結局その日一日はどうも調子が出ずじまいだった。
デスクに向かっていてもどことなく心ここにあらずの体で、ふと気づくとぼんやりと時計を見つめていたり、窓の外を眺めていたりしていた。
「具合でも悪いんじゃないの?」
見かねた同僚のケンジが声をかけてきた。
ケンジは、ハルオよりも二年後輩であったが、同じ年に今の部署に配属になっていた。
ケンジはどちらかというと学究肌のハルオとは反対の行動派であったが、ふたりはなんとなく気が合い、後輩のケンジが一歩引くかたちではあったが同輩の付き合いをしていた。
「いや、べつに」
「朝からへんっすよ。なんか心ここにあらずって感じだもん」
「昨夜インターネットやりすぎちゃってさ、寝不足だろうな」
ケンジは、ハルオの顔をもう一度まじまじとのぞきこんだ。
「なによ」
ハルオはくわえた煙草を、くいっと上向けて行った。
「エロサイトの見過ぎっしょ」とケンジはにやりとしてみせた。
妙な小説のホームページを見るのに時のたつのを忘れてたとは説明しなかった。
かえってわずらわしい気がしたのだ。
「ばか言え。そんなことするか」
そういってハルオは立ち上がった。
「はい、はい。ですよね」
ケンジは気のない返事をすると、急に関心がなくなったようだった。デスクの上に散らかった書類を整理し始めた。
5時少し前に携帯に電話が入った。ユキからだ。文字メッセージが入っていた。
待ち合わせの連絡であった。
ユキとはもうすぐ1年半になる。インターネットで知り合った。
はじめは、いわゆるメールフレンドという関係で、メールの交換だけのつきあいが3ヶ月ほど続いた。
いまでは、週末は必ずどちらかの家で過ごすのが習慣になっていた。
いつものように御茶ノ水駅近くの喫茶店で待ち合わせた。
今週は中野にあるユキのマンションに行くはずであった。
「うちにこないか」と、
ハルオは店の壁にかかった時計をぼんやりと見つめながら言った。
「あら、どうかしたの?」
ユキは、そんなハルオを覗きこみながら言った。
ユキは美人というのではなかったが、どちらかというと童顔のかわいらしい顔立ちの女であった。
その童顔の向こうに豊かな胸の谷間が窺えた。
「いいわよ。どうせ途中でお買い物していくつもりだったし」
二人はハルオのアパートの近所のスーパーで買い物をした。
ハルオは野菜や肉などの食材を見て歩くうちに、額にチリリと焼けるような感覚がよみがえってくるのを感じた。
その感覚は、食道から胃袋を刺激した。危うくその場でにんじんをつかみとり、かじりつきそうになった。
次に彼を襲った感覚は更に彼を戸惑わせた。
買い物篭を下げて肉のショーケースをのぞいているユキの腰からヒップへの線に目がくぎ付けになって、激しい衝動が下腹部を突き抜けた。
ハルオはあわててポケットに手を突っ込み、ズボンの前のふくらみをごまかした。
これはおかしい。普通の衝動ではない。
今日一日の不調はただの睡眠不足などではない。
胃袋はケースに陳列された生肉を求めていたし、ズボンの中では充血しきったものが、今にも暴発しそうだった。そして、眉間のあたりにはこれまで感じたことのないほどの焦燥感が
キリキリと渦巻いていた。
ハルオは困惑に眉をひそめ、彼の中に突然爆発したいわば生命の欲求を押さえつけるために
奥歯をかみ締めなければならなかった。
ユキの用意した食事を貪るように食った。
そして貪るように求めた。
元来悦びを求めることに対して決して消極的ではない二人であった。
はじめ驚いていたユキもハルオの熱に反応し、激しく彼を求めた。
ハルオはユキの寝息を確認するように彼女の顔を覗きこみ、
そしてそっとベッドを抜け出した。
先ほどまでの嵐のような欲望の爆発が、今では嘘のように静まっていた。
なるべく音を立てないようにパソコンを立ち上げた。
もちろん例のホームページを見るためであった。
昨日の続きを見たかった。
そして今日一日の違和感の原因を探りたかった。
接続した。
「なんで・・・」
彼は思わずうめいた。
昨夜は雪片の様だったあのリンクスイッチが、薄桃色の細長いハートマークに変わっていた。
『7月17日
昨夜もあまりよく眠れなかった。あまりに静かで。このままじゃいけない。何のためにここに逃れてきたのか。
あさ5時、備蓄のパンと、昨日鶏小屋からとってきた卵で朝食をすました。
ひんやりとした空気の中、畑の手入れをはじめた。
20軒分の菜園がある。自分の家の前の畑を耕すのに10時までかかった。
なれない作業で、体中がガタガタだ。でも心地よい。
家のテラスでへたり込んだ。そのまま1時間近く寝てしまった。
目がさめて、水を飲もうとしたら、水槽の水が残り少なくなっていた。
川まで水を汲みに行った。また、へたり込んだ。
昼食も備蓄をきり崩した。保存のきかないものから順に取り崩していく。
ずいぶんあつい一日だった。
午後から空別荘の取り壊しの続きをはじめた。
まずは鶏達の運動場をつくってやろう。
作業漬けだった。もう、へとへとだ。でも、余計なことを考えずにすむ。
牛肉の味噌漬をやき、ゆでた野菜で夕食。
日記を書いていると、ついいろいろと考える。
いまごろ、達也はどうしているのか。会社の連中は?
夏美さん
夏美
拉致してくればよかったんだ
出来るわけない。
一日の疲れ。眠くなってきた。今夜は良く眠れそうだ。』
ハルオはユキの様子をうかがった。むき出しの背中が規則的に上下している。
そっと立ち上がると冷蔵庫をあけ、紅茶のペットボトルを取り出した。
その場で一口飲み、そのままパソコンのところにもどってもう一口飲んだ。
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