騎士団を抜けて、どれくらいになるだろうか。
 青い空の中にそびえる結界の光を見上げながらユーリは溜息を吐く。
 騎士であった頃出入りしていた寄宿舎は、今や目的の前に立ちふさがるただの高い壁でしかなかった。
 ただ幸いなのは集団部屋だったフレンは今は個室になっているらしいことか。いまさらユーリが忍び込んだところで同期達は騒ぎ立てるようなことはしないがやはり厄介なのは変わりない。なんやかんやと揶揄られては話をすることもままならない。周りに群がる者をユーリがなぎ払っているとあっという間に時間は過ぎてしまうのだ。結局、フレンに会うためにわざわざ退団した騎士の寄宿舎に来たというのに、目的を果たせない。しかし、フレンが一人でいるならば別だ。小言を言いながら、受け入れてくれる。
 定時の夕食が終わった頃を狙って忍び込む。
 フレンにあてがわれている部屋は二階の隅だ。近々班長になるからと部屋を移動させられたらしい。着実に上へと歩んでいる親友を誇らしく思う反面、少し立ち止まれよと声をかけたくもなる。
 フレンの評判は彼贔屓の下町だけでなく、どこか下町を蔑む傾向にある市民街や貴族街にも流れていた。
 腕の立つ若者。頭の切れる若者。さながら正義の女神ユスティティアの使徒。しかし血の通った人らしく慈悲深き心を持つ……。
 除除に人間離れしていくフレンの評判には尾ひれや背びれが着いている気がしてならない。
 ユーリは溜息を吐いてしまう。
 確かに、フレンは頑張っている。下町出身という点を補ってそれ以上の評価を得られるくらいに。だけれど自分と会うフレンはそれこそ昔から変わっていない。真っ直ぐで純粋な奴だ。その美点が変わっていないのはとても良いことだと思うが、少しばかり抜けている部分も変わっていないのだ。
 フレンはその繊細で端整な容姿からは伺えないほど猪突猛進な性質を持っている。
 それ故、一つのことを目標に立てるとその他の物が目に入らなくなる傾向が強い。今、フレンの目の前にあるのは「この国を良くする」その一心である。つまりそれ以外の事は少しばかり視線から外れがちだ。
 とにかく自身のことに無頓着。それ故向けられる感情に対しても無頓着。恋愛事なんて意識の範疇にない。気を許した人間にはとことん甘い顔を見せる物だから無意識に誤解も招きやすい。が、それにすら気づいていない。
 着実に増えるフレンファンのことも、「みんな国のことを考えているんだね」なんて柔らかな笑顔と言葉で受け流してしまう。恋愛感情を持ってぶつかっても「僕も君のことは好きだよ」なんて他意のない台詞を吐く。押し倒されても組み手と勘違いして逆に組み敷いて「僕の勝ちだね」と体術指導を行う……。
 それらは無頓着であるのと同時に、彼の持つボケ体質が起因している。
 天然で繰り出されるそれは地味な威力がある。
 その部分を晒していない、と言うことなのだろうが、それでもユーリの知るフレンは腕が立ち、頭が回り、自分と勝負をすれば全て勝ちを浚っていってしまう人物でも、それ以上に保護欲をかき立てる存在であるのだ。
 だと言うのにイメージとずれた評判がフレンのことを知らない輩の間に流れている。それほどに、無理をしているのではないかと危惧してしまうのだ。
 今日ユーリがフレンの元へ赴いたのはその様子を伺うためだ。
 最近では下町へ訪れる仕事よりその評判を聞いた上流の者がフレンを指名していろいろと仕事を押しつけているそうでそちらに掛かりきりとなっているというのだ。
 何日も顔を見なかったから、そんな理由で寄宿舎に忍び込んだのだ。
 明かりの落とされた廊下を怯えることなく、むしろ我が物顔で歩くユーリの態度は部外者にはとても見えなかった。
 フレンの部屋はすでに把握している。
 窓から入っても良いが、残念ながら鍵が閉まっている様子が外からうかがえたので堂々と正面から尋ねてやろう。
 そしてノックもせずに開けた扉の向こうには明かりを灯しながらベッドに伏している人影だけがあった。
 珍しくも寝ているらしい。
 しかし、掛け布団をかけるでもなく、半身を投げ出すようにベッドからはみ出ている姿から就寝しようとしたのではないのだと分かる。
 疲れ果ててそのまま寝てしまったのだろう。
 その証拠に、テーブルの上には書類と乾いてないインクのついたペンが置かれている。
 近づいても目を覚ます様子はない。
 ふとした悪戯心で伸ばされたユーリの手が触れても静かすぎる寝息は乱れなかった。
「風邪引くぞ」
 起こす気がない音量。抑えられた声はフレンの意識を呼び起こす起因にはならない。
 さて、どうするか。
 ユーリはフレンの髪を撫でながらこれからを思案し始めた。







 ど、どうしてこんな事になっているのだろう!?
 目を閉じた暗闇の中、パニックに陥りそうな考えを纏めようと努力するが、その努力は霧散してしまう。
 ふわりと体の浮く感覚にゆっくりと上ってきた意識は目を開けるほどの覚醒を促さず、ユルユルとした睡眠欲の波にのまれていた。しかし、降ってきた声に驚く。
「また無茶してやがんな」
 ここにはいないはずの人物の声がするではないか。
 目を開けようとした時、丁度彼の手が瞼を覆うように顔を撫でた。
 誘惑に負けたのはいただけなかった。
 その感触が、温もりが心地よくて、目を開けるタイミングを逃してしまったのだ。
 まるで子どもを寝かしつけるような態度のユーリは自分が起きたことに気づいていないのだろう。
 どうしよう、せっかく訪ねてきてくれたというのに。起きるに起きられない……。
 しかし、彼は何をしに来たのだろうか。
 何か用事があるなら起こすだろうし、何もなく来るにはここは遠すぎる。それどころか、来るたびに自分が説教をしているのだ。それを予測してもここまで来たという事はなにか理由があっての事だろうに、なぜこんなにもノンビリとしているのだろう。
 急いでいないことは分かるのだが、なにぶん目を閉じているので何も見ることができない。
 雰囲気からは穏やかな様子が伝わってくるのだけれども。
「ちゃんと寝ろよ?」
 優しい声。そして額にふれる温もりは唇だろうか。もう恐い夢を見て泣く子どもでもないのに、ユーリはよくこうしてまじないをしてくれる。
 労ってくれている、そんなユーリの心を知って、甘えようかと迷う。
 このまま、眠りについてしまおうか。
 それとも、静かな邂逅をこのまま味わおうか。
「無理しすぎるなよ、そこもお前らしくて好きだけど」
 珍しい言葉を聞く。ユーリは「好き」だとか好意を示す言葉をなかなか素直に言わないから。それこそ食べ物であってもあんなに甘い物が好きなくせに言葉では一言も言おうとしないのだ。
 これも僕が寝ているからだろうか。
 なら、悪いことをしてしまった。僕には聞かせたくない事だったのだろう。
 ますます起き出すことができなくなってしまった。
 顔はにやけていないだろうか?
 ユーリの言葉に起きていたなら確実に嬉しさで頬が緩んでいただろう。必至に平然を装い目を瞑り続ける。
「でも……」
 ユーリの呟きが聞こえると言うことは気づかれていないのだろう。
 ホッと息をつきながら、響きの変わった声に不安を覚える。いったい、何を言いたいのだろう。
「俺は、お前が思っているように、お前を家族だと思ったことはない」
 静かな声。
 その言葉に衝撃を受ける。血が凍った気がした。
 確かに、僕たちは血の繋がった家族ではない。
 でも小さい頃から一緒にいて、喜びも悲しみも分かち合ってきた、誰よりも近い存在。
 僕は父も母も、姿を覚えていない。それどころか、父の存在は誰も知らない。血縁と言えば僕を産んですぐに亡くなったという母だけ。血縁の誰とも一緒に過ごした記憶はないのだ。でも、ユーリは違う。彼は親と暮らしていた時期があってちゃんと記憶があるんだ。その人達と同じようになれただなんて、どうして思えたのだろう。
 二人で暮らした幼い頃も、仕事を見つけながら同じ部屋で暮らした頃も、騎士団に入った頃も、こうして別々にいる今も、繋がっていられる絆があると、家族であると、そう思い上がっていたのだ。
 恥ずかしくなる。
 親友、として最高の位置にいるというのにそれ以上を当たり前のように望んでいた自分。
 なんて浅ましいのだろう。
 自分にとってかけがえのない存在であるから、相手にもそうであるように望んでいた。
 申し訳なくなる。
 すぐにでも、謝らなければならない。しかし、体が動かなかった。
「…………泣くなよ」
 頬に暖かで少し堅い感触。
 ユーリの手だ。器用で優しい手だ。
 掛けられた言葉は、寝ている者に対しての物ではなかった。
 ゆっくりと目を開ける。
 不覚にもあふれ出てしまった涙で視界が歪む。
「気づいてたのか、起きてるって」
 一度目を閉じて息を吸う。涙を止めなければ。自制はできたようで、これ以上涙は流れなかった。
「隠せたつもりだったのか?あんな顔しておいて」
「…………」
 結局、寝たふりはできていなかったらしい。
 なら、あの言葉も聞かせるために言ったということだろう。
「全く、世話が焼けるぜ」
 どういう意図で言ったのだろう。笑っているユーリからは意図が計れなかった。
「……ユーリ」
「ん?」
「あの……」
 聞けばいいのに、躊躇してしまう。
「さっきのは……」
「家族じゃないてやつか」
「………………そう」
 やはり、聞き間違いでも何でもない言葉だった。
「僕では家族、になれないだろうか」
 思わずこぼれた本音に、ユーリは驚いたように少し目を大きくした。
「すまない、なんでもないんだ。忘れてくれ」
 たった今申し訳ない、そう思ったはずなのに。
 予想もしなかったことを聞いた、という様子だったユーリの顔を見れば言ってしまった言葉に後悔しか浮かばない。
「フレン」
 いつもなら心地よく感じるユーリの呼ぶ声が辛い。
「ユーリ、戻ったらどうだ?そろそろ外の巡回も来てしまう。さすがにこんなに頻繁に出入りしていてはよからぬ事を目論んでいると思われてしまうよ」
「フレン、聞けよ」
 背を向けて顔を見られないようにしたのに、肩を掴まれ力任せに正面を向かされる。
 真剣すぎるユーリの視線に、負い目を感じて視線を逃がす。
「ごめん。僕は、自惚れていたみたいだ。ずっと、君に一番近いと思っていたんだ。ごめん……」
「フレン。ちゃんと聞けよ。俺はお前のことを家族だなんて思ってない。家族だったら、俺とお前は兄弟。そんなんじゃないだろ、俺たち」
「…………うん」
「こら。最後まで聞け」
 ゴンと拳で額を殴られる。……加減はしてくれているのだろうけれど、地味に痛い。
「俺は、悪いけど兄弟にはなりたくない。家族と思っていない、てのはそう言うことだ。別にお前のことが嫌いだから、なんてことじゃない」
「よく分からないんだけど」
「あー、そういうとこは変わんねぇな」
 片手を僕の方に置いて逃げることを防いでいるユーリは頭を豪快に掻く。
 嫌われている訳ではないのには安心したのだけれど、いまいち分からない。
 兄弟ではいたくなかった、というのは倦厭していると言うのと同じなのではないだろうか。
 やれやれと大げさに肩を竦めたユーリは再び僕の両肩を掴む。
 もう逃げたりしないのに。
 こうして正面から向かい合う、と言うことはユーリも話す気がある、と言うことなのだろう。ジッと説明を待つ。
 しかし、意外なことに言葉が出てくることはなかった。
 変わりに近づく顔。
 どうしたのか、と見ていると顔が触れるほどの位置に来てようやくユーリが呟いた。目くらい閉じろ、と。
 分からないまま目を閉じるとユーリが息をつくのを感じる。
 そして、口に当てられた物。
 驚いて目を開ければ、そこには黒い瞳がすぐ目の前にあった。
 これは………
「これで分からないなら、ちゃんと言うけど、どうだ?」
 ……キス?
 何でもないことを装いながらユーリの顔が赤くなっているのを見る。
「言って、くれるかい?」
 もう独りよがりの自惚れではなくしっかりと意志を聞いておきたい。
 僕にとって君が他に変えられない存在であるように、君にとって僕が唯一の存在であると。
 そう思いたいから。




 抱く感情に名を付けるなら、それは……。
 その名を告げたときの顔を忘れない。




 あいつの(君の)笑った顔が嬉しかった。






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