湯 島 −その2−


湯 島 3〜4丁目


2000.12.26 UP

『無縁坂』 (武縁坂)
湯島4丁目12と元岩崎邸の間。
不忍通りの「不忍池西」交差点から、本郷・東大竜岡門方面に抜ける脇道に入ると『無縁坂』に続く。
『御府内備考』に、「称仰院門前通より本郷筋へ往来の坂にて、往古の坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝、尤無縁寺跡相分不申候、」 とある。現在も坂の北側に称仰院があるが、はじめ講安寺の開山の隠居地で、「無縁寺」と称したという。土蔵造の講安寺は初め「無縁山法界寺」と言った。また、この周辺は武家屋敷が多く武家に縁があるの意で、『武縁坂』とも言う。
森鴎外の作品『雁』の主人公 岡田青年の散歩道ということで、多くの人に親しまれる坂となった。お玉さんの住んだと思われるような最後の格子戸の家も、昭和57年に姿を消した。
近年、若い人たちが多くこの坂を訪れるようになったが、それは「ひまわりの歌」の主題歌で、さだまさし作の歌 『無縁坂』の坂を訪ねてという。坂を下れば「不忍の池」である。
『無縁坂』(作詞・作曲 さだまさし)
母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度 いつもため息をついた
ため息つけばそれで済む 後だけは見ちゃだめと
笑ってた白い手は とてもやわらかだった
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
そうゆうことって確かにあると あなたを見ててそう思う
忍ぶ不忍『無縁坂』 かみしめる様な ささやかな僕の母の人生

いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを暦に刻んで 流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
めぐる暦は季節の中で 漂い乍ら過ぎてゆく
忍ぶ不忍『無縁坂』 かみしめる様な ささやかな僕の母の人生

『不忍池』 (上野公園内)
台東区上野公園。
本郷台地から『無縁坂』を下りて来ると、『不忍池』のほとりに出る。この『不忍池』は文京区ではなく台東区である。本郷の台地と上野の台地(旧・忍岡)の谷間に位置する池で、現在は上野公園の一部となっている。
上野公園は、江戸時代強大な権力持った『上野寛永寺』の敷地であったが、明治6年(1873)の戊辰戦争で焼失し、その後公園となった。公園内には『不忍池』の他、美術館や博物館・動物園などがあり、西郷隆盛の像は余りにも有名である。
明治・大正の頃まで、この『不忍池』には「藍染川」という川が注いでいた。千駄木方面から谷沿いに流れる川で、夏目漱石の「三四郎」の中で、団子坂の菊人形を見た三四郎と美禰子は、この「藍染川」で休んでいる。その頃は農家が野菜を洗う川でもあった。
『切通坂』
湯島3丁目30と4丁目6の間。
『御府内備考』に、「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし、本郷三、四丁目の間より池の端仲町へ達する便道なり」 とあるように、湯島の台地を切り開いてできた坂なので、『切通坂』と呼ばれた。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)、上野広小路と本郷3丁目間に電車が開通して緩やかになった。映画の主題歌、『湯島の白梅』"青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し♪"で坂の名は全国的に知られるようになったという。坂を上った左手には『湯島天神』がある。
明治の末年、本郷3丁目の交差点近くの「喜之床」という床屋の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰りに上った坂である。
   『二晩おきに 夜の一時頃に
      切通の坂を上りしも 勤めなればかな』 −石川啄木−
『湯島神社』 (湯島天神・湯島天満宮)
湯島3丁目。
『湯島神社』は雄略天皇の勅命により、御字2年(458)1月の創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斉したのが始まりで、正平10年(1355)2月、郷民が菅原道真の偉徳を慕い、文道の太祖として崇めここに奉った。
文明10年(1478)、太田道灌がこれを再建し、天正18年(1590)、徳川家康が江戸城に入るに及んで、この天神を崇敬したと言われる。翌19年11月、湯島郷の内五石の朱印地を寄進して祭祀の料に当て、太平の世が永く続き文教が大いに賑わうようにと、菅原道真の遺風を仰ぎ奉ったとされる。
明治18年(1885)に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年(1995)12月、後世に残る総檜造りで造営された。今は『湯島天神』の呼び名が一般的になっている。
現在でも学問の神様として、受験シーズンには数多くの受験生が参拝に訪れ、沢山の絵馬が奉納される。2月の『梅まつり』、11月の『菊まつり』も有名である。
『天神夫婦坂』 (新坂)
『切通坂』(春日通り)の中腹から湯島天神に上る階段坂。
『新撰東京名所図会』の湯島公園の項に、「坂道五あり、北にあるを切通坂といい、東下谷広小路に通ずる峻なる石階を男坂、其の左緩やに通ずる石階を女坂、戸隠明神社の傍より北方向切通坂に下る石階を新坂と称し、男坂の南にある普通の坂道を中坂という」 とある。この文中の戸隠明神社の傍から、切通坂に下る石の階段坂を現在『天神夫婦坂』と呼んでいる。
境内に続く三坂
  『急な石段坂を男坂』
  『途中に足休みがあるゆるやかな坂を女坂』
  『男坂と女坂の中間の傾斜を夫婦坂』
平成8年(1996)完成の社殿の改築で、『夫婦坂』の途中に立派な門が出来た。門の名を『登竜門』と言う。
『天神石坂』 (男坂)
湯島3丁目30湯島神社境内。
『御府内備考』に、「天神石坂は中坂の北にあり、ここは社地通用の為の坂なれど、本郷の方より上野広小路への往来となれり・・・、此坂下より広小路の方への直路を天神石坂通りと呼び、その辺りの武家地をもしか称せり」 とある。湯島神社の境内から東へ下る、38段の急な石段坂が『天神石坂』である。その急勾配から『男坂』とも呼ばれる。
文和4年(1355)湯島の郷民 霊夢により老松のもと勧請し、祭神は天之手力雄命と菅原道真の二柱である。大田道灌が再興し、徳川家康江戸入りのとき、神領五石を寄進した。江戸時代、加賀家の赤門のとこの天神は本郷のシンボルであった。学問の神様には今も合格祈願の親子連れのお参りが多い。
     『 梅咲くや 湯島の社頭 春浅し 』 −高浜虚子−
『天神女坂』
湯島3丁目30湯島神社境内。
天神境内から北方向、湯島の路地に下りる坂が『天神女坂』である。
『新撰江戸名所図会』に、「男坂と申すは上るに急な坂なので男坂と唱え、女坂の方は途中に足休みなどがあって、ゆるやかな坂なので女坂と唱えるようになった」 とある。
境内には、「湯島の白梅」といわれる梅樹が多く、泉鏡花原作の新派の『婦系図』の濡れ場としても有名である。鏡花の『湯島詣』(明治32年作)の中に、「梓が上京して後東京の地に於て可懐しいのは湯島であった。湯島も其の見晴らしの鉄の欄干(注・天神境内)によって、升形の家が取囲んで居る天神下の一廓を詠めるのが最も多く可懐しかった。」 とある。
天神下一帯は、戦災にも遭わず古い家が多く、昔のたたずまいを今に見せている。作家の久保田万太郎は、昭和30年代『天神女坂』のすぐ下に住んでいた。
    『 梅雨あけや さて女坂 男坂 』 −久保田万太郎−
『中坂』 (仲坂・湯島中坂)
湯島3丁目21と29の間。
『御府内備考』に、「中坂は妻恋坂と天神石坂との間なれば呼名とすといふ」とある。江戸時代には、新しく坂が出来ると新坂と呼び、二つの坂の中間に新しい坂が出来ると中坂と名付けた。この『湯島中坂』は『妻恋坂』と『石坂』の二つの坂よりも後に出来た新しい坂ということになる。
『新撰東京名所図会』には、「中坂は天神町1丁目4番地と54番地の間にあり。下谷区へ下る急坂なり。中腹に車止あり。中坂とは妻恋坂と天神石坂との間なれば斯く名づく」 とある。この「中腹に車止あり」とは、車の通行を禁止した意か、長い坂なので車を停めて休む場所があるという意か不明。
この辺りは天神芸者の花街で、置屋、待合などが多かった。江戸時代から、湯島天神の門前町として発達した賑やかなところであった。今も軒下に草花の鉢植えなどあり、下町の面影を色濃く残している。
『実盛坂』
湯島3丁目19と21の間。
湯島神社の青銅の鳥居から、まっすぐにお茶の水方向へ行って、中坂と三組坂の中間を東に下る非常に急な石階段が『実盛坂』である。
この坂下の南側に、実盛塚、首洗いの井戸や産湯の井戸があったという伝説めいた話が、『江戸砂子』や『改撰江戸志』にのっている。実盛とは、斎藤別当実盛のことで、平家方に味方し木曾義仲と加賀の国篠原の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しい。
『江戸志』には、「湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし、斎藤別当実盛の居住の地なり」 とある。武将としての意気に感じた住民が、井戸や首塚を造ったのではなかろうか。
『ガイ坂』
湯島3丁目15と19の間。
『三組坂』中腹を北に、『実盛坂』の方へ下る坂が『ガイ坂』である。
『江戸切絵図』には、「立爪坂の北、三組の御家人衆の拝領地内(三組町)にガイサカ」 と記されている。ガイは芥の濁音である。
『御府内備考』には、「坂 幅五尺余、高四間余、登拾五間余、右坂の脇崖下芥捨場に至候間、里俗に芥坂と相唱申候、」 とある。旧三組町の裏通りの横町で、ごみを処理する捨場であったと思われる。現在は静かな旅館街となっている。
江戸時代には、芥捨場には簡単な施設をし、芥を車で河岸の舟まで運び、その舟で埋立地へ捨てた。そして、費用一切はその町内でまかなった。勝手に坂の下に芥を捨てたわけではなかった。
『三組坂』
湯島3丁目4と20の間。
湯島神社から南にまっすぐ、新妻恋坂に至る道の中程を東の方に下る坂が『三組坂』である。
昭和44年の新住居表示実施以前は、この界隈は「三組町」という町名であった。その町中の坂だということで『三組坂』と呼ばれた。
『御府内備考』、次のような記事がある。
元和2年(1616)徳川家康は駿府(静岡)で没した。それで、家康が隠居するとき、駿河に連れていった中間、小人、駕篭方の三組の者は江戸に帰り、当地に屋敷地をもらった。そして、駿河から帰った人たちが住んだので、駿河町と唱えるようになった。その後、元禄9年(1696)に、地主一同の願出によって町家が出来、三組の御家人衆の拝領地であったので、「三組町」と唱えるようになったと伝えられている。
『横山大観記念館』
『無縁坂』を下りきると不忍通りに出る。不忍通りを北に根津方面に少し進むと、マンションやビルの建ち並ぶ不忍池のほとりに、ひっそりとしたたずまいの古い邸宅がある。ここは「朦朧(もうろう)体」という独自の世界を築いた日本画の巨匠 「横山大観」が、明治四十二年から住んでいたところである。 東京大空襲で焼失し、現在の建物は昭和二十九年(1954)に再建されたものだが、大観は九十歳で亡くなるまでこの地に住み、実際の制作活動を行なった。
ここが現在、『横山大観記念館』として、大観の作品を展示している。内部はほぼ当時のままに保存されており、和風住宅の中で大観芸術の数々を見ることが出来る。美術館のショーケースばかりを見慣れた目には新鮮な展示である。
収蔵品は、工芸品や遺品を含めて二千点以上にのぼる。一階の「鉦鼓洞」(炉の間)は、大観のお気に入りの部屋で、床の間には大観の絵や親交の篤かった菱田春草の絵が、季節に合せてかけられる。

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