発表要旨

1993年度前期例会(平成5年7月3日)

(1)「花はさかりに」考――『徒然草』百三十七段の表現――(修士課程・小林研・松本真輔)
 さかりの花・くまなき月を離れようという『徒然草』百三十七段の精神は、その初期の享受者である正徹や、了俊、心敬らによって、極めて高い評価を与えられてきた。
 前回の発表では、「さかりの花・くまなき月」から逸脱し、「すべて、月・花をばさのみ目にてみるものかは」と言い切ってしまう『徒然草』が、そのアンチテーゼとして呈示する世界をどのような形で記述しているか、それを丁寧に検証していくことを端緒として、正徹が見出した「生得」の相を、その表現面から考察してみた。
 本段の冒頭が「月・花」を問題にしている点に注目すると、その記述が依拠するものが、ほぼ和歌の表現によって成り立っていることがわかる。こうした自然鑑賞の方法は、夙に指摘されるが如く、二条派の歌風に依拠した志向性と考えるのが妥当と思われる。これは、『徒然草』中唯一の歌論と目される十四段の記述にも、既に説かれている。
 しかし、百三十七段に現れる自然鑑賞の態度が、全ての点で二条派に合致するものではない。「つきのうたに、くまなき心をばすてゝ、くもりたる風情なんどをこのみよむこと、きわめたるひがごと也。(三秘抄古今聞書)」という発想は、百三十七段の「月はくまなきものをのみ見るものかは」と明確に対立する。
 安良岡氏はこの部分をも含めて、兼好法師は「二条派の歌風、歌学のすなおにして忠実な信奉者である」と結論付けているが、むしろ兼好法師は、自然の教学に発想の根底は依拠しつつも、ある程度そこからは自由に物を言っていると考えたほうがよい。それが、正徹の言う「生得」の相であろう。

(2)定家本雑考――三代集の書写――(博士後期課程・上野研・浅田徹)
 本発表では、まず古今集の定家本が俊成本と比べて著しく「定本」的(異文注記がほとんどない)であることを改めて確認し、後撰・拾遺でも同様の状況を推測した。通常これは定家の文学的個性の問題と解されているが、他の要因が考えられるのではないか。
 当初定家はそのような校訂をしていなかったように思われる。古今集の奥書を年時順に辿っていくと、建保五年(一二一七)までは伝「貫之自筆本」の写本である俊成本の権威を強調し、それによって自らを権威づけていったのである。恐らく俊成本の忠実な写しであったろう。しかし貞応元年(一二二二)六月本では「貫之自筆本」の権威は疑義を呈され、自分の本文について「若其志同者用之、不同者捨之」とその根拠の相対性が明示される。また同年九月本からは自分の本は「師説」に任せて書いたものだと断るようになる。以後生涯にわたってこの姿勢は変わらない。後撰集においては建保二〜貞応元年の間に成立した無年号B本奥書が「旧本」の権威に随従しているのに対し、承久三年五月本は「諸本様々だが、伝授の説に従って書く」旨明示し、本文も大きく変化したことが知られる。これもこの後奥書・本文共にほとんど変わらない。やはり建保末から承久にかけて定家の証本意識に転回があったことが認められる。
 これに関連し、承久二年の顕注密勘は既にはっきり「家本の相対性」「家説の優劣は合理的推論によるほか定められない」といった姿勢が顕著で注目される。ところで該書は定家がもうひとつの「貫之自筆本」写本清輔本とその顕昭注に触れて書かれたものだが、実は他に後撰・拾遺の清輔本も披見したらしく、定家にとって六条家という異なる家の証本群に触れたことが大きな衝撃だったのではないかと想像されるのである。御子左家のもつ正統性の根拠も、六条家の持つそれも同様でありながら(例えば古今集で同じ「貫之自筆本」を祖とする)、六条家は全く違う本文を持ち、かつそれなりに整合的・合理的な説の体系を持っていることに追い込み、かつ自身のアイデンティティーは「家説を相承する歌道家の人間であること」にしかないという意識にいたらしめたのであろう。その転回をなさしめた六条家証本群の披見はおそらく知家を介して可能になったはずで、建保六年の知家入門がその直接の契機であったと考える。

1993年度後期例会

(1)八坂本平家物語の一考察――巻第八以降の法皇をめぐって――(修士課程3年・日下研・鈴木彰)
 従来の平家物語諸本論は、灌頂巻の有無などの構成面の相違と本文校合作業の結果とから、本文上の系譜関係を明らかにする事を目指していたと言えよう。その一つの到達点が、山下宏明氏の『平家物語研究序説』『平家物語の生成』であり、以来、これが諸本把握の基準になっている。今回考察対象にした「八坂本」とは、氏の分類による「八坂第二類本」にあたるが、氏は渥美かをる氏の発言を受けつつ、これを「八坂流最末期の本文」とした。こうした後出本との評価故か、八坂本は巻第十二の「吉野軍」等の独自の義経関係記事のみが注目され、そこに室町という時代の趣向の反映が指摘されたりしてきた。しかし、改めて点検してみると、これまでに俎上に載せられていない特徴的な叙述が、かなり存する。これらは八坂本の中で如何なる性格を有し、如何なる位置を占めているのであろうか。
 今回注目したのは、法皇と源氏との関係叙述である。副題に「巻第八以降」としたのは、源氏の都入り以降を考察対象とした設定した為であり、また、ここで源氏を問題にしたのは、独自の義経関係記事の八坂本内部での位相を確認する為である。
 八坂本における源氏(義仲・義経・頼朝)は、法皇の命を承ってから行動を開始し、法皇に対する畏敬心を失わない。また、院宣によって彼らが行動していることが表現に顕在化している。こうした点は、覚一本(屋代本と含めた語り系諸本は、覚一本に代表し得る叙述を持つ)とは対照的であり、ここに八坂本の特徴的志向が反映していると考えられる。そしてこれは巻第十二にも継承されながら、頼朝を巡って微妙な「揺れ」を見せることになる。巻第十二の問題はすべて今後の課題だが、こうした法皇をめぐる特別な志向を抜きにしては八坂本を語り得ないのではないか。この点を問題提起し、従来の評価を再検討する必要性に触れた。

(2)『海道記』における『蒙求』の受容――『蒙求和歌』との関連をも兼ねて――(博士後期課程1年・小林研・羌国華)
 日本の古典文学作品に、夥しい漢籍の故事や成句表現がちりばめられたことは、古代より中国から日本に将来された漢籍が日本文学に与えた影響の大きさを物語っている。しかし、時代風潮や文学のジャンルの違いにより、漢籍の受容の仕方がそれぞれ違うし、同じ時代、同じ文学ジャンルでも、作者の違いによりその故事や成句の摂取も違っている。
 上古の『土佐日記』を始め、中世の一連の作品を通覧すると、中世紀行文学の代表作品といわれる『海道記』はその影響が特に多いことと筆者が気づいた。本論文は『海道記』に多く取り入れられた『蒙求』故事・人物に対する、作者の摂取態度と仕方及び成句表現の特色等を分析して、それらの故事・人物や語句表現で作り出された作者の内部世界及び作者未詳の人間像、作品の特色等を明らかにする。
 作者が蒙求故事に関心を示した人物や何気なく引用した成句に対する分析を通じて、作者の人間像について、「忠」「孝」「老」「貧」「懐才不遇」「人間不信」「出家の身」等のキーワードで当てはまることができよう。又『海道記』の作者は蒙求故事を自分の事、世相の事、日本の伝統的な歌枕・伝説、又旅道の風景と結び付け、ダブらせる、言わば、重ね合わせの文学の一面もある。そして、蒙求故事を引用する場合に、直接引用する仕方、蒙求故事や和漢朗詠集等から、蒙求故事と同じ内容をミックスした形で引用する手法、或いは蒙求故事を元に作者が独自の発想によって書き換えを加えることと、三つのパタンを呈している様だ。更に、『海道記』に取り入れられた蒙求故事や語句表現等の典拠を分析し、当時日本に伝わった『蒙求』古注本国立故宮博物院蔵古鈔本『蒙求』、宮内庁書陵部蔵影鈔本『蒙求』、真福寺宝生院蔵古鈔本『蒙求』、又、『蒙求和歌』(源光行・一二○四)等に対照し、『海道記』と『蒙求和歌』との関連の深さをも見つけ出した。

1994年度例会

(1)『小馬命婦集』の伝本について(尾上美紀)
 今回は『小馬命婦集』の伝本一一本、すなわち、宮内庁書陵部蔵伏見宮本・御所本二種(五○一‐一九二・五○一‐二八○)・御歌所本(六女歌集の中)、静嘉堂文庫本、神宮文庫本二種(一一六五・一一六六)、龍谷大学図書館蔵写字台本、松平文庫本、群書類従本、個人蔵の一本について検討した。
 『小馬命婦集』は奥書から流布本系統と異本系統の二つに分けられてきたので、まず、奥書について考察した。流布本系統の奥書の内容の乱れを指摘したものと考えられ、流布本系統の本は異本系統の本からの書写と推定される。(この点について会場にて兼築信行氏の御教示を受けた。)異本系統とされる奥書では註を施した人物の名などに異同が見られるが、書写奥書の日付や、「めこそ弾輩人」と伝えられる部分の「輩」の字が唯一「箏」と読める状態であることなどから、伏見宮本が管見の限りでは最古の写本と考えられる。
 一一本とも本文に大きな異同はないが、九番歌の詞書の「みやまの」を「みまやの」とする異同が御所本二種と御歌所本、個人蔵の一本に見られる。この詞書は前後の歌から見て、むしろ「みまやの」の方が内容にふさわしいかと思われ、本来的な本文を伝えている可能性もある。また、この四本のうち、御歌所本のみが流布本系統とされる奥書の一部を持っているという点や、流布本系統が異本系統から写されたものと考えられる点から、奥書による二系統への分類に疑問が持たれた。
 今回扱ったうちの個人蔵の一本は御所本(五○一・二八○)と筆跡・体裁とも酷似しており、内容としては新出のものである。御所本とともに「紀一輝」の署名があるが、この本には「実種」と読める蔵書印が押されている。これは紀一輝と親交があったとされる風早実種のものかと思われ、そうすると、霊元天皇宸筆の題箋を持つ御所本よりも古い可能性があるものと考えた。
 以上のように、今回は『小馬命婦集』を奥書から系統に分けることの問題点を指摘し、新出の写本一本の紹介を行った。

(2)長門本『平家物語』の編纂意識――巻十七より窺える一側面――(修士課程・日下研・川鶴進一)
 本により様々な特徴を示す『平家物語』は、その一つ一つの本の、諸本間での位置付け及び関係性については複雑な様相を呈する。その中で長門本と称される二十巻本は、元和七年の林羅山『徒然草野槌』に該当実見の経験が記されて以降、多くの随筆類に触れられ、先年松尾葦江氏の調査によって六十五の写本が確認されたように、近世期当時の知識人に注目された一本である。そのため早くから研究史上に採り上げられつつも、多くは比較対照の材料となっているに過ぎず、長門本そのももの性格に関する論は、必ずしも多くはない。それは、冨倉徳次郎氏らが長門本は延慶本との密接な兄弟関係を持ち、しかも後代的色彩が強い本である事を指摘されていく過程の中で、長門本からの視点での問題が等閑視されてきたことに起因するようであるが、『平家物語』享受史の問題を考えていく上においえより重要視されるべき本であり、その特質を鮮明にしていく必要があると思われる。本発表では長門本の構成の特徴を捉えようとし、その編纂意識を確認していく作業の中間報告として、特に長門本の巻十七に焦点を絞って、幾つかの問題点を取り上げた。
 まず表現面を中心とした覚一本的本文を有する語り本との交錯を指摘した。それは記事単位だけではなく、本文の一つ一つの語句単位にまで影響していると言える。その多くは、生硬な感を与える延慶本的本文をより練れた、または平易な表現へ改変しようとするもののようである。また長門本の構成に関しては、やはり延慶本的な枠組みを中心として成されているようであり、しかも出来るだけ延慶本に沿っていこうとする意識があることが、後半部の巻十二から巻十七において記事対照の上で窺える。特に長門本巻十七ではこのような傾向を顕著に見せながら、延慶本的本文を離れていく部分も見出せ、南都炎上の罪科を負う重衡や、妻子を残して出家・入水する維盛などの印象的な人物像への関心を膨らませ、記事配列を整理し、前後の対応を図ろうとしている痕跡が見出せる。こうした新たな「改訂」を長門本が施そうとする際に、その依拠する所を覚一本的本文とすることが、長門本巻十七では表現面・構成面を通じて窺えることを指摘した。
 しかし、長門本の本文形成上の問題点は以上の指摘のみにはとどまらず、さらに他の本文(特に源平盛衰記、鎌倉本)との関係を検討していく必要がある。また長門本全巻通じての検討も充分でないので、その点今後の課題としたい。

1995年度前期例会(平成7年6月10日)

(1)『今昔物語集』〈世俗部〉についての一考察――巻二十二を中心として――(修士課程3年・小林研・渡辺麻里子)
 『今昔物語集』は、依然として〈世俗部〉全体の読み方が課題として残されており、そこに作品としての読み方の問題がある。本論は、〈世俗部〉再考の手掛かりとして、その冒頭部に位置する巻二十二の藤原氏関係話に焦点を当て、再検討を試みるものである。
 巻二十二は藤原氏の列伝の形態及び内容をとり、全八話収められている。鎌足が天智天皇(中大兄皇子)を助けて蘇我入鹿を打倒し藤原の姓を賜り、藤原氏隆盛の礎を築いた話に始まり、第八話、時平が国経から妻を奪う話で終わる。一見すると「公ニ仕ル」者たちとして藤原氏の系譜をたどり繁栄を描いて行くように見える。確かに、第一話は、天智天皇に従い協力する鎌足像を描き、いわば「公」に仕える臣下としての理想像を示している。しかし第二話以降は、その系譜と「公ニ仕ル」と形を整えるだけで、どのように「公ニ仕ル」かについては語らない。系譜と「公ニ仕ル」ことは、巻としての統御を行うものでしかない。枠組みを整えて、系譜を語るように見せるが、内容として興味の向けられる先は、物語として興味の向く話へと移って行く。枠組みの提示は変わらず行われるが、その関連性は希薄になって行く。この様な語り方に、『今昔物語集』の方法と指向を見る。
 また、巻二十二の「公ニ仕ル」の問題は、「公」そのものの問題でもある。巻二十二は皇室関係話を収めた巻であるとされるが、欠巻である。そこで、「公」を天皇のこととし、他の巻に登場する天皇の登場話を検証し、「公ニ仕ル」臣下像の対置として、「公」そのものの有様を見る。天皇像は様々で、聖王として描かれるものもあるが、非難される天皇や、屈服する天皇も描かれる。特に絶対的な「公」を指向するような特定の視座は見出せない。また「公」を天皇の意とせず拡大しても、内的統一を指向することは出来ない。また同じ権力を持つものとして、なおかつ巻二二に描かれない道長像についても再検討する。

(2)覚一本『平家物語』の頼朝(修士課程3年・梶原研・伊丹英子)
 従来、覚一本では頼朝を平家に対校する最大の勢力として、また壇ノ浦合戦後は平家のみならず、朝廷にも強権を発動する存在として一貫して描かれているとされてきた。そうした位置付けを認めた上で、本発表では特に文覚・朝廷との関係を中心に検討し、覚一本における頼朝の位置付けを、同じく語り本系諸本とされる八坂本と比較しつつ、検討を進めた。その中では、頼朝が後の覇者となるべくその運命を文覚に操られていること・頼朝が朝廷から源氏の棟梁としての地位を与えられ、平家が壇ノ浦合戦で敗れた後は、法皇や公卿達に影響力を持つ存在となったことなどを指摘した。また、こうした叙述の在り方は頼朝=絶対者という覚一本の頼朝観に基づくものであり、これは既に兵藤裕己氏の論考(「覚一本平家物語の伝来をめぐって―室町王権と芸能―」・『平家琵琶―語りと音楽』ひつじ書房、九三・二所収)にあるように、覚一本の伝来と源氏の氏長者を名乗る足利氏との関与を窺わせているのではないかと指摘した。
 本発表は覚一本の特性を探るべく、その成立背景を本文から考察しようとしたものであるが、構想論の是非・芸能としての語りと文字テキストとの関係などの問題に対し無批判なまま検討を進め、覚一本の頼朝の独自性も十分に証明し得なかった為、著しく客観性を欠いたものとなってしまった。今後は自身のこうした研究態度を改めるとともに、別の視点から本文を見直し、新たな課題に取り組みたいと考えている。

1995年度後期例会(平成8年1月13日)

(1)『草庵集』四季部にみる頓阿法師の和歌――伝統と創造と――(修士課程1年・井上研・酒井茂幸)
 私は、「早稲田中世の会」後期例会に於いて、「『草庵集』四季部にみる頓阿法師の和歌―伝統と創造と―」と題する発表を行い、頓阿の和歌表現の問題について考究を試みた。『草庵集』の従来の評価は、二条派和歌の枠組内での印象評価が多く、その和歌表現史上の意義も余り顧みられてこなかった。そうした研究状況に鑑み、虚心に『草庵集』を読むと、「心」の古典主義に立脚しつつ新しい「心」「風情」を開拓・創造していく軌跡を把握するに至る。無論、いわゆる題詠に於いては、歌題の「本意」を踏まえた上で、いかにして自作に「風情」を盛り込むかは、専門歌人達にとって至上命題であったと思われるが、頓阿の場合、「詞」や「姿」との調和が殆どの場合達成されており見事である。また、頓阿の詠風の〈個性〉という点については、題材や素材を空間・時間の座標軸に沿って観念的・論理的に取り込み、上句から下句へ渋滞や屈折なく詠み下すところにその特色が看取できる。『草庵集』の詠歌には、特に『古今集』を中心とした八代集の「本歌取」が多く見出せるが、それらの多くは「本歌」の一首全体の「心」に着眼したものであり、為家以来の二条和歌の「詞」の摂取のあり方とはやや性質を異にしている。頓阿自身が目指した「本歌取」の理想は、『井蛙抄』巻第二「取本歌事」で述べる「本歌の心になりかへりてしかもそれにまとわれずして妙なる心をよ」むことにあったと推察されるが、一方で「本歌」の「詞」の摂取を契機として機知・技巧をねらったと解される歌も多く、特に新古今時代以上の「本歌取」の実態の変容という点からも今後より深く考えていきたい問題でもある。最後に、会場に於いてご指導頂いた諸先生方に厚く御礼申し上げます。

(2)軍記物語の比較文学的研究――軍記物語とシェイクスピア作品に登場する亡霊から見た創作意識の共通性について――(修士課程1年・日下研・田中尚子)
 比較文学といえば、文学における国際的な影響関係を取り扱うことがその意義とされている。事実、比較文学の手法を用いた中世の作品研究も、中国の日本に与えた影響、則ち和漢比較が中心となっているように思われる。しかしこの影響関係を取り外した形、つまり他国間の作品をそれぞれ独立させ、純粋に作品同士を照らし合わせる形の比較文学もあってもいいのではないかと考えるわけである。また「差異を見るために他のものと比べる」意味を持つ「比較」ということばに、個人的に引っかかりを感じ、差異や相違点だけではなく、共通点をも見出す比較を試みたいと思ってきた。そこで今発表では影響関係は皆無と思われる軍記作品とシェイクスピアの悲劇を敢えて取り上げ、二国間の作品の共通性を探ってみた。
 今発表では特に「亡霊(怨霊)」に注目したわけだが、まずその登場箇所や状況設定と言った細かな点においての共通点を指摘した。当代性を持つ亡霊に関して言えば、その登場はほとんど作品の後半部に限られていて、そのことは亡霊を利用した作品構成上の特徴として注目されるところであろう。またその亡霊の登場の際の雷鳴や稲妻、また風といった状況設定も、細かな点ではあるが、やはり構成上の共通点と言えるであろう。そのような表面的なものを押さえた上で、内的なものも考えたわけだが、ここにも亡霊を登場させることによって国家の不安定を表現しようとする共通の姿勢があることが指摘できる。以上のような点から、ものを創作したいとする人の手法や視点といった基本的な行動には国の違いを越えた共通のものがあるのではないかと結論付けた。
 当日は様々なご指摘をいただいた。そのご指摘を受けて、今後自分が比較文学にどのように取り組んでいくのか、その姿勢を定めることが第一の課題であると考えている。

前のページへ
次のページへ
一覧へ
GO BACK TO TOP PAGE