エーテルの降る夜に

第ニ回 「日記の続き」
どうやら誰かの日記のようである。いまは、4月である。この日付にある、7月15日とはいつのことであろうか。
画面をスクロールさせた。

『7月16日』
日付がすすんだ。よくある日記ページの作り方とも違うようだ。
『昼過ぎになってようやく霧が晴れてきた。少し視界がよくなったので外に出てみることにした。
売り出しはじめたばかりの、山間の過疎地にある菜園付き別荘地である。人気のあるわけもなく、近くを流れる川の水の音と、山の生き物達の気配、そして鶏小屋のかわりにしている空別荘から鶏達の声が聞こえているばかりである。

食料の備えは3ヶ月程度はあるし、その頃には菜園からの収穫も見込めるだろう。
それにしても彼女達が生んでくれる卵は大切な栄養源になる。大事にしてやらなければならない。

乗って来た車のエンジンをかけてみた。セルモーターは何度か回ったが、エンジンが掛かる気配はなかった。

やはり啓示の通りになった。
人類はその発展の原動力であった内燃機関と電力を失った。
更に火薬も、電波も意味を失った。
工業製品の生産がストップし、物資の供給も、情報の伝達方法も失った。

町の人々はどうしているだろうか。
明日からの行動を考えなければならない。』

それは全く荒唐無稽な話しであった。 日記の形を借りた小説のページにちがいない。
ハルオは、先ほど感じた不安感を思って苦笑した。
ふと壁にかけた時計を見上げると、午前2時を回っていた。
たいした時間を過ごしたつもりもなかったが、思いのほか時が経過していた。

日記のページはまだ続いているらしかったが、それは例の異形の記号のままであった。
いぶかしく思い未練は残ったが、どうにか明日も仕事があることを思い出し、回線の接続を切った。
「もう、今日か」とひとりごとを言いながら、ハルオはそそくさと寝支度をすると、ベッドにもぐりこんだ。

目覚し時計に起こされて、目を覚ましたが、その日は珍しく体調が思わしくなかった。普段から夜更かし癖のあるハルオは、少々の寝不足で体調を崩すことはなかった。
しかしこの日は、頭の芯に何か重りが詰まったような模糊とした感じが充満していた。

ハルオは身支度も早々に、1DKのアパートを出た。うす曇りではあるが、えらく生暖かい風がゆるゆると吹く朝であった。
彼は、駅まで約15分ほどの道のりを徒歩で通勤していた。
アパートを出て路地を抜けると、川端の道に出る。川に沿って少し下り、橋を渡ってから左にまがる。
すると、そう大層なものではないが、古い立派な桜の並木道がある。
特にこの季節、彼はこの道を通って通勤するのがするのが楽しみであった。

大きな桜の木々が、歩道をトンネルの様に包み込んでいる。彼がそのトンネルを見上げたとき、風が騒いだ。
満開にはまだ少し間がある七、八部咲きの桜の花が思いのほかはっ、とするほど舞い散った。
薄桃色の花びらで、景色が霞み、風までもが染まったようであった。
一片の花びらが、見上げるハルオの顔めがけて落ちてきた。
彼は何かの呪縛にかかったように、ゆらゆらと舞い落ちてくる花びらから目を離せなくなっていた。
昨夜のホームページで見た、あのリンクマークのイメージと重なった。

そのイメージは徐々に浮き上がり、やがて前頭葉を通りぬけて、額から宙へと昇っていった。
そしてそれは落ちてくる花びらと重なり、融合して彼の額へと戻ってきた。
花びらが落ちたとき、彼の額にチリチリと焼けるような感覚があった。

決して不快な感じではなかったが、反射的にその花びらを取り除こうと額の中央辺りを指で探ったが、そこには何もみつからなかった。
チリリとした感触は残っていたが、ハルオは額に上げた手の持って行き場を失ってふと辺りを見回した。

この時初めて、先ほど少し後ろを歩いていた女性が自分よりも前に出ていることに気が付いた。
時間の感覚を失っていた。桜を見上げていた時間が、ほんの一瞬だったような気もするし、ずいぶん長いこと見上げていたような気もした。