湯 島 −その1−


湯 島 1〜3丁目


2001.08.23 UP

『相生坂』 (昌平坂)
湯島1丁目4、「湯島聖堂」南側。
『東京案内』に、「元禄以来聖堂のありたる地なり。南神田川に沿ひて東より西に上る坂を相生坂と云ひ、相生坂より聖堂の東に沿ひて湯島坂に出るものを昌平坂と云ふ」 とある。
湯島聖堂の南側を、神田川をはさんで、駿河台側の「淡路坂」と平行して並んでいるので 『相生坂』 と言われた。
また、聖堂に祭られている孔子の生地、中国の昔の魯の国の昌平郷にちなんで、『昌平坂』ともいわれる。最初の『昌平坂』は寛政10年(1798)11代将軍 徳川家斉が湯島聖堂を改築したとき、聖堂敷地内に囲いこまれて無くなっている。
この『相生坂』と共に、聖堂東隣の坂も『昌平坂』と呼ばれる。
   『これやこの 孔子の聖堂 あるからに
          幾日湯島に い住きけむはや』  −法月歌客−
『江戸時代の相生坂』
原画『江戸名所図会』天保7年(1836)刊所載
左の図は、寛政11年(1799)建立の荘重な聖堂で、惜しくも大正12年(1923)の関東大震災で殆ど焼けた。下の流れは神田川(仙台堀)で、川に沿って左に上がるのが『相生坂』(昌平坂)、右隣が『昌平坂』(団子坂)である。その昔、お茶の水の神田川の谷は景勝の地で、中国の赤壁に比べられ、「小赤壁」とも呼ばれた。
寛政の改革によって儒学(朱子学)が重視され、聖堂の左側(現在の東京医科歯科大学の構内)に、「昌平坂学問所」(通称・昌平黌)が建てられ、直参の他に、藩士の子弟も入学した。
明治維新後、「昌平坂学問所」は東京大学の母胎となり、一時文部省も置かれたが、学制の発布後には、教員養成の為の師範学校が置かれて、近代教育の発祥の地となった。
『昌平坂』 (団子坂)
湯島1丁目1と4の間。
湯島聖堂の東隣の坂を『昌平坂』といい、別名『団子坂』とも。
『改撰江戸志』に、「今昌平と称するは、聖堂御構の東にそへる坂といへど、こは後年の名の移りしなるべし。昔の昌平坂は寛政10年御再建の時、御構の内に入りしと云。」とある。
5代将軍綱吉は、元禄3年(1960)忍岡(上野公園)から聖堂を湯島に移すことを決め、翌年現在地に移した。聖堂前の坂(相生坂)と聖堂わきの坂を『昌平坂』と名付けたという。「昌平」とは、聖堂に祭られている儒学の祖孔子の生まれた昔の中国魯の国、昌平郷にちなんでつけられた。
その後、寛政10年(1798)11代将軍家斉が、聖堂を建て直し敷地を広げた。それで、聖堂わきの『昌平坂』はなくなり、旧昌平坂に平行したこの坂が、『昌平坂』と呼ばれるようになった。
   『万世の 秋もかぎらじ もろともに
         もうでて祈る 道ぞかしこし』 −綱吉生母 桂昌院−
『湯島坂』 (明神坂)(本郷坂)
湯島1丁目2と4の間。
『新撰東京名所図会』には、「湯島坂は聖堂の背後。神田神社の前より湯島1丁目に下る坂をいふ。往昔より此名あり。」と記してある。また、『東京案内』には、「神田明神の前を東に下る坂は『湯島坂』なり。また『本郷坂』ともよぶ」ともある。
湯島聖堂と神田神社(通称 神田明神)との間を東に下る坂。明神の天下祭の山車が繰り出した坂でもある。『明神坂』とも呼ばれる。
江戸時代の五街道の一つの中山道は、日本橋を起点として最初の坂がこの『湯島坂』である。また、将軍日光御成道でもあった。
明治37年(1904)1月、神田須田町から本郷3丁目まで、文京区内で初めての電車が開通した。すなわち、万世橋から旧松住町を左折して、この湯島坂を上った。
『湯島聖堂』
湯島1丁目4。 『湯島聖堂』の起こりは、徳川3代将軍家光の寛永7年(1630)、儒臣 林道春が上野忍ヶ岡に別荘地を賜り学校と書庫を建てたが、同9年、初代尾張藩主 義直が孔子とその弟子4人の像を安置し、先聖殿と名付けて林家に祭事を行わせたのが始まりである。
その後、元禄3年(1690)儒学に傾倒した徳川5代将軍綱吉の命で現在地に創建され、孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建て、綱吉は自らも「論語の講釈を行うなど学問を奨励したと言われる。ここには幕府の『官学昌平坂学問所』が置かれ、当時は本邦第一の学校として、盛儀を極めた。
もとの聖堂は4回もの江戸大火にあって焼失、再建を繰り返し、さらに大正12年の関東大震災でも焼失した。今の建物は昭和10年(1935)鉄筋コンクリ−ト造りで再建した。ただし、「入徳門」は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
『神田明神』 (神田神社)
千代田区外神田2丁目。
『神田明神』は今から約1270年前の天平2年(730)、武蔵の国豊島郡芝崎、現在の千代田区大手町「将門塚」周辺に創建された。それから約200年後、平将門が俵藤太に討たれ、その首が京都で晒されたが、これを奪い返して塚を築き、そこに葬った。さらに、延慶2年(1309)には将門の霊をも相殿に祀り、『神田明神』と名付けた。
天正18年(1590)徳川家康は、江戸を幕政の地と定め大規模な城下の造成工事を開始。元和2年(1616)には現在の場所に移り、江戸城の鬼門の守護神となった。その後、桃山風の豪華な社殿が築かれ、歴代将軍の崇敬厚く、江戸総鎮守として江戸の庶民にも親しまれてきた。
尚、『神田明神』の住所は文京区ではなく千代田区である。明神のあるこの一角だけが文京区に入り込む形で千代田区となっている。
『妻恋坂』 (大超坂)
湯島3丁目1と2の間。
『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふといふ。寺は明暦火災(1657)後浅草にうつれり。古図に寺は坂の左の方に在り。大超或は大長に作る。」 とある。
江戸の初め、この坂の南側(神田明神の裏手)に霊山寺という寺があり、開山が大超和尚という高僧で、三代将軍家光の時この地に移転して来た。霊山寺の北わきの坂を和尚の名をとって『大超坂』と呼んだ。後世、大超和尚の名を忘れて、「大長」、「大帳」、「大潮」などと字を当てた。
この『大超坂』が、『妻恋坂』と呼ばれるようになったのは明暦の大火後、霊山寺は浅草へ、そして妻恋神社が旧湯島天神町から坂の北側に移って来てからである。
『新妻恋坂』
湯島3丁目1の南側蔵前通り。
大正12年(1923)の関東大震災後の都市計画により、湯島2丁目から隅田川の蔵前橋へまっすぐ通ずる、通称蔵前通りが、昭和4年8月に完成した。この蔵前通りの新設によって出来た新しい坂は、『妻恋坂』に平行しているので、『新妻恋坂』と名付けられた。江戸の坂である『妻恋坂』に対して、東京の坂、昭和の坂である。
『妻恋坂』の名の由来は前項で述べた通りで、妻恋神社の前の坂からきている。ロマンあふれる恋妻という神社名は、景行天皇の皇子日本武尊が東征の折、湯島の地で遥か東に向い、相模の走水で入水した弟橘姫をしのび、「吾嬬はや」と嘆いたという伝えによって、後に郷民が社を建て、二柱を祭り、妻恋神社と呼んだという。
『立爪坂』 (芥坂)
湯島3丁目2のうち。
『妻恋坂』の中程を北に上る狭い路地の坂が『立爪坂』である。つま先立てて上る坂という意味で、もとは険しい坂であったのだろう。現在の坂も、中程は緩やかだが、下と上の部分は石段になっている。
また、この坂は『芥(かい)坂』とも名づけられている。この坂の北側の『三組坂』の中腹を北に下る『ガイ坂』(芥坂)と同じく、芥(ゴミの意)捨場が坂のそばにあったのであろう。(江戸時代の芥捨場については『ガイ坂』の項参照)
『御府内備考』には、「芥坂は妻恋坂の中腹より北へ通る小坂なり、その辺芥を捨てる処なれば里俗呼名となせり」 とある。
この界隈は、新住居表示実施前までは妻恋町と呼んでいた。元禄9年(1696)に町家ができて、妻恋稲荷の近くなので妻恋町と唱えた。
『清水坂』
湯島2丁目1と3丁目1の間。
『新妻恋坂』(蔵前通り)の中程、「清水坂下」を北に上る坂で、坂下には『清水坂』と彫った石柱がある。
江戸時代には、『妻恋坂』の以前の名称である『大超坂』のおこりになった霊山寺(開山は大超和尚という名僧)があり、明暦の大火後浅草へ移転した。その霊山寺の敷地は、『妻恋坂』から神田明神の間の広大なものであった。
『江戸切絵図』を見ると、その敷地跡のうち西の方に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水廣吉(精米機メーカー「清水商会」創業者)の所有になった。大正に入り、湯島天神とお茶の水との間の交通が不便であった為に、清水廣吉は土地の一部を町に提供し坂道を整備した。町の人たちは、この清水家の徳をたたえて『清水坂』と名付け、石柱を建てたという。
『横見坂』 (横根坂)
湯島2丁目7と8の間。
『御府内備考』に、「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当街並本郷新町家持に御座候・・・里俗に『横根坂』と相唱申候」 とある。
蔵前通り『新妻恋坂』がかつて樹木谷といわれたあたりから霊雲寺、湯島小学校方面へ北に上る坂が『横見坂』である。町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を上る時富士を横見するところから、誰言うとなく『横見坂』と名づけられたと言う。
坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。その作品『春』の中に、「湯島の家は俗に大根畠と称へるところに在った。・・・大根畠は麹の香のする町で・・・」 とある。ローム層の台地は麹室には最適で『文政町方書上』には、百数十軒の麹室が数えられている。
『傘谷坂』
本郷3丁目22と湯島2丁目17の間。
『改撰江戸志』に、「傘谷は金助町の北の方なり、此辺にて多く傘を製し出せしより名なりといふ。さもありしや、今はそれらの商人もみえず・・・」 とある。湯島2丁目の11と12番の間あたりがくぼんでいて、そこを傘谷と呼んだ。そのくぼみに、南北から坂道が出来て、その両方の坂を『傘谷坂』と呼んだ。
この辺りは旧金助町である。町内は地主新御番 牧野金助の先祖の拝領地であったが、元禄9年から町屋を開いた。牧野氏の旧縁により、本郷金助町と唱えたともあったという。
この金助町に、江戸時代に幕府の侍医を勤めた岡家があった。ここで生まれた歌人 岡麓は、大正12年の震災で家が焼けたという。
   『あさはかに 家居移して 悔心
        このやけあとに 立ちて嘆かゆ』 −岡 麓−
『樹木谷坂』 (地獄谷坂)
湯島1丁目7と10の間。
東京医科歯科大学の北側の裏門から本郷通りを超えて、東京ガーデンパレスの東横の道を北方向へ『新妻恋坂』まで下る坂が『樹木谷坂』である。そして、『新妻恋坂』を挟んで『横見坂』に対している。『御府内備考』には、「樹木谷3丁目(注・旧湯島)の横小路をいふ」 とある。
加賀白山系の修験僧といわれる尭恵法印の『北国紀行』の中に、「同月(正月−文明19年−1487)の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松はるかにめぐりて、・・・寒村の道すがら野梅盛んに薫ず」 という湯島天神周辺の記事がある。時代は、太田道灌の江戸城構築の長禄元年(1457)の12年後である。
家康の江戸打入り当時も、この辺り一帯の谷には樹木が繁っていたであろう。その樹木谷に通ずる坂ということで、『樹木谷坂』の名が生まれた。『地獄谷坂』の別名はその音のなまりである。

HOME TOP NEXT


このページは GeoCitiesです 無料ホームページをどうぞ