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『弥生坂』 (鉄砲坂) 弥生1丁目と2丁目の間。 言問通りを根津1丁目から本郷方面に上る坂を『弥生坂』と言う。 江戸時代この一帯は御三家水戸藩の中屋敷であったが、明治に入り大学用地として公収され、現在の東京大学農学部・工学部となった。 旧町名で「向ヶ岡弥生」と呼ばれた地名は、忍岡(現・上野の山)から不忍池を隔てて向う側に見える岡で「向ヶ岡」、また、水戸藩 徳川斉昭が文政11年弥生(1828年3月)にこの辺りの景色を詠んだ歌碑を屋敷内に建てたから「弥生」と付いたと言われている。 『名にしおふ 春に向ふが 岡なれば 世にたぐひなき 花の影かな』 −徳川斉昭− この『弥生坂』は明治になってから出来た新坂で、地名をとって『弥生坂』と呼ばれるが、別名を『鉄砲坂』とも言う。『鉄砲坂』の名称は、坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったのでその名が付いたと言われている。 |
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『弥生式土器発掘ゆかりの地』 弥生2丁目言問通りの「東大工学部」角。 『弥生坂』を上った左手には、『弥生式土器発掘ゆかりの地』と記した記念碑が建てられている。 この近辺から出土した土器は縄文土器より新しいもので、発掘地の名称から『弥生式土器』と名付けられ、その時代を『弥生時代』と呼ぶようになった。最初の発見者は東大の3人の学生で、明治17年(1884)の3月(弥生)に見つかったのも何かの因縁なのだろうか? ただ、最初に土器が発見された場所は、その後の区画整理などのために判らなくなり、今も特定されていない。ゆえに『・・・ゆかりの地』となっているらしい。 余談であるが、我家を新築の際にも事前に発掘調査が行われた。幸い(?)何も出てこなかったが、もし何か出て来れば計画変更もやむを得ないところであった・・・(^_^;) |
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『暗闇坂』 本郷7丁目と弥生2丁目5の間。 言問通りの『弥生坂』から、東京大学北東側の外塀沿いに、「弥生門」に下る坂を『暗闇坂』と言う。江戸時代は、加賀藩前田家上屋敷の北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのが名称の由来と言われている。 江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を「暗闇坂」と名付けた。23区内で同名の坂は12あり、文京区内では白山にもある。 この坂の東側、弁護士の鹿野琢見氏邸の塀に、「高畠華宵」の記念碑がははめ込まれている。高畠華宵は晩年、鹿野氏の好意でこの邸内で療養したが、昭和41年(1966)7月に他界した。大正、昭和にかけて、優艶で可憐な挿絵によって、若い人たちの共感を呼んだ。 『弥生美術館』 『立原道造記念館』はこの『暗闇坂』の道沿いにある。 |
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『弥生美術館・竹久夢二美術館』 弥生2丁目4、「暗闇坂」の途中。 明治・大正・昭和初期における挿絵(さしえ)を中心とした、出版美術の専門美術館が『弥生美術館』である。年4回3ヵ月ごとにテーマを変えて展示している。 この『弥生美術館』は弁護士の鹿野琢見氏が開設した。氏が幼い頃に出会った「高畠華宵」の描く『さらば故郷!』に魅せられたことがきっかけで収集を始め、昭和59年(1984)、周辺の挿絵画家の作品を公開するために、この地に『弥生美術館』を設立した。 平成2年(1990)、それまでの『弥生美術館』のコレクションの中から「竹久夢二」の作品だけを独立させ、同敷地内に『竹久夢二美術館』を開設している。 最寄り駅 : 千代田線「根津」又は南北線「東大前」。 開館時間 : 10:00〜17:00 休 館 日 : 毎週月曜日(休日の場合は翌日)及び年末年始 |
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『立原道遺記念館』 弥生2丁目4、「暗闇坂」の途中。 東京生まれの詩人 「立原道造」は、その類希なる才能を既に中学生の頃から発揮していた。彼の詩集に収められたソネット(14行詩)には、今までにない音楽性が託されており、その功績で近代文学史にも名前を残すことになる。 建築家でもあった立原は僅か24年と8ヶ月で他界するが、特にその詩人としての資質と才能を後世に伝える目的で、平成9年(1997)『立原道遺記念館』が文京区弥生の地に設立された。 弥生美術館のすぐ近くで、弥生美術館創設者 鹿野琢見氏がこの記念館設立に関わっている。 最寄り駅 : 千代田線「根津」又は南北線「東大前」。 開館時間 : 10:00〜17:00 休 館 日 : 毎週月曜日(休日の場合は翌日)及び年末年始 |
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『異人坂』 弥生2丁目13の北側。 『弥生坂』より少し北寄りの、弥生2丁目の路地にある急勾配の坂道が『異人坂』である。 この坂上の地に、明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。ここに住む外国人は、この坂を通って不忍池や上野公園等を散策したという。その当時は外国人が珍しかったこともあり、誰言うとなく、外国人が上り下りしたこの坂を『異人坂』と呼ぶようになった。今となっては、当時がしのばれる情緒のある坂名である。 この外国人教師の中に有名なベルツ(ドイツ)がいた。明治9年(1876)東京医学校の教師として来日し、わが国の医学発展に貢献した。不忍池を愛し日本の自然を愛した。肌荒れを防ぐ『ベルツ水』はベルツの処法による。 |
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『お化け階段』 (幽霊坂) 弥生1丁目18と19の間。 「根津神社」の表門近くから弥生2丁目方面に上る狭くて急な石階段で、樹木の陰になって道に迷ったような狭い坂である。普段は近所の人しか使わない坂で、目立たない路地の奥にある。 子供達が階段の段数を数えて遊んだ時、上りと下りで数が違った(間違えた)ことから『お化け階段』と呼ばれるようになったという。 また、一説では暗くて寂しい場所なので、親が子供達にその場所で遊ばないように、『お化け階段』と名付けたとも言われている。 別名の『幽霊坂』という名称も同じような由来であると思われるが、確かに夜は大人でも通りたくない坂ではある。昔から「おばけ」や「幽霊」の名称は、墓所のそばや寂しい場所の坂によく使われた。 |
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『サトーハチロー旧居跡』 弥生2丁目16。 『異人坂』の坂上から『弥生坂』に出る路地に『サトーハチロー旧居跡』がある。本名「佐藤八郎」、詩人・歌謡作家・ユーモア作家などと称されている。(1903〜1973) 小説家、佐藤紅緑の長男として、明治36年(1903)東京に生まれた。大正5年 (1916)早稲田中学に入学、この頃から詩を書き始め、16才で西条八十に師事した。大正10年、「金の船」や「少年倶楽部」などに童謡を発表し、同15年に詩集「爪色の雨」を発刊、詩人として歩み始めた。 昭和12年に上野の桜木町から当地弥生に移り住む。週一回の詩の勉強会「木曜会」が開かれ、「木曜手帳」が発刊されたのもこの地である。 ハチロー没後の昭和52年(1977)、自宅の一部を改装して『サトーハチロー記念館』が開設され、原稿や愛用の小物などが展示された。庭の片隅には童謡「ちいさい秋みつけた」に出て来る「はぜの木」もあった。 平成8年、記念館は岩手県北上市に移転、今は記念碑のみ残る。 |
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『新坂』 (権現坂・S坂) 弥生1丁目1と3の間。 根津谷から本郷通りへの利便性を考えて作られた新しい坂道。文京区内にある六つの『新坂』の一つである。 根津権現(根津神社の旧称)の表門前を通る坂道なので、『権現坂』とも言われている。 「森鴎外」の小説『青年』の中に 「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注:旧制一高)の外囲、左は出来たばかりの企業で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。」 とあり、旧一高生がこれを読んで、好んで『S坂』と呼んだという。S字にして勾配を緩やかにしているが、それでもかなりの急勾配である。 |
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『根津裏門坂』 根津1丁目28と千駄木2丁目2の間。 不忍通りの千駄木2丁目から本郷通りに上る坂道で、根津神社の裏門前を通るので『根津裏門坂』と呼ばれている。 この通りは「千駄木通り」と呼ばれているが、日本医科大(附属病院)があることから、「日医大つつじ通り」とも。 坂上の日本医科大学の西横を曲がって、同大学同窓会館の地に、「猫の家」として知られた、「夏目漱石」の住んでいた家のあった場所がある。(現在は明治村に移築されている) 『吾輩は猫である』を書いて一躍文壇に踊り出た記念すべき家である。また、漱石の入る11年前には、奇しくも「森鴎外」が住んだ家でもあった。この地区一帯が「文豪の街」と呼ばれる由縁でもある。 『 ちらちらと 陽炎立ちぬ 猫の塚 』 −夏目漱石− |
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『夏目漱石旧居跡』 向丘2丁目20。 『夏目漱石旧居跡』は現在日本医科大学の同窓会本部となっている。以前この地にあった夏目漱石の旧居は明治村へ移築され、今残っているのは記念碑だけである。 漱石はここに明治36年(1903)3月から39年12月まで3年10ヶ月住み、この地で「吾輩は猫である」「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」などを発表した。「我が輩は猫である」に出てくる苦沙弥先生を苦しめた裏の中学は今でも中、高等学校として残っている。 日本医科大学と真新しい附属病院東館(救命救急センターがある)の間の細道を歩き北へ向かうと、古い病棟が建っている辺りは、昔は池で薮があったそうで、漱石の猫の設定に一致している。 左手に古いお屋敷が現れると、道は上り坂(汐見坂)になり、上り切ると小学校の裏手に出る。町の眺めが広がる。この谷間が、本来の谷中、谷の中、である。 |
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『根津神社 1』 根津1丁目28。 かつて『根津神社』は『根津権現』と呼ばれていた。祭神はスサノオノミコト、オオクニヌシノミコト、菅原道真など数神。社伝によれば、開創は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征に溯り、室町時代後期に太田道灌が建造したというから、その歴史はかなり古い。 この後、宝永2年(1705)徳川5代将軍綱吉により大々的な造営が行われ、現在のようになった。戦災を免れた根津神社には国宝や重文など貴重な文化財が多い。 またこの神社は、文京区五大花祭りの一つ 「つつじ祭り」でも有名で、境内の斜面に咲く、数十種 3000株以上の満開のつつじには目を奪われる。 |
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『根津神社 2』 左の写真は根津神社の境内で、本殿横の裏側に通じる通路である。つつじ祭りの頃はこの辺りには屋台が立ち並び、大勢の見物人で溢れ返るが、普段はこのように静かで情緒のある景観が楽しめる。 このアングルは時代劇の撮影にも時々使われる。朱塗りの木塀に土の路面と石畳・・・のんびりと歩いて頂きたい場所である。 根津神社のそば、不忍通り沿いにたいやきの『柳家』がある。日本橋人形町の『柳家』は有名であるが、ここはその分家で、人形町と同じ味のたいやきが賞味できる。甘いものが苦手な私も、ここのたいやきは本当に美味しいと思えるくらいなので、みなさんもどうぞ・・・。但し行列は覚悟してもらいたい。 |
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