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『東富坂』 (真砂坂) 本郷1丁目35と4丁目15の間。 春日通りを春日町から本郷3丁目に向う坂が『東富坂』である。 「新撰東京名所図会」に 「東富坂は当時の南弓町一丁目の間を小石川春日町の司方へ下る坂をいふ。往昔は鳶坂と呼べり。小石川の『富坂』に対し其の東に在るを以て名づく。今其の北方右京原の一隅に市区改正の新路を開き電車を通ずるに至れり」 とある。この電車とは、明治41年(1908)4月11日、本郷3丁目から伝通院前まで開通した路面電車のことである。この路線施設のために、道路を今までの本郷3丁目からの直線的に下る急な坂道(現在地下鉄沿いに後楽園に向かって白山通りへ通ずる旧東富坂)から、坂上で北側へゆるやかに文京区役所前に下る道が作られた。 また、旧真砂町へ上る坂なので『真砂坂』とも言われる。坂北には江戸時代松平右京亮の中屋敷があり、右京山(右京ヶ原)と言われて『姿三四郎』の舞台にもなった。 |
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『旧・東富坂』 (鳶坂)(飛坂) 本郷1丁目35と4丁目15の間 「右坂の辺往古木立有之、鳶多居候由にて俗に鳶坂唱候由、年代不知富坂と書改候由伝候」 とある。鳶(とび)が多かったから『鳶坂』それが転じて『富坂』になったと考えられる。 また春日町交差点、現文京区役所の低地は、昔二ヶ谷と呼ばれた。この谷にまたがっている坂、谷を飛び越えて両方向かい合っている坂ということで『飛坂』とも言われた。 この『旧・東富坂』は狭い急な坂道で、坂下の白山通りを越えると後楽園遊園地・東京ドームとなる。江戸時代この一帯は御三家の一つ、水戸藩の広大な上屋敷(本邸)であった。今はその庭園部だけが『小石川後楽園』として残り、江戸大名庭園の遺構として、多くの人に親しまれている。 |
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『菊坂』 本郷4丁目と5丁目の間。 「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を『菊坂』と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」とある。この近辺で菊の栽培が盛んであったことから、この名が付いたらしい。 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町(西片1丁目)の台地の下迄の長いだらだら坂を『菊坂』と呼んでいる。もともとは菊坂下にある『胸突坂』を『菊坂』と呼んだようである。 『菊坂』と言えば「樋口一葉」ゆかりの地でもある。一葉が父の死後に母と妹の三人で菊坂下に移り住んだのは明治23年のことであった。 『打寄する 波にも花は 咲くものを ただにくだけて われやまめまは』 −樋口夏子(一葉)− |
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『樋口一葉旧居跡』 本郷4丁目32。 (写真は旧居跡に残る一葉も使った井戸) 昔この辺りは一面菊畑で、菊作りの植木職人が住んでいたことから『菊坂』名が付いた。坂の多い地形で、当時一番地から九十四番地までがあり、一葉は七十番地(現在の本郷4丁目32の1)に住んでいた。この一帯の中でも最も低い土地で、菊坂下と呼ばれていた。 この辺り一帯の路地は迷路のように続いており、いく曲がりしたか覚えないうちに古い門の前に出ることがある。家々は互いの壁を軒で支えあい、狭い路地をはさんで向かいあっていて、家々の前には鉢や箱作りの植木が置かれ、石畳の狭い道を一層狭いものにしている。 路地から出ると菊坂通りの裏の小路にに出る。路地に住んでいた一葉の家は、その裏通りを隔てて表通りの商店の勝手口と向かい合っていたという。一葉はその様子を次のように書き残している。 『我が家は、細道一つ隔て々上通りの商人どもが勝手とむかひ合居たり。されば、口さがなきものどもが常にいひかわす、まさなごとども、いとよく聞ゆるに。』 |
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『伊勢屋質店跡』 本郷5丁目9。 一葉ゆかりの『伊勢屋質店』は、万延元年(1860)この地で創業し、昭和57年に廃業したが、樋口一葉とは大へん縁の深い質屋であった。 明治23年(1890)、一葉は近くの菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母と妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年、下谷竜泉寺町に移ってからも、終焉の地(現・西片1-17)に戻ってからも、伊勢屋との縁は続いたという。 一葉が24歳の若さで他界した時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉とのつながりの深さを物語っている。 店の部分は明治40年に改築されたが、土蔵は、外壁を関東大震災後塗り直したほかは、往事そのままの内装になって今も残っている。 『此月も伊せ屋がもとに走らねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて・・・。 蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ』 |
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『見送り坂』 『見返り坂』 本郷4丁目37先の本郷通り。 本郷3丁目の交差点を、『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』の古川柳で有名な「かねやす」の前を通り、本郷通りを赤門の方へ。文京センターの左横『菊坂』の通りへの角辺りがやや低くなっている。 「改撰江戸志」に、「むかし太田入道道灌の領地の境目なりしといひ給ふ、その頃追放の者など此処より放せしと・・・いずれのころにかありし此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんかの別の橋なりといひ伝へり・・・太田道灌の頃罪人など此処よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」 とある。 江戸追放の者がこの別れの橋で放たれ、南側の坂で見送り人が涙で見送ったから『見送り坂』。追放者が北側の坂で振り返ったので『見返り坂』と言われた。何とも寂しい名称の坂ではある。 |
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『胸突坂』 本郷5丁目9と33の間。 菊坂下から本郷5丁目の台地に上る急勾配が『胸突坂』である。 『菊坂』の項で記したように、昔はこの『胸突坂』を『菊坂』と呼んでいたようである。「享保年中江戸絵図」には、現在の『胸突坂』にあたるところに「キクザカ」と記されている。また「江戸切絵図本郷絵図」(万延2年=1861)には、「ムコツキサカ」とも書かれている。この切絵図によると、長泉寺の西方一帯が菊坂町と記されている。 また「新撰東京名所図会」には 「明治二年道つくり、屋敷の残地及び本郷四丁目、五丁目の代地を併せ、又近くの土地寺地を合して其の町域を拡張せり」とあり旧菊坂町が広がって、本郷3丁目へ出る便利な道筋となり『菊坂』の坂名が定着したのではなかろうか。 『胸突坂』の名称は急な坂を上るときの体の形から名付けられた。文京区内で同名の坂は3つある。 |
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『梨木坂』 (梨坂) 本郷5丁目6と7の間。 『菊坂』の坂下から本郷台地に延びる坂で『梨木坂』と呼ばれる。 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。昔大木の梨ありし故坂の名とす」 「戸田茂睡(紫一本の著者)といへる隠者、此所にト居して梨の下の茂睡といひて世に名高き人なりと・・・茂睡が庵の前に大なる山梨の木一もとありしにより、梨の本といふ。是いまの梨木坂なり」 「此辺往古菊畑有之候処、此坂辺迄にて菊畑無之候故菊なし坂と唱候由に御座候」 など、『梨木坂』の名称の由来には諸説がある。 「新撰東京名所図会」の菊坂町景況の所に「当時は寺院の外大抵商家にて、付近に学生の寄宿せる下宿屋多きをもって繁盛せり」 とあり、その下宿の中には「石川啄木」の下宿した赤心館や、多くの文士が出入りした菊富士楼(後の菊富士ホテル)の名が見える。 |
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『新坂』 本郷5丁目33と6丁目11の間。 言問い通りの西の端本郷6丁目から本郷台地に上るのが『新坂』。 「映世神社々頭を斜に南西に通ずる一路あり、其窮る所坂あり、谷に下る、『新坂』といふ、谷の間にて新坂下、田町に通ず。」 江戸時代、近くの坂よりも新しいので『新坂』と名付けた。だから”古い新坂”である。映社神社は旧森川町の中心であった。岡崎藩の祖である本多忠勝を祭ったが、戦後廃社になった。 周辺は下宿が多く、文人たちが多く住んだ所であった。『新坂』の坂上、蓋平館別荘(現・太栄館)という下宿に、赤心館から石川啄木が明治41年9月に移って来た。三階の三畳半の部屋で富士山がよく見えたという。この宿は昭和27年に焼失し、現在「太栄館」という宿になっている。 |
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『石川啄木下宿跡』 (現・太栄館) 本郷6丁目10。『新坂』坂上。 石川啄木が、上京して創作活動に入ろうと決意し釧路を出たのが、明治41年(1909)の4月であった。啄木は上京後、本郷菊坂にある「赤心館」に下宿したが、書いた小説は全く売れず、日々の生活にも困る状況であったという。 この生活の困窮を救ってくれたのが金田一京助で、この年の9月に森川町一番地新坂三五九の『蓋平館別荘』(現・太栄館)に移り住むことになる。また、この頃森鴎外の知遇を受けるようになり、「観潮楼歌会」に出席するなど、短歌に傾倒していく下地が出来た頃でもあった。 この『蓋平館別荘』は昭和27年に焼失して今はないが、跡地には「太栄館」という宿が現在もあり、この宿の前には啄木の歌碑がある。 『東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる』 −石川啄木− |
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『鐙(あぶみ)坂』 本郷4丁目21と31の間。 『東富坂(真砂坂)』を上りきった春日通りを北に進んで、『菊坂』の狭い谷に下る坂が『鐙坂』である。 「鐙坂は御弓町より丸山へ下る坂をいふ。往来この所に武蔵鐙を製し初しものの子孫ありて、鐙を作る故に坂の名とす」 とある。 鐙は馬の鞍の両側にさげて、乗る者が足をかける馬具である。この鐙制作者の子孫が住んでいたので、『鐙坂』の名が付いたという。 しかしこの説に対して「改撰江戸志」は 「子孫がこの地にいたというは、他の書にいまだ見ざることで甚だうけがいがたし」 と書き、坂のかたちが鐙に似ているので名づけられたのであろうと書いている。 坂が谷底に下り、向うの台地にまたがっているかのように見える坂の形からのほうを「東京名所図会」は採っている。 |
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『炭団坂』 本郷4丁目32と35の間。 真砂図書館の前を北へ、『菊坂』へ下る急な坂が『炭団坂』である。 「此処はたどんなど商ふもの多かりしかばかく名付けしにや、詳にその名の起るところをしらず・・・」 また、「此坂切立てにて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故たどん坂と唱申候・・・」 など、『炭団坂』の名称の由来は諸説ある。 坂上の西角の崖の上には、一時期「坪内逍遥」が住み『小説神髄』や『当世書生気質』を発表した。門下の嵯峨廼舎御室は、『春廼舎(逍遥)の家は本郷真砂町の炭団坂、東京一の急なあの炭団坂の角屋敷、崖渕に有ったのだ』 と書いている。 逍遥の移転後はここに「正岡子規」も住んでいたという。 『ガラス戸の 外面に夜の 森見えて 清けき月に 鳴くほととぎす』 −正岡子規− |
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『本妙寺坂』 本郷4丁目8と36の間。 春日通りから真砂小学校の前を『菊坂』に下る坂が『本妙寺坂』。 「本妙寺は丸山のうち、本妙寺のむかひの坂なればなり、これを下ればすなわち本妙寺の表門なり」 とある。本妙寺前の坂なので『本妙寺坂』という。江戸時代のお寺はよい目標であったからである。 本妙寺は旧菊坂82番地の1号にあり、菊坂の台地上一帯にあった大寺で、元亀2年(1570)創建の法華宗。明治34年豊島区巣鴨へ移転して今はないが、江戸時代「振袖火事」(明暦の大火・明暦三年−1657)の火元として有名。また「遠山の金さん」こと遠山左右衛門尉景元や幕末の剣豪「千葉周作」の墓があった。 石川啄木は、本妙寺のすぐ近くの赤心館に下宿し、明治41年の日記に、『夜があけて本妙寺の墓地を散歩・・・』と書いている。 |
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『炭団坂』 本郷6丁目11と12の間。 言問い通りを本郷弥生交差点から南西方向に下りて来ると、慈愛病院のわきから本郷の台地に上る急な階段坂がある。これが、通称『炭団坂』だ。 『炭団坂』は本郷4丁目にもある。名称の由来には、一帯に炭団を扱う店があったからという説と、急な坂で炭団がコロコロとよく転がったからという説があるが、どちらの『炭団坂』も急な階段坂であることを考えると、後者の説がもっともらしく思えて来る。 この辺りには古い建物の下宿屋が多くあったが、一つ二つと姿を消して、今では数えるほどしか残っていない。昔の東大生は安い下宿屋で苦学をしたのであろうが、今はマンション住いの東大生が多くなったのかもしれない。時代の流れを感じさせる。 |
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『東京大学』 本郷7丁目。 東京大学は本郷7丁目であるが、実際には「本郷地区(本郷7丁目)」(本校)、「弥生地区(弥生1丁目)」(農学部)、「浅野地区(弥生2丁目)」(工学部)の3つの地区に分かれている。 このうちの「本郷地区」は、江戸時代は加賀藩前田家の上屋敷であったが、明治維新後に大学用地として公収され、今の東大となっている。 この「本郷地区」の、いわゆる『東大』には5ヶ所に門があるが、この中の余りにも有名な『赤門』は、江戸時代加賀藩主 前田斉泰が将軍家より夫人を迎えるために、文政8年(1825)に着工同11年完成した表御門で、現在は国の重要文化財に指定されている。 構内には1970年代初めの学生運動で学生が立てこもり、機動隊が大学構内に入って有名になった『安田講堂』や、漱石の小説『三四郎』から名前の付いた、大学の構内とは思えないほど風情のある『三四郎池』もある。 | |
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