地球劇場第7

遥かなるインドへ、新婚旅行をする二人

 

「何で、インドなの?」

「さあ、わかんない。」

   

プロローグ

 

 インド。相当遠い遠い彼方の国。かの国には10億人を超える人と、牛豚馬であふれかえっていると人は言う。そこには、様々なカーストと呼ばれる職能集団がいまだに存在し、4000年昔の太古の時代から、代々仕事を世襲してきている。一方で、核爆弾を独自に開発し、タタ財閥を代表とする経済力は、南アジアの中心国家である。宗教は、ヒンドゥー教、イスラム教、そして仏教、シク教。全インド人は、必ず何かの神様を信じ、崇拝している。富の不平等による貧富の差は、はてしなくおおきい。

 街には、インターネットカフェがそこら中にあると思えば、喜捨を求めるハンセン病の患者もそこら中に居る。先端の技術を駆使したビルの窓から、ふと下を見ると、今にも崩れそうなおびたただしい数の、ボロ屋が目に飛び込んでくる。圧倒的な貧困。思わず、目を背けたくなる風景だ。

 ある人は、2度と行きたくない、インドという文字を口にするのも嫌だという。

 又ある人は、あの国は、心の故郷だ、全ての人間が親切で温かい、という。

 ほんとのインドは、どこにあるのだろうか?学生時代からの念願のインドの旅は、なんと、新婚旅行という形で、ぽんちゃんという妻と一緒に行くことになったのだ!ちなみに、この決定に至るまで、ポンちゃんの意思は一切無視された。

 

 

第1章 デリー  −どいつもこいつも、ええかげんにせい!−

 

 飛行機に搭乗すると、そこはもういきなりインドだった。サリーを着たスチュワーデス、機内食のカレー。いいねえ!おもわずつぶやいた。がしかし、やはり日本人のスチュワーデスさんのほうが手際もいいし、笑顔を振り撒き、よく働いていた。

 正午に成田を出発したデリー行きのエア・インディア機は、夜の9時ごろ時間通り到着した。なぜかデリー到着の飛行機の大半は夜到着なのだ。国際空港としては随分暗い空港ビルの中を、いつものように税関、入国審査と順調に進む。さっそく銀行で2万円分両替した。単位はルピー、レートは1ルピーが約2.5円である。約8000ルピーほどまずは財布にしまいこんだ。これだけあれば、しばらく大丈夫なはずである。空港から一歩外に出ると、それはすごい光景だった。今までいろいろな国に入国したが、ここの印象が一番強い。

 人。そして人。暗闇の中に、インド人が皆、本当にそこにいる全員が、我々飛行機から降りてきたカモを待ち構えていた。まるで夏の夜の網戸の虫のようであった。闇夜に肌黒いインド人が、白い目だけをきょろきょろさせて、皆こちらを見て、手招きし、叫び、時には無理やり腕をつかんで自分の車に拉致していた。我々世界で最もぬるま湯に浸かって生きている日本人には、何もする術はなかった。あるものはそのまま拉致されていった。あるものはここ空港で一夜を明かすという。我々は、あまりの怖さに一度空港に引き返してきた。我々は、一応日本でこの日のホテルと送迎は頼んである。

 『どこにわしらのお迎えドライバーはおるねん?』

 恐怖と、海外旅行の初日に起こるいつものカルチャ−ショックの為、かなり緊張していた。肩に力を入れ、『くるなら来い!』そんな気持ちで怖い顔をしていた(と思う)。しかしよく見ると、すぐ前に立っていた人のよさそうなインド人が、にこにこしながら、

SANO HIROYUKI

SUZUKI TOMOKO

と書いてあるカードを持っていた。こんなに近くにいたのに、全く気づかなかった。

 日本語ペラペラの大学生の彼に案内されて、市街地のホテルに行き、やっと一息つくことができた。ぬるいシャワーを浴びて、インドビールで乾杯する。排気ガスと、排泄物と、香辛料と、そして体臭の入り混じる、まるで空気に色の着いているような、そんな匂いのする国へやってきた。「明日から、冒険が始まる。」そんな気持ちで、心地良く酔って、この日はぐっすり眠ってしまった。…しまった!今夜は新婚旅行初夜だった!!気持ちよく眠っている場合じゃねえ!

 

 朝起きて、明るい太陽の下でインドの街を見て、やはりはっきり言って汚いな、っと思った。道を行く車はぼろぼろの年代モノばかり、三輪のスクーター,いわゆるリキシャーが排気ガスをバンバン出しながら、我が物顔でこれまた舗装の割れたぼろぼろの道路を行く。歩道には、人があふれている。この風景は、例えて言えば、『マラソンを応援する人々のいる歩道』といった感じである。

 どいつもこいつも、必ず声をかけてくる。なぜかどの人間を見ても信用できない。

 (そういえば、海外にくるのも久しぶりだな)

 そう思いながら、デリーの中心地コンノートプレースを目指し、更にはデリー駅をめざす。とはいっても、持っている本は『地球の歩き方』のみ。いやはや、心細い。とはいえ、隣にはぽんちゃんがいる。余り軟弱且つ貧弱な事は言ってはおれん。

 怖いながらも、とにかく闇雲に北へ北へ進んで行った。この方向へ進めば、必ず線路には出るはずである。

 が、しかし、この国には日本の常識など通じないのであろうか、全然検討違いのところに出た。原因の一つは、どいつもこいつもまともなことを教えてくれない、道一つ聞くにしても、皆言うことがばらばらという、インド人にあったのは間違いない。噂には聞いていて、それなりには覚悟をしてきたつもりでも、三人に聞くと三人とも、5人に聞くと5人とも言うことがばらばらだと、さすがにいい加減にしろとプチ切れてしまう。

 今だから言えるが、ここで我慢をすることが、インド旅行を楽しくするかしないかの分かれ目であろう。楽しい旅をする為には、よおし、こいつの言うことをだまされてもいいから信じてみるか、といった思い切りの良さが必要なのだ。このときの私にはその思い切りがなかった。結果、駅にはたどり着けず、小さな旅行代理店で切符を買う羽目になり、(手数料を取られるのでかなり割高な上、後で知ったが、代理店発行のチケットは、キャンセルができない)おまけにそこにいた日本語ペラペラのシク教徒・Mrシンにつかまってしまい、半日話し込んでるうちに、6日間のツアーに参加することになってしまった。

インド人は、世界一の商売上手と聞いてはいたが、完全にMrシンを信じ込み、言葉巧みに話に乗せられてしまった。

 しかし、おかげさんでホテルと列車のチケットを取るという面倒な作業から開放されたのも事実である。なにしろインドの鉄道のチケットを取るということは、外国人にはわざと取りにくくしてあるのではないかと思うほど面倒なシステムなのだ。乗車券を取る為に長蛇の列に並び、寝台や指定席を取る為にまた長蛇の列に並ぶ。ただチケットを取るというそれだけで、軽く半日かかるのだ。正直、この作業が,インドを初め途上国に行くと最も億劫である。割高であっても、旅行会社のチケットは助かった。

 この時から6日間、専属のドライバーがついて、インド自慢のタタ製の『アンバサード』という車で行動をすることになった。過去、こんなリッチな旅をしたことのない私は、少々戸惑いはあったけど、専属ドライバーのアミ(26歳)はいい奴だし、なんといっても一生に一度の新婚旅行だし、思いきって決定した。

 翌日、我々のタクシーは、西へ西へ向かった。タクシーの中は、うそ臭い英語と怪しいインドミュージックが鳴り響き、ダッシュボードの上には象の頭をしたインドの商売の神様・ガネーシャが飾られていた。地平線の彼方まで行くのではないかと錯覚するほど、インドの大地は広大だった。何台ものトラックをぶっこ抜き、アミの運転する車はセンターラインの無い、アスファルト舗装の荒い国道を猛スピードで走っていた。いや、よく見ると、車のスピードメーターは60km/時しかでていない。ということは、この車が早いわけではなく、単に周りのトラックが遅いだけだった。何も無い地平線に続く道路。しかし、この国では、時速40kmでトラックは全ての流通を担っていた。しかも、何故か全て『デコトラ』。派手なデコレーションを好む国民性らしい…。

 

 

第2章   プシュカール ―らくだの背中で、たぬきのメたけび―

 

 我々のタクシーは、砂の舞う国道をかっ飛ばし、砂漠の入り口・プシュカルに到着した。途中かなりの数のトラックが横転していたので、500km離れたこの街に無事故で無事着いたことにとりあえず感謝した。

 この街は、人造湖を中心とし、巡礼と砂漠を売り物にしている。市場のほうに歩いていくと、街行くインド人が

「ラクダ、ヤスイ。」

とかいつつ、袖を引っ張る。しかし、他の街と比べると、観光客は全然少ない。キヨスクでも比較的正値で物を買うことができた。ぽんちゃんは100%オレンジジュースをゲットして、また私はインドビールをゲットして、湖畔のホテルで乾杯をした(真昼間から)

 12月だというのに、とにかく暑い。砂漠特有の肌の切れるような空気の鋭さだ。やはり、日中は何もしたくなくなる。ただただ、日陰と飲み物を、本能のままに探し歩いた。

ふと目についた、これまた砂漠独特の中庭のあるレストランに入り、白に統一された中庭で、ビュッフェスタイルの昼食をとる。数種類のカレーとライスそしてヨーグルト。無論食べ放題で、ひとり45Rs(=135円)

 とことこ歩いて砂漠に向かったが、あまりの広さと暑さにへきへきし、15分で戻ってきてしまった。これじゃあいかん。っというわけで、らくだを二頭借り切って、キャメルサファリで砂漠に挑戦することにした。幸運だと地平線に沈む夕日が見れるらしい。昼過ぎにラクダの手配をし、指定された場所に行ってみると、随分かわいい子どもが二人待っていた。

『まさか、この子達が案内してくれるのかしら?』

 私達二人目を合わせて日本語で大きな声で話し合った。しかしやはりこの子達が砂先案内人みたいである。12歳と6歳。学校にはいってないが、12歳のお兄ちゃんのほうは比較的英語を流暢に話した。6歳のボーイは、あまりにも小さすぎて、ラクダに乗り降りさえも満足にできなかった。乗る時はお兄ちゃんが手を貸し、降りるときは、砂の上に転がり落ちた。その様はとても愛嬌があり、私達にとってはとても面白い光景だったけど、よく考えれば、どこぞの国では『孫』なんていう歌が流行り、6歳といえば、かごの中の鳥状態で、危険だからといって砂場でも遊ばせてもらえない、一人では玄関から出るのも許されない、飯も満足に食えない、トイレも満足に済ませれない、一つや二つ上の子どもたちとも満足に遊ぶこともできない。インドの6歳のボーイよりもどこぞの国のクソガキの方がよっぽど滑稽であろう。

   ラクダに乗ったのは初めてで、正直、怖かった。予想以上に背が高いし、なにより立ち上がる時としゃがむ時のガックンガックンという衝撃がかなりショックだった。私は地面に投げ出されないように、ただただコブにしがみついているだけだった。慣れると速いし、結構快適だろうけどね。

 

  

 霧のため、肝心のサンセットは見えなかったけど、3時間あまりのキャメルサファリは十分楽しむことができた。ただし、日没後砂漠の中をラクダに乗ってホテルまで帰るということは、嫌な予感がした。なにしろ、見渡す限りの闇である。こんなところを変な奴らに襲われようものなら、それこそ二人して砂漠の砂と化してしまう。いくらみずさき案内人が6歳の子どもとはいえ、油断はできない。ぎゅっとポケットの中のナイフを握り、緊張していたが、無事ホテルの前まで送ってくれた。

 とはいえ、ここで安心してはならないのがインドである。ラクダから降りるや否や、間髪いれず、チップを要求してきやがった。…まだ、6歳の少年が、である。

 悲しい気持ちになりつつも、10Rsづつ渡した。

 どこの途上国でもそうだけど、大人は働かない。特に男はそうである。昼間からカードをしたり、何もせずただボーと座っていたりする。女性や子どもは、ただただ働かされている。この国の貧民の子どもは、圧倒的な弱者である。教育は受けていない。働いても、大人達がピンハネするため、収入を得ることもできない。せいぜい、チップをもらうのが、子どもたちの収入なのだ。だから、子どもたちの私達を見る眼は、必ず濁っている。私達は、金の塊としか見られていない。

 ただし、救いは腐るほどある。心の中は、どの国の子どもたちもやはり、純真で美しい。水先案内人の子どもたちも、砂漠で一緒に遊んであげた時は、とても楽しそうできれいな目をしていた。チップを渡す時、ふとその時の目を思い出した。チップを受け取った後の目も、悲しいことだけど、砂漠で遊んでいる時と同じ位、嬉しそうなきれいな目だった。

 街の光はとても少なくまた暗いけど、プシュカル湖に映るその光と、誰かれなく歌うインドの歌は、とても心地良いい気持ちにさせてくれた。湖面にゆれる光がゆれながら、暑い砂漠の夜はふけていった。

 ちなみに、泊まったホテルは五つ星だったけど、シャワーは水しか出なかった。ま、必要ないか。トイレには紙もなかった。ま、必要ないか?

 

  

 

第3章   アーグラー −がんばれ、シャージャハン− 

 

我等のタクシー・TATA アンバサードは、昨日はひたすら西へ向かっていたが、今日は朝から東へ進む。けっして速くはないこの車だが、やはり周りのデコトラが時速40キロなので、60キロで飛ばすと、随分速いと言う錯覚に陥ってしまう。途中、郵便局によってもらうが、あまりの人の多さに嫌になってしまう。この国では、切手を買うということさえ、一時間もかかる大仕事なのだ。全く、職員はたくさんいるのだから、もっと窓口を開けろ!と言いたい。ちなみに、日本まで、はがきが8Rs(24円)、封書が15Rs(45円)。なぜ?何か、変じゃない?

アーグラーは、インド最大の観光都市。かの有名な『タージ・マハール』のある都市だ。ムガル帝国時代の5代国王シャー・ジャハンが、愛する妃ムムターズマハルのために、川のほとりに、全て白大理石で建築した世界遺産が白く空にそびえ立つこの街には、当然のごとく観光客が世界中から押し寄せてくる。その観光客を狙った犯罪が跡を絶たない。自転車タクシー・リキシャーもこの街が最悪だった。年端も行かぬ子どもまで、我々をだまそうと目を光らせている。全くもって始末が悪い。そして、こじきも多い。おちおち街を歩くこともできない。関係ないけど、水もまずい。うがいをしただけで、そのままリバースしてしまうかと思ったくらい臭くて、素材の悪いスプーンをなめているような、まったりとした舌触りのみずだった。ホテルは通路から壁まで総大理石のびっくり豪華ホテルだったけど、町全体の印象としては、ここが一番悪い。レストランで飯を食っていると停電二連発。ふつうは17Rs(51円)のミネラルウォーターが25Rs。差額はたった24円と分かってはいても我慢ならず、30分喧嘩腰でどなりあい(勿論、相手の英語もこちらの日本語も通じ合わない)。アーグラー最悪。こんな街、2度とこねえ。

 翌朝、またまたリキシャーの親父たちに不機嫌になりつつも、とりあえずタージマハルにだけは行ってみた。ひとり12Rs(36円)の入場料を払い、とにかく立派な茶色い門をくぐり、青がとてもまぶしい空をふと見上げると、それが飛び込んできた!!

タージマハルである!!

 

 

 

 

 

 白大理石が輝いている。完璧な対称な姿。世界ナンバーワンの芸術的建築物である。今まで私は、これ以上美しい建築物を見たことがない。とても人の手によって作られたものとは思えない。スペインのザグラダ・ファミリア教会(設計者:ガウディ)も、フランスのラ・モン・サン・ミッシェル(設計者:不明)も、日本の小林邸(設計者:佐野裕之)も、目の前にそびえる建物にはかなわない。

 この建物だけでもすごいが、なんと、このタージマハルを作ったシャー・ジャハンは、川の対岸に黒大理石で全く同じ建物を自分の墓として建築しようとたくらんでいたのだ。そしてそして、タージマハルとその自分用の黒大理石の建物をこれまた大理石の橋でつなげようとしていたのだ!

 

何という壮大な計画ダ!!

 

頑張れ、シャー・ジャハン!しかし、当時のムガル帝国にはそれだけの財力がなかった。この計画に大反対をした息子は、父シャー・ジャハンを幽閉し、黒大理石製タージマハルは実行されなかった。少し残念だが、それでも、タージマハルの素晴らしいことに変わりがない。

 この町、もう一度訪問してもいいかな。ただ、あの白く輝く墓を拝む為だけに。

 ちなみに、インド人の新婚旅行のハイライトになっているのがここ!皆初々しく手なんかつないじゃって、写真撮ったりして、すっごい幸せそうな雰囲気でした。インド人は、95%が年下の女性を妻にするらしい。この時、私26歳ぽんちゃん27歳。インド人もびっくり!って、いつも驚かれちゃいました。

 

第四章   カジュラーホー ―裸体、裸体、また、裸?−

 アーグラー駅を夜7時の電車に乗って、東へ行く予定だった。しかし、列車が駅のプラットホームにきた時間は既に9時。行き先はヒンドゥー語で書かれていて全然わかんないし、プラットホームには異常なほど人があふれているし、おまけに牛が闊歩しているし、一体どうなっておるのだこの国は!

 そんないらいらしている私達を慰めてくれるのが、一杯のチャーイである。素焼きの素朴な小さいカップになみなみと注がれたそれは4Rs(12円)。12月、さすがのインドも夜はしっかり冷えるので、列車を待っている間、何杯もお代わりした。

 遅れるが、必ずやって来る列車。すさまじい数のヒトヒト人がいっせいに降りまたほかのヒトがいっせいに乗る。通勤ラッシュの比ではない。この国は毎日が、全ての列車が日本で言う正月の帰省ラッシュなのだ。

 2時間遅れで到着したにもかかわらず、のんびり10分ほど停車した。おそらく全ては乗務員の休憩の為であろう。

 私達は、やはり少々心配だったので、最初の列車は一等寝台を選んだ。インドほど階級のはっきりしている国はない。一等に乗るには、もちろん慣習的にだが、カーストの上のほうの人間のみ許されている。だから、一等には金持ちが多い。日本のように「今日は給料日だから、ちょっとリッチに指定席を取るか」等ということは決してない。例えお金を持っていても、下級カーストは必ず二等以下に乗る。そして、二等とは天と地の差がある。

この国は圧倒的な差別の上に成り立っていることが目に見えるのだ。

 駅員やインテリっぽいサラリーマンに私達の予約した列車がどこかと聞くが、どいつもこいつも異なった答えが返ってくる。例え知らなくても丁寧に教えてくれるのだから、こっちはたまったもんじゃあない。プラットホームを駆け回り、やっとの思いで自分の寝台を見つけた時にはもうすでにぐったりしていた。そして、即寝。爆睡。

 目がさめてびっくり!なんと、列車は夜と反対方向に向かって進んでいるではないか。

なんで?パニックになりそうな私達を、向いの品のよさそうなおばちゃんが地図を広げてなぜ逆方向に走っているのか教えてくれた。この国ではよくあることらしい。

 このおばちゃんに、ポンちゃんは随分気に入られて、ブレスレットをもらったり、頭をなでなでしてもらったりしていた(インド人はよくこの動作をする。純粋に愛情表現らしい)。おまけにインド人がよくつけている額のしるしも貼ってもらい、ポンちゃんは喜んでいた。後日、額の印をつけて、サリーを身にまとったポンちゃんを見たときは、本当にインド人のようだった。

 夜行列車をサトナーという街で降り、オートリキシャーの馬鹿どものふっかけ攻撃を無視し、人のよさそうなチャリンコリキシャーの兄ちゃんにバス停まで乗せていってもらい、いよいよ目的地の一つ、カジュラーホー村行きのバスに乗りこんだ。・…と書くと、スムーズに話しが進んだみたいだが、けっしてそうではない。バスステーションには数十台のバスが待機しているし、行き先は全部ヒンドゥー語だし、訳わかんねえ奴らは声をかけてくるし、結局バスは出発しちゃうし、

全くこの国は!

とおもったら、なんと、チャリンコリキシャーの兄ちゃんがバスを追いかけて停めてくれ、私達は無事バスに乗ることが出来た。…と書くと、これで移動が一段落してしまうのだが、ここはインド。なにしろ、このバスがぼろい。

 

こんな古い、汚いバスは初めてだ。おまけに、カジュラーホー村というところはとにかく田舎で、舗装状態もとても悪い。私達を乗せたオンボロバスは、ぼこぼこの田舎道をかなりのスピードですっ飛ばしていった。曲がるたびに、車体はひねり、ねじれ、ぎしぎしと悲鳴を上げる。車体ばかりではない。前に乗っていたインド人の女性も

「きゃー」とか、「うー」とか、「いやあ」とか叫んでた。

実際、シートからお尻は何度もバウンドした。木製のシートは随分きつかった。

でも、ポンちゃんは寝てた。

何度かの休憩を経て、5時間後にオンボロバスはなんとかカジュラーホーについた。この村は、エロチックな彫刻で有名な世界遺産の寺院がたくさんある。観光客も勿論多いが、なにしろ交通機関がないので、全体的にのんびりとした雰囲気がある。はっきり言って、かなりの田舎だった

 この日はクリスマスイブだった。新婚旅行中のクリスマスイブ。嫌でも雰囲気は高まり、2人は熱い長い夜を想像する。この日、我々は五つ星のプール付きのホテルに宿をとった。ここに三連泊するつもりである。

 その初日のクリスマスイブ、ポンちゃんは腹を壊して寝ていた。何度もトイレに駆け込む新婦の姿には、雰囲気も何もあったもんじゃなかった。

 ちなみに、バス停近くの商店でレンタサイクルを借りた私達は、タクシーや自家用車で豪華なエントランスに乗りつける他の客を横目に、五つ星のホテルの玄関に自転車で横付けし、これまた貫禄のあるドアマンを驚かせた。

 さて、この村で驚かされたのは、エッチなポーズをしている裸体の彫刻群だけではなかった。なぜか、この村の人々は流暢な日本語を話すのだ。デリーやアーグラーといった観光地でも、これほどの日本語は聞けなかった。かといって、それほど多くの日本人がいるわけでもない。なにしろここはカジュラーホー村、オンボロバスか飛行機しかここに来る足はない。ちなみに飛行機は1日一便、インディアン・エアラインという航空会社の航路のみであり、しかも、飛行機が飛ばない日も結構あるみたいだった。

 私達は自転車で、または歩いて、村でのんびりしていた。

 

 舗装されていない道路には、牛がたくさんいる。牛を追って、子供たちが無邪気に走りまわる。この国も、子供たちはとてもきれいな、パッチリとした瞳をしている。ハローハローといいながら、かまってもらおうと袖をひっぱたり、自転車を押してくれたりする。自転車のシート位置なんて、その子の目の高さくらいなのに、いわゆる三角乗りをして、自分はこんなことも出来るんだと、私達に伝えたくてうずうずしている。

 3人の子供たちに案内されて、私達は遺跡群を半日散歩した。そしてお昼ご飯の時間になり、村の中心部のお気に入りのレストランで食事をしようと戻ろうとした時である。三人のうちの一人が、目をうるうるさせて訴えてくるのだ。

「ぜひ、うちに来てお昼ご飯を食べていって!」

 なかなか、インド人の家を見る機会などない私達にとって、これは魅力的な誘いだった。食事はともかく、とにかく普段の生活を垣間見たい。強い好奇心で、また、子供と思って油断して、私達はのこのこついて行った。決して裕福そうな服装はしていないが、カメラを持っているし、貴重品は全て身に着けているし、なにしろ自分たちは日本人だと教えてあげたし、平和な村だし、やはり気が緩んでいた。

 インド人の住まいは、はっきり言って圧倒的にまずしかった。8畳ほどの土間の部屋に夫婦とその父、そして子供が4人住んでいるという。家具はベットが一つと箪笥が一つ。ベットの上にはガネーシャのプロマイドが一枚。他に、中庭と屋上がある。中庭には、乳牛が一頭おり、そのためか、随分臭かった。中庭は台所も兼ねているようで、蛇口の横にはいくつかの食器が置かれていた。カジュラーホー村は降水量が少ないのか、ほとんどの家屋に屋根勾配というものがなく、屋上として利用しているようだった。子供たちはこの屋上で寝ていると言っていた。

 さて、一通り家屋内を見て、さあて帰ろうかというときになって、無邪気だった子供たちの目は、突然、あのいまいましい物売りやこじきと同じ吊り上った、少しでもカネを巻き上げてやろうというあの、インドで最も醜いにやけ笑いをしていた。

「金をくれ!!」

 怖くなり、そしてそれ以上にとても悲しくなった。子供たちの無邪気な瞳は、私達を金の塊としか見ていなかった。子供達は、ただただ無邪気に金を無心してきた。 

 ただ、さすが子供だと思ったのは、その金額が10ルピー(30円)だったのだ。

 おそらく、彼等は今までこうやってお小遣いを稼いでいたのだろう。おそらく、これまで出会った外国人は、たった10ルピーだからといって、お金を渡したのだろう。正直言って、私もこの程度の金額なら払ってもいいかな、と考えてしまった。怖かったし。

 しかし、やっぱり払えない。この子たちの為にも、払うべきではない。一緒に遊んでいる時は、子供らしい、とてもかわいい笑顔をしていた彼等には、醜いにやけ笑いなんてしてほしくない。にやけ笑いの顔が、5歳や6歳の子供たちの普段の笑顔になってはいけない。

 結局私達は払わなかった。しかし、一緒に撮った写真を送ってあげる約束をした。子供たちには、出来るだけやさしい言葉を選んで、ゆっくり諭すように言った。

「こんなお金のもらい方はしてはいけない」と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…だけど、日本語だから通じなかった。おまけに、インドから戻ってはや10ヶ月。写真をおくるという約束も果たしていない。だめだこりゃ。

 

 ちなみに、子供たちは、英語をしゃべることが出来ても、書く事は出来なかった。「住所を教えて」と言って、無神経にペンを差し出した私。一番年上の13歳の男の子は、とても悲しそうな目をして、首を横に振った。

 インドの抱える根本的な問題は貧富の差である。三歳で何カ国後もしゃべる裕福な子もいれば、まともに読み書きの出来ない貧しい大人が圧倒的に大量にいる。貧しい大人達の子供は小学校にさえ行かない。インターネットカフェが幾つもあるというのに、根本的にこの国は間違っている。

 13歳の男の子は私なんかより、ずっと達者なイングリッシュスピーカーであった。彼は独学で英語を身に着けた。彼の深い悲しみ色の瞳を思い出すたび、今でも胸が痛む。せめて、写真だけでも送ってあげなきゃだと思う。

 Old Village Khajuraho India

 彼の住所はこれだけで、番地も何もない。本当にこれで届くのかしら?

 さすがインド、奥がとても深い。

 

 

第五章   バラナースィー ―霧の季節は、すべて霧のせい?−

 カジュラーホーから戻る時も、やはりすごいバスだった。バスもすごいが、途中の休憩もすごかった。休憩のとき、車掌にトイレの場所を聞くと、向こうの家の裏にあるという。行ってみると、一面のブッシュで建物はどこにも見当たらない。はてな?英語を聞き違えたか?そう思って、今度は違うおじさんに聞いてみても、やはりあの向こうの家の裏だという。再び行ってみても、やはりなにもない。しかし、そこかしこに人がいる。そうか!!ここはばか広いブッシュの中が公衆トイレなのだ。ポンちゃんはさすがにためらいを見せたが、すぐに気を取りなおして、ごそごそとブッシュの中に消えていった。足元にはくれぐれも注意しなければならなかった。

 ガンジス川の中流に位置するインドの聖地バラナースィー。ヒンドゥー教信者の憧れの地であると同じに、観光客にとっても魅力のある街である。バスは夕方駅に到着した。18時発の列車に乗り、翌朝の1020分にバラナースィーに到着する予定だった。

 食料の買出しをし、我々の乗る列車を待つ。インドの大きな駅にはたいてい待合室がある。その待合室は一等用と二等用にわかれていて、やはり格差を感じずにはいられない。一等用にはオンボロながらもシャワー室とかもある。ただし、水しか出ないので、さすがに12月には使えなかった。その待合室の入り口には何故かばばあが二人ほど常に座っている。出入りをするたびに、明らかに金銭の要求をする。最初は、お金が必要なのかと思い、小銭を渡していたが、ほかの人を見ると、ばばあを完全に無視をしている人もいる。お金を渡さないと、ばばあには何の権利もないはずだが、あからさまに不機嫌な態度を取る。払う金額も、日本円にして5円くらいだから、別にケチる気もないけども、なんとなくばばあが気に入らず、我々は一銭も渡さなかった。どうせ休憩する時間もたかだか30分ほどというのも、払わなかった一つの理由だった。

 さて、18時近くになった。我々はばばあのいやみもそこそこに牛が闊歩するプラットホームに出ていった。寒い。気温は零度に近い。防寒下着にタイツ、フリースにアウター、持っている服をほとんど全部着てもまだ寒かった。しかし、我々のチケットは一等コンパートメント。列車に乗ってさえしまえば、温かい個室が待っている。

 ところが……。待てども待てども列車はこない。駅の放送は10分毎に遅れている旨の内容を繰り返す。繰り返す。くりかえす。温かいチャイをおかわりする。また、もう一杯おかわりする。寒いが、さすがに今更待合室には帰れない。もう我慢の限界か!と思った22時30分、のんびりのんびり列車はやってきた。我々は飛び乗り、自分たちのコンパートメントのドアを開けた。 

 

 一等のコンパートメントは、暖房なぞは勿論なし。建付けが悪いので、隙間風がひゅうひゅう入りこみ、さながら監禁室のようだった。しかたなく、我々はありったけの服を着込み、抱き合って眠った。今夜さえ耐えれば、明日の朝10時にはバラナースィーのはずであった。はずなのに……到着は夜の20時!。おまけに電源がないのか、ずっと真っ暗の車内に閉じ込められたあの恐怖は、一人では耐えかねた。10時間も到着が遅れても、誰もおこらないこの国は、やはりとてもすごい。本当に時刻表通りに運行されているのだろうか。事故の心配はないのだろうか。我々の心配をよそに、おそらく今日ものんびり列車はインドの大地をマイペースで走っているのだろう。しかし、無事バラナースィーに到着してよかった。何も見えない真っ暗な車内、本当に怖かったんだから…。

 バラナースィーの街は5メートル先を見ることさえ出来なかった。というのは、霧が濃くて、あとはどこの街も同じだけども、街灯が少なく暗いのである。どの駅についたときも同じだけども、「バクシーシー」を求めるヒトヒト人が手を伸ばしてまとわりついてくる。

昼間なら怒鳴り散らして追っ払うところだけど、やはり暗くて濃霧で、こう周りの状況がわかりにくいと、弱気になってしまい、流しのリキシャーを拾い、そのままホテルに直行した。ガイドブックにも、またインドを旅した人の話からも、この街はあまり治安がいいとは紹介されない。事実、夜の駅前は難民キャンプのようだった。

 よく朝早く、ガンジス川に昇る朝日を見に行くことにした。ガイドの写真を見ると、川縁は信者であふれかえり、皆沐浴をし、その中にサドゥーと呼ばれる聖者が派手な化粧をして修行をしている。友人たちは口をそろえて、朝の沐浴風景は見るべきだと、日の出前に川縁に着くことを薦めてくれた。そういう訳もあって、我々はかなり期待してリキシャーに乗って川に向かった。

  

 ところが、誰もいない。サドゥーも修業していない。それもそのはず、気温は0℃前後。さすがのインド人もこの寒いのに沐浴している馬鹿は少なかった。おまけに天気が悪くて日の出も見られないし、とても寒寒とした景色だし、拍子抜けだった。それでも、そこで死体が焼かれていたり、赤ちゃんの死体をそのまま川に流したり、その死体が流れている横を淡水イルカが泳いでいたり、ごみや排泄物がそのまま流れている横で洗濯をする人がいたり、インドという国の風俗がそこに凝集されているような雰囲気はとても楽しかった。

 しかし、牛どもよ。頼むから細い路地の真中で通せんぼをするのはやめてくれ。おまけに周囲は牛の糞まみれだ!

 

第六章   シルディ −ここではワシら,チベット人?−

 2000年問題で、インドも世界中の他の国々同様、年末は慌しかった。年末年始にかけて、やはり一抹の不安があったのもあって、最初のデリーで1231日のホテルは予約していた。場所はアウランガバード。バラナースィーからは直線距離にしても1,000km以上はある。

バラナースィーの後、我々は西進し、気分の赴くままに列車に乗っていた。

列車のインド人と英語で会話をする。比較的英語は通じるので、会話は弾むことも多い。とあるインド人は、「シルディ」という街が面白いという。シルディ…聞いたこともないし、ガイドにも載っていない。インド人が言うには、「サイババ」の街だそうだ。「サイババ」というのは、インドの生き神様で、勿論、現存する。インド人はカーストの高低にかかわらず、「サイババ」を信仰している。そしてこのシルディには、これまでのサイババの遺体が安置されている。サイババの信者たちがインド各地からバスツアーで、または列車とバスで、ある人は徒歩で、ここシルディに集まってくるのだ。我々もここに例のオンボロバスで降り立った。列車を途中下車してでも、インド人のサイババ信仰を目の当たりにしたかったのだ。なにしろ、現在のサイババはデブでアフロヘアでサングラスをかけている。とてもじゃないけど、生き神には見えない。なんでこんな俗物っぽい神様をインド人10億人は信仰しているのか、とてもじゃないけど理解できなかった。(ま、他にも象の神様ガネーシャや、サルの神様ハヌマーンとかもいるけどね、怪しい神様は)

バス停にはインド人しかいなかった。圧倒的にヒンドゥー語の看板が目に付く。いや、それ以上に目に付くものがあった。そう、サイババの肖像画である。ふと店に目をやると、サイババのプロマイド、サイババの首にかけているのと同じネックレス、同じサングラスなどなど、サイババグッズがめじろおしである。

 ホテルのフロントにも、レストランのカウンターにもサイババのプロマイドが飾ってある。他のインド人に見習って、サイババ寺に行き、なんと1時間半も並んで、やっとサイババの像の所にまで着いた。その間、大理石の上をずっと裸足で待たされたものだから、足の裏の冷たさといったら、例えようがない。並んで待っている間、インド人の団体さんは、(おそらく)サイババを称える歌をわめいたり(歌うという表現は適さない)、一心不乱にお祈りしていたりしていた。サイババ像に皆お供え物を上げていたが、我々はお供え物をすることさえ知らなかったので、前の人後ろの人となりの人から、少しづつわけてもらい、それを何食わぬ顔をしてそこにいた僧侶に渡してきた。

「すいませんね、チベット人で、あまりよく知らないものですから…」

 

 ここのホテルは、すごいホテルだった。20年前のラブホテルもびっくり!

天井壁照明全てピンク一色!

 おまけに、蚊帳までも。毛布も!じゅうたんは言うまでもない!私は発狂寸前だったけど、ポンちゃんは発狂していた。

 

 チベット人に間違われて、ちべっとショックだった?

 

 

第七章   アウランガバード −ハッピーミレニアム?inアウランガバード−

 シルディからアウランガバードまではバスを使った。不思議だが列車は遅れるくせにバスは定刻に近いスケジュールで運行されていた。シルディを出発する時は20分遅れだったけど、アウランガバードには予定通り到着した。むろん、途中はジェットコースター並のスリルを味わうことが出来るけどね。

 アウランガバードはアジャンター、エローラという二大世界遺産への観光起点都市である。気温は最も寒いという12月や1月でさえ、日中は30度を軽く越える。この街にいる間、我々はTシャツに短パンというスタイルで貫き通すことが出来た。

 1231日。気温30度超。

午前中、デカン高原の山登りをする。午後はエローラの石窟院を見に行く。夕方アウランガバードに戻って、スモール「タージマハル」と言われる「ビービー・カー・マクバラー」を訪れる。

 こんなゴールデンプランを練っていた私だったが、なぜか、今でも原因は不明だが、昼を過ぎてから見る見る顔色が曇っていった。お腹の調子が悪い。わるい。ワルスギル。まさかの「ビービー・カー・マクバラー」でダウン。

 

 ホテルにすぐに戻り、そのままベッドイン。テレビをつけると、世界各地の新年を祝う映像が続々と報じられていた。東京の明治神宮然り!薄めで、うすらぼんやりそれを見ていた。ホテルの中庭も徐々に盛り上がっているのが判る。しかし、自身の“不調”度合いも徐々に盛りあがっているのが、これまたよくわかる。最高潮を迎えんとする夜23,ついにさすがにやばいと悟った。

 「すまん、医者を呼んでくれええぇ」

 蚊の鳴くような声でポンちゃんに頼む。

 ホテルのボーイが医者に連絡を取り、いままさに花火を打ち上げようとする1145分、医者はやってきた。さすがに怪訝そうな顔つきだ。しかも、少々酒臭い。診察5分。怪しい色の薬を置いて、彼は逃げるように帰っていった。

しかも、診察料は、なんと、500ルピー!!!!1100ルピー!

 なんて大金を取られたんだあ…。うすらぼんやりの意識の中でそう思った。(後から考えると、たかだか1,500円なんだけどね)

 半信半疑と言うより、一信九疑で、置いていった薬を飲んでみた。そして、うっすら花火を見つつ、眠りに落ちた。

 ふと、5時ごろ目を覚まし、何気に体温計を手にとって熱を測ってみると、

あら不思議!なんと熱が下がっているではないですか!さすがインドの医学は世界最高水準だ。気が軽くなって、二度寝する。「きっと、明日はポンちゃんも安心できるだろう」そう思うととても心楽しかった。

 ……翌朝、ポンちゃんが40度の熱を出してひっくり返っていた。世の中、うまく行かないものである。結局、ポンちゃんは3日間寝つづけた。日本の薬はインドの熱には勝てなかった。見かけは怪しい色をしていたが、インドの薬は強烈だった。

 アウランガバード。5日間いたけど、ほとんど寝ていた。寝正月。うーん、ハッピーミレニアム!

 結局、アジャンターへは行くことが出来なかった。

 

  

第八章   ムンバイ −

 ムンバイーはインド一の都会である。人口1200万人、都心部のオフィスの室料は東京並だという。じじつ、物価は比較的にならないほど、例えばアウランガバードの1.5倍から2倍くらい、高かった。

そして、面白くなかった。

 おまけに、タクシーがストライキで、バスは満員だし、人も物乞いの数も多い。自分自身感じたのは、まるで、タイのバンコクにいるような錯覚だった。

 

 そんななかで、とても強烈に目に焼きついた人がいる。その人は、チャイ屋さんだ。その人の差し出してくれたカップは、何故か変なのだ。いや、カップが変なんじゃない。その人の指が6本あるのだ。小指の横から更に細い指がかわいらしく生えている。ちゃんと爪もあった。しかし、驚いているのは我々だけで、他のインド人の皆は、それが特に普通の出来事のように受け止めていた。

 後日聞いた話では、1000分の一くらいの確率で日本でも生まれるらしい。しかし、生後すぐに第6本目の指を切り落とし、いわゆる普通の手に見せかけるらしいです。

 

 ここムンバイーはインド旅行最後の都市。ここで私は一眼レフカメラ(EOS1000S)を売り飛ばすつもりだった。ちなみに日本での買い取り金額は5,000円でした。

 当初の目標は20,000ルピーだった。インドにはほとんど一眼レフというものがなく、重宝されるに違いないという誤った認識がこう言う数字を頭に浮かべさせた。実際にはムンバイーのカメラ屋さんには一眼レフ、それもEOSやMINOLTAといったMADE IN JAPANが所狭しと並んでいた。さすがに、新品の価格は日本のほうが安かったが、既にカタログにも掲載されていない私のカメラを20,00ルピーで買おうという馬鹿なカメラ屋さんはいなかった。

 ムンバイーのカメラ屋さんの中で、最高金額を提示してくれた額、それは5,000ルピー(15,000)だった。うーん、悩んだ挙句、結果持ちかえった。

 

 

第九章   デリー、再び −シーク教徒のシンは、日本語でへへへっと笑う。むかっ!−

 

 インドに限らず、どこでも首都が一番にぎやかで面白い。が、反面つまらない。

 おもしろい人間もいるけど、どうしようもない人間もいる。

 

 コンノートプレイスという中心地の広場を歩いていると、一人のインド人が駆け寄ってくる。そいつは、はぁはぁ言いながら、私に向かってこう叫んだ。

 「チョトマテ!オマエミミ、メチャメチャキタナイ!!」

 

 うるせえ!余計なお世話とはこのことである。彼は耳掃除屋さんなのだ。

 

 

 タクシーに乗っているときのことである。ロータリーを回っているときに、前のバスと接触し、我々の乗るタクシーはフロントが派手にへこんでしまった。タクシーは我々を忘れ、バスの運転手は乗客を忘れ、道の真中でけんかをし始めた。どうなるのか、行方を見守っていたが、結局200ルピー(600)で決着した。その運転手はそのまま我々を乗せたまま修理工場に直行し、30分でタクシーはきれいに直った。

 その30分は、工場の人と話をしたり、道端で座って、歩いている人と取りとめもない話をしたりして、楽しい時間だった。しかし、インド人に一言言いたい。「寒いか?」と気を使ってくれるのは嬉しいが、頼むから目の前でタイヤを燃やすのはやめてくれ!臭いにも程がある。

 

 なんで、皆体重を測るのが好きなんだろう。道を歩いていると、突然道端に体重計が置いてある。その前にぽつんと一人しゃがんでいる男は、なんと、体重測定屋さんだという。

体重を測ると、一ルピー彼に渡す。たった一ルピーである。日本円にして、約3円。彼の生活はどうなっているんだろう。

 

 赤ちゃんを抱いているのはまだ15歳くらいの少女。少女は我々の(というか、ぽんちゃんの)袖をひき、深い悲しみの色をした瞳で我々を見つめる。

 

 わざと足を切り落とし、同情を買って物乞いで生きていくしかない老人がそこかしこにいた。

 

 

 「憧れのインド旅行は新婚旅行というより、ヒンコン旅行だったよ。」

 

 私はよく口にする。自分がヒンコンなのではない。インドがヒンコンなのだ。

 しかし、精神的には、今までのどの舞台よりも精神的に豊かな旅だった。しみじみ、デリー国際空港で29日間の旅を思い出していた。

 

 「いい国だったよ、本当に…」

 

 出発3時間前の夜7時、国際空港は停電した。

 うそ!まじ?管制塔は?滑走路は? なんで国際空港が停電するの?しかも2時間も!

 

 神秘の国インド。信じられないことがここでは当たり前のように起こりうる。最後まで気の抜けない新婚旅行でした。