西 片


西 片 ・ 白 山


2000.12.26 UP

『薬師坂』 (浄雲寺坂・白山坂)
白山1丁目と5丁目の境 。
白山下から白山上に向う上り坂が『薬師坂』である。
「妙清寺に薬師堂有之候に付里俗に薬師坂と相唱申候」 とあるように、坂上に「妙清寺」(明治末に心光寺と合併、浄雲寺山心光寺)があり、別名『浄雲寺坂』と言う。また、近くに「白山神社」があり、旧白山前町の町名があったので『白山坂』とも言う。通称・別名の多い坂である。
「新撰東京名所図会」には、「薬師堂は土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額一面あり」 と明治の末年の姿を記している。この薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。
土蔵造とは江戸時代の防火建築様式で、湯島本郷辺りの町屋が土蔵塗屋造りを命ぜられたのは享保15年(1730)の大火の後といわれる。
『白山神社』
白山5丁目31。
白山5丁目にある『白山神社』の起源は古く、天暦年間(947年〜957年)の創建と言われている。加賀(石川県)一宮の「白山神社」を旧本郷元町に勧請し、後に今の小石川植物園の地に移ったが、さらに五代将軍徳川綱吉の屋敷の造園のために、明暦元年(1655)現在地に移った。
この『白山神社』は紫陽花でも有名で、「文京花の五大まつり」の一つである『あじさい祭り』が、毎年梅雨の頃に開催されている。約3000本の紫陽花がところ狭しと咲き乱れるが、神社の境内が手狭なために壮大なイメージが感じられないのは残念である。
『浄心寺坂』 (お七坂)
白山1丁目32と33の間。
「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方本郷区駒込東方町へ上る坂あり」とあるのが『浄心寺坂』である。
白山下から向丘に抜ける細い坂道。坂上に「浄心寺」があるのでこの名が付いた。また坂下の「円乗寺」には「八百屋お七」の墓があるので、『お七坂』の別名もある。
八百屋お七は、追分の某寺の門前に住む八百屋の娘といわれる。火事でお七の家も焼け、一家は円乗寺の門前に避難する。そのとき寺小僧の吉三(吉三郎とも)と恋に落ちる。翌年再建した我が家に戻るが、天和3年(1683)一月、いわゆる「お七火事」がおこる。この火事でお七は放火犯として処刑されることになる。この時お七は15歳であった。井原西鶴の「好色五人女」のモデルとも言われている。
『胸突坂』 (峰月坂)(新道坂)
西片2丁目15と白山1丁目24の間。
「新撰東京名所図会」に 「丸山新町と駒込西片町との界にある坂を 『胸突坂』といふ、坂道急峻なり、因って此名を得・・・」とある。
台地の中腹から台地の上に上る坂。坂上から白山通りをへだてて白山台を望む。『胸突坂』は急な坂道の呼び名で、23区内に同名の坂が四カ所ある。その内三カ所が文京区内で、文京区の坂に急な坂が多いのが想像される。別名を『峰月坂』、『新道坂』とも。
旧西片町一帯は福山藩の中屋敷跡で、「誠之館」と名付けた江戸の藩校があった。誠の哲学を説く儒教の書「中庸」の中の「之を誠ニスルハ人ノ道ナリ」 から「誠之館」の名をとり校名とした。誠之館跡は現在「文京区立誠之小学校」として残っている。区立の小学校ながら、学区外からも児童の集まる名門小学校である。
『中坂』
白山1丁目24と27の間。
「胸突坂と浄心寺坂との間に坂あり、中坂といふ」 とあるように、江戸時代の坂名の模式的な例の一つだ。二つの坂の間に新しい坂ができると『中坂』とする。同名の坂は文京区内では『湯島中坂』がある。この『中坂』と近くの『胸突坂』や『曙坂』の三つの坂は並んでいる。そして白山通りの低地(旧指ヶ谷の谷)への崖の中腹を平らに辿る道から、一段上の台地への坂となっている。
『中坂』は上り切ると突き当たりになるが、その少し先には国道17号線(旧道)が走っている。これが江戸時代の五街道の一つ中山道(中仙道)である。両国の大名は数多くここを往来した。
東大農学部前の酒店は旧家で、ここは中山道と岩槻街道(本郷通り)の分岐点で「追分」と言われた。また起点の日本橋からは1里の距離で「一里塚」があった。
『曙坂』
西片2丁目7と14の間。
西方2丁目と白山2丁目の境に、誠之小学校の崖下の台地の中腹をうねうねと続いている道がある。この中段の道から第一幼稚園の方に上る短かくて急な石段坂が『曙坂』である。
東洋大学の北西に曙町という町名があった(現・白山5丁目)。この辺りは江戸時代古河藩主 土井家の下屋敷であった。この屋敷の南の方に「鶏声ヶ窪」と言われるところがあった。明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁に時を告げるところから、あけぼの(暁と同じ)をとり町名とした。
この『曙坂』の場所と旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、有名な鶏声ヶ窪・曙町から縁起の良い『曙坂』の名を付けたようだ。
『新坂』 (福山坂)
西片1丁目20と2丁目6の間。
「町内より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」
旧西片町一帯の台地にあった福山藩の阿部屋敷へ、新しく開かれた坂道なので『新坂』名付けられた。福山藩にちなんで『福山坂』とも。
この坂を上ってすぐ南の所に「夏目漱石の旧居跡」がある。そして、この台地の西側の崖の下一帯が旧丸山福山町である。丸山福山町と言えば、樋口一葉終焉の地でもある。
「いよいよ転宅の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有けり、・・・家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。」 と『塵日記』の転居当日(明治27年)の一節が記念碑に刻まれている。
『石坂』
西片1丁目3と14の間。
「町内より南の方本郷田町に下る坂あり、石坂と呼ぶ。」
『石坂』の坂上の台地一帯、旧中山道までは備後福山藩十一万石の中屋敷と幕府の御徒組・御先手組の屋敷であった。江戸時代は俗に東片町向側と唱えられてられていたが、明治5年(1872)になって駒込西片町と新しく町名ができた。
この近辺は、東京大学に近い関係で学者が多く住みついた。坪井正五郎、佐藤達次郎、木下杢太郎、夏目漱石、佐々木信綱、和辻哲郎など有名人が多く、為に西片町は学者町とも言われた。
    『交番の 上にさしおほう 桜さけり
         子供らは遊ぶ おまわりさんと』 −佐々木信綱−
『伊賀坂』
白山2丁目28と29の間。
「右当町西の方白山大道通之通路の坂にて、伊賀坂と唱申候、但伊賀坂と唱候儀、古来より伊賀同心衆住居被致候に付伊賀坂と唱申伝候」。伊賀者の同心衆の組屋敷があったので、伊賀坂と唱えられるようになった。
また一方では、「伊賀坂は太郎兵衛山の北の方なり、むかし真田伊賀守屋敷ここにありしかばかくいへり、某後松平備前守にたまへりといふ、いさ、かの坂なり、」ともある。
『伊賀坂』の名称には伊賀同心衆住居と真田伊賀守屋敷との二説あるが、「東名所図会」は真田伊賀守説をとっている。しかし、真田伊賀守は上州沼田城主で、両国橋修理の材木の件でとがめを受けて断絶(天和元年―1681)した。伊賀同心衆組屋敷説がよいかもしれない。
いずれにしても、武家屋敷にちなむ坂名である。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者として有名。
『蓮華寺坂』 (御殿裏門坂)
白山2丁目と4丁目の間。
「坂 長六十間(約108m)幅弐間余(約4m)右同寺(現・蓮華寺―当時蓮花寺)裏門より西の方白山大道通え通路致候坂にて、里俗蓮華寺坂と唱申候」「後府内備考」。
白山下から、『御殿坂』の坂上に上るかなり長い坂である。現在も坂下南に日蓮宗の蓮華寺の裏門がある。江戸時代には指ヶ谷でも指折りの大寺であった。このそばの坂なので、『蓮華寺坂・連花寺坂』と呼ばれた。また、小石川御殿(五代将軍徳川綱吉が館林藩主時代の屋敷―白山御殿とも・現植物園)の裏門に通ずる坂で、『御殿裏門坂』とも言った。
近くに、白山神社がある。縁起は古く天歴2年(948)加賀一宮の白山神社を旧本郷元町にうつした。後、今の植物園の地に移ったが、五代将軍綱吉の屋敷の造園のために現在地に移った。それで綱吉の屋敷は、白山御殿とも言われた。
『御殿坂』 (大坂)(富士見坂)
白山2丁目と3丁目の境。
「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり、この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや、」『改撰江戸志』。
「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見へし故に、富士見坂ともいへり、近世木立おひ茂りて富士など見べきにあらず」『江戸志』。
白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林侯の時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿と言われた。『御殿坂』のいわれである。将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園になり、享保7年(1722)園内に『赤ひげ』で有名な『小石川養生所』が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷(さつまいも)の試作をしたことでも有名。
明治以降は東大の付属植物園となっている。(小石川植物園)
    『植物園の 松の花さへ 咲くものを
          離れてひとり 棲むよみやこに』 −若山牧水−
『逸見(へんみ)坂』
白山4丁目32と34の間。
「白山神社裏門の南、小石川御殿町と同指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸坂際にありしより此名に呼ぶなり」  と『東京名所図会』にある。武家屋敷にちなむ坂名である。
この辺りの旧町名は白山御殿町で、北のはずれになる。今の植物園を中心に、千川通り(千川が暗渠になって出来た)の北である。町名の由来は、白山御殿(将軍になる前の館林候綱吉の屋敷)からきている。御殿の廃止後、幕府の薬園となり、近くの旗本の土地を白山御殿跡と言った。
明治維新後、旗元屋敷は荒廃して田畑となったが、後に白山御殿町となった。坂の西側の本念寺(日蓮宗)には、大田南畝の墓がある。江戸時代、狂歌で有名な蜀山人である。
    『わが禁酒 破れごろもと なりにけり
          さしてください ついでください』 −大田蜀山人−
『暗闇坂』
白山5丁目9と12の間。
京華女子高校の東わきを北に上る狭い坂道。東洋大学の裏側に出る。
東洋大学の西側、旧中山道の南部は、江戸時代大きな大名の下屋敷が連なっていた。土井主計、森川伊豆守、土井大隅守や酒井雅楽頭などの屋敷である。特に、酒井雅楽頭の下屋敷は最も広く、中山道に沿って南側、東西に長く延びていた。酒井家は、井伊家と並ぶ大老の家柄で姫路城主十五万石の大藩であった。
『東京名所図会』には、「屋敷と屋敷の間、一条縄の如く、わづかに通じたる細道ありしかば、「間の道」 と称す。近年此辺大に開けて、私道縦横に通じたれば、往事利便としたりし間の道も、却って迂回するが如く思はれ、旧道漸く世人の念頭を離れんとす。細き、闇き、坂路、屈折多き道ながら、公道を以て地図に載せあり。」 とある。
細く暗い坂で『暗闇坂』と称した。同名の坂は弥生2丁目にもある。
『鍋割坂』 (お薬園坂)(病人坂)
白山3丁目、小石川植物園内(今はない)。
左の図を見ると、アミホシサカの東にナベワリサカがある。
白山御殿の主の館林候綱吉が五代将軍になって、ここが幕府の薬園になった。薬園の中央に南北に切通し新道が出来た。この新道の台地に上がる坂が『鍋割坂』、後の『お薬園坂』である。
坂の上に施薬院(小石川養生所)がおかれて、『病人坂』ともよばれる。現在養生所を示すものとしては井戸がある。植物園の池のある低地から、この井戸のあたりに上るこの坂は、はっきりとはしないが、断片的にはそれらしいものが残る。
「病人坂は氷川の方より施薬所へ登る坂なり、初は名も無坂なりしが、養生所出来しより病をうけしともから、或は駕篭にのり又は杖を引てこの坂を往来したければ、世の人はほどなくかかる名をおはせたり・・・」 と「改撰江戸志」にある。また、「養生所、此所の坂を鍋割坂といひしが、これより後土俗病人坂といふ」「武江年表」 とも。
『小石川植物園』
白山3丁目。
徳川五代将軍綱吉が将軍になる以前の、館林候綱吉時代の下屋敷があったところで、将軍就任後に幕府の『薬草園』が設けられ、八代将軍吉宗の時には目安箱の意見を取り入れた『小石川養生所』が設置された。
小石川養生所は明治維新で廃止されたが、養生所時代の井戸は今も残っている。また、享保の改革の時に青木昆陽が、ここで甘藷(さつまいも)の試作栽培をしたことでも有名である。(石碑あり)
現在、『小石川植物園』は東京大学理学部の附属施設で、樹林内に約1500種、温室内に約1100種の植物が栽培されている。
植物園の西の端には『旧東京医学校』の本館の建物があり、この一帯は美しい日本庭園となっている。この建物は東大の本郷から移設されたもので、重要文化財にも指定されている。

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