【 第2章・厨房での悪夢 】

 

 

 鹿波たちが扉の向こうから何も「聞こえない」のを確認してから扉を開ける。そこには『キッチン』があった。かなり広く、豪華なキッチン。広い調理台やガスコンロ、流しなどがある。
 「こ、ここは……」
 「調理場か」
 「私の戦場……」
 「キッチンまですごいなぁ」
 「…………」
 ここには大きなオーブンと冷蔵庫もある。また、調理台には引き出しもあるのが見るだけでもわかった。
 警察としてか、はたまた今までの経験からか、鹿波は今自分がいる場所からわかる情報を掬い取ろうとじっと見渡す。が、これといった不審なものが見当たらず、自分の後ろが賑やかなのもあって、一度集中を切った。
 「……考えすぎかな。それにしても、なんだかお腹空いてきちゃった」
 小鳥崎は埃や水垢などの汚れから、埃は無いものの、この豪華なキッチンは使われていなさそうな印象を受けた。
 「ふむ……設備は立派ですが……」
 井伊は別の調理台で水道をひねったり、コンロのつまみをかちゃかちゃ回したりした。水は出てくるが、コンロは火が付かない。
 「水は使えるけど、ガスは通ってないみたいだな」
 「ここ、もしかして換気扇ない?」
 鹿波が天井近くをキョロキョロと見回してみるが、どこにも換気扇のファンがない。
 「換気扇もないのか。欠陥じゃないか」
 小鳥崎も、扉を閉めてきた宇野も同じように部屋を見渡す。
 「じゃあ、いわゆるモデルショールームみたいなものか?」
 部屋を改めて見回してみて、小鳥崎は改めて「使われていない感じ」を強く感じる。
 「あまり使われてる感じがないようですね」
 「水道が通ってるなら、人はいるようだけどね」
 「水道だけが通ってるってのもおかしな話だが」
 「水だけしか飲まない住人なんじゃない?」
 「水だけダイエットってあったよな」
 「でも、加熱しないと料理できないでしょ」
 小鳥崎はこんな立派なキッチンを目の当たりにして、『誰にも会わない』ことに疑問を抱き始めた。
 「こんな館なら、そろそろ誰かしら……使用人と出会ってもおかしくなさそうですが……」
 不自然すぎるこの状況に疑いながら、小鳥崎はオーブンを開けようとした。同じように奥にある冷蔵庫に手を伸ばした鹿波がいた。
 「何かあるのかな?」
 何気なしに開けた。

 ――ガタガタ
 ――ガッシャンッ!

 中から突然、巨大な生物らしき何かが飛び出してくる。近くにあった金属製のボウルなどの道具が床に落ちて甲高い音を出す。
 「どこのナメッ○せいじ……っ」
 突然のことで、全員がその音がした場所を見る。
 それは人の身体よりも幾分巨大で、ヒキガエルのような手足がついた生き物に見える。見ようによっては巨大な醜い赤ん坊にも見えるかもしれない。誰もが見たことのない生き物である。ぱっくりと開いた口に並ぶ細かい歯と、その周囲から生えた触手は見たものに恐怖と生理的な嫌悪感をもたらした。
 鹿波はふと、昔誰かから聞いた話を思い出して、つぶやくように話し始める。
 「蛙ってさ、鶏肉みたいな味がするって聞いたことあるけど、こいつは焼き鳥の代わりになるかな」
 「ははは……。腹が空いたからって、なんでも食べようとするなよ」
 宇野は鹿波の言葉を、顔が引きつった笑顔のまま答えた。
 誰もがこんな生き物を見たことがない。
 恐怖と生理的な嫌悪感。これを見て「この世にいるはずがない」。そう思えばよかった、と別の視点の井伊が感じたかもしれない。

 『井伊はこの世に見たことがない化け物の存在を瞬間的に理解してしまった。』

 「……ひっ……うあ……!」
 目の前にいてもそれを受け入れられない。いや、受け入れてはならないのだ。
 目で見たものを拒絶するかのようにうずくまって、その場でガタガタと震え始めた。
 「い、井伊っ!?」
 「来ますよ!」
 「んー。ちょっと試しにやってみるかー」
 鹿波はうずくまる井伊のそばへ行くとおどけた様子で精神分析を試みた。
 「かえるぴょこぴょこ」
 「……あれをカエルで済ませるんですか……?」
 「カエル……カエル? いや! あんなのいないっ。いないいないっ!」
 井伊はすぐに動き出すことができないと全員判断した。
 「んー。こりゃあ戦略的撤退が必要だねー」
 「そうだな……て、うわっ!?」
 怪物は会話して迂闊にしていそうだった宇野に近づくと、触手がついた頭で頭突きをする。
 しかし、スポーツマンとしての持ち前の脚力のおかげもあり、ギリギリのところで避けることができた。ありえない場所に生えて、一本ずつが意思を持って動いている触手。それを見て体が粟立つのを宇野自身が気づいて思わず腕をさする。
 「あんなのに、みんな当たるなよ!」
 襲ってくる怪物。それを見て危機感を持った小鳥崎は何か対抗手段がないかとあたりを見回す。
 自身がメイドをしていることがひらめくきっかけになった。
 「 引き出しを探せば調理道具があるのでは? 」
 小鳥崎は怪物を気にしつつ、近くの引き出しを開けた。そこには、包丁が『3本』あった。先が尖っている、一般的な包丁。『投げてもいいし』『切りつけてもいい』そんな包丁だった。
 「(これなら、なんとかなるかもしれない……!)」
 メイドたるもの、包丁を投げることはまずないはずなのだが、小鳥崎は包丁をバケモノに向かって投げる。
 「メイド殺法!」
 どっかの館で働いているPAD長を連想する見事な包丁捌きは怪物に的確に当てる。
 ヒトであれば痛みのせいでひるむだろう傷を負ってもなお、怪物は逃げない。
 「……逃げる気配はなさそうですね」
 今もなおショックから立ち直らずに固まっている井伊を見て、焦りを感じる宇野も思わず言葉が出てくる。
 「井伊のやつ、こんなところでカチコチになってるからな……。逃げるが勝ち、とはよく言ったものだがな」
 「僕は、もう少し調べてみるよ」
 「えっ? あ、鹿波!」
 鹿波は仲間も超えながら、自分の開けた冷蔵庫に向かって近づいていく。
 「他には何かないかなー。蟹とかタコとか」
 彼女は怪物の存在をあまり気にしない様子で、仲間の間をすり抜けながら冷蔵庫の近くまで移動した。冷蔵庫まであと一歩というところまできて、閉められた扉の隅から「日記の切れ端」がみえが。
 「なんで冷蔵庫に紙なんか……。冷やすのか? 意味があるのか?」
 鹿波は食べ物以外を冷蔵庫に入れる意味が分からず、少し考え込んだ。
 動きが止まってましった井伊と怪物の近くにいる鹿波をみて、宇野も攻撃しなければいけないと考えた。小鳥崎が包丁を投げたのを見て、彼女のそばへ行く。
 「小鳥崎! さっきの包丁を俺にもくれ!」
 「あそこです!」
 小鳥崎が指さした引き出しを開けるとまだ2本の包丁があった。そのうちの1本を手に取って構えた。その次の瞬間、怪物が宇野の前にいる井伊に向かってきているのが見えた。
 「井伊さん!」
 怪物は小鳥崎の言葉に反応したのかそうでないのか、調理台のそばで震えている井伊に当たらなかった。
 「よかった……!」
 宇野は安堵のため息をついて、引き出しに残っている一本の包丁に視線が行った。
 ――あの怪物はまだ襲ってくるかもしれない。
 恐怖からか、宇野はそのもう一本の包丁も手に取ると扉へ移動しかけた小鳥崎に柄を向けた。
 「これも一応持って行って」
 「……ありがとう」
 小鳥崎も短くそういうと包丁を持ってすぐ逃げられるように扉の前で待機した。
 「(じゃあ、今のうちに……)」
 怪物は三人に意識を集中させているせいで、一番近くにいるはずの鹿波には気づかずにいた。鹿波はそーっと冷蔵庫の扉を開けて日記の切れ端を回収した。
 「いくぞ……」
 宇野は意気込むと走り出した。…………足元のバナナの皮に気づかずに。
 ――ツルッ
 「やべええぇぇぇぇぇぇっ!」
 宇野は包丁で切り付けようとした際、勢い余って手を滑らせ、包丁を飛ばしてしまう。それは、小鳥崎に向かって飛んでいく。
 「えええええ!!??」
 彼女も突然、まさか飛んでくるとは思わない方からやってきた包丁を見てただ驚くだけだった。
 「こ、ここで奥義を! 北斗神拳奥義空極琉舞……」
 ――グサァァァッ!
 残念ながらそんな奥義はなく、しかもその包丁は小鳥崎の腕に思いっきり刺さる。
 「ドリフかな?」
 遠くから見るしかできない鹿波は対岸の火事のように眺めていた。
 小鳥崎は華奢な体ではあるが体力に自信があったのか、それだけで気が遠ざかることはなく、意識ははっきりしている。
 「くっ……。油断した」
 「あ、あ……あわわ……」
 自分のしてしまったことに罪悪感を感じたのか、宇野は言葉にならないことをわめいていた。
 小鳥崎は宇野のそんな姿を見て、安心させるために声をかける。
 「大丈夫です……。めっちゃ痛いけど、我慢できないほどではありません」
 「でも!」
 「宇野!」
 離れた場所にいたおかげか、厨房を俯瞰的に見ていた鹿波が傷心している宇野に怪物が迫るのに気付いて声を上げる。怪物は厨房にある道具をあちこちにまき散らす。大きな足音と食器類がぶつかり合う音が宇野の耳にも届く。
 「っ!」
 鹿波の呼びかけのおかげもあり、近づく気配を察知した宇野はぎりぎりのところで避けることができた。先ほどまで自分がいた場所は怪物が寝転がるようにしてそこにいた。怪物によってその近辺の金属食器などがひっしゃげ、ステンレスの棚が様々な景色を映している。
 「くっ……! こいつ……っ!」
 体を起き上がらせた怪物は体勢を直すために走り去る。宇野のそばを走り去った怪物に小鳥崎は包丁を投げようとした。が、仲間に当たるかもしれないという不安が脳裏をよぎる。
 ――この自分のケガみたいに、今度は自分が誰かを傷つけてしまうのではないか……。
 「……ケガの治療に専念しよう」
 小鳥崎は自分のタオルを取り出し、包丁が刺さった腕をきつく巻き付けた。メイド仕事で慣れてきた手つきで自分の出血を抑えた。止血はしたが、血は滲んでくる。
 彼女から少し離れたところからでも血が滲むのが見えたのか、宇野が声をかける。
 「小鳥崎、無理はするなよ……」
 「……大丈夫ですよ。今はこの状況を何とかいたしましょう」
 「ああ。みんなで生き延びるぞ」
 鹿波は回収したいと思っていたものも回収でき、まだ何か拾えるものがないかと思ってあたりの床を見回す。
 「なにっかーないかなーっと……お?」
 少し歩いたとき、鹿波は自分の『足元に包丁が落ちているのが分かった』。鹿波はその包丁を手にとる。
 「包丁ゲットだぜ!」
 一昔前のアニメの主人公のセリフをつぶやくと、彼女もまた退避を始める。
 「幸せはー歩いてこない、だーから歩いて行くんだねー」
 宇野は退避を始めた鹿波を見て、自分も逃げる頃合だろうと感じた。
 移動したその先にいた井伊をみて、肩を揺らしつつ引きずっていく。
 「井伊! こんなところで固まってたらあれに叩かれるぞ!」
 「いるはずない、いるはずない、いるはずない……」
 「いーちにち一歩。みーっかで三歩。さーんぽ進んで二歩下がるー」
 鹿波の場には合わないながらも、どこか落ち着いて歌っている声が彼らの耳に届く。調子はずれの、いつもと変わらない声で歌っていた。
 「井伊、行くぞ!」
 震える井伊を宇野は力ずくで引っ張った。その間も井伊はずっと言葉にならない声を出し続け、傍からは黙っているようにも見えた。
 「…………」
 「井伊、必ずここから出るぞ……っ!」
 怪物はそんな隙を見せている宇野に再び攻撃を仕掛ける。咄嗟に気づけた彼は井伊と一緒に調理台のすき間に入り込み、攻撃を避けた。
 「うおっ! 危なかった……」
 宇野は怪物に襲われないようにあたりを確認しながら、井伊と扉の前まで移動した。
 二人が襲われたのを見て、小鳥崎は先に出口を確保するためにも一足先に厨房から出て行った。
 「皆さんも早く!」
 「んー。私はまだちょっとできないかなー」
 切迫した声で呼びかける小鳥崎に対し、普段通りののんびりした声で言ったのは鹿波だった。剣道を心得ているからか警察学校、今までの経験に頼っているからか、先ほど見つけた包丁で斬りかかりに行く。
 「ていっ!」
 「っ!!」
 しかし包丁で上手く距離がとれず、鹿波は間合いを見誤って攻撃を外した。
 「っと、リーチ短いなぁ」
 「鹿波! あんまり長居してるなよ!」
 宇野は小鳥崎が開けてくれた扉に向かって井伊を押して厨房から離脱した。
 「…………」
 「もう出口はすぐそこだ! ふんばれよ!」
 鹿波は二人を見送って、出て行くのを確認した。
 「ぴゅーひゅるるー……来るかな?」
 彼女は怪物が厨房に残っている自分に向かってくるだろうとは予測できていた。が、それがすぐそばまで来ていたことを予見しそびれた。
 怪物の触手が生えた頭が彼女の左脇を捉えた。触手は彼女の体を浅く傷つける。
 「痛った……」
 怪物は体当たりだけして鹿波から離れた。彼女も今のままでは不利だと思い、自分の後ろにある扉から厨房を抜け出した。

 

 「なんとか……逃げ切ったな……」
 「追ってはこないようですね」
 宇野は玄関ホールにまで抜け出すことができると安心したように床の上に座り込んだ。先に脱出していた小鳥崎の腕を見て、彼はまた少し心を痛めた。
 「うぅ……」
 その後から鹿波が厨房から出てきた。彼女の体をみて、少し血が滲んでいるのが分かり、宇野は慌てて自分のカバンの口を開けた。
 「鹿波……! お前、そのケガどうしたんだ!」
 「蛙にやられた。アマゾンの生物なのかな」
 「あんな生き物、テレビで取り上げられたらすごいことになりそうだな」
 「……くそぅ。なんだったんだ、あの化け物は……」
 蛙のような怪物は四人が出入りした扉では小さすぎ、彼らから興味が失せたようだった。
 その間に宇野は鹿波の手当てをしたり、開け放たれたままの厨房の扉を閉めたりして過ごした。
 「あーあ、一矢報いたかったなー」
 「お前なぁ……。命があっただけ良しとしておけよ」
 「しかし……まさか冷蔵庫に入ってるとは……」
 扉を閉めた小鳥崎も、まさかあんなサイズの怪物が入っているとは思わず、少し顔を青ざめていた。
 「あれが、食材……なわけないですよね」
 「蛙は食材、食材は冷蔵庫にでしょ」
 「そもそも冷蔵庫なのかどうか怪しいよな」
 「冷蔵庫、機能してなかったのかね」
 「んー……。あ、そーえばこんなの見つけたんだった」
 鹿波は自分が冷蔵庫から見つけ出した日記の切れ端を皆に見せた。誰もがその内容に気になり、一緒に読み始めた。


 <1ページ>
 「2006年 4月4日(月)
 今日から三年生となる始業式。
 二年生までは陰口や無視でとどまっていた私に対するいじめが、とうとうエスカレートしてきた。
 古典的なものだったが、自分がされるとショックが大きい。」


 以降は『破かれていた』。
 「いじめ、なあ」
 「2006年……? 今から十年前?」
 「ちょうど、私たちも中学三年生……」
 「いじめだなんて、許せないな」
 その日記を見ていた中、宇野以外はあることに気付いた。
 「そういえばさ……」
 「あ、鹿波。お前もか」
 「??? どうしたんだ?」
 「宇野さんは思い出しません?」
 「何を?」
 「……」
 「……」
 「……」
 井伊は厨房を指差し、全員に尋ねた。
 「……似たようなもの、なかったか?」
 「え? そうなのか?」
 「……そういえばさっき、使てる感じがあるか調べた時、『キッチンの調理台の上に』、なんか紙切れがありましたね」
 「はい! じゃー、取り行きましょうかね、はい」
 サクサクとそう言い切る鹿波。そんな彼女と同じ気持ちになれないながら、何かのヒントになるだろうと思った三人は軽くため息をつきながら扉を見つめた。
 「……行くしか、ないのか」
 「行きたくないなあ……」
 「ここまで来たら男は度胸ってやつですよ! 行きましょう」
 「そうそう。僕が一回入って引き付けるからその間に取ってプリーズ」
 役割分担まで決めた四人は意を決して厨房へと戻った。
 「……!」
 厨房では、怪物は入ってきた四人にすぐに気づき警戒の構えをとる。
 ……しかし、四人が外に行っている間に場所は変えていた。
 「うそぉ……」
 「まじか……」
 「あ、あいつ、頭いいぞ……!」
 怪物は『日記の切れ端』がある調理台の前で四人の姿に気付いていた。
 「んじゃ、みんなよろしくー」
 「あ、おい!」
 鹿波は包丁を手に持つと怪物に向かって駆け出していく。
 しかし、先の戦闘で厨房内が荒れていたこともあり、足元が悪かった。彼女が気づかないような障害物もあちこちにできていた。
 「あっ……」
 ところかしこにへこみやら飛び出しているものやらがあったせいだろう。鹿波が転んだ際に、包丁が『自身の足に刺さった』。
 「いたぁい」
 彼女は包丁を抜いて再び歩こうとするが、足に力が入らず思わずその場ですくんでしまった。
 「アシクビヲクジキマシター」
 このままでは素早く動くことができない。本当であれば医学的処置が必要なのだろう。しかしそんな知識は持っていない。だけど自分ができることをしよう。
 そう思った宇野は先ほど使った救急セットを取り出し、鹿波のすぐ隣についた。
 「鹿波! とりあえず血は止めるぞ!」
 「はいはい。あ、もっと優しくして」
 医療の知識がない宇野の応急手当は痛みが残るものの、先ほどよりはマシになる。が、強く圧迫させるために傷以外の痛みが鹿波の足に響いた。
 「そんなことしたら血が止まらないだろ」
 その一言と一緒に最後の一締めをした。鹿波はその仕上げに小さく悲鳴を上げる。
 「いたたたた。いや、悪化するから」
 井伊はそんな二人をかばうためか、あえて怪物に見つかりやすい場所で身構えていた。怪物も見つかりやすい場所にいる獲物を見つけて走り寄ってきた。井伊はギリギリのところまで見定める。
 「(……ここだ!)」
 合気道を習う井伊には怪物の動きが手に取るように分かった。隙さえあれば組み付いてみようと考えていたが、いざ組み付こうにも頭の触手、何より『図体がでかいので組み付くことは難しい』と感じた。
 「……さすがに、物理法則には逆らえないみたいだな」
 井伊の動きに気がとられている怪物にまわりこんで、小鳥崎は調理台の向かいから包丁を投げ飛ばす。怪物の背中に刺さった包丁は『刺さったまま』になり、怪物は声を上げずに苦しむような動きを見せた。
 「できるか……!」
 井伊は小鳥崎が突き刺した包丁を使ってさらに追加で攻撃ができないかと思って手を伸ばすが、触手が邪魔をして伸ばすことができなかった。
 「むぅ……」
 「次に頑張ろう!」
 宇野は鹿波を自分の背中側――日記がある調理台の方へ押すと、井伊と一緒に怪物に向き合う。彼女もその勢いに押され、痛む足を我慢しながら調理台の上にある紙切れ――日記帳の一部を手に入れた。
 「撤収!」
 「逃げましょう!」
 「ああ!」
 「早く行くぞ!」
 全員が慌てて厨房から逃げようとした、その時だった。鹿波と小鳥崎の耳にかすれたような声が聞こえる。
 「……テ」
 「……なんだ?」
 「…タ……コ…シナ……」
 「え? うそ……」
 二人はその声がする方を見て驚愕する。
 その言葉は、『怪物』から聞こえた。
 「イタイ……イタイ……」
 「……聞こえんから無理」
 鹿波はその声を無視しようとしたが、その悲痛な声から背けることはできなかった。
 男性陣二人も、鹿波と小鳥崎の姿から逃げようとした足を止めて戸惑っていた。
 「小鳥崎!」
 「一体、何がどうしたっていうんだ?」
 その怪物は近くにいる鹿波に向かって、先ほどまでの敵意はどこかへ消え去ったのか、命乞いをするかのように頭を床の上につける。
 「……モウ…イタイコト……シナイ?」
 目や鼻がない怪物だが顔がそこについているように、床につけていた頭を鹿波に向けると言葉を続けた。
 「シナイナラ、イイコト……シテヤル」
 今までの経験上、人の世にはいるはずのない怪物とやりあうのは得策ではない。彼女の頭ではそれを理解していた。が、「素手」の相手であること。何よりも「刑事」という仕事柄で誰かの話を聞いてあげることが大切だと、自分の経験よりも知識が彼女をその場に留めさせた。
 「……いいよ。聞いてあげる」
 鹿波が怪物に近づいていく。それを見て小鳥崎は扉のそばですぐそばにいる井伊を呼べるように待機。宇野は慌てて鹿波のそばへ走った。
 「鹿波!」
 宇野のどこか攻撃性のありそうな言い方に、怪物はひるみ、また懇願する声を上げる。
 「……ユルシテ ユルシテ」
 「っ…………」
 その姿を見て、宇野は驚きのあまり、その場で直立してしまった。その怪物の命乞いするような姿は、先ほどまでとは打って変わっていたから尚のこと驚かずにはいられなかった。
 「ワルカッタ ワルカッタ ユルシテ」
 「……いや、こっちがそれを言いたいのだけど」
 自分の隣にいる宇野に治された足を軽くさすって、横目でちらりと見てから鹿波は言葉を続けた。
 「いいから早く言って」
 「『マホウ』 オシエル」
 「どんな魔法?」
 「チョクセツ ノウニ ツタエル」
 「お、おい。それってかなり危険じゃないのか……?」
 『直接脳に伝える』。それが想像つかない宇野は不安になり、鹿波を見る。彼女が答える前に怪物が釘を刺す。
 「タダシ オシエルノ 『ヒトリ』」
 「はい、じゃー覚えます」
 「鹿波!?」
 「オマエデ イイノカ?」
 蛙のようなぬめり気のある手で怪物は鹿波を指差す。彼女はその質問に首を縦に振る。
 「早く」
 「ダイジョウブ ワガアルジ ○○○○ニチカッテ ゼッタイダ」
 怪物は二人には理解できない言葉を紡ぎ始める。不安な顔をする宇野を見て、鹿波はうっすらと微笑む。
 「ここまで来たら変わらないよ、何も」
 何かを悟っていたかのようだった。

 怪物の呪詛は完成した。
 鹿波の頭に直接何かが流れ込んでくる。男とも女とも言えず、子どもとも老人とも言えないその声は、彼女の視界をブラックアウトする。
 「――――!!!」
 「顔のない黒い土の精との盟約に従い、月の裏側の住人の力を行使するこの肉体を生命の源たる粉へと還さん」
 言葉ではなく、まるで写真のようにそのことが瞬時に理解できていく。
 「そして、命の理をさかのぼり、この者の新たなる肉体を創造する」
 膨大な量が、この上なく冒涜的な言葉が理解できていく。脳に響いたその言葉が全身に行き渡るように会得することができた。

 鹿波の視界が元の厨房に戻った。隣には不安そうな顔をしている宇野がいる。
 自分の両手を軽く数回握る。特に何の変化もないようだった。けれども確実に頭では理解できた。
 「…………死者蘇生」
 「……?」
 鹿波は「復活」の魔法を覚えた。怪物は教え終わるといずこかへ消えて行った。
 「あっ! 消えた……」
 「…………」
 「鹿波、大丈夫か……?」
 「大丈夫、問題はない」
 怪物が消えたのを確認した小鳥崎と井伊も鹿波たちのそばへ行く。
 「……結局、何なんでしょうね?」
 誰にも分らないことをポツリと小鳥崎はつぶやく。
 鹿波はしばらく考えてから、三人に聞こえるような独り言を話した。
 「もしかして、説得使えば簡単だったかもしれない」
 「それはどうだろう。死にそうになったから命乞いをした、ともとれるし」
 「でも、言葉が通じるということはそうなんじゃないかな?」
 「あー! まあもう終わったことなんだ。まずは手に入れた『それ』を確認してみないか?」
 「そうですね。私たちも『それ』のためにまた戻ってきたんですしね」
 鹿波が手に入れた日記の続きを調理台の上に置いて、全員で読んだ。


 <敗れた日記の続き>
 「学校に行き、下駄箱を確認したら上履きが無かったのだ。
 仕方なく、スリッパを借りて教室に向かったが、皆の視線が突き刺さるようだった。
 私は、あいつが私の足元を見て笑ったのに気づいた。
 小鳥崎薫だ
 あいつは二年生のころから私のことを無視したり、陰口を言っていた。
 上履きを隠したのはきっと小鳥崎薫だ。許せない


 「……ふーん」
 「ど、どういうことなんだ!?」
 「わたし……?」
 小鳥崎はこの日記について思い出そうとするが、なぜか思い出すことができない。他の三人も思い出そうとするが、同じように思い出せない。
 「……ダメだわ。思い出せない」
 「小鳥崎が……そんな、あり得ないだろ!」
 宇野は顔を少し赤らめ、その日記に怒った。鹿波と井伊は少し冷静になって、考えた。
 「まぁ、今はどうでもいいね」
 「うーん……個人の主観を決めることは誰にもできんし、なんとも」
 「次の扉に行こう」
 冷静だからこそ少ない情報で決められない。そう考えた二人はまだ情報を集める必要があると考えた。小鳥崎も宇野もその提案に首を縦に振る。
 「そうですね……」
 こんな書かれ方をされてよくは思わない。どこか心苦しそうな顔をする小鳥崎を励まそうとしてか、鹿波は声をかける。
 「こんな二十世紀少年みたいな展開もアレだし、本人に問い詰めるのが早いや」
 「本人がいればいいんだがね」
 「いなかったらまさしくどうでもいいことだよ」
 鹿波は軽く笑いながら先に厨房の外に出る扉を開けた。そこで気付いた宇野が口を開けた。
 「……鹿波、さりげなく織り交ぜてないか?」
 「え? 何がだね、マスターキートン?」
 にやにやとする彼女を見て、宇野はぐちゃぐちゃな足元の中を走って追いかけようとした。しかし、もう扉の前に来ている鹿波には追い付けない。
 「はははー!」
 「やっぱり浦沢○樹シリーズ混ぜてるじゃないかー!」
 小鳥崎は鹿波のさりげない思いやりに心を少し和らげながら、全員で次の部屋に向かって行った。

 

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