隅田川に架かる橋

2002.07.18 UP

東京を代表する川といえば 『隅田川』 でしょうか。滝廉太郎 作曲の歌 「花」 でも知られるこの 『隅田川』 は、現在公式には 『荒川』 の下流部に位置する一支流ということになっています。しかし、現在の 『隅田川』 は 400年にも及ぶ江戸時代初期からの歴史の中で生まれた河川形態なのです。

江戸時代以前、『隅田川』 は 『利根川』 本流の下流部分の呼称でした。『利根川』 は現在のように千葉県の銚子で太平洋に流れ出すのではなく、東京湾に流れ込んでいたわけです。そして、その最下流部分を 『浅草川』 とか 『隅田川』 と呼んでいたそうです。
『浅草川』 の呼び名は、川の西側(武蔵国) で呼ばれた名称、『隅田川』 は、川の東側(下総国) で呼ばれた名称ということです。

徳川幕府は、開幕後間もなく関東平野の河川の大規模な改修工事に着手します。その目的は、当時江戸にも大きな被害を出していた 『利根川』 の洪水を治めること、関東平野に新田を開発すること、そにて、江戸と近郊の水運の向上を図ることでした。

この事業によって、『利根川』 は現在のように銚子で太平洋に流れ込むことになり(「利根川東遷」といいます)、本来の 『利根川』 の下流部であった 『荒川』 は、『入間川』 と合流することにより独立した河川となって東京湾に流れ込む川となったのです。そして 『隅田川』 の名称は、『荒川』 の下流部分の呼称ということになったわけです。

こうした大掛りな治水工事を行っても、『隅田川』(荒川) の洪水は後をたたず、明治に入ってもその状況は変わっていなかったようで、明治政府は 「荒川放水路」 の計画を立てることになります。
この 「荒川放水路」 は、『荒川』 を北区岩淵から東に分流させて東京湾に放流する新たな水路で、その工事は明治44年(1911) から19年の歳月をかけて、昭和 5年(1930) に完成しました。

この 「荒川放水路」 が、現在のように 『荒川本流』 となったのは昭和40年(1965) で、これによって 『隅田川』 は独立した河川となり、それまでは 『荒川』 下流部の通称であった 『隅田川』 の名称も、公式名称となったわけです。
現在の 『隅田川』 の正式な区間は、北区岩淵水門から東京湾までの約23kmということになります。

昭和中頃までの 『隅田川』 は、水の汚れが目立ちはじめたとはいえ、「春のうららの隅田川・・・・・」 と唄われたように、土手や水辺のある美しい川だったようです。ところが、戦後の高度成長期に入るとこの川は徐々に汚染されはじめ、悪臭が漂うようになります。信じられない話ですが、「臭いものに蓋」 とばかり、『隅田川』 の暗渠化(地下にする) が構想されたこともあったといいます。

さらに、洪水や高潮から周辺を守るためにと、鉄筋コンクリートの高い壁のような高潮護岸が建設されました。この高潮護岸は 「カミソリ堤防」 などと呼ばれる評判の悪いもので、現在の 「隅田川テラス」 などとは対角をなすような、最悪の景観を作り上げてしまったわけです。
これも、機能本位の事業が多かった昭和中期から後期にかけての代表的な公共事業であったといえるでしょう。

しかし、昭和の後期になると 『隅田川』 をはじめとする都内の河川を都市景観の一部として考え、人と水辺の接点を探る試みが始まります。その代表的な例が 「桜橋」 であり、「隅田川テラス」 ということになるのでしょう。

『隅田川』 は今、生まれ変わりつつあります。ここでは、その新しい 『隅田川』 に架かる橋を、周辺の歴史なども含めて紹介して参ります。

『隅田川』に架かる橋は、昇順(下流→上流)に掲載しています。
勝鬨橋
佃大橋
中央大橋
相生橋
永代橋
隅田川大橋
清洲橋
新大橋
両国橋
蔵前橋
厩  橋
駒形橋
吾妻橋
言問橋
桜  橋
白鬚橋
水神大橋
千住大橋
尾竹橋
尾久橋
小台橋
豊島橋
新田橋
新神谷橋
(岩淵水門)

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