ラスベガスの由来 
インディアン以外で初めてラスベガス・バレーに人が足を踏み入れたのは1800年はじめでした。華やかなネオン街でなく、水を探してのことでした。スペイン語で「草原・湿地」を意味する名前から察することができる通り、スペイン系の人々がこの地を発見したのです。それまでスペイン商人たちは未開拓のラスベガス・バレーを抜けてロサンゼルスへと向かう行路を「死の旅路」と呼び、避けました。この谷を抜けて行く行路を開拓したのは、R.リビエラで、ロサンゼルスへ通じるスパニッシュ・トレイルの旅程を3-4日間縮めることができたのでした。
金・鉄道・賭博による発展
19世紀の後半になり、ネバダで金銀が発見され、その後20年の主要な産業となってきました。1905年には、南加州からソルト・レーク・シティまでを結ぶ鉄道が完成し、ラスベガスは鉄道補給地としてその後25年間栄えることになりました。 1930年には人口は5,165人となり、1931年3月19日のネバダ州の 賭博合法化に加えて、離婚法の成立、フーバーダム建設の開始で、ラスベガスはさらに大きな変貌を遂げることとなります。1940年までに、ラスベガスの人口は8,422人となり、第二次世界大戦の開始と共に、豊富な水・資源と広大な土地を持つラスベガスへ軍事防衛産業がもたらされました。
ラスベガスの人口
1960年までに、ラスベガス市は25スクエア・マイル、人口64,405人
(クラーク郡人口、127,016人)とネバダ州全体の22%を占めることとなりました。 そして、1960年代には、ハワード・ヒューズによるカシノ・ホテル買収が始まり、賭博業は会社組織によるクリーンなゲーミング・ビジネスへと発展していきます。1980年になっても投資は続き、株式公開する会社も出てきました。そして、人口は164,674人に達します。1995年には368,360人となり、2005年までにラスベガス・バレーの人口は200万人を超すと推測されている。 これは、年間4%を越えるホテル部屋の新設・増設、それに伴う高い就業率が、その理由とされています。
現在も、毎月4000-5000人がラスベガスへ移住してきています。
ラスベガスの位置と気温
ラスベガスの位置は、緯度では埼玉とほぼ同じですが、海抜664m、谷間という立地の為に太陽の日差しと風(西風が多い)が強く、空気は乾燥しています。一番暑い月である7月の平均最高気温は40度、最低気温は24度、12月の平均最高気温は14度、最低 気温は2度となっています。3月、4月の平均最高(最低)気温はそれぞれ、20(6)、25(10)度と過ごしやすいです。雨量 は少なく年間105mm程度です。日本との時差は17時間で、米国西海岸の時間(Pacific Standard Time=
PST)と同じです。 夏は、DST(Daylight Saving Time)、夏時間の為、日本からの時差は16時間の遅れとなります。
ラスベガスの主要産業
ラスベガスの現在の主要産業は鉱山業、軍事防衛産業、ホテル・観光業の他、コン ベンション(会議・展示会)が大きな地位を占めています。 豊富なホテルの宿泊施設を背景に、全米でシカゴと並び、有数なコンベンション開催地となっています。ホテルの建設ラッシュにともなう宿泊施設の急増が、世界的規模のコンベンションの誘致に拍車をかけており、現在ラスベガスでは毎週のように大きなビジネスショーや国際見本市が開催されています。コンベンションで人が集まれば結果としてカジノ収益も伸びることになり、今ラスベガスでは官民一体となってこのコンベンション誘致に力を入れています。
また、グランド・キャニオン、ブライス・キャニオン、モニュメント・バレーと いった観光地への中継基地としての地位も年々高まり、ラスベガス発のこうしたツアー・パッケージも増えてきています。
ラスベガスの特異性・交通
ラスベガスの最も大きな特徴はやはり、カシノ・ホテル産業を基軸とした24時間 の生活体系であります。 スーパー、洗濯店、カシノのレストラン、ガソリンスタンドなど生活に必要な店舗
は一日中開いておりまして、3交代制で働く従業員にも日常生活での不自由は全くありません。 公共の運送機関としては、CAT(Citizens Area Transit)というバスが市内を運行しているが、ストリップ大通りを除き、郊外は 運行スケジュールが疎で、30-60分待つのは珍しくありません。運賃は$2程度です。 タクシーを利用しても$10-20で空港からストリップ、ダウンタウンのホテルまで行けるほど、ラスベガスはホテルが隣接しています。
ラスベガスのアトラクション・生活
ラスベガスには、マダム・タッソーの蝋人形館、ギネス・ブック館、子供博物館、 ウエット・アンド・ワイルドなど家族連れでも楽しめる施設が増えてきています。
また、観光・コンベンションの都市として存続する為、安全・保安には力を入れて おり全米の都市の中でも、安全性は優れています。 こうした環境の中で存在する日系企業としては、旅行代理店、飲食業、ホテル業、
ギフト・ショップ、通訳・コンサ ルタント業といった観光とコンベンション関連企業が大半で、一部にゲーミング関係の企業が存在する程度です。 米国の大都市には、たいていある邦人銀行や日本の書店、スーパーなどの進出は未だありません。
但し、韓国系、中国系のスーパー・マーケットがあり、日本の食料品や和食用の食材なども手に入るので、言葉さえある程度できれば、日本人が住むのにも大きな不自由はしません。
子どもの居る家庭には関心のある日本人学校は、1995年に創られた日本語補習 授業校のラスベガス学園しかなく、他の大都市にあるような全日制の日本語の学校はないので、平日は子弟を地元の
学校に通学させざるを得ず、3―4年の駐在予定期間で派遣される駐在員の家族には教育の点で、厳しいかもしれません。
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