小日向


小日向・音羽


2000.12.26 UP

『藤坂』 (富士坂)(禿坂)
小日向4丁目3と4の間 。
春日通りの播磨坂上から茗荷谷へ下る坂が『藤坂』である。
「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下る坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり・・・」。藤寺とは、坂下の曹洞宗伝明寺の俗称である。
慶安3年寅年(1650)10月27日、三代将軍徳川家光が牛込高田辺御放鷹(鷹狩)御成の時、帰りの道筋にこの寺に立寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり、藤寺とも呼ぶようになったと言う。昔は、この坂から富士山がよく見えたので、『富士坂』とも言われた。
その昔、この地に清水が湧出したので、清水谷と称した。湿地で禿(かむろ・河童のこと)がいるとのことで、『禿坂』とも言われた。
   『藤寺の みさかをゆけば 清水谷
         清水ながれて 蕗の苔もゆ』 −金子薫園−
『釈迦坂』
小日向4丁目4 「徳雲寺」裏 。
春日通りから徳雲寺の裏をくねくねと曲がって、茗荷谷に下る坂が『釈迦坂』である。坂下で『蛙坂』と向きあっている。名称の由来は徳雲寺に釈迦の石像があったことから来ているらしい。
徳雲寺は寛永7年(1630)の起立で臨済宗である。『新撰江戸志』に、寺伝にいうとして次の記事がある。境内に大木の椎(しい)の木があった。元禄年中(1688〜1704)五代将軍徳川綱吉がこの辺りに御成の時、椎木寺なりと台命があり、それから通称を椎の木寺とした。後にこの木は火災で焼けたが、また芽を出したという。
藤寺と同じような話であるが、『東京名所図会』には、「明治になって椎の木は枯れてしまった。椎の木寺が椎の木を失うは惜しむべし」とある。
『蛙坂』 (復坂)
小日向1丁目23と25の間 。
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず・・・」『改撰江戸志』。
『御府内備考』の茗荷谷町の書上に次のようなおもしろい記事がある。
この坂は高さおよそ十八間程(約32m)、幅一間程(約2m)、七間屋敷より茗荷谷町の方へ下りる坂で、この坂の東の方は崖になっており、そこはひどい湿地帯で蛙が多く集まっていた。また向かいの馬場六之助屋敷の中に古い池があって、ここにも蛙がたくさん棲んでいた。或る時、この坂の中程に左右の蛙が集まって合戦があったので、俗にこの坂を『蛙坂』と唱えるようになったと伝えている。
七間屋敷とは、『蛙坂』の坂上にあった切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことである。
『茗荷(みょうが)坂』
小日向3丁目4、「拓殖大」前 。
「茗荷坂は茗荷谷より小日向の台へ上る坂なり、左の方は戸田家の下屋敷なり・・・」。拓殖大前の通りが『茗荷坂』である。
『江戸切絵図』嘉永7年(1854)尾張屋清七板をみると、坂の西側に戸田淡路守の下屋敷があり、東は林泉寺シバラレ地蔵とある。坂名は茗荷谷に下る坂で、茗荷からきている。
「茗荷谷は七間屋敷の北の谷なり、昔この所へ多く茗荷を作りしゆへの名なり・・・、此辺はことに広く、その唱へも名高き所なり」『改撰江戸志』。
七間屋敷とは、切支丹屋敷警備の武士の組屋敷であった。林泉寺には今でも「縛られ(縛り)地蔵」がある。願かけのとき縄でしばり、願がかなうとそれをほどく。また、隣りの深光寺には、『南総里見八犬伝』で有名な「滝沢馬琴」の墓がある。
『切支丹坂』 (幽霊坂)
小日向1丁目16と24の間 。
「今の第六天町にある切支丹坂(注・現茗台中学校側の庚申坂)は本名庚申坂と呼びて、まことの切支丹坂は其向あるわづかばかりの坂なり、坂の上は牢屋敷(注・切支丹屋敷)にて・・・」『東京名所図会』。
これは、明治末の記事である。『庚申坂』(切支丹坂)の項でも述べた通り、茗台中学校側の坂は『切支丹坂』と呼ばれいたが、実は『庚申坂』である。地下鉄丸の内線のガードをくぐって、小日向の台地に上る坂が、もともとの『切支丹坂』のようである。通称『幽霊坂』とも言われた。
寛永20年(1643)というと、鎖国から4年後である。この年、バテレン(宣教師)ジョセフ・カウロ一行十人が、九州に来て捕らえられ江戸に送られた。宗門奉行 井上筑後守政重の下屋敷(この坂の上)に牢がつくられた。廃止は寛政4年(1792)である。今は閑静な住宅地となっている。
『荒木坂』
小日向1丁目1と4の間。
称名寺の東横を、小日向台地に上る坂が『荒木坂』である。
「荒木坂は新坂の西なり、荒木志摩守の屋敷この坂の上にありしより名付けり、今はなし・・・」『改撰江戸志』。武家屋敷の多かったこの地区に多い坂名の一つである。
この『荒木坂』の下、小日向台地のすそを、我国最古の「神田上水路」が通っていた。今でも水道通り、巻石通りと地域の人は言っている。最近完成した図書館も「水道端図書館」と名付けられた。(旧町名「水道端」)
井の頭を水源として、善福寺川や妙正寺川を合わせて、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位をあげ、これを素堀で水戸屋敷へ入れた。ここからは地下の樋で神田、日本橋方面へ配水し、余水は神田川へ流した。明治になって、素堀は石でおおわれ(巻石という)、後に鉄管になった。飲料水としての使用は、明治34年(1901)に廃止されている。
『浅利坂』
小日向1丁目14付近にあったが、現在は住宅地になって坂はない。
左の『江戸切絵図』嘉永7年(1854)尾張屋清七板のアラキサカの北に、西から東に下るアサリサカがある。現在は家がたてこんで坂はなくなっている。小石川植物園内の『鍋割坂』と同じく、今はない江戸の坂が『浅利坂』である。
「浅利坂とは荒木坂上の方より切支丹屋敷へゆく間の坂なり、ここも切支丹屋敷の上地の内なりといふ・・・」『改撰江戸志』。また、『東京名所図会』には、「第六天町と茗荷谷町との境を東へ下る坂ありて、『浅利坂』という。坂名は昔この地に住んだ者の名をとる。近年この道なくなり、坂道をうしなった」 とある。
第六天町の町名由来は、神田上水の白堀の堤の上に第六天祠(高木神社)があったのでこの町名になった。
『薬罐(やかん)坂』 (野かん坂)
小日向1丁目10と11の間。
通称「水道通り(巻石通り)」の北、『横町坂』の坂下の道を東に上る坂が『薬罐坂』である。坂の西側には生西寺がある。
『江戸切絵図』嘉永7年(1854)尾張屋清七板には、『服部坂』の北西の生西寺のそばに、『ヤカンサカ』の記入がある。 野狐のことを野かんと言った。野狐が出て人をたぶらかすような、もの寂しい所なので『野かん坂』と言ったのであろう。そして、「野かん」から湯わかしの「薬罐」に転じたと言われている。江戸時代のこの辺りは寺や旗本屋敷が連なっていて町屋はなく、昼でも人通りが少なく寂しい所であったのだろう。同名の坂は、目白台2・3丁目の境にもある。
坂下に日輪寺があり、ここには大正・昭和前期の劇作家・小説家の真山青果の墓がある。『元禄忠臣蔵』などの戯曲が有名。また、明治19年(1886)この寺の境内に、私立では我国初の小石川幼稚園が開設された。
『横町坂』
小日向1丁目6と8の間。
「坂登凡二十六間程(約47m)幅凡一間程(約2m)右者町内横町 福勝寺前通より御持筒屋敷え出候横町に有之候、横町坂の儀は町内ならびに福勝寺津田外記様御屋鋪にて道造致来申候、」『御府内備考』。
江戸時代、『服部坂』の東に続いて、福勝寺の南、水道町の町屋の間を東に下る、西御丸御筒組(注・鉄砲組)頭 津田外記の組屋敷の間の横町の坂で、『横町坂』と言われた。武家屋敷を下る横町坂である。坂の修理は、お寺と武家屋敷と町屋の三者が共同で実施した。
この辺りは、旧小日向水道町である。『東京名所図会』によると、昔の小日向村の内で、ほとんど田畑であったが、神田上水がひかれ、明暦2年(1656)町屋敷として初めて家屋を開き、上水役を勤めたため、永く年貢は免除されたと伝えられている。
『服部坂』
小日向1丁目7と2丁目16の間。
「服部坂は荒木坂の西なり、此坂の上に服部氏代々おれり、ゆへに坂の名とす、寛永の江戸図にも服部氏の屋敷をのす」『改撰江戸志』。また、「服部坂は、此所は服部権太夫殿代々住居の地なり、今に存す」『続江戸砂子』とも。
『服部坂』は、町内中央より艮(北西)の方神田上水の向かいにあり、俗に『服部坂』と称した。この坂の中程から西の方に、旗本 服部与兵衛門の屋敷があったので、こうに唱えたと言う。
江戸時代、坂と坂下の両側は町屋で、小日向水道町と言った。西側の服部氏の屋敷跡には、明治2年に小日向神社が移された。すぐ南隣りの現在の区立第五中学校の地には、明治11年に開校した黒田小学校があった。旧黒田藩主 黒田長知のゆかりで黒田小学校と称した。永井荷風も通学したが、戦災で廃校になった。
『大日坂』 (八幡坂)
小日向2丁目17と18の間。
「門前前進(注・今もある坂下の東の清光院)より北の方有之、往古八幡坂と唱申候、坂上左に田中八幡宮有之候に付里俗八幡坂と唱候----社地は音羽町8丁目裏通り相移申候に付、坂下東の方妙足院境内に大日堂有之候間、其後里俗大日坂と相唱候、」『御府内備考』。
坂上に田中八幡宮があったので、『八幡坂』と呼び、移転後は妙足院の大日堂にちなみ、『大日坂』と唱えるようになった。この大日堂は江戸時代、小日向の名所で、明治になってから、毎月八の日の縁日には、古川橋から水道通りを江戸川橋まで、露店が立って賑わった。
坂下の神田川(昭和41年まで江戸川)は、明治半ばから末まで、土手の桜(石切橋から隆慶橋)で有名であった。
    『江戸川の 水かさまりて 春雨の
            けぶり煙れり 岸の桜に』 −若山牧水−
『鷺坂』
音羽1丁目1と2の間。
『大日坂』から西、音羽通りの崖上一帯は、下総関宿四万八千石の藩主 久世大和守(老中職の家柄)の下屋敷であった。明治維新後長く草原となり、土地の人は今も「久世山」と呼んでなじんでいる。
この久世山も、大正時代になってだんだんと住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者)もこの近くの家に住んだ。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の美好達治・佐藤春夫などによって山城国の『久世の鷺坂』と結びつけて、『鷺坂』という坂名が生まれた。
そして、坂の途中の曲がり角に、『鷺坂の石碑』が、昭和7年7月に久世山会の人たちによって建てられた。文学愛好者による「昭和の坂名」で、詩情豊かな坂名である。
   『いつしかに 星夜となりて 久世山の
          木々にまつはる 霧消えにけり』 −金子薫園−
『鷺坂の石碑』
『鷺坂』の中ほどの曲がり角に石碑があり、正面には、『鷺坂』と刻んである。その裏には、昭和7年(1932)7月久世山会建之とある。揮毫(筆文字を書く)は、堀口大学の父、長城堀口九万一である。
右側面は、万葉仮名で書かれている。
    『山代久世之鷺坂自神代
           春者張乍秋者散里』
左側面は、今日風に書かれている。
    『山城の久世の鷺坂神代より
           春は張りつつ秋は散りけ里』
山城国の「久世の鷺坂」の古歌から、小日向の久世山にかけて、こに坂を『鷺坂』としたのであろう。『鷺坂』を下って音羽通りを越えると、『目白坂』の古い坂道が目白台の上に続いている。
『八幡坂』
音羽1丁目6と小日向2丁目25の間。
「八幡坂は小日向台町3丁目より屈折して今宮神社即ち旧田中八幡宮の傍に下る坂をいふ。安政4年の切絵図にも八幡坂としるしあり・・・」
今宮神社の西わきを、小日向台に上るコンクリートの石段坂である。今宮神社はもと、護国寺の観音堂(本堂)裏にあった。明治維新の神仏分離令によってここに移転した。ここには前に田中八幡宮があったが、明治2年(1869)に、日輪寺境内の氷川神社と共に合併して、服部坂西側の小日向神社となった。その跡地に今宮神社が移ったのである。八幡宮は移っても、『八幡坂』の名は残った。
  この坂の西側に、明治35年(1902)11月、石川啄木が盛岡中学を中退して上京し下宿した大館みつさんの家があった。これが啄木の最初の上京で、因窮のうちに越年し、やがて病気となって、翌年の2月末には父に連れられて帰郷したと言う。
『鼠坂』
音羽1丁目10と13の間。
音羽の谷から、小日向台地へ上る急な石段坂が『鼠坂』である。
「鼠坂は音羽5丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にて、かくいふなるべし・・・」『改揃江戸志』。
「坂 幅壱間(約1.8m)長凡五拾間程(約90m)、右は鼠坂と里俗に相唱え申候町組合無御座候」『御府内備考』。
細長くて狭く、鼠の通るような坂という意味であろうか。
また、『御府内備考』小日向之二の台町の書上げに、次のような記事がある。町内に俗にいう土地は、西北の方で、当時武家屋敷一帯を言っていた。もっとも武家屋敷になる前は、小日向村の鼠ヶ谷村とも言って畑地であったと伝えられいる。『東京名所図会』にもこの鼠谷へ通ずる坂なので、『鼠坂』と呼んだと記載されている。
『鳩山会館』 (音羽御殿)
音羽1丁目。
鳩山一郎氏が音羽の高台に建てた自宅であるが、現在は鳩山一郎元首相らの記念品等を展示する『鳩山会館』として一般にも公開されている。
昭和30年(1955)の保守合同の際に極秘の会談場所となるなど、戦後政治の重要な舞台となった。政界の名門鳩山家の通称『音羽御殿』である。
保守合同では、当時首相で民主党総裁だった鳩山一郎氏と三木武吉氏、自由党の大野伴睦氏らが『音羽御殿』の応接室で何度も密会し、自由民主党結成につながった。鳩山内閣の功績である日ソ国交正常化の事前準備もここ『音羽御殿』で行われた。
左の坂は音羽通りから『鳩山会館』の建物に向う敷地内の坂道で、名称は付いていないが、趣のある坂である。

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