イタリア人育成法

1月24日、ヴェネツィアで雪

こんにちは。
いろんなウィルスが出回っているようですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
今日は、「ルネサンスと人文主義の文化と文明」という試験を受けてきました。口述です。

しゃべって、なんぼ

高校の時、数少ない好きな授業のひとつに世界史がありました。世界史だから好きだったわけではなく、授業が面白かったのです。当時、明らかに名物先生の一人だったと思いますが、ただただ語り部のように、話を語るのです。黒板に何か書くでもなく、プリントの穴埋めでもなく、教科書を朗読させるでもなく。歴史が、人の物語として生き生きと伝わってきて、楽しみな授業でした。
それでも、ただ話を聞いているだけなら面白い、で済んでも、どちらかというと黒板を機械的に「写す」ことに慣れている生徒たちははじめビックリ、そしてあわてて、必死でノートをとる羽目に。それこそ試験のことを考えると大変で、もちろん、まったく教科書の内容はしゃべっていないので、聞き逃したところを、自分で本で調べたり、先輩のノートを借りたり。

気がついてみると、今、イタリアで受けている大学の授業が、全部このスタイルなのです。授業中、先生はひたすらしゃべり続け、学生はそれを丸写しのごとくノートを取り続ける・・・もちろん、たいていは聞いている分には面白いけど、試験となると大変で、ほとんどの先生は当然のことのように、自分の講義内容を全て暗記していることを望みます。たいがいは、後で本で調べようにも、まず該当する本がなかなかない上、説や解釈が違うこともあり要注意。たまに、教授自身が書いた本があったりする場合は大助かりなのですが、それもぬか喜び、たいていは、これがまた、めちゃくちゃわかりにくい・・・しゃべりは面白いのに、書くとなんでこんなにわかりづらいのか・・・私の語学力、理解力の問題かと悩んだ挙句、他の学生もひそかに酷評をあびせていることが判明したり。
だいたい、イタリアでは教授、先生というのは、まずひたすらしゃべることが第一。
朴訥としゃべる先生、ひたすら黒板に書く先生、というのは、どうも存在し得ないようです。ホワイトボードに、何か書くとしたら外国語や固有名詞など、どうしても聞くだけではわかりにくい単語。それも、生徒にリクエストされた場合のみ、しぶしぶです。そうして、講義の内容を丸暗記して試験に臨むのですが、それが例えば「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」とか、「トマス・アキナス神学大全」とか、訳もわからず年号や単語を呪文のように覚えるのではなく、ここでは文章を丸ごと覚えるのです。要点を押さえるのでもなく、丸ごと。そして先生がしゃべり屋なら学生もしゃべり屋。試験の前の待ち時間など、お互いに自分の暗記力を披露する学生たちで、騒々しいのなんの。これが筆記試験なら始まるまでせいぜい30分くらいの我慢ですが、今日のように、口述試験の順番待ちだと、何時間にもわたりそれが続きます。よくもまあ、そこまで暗記して、しかもそこまで早口でしゃべるものだ、と感心しながら、こちらはさすがにそこまではしゃべれない、というよりは、明らかにそこまでは覚えていないので、どんどん焦りが増します。精神衛生上よくないので、少しでも静かな場所を求めてさまよってみたり。

日本とイタリアという、習慣、文化の違いと言ってしまえばそれまでですが、日本語とイタリア語の違いによるもののようにも思えます。何よりも漢字を持ち、かつ同音意義が多い日本語は、書く文化なのだな、と思います。対して、イタリアでは、古くローマ、いやギリシャの時代から、その名も「弁論家」というしゃべりの専門家が存在したのですから。

ルネサンス期には、弁論も人間育成のために重要な科目の一つで、特にローマ時代のキケロがお手本としてもてはやされた。などと私なりに暗記しながら、そんなことを考えていました。
Fumie