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『湯立坂』 (湯坂) 小石川5丁目と大塚3丁目の境 。 教育の森公園の東わきから、氷川下方面に下る坂である。 「松平大学頭屋敷脇より安房殿町へ上る坂也」「小石川志料」。 松平大学頭は、陸奥国守山二万石の藩主で、ここに上屋敷があった。この敷地がそっくり旧東京教育大学(筑波大の前身)の校地になった。 「往古は此坂下大河入江にて。氷川明神へは川を隔て渡ることを得ず。故にここの氏子此坂にて湯花を奉るより坂の名とす。」「江戸志」 坂下から遥かに氷川明神(現・簸川神社)へ湯花を立てて献じたというのが『湯立坂』の由来らしい。大変きれいな坂名である。 「簸川原と云。鮎、鰻、芹、柴胡・・・・・・為民用」と「武蔵風土記」にある。坂下の千川では、蛍狩りをし、夜はカンテラををつけてどじょうを取ったと古老は話す。また、製薬の工場では水車の動力で生薬をついたという。 |
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『網干坂』 (網曳坂) 白山3丁目と千石2丁目の境。 「小石川植物園と氷川神社(現・簸川神社)社地の間、小石川林町より南へ氷川下町へ下る坂あり、網干坂といふ。」「東京名所図会」 白山御殿山台から、小石川植物園の西側の塀に沿って、千川の谷に下る坂が『網干坂』である。そして、小石川台から下る『湯立坂』と旧千川(千川通り)を挟んで向い合っている。 昔、坂下一帯の谷は入江で、船の出入りがあったという。それで、漁をする人もいて網を干したのであろう。谷には、千川(小石川の地名のもととなる)が流れ、明治の末頃までは見渡す限りの水田で、”氷川たんぼ”と言われた。しかし、民家や工場がたてこみ、大雨のたびに洪水となったので、昭和9年(1934)には千川はすっかり暗渠(あんきょ)になった。 『我方を 思ひ深めて 小石河 いずこを瀬とか こひ渡るらん』 −同興准后− |
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『氷川坂』 (簸川坂) 千石2丁目10と13の間。 『網干坂』の西、簸川神社(旧・氷川神社)のすぐ西隣りを『網干坂』と平行して、千川の谷に下る坂である。簸川(氷川)神社に接しているので、『氷川坂』と言う。寺社名にちなむ坂名の一連のものである。 「氷川明神社、相伝ふ考昭天皇の御宇の鎮座なり。祭神武州氷川明神に同じ(注・素盞鳴命)昔は白山御殿の地にありしが、白山権現と共に地を替えさせられしより当社は此地に遷る。」と、『江戸名所図会』にある。白山御殿(五代将軍徳川綱吉の館林侯時代の屋敷)が出来るので、現在地に移った。 坂下の、暗渠になって今はない千川に祇園橋がかかっていた。元文の頃(1736〜41)好事家が、『氷川八景』を選んだ。小石川薬園預り芥川小野寺が、橋上行客の景として歌った。 『ゆく人の 袖こそにほへ 散りしきて 花をわたせる 春の河橋』 -芥川小野寺− |
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『猫又坂』 (猫貍坂)(猫股坂) 千石2丁目と3丁目の間。 不忍通りが千川谷に下る長く広い坂である。現在の通りは大正11年(1922)頃開通したが、昔の坂は東側の崖のふちを通り、千川にかかる「猫又橋」につながっていた。『猫又坂』という名称は、この今はない「猫又橋」にちなむ坂名である。 「猫又橋」は木の根っ子を渡して造った橋で、根っ子の股で橋をつくったので、「根子股橋」とも言われた。 また、「続江戸砂子」には次のような話がある。昔、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。いつの頃か、大塚辺りに愚かな道心者(少年僧)がいて、巣鴨の非時(葬式の食事)に招かれての帰り、夕暮れどきに草木の茂る中を白い獣が迫ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、「狸橋」、「猫貍橋」、「猫又橋」と言われた。『猫貍』は昔から伝わる妖怪の一種。 |
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『猫又橋の袖石』 昔、猫又橋の坂下に千川(小石川とも言う)が流れていた。木の根っ子の股で橋をかけたので『根っ子股橋』と呼ばれた。江戸の古い橋で、『猫又橋』の項で書いたように、伝説的に有名であった。 大正7年(1918)3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造りになった。ところが千川は、たびたび増水して大きな水害をおこしたので、昭和9年(1934)に暗渠となって道路(千川通り)の下を通るようになった。 石造りの『猫又橋』は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏は、その親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。左の写真はその内の袖石の2基で、千川名残りの『猫又橋』を伝える記念すべきものである。 尚、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏自身が刻んだ。 『騒がしき 蛙は土に 埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん』 −市川虎之助− |
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『白鷺坂』 大塚3丁目と4丁目の境。 大塚3丁目の交差点から、氷川下の谷に下る長く幅の広い坂である。 このあたり一帯は、宇和島藩伊達家の下屋敷であった。坂下の大塚小学校のプールの辺りが庭の池で、庭内の古木老樹に白鷺がすみ、近隣の人は日夜その鳴き声に悩まされたという。伊達家の当主は、この白鷺に害を加えることを厳しく禁じた。 伊藤左千夫に師事した古泉千樫は、大正4年(1915)、「この池の鷺を見に行くこと毎日毎日続く」 と手記にあるように、執拗にその生態を観察して鷺の連作十九首を作った。 『鷺の群 かずかぎりなき 鷺の群れ 騒然として 寂しきものを』 −古泉千樫− 明治の末にここの道路(不忍通り)が整備され、しばらくは無名であったが、誰からともなく優雅な『白鷺坂』と呼ぶようになった。 |
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『富士見坂』 大塚2丁目と5丁目の境。 坂上からよく富士山が見えたので『富士見坂』の名がある。坂上の海抜高度は、28.9mで、文京区内の幹線道路では最高地点となっている。 高台から富士山が眺められたのは江戸の町の特色で、当時としてはありふれた坂名であった。文京区内でも三か所ある。 昔は狭くて急な坂道であったが、大正13年(1924)10月に、旧大塚仲町(現大塚3丁目交差点)から護国寺前まで電車が通じて、整地されて現在のようにゆるやかに、道幅も広くなった。 『とりかごを てにとりさげて ともとわが とりかひにゆく おおつかなかまち』 『ふみあまた ともはよめれど おおつかの とりやにたてば わらはべのごと』 −会津八一− |
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『開運坂』 大塚5丁目と6丁目の間。 『富士見坂』の途中の坂下通りを北に進むみ、大隈千儒墓所の入口を越して、大塚5丁目の交番のところを左に上る坂が『開運坂』である。 坂の名の由来についてはよく判らないが、運を開く吉兆を意味するめでたい名を付けたのであろう。 この辺りは、『富士見坂』の坂下であるところから、旧町名は大塚坂下町と名付けられた。それで、この坂の下の池袋方面へ通ずる道を、「坂下通り」とも呼んでいる。地下鉄丸の内線の新大塚の駅も近く、池袋副都心の「サンシャイン60」の高層ビルが間近かに見える。 坂の上の南側は、豊島岡基地(皇族基地)や五代将軍徳川綱吉の生母桂唱院の願いで建立された「護国寺」がある。 『護国寺に 住みている鳩 屋根はなれ 高く飛びおり 春日の空に』 −窪田空穂− |
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『小篠坂』 (小笹坂) 大塚5丁目護国寺西側池袋への坂。 『清戸坂』の坂下、護国寺の西側と雑司谷墓地の東側を池袋方面に上る坂が『小篠坂』である。高架に首都高速5号線が通っている。 江戸時代は、護国寺の西側一帯鬼子母神までは、雑司ヶ谷村で畑地であった。護国寺の北西に隣り合って、幕府の御鷹部屋御用屋敷があった。御鷹匠は、ここの雑司ヶ谷組と千駄木の二組があった。 「小笹坂は本浄寺の前のより東脇道をいう。御鷹部屋が出来てから、本浄寺東にこの谷道を開いた。」『新撰若葉の梢』。御鷹部屋の開設による新道で、笹が繁っていたのであろう。 『雑司ヶ谷 繁き木立に 降る雨の 降りつのりきて 音の重しも』 −窪田空穂− 『麦ばたの 垂り穂のうへに かげ見えて 電車すぎゆく 池袋村』 −若山牧水− |
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『希望の坂』 大塚5丁目40。青柳小学校の坂道。 『 希望の坂の上から 元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声 緑に囲まれた 青柳小学校 この坂道はぼくの宝だ いつまでも忘れない 』 平成6年(1994)10月、開校80年記念式典のとき、この歌が歌われた。 青柳小学校は、大正3年(1914)小石川区西青柳町7番地に誕生。その町の名を校名とした。昭和35年(1960)3月、高速道路の建設で、護国寺の敷地内の現在地に新築移転した。 昭和53年(1978)3月。六年生が卒業制作のレリーフを、坂道の東側の壁に取り付けた。その時今までの『青柳の坂』の坂名を子供たちから募集。全員一致で『希望の坂』と決定した。 坂道には花壇や岩石薗、記念碑、ザリガニ池やトンボ池、スイレン池など設けられ、楽しいプロムナードとなっている。 |
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『護国寺』 『護国寺』の創建は天和元年(1681)2月、五代将軍徳川綱吉が、その生母桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷郡八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜わり、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊として、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜わったことに始まる。 元禄7年(1694)10月、綱吉は桂昌院と共に護国寺に参詣し、寺領加増され六百石となった。その翌8年、快意僧正が第三世を継ぎ、僧正は特に将軍の帰依を受けることあつく、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年の工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が営まれた。これが現在の観音堂(本堂、昭和25年国指定重文)であり、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都下随一のものと称されている。 明治16年(1883)、大正15年(1926)と火災でお堂の多くを焼失したが、観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えずに建築美を今に伝えている。 |
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