ほりたのテニス放浪記



作者のテニス放浪記 テニスとの出会いから現在まで、富山から東京へそして...
ここで書いている放浪記はすべて事実です。フィクションでも、小説でもありません。

目次

 1993年
 ■ なんかやるぞ!
 ■ テニスなんか女がやる軟派なスポーツだ

 1994年

 ■ 永遠のライバル?登場
 ■ 伊達公子ってすごいじゃん
 ■ お米倉庫の壁でテニス
 ■ 畑のネットで超スライスサーブ誕生
 ■ 名無しのテニスサークル
 ■ ボロぼろの公式戦デビュー

 1995年

 ■ フィフティーン・ラブ
 ■ 第3回JSSスクール生大会優勝
 ■ I社テニス部へ入部
 ■ MTC誕生
 ■ おら、東京さ行くだ
 ■ 東京で働き、川崎で生活

 1996年

 ■ フェドカップ、東レパンパシフィックオープン、セイコースーパーテニス
 ■ サンシャイン60ビルの壁打ち
 ■ 記録の10連敗
 ■ 有明コロシアムの全日本選手権
 ■ 食中毒でも1部トーナメント進出
 ■ 大ショック!伊達公子引退!

 1997年

 ■ 伊達のいないフェドカップ
 ■ ストレスと超不健康の固まり
 ■ テニスやり放題、富山へ
 ■ 大会出まくり勝率5割
 ■ 全社大会2部全勝優勝!しかし肩が悪化
 ■ テニスが出来ない

 1998年

 ■ I社テニス部に新入部員がいっぱい
 ■ こうちゃんが富山に帰ってきた
 ■ 私はI社テニス部の副部長
 ■ 全社大会1部、2部、3部完全優勝!
 ■ なぜ?富山県シングルスランキング162/318位
 ■ 沢松奈生子、松岡修造、エドバーグ、ベッカー引退、グラフは...

 1999年

 ■ 何の為にテニスをするのか?
 ■ すごい人かも
 ■ 全社大会2連覇と屈辱の2部3位
 ■ ボボイです。日本語ばっちり!ニッ!
 ■ あれ?富山県シングルスランキング139/303位
 ■ 冬はやっぱりテニス?

 2000年

 ■ 初めての入院、手術
 ■ 3年ぶりMTCテニス大会出場で箱とビールがいっぱい
 ■ エアーズ中上級クラスへ
 ■ 一応、富山県代表選手になった私
 ■ 全社大会3連覇!
 ■ 冬はやっぱり水泳でしょ?

 2001年

 ■ Sぶぅ登場
 ■ JSSランキング1位と第1シード
 ■ mtcの最後
 ■ I社全社大会、2部だけど団体、個人優勝!
 ■ ホームページ作ってよかった〜
 ■ ある意味最後の県大会

 2002年

 ■ 富山県テニスランキング99位
 ■ 仕事漬けで、ぼーっ
 ■ みんなが上手くなっていく
 ■ ナイターテニスでボールが見えない
 ■ 体重70kg超、ダメダメ人生まっしぐら
 ■ I社テニスコートが駐車場に

 2003年

 ■ 金沢へ引越し
 ■ O社で仕事、なんかハゲた?
 ■ 金沢のI社テニスサークル
 ■ レベル下がった?
 ■ 金沢もんはみんないい人だ〜
 ■ 失恋

 2004年

 ■ 激痩せ、2ヶ月で−14kg
 ■ ボクシングジムとテニススクール
 ■ 苦しい時は考えないのが一番
 ■ 父が病死
 ■ スクーバダイビング
 ■ 富山に戻って...


 2005年

 ■ 
 ■ 

1993年
■ なんかやるぞ!
 ううっ、仕事がいそがしい!帰宅の車中は「FMラジオ劇場」を聞きながら「吉野家」のオレンジ色の看板の誘惑をガマンする。家に帰ると毎日22〜24時。えっ、なんでいそがしいのかって?私は入社2年目のゲームプログラマーだったのだ。この頃は発売間近の「ザ・プロ野球SUPER’94」という家庭用ゲームソフトの締め切りが迫っていた。でも、小学生の頃からの憧れの仕事だったんだから、がんばらなくっちゃ。徹夜もたまには楽しいじゃん。このプロジェクトが終ったら何か新しいことを始めるぞ。
 

■ テニスなんか女がやる軟派なスポーツだ
 新潟に転勤になった親友のこうちゃんから女の子目当てにテニスを始めたという話を聞いた。私もテニスを習えば、富山に帰ってきたときに遊べるけど、テニスなんて軟派だし、女のするスポーツじゃん。でも、少しやってみようかなぁ、今思えば、こうちゃんに感謝、感謝。
 

1994年
■ 永遠のライバル?登場
 テニススクールに入校する。「ジャパン.スイミング.スクール」で「J.S.S」なんだけと、なぜかJSSテニススクールなのだ。
 スクールの初心者コースに入って2ヶ月目のこと、4月ということもあり、新しいスクール生が入ってきた。その中に1人、寝巻き似のウェアに木製ラケットのつわものが混じっていた。これが後に永遠のライバル?となる「のぶちゃん」であった。このとき、こののぶちゃんとMTCの土台を作っていくことになるとは思いもしなかった。
 
■ 伊達公子ってすごいじゃん
 1994年の春、伊達公子が世界テニス4大トーナメント大会の1つオーストラリアオープン(全豪オープン)で準決勝進出、ベスト4に入る。なんでこんなに小さくてかわいい女の子が、世界の化け物みたいな女と戦って勝ち進んでいくの??、すごい!、本当にすごい!
 このとき、私は「俺も強くなるぞ、強くなって伊達公子と友達になるんだぁ」と本気で考えていた少年?であった。ゲームプログラマーになる夢がかなった後の新しい目標は「伊達公子と友達」だった。
 
■ お米倉庫の壁でテニス
 強くなるからには練習、練習するためには環境だぁ。幸いにも、自宅の近くにお米の倉庫があり、ここの壁でストロークとボレーの壁打ちが出来た。休日には缶ジュースと、お菓子と、テニスの本を横に置いて1日中壁打ちすることも珍しくなかった。今思いだすと、ここで何回、何個のテニスボールを周りの田んぼやどぶ川に落としたろう?いつもボールを洗って乾かしてたっけ
 
■ 畑のネットで超スライスサーブ誕生
 次に、近所につぶれたテニスハウスがあった。コートに草がボウボウに生えているが、サーブの練習が出来る。ネットが無かったので、農業用のネットを買ってきて張ってみる。しかし、ネットがどうしても高めに貼られてしまいサーブがなかなか入らない。じゃあボールに回転をかけて打てばいいと...これが超スライスサーブの原型になった。
 
■ 名無しのテニスサークル
 うーん、初心コースには強い人がいないじゃん。テニススクールに通い始めて数ヶ月が過ぎ、私は物足りなさを感じていた。そこで、のぶちゃんも引きずり込んで初級クラスへ。のぶちゃんはかわいい女の子がいるクラスならどこでもいいのであった。でも、テニスを始める男なんて半分は女性が目当てなんじゃないかなぁ?ちょっと残念な話だけどこれが真実さ
 ある日、スクール生の1人に休日のテニスに誘われた。行ってみるとテニスを教えてくれる人がいれば、上手い人ともテニスができて、友人も増える。この時、この名無しのサークルがMTCとして占領されてしまうとは夢にも思ってなかったろう。
 
■ ボロぼろの公式戦デビュー
 ロコモーションで初心者テニス大会が開催された。秋になるとラジオ等で宣伝している大会である。この頃、ロコモーションのスクールにも通っていて、これが元で初めて公式の試合というものに出場する。結果は「どこが初心者テニス大会やねん」と愚痴ってたっけ。後で聞いた話だと、この大会はテニスを始めて5年目の人も出場しているレベルが高めの大会なんだそうだ。私の初の公式戦は散々な結果になってしまった。
 
1995年
■ フィフティーン・ラブ
 テニスを始めて約1年、恋の物語もいくつかあったけど話したくない。ねぇ、○○ちゃん。2人でよくバカやったよなぁ。でも、ここで言う「ラブ」は0点のことで、「フィフティーン・ラブ」は塀内夏子先生が書いた、私の大、大、大好きなマンガのタイトル。陸上部の短距離選手だった主人公が、テニスを始めて強くなっていく話なんだけど、これって俺のことじゃん。高校時代、陸上部だった上に、自分勝手だった私には、この主人公が自分のことのように思えたのです。このマンガと伊達公子は、私の教科書だった。
 
■ 第3回JSSスクール生大会優勝
 この日ののぶちゃんはキレていた。リターンがすごかったのだ。それより何より強気だった。第2回大会の3部ではあったが準優勝していた私達は、多少の自信はあったものの、ここまで気持ちの良いテニスが出来た日は今までになかった。あれよ、あれよで2部ではあったが優勝しちゃいました。テニスを始めて1年半での快挙(まぐれ?)でした。この記録は今でもJSSテニススクールの壁に歴代優勝者として残っているそうです。
 
■ I社テニス部へ入部
 I社テニス部には強者がそこら辺にごろごろと転がっている。この頃の私は怖いもの知らずで、技術的には未熟だったが、サーブ力、体力、短距離走力にはとても自信があった。「伊達公子と戦う為には、県ランキング1位くらいは単なる通過点でしかない」とか「自分の会社のテニス部くらいなら俺より強い人はいない」と思っていたのだ。
 テニス部に入部してすぐに先輩と試合をすることになった。ここで私は序盤2−0とリードしてしまい「これは、まずい!一応新人なのだから先輩の顔を立ててあげなくては」と手を抜くと負けてしまった。この後、この先輩に勝つことはなかった。今の私は勝てる相手には「これでもか、2度と俺には勝てないということを思い知らせてやる」と立派に成長した?のでした。
 
■ MTC誕生
 山積した問題があって名無しのテニスサークルメンバーの集まりが悪くなっていた。のぶちゃんと2人だけで練習することもあった。そんな時、のぶちゃんらがJSSスクールの木曜クラスでサークルを結成して日曜午後の常願寺ハイツに進出してきた。これではさらにメンバーが顔を出しにくくなってしまう。正直、私でさえ常願寺ハイツには行きたくなかった。私にとってこれは裏切り行為だった。しかし、この行動は正しかったと今は思っている。結局、サークルメンバーなんて、自分の気分や事情等で簡単に顔を出すサークルを替えたり来なかったりするのである。私もMTCとI社テニス部の両天秤だし、よくサボるし...
 
■ おら東京さ行くだ
 「おら東京さ行って強くなってプロに...」と思ったわけではない。会社からゲーム販売禁止命令が出て、ゲームの開発センターが存続の危機だったのだ。そこに「東京の某ゲーム会社で手伝いをしてみないか」という話に私はすぐにOKの返事をした。この頃の私はとても疲れていた。部内で稼動する重要なシステムの開発を任されたにもかかわらず頭が働かなかった。恋の病だったのだ。恋がこんなに苦しいものだということを始めて知った。単車を無茶に走りまわしても気分は晴れない。結局、私は何もかも忘れたくて東京へ逃げた。
 
■ 東京で働き、川崎で生活
 東京での最初の半年は楽しかった。仕事で出会った同い年の彼女と愛車カワサキZR400でいろんなところへ遊びに行った。あいつの笑顔が本当に可愛かった。しかし、仕事は大変だった。入社4年目にして年収400万円近く稼いでいたが、そのうち100万円は残業代だった。残業1h当たり千円チョイ貰っていたので実に年間800時間は残業していたことになる。体を壊して退社する人なんて山ほどいる。ゲーム開発というのは意外とキツイ仕事だ。
 
1996年
■ フェドカップ、東レパンパシフィックオープン、セイコースーパーテニス
 フェドカップは年1回行われる国別対抗女子テニス大会である。で、日本と対戦するドイツは当時世界ランキングNo.1のS.グラフ、No.5のA.フーバーがシングルス、ダブルス共に顔を出してきた。しかし、結果は伊達公子と杉山愛、長塚京子がやっつけてしまった。他に、沢松奈生子、佐伯美穂が代表メンバー、裏には遠藤愛、神尾米、宮城ナナ、平木理化、吉田由佳と、世界ランキング100位以内の面々が揃っていた。東京体育館では日本最大のテニス大会、東レ・パンパシフィックや、今は無きセイコースーパーテニスを予選の日本を代表するテニスプレイヤーから本戦の世界トッププレイヤーまで見ることが出来た。うらやましいでしょ?でしょ?
 
■ サンシャイン60ビルの壁打ち
 東京での寮生活が半年過ぎ、私の夢I社ゲーム開発部は解散。で、次は池袋でパチンコシステム開発。今回はウィークリーマンションの為、ZR400は持込禁止。私物も友達も無し、テニスも野球も出来ない。最悪な開発メンバーと大嫌いなデータベースの仕事の毎日。東京と富山の往復。彼女にもフラレた。会社の窓から下の広場を見下ろすと、平日の昼間にもかかわらず毎日たくさんの人がテニスや野球をしている。
 せめてテニスだけでもしたかった。そこで休日は近所の池袋ガーデンでサンシャイン60ビルを相手に壁打ち。いつ怒られるかとヒヤヒヤだったけど結局ずっと逃げきれた。
 
■ 記録の10連敗
 腕試しに雑誌に載っている草テニス大会にいくつか出場してみた。東京近辺では大会出場料5千円以上が当たり前で5千円程度なら千葉の河川敷のボロボロクレーコートで試合だった。地図を片手に電車で移動して、高い出場料を払っては毎回参加賞を持ち帰り10連敗。「いやーそれほどでも、えへへ(^-^)」敗因は言うまでもなく練習不足。
 
■ 有明コロシアムの全日本選手権
 ゆりかもめに乗って東京お台場、終点の有明コロシアムにやってきた。テニス用に創られたドーム、数えきれないほどのコート。日本最大級、あこがれのテニスワールドである。にもかかわらず全日本選手権の観客はまばらだった。あの鈴木貴男や本村剛一が目の前でプレーしているのにどこでも好きなところに座れる。ここにいる人はみんなテニスが好きなんだろうなぁ、それにしても本村剛一の豪快なショットはかっこいい!
 
■ 食中毒でも1部トーナメント進出
 毎年、日本中のI社テニス部員が集まって開催されるI社テニス全社大会。この年は石川県の能登での開催だった。私等6人で構成された富山Dチームは予選2勝1敗でなんとか本戦1部トーナメント進出。しかし本戦では顔なじみの富山A、Bにボコボコにされてしまった。
 このとき富山テニス部員が宿泊した宿の食事が原因で食中毒にかかっているとは...能登からの帰宅途中は腹痛、嘔吐でそれはそれは悲惨な目に合った。次の日、富山テニス部員のほとんどが休職、病院通いで新聞記事扱いとなった。
 
■ 大ショック!伊達公子引退!
 千代の富士引退以来のショック、信じたくなかった。伊達公子が引退を発表し、私の目標が一瞬にして消えて無くなる。「俺は何の為にテニスをしてるんだろう」とさえ思った。テニス大会を見ていても伊達が出てこないとつまらない、とても寂しい。「あの記者会見はウソだぴょーん」とか言って戻ってきてほしかった。
 
1997年
■ 伊達のいないフェドカップ
 有明コロシアムの巨大ドームは屋根が開いている時と閉じている時では別会場のようだ。この年のフェドカップは閉じていた。緊迫した試合になると1ポイント毎の歓声、応援がすごい。反響音等の振動が空気や椅子から体に伝わってきて、まさに本物の臨場感が体験できる。閉じたドームは選手、観客が一体になれる不思議な空間だ。
 沢松奈生子が3時間の激戦の上、くやし涙を浮かべる。観客もやりきれない気持ちになる。杉山愛がマリー・ピアースを接戦で破る。みんなも自分のことのように喜ぶ。しかし伊達公子のいない日本は1回戦で姿を消した。
 
■ ストレスと超不健康の固まり
 新潟からこうちゃんが遊びに来てくれた。会社をやめたと言う。この頃は不況で、どこの会社も体制や仕事がめちゃくちゃだった。なんて羨ましい!私がこんな最悪の環境で仕事をしているというのに。しかし、周りの親、友人等は皆やめるなと言う。私の気も知らないくせに...
 こうちゃんに「お前ヤバイ、危ないぞ!」と言われた。そう、この頃の私はストレスと超不健康の固まりで、髪の毛は伸ばし放題、肌は真っ白、なにもしたくない。いつ死んでもいいと思ってた。
 
■ テニスやり放題、富山へ
 前々からの私の希望どおり現在の部署を去ることになった。富山に戻れば単車乗り放題、近所の「あっちっち」ラーメンも食べられる(うまいんだなぁ、これが!)。家に帰れば大型TVにビデオ、コンポ、ごはん、なんでもあった。
 しかし、私の心はさえなかった。もう2年前の筋肉、脚力、体力は無い。これではテニスや野球の仲間にも恥ずかしくて会えない。それでも会社のテニスコートやスクールで懸命に練習した。少しずつだが、ぜい肉だらけの体も元に戻っていった。
 
■ 大会出まくり勝率5割
 富山のコートは使い放題だ。東京だとコートまで行って抽選会をしてそれでも使えないことが多いのに。
 富山の大会出場料は東京と比べると約1/3。で、レイティング、県市大会と出まくったが意外に勝てた。しかし、急に無理を重ねたせいで私の肩は少しずつ痛みが増すようになった。いや、まだまだやるぞ!
 
■ 全社大会2部全勝優勝!しかし肩が悪化
 さあ、今年もやってきましたI社テニス全国大会。今年の会場は仙台市のSUGO。富山Bチームの私のペアは予選こそ全敗だったが、みんなのおかげで本戦2部へ。
 本戦、富山Bチームの男性全員が全勝で2部優勝しちゃいました。「まだまだ、俺の実力はこんなもんじゃない」と自信過剰な私であった。気持ちとは正反対に私の肩は激痛で完全に壊れてしまった。
 
■ テニスが出来ない
 少しずつでもテニスはしたかったが、肩が治るまでまったくテニスをしないことにした。このままじゃ野球だってできやしない。
 話は変わって1997年〜はMTCでみやみや、のぶちゃん、おくおく等のサークル内結婚が相次いだ。私が東京で苦しんでる間にうまくやりやがって、でも、めでたいっ!のぶちゃんなんか東京まで来てデートしていたそうだ。近くまで来たのなら連絡よこせよなぁ
 
1998年
■ I社テニス部に新入部員がいっぱい
 去年は毎週のようにI社テニスコートに顔を出してたけど誰もいないことが多い。仕方ないので誰かが来るまでベンチで昼寝を始める。それでも誰も来ないときは1人でサーブ練習をしてテキトーなところで帰る。
 1998年春、珍しくI社テニスコートがにぎやかだった。顔なじみの先輩が数人と、新顔の運動神経の良さげなかわいい女の子が1人来ていた。のちに、その娘の同期も集まって計10人近くのI社新人が入部した。この日から先輩達もよく顔を出すようになり土曜日のI社テニスコートは常ににぎやか(やかましく?)になったとさ、めでたし、めでたし
 
■ こうちゃんが富山に帰ってきた
 こうちゃんとは小学校の頃からのくされ縁だ。一緒に遠足のオリエンテーリングで優勝したこともある。とても足が速かったこいつは私の目標でもあった。テニスを始めたきっかけも、こいつに勝ちたいという思いからだった。
 1997年に会社をやめたこうちゃんはI社に就職したり、夜の代行運転、新潟で医療関係...仕事や趣味は転々と変わったが、カラオケに行くと「キューティーハニー」と沖田「E−きもち」を歌うのは変わってなかった。
 
こいつ ↓
■ 私はI社テニス部の副部長
 半年間テニスをしなかったおかげで肩の痛みも消えた。前は力いっぱいボールをぶっ叩いてストレス解消してたけど、まだ不安なので恐々とボールを打っていた。
 私がI社テニス部に入部して3年、初めて新人歓迎会とテニス合宿なるものがおこなわれた。この年、I社テニス部富山の副部長を任されたが、何をしていいか分からなかったので、名簿(Eメール)作り、会計、連絡係、コートの掃除なんでもやってみた。でも、よく怒られた。ここだけの話、I社テニス部の先輩は私よりわがままな上に文句が多い。先輩読んでいないよねぇ?
 
■ 全社大会1部、2部、3部完全優勝!
 またまたやってきました、毎年恒例の全社大会。この年は新入部員のおかげで先輩達も復活して富山は4.5チーム作れた。しかし、不況で予算を削られてしまい1泊2日での開催だった。予選、個人戦無し、おまけに、チーム名だけで1部:富山A、2部:富山B、3部:富山C、D、混合と分けられたもんだから、余裕で1部〜3部まで完全優勝させていただいた。富山Cのメンバー(私等)なんか、去年の富山Bとほぼ同じメンバーの上に2部優勝しているのに...
 
■ なぜ?富山県シングルスランキング162/318位
 この年は、あまり試合に出てないハズなんだけど富山県ランキング162位になってた。不戦勝で勝った覚えはあるけど...まぁいいっかぁ、出場さえすればポイントもらえる大会もあるし、何てったって私はI社テニス部副部長だしぃ(1年でクビになったけど)。1997年は結構、試合で勝った気がするけどランキングに名前も載っていなかったのに?県テニス協会登録費をごまかしたのがマズかったか?
 
■ 沢松奈生子、松岡修造、エドバーグ、ベッカー引退、グラフは...
 松岡修造がウィンブルドンでピートのサンちゃんから第1セットをとった瞬間、それはもう嬉しくって部屋の中で小躍りしてた。あと、1996年のフェドカップで松岡修造が日本の大旗を持って有明コロシアムの客席を叫びながら1周していたのを覚えている。エドバーグのテニスレッスンビデオは何回も見た。いまだに私のサーブはエドバーグと伊達公子が混じったようなフォームである。ベッカーも好きだった。ベッカーのマネをして、2、3年で肩を壊してテニスをやめたやつを知っている。グラフもケガが多く1999年には引退してしまった。みんな大好きだったのに引退していくんだね...あれ、誰か1人忘れているような?
 
 
1999年
■ 何の為にテニスをするのか?
 テニスを始めたおかげでサークルやクラブ等で多くの人と出会えた。テニスにはとても感謝してるけど、今はなぜ、何の為にテニスをしているのだろう?強くなって上手くなって何になるというのだ?最近、こんなことをよく考える。さらに今は目標すら無い。年上の伊達公子でさえまだ結婚してないんだから、まだ遊んでてもいいのか?自分のためのテニスじゃん。きっと何もないやつより幸せなんだって???みんなは何の為にテニス続けているの?好きだから?暇だから?人付き合い?誰か教えて
 
■ すごい人かも
 えっ、マルチナ・ヒンギスにも勝っちゃったの?エレナ・ドキック?ドキッチ?とにかく、かわいい!強い!ウィンブルドンで初めてドキッチを見て次の日、ドキッチモデルのラケットを購入していた。
 あと、こうちゃんがとある優良会社に就職面接に行った。「前祝いにどこか行こう」と言う反面「十数倍の難関を受かるわけないじゃん」と心で思う私だった。4WDのこうちゃんスターレットで名古屋だぎゃーに行き、金のしゃちほこ見て、ういろう食って、24hサウナに雑魚寝。数日後、こうちゃんは見事に就職合格!さらにボクシングジムにまで通い始めた。
 
■ 全社大会2連覇と屈辱の2部3位
 つまらない全社大会だった。相棒てらちゃんの都合が悪く、私のペアは練習にも大会予選にも顔を出さず本戦1日だけ来て帰っていった。しかし、結果は富山Cが2部3位、富山Aが2年連続の1部優勝、個人戦も富山が男子、女子共に優勝。まあ、これくらいでかんべんしてやるか。
 大会最終日の午後、3日間、同じ目標に向かってがんばってきた仲間達が車の音を残して散っていく。ほんの少し前まで共に戦っていたのに。会場の夕方は静かで淋しい「つわもの達が夢の跡」である。また明日から仕事だぁ
 
■ ボボイです。日本語ばっちり!ニッ!
 最近、テニスがだらけている。久しぶりにテニススクールにでも行ってみるか、とも思ったが目的は「エアーズ」のお風呂。軽く試験を受け、どのクラスにでも行けと言われ、適当なところで中級にした。
 コーチは当時チューリップTVテニススクールのCMに出演のボボイさんだった。CMの「日本語ぱっちり!ニッ!」というセリフではエアーズの親しい人はみんなTVに向かって「ウソつけー」と叫んだそうである。ボボイさんはとてもやさしかったが相変わらずダラダラしてる私だった。
 
■ あれ?富山県シングルスランキング139/303位
 あれ?今年は139位?今年はシングルスが散々だったのに。俺の時代ももう終わりだなぁ、でも、その前にいつ俺の時代があったんだ?なんだまだこれからじゃん。あれ、ふくふく先輩はもう少しで100位ですね、がんばりましたもんね。1勝したような気がするムーさんは200位台ですね、ということは私はI社の実力ナンバー3ですかぁ?やっぱりなぁ(絶対違う)、やっと俺の時代がやってきたかぁ
 
■ 冬はやっぱりテニス?
 ここ数年、テニスばかりしてたから結構お金が余っていた。テニスと野球と単車はぜんぜんお金がかからないのだ。で、貯金の半分を株、残りの半分を中古車のRVRとスノーボード一式とゴルフ一式に使った。予定では株で儲けてまたお金が増えるハズだった。
 元々は野球がメインでテニスは冬のトレーニングにと思ってたけど、冬にテニスで遊んでくれる人は滅多にいない。RVRでスキー場に行きボードで滑りまくった。数ヵ月後、RVRの税金、保険の請求、株の大暴落、その上入院することになろうとは...一瞬にして大貧乏人である。でも、人生楽しまなきゃ、こうなりたくない人は冬はやっぱりテニス?
 
 
2000年
■ 初めての入院、手術
 ある病気に侵され?生まれて初めて入院、手術することになった。中央病院での入院は期待以上に楽しくって、仕事がサボれる上に毎日、看護婦さんにやさしくしてもらって食っちゃ寝して、担当女医のみわ先生なんて最高にかわいくって、もう、この世の天国だね。でも、退院後に請求書が来て入院費、手術費等で40万円以上必要だった。
 休日はとにかく貧乏だったのでお金の不要な近くの体育館にテニス等の大会を見に行っていた。あの体育館の寒さはスポーツの大会というよりガマン大会だね。
 
■ 3年ぶりMTCテニス大会出場で箱とビールがいっぱい
 年2回開催のMTCテニス大会。飲み会、合宿等のイベントでは普段来ない人までやってくる。が、練習になると来なくなる。あまり、こういう人達は好きじゃないのでイベントには参加しないようにしている。
 でも、春は3年ぶりに出場すると勝ってしまった。優勝商品は数十本もの青色、紅茶、チョコレート等々の変てこビールだった。これは嬉しかったけど、優勝カップが箱付き特大サイズ。おかげで自宅の部屋の入り口には半年間、大きな箱が横たわることになった。続いて秋の大会。戴いた商品はダンボール一箱の缶ビールでした。
 
■ エアーズ中上級クラスへ
 エアーズに行くとボボイコーチが毎週のように「調子どお?中上級いつ行くの?」と話しかけてくれる。通っていた中級クラスは女性が多い分、打球が弱い。ボボイさんにはもっと教えてほしかったが中上級へ行かせてもらった。
 中上級は強い人がいっぱいいて、とにかくおもしろかった。毎週、懸命に球に食らいついた。でも、横の初級クラスもギャルがきゃぴきゃぴと楽しそう...
 
■ 一応、富山県代表選手になった私
 この年の秋は過密テニススケジュールだった。夏季レイト、近鉄ホームカップ、C級シングル、秋期県選手権、白馬合宿、MTC杯、I社全社大会、さらに野球、ゴルフ等まで割り込んできて毎週毎週、俺の休日って何?
 中でも近鉄ホームカップでは成績がよかった為、石川県での決勝大会に出場できた。決勝大会は千円で出場できる上に弁当や景品がもらえるんだよ。一応、富山県代表だと喜んでたのにBクラスだけで55チームも出てやがんの。誰でも出れるんじゃん
 
■ 全社大会3連覇!
 千葉県で開催されたI社全社大会。団体戦での私のサーブは気持ちいいくらいに入ったしミスもほとんど無かった。けど、敵の球の重さと球速に押し切られて負けた。これはたぶん技術より慣れの問題で、まずは普段の練習環境が違うんだと思う。若いうちはすぐに環境に適応できるから、少しでも自分より高いレベルでの練習環境が必要なんだと思う。でも、個人戦は3位だったし、1部では今年も先輩が団体戦と個人戦で優勝してくれたからよしとしよう。うんうん
 
■ 冬はやっぱり水泳でしょ?
 この年の冬は体力をつけたくて水泳を始めてみた。でも室内プールってお洒落なところだと思ってたのに、トドにみたいなおばちゃんや毛むくじゃらのおやじが結構いて、これってもう人間じゃないなぁっていうのもチラホラ。
 ともかく年間会員になりがんばった。しかし、半年経った頃からテニス帰りのシャワー用施設だったり、更衣室で財布を盗まれて警察沙汰とか、会員カードを無くす等々...結局、習得したのは水泳のターンが上手になったことくらいかな
 
 
2001年
■ Sぶぅ登場
 春先はmさんのお誘いでS村の体育館で練習させてもらった。のちのテニスサークル「Teamマリフェナ」である。最初の印象はレベルは高くないけど活気のあるいい集まりだなぁって、でも、その中に凄いのが数人混じってた。なかでもSぶぅは学生時代以来のテニスだと言うのにこの年、県、市町村、草テニス等の大会で勝ちまくるのである。しかも私と同じ出身(氷見)の同級生。久しぶりに自分を熱くさせてくれるやつが現れた。
 
■ JSSランキング1位と第1シード
 JSSの大会、Sぶぅやむーさんと組ませてもらったおかげで、横でテニスをしているフリをするだけでJSS男Wランキング1位になってしまった。
 さらに、シングルスの大会では生まれて初めて第1シードというものをもらってしまった。「よし、第1シードだからカッコいいテニスしなくっちゃ」と余裕を見せてたらボコボコにされちゃったよ
 
■ mtcの最後
 なぜ解散したかなんて一言では言えない。サークルをまとめていた人が来なくなったり、結婚、試合、単なる気まぐれ等の個人の都合で集まりが不安定だったり、新人が入っても旧メンバーが歓迎しなかったり、文句言ったり
 それじゃぁ、俺が行ってがんばらなきゃって秋まではほとんど毎週行ってたけど強い人なんてあまりいないし、好きな女の子がいるわけでもない、ただ、あまり意味の無いテニスをして、おしゃべりをしてただけのような気がする。
 たぶん私自身も解散原因の1つなんだろう。解散する時はこういった雰囲気になっていくんだと思う。
 
■ I社全社大会、2部だけど団体、個人優勝!
 6回目の挑戦でやっと念願の全社個人戦に優勝できた。20代での達成は本当に嬉しい。これで2部には何も思い残す事なく1部でテニスができる。
 大会前からみんなに「絶対、優勝する!」って言ってたし、I社全社大会が今シーズン最後の試合だと思って多少肩が痛くてもこの日の為に練習してきたから試合の内容はどうであれ、ホッとひと安心。
 だから、全社が終わったら肩を休ませようって考えてたのに、たまたまお誘い等が多くてしちゃったんだよなぁ、やめときゃいいのに
 
■ ホームページ作ってよかった〜
 このホームページを作ってから、ときどき知らない人からメールが来る。「どこかサークル紹介して!」「○○教えて!」などとなると、正直、返事を書くのがめんどくさい。おまけに試合なんかに出場すると「あの人ほりたじゃない?」なんて興味半分に見に来たり、話かけられたり、いい迷惑である。いい事なんて無いのだ。
 ある日、とあるサークルから「練習試合しませんか?」等のメールが何度か届いた。そのメールの人に会ってみると、自分好みのめちゃかわいい女の子!この時だけは初めて「ホームページを作ってよかった」って思った。
 
■ ある意味最後の県大会
 県室内シングルス選手権、この大会は自分にとっておそらくある意味(事情は書けないが)とても大切なものだった。7:40に会場入りして、まだ誰も来ていない体育館に1人でネットを張ってサーブ練習をした。しかし、私の初戦は16:00過ぎで...これはまあいいんだけど、その試合が始まってすぐにガットが切れて、残りは5年前に買った遠藤愛モデルの短ラケットしかなくて
 ラケットのせいじゃなくて自分のせいで負けたんだけど、もう少しちゃんと試合して、何よりも勝ちたかったよ。なんか、とても悔しくて情けなくて落ち込んだよ。
 
 
2002年
■ 富山県テニスランキング99位
 毎年、春頃になると前年度の成績を元に県のテニスランキングが発表される。自分の成績は2試合出場で99位だが、内容は全部デフォ(不戦勝)でもらったポイント。恥ずかしながら...でもこれが実力だもんね。シングルスってホント苦手、学生時代からテニスしてる人はシングルスのほうが得意みたいだけど、社会人になってから始めるとシングルスの練習してるサークルとかスクールってなかなか無いもんね〜、なんて言い訳してる自分が情けない...
 
■ 仕事漬けで、ぼーっ
 年始から5月まで久しぶりに仕事が忙しくて、毎週末がプログラムの納品日で土日は会社で待機したり徹夜が続いた。エアーズには月に1、2回しか行けなくて、どうしてもストレス発散に行きたい日に急いで車を飛ばして事故ったり、仕事後の夜中にぼーっとして点滅信号を一時停止しなくて警察に捕まったり、残業代はほとんどそんなくだらないことに消えていった。
 仕事の内容や仲間は好きだったが、なんか、ぼーっとした仕事、仕事の日々が過ぎていった。
 
■ みんなが上手くなっていく
 私が仕事をしている間に、周囲のテニス関係の知人とかはどんどん上手になっていく。私は心の中で「俺はあんたらみたいにテニスばかりできる、お気楽もんじゃないのさっ」とか「テニスしてる暇があったら、俺みたいにちゃんと仕事しろ!」なんて思ってたけど結局は負け惜しみなんだよね。
 弱いやつが悪いんだって思う反面、月に150時間残業したら疲れてテニス出来ないよってあきらめもあった。でも、何を言っても試合で負けたら負け犬の遠吠えだね。
 
■ ナイターテニスでボールが見えない
 ミッドナイトテニスサークルに参加させていただいたが、会社が終わった後ナイターでテニスしてもボールが見えなかった。前はこんなことなかったのに、ここのところの残業続きで相当視力が落ちたと実感する。コンタクトレンズを買ってみたが慣れてなくて、涙は出てくるしレンズはずれるし...
 
■ 体重70kg超、ダメダメ人生まっしぐら
 テニスの試合に何回か出たハズだが、結果がどうだったのか、覚えてないということは勝った覚えがないということだ。テニスやっても勝てないし、おもしろくなくて、休日は家でごろごろするのに慣れてしまって土曜は食べ放題の店でやけ食い。
 こんなことしてたから体重が70kg超えて、ダメダメ人生まっしぐらという感じだった。
 
■ I社テニスコートが駐車場に
 平日デスクワークして、土曜に会社のテニスコートでめいっぱい体を動かす。自分にとっては世界で一番大切なI社テニスコート。たくさんの出会いがあって別れがあって、炎天下の日も小雨の日も、土曜は朝から日が暮れるまで練習したなぁ...
 そのテニスコートを駐車場にして社員から駐車料金を取るそうだ。土曜日に仕事しているビルの横でテニスしているのが気に入らないとか、会社の近くに駐車場がほしいという話をちらほら耳にした。署名活動でもしようかとも考えたが無駄なのでやめた。とてもくやしい。
 
 
2003年
■ 金沢へ引越し
 上司に金沢の某有名会社のO社で仕事してみないかと言われ、はっきり断った。だが、命令だと無理やり行かされる。前々からそうだが、この頃から特に自分の会社が大嫌いだった。3ヶ月だけという話だったが帰ってこれるわけがない。事実そのとおりだった。
 この頃、富山のI社テニス部メンバーかなぴー、のじのじ、ほんほんも各地に転勤になり現在2006年秋時点でもまだ富山に帰ってくる気配はない。
 私の金沢の住まいは海の近くの10畳部屋の最上階、水道、電気代会社持ちと、会社に対してわがまま言い放題言ったがあっさり通った。そんなに自分は期待されているんだろうか?なんて勘違い。
 
■ O社で仕事、なんかハゲた?
 O社で私の上司というか、同じ仕事をすることになったやつやつさんはとても親切にしてくれた。あと、口は悪かったけど毎日のように一緒に株の話をしたり、課長の悪口言ったり、波田陽区のマネしたり職場を楽しくしてくれたみつみつさん。その他のみなさんもとてもいい人ばかりで、今思えば、あそこにずっといればよかったかもと思ったりもする。
でも、この頃は「なんで本人が嫌がってる仕事ばかりさせるんだ」とイヤでイヤでしょうがなかった。O社に対してではなく自分の会社I社に対して。
 あと、なんか急にハゲた気がする。ストレス?いや、単にじじいになっただけ?アデランス無料診断に行ってみたり、この頃、毛生え薬「リアップ」は私の必需品だった。
 
■ 金沢のI社テニスサークル
 I社の金沢営業所でテニス部に誘ってもらった。飛びぬけて上手な人はいなかったが、自分と同じくらいのレベルが3人いて、楽しんでテニスするにはちょうどよい環境だった。
毎週土曜日、石川県内のいろんな場所で練習した。朝から夕方まで、疲れて足がツルくらい、とことんテニスしてストレス発散してた。このテニス部があったから金沢の生活が楽しかったし、仕事関係とかつらいこともノイローゼにならずに乗り越えられたと思う。
 
■ レベル下がった?
 テニスの試合にちょこちょこ出場し、そこそこ勝てた。ただ金沢テニス部のみんなにいいところを見せたかっただけだったんだけど、練習量も多いし、やる気になれば結構、勝てた。というか、富山のときと比べると県や市などのレベルの高い大会には出なかっただけかもしれない。
 むーさんが久しぶりに富山から遊びに来てくれてテニスして、ボコボコに負けたとき、あれ?もしかしてレベル下がった?ぬるま湯につかってるだけ?とも考えたが楽しけりゃよかった。
 
■ 金沢もんはみんないい人だ〜
 富山でテニスしてた頃に出会った人たちとでも、試合に出れば金沢でもよく会う。こういうところで会うとなおさら懐かしいと感じるんだろう。
 金沢でテニススクールのコーチと試合会場で会ったり、交流戦したり、試合のメンバーが足りなくて組んでもらったり。テニスをしているだけで本当に多くの人と出会える。
 なんとなく感じたのが、金沢の人って富山の人より性格が良い。自分も含めて、富山の人は疑り深い、自己中ぎみ、思いやりが少ないか...東京にいたときも感じたが他県に行って始めて富山の良い所、悪い所が見えてくる。
 
■ 失恋
 こんなに人を好きになるのは何年ぶりだろう。この頃なぜかわからないけど好きで好きでたまらない人ができた。相手には彼氏がいて、自分は何もできないんだけどじっとしてれらなくて、告白したけどフラれて、でも、とにかく会いたくて、少し話しするだけで幸せ。完全に病気だった。半年くらい顔を会わせないようにして無理やり忘れた。
 1年程して、その子の結婚の話を聞いて、またブルーになったけど、そのときは結構早く復活できた。
 
 
2004年
■ 激痩せ、2ヶ月で−14kg
 一番太ってたのが金沢に来た頃で78kgくらいあった。で、64kgまで2ヶ月くらいで落ちて、あらら体が軽い。一日中テニスして家帰って、疲れてそのまま何も食わずに寝て  風邪ひいて、毎日好きな人のこと考えて、食欲なくて、それが慣れてくると一日1kgずつ痩せていく。食べないと毎日のように体重が減っていく
 
■ ボクシングジムとテニススクール
 
 
■ 苦しい時は考えないのが一番
 
 
■ 父が病死
 
 
■ スクーバダイビング
 
 
■ 富山に戻って...
 
 
 
2005年
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