発表要旨

2000年度3月例会(平成13年3月4日)

(1)『体源抄』の一特質(修士課程1年・日下研・中久木美穂)
 『体源抄』は楽道に隣接する様々な分野を網羅し、「室町文化の縮図」といった評価が先学によってなされている。本発表では、主に「楽曲解説部」について考察した。
 四季を六調子に結び付けた「時の音」の観念は、『龍鳴抄』や『教訓抄』などの先行楽書にも表れている。『体源抄』「双調」・「黄鐘調」項では「時の音」の観念に基づいて楽曲が分類されており、楽曲の解説部分に引用される物語・説話などは、それぞれの調子から連想される傾向にあった。編纂者である豊原統秋は、伝統的な「時の音」の観念を踏まえた分類方針を取ったのである。笙の演奏者であった山科言国や、和歌の師匠であった三条西実隆との交流を確認した。統秋は、『体源抄』編纂時に、実隆らを中心とした文化的交流の周縁に存在したと想定できる。説話や物語を採択する際の、背景のひとつとして考えられよう。
 双調の季節は、春と規定されている。楽曲解説の引用文には、例えば『源氏物語』「若紫」の巻や、高麗曲「知久」に合う催馬楽「桜人」など季節から連想される物語・説話などが挙げられている。博雅三位生誕説話は、季節とは直接関わらないものの、双調が「もろ々々の草木地依り生てハ花さき果なるを宗とす」る音であると解釈されていることからの引用であろう。また、黄鐘調の季節は、夏と規定されている。夏を題材にした漢詩や専順の発句、催馬楽「山城」などの引用などが見られる。なお、季節からの連想にとどまらず、楽曲名と同名であったり、楽曲と同音であったりする催馬楽も引かれていた。『体源抄』楽曲解説部において、統秋は伝統的な観念を再確認し、物語・説話などの引用によって、その観念を具体的に補足したのだろう。
 『体源抄』本文には、楽道に携わる者は「心」と「身体」の両方を鍛練することによって、優れた演奏技術を獲得できるとある。楽人が「時の音」の観念について見識を深めることは、「心」の鍛練に他ならず、統秋の目的もそこにあるのではないか。引用された物語・説話は「時の音」をより具現化する役割を果たしている、と位置付けることができよう。

◆『体源抄』はなぜ五音ではなく六調による分類を採用したのか、発表者が指摘した「時の音」を重視する姿勢は、作品全体に敷衍できるのか、などの構想に関する質問があがった。また、和歌研究史を押さえることや、当時の諸道における伝授の様相を考慮に入れた、大きな枠組みの中で『体源抄』を捉えることの必要性が指摘された。(田中尚子)

  (2)『源平闘諍録』の構想−「武蔵国府での賞罰」と「佐竹討伐」の描き方−(修士課程2年・竹本研・仲村通洋)
 『源平闘諍録』には、他の平家物語諸本と比較すると大幅な増補・改作部分が見られる。これらを概観してみると、頼朝が挙兵してから東国に武士政権が成立する一連の流れを描いていることがわかる。
 増補・改作部分の中で、頼朝が武蔵国府で東国武士たちに賞罰を与える場面(武蔵国府での賞罰)がある。『源平盛衰記』・『吾妻鏡』にも同様に大規模な賞罰場面が見られるが、『闘諍録』では富士川合戦直前に描かれるのに対し、『盛衰記』・『吾妻鏡』では合戦後と位置が異なる。また、『闘諍録』では頼朝が過去に敵対した武士たちに罰を下す様子が強調されている。これは、富士川合戦前に頼朝を中心とする。東国武士政権が確立した様子を描くためであると考えられる。さらに、富士川合戦後では頼朝が佐竹忠義を討伐する場面(佐竹討伐)が描かれる。この様子は『吾妻鏡』にも見られる。しかし『吾妻鏡』では大規模な戦闘の様子が描かれているのに対し、『闘諍録』では忠義が一方的に討伐される様子が強調されている。これも、頼朝を中心とする武士政権の確立を描こうとする『闘諍録』編者の意識が表れているためと考えられる。
 今回取り上げた二つの場面では、梶原景時の言動や活躍ぶりが強調され、上総広常の功績が景時の功績に書き替えられている部分が見られる。今回の発表では、『闘諍録』の成立事情として千葉氏を中心とする良文流平氏の働きを称揚する立場から考察を行ったが、梶原景時は良文流平氏の中でも実際に大きな活躍をしたためにその働きが強調されたと考えられる。上総広常は良文流平氏であるが、東国武士政権の拡大の途中で頼朝に疑いをもたれて誅殺されたため、『闘諍録』では悪役化されたと考えられる。
 『闘諍録』には、東国に頼朝を中心とする武士政権が成立する過程とその政権が全国に拡大する様子を描こうとする構想が見られる。武蔵国での賞罰と佐竹討伐の場面では、頼朝を中心とする政権が、確立・拡大する一場面として、頼朝の専制的な面とそれに従う東国武士の武士政権内における主従関係の様子が描かれている。

◆妙見信仰への傾きや千葉氏の問題、また、享受・流布等についても考えるべきだといった指摘がなされた。各本の頼朝像の偏差よりも、すべての本の共通項の部分に意味を見出すべきではとの意見も出された。(江口文恵)

(3)専用面の検討−「頼政」の場合−(教育学部教授・小林保治)
 以下、発表要旨というより、主たる指摘事項を箇条書き風に列挙する。
 一、桃山時代の作とされる宝生太夫良重の署名のある頼政面に見られるような「眉を白と黒の線で交互に力強く描くこと」は山姥の面と共通する特徴と見るべきものである。
 一、頼政面には「老体、品位、怨念、武勇のすべてが具備されていて」、能の「頼政」には他の面の使用は考えがたいとする見解もあるが、額に頭巾止めの木釘の出ている山姥面が複数存在していて、山姥面が頼政面に転用されたことは動かしがたい。
 一、しかし、観世流には「他家の<頼政>では「山姥」の後に流用できるものもある」との伝承があって、頼政面が山姥面に転用されるという逆の例もあったようだ。
 一、一四三〇年に成立した『申楽談義』の中に、尉の面に彩色を施して「源三位(頼政)」に用いたという記事が見えるが、それはすでに存在していた頼政面に似せるように彩色を加えたことを物語っており、頼政面の成立時期は世阿弥時代まで溯る例証とみたい。
 一、それを裏付けるものとして、鎌倉期から室町期に活躍した「十作」の一人に数えられ、景清・弱法師・山姥などの専用面を手がけていた徳若忠政の作とされる頼政面が、観世家の本面として伝来している。中村保雄氏によれば、「壮年時代の相貌」とのことであるが、それは霊性が強調されて実年齢を超越した相貌の面と見るべきものであろう。
 一、年代の上で徳若作の頼政面に続くのは、増阿弥・千種・三光・春若・福来らと共に室町期に活動した「六作」の一人である宝来の頼政面だが、眉間の皺が盛り上がるように厚く、眉毛が跳ね上がって太く、噴出する激情と強い意志が表徴されている。それは能「頼政」の後場で馬筏を組んで宇治川の激流を渡す作戦を見事に成功させた平家方の足利又太郎忠綱の表情を彷彿とさせるものであり、頼政その人というより、能の「頼政」には不可欠の要件を満たしている。このことは、下間少進の『童舞抄』の「頼政」の項に「忠綱に成て水上を左に心得てするものもあり」とある演出に対応しており、宝来の頼政面は怪士系とは異なるベシミ系の要素を含むもう一つの頼政面の原型の面影を伝えているものとして注目したいと思う。
 意を尽くさないが、この発表は「演劇研究」第二十四号に掲載されている。ご参照願いたい。

◆能面の中でも特定曲に限って使用される「専用面」について、「頼政」と「山姥」の二面を中心に、世阿弥時代から江戸初期にいたる使用例を検討し、専用面成立過程への見通しを述べ、両面の表情の類似性の意味を考察した。能楽の研究は文学的な検討にとどまらないのが通例であるが、そのためか質問が少なかったのは残念。(竹本幹夫)

2001年度9月例会(平成13年9月29日)

(1)『宇治拾遺物語』における類似表現の重出の意味―「書き写すこと」から『宇治拾遺物語』へ―(修士課程2年・竹本研・稲見得則)
 宇治拾遺物語の諸本を見ていくと、隣り合わせに同じ表現が並ぶことに気が付く。そして、その特徴は、粗密あるとはいえ集全体に見られるものだった。発表では、類似表現の重出として実例を挙げ、分類を試み、また、表によって全体の分布状況を示した。
 類似表現の重出を宇治拾遺の特徴として指摘した上で、次に、その独自性を問題にした。宇治拾遺では、その言語遊戯性に言及する論が多くある。同じ語句の繰り返しも言語遊戯に含められ、同文的同話を持つ今昔物語集との比較から、宇治拾遺の意図は明らかだとする論もある。しかし、私見では、同じ語句の繰り返しは類似表現の重出の一部であり、比較すると宇治拾遺の意図は逆に見えにくい。他の説話集との同話の同文性にこそ問題があると考えている。
 そこから、宇治拾遺が古本説話集や今昔と、同じであるか極めて近い文を持つこと、語句の繰り返しも共通して持つことを確認し、指摘される言語遊戯も宇治拾遺独自のものではないことを指摘した。宇治拾遺や説話集が依拠した資料の存在は大きく、同文話の比較を通して、宇治拾遺は資料の表現を忠実に取り入れていることがわかる。
 次に、説話を書き写すという観点から古事談と十訓抄を合わせて考えていく。宇治拾遺が忠実に書き写しているのに比べ、両者には省筆、要約があり、より書くことが意識的に行われている。ここから、直接の典拠とされる古事談から宇治拾遺が説話を選び、書き加えたと考えるよりも、古事談が宇治拾遺的な資料を持っていたのを書き改めたと考える方が自然であることを述べた。
 依拠した資料を書き写し、表現を省略や付加をほとんどせずに取り込んだからこそ、類似表現の重出も現れた。宇治拾遺が宇治拾遺の特徴を持つに至ったのは、説話を「書き写」してきたからであると考える。宇治拾遺を捉え直すきっかけとしたい。

◆『宇治拾遺』や『今昔』が依拠していたとされる資料とはどんなものだったのか、説話集同士の先後関係はどうなっているのかなど、前提の論証が不十分ではないかとの指摘がなされた。また、説話連関や反復表現をどう捉えるのかといった『宇治拾遺』を読むにあたって発表者の姿勢についての質問もあがった。(渡瀬淳子)

  (2)太平記における足利尊氏の特性−将軍就任までを中心に−(修士課程3年・日下研・和田琢磨)
 梅松論の記事から、太平記の生成には足利氏が関与していると考えられている。また、尊氏像には太平記作者の配慮が認められるという先学の指摘がある。本発表ではこのような太平記の性格をふまえた上で、尊氏と義貞ー二人の武家の棟梁ーの比較から、太平記における尊氏の特性を見出し、その特性が太平記の叙述とどのように関わっているのか、ということを考察した。
 具体的には、巻十四の尊氏と義貞の奏上の検討から、尊氏は元弘の乱における自身の活躍ーこの奏状においては、後醍醐に対する「忠」と置き換えられるーを、尊氏の「威」=「功」という論理の許に主張していることを確認した。さらに尊氏は、自身が参戦していない鎌倉攻撃の勝利の要因にも自身の「威」があると主張している。この主張は太平記中で認められており、ライバルである義貞すら否定・批判していない。また、梅松論・増鏡・神皇正統記・保暦間記・神皇正統記などの南北朝期の諸作品には、この太平記に描かれた尊氏の論理は認められない。つまり、元弘の乱の勝因の根底に尊氏の威があると認めているところに太平記の独自性があると考えるのである。
 太平記の第二部(巻十二から二十)の構想は、二人の武家の棟梁の争いを中心に、尊氏が天下を取る過程を描いている、というものである。このような構想の許に、太平記作者は、尊氏の「威」が北条武家政権を滅ぼす大きな要因となったとすることで、「一戦」にしか参戦していないという批判を受け得る立場にあった尊氏を、元弘の乱の功績者として形象していると考えるのである。太平記作者は尊氏の特性「威」をもって、尊氏を武家政権の担い手ー将軍ーとなるべき人物として位置付けている。

◆足利尊氏について語られる「威」について、発表者は奏状の場面を中心に指摘したが、この「威」が他の場面にも認められるのか、特に義貞造形との関わりとはどうであるのかという質問が出た。さらに、「威」という言葉にこだわらず、場面設定や書かれている内容について踏み込んで検討すべきとの意見も出された。(羽原彩)

(3)潮信子編『千種抄』への一経路(跡見学園女子大学・川平ひとし)

◆『千種抄』をめぐる発表者の鮮明な問題意識と多角的な視点を反映し、多様な質疑が提出された。まず、『千種抄』の諸本の現存状況と分類に関する確認、『宗訊不審抄』を「勘返状」と規定することの妥当性等、その性格付けについての質疑が発表前半に関するものである。後半については、『千種抄』に記される知識には階層や局面に差異があり、それは伝授を受ける者の地位が深く関わってくる旨の指摘、また、潮信子の、堺の貿易商という立場から、大内氏との公易等経済的利益が歌学の知識の伝授の背景に、より濃厚に想定されるとの意見があった。(酒井茂幸)

2001年度3月例会(平成14年3月16日)

(1)剣巻と刀剣伝書(修士課程2年・竹本研・渡瀬淳子)
 平家物語屋代本別冊剣巻は、古くは平家物語の「剣」の章段が増補・改定を繰り返すなかで生れてきたものとされていた。だが昭和55年、伊藤正義氏が「熱田の深秘」の中で「熱田系テキストとの関わり」を述べて以来、剣巻は熱田神話との関わりから捉えられてきている。しかし、熱田内部で作成された伝承と、剣巻との間には決定的に異なる部分がある。それは道行についての説話である。熱田内部で作成された伝承においては道行による草薙剣の盗難譚が八剣宮の縁起へとつながってゆく動きはみられない。作成された年代に関わらず、内部の伝承はこの二つの伝承を繋がないのである。よって、熱田の伝承から剣巻が影響をうけているにせよ、その影響は、今まで言われてきたように、直接テキストを取り込んだ、熱田で作成された、といったようなものではなく、もっと間接的なものであろう。
 剣巻の成立してくる背景には、こうした神祇説の影響よりむしろ刀剣に対する興味関心の盛り上がりがあるのではないだろうか。刀剣についての伝承は鎌倉時代頃からみられるが、以降南北朝から室町時代にかけて大流行する。同時に鎌倉後期から刀剣に銘が刻まれ始め、『増鏡』には後鳥羽院の刀剣鑑定に関する話が出てくることから、刀剣についてその銘によって優劣を判定する習慣がうまれていたことがわかる。そうしたなかで、「刀剣伝書」といわれる一群の書物がつくられてくるのであるが、それらは刀剣の鑑定法のみならず、刀工やその刀剣についての伝説など幅広い情報を集めたものであった。刀剣伝書は文学作品にも影響を与えていた形跡がある。剣巻は源氏の刀剣伝承に神話を取り合わせる形で形成されており、本としての傾向は刀剣伝書に近い。こうした刀剣への興味の盛り上がりを背景に剣巻が生れてきたのだとすれば、その成立は刀剣への興味が増大する南北朝期以降、遅くとも室町初頭までの間である。

◆発表者は「剣巻」と刀剣伝書の関わりを考察したが、刀剣伝書が作られた目的や過程をさらに詰めていく作業が必要との意見が出た。その上で作品間の影響関係のみならず、当時の社会状況も考慮にいれるべきとの指摘がなされた。また真名本『曽我物語』の刀剣記事から成立年代を推定できるのではないかとの意見、「剣巻」が軍記に付けられた目的についての質問があがった。(弓部顕子)

  (2)表紙裏反故から見る近世前期製本事情―早稲田大学図書館蔵伝三条西実枝筆『源氏物語』―(博士課程2年・田中研・新美哲彦)
 近世は版本の時代と言われ、版本のみ注目されることが多いが、写本の流通量が格段に増大したことは、現存する近世期写本の数量からもうかがえる。物語の写本に限っても、『源氏物語』や『伊勢物語』などを除けば、諸本は近世期写本がほとんどを占め、中世に遡る写本がまったく伝存しない物語作品も多い。近世前期の奈良絵本については、石川透によって同筆と判断される複数の伝本群が整理されており、奈良絵本製作を職業とするいくつかのグループが存在したことが知られている。しかし、職業として写本を製作していた書肆の実態は、ほとんど知られていない。あまりにも資料が少ないのである。
 そのような書肆の実態を探る上で、表紙裏反故は貴重な情報をもたらしてくれる。表紙裏反故の研究には、渡邊守邦をはじめいくつかの論考が挙げられるが、ほとんどは版本書肆に関する考察であり、写本製作書肆に関わる反故の考察は、わずかに母利司朗、石川透の業績を数える程度である。以上のごとく、実態の未だ明かでない近世前期の写本製作・奈良絵本製作に関わる資料が、今回考察した、早稲田大学図書館蔵伝三条西実枝筆『源氏物語』(へ二―四八六七―五一)表紙裏反故である。当該表紙裏反故には、文学作品の写本断簡を多数含んでいるが、その他にも当該本を製本したと推測される書肆の大福帳反故を多数含んでおり、近世前期の写本作成の具体的様相を知る上で、豊富な情報を含んでいる。その表紙裏反故を考察することによって、貴族が依頼する高級写本や(商品としての)奈良絵本を製作する書肆の、さまざまな作業、取り扱う品目、価格など、近世前期の職業的写本製作の一面を垣間見ることができた。ある文学作品を享受する際、その文学作品は必ず書物という形態を以て読者の前に現れる。このような書物の形態に関する研究はこれからさらに重要性を増すであろう。

◆近世初期の写本の売買の実態を、具体的な資料に基づき究明した発表であった。発表資料には、図版や釈文が豊富に掲げられ、質疑では、書き入れ等の原本における状態、あるいは原本の形態の特質について寄せられた。発表者は、当該資料に関して、中古・中世の文学作品の享受史の観点から、既に論稿を公表しているが、本発表の内容についても、影印により資料の原態を提供した上で、公にされることが待たれる。(酒井茂幸)

(3)「蜷川家文書」にみる軍記物語享受の諸相(日本学術振興会特別研究員・鈴木彰)
 室町幕府の政所代を歴任した蜷川家に伝えられた文書群の中から、軍記物語享受にかかわるいくつかの資料について検討した。その主要な部分は以下に示す通り。
 『大日本古文書 家分け第二十一』の分類でいえば付録一〇九〜一一七「雑記」の紙背には『平家物語』の本文が記されている(巻第十二と灌頂巻の中の六場面)。本来これらは、『平家物語』を書写する際に反古とされたものと考えられるのだが、まずはその断簡の性格を巻構成と本文系統の面から検討し、覚一本と同様の巻構成を持ちつつ、葉子本の本文を持つという、諸本展開を考える上でも注目すべき形態を有していることを指摘した。
 続いて、今日では表文書となっている「雑記」の内容を分析した。そこに記された「保元物語聞書」が金刀本系統の本文に基づいていること、その後あらためて金刀本を参照して注記が施されていること、またそれに続く部分に流布本『平治物語』享受の痕跡がみとめられること、さらに他にも『平家物語』『保元物語』からの摘句を窺わせる記載が見られ、その場面がある程度特定しうることなどを個別に指摘した。
 一方で、こうした軍記物語享受を示唆する記載、ひいては紙背の『平家物語』本文が書写された時代を絞りこむことも意図しつつ、「雑記」の内容を検討した。また、「雑記」に散見する和歌関係・古辞書関係・神祇説関係の記載を個々にとりあげ、その特徴や出典関係、類似関係、資料的価値などについて、同時代の諸状況等を考慮しつつ分析した。
 これらの成果をふまえて軍記物語享受のあり方の多様さを再確認し、加えて、物語が次第に変容していく基盤を探る上でも、軍記物語を軍記物語として特立するのではなく、「雑記」にあらわれたような多彩な知識や文献、人々の交渉が生み出す環境や様相の中に、その表現を据えなおしてみる必要性があることにも、あらためて目をむけてみた。

◆資料の性質上、議論は多岐にわたった。「軍記物語享受」に関するものでは、軍記の抜き書きが制作された理由を問うものや、「『平家』が古典化し注釈の対象となっている」といった意見等が出された。また、「聞書き」の制作の方法・書式に関する問題や、文書に収められた和歌・歌謡関連記事についても俎上に上った。(和田琢磨)

2002年度9月例会(平成13年9月21日)

(1)幸若舞「入鹿」に見る人物造型〜鎌足を中心に〜(修士課程2年・小林研・神戸和)
 幸若舞「入鹿」は、逆臣蘇我入鹿を藤原鎌足が幼少の時分に一匹の狐より与えられた鎌でもって征伐する、という、史実とはかなり異なる大筋のもとに、様々の要素を絡ませながら展開していく。その構成・展開の特徴として、次の三点が指摘できるであろう。第一に、常陸の国で生まれた鎌足が、神霊的な存在を暗示する狐より鎌を授かること。第二に、入鹿は容易に鎌足の策には騙されることがないということ。第三に、策が尽き行き詰まった鎌足に、春日の神が霊夢を与え、それによって鎌足が最後の策を思いつくということ。この三つは、入鹿が用心深く騙されにくい人物として描かれる第二の点によって筋に緊張感が出、それがゆえに第一・第三の点が鎌足を揺ぎない精錬潔白な主人公に位置付けるという相互関係にある。以下、鎌足を正義とする証拠の内容を見ていくことにする。
 第一の点について、『和訓栗』の「きつね」の項では狐がダキニ天の別の姿、稲荷の神の形象であると明記されている。また、『春夜神記』等に「即位」の法はダキニ(ダ天)の法であると記される。ダキニは、もとはインドの地母神であったが、仏教や神道にまで組み込まれて、即位・栄達を叶える神として認識されるようになった。ダキニを冠した即位の法は皇位以外にも効果があるということは、『古今著聞集』巻第六にも見られる。つまり第一の点で見た狐に鎌を授かった鎌足は、そのまま即位の法を受けたと読める。また、鎌は「大祓」「中臣祓」にも登場するが、そこでは鎌が「祓」い「清」める道具として位置付けられている。
 第三の点について、『大鏡』『古杜記』『神道集』等で、春目の神が鹿嶋の神と一体視されていることが確認される。鹿嶋明神はまた藤原民の氏神でもある。つまり、鎌足は、窮地に陥った際にふたたび神の加護を受けたのである。  以上のことは、鎌足が幼少のおりから成人した際まで神に護られた人物として造型されているということを示し、同時に「入鹿」そのものが藤原氏に寄った立場から描かれているということをも示しているのである。

◆狐と鎌という構成要素に焦点をしぼり、「入鹿」の成立を考察したものであった。質疑では、「入鹿」に影響を与えたと考えられる先行資料の博捜を徹底し、「入鹿」独自のモチーフを分析し直す必要がある。特に神道において鎌が即位灌頂と関わることと、「入鹿」において鎌が重要な構成要素として機能することは、神道関連の言説が芸能に及ぼす影響の一環として、より広い視点から捉え直し、それらのモチーフをもとにすることで、作品がどう読めるのか、ということを明確にする必要性がある、との意見が出された。(土屋有里子)

  (2)『平家物語』の場面形象法―「白」を中心に―(修士課程3年・日下研・北川陽二郎)
 『平家物語』がある場面を一つの「まとまり」として形象する工夫としての、言辞と場面の関係性に着目した。特に、色彩表現は大きな影響を持つだろう。物語の筋からして、些末なものに感じられてしまう、馬の驥毛や「煙」なども、場面形成において、重要な役割を果たしているはずである。
 『平家物語』では、馬の出現頻度は巻第九に高い。そのなかでも、「一ノ谷」関連の章段に集中する。「一二乃縣」において、は熊谷次郎直実以外の人物が騎乗する馬は、小次郎が「白月毛」、盛嗣が「白葦毛」など、白系統の毛色を持つものである。さらに、『平家物語』諸本のなかで、同じ人物の馬についての異同をみると、その人物の装束描写で馬への言及がなされていなかったり、読み本系統の諸本では、小次郎が「鹿毛」、「黒月毛」などとなっている。さらに、その他の装束を諸本間で比較すると、大きな違いはみられない。馬の毛色を白系統のもので統一しようとした可能性を見て取れる。これは、季節は初春で、時刻は未明という、物語内の時間枠という場面に馬の毛色を同系統でそろえることで、統一感を与える効果をもたらしている。
 巻第六「新院崩御」では、南都が炎上する様子をみた永円がそのありさまをみて、死去するという話しと、新院が死去する話とが、同一章段内で連続している。どちらの話にも、故人を悼む際、火葬の煙が介在するのはもちろんだが、永円は仏像・経巻の燃える煙をみて衝撃をうけるし、また、南都の炎上の様子も「煙の内を出ず」など、煙が多く出現する。巻第九「小宰相身投」では、通盛と小宰相との馴れ初めの話に、煙のイメージが用いられている。このように、死を悼む場面で、煙は喪失感を作りだしている。
 『平家物語』において白のもつイメージは、おぼろげな様子や喪失感などを、それぞれの場面にあたえている。「白」に限らず、色彩が持つ力を検証してみることで、それが作品理解につながるだけでなく、「物語」を理解する際にも役立つだろう。

◆質疑には、「白」以外の色はどうか、黄河原毛等の色や「煙」の色を「白」と見なしてよいのか、当時の馬の毛色の分類規定を示す資料はないのか、何故馬の毛色や各々の場面が表現操作の対象になるのか等、例外・論拠・理由を問うものが多く上がった。指摘された表現が狙われた上でのものなのか測り直すべきとの意見もあった。(田口寛)

(3)六条御息所の変貌―物語と能の間― (横浜国立大学・三宅晶子)
※本発表の内容につきましては、2003年7月岩波書店刊『文学』4−4(特集・源氏的なるもの)に「六条御息所の変貌―能と物語の間」と題して論文化されておりますので、そちらをご参照下さい。(世話役)

◆発表者のこれまでの禅竹研究や〈葵上〉の現代語訳を手がけた成果が集約された発表であった。能の作者が『源氏物語』のどの系統の本文を見ていたのか、禅竹の教養源となった環境などに質疑が及んだ。また、〈葵上〉のシテが生霊であるという特殊さゆえに死霊に用いる表現を使わざるを得なかったのではないかとの指摘もあった。(江口文恵)

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