中途半端な違和感


こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。

「××の△△人」というのは、古今東西、映画で繰り返し取り上げられてきたテーマなのではないでしょうか。映画は、批評できるほど見るほうではないのですが、パリのアメリカ人、アメリカのイタリア人、ロンドンのナポリ人・・・おかしなエピソードがいくつも出てくるのは、想像にかたくありません。何しろ、異国の地というのは、ふだん住みなれたところにいる時にはありえないような、思いがけないハプニングが起きるものです。さまざまな習慣の違い、常識の違いはあって当たり前、だからこそ旅は面白いのでしょう。でも、もっとも深刻で、時に笑えない、時には大爆笑できるのは、やはり言葉の問題かもしれません。

日本のアメリカ人

年末年始をはさんで、なので少し前になりますが、映画を2本見ました。映画自体、あまり見るほうではないので、批評などはとてもとてもできませんが、今回、その2本がアカデミー賞にノミネートされた、というので、イタリアで見た感想と、イタリアでの反応など書いてみたくなりました。”Lost in Translation”と“Last Samurai”です。どちらも、私は日本にいたら絶対に見なかったでしょう。それでも、自分が外国にいることで見る気になったのですから、そういう意味でも視野が広がったと言えるかもしれません。

まず、“Lost in Translation”、日本では未公開らしいので簡単に言うと、アメリカ人俳優がCM撮りのために東京にやってきて、そこで遭遇するちょっとした出来事。筋も何も、取りたてて珍しいものではないのですが、この映画の面白さは、日本人同士の会話、日本語での表記が全く翻訳されないというところにあります。つまり、外国人が一人日本にやってきて味わう、わけのわからなさ、心細さ、不安を、観客が共有する仕組みです。
まず、こうやって見ると、イタリアで見るドキュメンタリーなどでもそうなのですが、彼らの描く「東京」像、これが私がふだんイメージする香港に似ているのです。漢字とアルファベットの看板で埋め尽くされる空間、人があふれ、ネオンがあふれ、ほとんど原始的とも言えるエネルギーに満ちた地上、眠らない熱帯夜、それに対照を見せるかのような冷たいガラス張りの高層ビル群。もちろん、地理的にも近いアジア同士、東京がローマよりも香港に似ていて当たり前ですが、いつもなんとなく違和感を覚えます。
さて、映画ですが、アメリカの映画にしてはずいぶん、実験的だったのではないかと思います。なので、ノミネートされたことも、私にとっては軽い驚きでした。
例えば、CM撮影中に、ディレクターが俳優氏に向かって長々と、しかし技術的でも何でもない、「そこんとこ、ホラ、ハートでぐっと」とかなんとか訴える、それを通訳者が、たった一言で、しかも全く違う内容で伝える。思わず「うそ!」っと叫んでしまいましたが、それを全部わかっているのは、映画館内で、私だけ。他のイタリア人観客は、「それだけ?なんだかもっとたくさん言ってたでしょ?」と不安げに質問する俳優氏と感情を供にしているのです。ものすごくリアルなのですが、ほんとうに、日本語だけの部分が、ずいぶん長いのです。登場人物同士の会話のみならず、背景の会話、音、すべて。
いくら英語しかわからないアメリカ人でも、イタリアに来て、アルファベットは同じだし、語源が同じ単語も多いし、何とか想像がつくこともあるでしょう。その逆もしかり。ところが、日本という異国の地に、言葉はもちろん、とりたてて興味も何もなく降り立ったときの、不安。そう、この映画を最初から最後まで支配しているのは、何よりも不安感、そして、もどかしさ。話が淡々としていれば、アメリカ映画とは思えないほど結末も淡々としていて、逆に、この映画がどの位、アメリカ本国で受け入れられたのか、興味深いと思っていました。
イタリアでは・・・どうでしょう、日本語科の学生、あるいは仕事にせよ、日本に行ったことがあるという人にとっては、共感できる映画かもしれません。あるいは、日本に限らずとも、旅好き、異郷の地好きとか。そういうマニアックな感じで、イタリアで一般受けするとはとても思えませんでした。映画が終わって、クレジットが流れ始めたときの、何とも言えない空気が忘れられません。

長くなってしまったので、Last Samurai編は明日にでもあらためてお送りします。(続)

ではまた。
Fumie