地球劇場第2幕
イチサイクリスト,世界へ〜ワールドツアー1994〜


 

 プロローグ

 はじめてチャリにのったのはいつのころか、はっきりおぼえてないけれど、
はじめてツーリングにでたときのことはまだはっきりとおぼえている。
サイドバッグの存在を知らなかった俺は、ボストンバッグと寝袋を通学用の
チャリにくくりつけて、一人一ヶ月、北海道を走ったっけ。
 そのころからだろうなあ、いつか世界を走りたい、という夢を持ちはじめ
たのは。
 夢はかなわないから夢なんじゃなくて、かなえようと努力するから夢なんだ。
 

 ◎舞台1 日本.   BGM:「働く男の唄」「フレンズ」etc.
 さ・あ、出発だ!!といって出発できるような旅とは、今回の場合、ちょっ
と違う。今までのツアーは、”途中で働きゃいいや”など甘いことを考えて
旅に出ていたが、 今回は勝手が違う。まず、金とヒマを作らねばならない
のだ。ヒマの方は一年間休学することで、すぐできたんだが、問題は、経済面
である。
 もともと貯金などたいしてない男、残された道は「働く」ことだけなのだ。
2月、3月、馬車馬のように働いた。昼はとびこみ営業、夕方は家庭教師、
夜はセブンイレブン、・・・ストレスや疲労なんぞ、目の前の WORLD TOUR
のことを考えりゃ、たいしたことなかった。ちなみに3月の月収、55万
ちょっと。人間がんばれば、なんでもできるもんだ。
 6月2日に実家、鈴鹿を、6月6日に静岡を、そして、6月10日に日本を
(新潟から)出発した。右手には一日4時間睡眠で作った100万円、左手には
ロシア行き片道切符、足はもちろんチャリ、心の中には・・・6月5日、新歓
サイクのあとのBピロでの飲み会、そして次の日の早朝の校門前の見送りetc、
サイクリング部のみんなの”アツイエール”をしまいこんでの出発だ。はるか
大昔のことですが、この場を借りて、あのときお世話になった、また駆けつけて
くれたみなさんにお礼を申し上げます。本当にありがとね。
 新潟港、といえばおなじみ佐渡・北海道行きフェリーなのだが、今回は
ちょっとちがう。税関は15時から、ということなので、15分まえから
スタンバッていたが誰もこん。役人も客も誰もあらわれない。しまった、日を
まちがえたか、と思っていたころ、一人、二人と人があらわれ、役人も顔を
だした。役人の言ったセリフはこうだった。
 「全員そろってから始めましょう。」なんと、客は9人しかいなかった。
乗務員は30人以上いることはまちがいない。猿でもやとってんじゃねえのか、
と不安になりながらも、16時30分ごろ、乗船。ロシアへ。

 ◎舞台2、ロシア  BGM:「CRAZY TRAIN」
 乗船した瞬間、一気に緊張感が高まる。、まわりは一人を除きロシア人のみ、
表示はロシア語オンリー。船室(4人部屋だが一人で使用。)に案内され、
少し落ち着くこと3分。ロシア語の放送が入る。なにしろ一言もわからん以上、
また一気に不安になるが、多分、出港だろう、ということで甲板へ上がろうと
した。
 が、な、なんと、ドアのカギがあかない。押してまわしても、引いて
回しても、もちあげても逆にまわしても、思いつくありとあらゆることをして
も、カギがあかない。
 いきなり閉じこめである。不安は募りに募り、このまま2日間、この状態か?
などなど思考はますますマイナスに走る。丸い船窓をムリヤリあけ、外にいる
ロシア人の女性に、会話集をつかってロシア語でいったセリフはこうだった。
「助けてください。閉じこめられました。104号室です。」
 その女性は、日本語で、「おちついて、どうしたの?」ときいてくれたが、
気の動転している俺は、「Help me!! Help me!!」を連発
していた。
 係員に救出(?)されて、なんとかおちついたものの、すばらしい旅の
始まりだった。ちなみに、その船(新潟−ウラジオストク)は、めっちゃ
よかった。部屋も、食事も、サービスも、そしてそして、夜のショーも。
 夜のショーのときは、客が9人しかいないはずなのに、ショーの観客は
40人以上いた。ちなみにそのとき、船はうごいていなかった。夕方発
午前9時着なんて、どうも話がうますぎると思ったよ。昼は昼で、突然、
救助訓練始めるし、なぜか熊が甲板を歩いているし!いろんなところにロシアを
感じることができておもしろかった。
 ウラジ入港は9時30分だったが、上陸するのに2時間半かかった。その
理由は、なんと、”入国審査員が来てない”という、あまりにロシアチックな
ものだった。さすがに怒る気力も失せた。その日、ロシアは日曜日+祝日だった。
 銀行クローズ。ルーブル(以下P)なんて一切持ってないうえ、レートも
知らない俺は、とにかく荷物をあずけて、両替商をさがしにでかけた。
やっとみつけた闇のチェンジマネー屋(以下チェンマネ)のレートは
1$=2000P。公定レートは1$=2110Pだそうで、なんとか妥協して
40$かえた。んだけど、それが全部1000P札なもんで、いきなりお札が
80枚!!財布いっぱいになって、大金持ちになった気持ちがしたよ。
シベリア鉄道の出発時刻は、夜中0時55分。それまで、街をぶらぶらして、
暇つぶし。 そして、0時30分ごろ、ホームへむかったのだ。
 !!Crazy Train!!にのるために・・・
 今回俺は大阪のサイクルワールドというチャリ屋のオリジナル輪行バッグを
使っていた。オーストリッチの約1.5倍、人間が2人入る大きさの代物だ。
そんなでかい輪行バッグに詰められる限りを詰め込んだもんで、重い。
 それを、港の荷物一時預かり所から、プラットホームまで、さらに、プラット
ホームの端まで約1.5km。全体力を使ってはこんだ。何しろシベリア鉄道の
列車の全長は2kmもあり、こんな代物があるときに限ってうしろから2番目の
車両なんだから、たまったもんじゃない。 
 全ての根性を使い切る手前で、なんとか乗車口についた。そこでは、50歳を
すぎた気性の激しそうな女車掌と、でっかい荷物をもったロシア人の一家が
口ゲンカをしていた。俺は全く理解できなかった(なぜ口ゲンカしてるか)が、
次第にわかってきた。そう、荷物がでかすぎる、というようだ。ロシア人一家の
方はやぶれて、(多分)口汚い言葉を乱発して帰っていった。
 そんなわけで、女車掌は機嫌が最悪だった。俺の輪行バッグを見るや否や、
ロシア語でまくしたてる。俺は俺で、輪行バッグをおいていくわけにはいかんし、
列車に乗らないわけには行かない。一歩もひかず、英語で身振りもつけて抗議
した。そこへやってきたのが、26、7歳の若造車掌だ。
 俺と女車掌の口ゲンカを止め、紙をだせ、という。出した紙にかかれた文字は
ただひとつ、”300US$”だった。
 それまで数本切れかけていた血管は一気にブチッといってしまった。ここからの
口ゲンカは、日本語VSロシア語である。「払えるわけねえだろ!!」「てめえ
300$の価値を知っとるんか?」参考までに書いておくと、シベリア鉄道、
ウラジ−モスクワ間の運賃は、外国人450$、ロシア人100$。ロシア人の
平均的労働者の月収200$、である。なにがあっても、そんな大金を払っては
いけない。後々、「日本人はふっかければすぐ払う。」という認識を植え付ける
ことになってしまう。
 そんな、カッコイイことを言わなくても、俺は60$しかもってなかった。
これ本当。普通、海外旅行にいくのに、現金はあまり持っていかないのが常識だ。
 車掌どもの目は、金に飢えた守銭奴のごとくつり上がっていた。金を払う気も、
払う能力もない俺は、非常にいいことを考えていた。
 ”出発する直前に根性で飛びのればいいや”根性はまだ全部使いきってなかった
から、4段の階段を駆け上がって車内に入ることは可能に思えた。(ちなみに、
日本のプラットホームは高さ1m〜1m30cmほどであるが、ロシアのホームは
ほぼ地面と同じ高さ。)
 そう、目のつり上がり、吠えまくっている二人を横目に、俺は冷静だった。
そして、ゆっくり、歩くよりゆっくり、シベリア鉄道、ロシア号が動き始めた。
それっいまだ。イチ、ニイ、サン、「ドン!!」”えっ、うそだろ、おい、まじかよ。”
 急な階段を駆け上がる俺を、若造車掌が、ゆっくりとはいえ動いている列車から
突きおとしたのである。何十kgもある荷物をかかえる俺はころがりおちた。
怒りは音速より速く消え去り、恐怖だけが俺の心の中に広がっていった。列車は
小走り程度の速さになっていた。
 ここでおいていかれるわけにはいかなかった。俺は飛びのることができたが、
輪行バッグはウラジオストークの地で永遠に眠ることになった。悔しさと、恐怖で、
車掌どもに対する怒りは、とりあえず表面化しなかった。コンパートメントで、
泣きたい気持ちをずっとこらえていた。
 そこへやってきたのは女車掌、なんと、サービス料として一人5000P
よこせ、という。同室の3人は渋々支払っていた。俺も、それは必要経費、
(つまり義務ね)と思ったんで、5000P払おうとした。俺の顔を見た女車掌の
一言は「3ダラー」だった。鎮静化していた俺の怒りはいきなり大爆発した。
口がまわるかぎり、ののしり、中指を立て、てめえにやる金は一切ねえ!!と
態度でしめしてやった。車掌もブチ切れたが、さすがにこのときは俺の迫力勝ち
だった。そのあと7日間、俺からは車掌どもとは一切口をきかなかった。
 俺とチャリとの距離は時を追うにつれ離れていったが、あれほど悲しんでいた
のに、一日寝れば、なんということはなかった。荷物軽くなったし、そうだ、
これは盗まれたことにして保険金をもらおう、などなど、アクドイことも考え
はじめていた。
 よく考えりゃ、アメリカんときも相当豪快なはじまりだったし、旅のはじまり
とはこんなもんなんだろう。
 もともと立ち直りのはやい性格のうえ、同室のメンバーがええ奴らでなぐさめて
くれたり(変な意味じゃないゾ、土谷、)メシ食わせてくれたり、酒のませて
くれたり、いろいろ面倒みてくれて、助かったし、おもしろかった。シベリアの
景色もめっちゃキレイで、みとってあきやへんかった。車掌との一件がなければ、
シベリア鉄道の旅は最高やった、といえる。
 毎晩通路で飲み会、、コサックダンスや、ねぶたおどり、ヨカチン
音頭など、みんなで踊っていた。(?)日本の恥をさらしてすみません。朝から
ウォッカ飲んで”一日酔い”というのも初体験したし、スピリット95をのんで
マッハでキレたこともあった。ヒマやったけどおもろかった。 フロに思いを
めぐらし、頭のかゆさに耐える毎日やった。
 シベリア鉄道は乗客用にシャワーなんてない。下から押すタイプの水道が
ひとつ。トイレがひとつ。ところが、乗務員用のシャワーはあるのだ。それを
車掌が金をとって乗客に使わせていた。若造車掌が一言、「2ダラー」で
シャワーを使っていいゾ、というが、俺の返事は、中指を立てて、「シャラップ」
だった。
 大爆発で始まり、大爆笑、大爆睡、大爆酔とつづいたロシア号だが、7日目の朝、
モスクワに着いた。駅に着いた瞬間、”しまったあ、間違えてカルカッタにきて
しまった。”と思ったほど、モスクワの玄関口はきたなく、混雑していた。
つぎはぎだらけの舗装、あふれんばかりの難民のような大量の荷物を抱えた
人、人。おびただしい物売り。メキシコと同じ雰囲気があった。メトロ(地下鉄)
も古く、それでもロシア人の誇りとして大活躍していた。戦時には地下シェルター
として活躍するそうだ。本当に、驚くほど深いところを走っている。二日間
モスクワをブラブラしたけど、目に入るものは全て、老朽化した建物、設備、車、
etcだけだった。
 あそこまで経済破綻が進むと人心も荒廃するのか、例えば、ある女性がリンゴを
一袋、地面に落とすやいなや、それを拾う人、隠す人、自分の売場で拾った
リンゴをうるオバサンなど、また、ある物売りのオバサンなんぞは、雨がふり
はじめると、なんと、自分はズブぬれになって、自分のカサをうっていた。
 どこぞのバカ者は、メトロの中で俺のゴアガッパのポケットをすっぱりナイフで
切ってくれた。
 ”ロシアでは、生きる、ということが最優先されている。大半の人間が生きる
ために必死なんだ。 そう、俺はたかがチャリをなくしただけでいつまでも
悩んでいてはいけない。”(日記より)
 そんなカッコイイことを日記に書いていながら、ロシア脱出の日、俺は、列車の
出発時間を心まちにしていた。ロシアから出国できる。やっと西側へ行ける。
そんな思いでいっぱいだった。
 が、そうはかんたんにいかないのがロシアである。ロシアの個人旅行は全て
インツーリストという国営の旅行会社が取りしきっている。俺のパリ行の列車の
チケットも、そのオフィスにもらいにいかねばならない。前日、午前10時に
来い、といわれ、その時間に訪ねると11時に、再度訪れると12時に、
再々度・・・13時・・・14時、チケットを得たのは15時だった。
 17時発だけに不安は募り、14時にいったときにはロシア語で
「いいかげんにしろ!」と一言いってしまった。受付のおばちゃんは
「私の責任ではない」(英)と軽くつっぱっていた。
 あやまらない国民なんてキライだよ。
 パリ行き夜行国際列車・・・・うつくしい。シベリア鉄道に比べ、まったく
ゆれず、さわがしくもなく、キレイで、クッションもきいていて、ああ天国、天国、
そして・・・

すいません、以下工事中です