発表要旨

2008年度春の例会(平成21年3月14日)

(1)藤原顕方の詠作――六条藤家歌人の位相をめぐって―(修士課程一年  梅田 径)
 藤原清輔の同母兄である藤原顕方には、まとまった著作もなく歌道家である六条藤家の歌人としては目立つ存在ではない。しかし『千載集』に三首『続詞花集』に六首入集する勅撰歌人であり、弟清輔や忠兼、隆縁らと共に父顕輔の『詞花集』撰進に助力したことが『詞花集註』から確認でき、当代には父祖から重んじられた時期もあったと考えられる。
 顕方は長承三年九月顕輔家歌合に出詠してから、主に六条藤家関係歌会を中心に和歌活動を展開していた。一方、弟の清輔は歌林苑や九条兼実、二条天皇らの歌壇を渡り歩き、多くの歌人と交流し時に激しい論戦を行った。無数の書を読み幾多の著作をものにした清輔に対して、顕方を異なる位相の歌人、すなわち父祖からの口伝を受けた六条藤家歌人として認定できると考えられる。
 顕方の歌には、先行歌を上の句単位で摂取する詠作が見受けられる。初学者の詠法とも受け取れるこのような技法は清輔『奥義抄』に見える「盗古歌証歌」の方法と類似する。『袋草紙』には公実が自詠に古歌を盗んだことや、顕季が「よく盗むを歌読とす」と述べた事が記されている。「盗古歌」は顕方、清輔兄弟の祖父顕季においては普遍的な詠作技法だったようである。『奥義抄』「盗歌証歌」には公実、顕季の詠も入ることから「盗古歌」の詠作技法は口伝をもって伝えられたと考えられ、同じ口伝を顕方も受けていた可能性は高い。顕方の残した事績は少なく、詠作もわずかに十四首あまりを見ることができるのみだが、その表現からは当時の和歌表現の行き詰まりが改めて浮かんでくる。その一方で、わずかながら新しい表現を試みようという姿勢も感じられ、院生期における歌学と実作の交差路を顕方の詠作から見ることができる。
  

◆これまでほとんど顧みられていなかった藤原顕方の詠作に着目し、それが「盗古歌」の理念に基づくことを述べた発表であった。顕方が確かに六条藤家歌学の薫陶を受けていたとしても、それぞれの和歌の語句や表現により緻密な考証が求められたと共に、六条藤家における「盗古歌」の位置付けの再確認等、今後の方向性も明示された。院政期の歌学をより深く探究する上で、さらなる研究の進展が期待される。
(司会 錺武彦氏)

(2)近代における『平家物語』関連戯曲―明治・大正・昭和戦前の文覚出家譚―(教育学研究科 大津研究室修士二年 川瀬 紀子)
 近代における『平家物語』の受容を、戯曲化に限定して追った。明治・大正・昭和戦前の間に書かれた『平家』関連戯曲は、五十一作品。その中で、文覚出家譚に取材した六作品に特化して論じた。文明開化、大正デモクラシー、戦時体制突入に向けた規制の強化など、政治・文化的側面に翻弄された演劇界においても、文覚出家譚は戯曲化され続けた。
 まず、明治二十一年に依田学海・川尻宝岑の「文覚上人勧進帳」。この作品は、貞女としての袈裟とその母像が強調されている。同時に、家制度も描かれている点に、近世と近代との両立が見られる。同四十一年の松居松葉の「袈裟と盛遠」には、占方の予言という形でシェイクスピアの影響が見られる。また、袈裟と衣川、袈裟と盛遠による貞女とは何かの問を通じ、新しい女性観や信仰との関連が窺える。大正二年の森田草平「袈裟御前」には、当時の流行であったイプセン劇での新しい女とは逆の、従来の貞女としての袈裟が描かれている。同十二年、菊池寛は「袈裟の良人」を書いた。この作品には、ぶつかり合う袈裟と盛遠のエゴイズムが克明に描かれる。そのエゴイズムの妥協点として、また、貞女観に代表される封建的慣習への批判として、渡の出家が配置されている点が大きな特徴である。同十三年に長田秀雄によって書かれた「袈裟の魂」は、自ら死を選択した袈裟に、イプセン劇に見られる新しい女像が投影された。反対に、皆の出家の因となった袈裟への称賛を加えることにより、貞女像から逸脱しない袈裟像への回帰も起こっている。最後に、同十五年の小山内薫「盛遠」について。原典通り盛遠と一夜を供にする袈裟は、これまでの戯曲には描かれなかった。「宿命の女」的な袈裟を描く半面、最終的には身替わりの死を選択する点において、従来の結末と同じ働きをしている。
 これらのことから、戯曲中の袈裟像の移り変わりを見ることができる。「烈婦袈裟」としての受容が主だった近代以前から貞女像を受け継ぎつつも、西洋の影響等時代の流行にも左右されながら推移している。貞女であることを要求され続けた袈裟も、小山内戯曲に至るまでに評価が改編されていき、削除されていた原典の場面の復活も見られる。
    『源平盛衰記』の中の一つのエピソードである文覚出家譚が、時代の流れに乗りながら戯曲化され続けたのは、原典が、恋愛や生死など人類普遍かつドラマティックなテーマを扱った説話の集合体である点に依る部分が大きいと考えられる。
 

◆『平家物語』の明治期以降戦前までの演劇化の歴史を追った。袈裟御前など女性登場人物の人物像の変遷から近代以降の『平家物語』享受の変遷を論じる発表者に対し、むしろ演劇で取り上げられる場面や登場人物の人物像が固定化していくことそのものに目を向け、紋切り型の発生やそれが示す『平家物語』の受容の様相を探っていくことが重要なのではないかとの指摘が出た。また、戯曲の解釈をめぐってもいくつかの質問がなされた。この発表テーマには『平家物語』が「国民文学」となってゆく経緯を含め、重要な課題が残されている。
(司会 渡瀬淳子氏)

(3)近世初期における俊徳丸ものの芸能の流行(修士課程二年  金井 美穂)
 唱導・能・幸若・説経といった日本中世芸能は、相互に深く影響しあっていることが知られる。ところが、個々の芸能についての考察や、曲どうしの関係の近さの指摘は、すでになされてきたものの、その具体的なかかわりについては、いまだ明らかにされていない。このような現状にかんがみ、修士論文では、中世後期から近世初期における、俊徳丸説話―クナラ太子説話の舞台を天王寺に置き換えた説話――にかかわる語りもの・芸能の相互連関について解明し、同じ説話を素材とする芸能どうしのかかわりについて、一つの事例を示した。具体的には、クナラ太子説話・能〈弱法師〉・説経『しんとく丸』・能〈天王寺物狂〉を取り上げ、その成立や歴史的変遷を中心とした作品研究を行うなかで、相互のかかわりをさぐった。
 今回の発表では、その修士論文の中から、近世初期における俊徳丸もの芸能の流行という、特徴的な状況について紹介した。
 まず、近世初期における俊徳丸ものの芸能諸曲の状況について確認した。寛文年間から元禄年間にかけての事象として、説経浄瑠璃『しんとく丸』の上演と正本刊行、能〈弱法師〉の上演再開と謡本刊行、能〈天王寺物狂〉の成立、浄瑠璃『弱法師』の上演と正本刊行といったことがらを列挙した。そして、これらの事象をもとに、近世初期において、俊徳丸説話を素材とする芸能が人気を博し、関連する能・説経浄瑠璃を相乗的に隆盛させる、俊徳丸ものの流行というべき状況があったことを想定した。
 つぎに、俊徳丸ものの流行においてみられ、俊徳丸もの以外の曲にも影響を与えた。特徴的な傾向について紹介した。ひとつには、『しんとく丸』の継母と『あいごの若』の継母が同一視される傾向を挙げた。そして、その要因として、浄瑠璃『あふひのうへ』貴船詣の段の流布を指摘した。またひとつには、俊徳丸と蝉丸が同一視される傾向を挙げた。そして、この傾向が近松の浄瑠璃『せみ丸』に影響を与えたのではないかと考えた。
 このように、近世初期において、俊徳丸説話を素材とする芸能は、相互に連動して流行現象を起こすほどに、深く影響し合っていることが知られた。あるいはこれは、同時代の芸能全般についても、敷衍できる傾向なのではないだろうか。
  

◆長大な時代と多分野の芸能を対象としながらも、登場人物の性格付けや使用表現の比較といった詳細なテキスト研究に基づいており、具体的かつ説得性のある考察であった。会場からは、金井氏の指摘する流行が俊徳丸説話に限らない時代現象的なものであったのか、特異な例であったのか、そもそも近世初期になぜ俊徳丸ものの芸能が流行したのか、といった質問が出された。他の説話や時代背景を視野に入れることで、さらに考察が深まるであろう。
(司会 青柳有利子氏)
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