家だ、と案内された小さな部屋はどうやらフレンが独りで住んでいるわけではないらしい。
簡素ながらも、生活用品は2組あるようだった。しかし、ベッドは一つ。
下町ならではの光景か。
招かれた男は、下町の状態を詳しくは知らないまでもある多程度の情報は持っていた。
上の繁栄と反比例するように、貧困に喘ぐ者達の住まう地域。それは戦が始まったことで顕著になっていった。二組、と言うことは片親とでも暮らしているのだろうか。
「あの、ありがとうございます」
抱き上げていた少年が頭の上から恐る恐る礼を言った。下ろすのを忘れていた。
高い視線に落ち着かなかったのだろう、床に足が着いたことにあからさまに息をついている。
その様子はまるっきり子どもの物。しかし大人に構われることに慣れていない。そう言えば、抱えた時も泣き出しそうな声で下ろしてくれと言っていた。さすがに暴れ出すことはなかったが。
「タオル、持ってきます」
濡れたまま部屋の中を走る。
「傘を貰うから――」
構うな、と続くはずの言葉の前に、もうタオルが差し出されてしまった。
すぐに出ようと思っていたのにその差し出された者を受け取ってしまう。……調子が狂う。
「本当はお風呂でも用意できたら良かったんですけど」
しゅんと俯く姿は子犬のようだった。先ほどまでの大人びた様子が嘘のようだ。
「…………そこまでして貰う義理はない」
そもそも、雨の中濡れていた自分を家に招き入れることすら信じがたい『親切』だ。
何か裏があるのではと疑いを抱きもするが、逆にこの少年が企み事をするようにも思えなかった。
「いいんです、僕がしたいだけだから……ってできなかったんですけど」
苦く笑う。
「十分だ」
白いタオルに顔をつけ水滴を拭く。
風呂を用意されたところで、入ることを自分がするはずない、と自覚していた。タオルを受け取ることすら、しなかっただろう。普段……いや、先ほどまでの鬱積した気分であったなら。
どうしてここまで絆されてしまったのか、そちらの方が理解できない。
「……フレン」
先ほど聞いたばかりの名を呼んでみても、その釈然としない思いは広がる一方だ。
「はい?」
首をかしげ、パタパタと水滴を落としながら続く言葉を待つ少年はやはり犬のようだった。
水分を含んだタオルをその頭に乗せる。まだ濡れた髪を拭くらいはできるだろう。
「…………見ず知らずの人間を家に招いて良いのか?」
名を呼べども用があったわけではない。なんとなしに尋ねてみればフレンは笑って答えた。
「下町じゃ珍しくないですよ。みんな家族みたいなものだし」
そう言う物なのか。上と随分と違う様子に頷くしかない。貴族街などにはない考え方だ。
同じ地域に住まう者が助け合う。そのような環境で育ったからこの少年も自分に声を掛けたのかも知れない。
「そう言えば、名前聞いていませんでした」
ただすれ此度のみ会うだけの存在になるだろう、フレンに自分のことを告げるべきか、少々迷う。
しかし、ただ一度会うだけだからこそ名を教えるべきだとも思う。その直感に従うことにした。
「デューク」
「デュークさん」
反芻することでフレンは私の名を認識したようだ。
その声で呼ばれる名は、心地の良い物だった。今までの戦の中、この名を呼ぶ者は色々な感情を込めて呼んでいた。畏怖する者がいれば、蔑む者、助けを求める者、殺せと嘆願する者。
今呼ばれた名には、淀んだ感情が一切籠もっていなかった。
まるで光や木々のような、清々しい響き。
その響きに懐かしい物を見いだしてしまい、首を振る。
絆されすぎた。たかが少年一人に惑わされるとは情けない。この場を立ち去り、この少年から離れよう。
「…………世話になった」
「いいえ。迷惑だったでしょう?僕に付き合ってくれてありがとうございました」
深々と頭を下げ言った言葉は意外な物だった。気にするな、とでも言われるとばかり思ったのに。
「……人と関わりたくなかった、と知っていたな」
それでも傘をよこそうとした少年。
「自ら雨に打たれる人は、自然を楽しむ人か自身を責めている人が多いから。貴方の顔、悲しんでいて、そしてまるでこの世全てを憎んでいるみたいだった」
観察眼に驚かされる。
「そうだ、と言ったら?」
彼の言った言葉は、当たっていた。
自分はまさに、エルシフルを死に至らしめた人間を呪い、人間を信じた自分を呪っていた。
「僕はさっきも言ったけれど何も知らないから、弁解することはできません。
ただ、あのまま冷たい雨に打たれていて欲しくなかっただけなんです。冷たい雨は、人の思考を落としていくから」
できることならその負の感情を雨に打たせて育てるのではなく、少しでも楽しいこと嬉しいことを見つけて欲しい。
フレンは言葉をそう締めると、じっとこちらを見た。蒼い、ガラス玉のようでいて、変化する空のような色が貫く。
………………。
「下らない……。
憎しみという感情を経験したことはあるか?たかが雨を遮ったくらいで、それが消えることはない」
「そうですね……」
悲しげに笑って、俯いた少年。
彼に言ったことは事実だ。この感情は、そう簡単に消えやしない。しかし。
「傘」
蒼い傘を手に取る。
晴れた空を連想させるそれは、フレンの目の色にも似ていた。
「また……な」
憎むべきは全ての人間でない、と認識した。少なくともこの少年は、違う。
「!…はい!」
少し動かしただけで低い音がするそれを開く。
明るい響きを持ったフレンの声を背に、彼の家を後にした。
外の空気を吸う。
雨の湿気を多分に含む空気は、先ほどとはまるで違う物のような気がした。
肩がギリギリ収まる傘を広げ上に掲げる。
頭上には、憎らしいほど晴れた、自分の心を軽くした、『空』が広がっていた。
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