こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。
こちらは暑い日が続いています。なんでも、本来なら7月から8月にかけて滞在するはずの高気圧が一月以上も早く居座ってしまった、とのことで、昨日のヴェネツィアの最高気温は33℃、フィレンツェで35℃、ミラノもほぼその位に達しているようです。少なくとも日曜日まではこの状態が続き、気温も更に上がり、40℃に届く可能性もあるとか・・・ちょっと暑すぎです。
さて、ヴェネツィアでは、今週から「ビエンナーレ」が始まります。本来イタリア語では単純に「2年制、2年ごと」を意味するビエンナーレ(biennale)ですが、ヴェネツィア・ビエンナーレといえば、ここで2年ごとに開催される国際現代美術展のこと。
ふだん、中世の建物、教会や美術にどっぷりはまる生活をしているとすっかり忘れがちですが、映画関係者にとっては映画賞の一つであるのと同様、現代美術家にとっても、「ヴェネツィア」は一つの大きなシンボルであるに違いありません。
それにしても不思議なのは、開幕直前だというのに、宣伝のひとつ、ポスターの一つも見ないこと。町の中で、一切の張り紙が禁止されているというわけではありません。展覧会やコンサート、講演会など、意外と張り紙から得る情報は見逃せないのですが、そういえば、いつも遅め遅めなことが多いのことが多いのです。中には初めて見るときには期間が過ぎていたりすることも。
まあ、ビエンナーレは期間も長いので、始まってから宣伝しても遅くないのでしょうが・・・それにしても、参加する友人から話を聞いていなければ、開幕するまで全く気がつかない事態なのも、不思議な気がします。
絵と彫刻の間(はざま)
それは、繊細な刺繍のようでもあり、年代を経た陶器のようでもあり、また大理石か蝋ののようでもありました。
「空気は透明だけれども、空は青く見える」。布の上に、何度も、何色も色を重ねて、時には何年もかけて「地」の部分を作り、そこに一種のニードルで輪郭を彫り、さらに部分的に色を重ねる・・・不思議な透明感と、浅浮き彫りのような軽い立体感を持つ、まったく初めて見るスタイルのその絵は、気が遠くなるほどの時間と、計算され尽くされたデザイン、繊細で正確な仕事によって作り出されているのだそうです。
クラウディオ・マッシーニ。
大学内で展覧会のポスターを見て、面白そうだけどちょっと遠いし、どうしようかな、などと思っていたら、ある授業で知り合った女の子がこの作家の娘であることがわかり、それならぜひと、それでも展覧会最終日に駆け込みで見に行きました。
桜か桃かと思われる、5弁の薄ピンクの花を持つ枝、窓とテラスのある集合住宅。赤さんごに、普通の家らしい家具やキッチン。繰り返し現れるモチーフは、目になじんだ、ごくありきたりのもの。
ローマ人が壁に緑を描いて室内でも庭の風景を楽しんだという、それはこんな感じかもしれない、と思わせる桜の枝が並んだ部屋。ところが、無いはずの棘を持つ桜、直角に、放射線状に、あるいは螺旋階段状に突き出た枝。そこから、いちじくの実がぶら下がっていたり。
実は全てが虚構の世界なのだとわかると、次の部屋の絵に現れる東洋風の一見変てこりんな建物も、このジョークの一つなのだと納得できます。実際、日本にも中国にも一度も足を運んだことがないという作家の作り出したこの空間、黒と、深い赤を基調にしたこの部屋の絵は、かつてヴェネツィア人を魅了し、そして大量のコピー品を編み出したという、中国や日本の漆塗りの家具を彷彿させます。
そしておそらく、このスタイルの絵の圧巻であるのが、白一色、または鮮やかな一色の色地に、白で、あくまでも薄く描かれた、半透明の細くて長い長い、グラス。
そんな、どこか懐かしいような、計算され尽くした美を追求しているように見えるこの作家も、しかし70年代の活動は「社会派」ともいえるものですし、90年代の作品を見ても、とても同じ作家の作品とは思えないくらい表現が違うものです。
思えば、作家というのは、どうやって自分の表現にたどり着くのでしょうか。
現代美術、モダン・アートと呼ばれるものは、時に難解そのものだったりするものです。クラウディオ・マッシーニは、今回ビエンナーレとは直接関係ありませんが、ビエンナーレの楽しみが、少し広がったような気がします。
ちなみに、同展覧会は、6月18日から8月3日までハンガリーのブダペストでも開催されます。機会がありましたら、ぜひどうぞ。
それでは、また。
Fumie
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