細い煙が空に上っていた。
 部下達の演習を見に行くために城から出たフレンは青い空にそれを見つけた。
 雲一つ無い空へ、まるで梯子のように途切れることなく上る煙。 
 空を見上げた蒼い瞳は太陽のまぶしさに少し目を細める。
 あれは弔いの証。
 下町から上るそれは悲しげに、だが強く伸びる。
「ああ、誰かが……」
 遠くで鐘が鳴るのが聞こえた。
 人が死ぬ場面に出くわすことは少なくない。それどころか戦いに赴くことの多い騎士という生業は街に住まう者よりずっと死に近い。
 誰かは知らない。だけれど人に悼み送られる者へと黙祷を捧げる。
 どうぞどうぞ、安らかに。
 胸の前で握りしめた拳は冷たく感じた。
 一体今まで何人を見送ってきただろう。
 閉じた瞳は過去を映す。幾度となく、葬儀に立ち会ったことを思い出して。
 どの時も、拳を作った手は冷たかった。
 いや、子どもの頃は違ったのだ。
 暖かな温もりがあった……。




 雨が昨日まで降っていた。
 冷たい風が止んだと同時に、一つの命が亡くなった。
 病気を患っていた老婆。
 彼女は子ども達に童話を聞かせてくれていた。暗唱される物語は勇気を教え、慈しむ心を教えた。皆の祖母のような人。
 ユーリとフレンもまた、彼女に世話になったことがあった。
 この下町一帯を取り仕切るハンクスの伴侶だった老婆は親を亡くした子どもに優しかった。
 仕事ともとれない手伝いばかりして回っている二人を手招きしては素朴な菓子をくれた物だ。
 一昨日貰ったばかりの干し芋の甘さはまだ覚えている。
「ばぁさん……死んじゃったんだな」
 多くの者があつまって泣き濡れているのをみて、ユーリは実感の湧かない死を呟く。
「うん……。うん」
 フレンもまた、ただ呆然と頷くばかり。
 しかし、二人の頬は濡れていなかった。
「…………泣いても、良いんだぞ」
 ユーリの呟きにフレンは首を横に振る。
 普段、誰よりも涙もろいフレンの目には涙が溜まっていたが、それをこぼすまいと歯を食いしばっていた。
「無理すんなよ」
 ポンと頭を叩けば、堰を切ったように涙が溢れてきた。
 目頭に袖を押し当てて、それを防ごうと躍起になっている。
「駄目だよ、泣いたら駄目なんだ」
 そう言うフレンの脳裏には彼女に聞かせて貰った物語があった。
 子どもを亡くして毎日泣いている母が見た夢。重い水瓶を背負った子どもの夢。その水瓶の中は死を悲しんで流された涙だった。
 泣いてしまったら、死んでしまった老婆の水瓶の中身を増やすことになってしまうのだ。
 優しかった彼女。
 そんな負担を負わせたくない。
 だからフレンは涙をこぼさないようにと腕で顔を隠す。
 隣に立つユーリは、その物語を覚えていた訳ではないだろうが、涙を流していない。
 ただ、フレンが泣くから自分が泣かないように、と律しているのだ。
「も…もう、泣かない」
 嗚咽を漏らしながらごしごしと涙をぬぐい取ったフレンは顔をパシンと叩いた。
 宣言した通り、涙が落ちることはなかった。
 これから火葬場へと、老婆は運ばれる。一人一人が花を捧げていた。少しでも安らかに旅立てるように、生前好きだった花を添えていく。
「お前達、来てくれたのか」
 妻を愛していたハンクスは憔悴した様子にもかかわらず、ユーリとフレンの姿を見つけるやいなや笑顔を見せてくれた。目が赤くなっている。亡くなったのは夜、そして昼の葬儀まで、彼は彼で悲しみに暮れていたのだろう。
「じいさん……」
「なんじゃ?」
 ユーリの声に、身をかがめて顔を覗き込む。
「残念だったな」
「お前さん、子どもらしからぬ事を言うのぅ」
 年の割に大人びているユーリの言い分にカラカラと笑う。
「ハンクスさん、は……もう泣かないの?」
「ああ一晩たっぷり泣いたからの。あいつは、泣き顔より笑顔が好きだと言ってくれとった」
 でも、と言葉を続ける。
「泣いてくれる人がこれだけいたんじゃ。幸せだったろぅ」
 彼女が人々に慕われていた、その証が今日の葬儀だった。老若男女問わず、悲しみに暮れている。
「…………贅沢なことかもしれんが、お前達も、泣いてはくれんか」
 親を亡くし、親戚も知れず、養子にと言う申し出を断って二人で暮らす子ども。老婆はこの子ども達のことを気に掛けていたから。
「でも、そしたら…水瓶が……」
「ああ、あの話しか」
 フレンの呟きが子どもたちに話していた昔話のことを差しているとすぐに分かったのだろう。
 ニッコリと笑ってフレンの頭を撫でた。
「大丈夫じゃ、若い頃のあいつは子どもを三人軽々抱きかかえてたんじゃから、お前達の涙くらい軽く担いでみせるさ。
 じゃから、こらえてくれるなよ」
 そう言い残してハンクスは人の中に入っていった。
 子ども二人は、元の位置で…人々から少し離れたところでそれを見る。
「ユーリ……」
 力の抜けた声は隣の子どもを呼ぶ。
「なんだ」
「泣いて、良いって」
「ああ、泣けよ」
「ユーリも、我慢しないで?」
「男が格好悪いこと、できるかよ」
「でも悲しいでしょ」
「……」
 立ちつくすばかりだった子どもはそっと手を伸ばした。
 フレンの手が、ユーリの手を握る。
 その手の温かさはどちらの心も緩く解かしていく。
「泣いて……良いんだ」
「………………」
 どちらともなく、嗚咽が零れ始めた。
 嗚咽は大きくなり、二人で鳴き声を上げて泣いた。
 格好悪い、と言いながらも、涙が流れてきた。こんなに泣いたのは、もっと小さい時、もう親に会えないのだと知った時以来のような気がする。
 珍しいユーリの泣き声につられるように、フレンもまた涙をこぼす。
 それでも二人は手を離さなかった。片手で涙を拭いながらも、繋いだ手をほどくことなく力を込めていた。
 まるでそれが縋る物であるかのように。
 支える物であるのかのように。
 腕一本で支え合って、死を悼んで泣いたのだ。




 今ではできないことだ。
 胸に置いた手をそっと下ろし目を開ける。
 目の前に広がるのは誰もいない庭。見上げる空には火葬の煙。
 もう自分はあの手の温もりの支えがなくとも、人を天へ送ることができるようになった。
 変わった自分を確かめながらフレンはボンヤリと空を見上げる。
 でも、それでも。もう彼の手がなくとも立つことのできる今でも、思う時がある。
 いつか自分が逝く時は、その手の温もりが欲しい。
 涙はなくてもいい。
 怒るためでもいい。
 ただ、その手を繋いで欲しい。
 そう願ってしまった。
 きっとそれだけで、僕は満たされるから。
 姫を連れて遠くに行ってしまったユーリに、我が儘な願いをかける。
 今は離れてしまっても、どうか最後だけは、隣にいてくれないかと。
 何を掴むことのない拳は虚しく空を切った。




   ………………………………………………………………………………