【 第6章 La Marionetta 】
「……あっ!」
長い上り階段を無言で歩いている途中、ふと何かを思い出したようにクレアが驚いたような声を出す。それに驚いた一同の足が止まった。
「どうしたんですか?」
「私、藤原さんの荷物をずっと持ってたんだった! 今返すね」
「ああ、クレアさんが持ってくれていたんですね。すみません。ありがとうございます」
「藤原さんの笑顔でみんなも笑顔になるからね。これから気を付けてね」
クレアはそういうと、ずっと脇に抱えていた藤原の荷物を持ち主に返した。
しかし、藤原はいつその荷物を失くしたのかを覚えておらず、返されたとき、不思議そうな顔をしていた。クレアもその顔に気付き、少し戸惑う。
「(……どこで落としたんだろう?)」
「(やっぱりこの荷物は藤原さんのなんだよね……。
でも、帰ってきてくれた。黙っておこう)」
彼を悩ませるよりも、また一緒にいられることを喜ぼう。
そう思ったクレアは「藤原が一度死んだ」ことを言わないと決めた。再び作り直した笑顔で全員で歩き出す。
「あれ、俺の荷物はどこだ?」
藤原とクレアのやりとりを見ていた大鬼が、いつも自分に肩からかけていた荷物が無いことに気付いて慌てる。それを見た霧島は自分から肩からかけていた大鬼の荷物の紐を外す。
「あ、大鬼さんの荷物はここです」
「ああ、霧島さんが。ありがとうございます……」
大鬼は自分の荷物を受け取って一安心する。しかし、大鬼の「どこで霧島さんに預けたのだろう」という疑問が口に出されなくても誰もが見て分かった。
「そう言えばさっきの指輪誰がはめます??」
藤原は自分の荷物を受け取った後で、思い出したかのように指輪のことを話題にした。指輪を見つけ出したクレアが一番ではないかと思い、お世辞と合わせて話し始めた。
「やっぱりクレアさんですかね? 女性が一番似合う」
「あら、本当? うれしいね」
クレアは藤原から「女性」と言ってもらえて、お世辞でも嬉しいのか、左手で頬に軽く触れた。
今のクレアは顎が少し角ばったぐらいで、さほど姿恰好は元の女性のときと変わっていない。が、もしかすると藤原自身よりも声が低いかもしれない。
「指輪」、「女性」というふたつのキーワードから、自然と視線が霧島の方へと移動していた。それを見ていたクレアは笑いながら藤原の背中に叩きこむ。
「藤原さん、目が泳いでるヨ!」
「いてっ! もう。何するんですかーハハハ」
「ハハハッ」
「でも、霧島さんにも合いますよね、きっと」
「うん! そうだね」
荷物を返し終わった霧島は腰にぶら下げている自分の銃器を見て、少し眉をひそめる。先ほどの【宝の扉】で弾づまり(ジャミング)させてしまった状態のままでは使い物にならない。
「(やはり、直すなら今しかない。)」
先ほどの治療で十徳ナイフを使っていたマルクスに声をかける。
「マルクスさん。できれば十徳ナイフをお借りしたいのですが……いいですか?」
「うむ、問題ない」
マルクスは霧島の頼みを快諾して、彼女に十徳ナイフを渡す。
「ごめんなさい……」
「よかったら手元明るくしましょうか?」
周りも気を遣って、修理がしやすいようにライトをつけたり後ろに転げ落ちないように立ったりした。が、さすがに片手での修理は無理であると霧島は思い至った。
「……ダメか(流石に片手だと……)」
「ふむ、ジャミングさせたのか」
「はい……。先ほどの戦闘でジャミングさせてしました」
それを見たマルクスは、自分がアメリカ軍に所属していたときに扱っていたライフルと同じ要領で、軍にいたときに見て掴んだ“勘”で直せないかと思い立った。
「ふむ……見よう見まねになるがやってみよう」
「マルクスさん、すみません」
霧島は申し訳なさそうにそういうと自分の拳銃をマルクスに渡す。
受け取ったマルクスは銃口を人のいない方に向け、銃身を注意深く見回した。スライド部分に日本を象徴する花、桜の刻印が薄暗いこの場所においても妙に目についた。
気を取り直して改めて見る。スライド部分に空薬莢が詰まって起こるストーブパイプジャム―よく映画でも漫画でも描かれる弾づまり―を起こしているわけではなさそうであることは分かった。
「(となると、面倒な方だ……。)」
フーディングジャム。弾が薬室に行く途中で引っかかったり、二重装填したりしているのではないか、そうであると自分でどうにかなるものではないかもしれない。とまでは分かった。
原因は、片手だけで撃つしかないからスライドやコッキングレバーが十分に引くことができずに起こったのだろうと想像は容易くできた。
「(ライフルであればまだなんとかなっただろうが……自分の知らない得物では……。)」
普段扱わない拳銃相手では、ますます自分で対処できるジャミングではない。ヘタに触って暴発しては元も子もない。
マルクスは軽くため息をついて拳銃を霧島に返した。
「すまない……。私では難しいようだ」
「いえいえ、元々私がしたことです。気にしないでください。あ、ナイフありがとうございました」
「うむ」
霧島は拳銃を受け取り、マルクスから借りたナイフを返した。
ずっとそばでそのやりとりを見ていたクレアは、やはり漫画のように簡単にジャミングが直せるものではないのか、ということを理解した。隣にいるリネットの頭をそっと撫でながら話す。
「やっぱり、銃は漫画で読んでるだけじゃよく分かんないなあ」
「その通りだ。ブラッ○ラ○ーンを観ているだけでは、二丁拳銃など撃てるようにはならないぞ」
「そうですね…しっかり訓練もしないといけませんし」
「ブ○ック=ジャッ○見てても手術はうまくならないのと同じだね」
「そうですね。やっぱりその人の経験がものを言うと思います」
「………ふふ、ふふふ……」
三人でそんな会話を繰り広げていたとき、次の部屋を覗き込んでいた藤原がひきつったような声で笑っていた。それに真っ先に気付いた大鬼が藤原に駆け寄る。
「ふふ……。きっと、あれは幻だよね。……はは。疲れてるんだよなぁ、色々あったし」
「藤原さん! なにがあったんですか!」
「え? 何もないですよ? 早く行きましょう」
「そ、そう?」
「そうか……」
藤原は心配されるも、自分が見たものはきっと幻だと、信じてやまない。
誰もがしっかり時間を取って彼を診たいと思ったが、後ろから迫ってくる水は階段の中ほどまで溜まってきている。少しずつ上へと進んでくるその水面は、まるで「早く進め」と無言で向かっているかのようだった。
「……では行こう。水浸しや溺れるのは御免だ」
「後ろもだいぶ迫ってきてるし、行きましょうか」
「急ぎましょう」
「そうだね。行きましょう」
「はいなのです」
リネットはクレアに手を引かれ、全員が部屋の中に入った。
そこで全員は目撃をしてしまった。
先ほど藤原が「見てしまった」もの。
壁際に転々と置かれた支柱照明により照らされた光景――<天井いっぱいにぶら下げられた人骨やミイラが照らされ浮かび上がっている>惨状を。
それを見て、霧島はかわいく「ヒッ」と声を上げるが、すぐに頭をすくめる。
しかし、霧島と藤原以外の三人は<これが自分たちの行く末なのではと恐ろしい想像をしてしまう。
「なんと……いうことだ……」
マルクスはそれをなおの事、この事実を受け入れてしまう。
「もう、ヤダヤダッ!」
「あ、あ……」
「これは……」
大鬼は心の奥から湧き上がる恐怖に全身が襲われた。その惨状を見て、その虚ろな眼球があったであろう顔のくぼみを見て、いつかぶら下げられるであろう自分の姿を見て。
「……だめだ。もう終わりだ……。俺たちもああなるんだ……」
大鬼はその場で膝を付くとうずくまり、叫び始める。
「いやだいやだいやだ! そんなのはだめだ! いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ……」
「うわあああああああ!」
「っ!? マルクスさん!?」
「だ、大丈夫!?」
クレアの隣にいたマルクスも、この事実を理解してしまったことで今までの理性が吹き飛んだ。頭を抱え、ブツブツ言いながら下向き始める。
「これは夢だ……夢に違いない……お願いだ。早く目覚めてくれ……」
自ら創り出した一人の空間のおかげか、『この現実をシャットダウンする』ということでマルクスは少しずつ落ち着き始める。
「コワイコワイシヌノハコワイイヤダイヤダシタイハイヤダ……」
「皆さんどうしたんですか?」
マルクスと同様に、この現実を受け入れずにいる藤原もまた、彼らを見て口を開いた。
「あれは幻ですよ? 現実ではないんです。怖がることはないですよ」
「タスケテクレ……」
男性陣が恐怖で震える中、霧島とクレアは周りの様子に困惑していた。そのときに聞いた藤原の『幻』という言葉に何かを感じて、口にする。
「藤原さんも……。うん、幻かも……ね?」
恐る恐る上を見ながら霧島はそう呟く。クレアは自分の体の異変と傷を左手で感じながらぽつりと話し始めた。
「これが幻……たしかに、夢だからそうとも言えるかも」
クレアはふと、右手の先にいる少女に視線を移す。
彼女も「夢」の存在でしかないのだろうか?
自分たちの体の一部からできた彼女を恐ろしいこの「夢」の中に置いていくことになるのだろうか?
今まで持ち合わせたことのない心情を感じたクレアはリネットの手を少し強く握る。リネットはその力加減の変化に気付いて不思議そうに赤い瞳を上に向けるが、何か声をかけることはしなかった。
「みなさん……」
色々あったが、藤原はあたりの様子―霧島の悲しそうな眼差しに気付き、冷静さを取り戻し始めた。
「……いや、あれはやっぱり現実なのでは……?」
自分の掌を見て、天井にぶら下がるものを見て、藤原は自分の目の前にあるものはやはり幻ではなかった、という結論に至る。
現実を否定することで心の安定を得たマルクスも自分で動くことができるようになり、今もなお床に伏している大鬼のもとへ行く。
今は一人でも多くの力が欲しい。その一心でマルクスは大鬼の大きな肩を握り、語りかけた。
「大鬼さん! どうか!」
必死な声で肩などを揺さぶるが、ピチピチのギャルの声であったせいか、大鬼には届かなかった。大鬼はまだ床で顔を伏せたまま震えている。
「クレアおねえちゃん……」
リネットの不安そうな声がクレアの足元から聞こえた。クレアは笑顔をリネットに向けて、手を改めて握り直す。
「大丈夫だよ。何があっても一緒だよ」
クレアは周りに危険がないか、天井を見上げた。
ぶら下がっているいくつもの死体。
その中に、カサカサと動く影があることにクレアは気付けなかった。
『それ』は、自分に気付かず見上げている人物を見て笑っているかのように肩を揺らす。狙いを定めた『それ』は、彼女に向かって落ちる。
「え」
1体のマリオネットが天井から落ちてくる。それは色のついていない、顔も描かれていない木偶人形のように見えた。しかし、突然ひとりでに動き出し、その頭部に目があるかのように顔をクレアに向けた。
「っ!!?」
咄嗟に身の危険を感じた。突然動き出したマリオネットの速さは自分では対処できないともクレアは直感した。
ふと、足元にいるリネットが目に入る。リネットも突然のことでなにもできず、立ち尽くしている。
「(せめて、この子だけでも……。)」
クレアは右手を解き、リネットの背中を強く叩くようにして突き放した。
「っ!?」
リネットは突然の衝撃に驚いて振り返る。その視界の先には、クレアの首に足を巻き付けて憑りついたマリオネットが、暴れるクレアをものともせずに糸をクレアの頭部に絡みつける光景があった。
「クレアさん!!!???」
「クレアさん!!」
「クレアさん!!!」
藤原たちもその異常に気付いてクレアの名前を叫ぶ。しかし、誰もマリオネットの動きを止めることはできない。
「っ!!!(くそっ!!!)」
クレアも必死になって自分の顔に纏わりつく糸を外そうとするが、外す速さよりも絡み付く速さの方が圧倒的に速かった。
「まるで……(ポケモンのいとをはく)……だ」
ついには顔が見えないほど糸に覆われ、クレアは微動だにしなくなった。
「(うっ……)」
「クレアおねえちゃん!」
その叫びが、クレアに聞こえた最期の声だった。彼女は自分の意識を手放した。
自分の糸を充分に絡み付けたマリオネットはうつ伏せに倒れたクレアの後頭部にしがみ付く。すると、倒れていたクレアの体はぎこちなく、右ひじ、左ひじと上に引きあがり、胴体を糸で引き上げるかのようにして立ち上がった。その様子はまるで、倒れた操り人形を起こすようであった。人形劇に出てくる人形のように、フワッとした動きでクレアが藤原に襲い掛かる。
「クレアさ、っ!?」
まだ速さがないおかげもあって、藤原は咄嗟に身をかわすことができた。
しかし、目の前にいた人間が人形に憑りつかれた光景を目撃して、しかもそれが自分に向かって襲ってきたのを見た藤原は今まで以上の恐怖を身に感じた。
元は女性であるクレアが自分に向かって襲ってきた。女が怖い。自分と違う性の人間が怖い。コワイ。
血の気が引くのを感じた藤原は、クレアから一歩後ずさり、恐怖を感じた。
「一体、どうすれば良いのだ!」
「分からないけど、クレアさん盾にされてる?」
マルクスと霧島も藤原の後ろに立ってどうすればよいか考えるものの、良い案はすぐに思いつくはずがなかった。
クレアを見てみるが、彼女を操っている本体がどこにいるかまったく分からない。
「これはクレアさんを攻撃するしかない……?」
「ク、クレアおねえちゃんをはなしてです!」
リネットの叫びを聞いて、藤原はハッとしてクレアの糸に注目した。取れそうかどうか見てみたが、分かったのは<マリオネットから伸びた細く長い糸が天井にまで繋がっている>ことだった。藤原は、糸が天井から切れれば良いのではないかと考えた。
「みなさん!! 上です! 上からあの糸は繋がってるようなのでそれを切ればきっとクレアさんは助かります!!」
それを聞いたマルクスは先ほど使った十徳ナイフを取り出した。
「分かった! これで切れるかは分からんがやってみよう!」
マルクスは軍に所属していたときと同じように走り出す。クレアの手前で飛び跳ね、天井からクレアにつながっている何本かの糸を左手でひとつに絡めるとナイフで切った。一瞬、クレアがガクッと動いた。
「やったかっ!?」
しかし、クレアは折れ曲がった膝を真っ直ぐにして姿勢を正すとマルクスに向かって戦闘態勢をとる。マリオネットの糸を切った効果は「全く」なく、引き続きマルクスたちを狙う。
「く! やはり頭のマリオネットか!」
「とにかく押さえつけて顔についてるやつを剥がさないと!」
霧島はクレアに組み付こうとする。が、やはり片手がないとうまくいかず、クレアの左手で弾き飛ばされる。
クレア―に憑りついているマリオネット―はぎくしゃくしながら自分に向かってきたマルクスに拳を繰り出すが当たらない。
大鬼は目の前で何が起こっているか分からないまま、ただ天井の死体たちに怯えていた。
「かえして! クレアおねえちゃんをかえして!」
リネットは離れたところからクレアに向かって変わらず叫び続けていた。
藤原はもう少し糸について調べてみることにした。見ていると時々糸が光に反射しているように見える。しかし、それは金属光沢のものではない。その糸は蜘蛛のような生物由来の糸ではない。ポチエチレン、子どもたちがたこ糸で使っているような人工的な糸であるのが分かった。
藤原やマルクスは糸を切ってもなおマリオネットに操られるその様を見て、脳裏に考えたくないことが過ぎった。
―もう、助けることは『不可能』じゃないのか?
マルクスはその考えを振り払うかのように、マリオネットだけに向かって拳を振るう。しかし、対象が小さいため当てることができない。
「くそっ!」
「(どうすればいい? でも、このままにしたらみんなが……。)」
霧島も悩んでいた。クレアを助けたい。けれどもこれ以上仲間たち(パーティ)を危険にさらすことをしたくない。
『 では……私はどうすればいいのですか? 』
いつかの会話が思い出される。突然の異変で戸惑っていたかもしれないのにも関わらず底なしの明るさを振る舞ったクレアの姿が瞼に映る。
『 みんなを悲しませないためにも、自分のことも大切にすること 』
「(それは、一体どういうことって言うの……っ!)……すいません!」
霧島は自分の全力を右足に込め、クレアの腹に喰いこませる。
「おらぁっ!」
―ぺし
しかし、筋力がない霧島のキックはクレアには響かなかった。それどころか、そのまま足は左手に掴まれる。
「なっ!?」
マリオネットは体の動かし方に慣れたようだった。クレアの左手を後ろに引かせ、霧島の姿勢を崩したところに右の拳が下腹部に深く入る。
「霧島さんっ!?」
「うぐっ……」
「…………」
よろめく霧島を目の前にしても、マリオネットもクレアも何も言わない。
うずくまる大鬼。喚き続けるリネット。
藤原自身も恐怖を感じながら、それでもなお守らなくてはいけないものを感じ、拳を強く握った。
「こわいよ……こわいけど……!! っせーい!」
やはり、小さなマリオネットを相手に狙うのは至難の業であった。藤原の拳は空を切る。
「…………(このままでは埒が明かない。)」
マルクスはマリオネットを狙っているだけでは全体の命の危機が早まるだけだと理解していた。
今、自分にできること。今まで鍛え上げた己の拳をもって、目の前の障害を食い止める。それしかできない。
「(まずは、まずは動きを止めるためだ)」
マルクスは腰を低くして、クレアの鳩尾に向かって拳を突き上げる。
「すまん! まずは動きを止める!」
その容赦ない拳は、普通の人間ならばせき込んだり、最悪気絶したりするほどの威力を持っている。しかし、……―
「…………」
「なっ……!?」
―クレアが倒れる様子は『全く』なく、そのまま立ち続ける。
先ほど背中の斬られた怪我を治療したばかりで、体力はさほどない。しかし、それにもかかわらず動くことができるクレアを見て、マルクスはただ驚愕するだけしかできなかった。
「クレアさん……ごめんなさい!」
霧島も覚悟を決めたようだった。今度は踵からクレアの胴体に蹴りを炸裂させた。その蹴りは一瞬クレアの体をよろめかせた。
もうクレアの体力はないと言っても過言ではない。だが、ボロボロに傷付いたクレア―を操るマリオネット―は改めて姿勢を正し、藤原に向かって襲い掛かる。
「ちょ……!! 待って!!! ぐはっ!」
クレアの右ストレートは藤原の頬に炸裂する。
『 藤原さん、目が泳いでるヨ! ハハハッ 』
先ほどまであんな元気な声で会話していたのかと思うと、藤原の胸を締め付けるような寂しさがこみ上げる。
「(どうすればいい?)」
藤原が勤めている中で、子どもの生命の危機になれば時間や自分の疲労、用事など放り投げてでも治療に当たった。目の前に苦しむ人がいる。それを救いたい。そのためにこの職業に就いたのだから。
今の自分はどうだ? 目の前で得体の知れないものに操られ、傷ついている人間に向かって拳を振るった。また、拳を振るために後ろに腕を引いている。
「(どうすればいい?)」
改めてクレアを見た。一瞬、彼女の顔に巻かれた糸を燃やせば、化学繊維かもしれないあの糸を燃やせば彼女を傷つけずに済むかもしれないと思った。
しかし、それは無理だとすぐに気付いた。
彼女の赤い髪ですら全て覆い尽くしているあの糸を燃やせば顔を、最悪、彼女の全身に火が移ってしまう。自分の拳以上に酷いことを起こしてしまう。
「(ここで躊躇すると、全滅もあり得る……)」
この場から逃げ出せるのであれば今すぐにも逃げ出したい。
藤原は自分の周りにいる人々をちらりと見る。
リネットも、霧島も、マルクスも、大鬼も、誰もが今の状況に苦しんでいた。苦しんでいるのは自分だけではない。操られているクレアだって、苦しんでいるのだ。誰もが苦しんでる。
苦しむ人を助けるために、自分に何ができる?
「(どうすればいい?)
……(このままではみんな死んでしまう)
………(死なせないためにはどうする?)
…………(みんなを、助けるためには…)
( 殴ラナクチャ、ミンナ助カラナイ )」
「あ、あ……あああああっ!」
胸にわだかまるものを吐き出すように、藤原は雄叫びをあげながら拳を振り上げた。
クレアに向かって走り出す藤原の顔を霧島は見た。今にも泣き出しそうな目をしながら叫んでいる、苦悶に満ちた顔であった。
藤原の拳は避けられた。しかし、その瞬間を逃さず走り出した人物がいた。
「(どうすれば、クレアさんを助けられる……?)」
鳩尾に拳を入れた後もずっとその質問を考えては答えもなく消え去っていた。
最初の試練の時から一緒にいたマルクスは、自分と同じように性別が逆転してしまった彼女をどこか気にして見ていた。同じタイムリミットの罰を受けた縁だからか、自分と同じ日本以外の国籍の人間だからか、理由ははっきりと覚えていない。
ひとつ確かなことが言えるのであれば、彼女は今の体に変わったことへの不安を共有できる唯一の人間だ。
自分の悩みを共有できる人間を助けたいからというわけではない。
同じ境遇で、大切な恋人を待たせている彼女とその恋人をこんなところで引き裂かせるわけにいかない。
けれど、けれども。
彼の周りにいる仲間たちを見捨てることなど、到底できるはずもなかった。片手を失くしても健気に頑張る霧島。誰とでも優しい口調で話しかける藤原。誠実に、自分のできることを全力で取り組む大鬼。
「(どうすればいい?)」
「あ、あ……あああああっ!」
今まで聞いたことの無いような叫びを上げる藤原の声に驚き、ハッとする。
藤原の叫びを、顔を目の当たりにして、マルクスは改めて実感をした。
「(そうだ。悩んでいるのは皆、同じなのだ……。だから)」
だから、自分にできることを行おう。
マルクスは拳を握りしめて走り出す。
藤原の拳を避け、地面に着地したその瞬間を狙った。
「すまない……っ」
マルクスの拳がクレアに炸裂する。
それは迷いの無い、一撃だった。散々悩み、覚悟を決めた一撃だった。
クレア―を操るマリオネット―にとって予想外の攻撃であったためか、姿勢を大きく崩し、体ごと壁に吹き飛ばされ、後頭部も強く叩きつけられた。その衝撃がすべてマリオネットへ移り、粉々に壊れた。マリオネットはその操り易い場所が仇となって壊れる原因を作ったのだった。
しばらくの間、誰も助かったことに対して喜びの声を出すことができなかった。しかし、全員が理解していた。
『あのままでは自分たちが危なかった』
マルクスが突きだした拳を元に戻し、姿勢を元に戻してから上げられずにいた顔を上げた。壁に張り付いたように動かないクレアを見て、体格の良さとは反対に、小声で、出すのも精一杯な声でこう話した。
「すまない……クレアさん。……本当に、すまない……」
誰も、全員がその言葉に同情も否定もしない。
この場において静かな時間がしばらくの間流れていた。
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