| こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。嘘みたいに、さらっと晴れた暖かい日が続いていますが、既に12月も半ば。季節の飾りやイルミネーションでいっぱいになるこの時期、夕焼けから少しずつ闇が濃くなる時間は、ただ町を歩くだけでも楽しく、なんとなく浮かれた気分にさせられます。
寛容か、無頓着か
ちょうど1週間ほど前になるでしょうか。新聞で「イエス、消される」と何とも物騒な見だしを目にしました。ミラノ近郊、コモ市のある小学校での出来事です。ことの発端は、学校でクリスマス行事のための練習をしていたところ、ある生徒から「学校にはクリスチャンでない生徒もいる、『イエスのお祝いの日』と歌うのはどうか?」と声が上がったのだそうです。その小学校では、外国人の比率が約20%。ちなみに、国全体の人口のうち、新生児の数よりも、移民による人口増加が上回っているイタリア、もちろん地域差はあるものの、20%というのは決して特殊な例ではありません。
ならば「Gesù(ジェズ=イエス)」の代わりに、「Virtù(ヴィルトゥ=徳)」と歌うことにしようと、生徒たちはそれぞれノートに手書きの歌詞の「Gesù」の部分を消して、「Virtù」と書き換えたのです。
問題が大きくなったのはここから。そのノートを見たある親が、「イエスを抹消するとは何事か」と騒ぎたてたのです。このセンセーショナルな見だしの示す通りです。その後は、やれ「歌詞を戻せ」、「赤頭巾ちゃんにしたらどうか」「それならプレゼピオ(イエス誕生の場面の人形飾り)も取っ払え」「いやだめだ、不信心の始まりだ」などなど。
ああまたか、と思いました。これまでにも、いかにも田舎の小さな小学校で、教室に吊るしてある小さな磔刑図を外す外さないので、ずいぶん長いことニュースになっていたことがあったからです。国民の、確か9割だかがキリスト教徒であるといわれるイタリアですが、建前では宗教の自由が保証されています。もちろん、完全に政教分離で、どこかの大統領のように、聖書に手を置いて宣誓、なんてこともありません。少し前までは、人が亡くなると自動的に遺産の一部がカトリック教会に寄付されるようになっていたのが、さすがに今はそれも改正され、寄付先を選べるようになったと聞いたこともあります。それを狙っての、詐欺団体がたくさんあるというのが、落ちとして付いていた話でしたが・・・。
学校でも、昔はともかく、今は宗教教育は選択、というよりは実際は受けない自由があるはずです。なので私もその時は「公立の学校なら、確かに十字架をかけておくのはどうか」と思ったのです。
結局のところ、平和だということなのでしょうか。
フランスでもスカーフ問題というのが話題になっていましたが、イタリアがフランスと違うのは、よくも悪くも国レベルで統制する気がまったくないということ。ひとつひとつ小さな事件があちこちでおきて、その度に似たような議論を繰り返し、答えが出ないのです。
もちろん、イタリア人にとっては「たかがクリスマス」ではありません。ただ、プレゼピオはともかく、例えばクリスマス・ツリーやクリスマス・プレゼントは、イタリアでは伝統どころか、かなり新しい習慣なのも事実です。
さまざまな事情でイタリアに住む外国人が、それぞれの宗教を持っていたとしても、イタリアの、宗教を含めた文化を知ること、特に子どものうちに知っておいても悪くないでしょう。学校でのクリスマス行事も、それがイタリアの文化であるには違いないし、予定通りやったらいいと思うのです。もちろん、それを強要するのは論外で、歌にしても行事にしても、本人や家族に、参加・不参加の自由を与えることは不可欠です。違う宗教の人がいるから、この歌はダメ、この飾りはタブー、そうやって禁止するのは、結局のところ他人に対する非寛容の裏返しのように思えてなりません。そうではなくて、イタリアの伝統を、外国人にも見せる一方、彼らの習慣、祝日について学ぶ機会を、学校や地域で作っていけばいいのに、と思うのです。1人の子どものちょっとした気遣いが、大人の、大人気ない行動で思わぬ方向へ転がってしまっているのが、残念です。
何であれ、この季節に家族や友人と集ったり、プレゼントを交換し合ったりするのも悪くない、そういう私は結局のところ宗教に無頓着な、日本人だということでしょうか。
でもきっと、一番たくましいのはやはり中国人。イタリアの今やどこにもある中華料理屋、中国物産店では今の時期、飾りつけも万全に、しっかりクリスマス商法にのり、自分たちのお祭りはそれはそれで盛大に祝うのですから。ミラノでは、確か春節のお祭りには竜が大聖堂前に繰り出したりと、今や町の行事の一つとして定着しつつあるようですし。
さて、私は明日16日から1月2日まで一時帰国、日本人らしくクリスマスを迎えるつもりです。
それではちょっと早めですが、よいお年をお迎えください。
Fumie
|