キナバル紀行












2004年6月21日〜28日

キナバル登山への準備

 キナバルとは麓に住むドゥスンの人たちの言葉で「先祖の魂が眠る山」という意味だそうだ。 彼らはキナバル山を祖先の霊が眠る場と考えている。 この山にむやみに登ることは、山のスピリットを汚しタブーを破ることになり、 山の怒りを買い天罰が下ると考えている。 1851年にイギリス人のヒュー・ロウがキナバル山に登った時には、山腹に地元民と共に生贄をささげ、 山への鎮魂の祈りを唱えたと伝えられている。 その場所は現在のパナール・ラバン(生贄の地の意味)とされている。 今でも年に一度白いにわとりと7個のたまごを生贄としてささげているという。
 通常キナバル山には生贄の地の近くのラバン・ラタ(平らな場所の意味)付近の山小屋に1泊して 山頂を目指す。初期の登山はこの少し下にはあるパカ・ケイブという洞窟に泊まり、 山頂を目指したようだ。 (注:ロウズ・ピークはロウの名が付いているが、ロウはロウズ・ピークには登頂していない。)

キナバルの岩峰群  5月中旬、かっての山仲間のKにキナバル山を登ろうと誘われた。 Kは日本にない高さを経験したいようだが、私は特に登山としての魅力を感じていた山ではなかった。 ただ熱帯雨林地区にあることからの特異な植物相や山頂付近の花崗岩帯は 一度この眼で確認したいと思っていた。 本多勝一氏の「60歳の記念に登った山山」の紀行を読み、興味深い山だと認識していた。 観光を兼ねてのんびりと行ったら面白いのではと思い同行を承諾した。
 Kは面倒を避けるために日本国内の旅行社による手配旅行を考えていたようだった。 調べてみると山小屋の予約だけをクリアーできれば、旅行社を通すメリットはないと思えた。 旅行社を通さず、すべて自分で直接手配する旅行とした。
 山小屋は予約制で、満員の場合は登山自体が不可能になるシステムとなっている。 予約はインターネットでできるようになっている。 しかし打てば響くという対応ではなく、また相手の事務ミスもあり、 最後は電話で確認するということになってしまった。 観光は現地で決めることにして、白紙で日本を出発した。

 成田からの直行便でサバ州の州都コタ・キナバルに夕刻に着く。 翌日は旅行の確認・準備と市内観光にあてた。 当初の計画では着いた翌日にキナバル山麓に向かうつもりだった。 しかし山小屋の宿泊状況から1日ずれた計画となった。 結果的には当初の予定だったら悪天候下での登山となったので、幸いだった。
 朝一番でコタ・キナバルにある予約手続きをするキナバル・ネイチャー・リゾートの事務所に行く。 予約は支払いが済んで完全となるのだが、クレジット・カードでの支払いが済んでいなかった。 すぐに手続きをして、これで安心して山に向かえることとなった。 キナバル・ネイチャー・リゾートの事務所が入っている建物は旅行社が軒を連ねている。 下山後ロングハウスを訪ねたかったので、ツアーを催行している会社を探した。 そのうちの一社が親切に対応してくれて、帰国日にツアーを組むことができた。 また島にも行ってみたいと思っていたが、日帰りの場合は特に予約がいらないことが解った。

博物館の文化村  このあとキナバル公園までのバスの切符を購入し、食後に州立モスクと博物館とを見学した。 博物館の敷地は広く、ルングス族のロングハウスの様式に似た本館、サイエンス館等の施設と 文化村等から構成している。 文化村ではサバ州に数ある民族の特徴ある建物を見ることができる。 ほとんどが竹を主材料に使ったいかにも熱帯に適した建物である。

 コタ・キナバルには大きなモスクが二つある。 もうひとつは市立モスクで市の北はずれにあり、こちらの方が規模が大きい。 州立モスクは現在的なデザインでドームは金色である。 一方市立モスクは白亜の建物群からなり、周囲に大きな池があり、 水に浮かぶような様式となっている。


キナバル登山口まで

 バスはコタ・キナバルを30分ほど遅れて出発した。 このバスは東海岸の都市サンダカン行きでほぼ満員であった。 途中下車のために、行き過ぎないように車掌にキナバル・パークに着いたら 教えて欲しいとしつこく頼んでおいた。 道は広くバスは高速で走る。 曇りがちの天候でキナバル山は雲の中だった。 バスは途中乗客をひとり拾い、1時間半で公園入口に着いた。

宿泊したヒル・ロッジ  バスを降りると斜面の上に写真で見た公園事務所が見えた。 坂を少し登ると公園のゲイトがあり、その脇が事務所となっている。 ここで翌日の入山に必要な諸費用を支払う。 いろいろな名目で宿泊費以外に5千円くらいかかる。 マレーシアで最初に登録された世界遺産を守るための必要経費と思い、 ここはすなおに支払う以外に方法はない。 園内には様々なタイプの宿泊棟と二つのレストランが点在している。 我々の宿泊は公園のはずれにあるヒル・ロッジというツインベット・キャビンだった。 八角形のいかにもリゾート風の建物が連なるロッジで、前には熱帯の花が咲き、 その先には上部をわずかに雲に覆われたキナバル山の岩塔群が眺められた。

トレイルで見かけた花  午後は園内にあるトレイルをハイキングする。 のんびりと散策するつもりだったが、 いかにもすぐにスコールが来るかのように暗い雲が迫っているので、つい早足になってしまう。 昨日も夕方にスコールがあったように、午後は雨に会うのを覚悟しなければならないようだ。 トレイルはよく踏まれていた。 高木が密集していて光は道まであまり届かない。 樹木はひょろ長く光を求めて上へ上へと伸びて、最後に樹冠で多くの葉をつけている。 いったん舗装路に出て、沢に沿った暗い道を辿るとレストランの近くにでた。 レストランに着くとやはりスコールがやって来た。 早く歩いて正解だった。 レストランには簡単な資料館が付属している。サバ州の自然に関係する写真が主である。 目を引いた写真に空中で咲くラフレシアの写真があった。 こんな花が見れたら感激するだろうと思うが、短期間の旅行ではまず無理だろう。 これらの展示は登山前の予備知識として有益であった。

 翌朝、7時の受付開始に間に合うように事務所前のレストランで食事をする。 客は我々二人だけだった。 ガイド窓口でIDカードの交付を受け、ガイドを紹介される。 登山中はIDカードを首に掛けることになっている。 ガイドは簡単な英語単語が解るLという近くの村に住む男だった。 IDカードはもちろんNo.1とNo.2で、我々二人とガイドの3人で送迎車で登山口に向かう。 公園の標高は1560mで、登山口のある発電所前の標高が1860mである。 発電所前の門をくぐり、しばらく行くとゲイトがある。 ここでIDカードを表示すると鉄扉を開けてもらえる。掟破りができないシステムである。 ここから山頂までは標高差2200m、富士山御殿場口と同じくらいの標高差である。 今日はここからラバン・ラタ小屋(3352m)までの標高差1500mの登りである。


ラバン・ラタ小屋へ

 ゲイトから少し下ると小さなコルに出る。 右に山腹を巻くように進むと尾根状になる。 道幅は2mくらいと広い。 風化泥岩の山道で、急な場所は階段となっていて非常に歩きやすい。 歩き始めたのが7時半。下山者もまだ降りてこないだろうし、 後続の登山者も来ないので、しばらくは静かな登山ができそうである。 左手は道をつけるために斜面を削っており、 湿気を持っている斜面となっていてコケむしている。 鎌倉付近の山のような雰囲気を感じた。 右手はうっそうとした樹林で、ヤドリギが目立つ。 30分ほど歩くとシェルターと呼ばれる東屋があった。 未処理水と書いてある水タンクがあり利用できる。そしてトイレがある。 このようなシェルターがほぼ1キロ間隔であった。 はじめは2箇所を歩いて休憩のペースが、 早く着いても仕方ないと思い、1箇所ごとに休憩になった。 道端には小さな花をつける低木が目に付く。 花をつけたシャクナゲも見かけた。 1時間半歩いてマシナウ・リゾートからの道が合流した。

ウツボカズラ 行く手にキナバル山が  マシナウ分岐から30分ほど歩いた地点で、道から少し入った斜面で 食虫植物のウツボカズラ(タンコラタ)の群落があった。 ガイドに教えられなければ気がつかないような場所である。 ウツボカズラは思ったより大きく、中にはひんやりする水を満々と湛えていた。 このあたりには多くの種類のウツボカズラがあり、 コタ・キナバルの大学で教える日本人のクラタ教授はキナバル山で新種を発見し、 それにはNephentes Kinabalu Kurataと彼の名がついているそうである。

 この少し先から高山の様相を呈してきた潅木の間からキナバル山の岩峰群が見え出した。 このころになると下山者や山小屋の食料を背負ったポーターたちに会うようになった。 このあたりで地質は泥岩から花崗岩に劇的に変わる。 そして風が強くなり始めた。
宿泊地ラバン・ラタ小屋 植生が高山的になる  やがて最初の山小屋ワラス小屋に着く。 ここからすぐに今日の宿泊地ラバン・ラタ小屋である。 もうすでに高山帯で、背の低い樹木の中に花崗岩のスラブが点在している。 小屋の背後にはパナール・ラバン・ロックフェイスと呼ばれるのっぺりとした岩壁がそびえている。 小屋には昼ごろ着き、チェック・インの時間(1時)まで食堂で時間をつぶした。 部屋は2段ベッドが2組ある4人部屋だった。 カギをもらうに100リンギット(300円)の保証金が必要だった。 宿泊者はマレーシア人が大半だった。日本人は我々だけだった。 部屋で落ち着いてから、付近を散策した。 始めて見る植物に興味深い時間が過ごせた。
 夕方から風が非常に強くなり、建物がゆれるような強さになり、霧に包まれた。 部屋にはヒーターがあるが、暖房が効くまでは寒く、持っている服をすべて着た。 暖房が効きだすと、2段ベッドの下段はともかく上段は暑く、 こんどは毛布が不要なくらいになった。 夜になると風は強いままだが、星が見え出し明日への期待がもてるようになった。


ロウズ・ピーク登頂

ドンキー・イヤーズ  ガイドと3時出発を約束したので2時に起床する。 風は相変わらず強く、星も見えない。 3時山小屋出発がキナバル登山のセオリーになっているので、食堂は2時から開いている。 こんな早朝に食欲はないだろうと、日本からKが持ってきたカップラーメンを食べる。 お湯は食堂で買える。 あまり早く出発しても頂上に早く着きすぎ、強風の山頂で待つのは苦痛と考え、 3時半出発とする。

 ゆっくり登れば汗もかかないだろうと、持っている服をすべて着て山小屋を出た。 Kは手袋を公園に置いてきてしまい、靴下を手袋の代用としていた。 昨日と同じように私が先頭を歩いたがルートは明瞭であった。 急な階段には手すりがついていて歩きやすい。 前に転々と登山者の明かりが見え、次々と抜いて行った。 小屋から30分歩くと、岩壁帯となる。 ここからは白い太いロープがずっとフィクスしてあった。 フリクションがよく効く岩である。 風は相変わらず強いが、星が見えるようになり、 麓の村の明かりもよく見え出した。 出発から1時間で最後の小屋サヤッサヤッ小屋に着く。 ちなみにサヤッサヤッとは木の名前らしい。 狭い小屋の中は休憩する登山者であふれていた。 ここには鉄扉があり、IDカードのチェック・ポイントとなっている。

ロウズ・ピーク山頂 セント・ジョンズ・ピーク(4092m)  サヤッサヤッ小屋からはいよいよ花崗岩の一枚岩のルートとなる。 緩い傾斜の広大なスラブはどこでもフィクスロープなしで歩けるが、 1本の白いロープでルートが明瞭になっている。 ラバン・ラタからは目の上にそびえていた特徴的な岩峰ドンキー・イヤーズ(4054m)が 右手に見えるようになり、高度をかせいているのが解る。 左手のキナバル・サウス(3932m)を高さで抜くと、 左手前方にセント・ジョンズ・ピーク(4092m)が見え、 その右手に目指すロウズ・ピーク(4096m)が始めてその姿を現した。 やっと周囲が明るくなりだし、ライトを消した。 奇怪と表現していいようなピークが多いキナバル山のなかで ロウズ・ピークは端正な三角形をした岩峰である。 ルートは左手の傾斜の緩い斜面から登るようにとられている。 最後はスラブではなく、割れ目の多い岩をロープに導かれて登る。 そしてキング・ジョンズ・ピーク(4066m)の左手の空が赤く燃え出した。 頂上に着いたのは5時55分。ちょうど日の出の時間だった。 ただ日の出の方向は雲が多く、美しい日の出という景色ではなかった。

 頂上は岩を積み重ねたような場所で、山頂を示す看板があった。 登ってきた斜面の反対側は深いギャップとなっていて、まだ暗いままだ。 狭い頂上に着いた時、頂上を示す標識の前は人であふれていた。 人をかきわけて頂上での証拠写真を撮り、少し下った場所で休憩した。 そのうちに頂上には人がいなくなり、再び頂上に登り写真を撮りなおした。
背後はロウズ・ピーク 前方にドンキー・イヤーズが 傾斜のゆるいスラブが続く
 30分ほど頂上にいて下山を開始した。 キナバル山は4000m前後の多くのピークを有している山である。 初期の登山者はどのピークが最高峰かが解らずに登っていたようだ。 日が昇るにつれて、ピークの頂上付近から陽があたりだし、 徐々にその面積を増す様子を楽しみながらの下山である。 平らな花崗岩はロープなしで前向きに歩いて歩ける傾斜である。 ところどころの小さなくぼ地には水がたまり、 中には池と言ってもいいようなものもある。 氷が張っている水溜りもある。 氷河によって削られたとのことだが、氷河削痕には気づかなかった。 降りるのがもったいないような場所だが、 快適に歩けてしまうので、ついついどんどん下ってしまう。 一度ガイドに「ロープを掴め」と言われた。 ガイドは言葉が解らなかったので、会話もせずに黙々と後からつまらなそうについて来るだけだったが、 この山行中で唯一ガイドらしい言葉だった。 サヤッサヤッ小屋まで50分の下りだった。 ここで少し休憩して、ゆっくりとラバン・ラタ小屋に下った。 遠くにはマレーシア第2の山(トラスマディ2642m)と第3の山(タンブヨガン)が霞んで見えた。 どちらも登山道があり登られているそうだ。 ちなみに第4の山はボルネオではなく半島部にあるそうである。

ワキッを背負うポーター  ラバン・ラタ小屋のチェックアウトは10時半である。 部屋に置いていった荷物を整理し、遅い朝食をしチェックアウトした。 小屋を出るころには風も弱くなり、やっと暖かくなった。 1500mの下りは膝をいたわるようにゆっくりと下った。 下るにつれて日差しが強くなって行くのがよく解る。 続々と登山者や荷物を運搬するポーターに行き会う。 ポーターは女性が目立つ。 時々WAKIDと言う竹製のかごを背負う人を見かける。 ちょっとネパールのドッコを思わせる。 WAKIDはミニチュアが土産となっている。 竹製以外に木の皮を使ったものもあるようだが、山では見かけなかった。 また竹を編んだ背負子を使っているポーターも見かけた。 ラバン・ラタ小屋から2時間45分で登山口に着き、 ちょうど登って来た送迎車で公園に戻った。


ガヤ島

 昨日はキナバル公園でKと別れ、先にバスでコタ・キナバルに向かったが、 土砂崩れによる道路遮断で12時間もバスに閉じ込められてしまった。 私がコタ・キナバルに着いたのは翌日の早朝。 Kの乗ったタクシーは事前の情報で迂回路を取ったために、 Kは当日の夜にはコタ・キナバルに帰ることができた。 ホテルに先に出発した私がいないために、Kは大いに心配したらしい。

 そのような事情のために朝が遅くなり、昼ちかい便でコタ・キナバル対岸のガヤ島に渡った。 ガヤ島はビーチリゾートとなっているが、私たちのここでの目的は海ではなく、ジャングル・ウォークである。 いろいろな高さでの樹林を肌で感じてみたかったからである。

ジャングル・ウォークの出発地点  まず少し離れた岬まで船で移動する。 そこはガジュマロがきれいな砂地に生えている場所で、入場料をとられた。 すぐに山に入る。 穏やかな道を予想していたが、いきなりロープが張ってある急登である。 ここからも坂道が続き風が通らないジャングルは非常に蒸し暑い。 すぐに海辺の涼しさが恋しくなってしまった。 道は落ち葉で覆われ、思ったほど下生えが少ない。 たくさんのトカゲを見たが、後で聞くとイグアナらしい。 茶色と緑の2種類がいるそうだが、私たちは茶色のものしか見なかった。 ところどころにふた抱えもある大木があるが名が解らないということは残念だ。 アリ塚もところどころにあったが、アフリカにあるような大きなものはない。 単調でコースの半分も歩かないうちに、暑さでうんざりしてしまった。 登山の疲れを癒すために来た島だったが、苦痛の道となってしまった。 リゾート施設をほぼ半円形に尾根をたどり、やっと樹間に出発地の海岸が見えてきた。 最後は少し広くなった道を下るとやっと海に出た。 4K、2時間半のハイキングだった。 海辺のウッドデッキに座り、冷たい水を飲んでいるうちにやっと汗が引いてきた。


ロングハウス訪問

ルングス族の男女  キナバル登山の後でどこか山岳民族を訪ねたいというのが出発前からの二人の願望だった。 選んだ旅がボルネオ北端にあるクダットという町の近くに住むルングス族のロングハウス訪問だった。 様子が解らないために現地の旅行社にツアーを組んでもらった。 代金を払った先は旅行をお願いした会社ではなくレンタカー会社だった。 デスカバー・ツアーという会社にはいろいろと親切に対応してもらいよい印象を持った。

 目的地まで車で3時間ということで8時にホテルに迎えの車(トヨタ・ハイラックス)が来た。 なんと我々二人に対しガイドが二人と運転手の豪華な布陣である。 二人のガイドはカーキー色の上下のいかにもネイチャーガイドといった服装で現れた。 ガイドは中国とマレーの混血の25歳の男で、非常に解りやすい説明をする有能なガイドだった。 もう一人はドゥスン族の23歳の男である。 彼は正式なガイドではなくまだ見習いで経験を積むために同行しているようだった。 キナバル山でのガイドと同じ村の出身で、一生懸命さがにじむでていた若者だった。 実はキナバル山でのガイドは英語がほとんど話せず、いろいろな話を聞くことがてきなかった。 登山の部分での伝説や地名の意味等のウンチクは、ほとんど見習ガイド君の話である。

コタ・ブルのタムー  車は水田地帯を進んだ。水牛を多く見かけた。 ドゥスン族の男は結婚する時には花嫁側に水牛10頭を贈る必要があるそうだ。 私が見習ガイド君が独身と聞いていたので「今水牛を集めているところですか。」 と言って大笑いになった。

 1時間ほどでコタ・ブルの町に着いた。この町はバジョウ族の町でカウボーイとタムーで有名である。 タムーとはもともとはmeeting placeという意味で、 海の幸と山の幸が物々交換する市を指すようになったとのことである。 堺誠一郎著「キナバルの民」は北ボルネオの日本占領時代にキナバルの麓を旅行した記録だが、 コタ・ブルのタムーを週一度開かれる市として記録している。 当時は山の民と海の民との貨幣を介さない市だったようで、 著書のなかでは生き生きとした様子が描かれている。
 今ではタムーはサンデー・マーケットと呼ばれている。 たまたま今日が日曜日で、予定にないタムーを見ることができた。 タムーは公園のような広場にテントを張った店が並び活気を呈していた。 野菜や果物の食べ物が主で、生活雑貨の店も多い。 この点は「キナバルの民」時代とそう変わらないようだ。 珍しい食べ物が多く、ガイドの説明を受けながら広場を一周した。

ルングス族のロングハウス  クダットに近づくと道路の両側は一面のヤシ畑となった。主にパーム油をとるためという。 目指すロングハウスはクダットの少し手前の幹線から離れた場所(ババンガゾ)にあった。 ルングスの人たちはロングハウスと呼ばれる家に大家族で今でも暮らしているが、 伝統的な作りのロングハウスは非常に少なくなっているらしい。 周囲には様々な果物が実るのどかな場所にロングハウスはあった。 ロングハウスは竹で作られていて、片側には個室が並び、その前は廊下とオープン・スペースになっている。 女性は部屋で寝て、男性はオープン・スペースに寝るそうである。 竹の家は壁も床も適当な隙間があり、風がよく通り座っていると心地よい涼しさである。

 ここでウエルカム・ドリンクのサービスがあったが、なんとココナツ・ジュースである。 村の周囲は一面のココナツ畑である。新鮮なココナツは生ぬるいがおいしかった。 割合量が多く、Kは飲み残していた。 そして竹の床に座り、竹のテーブルで地元料理の食事となった。 野菜を中心とした料理は味が濃くなく食べやすかった。 私は量を控えめにしていたが、Kは大食漢ぶりを発揮していた。 珍しいのはバナナの花の煮物であった。 日本のワラビに似た山菜もあった。

ルングス族の踊り、右が男性  食事の後はまず楽器の演奏を聞いた。 鼻で吹く横笛である。 この種族は男女は別々に生活しているために、この笛で恋を語るとのことである。 その次は踊りを見た。楽器は金属製の打楽器(どら)である。 3個の違った音程のどらを一人で演奏していた。 彼らの服は黒を基調として、色鮮やかな刺繍を施し、赤を多く使った帯でアクセントをつけている。 男性の方が女性より色鮮やかな服装をしていた。 最後に竹踊り(バンブーダンス)を見た。 竹を動かすのは男性、飛ぶのは女性と決まっているそうである。

煙で蜂を燻りだしている  この後、ゴンビゾウ村に養蜂家を訪ねた。一つの村に一つの産業の政策の一環と聞いた。 養蜂箱はゴムの木の林の中にあった。 女性がヤシの実を燃やした煙で蜂をいぶり出しみつを取り出して見せてくれた。 ゴムの木は1本に1箇所皮を剥いた場所に小さな缶がつるされ、缶には白い液体がたまっていた。 その昔イギリス人がブラジルから門外不出の天然ゴムの苗を密かに持ち出し、 マレーシアのプランテーションで栽培した。 そして天然ゴムは合成ゴムの登場までスズと並ぶこの国の主産業だったこんな歴史を思い出させた。

 帰路には途中で猛烈なスコールがあった。 すぐにスコールは止み、日差しが戻ってきた。 キナバル山の好展望地の川に立ち寄ったが、キナバル山は相変わらず雲の中だった。
 これで今回の旅行はすべて終わった。 そしてこの日の深夜便で帰国した。

(カーソルを写真に合わせると説明がでます。)



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