦楽三重奏第1番ト長調Op.9−1】
【弦楽三重奏第2番ニ長調Op.9−2】
【弦楽三重奏第3番ハ短調Op.9−3】 

 

 ベートーベンの人生にとって宿命的な重圧となった失聴の始まりは、1802年にハイリゲンシュタットで書いた遺書には6年前と書かれているというから、1796年のことになる。この年の夏のある日に、暑さをやわらげようと窓を開けたままにして、ズボンだけの半裸でい たため、身体を冷やして体調を壊し、その時に聴覚の異常が始まったという。半年に及ぶ旅行から帰った直後だとすると、疲労のストレスと、裸のままで寝て身体を冷やしたため、突発性の難聴になったのかも知れない。現代でも、ストレスからこの病気になり、そのまま放置して、無理をし続けて失聴することがよくあるという。
 ベートーベンはまだこの年には完全に失聴するとは思わなかっただろうが、遠くから話しかけられても人の声を聞き取ることが出来ず、それを人に知られるまいとして、次第に人を遠ざけるようになり、引き篭りがちなっていったという。
 1797年という年はピアノソナタ第4番の他には家庭音楽会用の弦楽三重奏やピアノ練習用のソナタなどがあるだけだが、失聴というショックが創作の余裕を失わせたのかも知れない。

 その翌年1798年に、ベートーベンはウィーンを訪れたフランス人ヴァイオリンニストのクロイツェルと知り合う。後に『クロイツェルソナタ』を献呈する人物である。ベートーベンのフランス人への好意は、ボン大学在学の時にフランス革命に共感した時に始まるのだろうが、それは丁度日本で、戦前に自由主義を知り、それに共感したものの、軍国主義によって踏み潰され、敗戦後日本を占領したアメリカ人が日本人に自由を与えてくれたことに好意を感じた日本の自由主義者に通じる気持ちだったのかも知れない。

 この年にはベートーベンは作品9の三曲の弦楽三重奏曲、作品10の三曲のピアノソナタやピアノ三重奏曲『街の歌』が完成し、『悲愴ソナタ』の作曲が始められた。また作品12の三曲のヴァイオリンソナタ、ヴァイオリンと管弦楽の為のロマンスヘ長調など、初めてヴァイオリン曲も作曲された。耳疾という音楽家にとって致命的な不幸をともかくも受け入れ、エネルギーを創作活動に注ぎ込むことが出来るようになったということだろうか。

  作品9の三曲の弦楽三重奏はブラウン伯に献呈されているが、この作品についてベートーベンは非常に自身をもっていたようで、この三曲のセットもそれぞれ意図的に違った構成を持たせている。第1番は第1楽章に序奏を持たせたソナタ形式で、第2楽章アダージョ、第3楽章スケルツォ、第4楽章ソナタ形式によるプレストという構成になっている。
 第2番は各楽章の緩急にあまり差をつけず、第1楽章はアレグレット、第2楽章はアンダンテ、
第3楽章はメヌエット、第4楽章はロンド・アレグロで、全体に流麗、女性的な印象を与える。作品9の三曲を変化を与えながら全体の統一を考えているということだろうか。
 第3番は第1主題をユニゾンで提示しているが、ユニゾンによる主題の提示というのはピアノ三重奏曲第3番でもやっており、調性も同じハ短調である。聴いていて同じような印象を受ける。また作品9と同じ年に出版されたクラリネットを入れた変ロ長調のピアノ三重奏曲『街の歌』もユニゾンによる第1主題の提示という形を取っているが、いずれも第1楽章の第1主題であることを考えると、ベートーベンがソナタ形式の作り方をさまざまに実験、試行錯誤している姿を感じる。ソナタ形式の中で如何様にも調理出来るように基本主題を出来るだけシンプルなものにしようとして、ユニゾンで提示するという方法を取る形も試したのだろうか。
 第3楽章は8分の6拍子のスケルツォで、短い楽章だが印象に残る。これも珍しい形式で、さまざまに音楽の表現を拡張して行こうとしているようである。

 


 

【ピアノソナタ第5番ハ短調Op.10−1】
【ピアノソナタ第6番ヘ長調Op.10−2】
【ピアノソナタ第7番ニ長調Op.10−3】 

 

 作品10のピアノソナタは1798年9月に出版されたが、書き始められたのは1796年の 頃からというから、第4番の変ホ長調と同時期だろう。難聴が始まったのが1796年の夏頃だとすると、その影響があるのかも知れない。
 第5番の調性はハ短調で第8番『悲愴』と同じ調性である。僕はこれを「運命の調性」だと感じている。そして5番では、いきなりハ短調の主和音を叩いて始まる。いきなりハ短調の主和音を「叩く」ことで第1主題が始まるというのは、いかにも感情的である。それに続いて16分音符のアウフタクトと付点8分音符−16分音符のリズムで主和音を♭ミ|ソ♭ミ↑ド↑♭ミ|♭ミ と上昇させる。
 悲しみの感情をぶつけている感じがする。8番の「悲愴」がグラーヴェでハ短調の主和音を叩くのと対照的だが、難聴が始まって1年から2年間の心境の変化とも感じられる。第5番では難聴が始まったばかりで直接的な感情だったのが、第8番では、その不幸が内面化しているということなのかも知れない。

 もちろん後のショパンのように感情をそのまま音楽にするというところまではいっていないのだが、それでもベートーベンはピアニストだったから、ピアノ曲に一番自分の個人的な感情が出ているように思う。そして音楽を文学と同じように人の感情や思想を表現する媒体にしようという意図があったのではないかと感じる。第5番は聴いていて「小悲愴ソナタ」と呼んでも良いような印象である。
 ベートーベンはシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の旗手であるシラーの心酔者だった。保守的な形式美を打ち破り、感情を表出することの熱気を青春時代に身に付けた人だったのである。

 また第5番は、第4番との関連も感じられる。少し聴いただけだと第4番は明るいのだが、変ホ長調の主和音を3連譜で叩く第1主題は、自分の不幸への感情が背景にあるような、何かしらいらだちのようなものを感じる。そして変ホ長調とハ短調という調整にも性格の対象性を持った同じジャンルの音楽を構想するという意図的なものを感じる。

 作品10の2曲目のピアノソナタ第6番は、第2楽章をアレグレットの三拍子にして各楽章との緩急差を少なくしている。作品10の1が悲しみの感情をそのまま伝えているのに対し、作品10の2はその感情を抑制し明るさを見ようとしているということだろうか。そして作品10の3曲目は1曲目、2曲目がそれぞれ三楽章の構成になっているのに対して4楽章の構成になっている。そしてその第2楽章はベートーベンが自ら「人の悲しみを表現した」と弟子のシンドラーに伝えたというが、その「悲しみ」を内包しつつ、4楽章という構築的な構成の中に消化しようとしているように思える。

 作品10の1が「悲愴」、作品10の2が「やすらぎへの逃避」、作品10の3が「意思による克服」という風に、いうならばヘーゲルの弁証法の構造「正」「反」「合」の構成になっているように思える。ヘーゲルと ベートーベンは同じ年に生まれているが、ヘーゲルもまたフランス革命に熱狂し、ナポレオンを自由の旗手として捉えていた。1798年頃は、まだヘーゲルの思想をベートーベンが知る筈はないと思うが、ともかく同じ方向を見ていたのは確かだろう。

 この3曲目のピアノソナタ第7番は第1楽章の第1主題が字余りのようなアウフタクトになっている。いきなりアウフタクトで開始するというのは、ピアノ協奏曲第1番の第3楽章でもやっているが、はみ出したアウフタクトから始まり、小節の秩序に帰するということに、意思に帰するというメッセージがあるのだろうか。


【ピアノ三重奏曲第4番変ロ長調 Op.11】



 
作品11のピアノ三重奏曲変ロ長調は、『街の歌』というあだ名が付けられている。それはこの曲の第3楽章に当時ウィーンの街で流行ったヨーゼフ・ヴァイグルの歌劇『海賊』の中の一曲が変奏曲の主題として使われいるからなのだが、この歌劇の初演の日が1977年12月15日であることがわかっているので、それ以後に作曲されたという推測が出来る。ただヴァイグルというのは、ベートーベンより4歳年上で、当時、サリエリが楽長を務めるウィーンの宮廷歌劇場の副楽長を務めていたのだが、アルブレヒツベルガーやサリエリに師事しているからベートーベンの兄弟子という立場の人で、ベートーベンと付き合いがあったと思われ、歌劇の初演の前に入手し、その中の1曲を変奏曲の主題に使った可能性は残される。

 このピアノ三重奏曲はベートーベンの知り合いのクラリネット奏者の依頼によって作曲されたと伝えられ、ピアノとクラリネット、チェロという編成で、変ロ長調で書かれているが、B♭のクラリネットの調性に合わせたものではないか。当時の半音キーの運指や音程の安定度など、古楽器のことはあまり知識がないのだが、その楽器の調性に合わせるのが最も特性を引き出せるから、ホルンを使った作品は変ホ長調で書かれたりすることが多かった。

 出版は翌1798年10月で、「ウィンナー・ツァイトンク」という新聞に広告が掲載されており、当時の文化的な世相を知ることが出来る。歌劇のヒットということもあってか、この曲は当時非常に人気を得たらしい。
 作品はトゥン伯爵夫人マリア・ヴィルヘルミーネに献呈されているが、マリア・ヴィルヘルミーネの二人の娘はベートーベンの庇護者となったリヒノフスキー公爵やラズモフスキー公爵の妻になっている。

 第1楽章はソナタ形式で、第1主題がユニゾンで提示されるが、この頃のベートーベンのソナタ形式の作品に第1主題がユニゾンで始まる曲が多いのは、曲の後の展開の可能性を考えて、第1主題を出来るだけ短く単純な素材にするという考え方に発しているのだろう。だからベートーベンのソナタ形式の楽章は歌詞を付けられない。モーツァルトの交響曲第40番の第1楽章に歌詞が付けられ、ポピュラーソングになっているのとの違い、それがベートーベンの音楽の本質なのだろう。
 そして第1主題の後半にアウフタクトから属七の分散和音で下降してくるフレーズが展開部でさまざまに変形されて使われている。主題の各部分を使ってさまざまに展開、発展させるというのも、ベートーベンは始めたのかどうかは知らないが、ベートーベンのソナタ形式の特徴なのではないか。
 「田園交響曲」では第1主題を構成する5つつほどの動機が、展開部はもちろん曲全体の中で、それぞれが独自に発展し、しかも曲全体が調和している。この三重奏は、そこまではいかないが、その萌芽を感じる。ただしこの頃のベートーベンの作品のソナタ形式の展開部に割り当てられた小節数はまだまだ短い。

 第2楽章の変ホ長調のアダージョは美しい。4分の3拍子の付点8分−16分のリズムで
 ・ ・ ♭シ♭ミ|♭ミ ・ ♭ミ|レ ・ ♭シファ|ファ ・ ファ♭ミ|♭ミ と奏でるリズムは七重奏曲のメヌエットにも出てくるが、ベートーベンはこのリズムが好きだったのだろう。

 第3楽章はヴァイグルの主題による変奏曲だが、ベートーベンが自らあまり出来栄えが良くないと言ったのは、その原因がクラリネットを使ったピアノ三重奏曲という編成にあるのかも知れない。つまりベートーベン自身ピアニストだったし、この曲もピアノが主人公なのだが、補助的な立場のクラリネットの音がやたらに目立ちすぎる。ハーモニーの音で旋律が消えてしまうような感じだろうか。ナクソスにパガニーニの作曲したヴァイグルの主題による変奏曲があるので、比較して聴いてみて欲しい。

 


10

【ヴァイオリンソナタ第1番ニ長調Op.12−1】
【ヴァイオリンソナタ第2番イ長調Op.12−2】
【ヴァイオリンソナタ第3番変ホ長調Op.12−3】



 ベートーベンはウィーンでリヒノフスキー公爵の庇護を受けていたが、ベートーベンはその公爵邸の弦楽四重奏団のリーダー、シュバンツィヒと交友を深めた。またフランスの名ヴァイオリニストのクロイツェルと親交を結ぶようになったことも ヴァイオリンへの関心を深めることになったこともあったと思われるが、この頃からヴァイオリンソナタを作曲することになる。

 作品12の三曲のヴァイオリンソナタが出版されたのは1799年1月だが、その前年3月にシュバンツィヒのヴァイオリンとベートーベンのピアノでヴァイオリンソナタが演奏されており、それは作品12の中の一曲だと考えられている。いずれにしても1799年1月の出版ということだから、1798年中には三曲とも作曲されていたのだろう。これらの3曲のヴァイオリンソナタはウィーンの宮廷楽長で、ベートーベンの師でもあったアントニオ・サリエリに献呈されている。

 部分的にもせよ、自身のの内面的苦悩を吐露したと思える作品10の三曲のピアノソナタがベートーベンの熱心な庇護者であったブラウン伯爵夫人アンナ・マルガレーテに献呈されたのに対し、このヴァイオリンソナタが 宮廷楽長のサリエリに献呈されているところに、作品12の性格を見ることが出来るのではないかと思う。ヴァイオリンソナタは宮廷音楽家との繋がりを念頭に作られたために、自分の内面を表出するということはなく、音楽的な密度だけを考えて作曲したということではないかと感じる。

 ヴァイオリンソナタ第1番はニ長調、 第2番はイ長調で書かれている。ニ長調やイ長調というのはヴァイオリン曲に多い調性 で、ヴァイオリンの音が、明るく、積極的に響く曲が多いように感じるのだが、これは開放弦が調性を構成する音に共鳴するからなのだろうか。最初のヴァイオリンソナタにニ長調を選んだのは、そ ういうこともあってのこと なのだろうか。第3番は変ホ長調だが、この調性だと主和音が共鳴するのは最低音のG線だけになる。そうすると響きが押さえられ、やわらかい響きになるということがあるのかも知れない。

 第1番は明るくはつらつとした雰囲気で、第3楽章は8分の6のアレグロで、弾けるような明るさを感じさせる。ヴァイオリン協奏曲の第3楽章と同じである。調性も同じで雰囲気もよく似ている。ヴァイオリンの特性へのベートーベンの基本的なイメージが反映しているのではないか。
 第2番の第1楽章は、8分の6拍子で|♯レミ ・ ♯シ♯ド・|♯ソラ・↓ ♯レミ・|♯レミ・↓ ♯シ♯ド|↓♯ソラ・ という半音下の音からスラーを付けて タラ ・ タラ ・ タラ ・ タラ ・ とすべらせながら降りてくるウィットに富んだ動機で、明るい雰囲気だが第1番に比べて女性的でやわらかい。第2楽章は少し物悲しく、回想的で内面的な感じである。作品12の3曲セットの2曲目ということで1、3曲とのコントラストということもあるだろうが、ベートーベンの内面の反映とも感じるのだが。第3楽章も3拍子のロンドだが、上品でやわらかな雰囲気である。
 第3番の第1楽章は構築的で、主題は素材的である。そして高度な技術を要するピアノの使い方をするなど、作曲技法、演奏技法を追求する意図が感じられる。
 第2楽章は呟きのようなアダージョの楽章になっている。この呟きのようなアダージョというのはベートーベンの作品に時々出てくるが、音楽的な意味でのコントラストや実験的な意図以上に、平静に立ち返ろうとするベートーベンの心理の反映なのかも知れない。
 第3楽章はマーチ風のロンドで、イタリア人のサリエリに献呈されたことと関係があるのかどうかはわからないが、ボッケリーニやロッシーニの室内楽を思い浮かべる。そういう風に考えると、第2番の第1楽章の第一主題も、ロッシーニの弦楽のためのソナタに出てくるフレーズに似ている。

 

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11

【ピアノソナタ第8番ハ短調 『悲愴』 Op.13】
【ピアノソナタ第9番ホ長調 Op.14-1】
【ピアノソナタ第10番ト長調 Op.14-2】
【ロマンスヘ長調】
 


 
「悲愴ソナタ」はベートーベンの初期の作品の中で最も有名な作品で、外国のポップスはもとより、特に第2楽章のメロディーは数多くの日本のポップス歌手が歌詞を付けて歌っている。なぜそれほどまでに人気があるのか?。そこにベートーベンの芸術の本質があるのかも知れない。

 「悲愴」というのはベートーベン自らが付けた表題である。そのことはベートーベンが自らの情念や思想を歌詞を付けない純音楽に、文学と同じように語らせようとしたということである。そんなことをした音楽家はベートーベンより以前には誰もいなかった だろう。そうした芸術の革命を構想すること自体が、ベートーベンが思想的な芸術家であることを示していると思う。

 「悲愴」という表題はベートーベンにとって何だったのか。これを演劇のように芸術上の虚構と見るべきではないだろう。ベートーベンの時代に劇の付随音楽でもない純音楽を、「カタルシスとしての悲劇」として創作するなどという状況はなかった だろう。やはり「悲愴」とはベートーベンの内面的な真実だった筈であると思う。

 ベートーベンの難聴は1796年の夏に体調を壊した時に始まったというが、それから1、2年後の「悲愴ソナタ」が作曲されている頃には、それが一過性のものではないことを自覚していただろう。しかしまだそのことをベートーベンは誰にも打ち明けていない。彼は作曲家である以前にピアニストである。難聴というのは、その職業にとって致命的である。そのことが関係していることは当然考えられるだろう。
 又、ベートーベンはボン大学で哲学を学び、ゲーテやシラー、ヘーゲルなどと同じように、フランス革命に大きな共感を寄せていた。ところが、オーストリアは反仏同盟に参加し、そしてフランスに敗れ、故郷のボンもフランス軍に占領されていた。「自由・平等・博愛」という理念に共感しながら、ベートーベン自身は、ワルトシュタイン伯爵やリヒノフスキー公爵などの貴族の好意、庇護によって支えられている。前年フランスと敗北的な講和をする前には、ベートーベンは「オーストリア軍歌」などの出征兵士を鼓舞する歌も作曲している。こうした思想的に引き裂かれた状態も関係しているかも知れない。
 さらには、ベートーベンの「充たされぬ愛」というものが根底にあったのかも知れない。ベートーベンの母は、モーツァルトと最初で最後の対面をした第1回目のウィーン滞在の最中に死去したのだが、残された資料を見ると、ベートーベンは母を深く愛していたのみならず、父親への嫌悪 と相俟って、母親を理想化していたようで、そこにはエディプスコンプレックスの構図があったようだ。そのことが、母の死後、常に愛への渇望という心理を生み、まるで「男はつらいよ」の寅さんのような失恋を繰り返し て、「不滅の恋人」という想念を形成していったようである。それは友人への手紙によれば、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を天才の乱用だと批判したことにあるように、異性を肉欲の対象として見ることを嫌悪し、どこまでも精神的な愛を求めていたらしい。そのような「充たされぬ愛」が「悲愴」の底辺にあったのかも知れない。

 「悲愴ソナタ」の調性は、「運命交響曲」と同じハ短調である。そして第1楽章はグラーヴェの序奏がいきなり重苦しいハ短調の主和音からF♯上の減七和音へ進み、二小節目はA♭上の減七和音から始まる。 苦悩に満ちた響きがある。この和音が与える印象というのは不思議なことに、全く異なる文化と歴史を持つ日本人が聴いても、やはり「苦悩」や「悲愴」を感じる。不思議としか言いようがない。
 この重苦しい序奏の後、哀感を急き立てるようなアレグロの第1主題、経過句、第2主題が続いて、再び悲愴感に満ちた序奏がト短調で現われ展開部に入る。そして、再現部の後にも、再び悲愴のグラーヴェが現れコーダに入る。これでもか、これでもかという感じである。

 第2楽章は数々のポピュラーソングにもなり、ヒーリングミュージックの代表的な曲にもあげられるアダージョだが、旋律は素朴で何の変哲もないように見える。しかしこのメロディーが、心に深く染み入って来るのだ。これまた不思議だと思う。第1楽章が悲愴感を持ったグラーヴェと、急き立てるような哀感のアレグロで終わった次に、遠い昔の幸せを懐かしむような癒しの音楽が置かれていることで、歌詞がなくても文学になっているのだ。そして、第3楽章では再び現実に引き戻され、哀感の中に曲は終わる。

 ピアノソナタ第9番ホ長調と第10番ト長調は「悲愴ソナタ」と表裏の関係になっている。献呈された のはウィーンの劇場副支配人をしていたブラウン男爵の夫人で、ベートーベンの熱心な庇護者であったブラウン伯爵夫婦とは別人だが、劇場副支配人ということから想像すると、「悲愴ソナタ」のような感情移入の強い内容は避けたということだろうか。ただ作曲はスケッチなどを調べると、かなり以前に構想されたもののようで、「悲愴ソナタ」と関連して対照的な作品を考えたというわけでもないようだ。
 二曲とも練習曲のような感じを受ける内容で、第9番は難しく、第10番は易しいように感じるが、第10番はその分モチーフが解りやすく親しみやすい。やわやかで女性的な印象である。また素人判断だが、第9番を聴いていると、不協和音や半音の扱いなど様々実験的な試みをしているように思える。

 「ロマンスヘ長調」というのは、今日ヴァイオリンの小品として、非常に親しまれている名曲だが、この曲は「悲愴ソナタ」が作曲されたころの作品だという。この暖かで懐かしさを感じさせるメロディーは、故郷のライン川近くの田園風景を思い浮かべて浮かんだものだろうか。その中には初恋の人エレオノーレの姿もあったのかも知れない。

 


12

【交響曲への道のり】


 
「悲愴ソナタ」 が出版された1799にベートーベンは交響曲第1番や6曲の弦楽四重奏曲の作曲を始め、交響曲第1番は翌年4月に初演されるが、この時期はベートーベンにとって一つの転換期だったようである。
 この年67歳のハイドンは前年オラトリオ「四季」を完成したのに続き、オラトリオ「天地創造」の作曲に作曲家としての最後のエネルギーを費やしていた。もう新しい交響曲の作曲はすることなく、弦楽四重奏曲も1799年に2曲が作曲されたのが最後になる。サリエリもこの年に歌劇「ファルスタッフ」を上演しているが、もはや自分の時代は終わったと自覚していたらしく、創作数も減り1804に最後のオペラを書いたのが最後らしい。

 現代のヨーロッパとはことなり、当時は貴族に支えられた君主国家というのがヨーロッパの殆どの国の政体だったから、外交も内政も貴族の社交によって動かされ、その場に音楽はかかせないものだっただろう。政治上の儀式、典礼や教会のミサ 、社交の場としてのオペラやコンサートなどだけではなく、日常茶飯音楽を必要としたのだろうと思う。だからこそベートーベンも貴族に庇護されて成長してきたのだが、ハイドンやサリエリ などの貴族のための音楽という時代は終わろうとしていた。
 それは耳に心地よいサロン音楽からメッセージを持った音楽への変化だろうか。多数の領邦国家に分かれたドイツと、その宗主権が次第に衰退する神聖ローマ帝国の貴族にとって も、民衆を巻き込んで同じ感情を共有するメッセージが必要になってきたのだろう。つまり共感する民衆の力の大きさを革命フランスに見せつけられたのだから。

 ベートーベンの芸術に盛り込まれて行くロマン主義的要素は、シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の潮流によって育てられた内面的要求でもあったのだろうが、一方でそれは音楽を必要とする貴族や有力市民の要求になってきたのだと思う。

 この頃からベートーベンは交響曲と弦楽四重奏というハイドン、モーツァルトが確立し、最も多く作曲した分野に足を踏み入れることになる。ハイドンの初期には弦楽四重奏は弦楽三重奏よりも声部が一つ多いという だけで、1つのパートを複数で奏くことも多く、各楽章の性格もディベルティメントと変わらないものであったが、 その後、各パートを1人が奏くアンサンブルの響きを重視し、各楽章の性格も明確にした、もっとも一般的な弦楽室内楽として定着することになる。 同様に交響曲は各楽章に決められた性格を持たせた多楽章の管弦楽として定着する。その分野に手を染めることは、ハイドン、モーツァルトの芸術を継承、発展させるという自覚と責任を持ち始めたということだろう。
 また改善の様子が見られない耳疾のことを思えば、ピアニストとしては仕事が出来なくなっても、作曲家としてなら仕事を続けることが出来ると考えるようにもなっていったのではないか。

 国際情勢は再び対仏同盟が成立し、オーストリアとフランスとの戦争が始まった。オーストリアは最初は優勢だったが、その後次第に劣勢になってゆく。そうした情勢の中で、フランス革命に共感するベートーベンは、ウィーンの貴族が主催するコンサートではなく、民衆に開かれたコンサートを自力で開くことを考え始める。

 


13

【交響曲第1番ハ長調 Op.21】


 
1800年4月2日、ウィーンのブルグ劇場で、ベートーベン自身が企画し、興行収入を目的としたコンサートが催された。貴族の庇護の下での音楽活動ではなく、近代的市民社会に相応しい自立した音楽家の生き方というのは、ボン大学で哲学を学び、フランス革命に刺激され、 自分の音楽の聴衆を貴族だけではなく、一般の市民に設定し、それ故市民の心に触れる音楽を、そして多数の聴衆を想定した大規模なオーケストラを使った音楽を作ること。それがベートーベンにとっては念願であっただろう。

 この演奏会の最初の曲目はモーツァルトの「大交響曲」だったという。モーツァルトのどの交響曲かは伝えられていないが、「大交響曲」という名に相応しいのは41番ハ長調《ジュピター》」としか僕には考えられない。 そして演奏会の最後の曲目がベートーベンの交響曲第1番だった。

 調性もベートーベンの第1番と同じハ長調で、第1楽章の第1主題が「ジュピター」と似ているのも偶然ではないだろう。第2楽章はモーツァルトの40番によく似ている。3楽章のメヌエットは「ジュピター」では「ソ−♯ファ|ファミレ|ド と音階を下降するのに対して、ベートーベンの第1番 第3楽章は、 ソ|ラーシ|ドーレ|ミ という形で音階を上昇させている。やはりモーツァルトの音形が頭にあったのではないか。しかしメヌエット書かれてはいるが、実質はスケルッツォで 、宮廷音楽の名残を払拭しようと意図が見える。
 主題がモーツァルトの交響曲に似ているというのも、調性が「ジュピター」と同じだというのも、ベートーベンは無意識ではなく、モーツァルトの音形を主題に借りて、僕ならこういう風に料理するという宣言をしたのではなかったか。 そう考えると、ますますプログラムの最初の曲は「ジュピター」だっと思われる。
 そして第1楽章の序奏が ヘ長調の属和音から入り転調しながらハ長調に至るなど、ベートーベンは常に新しい試みをしている。
 ヴァルトシュタインの餞別の言葉にある「モーツァルトの精神」を継承せよという言葉通り、ベートーベンは、少なくとも交響曲の分野ではハイドンのではなく、モーツァルトの後継者になろうとしたのだろう。

 音楽の友社の名曲解説全集によれば、この当時(1800年)すでに音楽新聞というのがあったようで、ライプツィヒの「アルゲマイネ」という音楽新聞に、ベートーベンの交響曲第1番について新しいアイデアや独創性があると好意的に書いてい るそうだ。そして使われている管楽器の多さにも注目している。
 モーツァルトの後期交響曲では管楽器の数が多くなったといっても、オーボエとクラリネットの両方を使うことはなかったが、ベートーベンはその両方を最初の交響曲から使っている。各パート2人ずつで木管楽器は、ジュピターと比べて8人から10人に増えている。比率では弦楽四重奏と弦楽五重奏との差だが、それ以上の厚みを、そして、管楽器だから色彩感を感じさせたのかも知れない。

 

 


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【ピアノ協奏曲第2番変ロ長調】
【七重奏曲】


  この日の演奏会はベートーベンのピアノ協奏曲と七重奏曲が演奏された。そしてベートーベンの作品以外の曲は「ジュピター」の他にハイドンのオラトリオ「天地創造」のアリアが演奏された。「天地創造」はハイドンのすべての作品の集大成、最高峰となるものだろう。モーツァルトの「ジュピター」とハイドンの最高傑作と自分の作品の交響曲、協奏曲、室内楽をプログラムにして世に問うたのである。

 ピアノ協奏曲は第1番か、第2番かのどちらかが演奏された筈だが、そのどちらかはわからない。2曲とも1795年頃には完成していたが、第2番の方が先に作曲されたようで1793年頃から書き始められたらしい。しかしベートーベンはこの第2番には不満があり、何度も改訂を加えている。現代でも第1番はしばしば演奏されるが、第2番は演奏される機会が少ないようだ。しかし第3楽章の8分の6拍子で演奏されるカッコウの声のような第1主題 レ♭シーレ♭シー|♭シラ♭シドー|というモチーフは印象深い。

 当時のピアノ協奏曲というと、モーツァルトの協奏曲のほかにロンドンで活躍していたクレメンティがハ長調の協奏曲を書いている。多くのピアノ曲を残したクレメンティだが協奏曲はこの1曲だけである。そのクレメンティの弟子にベートーベンより12歳年下のフィールドがいる。フィールドは、1800年頃には、モーツァルトと同じような天才少年としてヨーロッパ中に知られるようになっていた。フィールドはピアノ協奏曲を7曲書いているが第1番変ホ長調は、ちょうどベートーベンの第1交響曲の初演と同じ頃、1799年に初演され、熱狂的に迎えられている。フィールドはこの後ロシアに行き、グリンカを教え、ロシア音楽の基礎を築くが、ロシアのみならず、多くの作曲家に影響を与え、ショパンのピアノ曲、特にノクターンはフィールドの書いたノクターンの後継をなすものだという。

 ベートーベンのピアノ協奏曲は生前に出版された5曲以外に14歳の時に作曲し、ボンの宮廷で演奏されたという変ホ長調の協奏曲WoO4のピアノパート譜が残されている。父親がベートーベンを天才少年として売り込もうとして歳を2歳ごまかしてボンの宮廷で演奏させたのだが、ベートーベンの成長過程を知ることが出来て興味深い。この曲はナクソスのライブラリにあるので聴くことが出来る。

 「七重奏曲変ホ長調Op.20」は初期のベートーベンの作品の中でも、人気もあり、しばしば演奏される作品である。楽想は何の変哲もない素材によって構成されたメロディーだが、生理的な快感がある。ベートーベンというと緻密な構成というイメージがあるが、この曲は音楽が自然に流れ出したという印象を受ける。
 この曲の有名な ♭ミ|レ ・レ♭ミ|♭ミ ・ ♭ミ|↑♭シ♭シ♭シラ|ソ♭ミ というメヌエットの楽想は1796年頃のスケッチブックに残されているというから、まだ耳疾の苦悩が始まる前の青春期のものだということだろう。
 ベートーベンは20歳代には管楽器を使った室内楽を数多く作曲しており、1792年には「管楽八重奏曲変ホ長調Op.103」や「管楽五重奏曲変ホ長調 Hess19」などを、そして1796年には「管楽六重奏曲変ホ長調」を作曲している。いずれも変ホ長調だが、ホルンの調性に合わせたのだろう。
 これらの作品は貴族の邸宅などで演奏するためのサロン音楽だろう。「七重奏曲変ホ長調」は、そうした木管楽器を使った室内楽の頂点をなす作品だが、1800年のベートーベンが企画した演奏会の曲目にも加えられていることを合わせて考えると、多くの聴衆に聴いてもらいたい、それだけの内容をもった芸術だという気持ちがあったのだろう。

 しかし、ベートーベンはこれ以後木管楽器のための音楽を作曲していない。管楽器の持つ色彩感にベートーベンは大きな関心を持っていただろうし、それはこの後の多数の管弦楽の名作に生かされているが、この後、音が聴こえなくなっていったベートーベンには、その音色は若い頃の記憶の中にしかなく、音色を確めながら作曲することも出来なかったから、新たに管楽器のための作品を書く気持ちになれなかったのではないか。