エーテルの降る夜に

第六回 「 観測 」
JR木曾福島駅から、車を走らせる。
三岳村の市街に入る手前から左に入ると標高1120mの尾根に沿って約1Kmにわたって点在するいくつかの建物がある。
その施設の目的を顕著に示している、円筒の壁に半球のドームが蓋のようにかぶさった特徴ある建造物が木曾御岳山を背景に静かに座している。
里で盛りを誇っている桜の花も、芽吹き出した新緑も、まだこの辺りまでは登ってきていない。

T大学の木曾観測所には、現在所長を含め18人のスタッフのほかに、N大学の小惑星研究グループの研究員4名が入っていた。
105cmのシュミット望遠鏡を主設備として擁するこの天文観測所は、1974年に開設され、写真乾板のほか、1993年度からは2KCCDカメラの開発計画がスタートし1998年度からは一般公開が開始された。現在は、この2KCCDと1997年度から公開されている近赤外線カメラKONICの2つがシュミット望遠鏡の主観測装置となっている。
このシュミットドームのほか、本館、夜天光観測棟、太陽風観測所が山頂にあり、また麓の上松町には連絡所と職員宿舎がある。

N大研究員のソウカ ツヨシは昨年に続いて2度目の共同研究への参加であった。
「ここに置いときますね」と、観測所職員のノリヨが一昨日の2KCCDカメラの観測写真を届けにきた。
「どうもありがとうございます」
ツヨシはすでに部屋を半分出かかっている彼女の背中に丁寧に礼を述べた。
彼はノリヨが置いていった封筒から写真を取り出した。
この時期は大気の状態があまりよくない。満足のいく観測写真が撮れる日はあまり多くない。
しかし、この日はかなり状況がよかった。

彼は数枚の写真をあわただしく繰っていった。
彼の彫りの深い顔に落胆に似た表情が浮かんでいく。
「なんだこれは?」
デスクに戻って、それ以前の観測写真を引っ張り出した。
何枚かの写真を見比べてみた。
その写真は4日ほど前に一昨日と同じ視野で撮影されたものだ。
「本当か?」
左手で何度か顎をなでる。彼が考え込んでいるときの癖であった。
「ふん」と一言うなると彼はその写真を封筒に詰め、食堂にいる先輩研究員に意見を求めることに決めた。

食堂の中央の席を陣取って巨漢がひとり、大きな身体をを小さくかがめて今日何度目かの食事をとっていた。
彼の手の中にあると丼が普通の茶碗のように見えた。
ソウカが食堂をのぞいた時、その巨漢の先輩研究員は味噌汁をぶっかけた丼飯を流し込んでいたところだった。

「ミタライさん」とソウカが声をかけると、彼は丼の陰からのぞくように目だけを上げた。
「おん?」
「ちょっと見て欲しいものがあるんですけど」
「うん、ちょっとまってくれ」
先輩研究員のミタライは、そう言うと残りのネコ飯をザラザラと飲み干すようにたいらげた。
「ごちそうさま」
彼は空になった丼をテーブルに置き、丁寧に丼のうえに箸を揃えて軽く手を合わせた。
「うん、お待たせ。なに?」
ソウカは封筒から観測写真を取り出すと
「これなんですけど・・・」と手渡した。

ミタライはその風貌と似合わず繊細な手つきで写真を受け取った。
「おとといの写真だな」
すぐに彼はその写真の異常に気がついた。
「・・・なんだいこの陰は。なんだかガスみたいだけど・・・撮影ミスか?」
ツヨシは黙ってミタライの表情をうかがっていた。
「これは、4日前か・・・。ん?」
ミタライは2枚の写真を何度か見比べた。
写真は彼らが追跡していた小惑星N102号を捉えていた。その写真の右隅に背景の空間よりもやや明るく、しかし充分に黒いシミのようなものが写っていた。かなり遠い星雲のようにも見えるが、こんなところに星雲がないことはツヨシもミタライもよく知っている。はじめの一枚を見たときには、撮影かプリントのミスだと思った。しかし二枚目の写真にもそれが写っている。
以前見たときに気がつかなかったのはそのシミのようなものがよほど注意しなければ気づかない程度の大きさでしかなかったからだ。見比べてみてはじめて気づいた。
「前に見たときは気がつかなかったなあ」と、ミタライはツヨシの方を見やった。

ツヨシはうなづいて、「はい、ぼくもそっちの18日の写真では気づかなかったんです。22日のやつははじめはミスだと思ったんですけど、どうもそうじゃなさそうなんで」と、言った。
ミタライはもう一度写真を見比べて、
「うん。18日のやつよりもこっちのほうが明らかに大きくなってる。よく見ると22日のほうでは、ほらここ・・・」と、写真をツヨシのほうに差し出し、赤ん坊のように関節がくびれた指で示しながら、
「102号のこの角のところ、102号のほうが前になってるように見えないか?これはプリントのミスなんかじゃないってことだ」といった。

「こんな現象、みたことありますか」
ツヨシがたずねた。ミタライはかぶりを振った。
「いや、ないね。ちょっと見たところガス雲のように見えるけど、いままでにこんなやつが観測されたって話は聞いたことはないな」
ミタライは「よいしょっ」と自らに声をかけて重い身体を持ち上げた。
「ほかにどこかの観測所から報告されていないか調べてみたらどうだ。インターネットがつながるだろう」

「わかりました、調べてみます。ありがとうございました」
そういうとツヨシはミタライから写真を受け取り大事そうに封筒にしまいこんだ。
「それと、あさってもう一度同じ視野で観測する予定なんです。いっしょにお願いできますか」
「ああ、いいよ。・・・そうだ、サノ技師にも頼んでおこう」
ミタライはそう言って食堂を出ていった。
「はい、ありがとうございます」
ツヨシは出て行くミタライの背中に改めて礼を言った。