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February 2003 February 12 情報とはなにか〜個人の判断力がすべて
February 24 斎藤美奈子著「趣味は読書」〜一般人の感覚
   
   
   

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February 24

斎藤美奈子著「趣味は読書」〜一般人の感覚


読書家や読書好きという表現が使われるが、それではどのぐらいの割合が読書フリークなのだろうか?

この盲点をついたような本が新刊の斎藤美奈子著「趣味は読書」である。
著者によればわずかに数パーセントいるかいないかだそうである。いや数パーセントもいないらしい。全国の数多くの書店を支えているのはこの人たちであると著書はいっている。
そしてなによりも著者が不思議に思うのは、彼ら自身は世の中のほとんどの人たちはすべて読書好きだと信じて疑ってないことだという。

斎藤美奈子は文芸評論家という肩書きで登場することが多いが、実際は本人の意識としてもかなりそうみせているがかぎりなく「一般人」の感覚に近い人である。彼女はけっして読書フリークでもなく、時には読書家に対してアイロニーをもった表現を使ったりすることがある。多くがエッセイのような文が多いからということにもよる。
彼女自身もこの本の中でいっているが、客観的に「読書家」や「読書フリーク」を分析し冷静に判断している。彼らが現実の日本ではどういう存在であるかを確実に描写しているのがおもしろい。また正確にいい当てているのである。

私は見事なまでに「読書家」からは程遠い。とくにフィクションはよほど興味を持ったものしか読まない。良いか悪いか、レベルが高いか低いかは別にして、現実としては圧倒的に私のような人間のほうが多いということを斎藤美奈子もいっている。

彼らがどういう人種であるかということを著者はあらゆる面から表現しているが、基本的にはたいへんまじめな人が多いということである。「まずはじめにまじめありき」なのだそうである。しかし、一般人としては「まずはじめにまじめありき」などという強制はなかなか苦手だ。
特に私のようないいかげんな人間は「はじめにフレックスありき」である。その後に一人一人の感覚があればいいと思っている。

しかし、こんな私のような一般人の感覚は読書家という人たちにはとても理解できないと思う。それ以前に斎藤美奈子なる人物を知らない人も多いかもしれない。知ってたとしても彼らの感覚としては斎藤美奈子のこの著書に対しては「こんな考え方をするから間違っているのだ」などと柳眉を逆立てるかもしれない。

文芸評論家という仮のタイトルで発言する斎藤美奈子のようなシュアな生き方をしてきた人たちとの接触は、彼らの人生にはあまりなかっただろうし、なかには見たことのない人種のような存在かもしれない。

そして一般人のタイトルを名乗る私は、この斎藤美奈子著「趣味は読書」すら購買することなく適当に店頭で読み流して「あっ、斎藤美奈子している」と感覚的に思うだけである。こんな俗物は読書家の人たちからは顰蹙を買う以外のなにもないのだろうと思う。


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February 12

情報とはなにか〜個人の判断力がすべて


情報とはなにか

人は生きていて遭遇するものがすべて情報である。

情報収集とはなんだろうか?よくある結論に次のようなものがある。

1.いかに捨てるかということである。
2.いかにとりいれるかということである。
3.他人と共有するということである。
etc.etc.

しかし、最近かなり不思議な人たちを目にしたり、耳にしたりする。
それは一般的で無難、誰もが知りうる情報を共有することで満足する人がふえていることである。

はたしてそれが情報なのか私にはかなり疑問に思える。
これだけ多くの人たちが個人のホームページを持ったり、それにともなう意思疎通をしたりしていながら、結局は無難な新聞やTVニュースのコメントを共有して安心する行為にどんどん逆戻りしているように思えるからである。
そんなことであればはじめからパソコンなどのない時代と同じように、既存のマスコミに依存していればいいのである。せっかくHPなどをオープンしながらオリジナリティーのある発言をなぜだしたりしなくなったのだろうか。自己のHPを持ったりするという意味はいったいどこへいってしまったのだろうか。

簡単なことだった。こんなことをある友人に話したらこう答えてくれた。
「結局いくらパソコンやHPの数がふえても、個人のオリジナリティーのある人間の数はかぎられているだけだ。」

なるほどね。そのとおり。
新しい息吹をとりいれようとしない社会やグループにとっては、文明の利器であるパソコンは単なる村社会、井戸端会議におけるお飾りのような家具にすぎなくなっているのかもしれない。または、パソコンやインターネットをやってるよ、という安心感が単に心地よいというだけなのかもしれない。


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