発表要旨

2002年度3月例会(平成15年3月22日)

(1)「男歌、女歌からみる百首歌―式子内親王歌を中心に―」(修士課程1年・兼築研・小林友紀子)
   玉の緒よたえなばたえねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古今和歌集・恋一・一〇三四・「百首歌の中に、忍恋」)
式子内親王の代表歌であるこの歌について、後藤祥子氏によって、男歌という新たな概念が提示されて久しい。(*1)本発表では、作中主体が男の歌を男歌、作中主体が女性の歌を女歌として、式子内親王の百首歌の恋歌を読んでみる。すると逢瀬を軸に、主に前半には、想いを寄せる女性への訴えかけや逢瀬のかなわない男性の嘆きが、後半には、なかなか恋人が訪れない苦しみや恋人に捨てられた女性の嘆きが歌われていることに気付く。恋の段階に従って配列されている勅撰集の恋歌と同様に、式子内親王の百首歌においても、前半に男歌、後半に女歌という構成意識が見られる。またこの男歌から女歌へという流れは、久安百首や正治初度百首など他の百首歌についても認められるのである。そこで式子内親王歌に立ち返ってみる。A百首の最後部は、
   恋ひ恋ひてよし見よ世にもあるべしといひしにあらず君も聞くらん(式子内親王集・A百首・恋・八三)
   恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契のはてとながめよ(式子内親王集・A百首・恋・八五)
という歌になっている。これらの歌について、渡辺健氏は式子の恋死の歌は男歌と指摘されているが、(*2)ここは、男歌から女歌へという全体の構成から見れば、恋人に捨てられた女がその嘆きの余りに死を考える、恨みの女歌と考える方が適当である。元々、恋死の歌は、万葉によく見られ、女性の歌である場合が多い。玉の緒よ詠の影響歌である和泉式部の歌や伊勢大輔の歌も恋死の女歌と考えられる。ここに、万葉から脈々と続いている恋死の女歌という一つの系譜が発見されるのである。
  なお今回の発表では触れなかったが、恋歌の全ての作中主体が、明確に男、女に区別されるという訳ではない。作中主体が男女どちらとも読むことのできる歌の位置付けについては、今後の考察の課題としたい。
 *1「女流による男歌―式子内親王歌への一視点―」(『平安文学論集』風間書房 H4・10)
 *2「式子内親王の恋歌の発想について―新古今集一三二九番歌を中心に―」(『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』H10・3)

◆百首歌における恋歌を、その作中主体により「男歌」と「女歌」に分類するという試みが斬新に感じられる発表であった。質疑では、その配列や内容等において、式子内親王の独自性や時代的な傾向はあるのか、勅撰集の恋部の配列との関係をどう見るのか、といった問いが出された。また、作中主体を必ずしも断定できない場合や、性差が止揚された恋歌の存在などの指摘もあった。(錺武彦)

  (2)『室町物語『嵯峨物語』成立における一考察(修士課程2年・竹本研・都築則幸)
 室町物語『嵯峨物語』とは、『秋夜長物語』や『幻夢物語』などといった作品と共に、今日では「稚児物語」というジャンル名で分類されている作品である。しかし、室町後期の成立とされる『嵯峨物語』の成立時期に関しては大きな問題がある。なぜなら『嵯峨物語』序文には『松帆浦物語』の名が見えるが、この『松帆浦物語』の成立自体が室町末期とされているからである。また、序文には様々な男色故事が記されているが、これらの故事は主に近世初期、男色物の仮名草子に多く引用されており、『嵯峨物語』自体も近世初期に成立した可能性もあるのではないかと考えられる。よって本発表では、『嵯峨物語』が近世初期に成立したのではないかという立場から、『嵯峨物語』成立に関して考察を行った。
 今回、『嵯峨物語』成立に関して、その手がかりとなったものは『徒然草野槌』である。『嵯峨物語』では、恋愛関係となる一条郎と松寿君との出会いの場面で、『徒然草』第四十三、四十四段の辞句が効果的に用いられているという特徴がある。一方『徒然草野槌』では、これらの章段を男色章段として解釈しており、またその解釈自体も、羅山特有のものであったことが北村季吟作の仮名草子『いわつゝじ』から窺い知れる。このことから、『嵯峨物語』作者は、『徒然草野槌』の解釈を利用することによって、『嵯峨物語』を制作したのではないかと推測されるのである。
 またさらに、『嵯峨物語』序文は「中世における男色文献」として重要視されているが、このような扱い方にも問題があることを指摘した。それは、『よだれかけ』と「男色之記」と呼ばれる一編の戯文との関係から示唆される。この二作品と『嵯峨物語』序文とは、同一の辞句が見られ、密接な影響関係が窺われる。しかし、これら作品同士での先後関係は不明なため、一概に『嵯峨物語』が先行して成立し、後の二作品に影響を与えたとまでは言えないのである。『嵯峨物語』の成立自体、近世初期の可能性があり、さらに序文は『よだれかけ』や「男色之記」の影響を受けて成立したとも推測できる。よってこの点から、『嵯峨物語』序文を「中世の男色文献」として扱うことの危険性を指摘した。

◆明快な論であったが、論者が大きな根拠とする『徒然草野槌』に対して、資料に挙げられた箇所以外からの影響もあり、『徒然草』から影響を受けたと推測される、稚児物でない室町物語も散見されることから、『徒然草野槌』が男色と解釈しているから『嵯峨物語』が取り入れたと言えるのか、などの疑問が提出された。また、広本と略本の先後関係や、「よだれかけ」と嵯峨物語の比較について質疑が交わされた。「男色之記」との関連など、新見に富んでおり、論文化が待たれる。(新美哲彦)

(3)鎌倉後期における御子左家の歌人たち  付 京極家の断絶(立教大学名誉教授・井上宗雄)
  鎌倉時代後期、和歌史上異色ある存在でありながら、伝記などあまり分明でない歌人の基礎的な面を考察する。
 藤原為顕。為家の三男。為氏らの異母弟。仁治頃の生れ、永仁三年まで事跡がある。業績としては父から古今集ほかの口伝を受けて弟子に伝え、「口伝抄 為家」を大友時親に与え、竹園抄の制作に関わり、寂恵を父に紹介する等々。また東国に下って庵を構え、歌会を催すなど、関東を和歌活動の拠点ともした。個人として関東で和歌活動を行った歌道家出身者としては最も早い時期の人であった。
 慶融。為家の子。母は不明。為顕の弟。寛元頃の生。嘉元元年までは生存。顕注密勘・源氏物語等を書写し、俊成百番自歌合を編む。関東に下ったこともあり、拾遺愚草を書写している。異母弟為相とも親しかったらしい。また為氏撰の続拾遺集撰集にも関与、歌学書「遂加」を編むなど、注意してよい業績がある。
 藤原為実。為氏四男。文永元年生、元弘三年没。関東との縁が深く、いわゆる為実系偽書(三五記・愚秘抄)の制作にも関わったらしく、ユニークな存在であるが、公卿でもあり、事蹟はかなり明らかな部分があるのでここでは省略する。
 藤原俊言。父は為言(初名は為忠で、為氏三男か)。弘安中頃の生れか。正中二年没。初め為言の兄為雄の養子、のち京極為兼の養子となり、正和期には「京極前宰相」と称せられているので、為兼により京極家の嗣として指名されたらしい。為兼失脚後出家。ここで一応京極家は断絶した。弟為基(為兼養子)が公卿に昇れば家が復活する可能性があったかもしれないが、為基も元弘三年出家。京極家は完全に断絶した。
 以上、ここでは省いたが、すべて史料に即して述べた(問合せあればお答えします)。

◆御子左家庶流の出身の歌人で、従来から注目されていた、藤原為顕・慶融・為実の和歌事蹟を略年譜により網羅的に整理する中で、京極為兼や冷泉為相との関係を指摘する。また、二条為世の弟為言の実子で、為雄(為世弟であるが、京極家側からの働き掛けによって京極家と密接な関係にあったことは『実躬卿記』等をもとに発表者が既に論証している)の猶子となり、為雄没後には為兼の養子となり京極家の跡継ぎとなった俊言の生涯に焦点を当てる。為兼が御子左家・二条家の末流の人物を養子・猶子に迎えて二条派の切り崩しを図り、勢力の伸張を目指していた様相がかなり鮮明になってきた。
 質疑では、俊言の玉葉集・風雅集の入集がそれぞれ四首・三首に過ぎないことの原因、また、現存歌もこれに法華経和歌一首を加えた八首に過ぎないことから推察される俊言の歌人としての資質・器量が話題となった。そして、二条家と京極家との抗争が、単に両歌道家当主間のみならず、庶流や末流の歌人をも巻き込んだ複雑なものであったことが明らかになったことを踏まえ、当時の歌道家の社会的機能や歴史的意味付けを質す発言もあった。発表者からは、歌道家は六条家に始まるが、その役割は時代的に変質し、宮廷社会に閉塞した京極家の衰退・断絶もそうした歌道家の役割の変化を表しているとした上で、京極家の周縁に関する補足説明があった。(酒井 茂幸)

2003年度9月例会(平成15年9月20日)

(1)雀の和歌(修士課程2年・兼築研・スコット・スピアーズ)
 ハタオリドリ科の小鳥。「しじめ」とも(散木奇歌集・一五一四)。『古事記』「ももしきの大宮人は鶉鳥領巾取り掛けて鶺鴒尾行き合へ庭雀踞集りゐて今日もかも酒漬くらし高光る日の宮人事の語り言もこをば」(一〇二)が初見だが、万葉集になく、曾禰好忠の「ねやのうへにすずめのこゑぞすだくなる出たちがたに子やなりぬらん」(好忠集・七三)まで詠まれた形跡はない。以後、平安末まで例は散見されるだけで、その殆どは為忠両度百首(「たけにふすねぐらのすずめけがへしてうへはにゆきのふりにけるかな」後度百首・四六六・竹園雪・仲正)や堀川百首(一五一三)のやうに俗語や新しい題材が多く取り込まれた席上に限定される。主な読み方は軒や竹に栖を作る雀の姿や田園風景としての雀(「むれて居る田中の畝の稲すずめ我が引くたびにさわぐ間もがな」俊頼三百六十首和歌・二一二)。「むらすずめ」、「いなすずめ」、「ともすずめ」と詠まれることが多い。
 雀がよく登場する漢詩から材料を積極的に取り入れやうとする中世において雀の歌が多数みられるやうになるが、詠まれ方に大きい変化はない。伝統的な鳥類詠を禁止したことで雀が多く詠まれた『正治初度百首』でさへ、大半のものは『為忠後度百首』等の平安時代の雀詠の類歌である。一方、雀への評価が高まつてか、雀の項目が『夫木抄』に立てられ、『玉葉集』に初めて勅撰集にみられる(「雪うづむそののくれ竹をれふしてねぐらもとむるむらすずめかな」西行・九九一)。
 このほか「鷹と雀」(秋篠月清集・二五五・十題百首)や『源氏物語』若紫巻で知られる雀飼ひの風俗を詠むことは多少ある(正治初度百首・五九八、新撰和歌六帖・二五六三)が、案外、散文からの影響は少ない。むしろ、「騒ぐ雀」等の滑稽さ、俗つぽさが際だち、室町・江戸時代においては雀詠が数を増していく。

◆これまであまり研究の対象とはされなかった、「雀」を詠んだ和歌に焦点を当てた発表である。上代から近世までの用例をあまねく網羅し、その傾向や問題点が詳細にまとめられていた。ただ、歌題とのつながりなど、もう少し踏み込んだ考察が今後期待されよう。質疑では、俗な題材ということから、連歌における用例について、竹との取り合わせが多いことから、絵画との関連について、また、漢詩からの影響などについても、意見が出された。(錺武彦)

  (2)『源平盛衰記』における平氏叙述―武士としての側面から―(博士課程5年・日下研・羽原彩)
 『源平盛衰記』では頼朝が「日本ノ大将軍」となったことが、石橋山合戦の冒頭、北条時政の言葉で示される。しかし一方、その直前に大庭景親によって平氏が「将軍宣」を蒙り、これまで朝家のために武力を尽くして戦ってきたとも言われる。時政はこれを聞き、平氏は悪行を極め朝家を蔑ろにしたのだから、「今ハ朝家ノ賊徒」だと反論する。言い換えるとこれは、今は違うが以前の平氏は武力によって朝家に仕える「将軍」であったと認めていると考えられよう。このような叙述の展開が独自であることから、武力を以て朝家に仕える平氏像が、盛衰記で具体的にどのように形作られているのかを考察した。
 冒頭からの叙述を追っていくと、平氏が朝家を武力によって守ってきたことが他の諸本に比べて多く繰り返される。また、度重なる昇進や恩賞が「勲功」によってもたらされていると強調し、武士として朝家に仕えることによって栄花を獲得してきたことが語られる。さらに、他本には見られない清盛の怪鳥退治や日向通良追討などの具体的な武力行使が描かれ、これらも平氏の昇進の根拠となされている。これらの叙述から、武士として朝家に仕えることが栄花につながっていくという文脈が、盛衰記に形作られていると考えられる。さらに盛衰記に特徴的なのが、重盛の主張の独自性である。重盛は平氏の役割について、「武力を以て朝家に仕えること」、つまり平氏叙述から読み取れる文脈と同様のことを繰り返す。特に他本にはない近衛大将任官記事では、武官であるこの職には、貴族ではなく武士が就くべきであると強硬に主張するなど、重盛の「武」へのこだわりは際だっている。これらから、盛衰記において武士としての平氏の役割に注目して文脈を形成していることを指摘した。また、加えて維盛と知盛について、その人物造型にこういった武士としての側面を重視する姿勢が関わっている可能性を探った。

◆本発表は平氏叙述についてが中心であったが、『源平盛衰記』における源氏の位置づけとどうかかわるか、発表内で提示した『源平盛衰記』内の「源平交代思想」が他の言説とどうかかわるのか、「源平交代思想」自体が『源平盛衰記』の成立環境としての社会状況の中で存在したかどうか、具体的な成立時期をいつごろとするか、武士の側面を示すものとして指摘があった、平氏に対する「将軍」ということばの付され方について一貫性があるか、などの点について質疑が活発に取り交わされた。『源平盛衰記』を丹念な読みを積み重ねることによって、それが独自に内包する「論理」を明らかにしていこうとする試みであり、室町時代中後期の社会思想や『平家物語』全般の問題にも開けうる発表であった。(北川陽二郎)

(3)法会文芸の提唱(立教大学教授・小峯和明)
  近年活発化している法会学の一環として、「法会文芸」もしくは「法会資料学」を提起した。従来、唱導という述語が安直に使われる傾向にあり、唱導論を相対化するためにも「法会文芸」の用語につきたい。「文芸」には法会に深くかかわる芸能の意味も含む。また、東アジアへの視野も欠かせないことにも言及した。
 具体的には、願文・表白・諷誦文類と漢文対句の故事・譬喩、願文と経釈の対応、聴聞者の諷誦文と和歌、芸能・身体や図像との関連等々にふれた。
 慶同趣旨の発表を二〇〇三年六月の説話文学会のシンポジウムでも行っており、今年刊行される「説話文学研究」に書く予定なので、詳しくはそちらを参照されたい。
 司会の院生に「法会」を「ホウカイ」と読まれて、発表自体も崩壊するような感覚に襲われたことを付言しておきたい。

◆以前から、唱導という学術用語と、それを使用するあり方に疑問を呈する氏の、大きな視点に立つ発表であった。より法会をいう場に即すために、新たに提唱された「法会文芸」と「法会資料学」の性質上、発表後は取り扱う資料に範疇を設けるか設けないかについて議論が展開されたりもし、多岐に渡る方面から活発な質疑がなされた。(神戸和)

2003年度3月例会(平成16年3月27日)

(1)上杉禅秀の乱乱叙述の展開について(博士後期課程1年・日下研・田口寛)
 本報告では、応永二三(一四一六)〜二四年に上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対して起こした反乱である上杉禅秀の乱についての、諸書における叙述の展開様相を俯瞰した。
まず、禅秀の乱叙述を有する諸書を、大阪府立中之島図書館蔵『応永記』・彰考館蔵『禅秀記』等、乱叙述が一書の大半をなすものと、五巻本『今川記』・『鎌倉大草紙』や仮名草子『見聞軍抄』(巻一及び三)・雑談書『旅宿問答』等、一部分であるものとに大別して掲出した。また、従来言及のなかった肥前島原松平文庫蔵『南朝記』について、実見による書誌事項等を挙げて紹介した。該書はその一部分が上記『応永記』と全く同文で(後述)、大別の後者に加わるものである。
 一部の諸書は乱叙述に共通要素が多く一見同文だが、内容比較から、『旅宿問答』『南朝記』(『応永記』)『見聞軍抄』等(1)と『鎌倉大草紙』『禅秀記』『今川記』等(2)とで各々一系統をなすと見られる。両系統の特徴の中、系統1の、持氏が乱に際し越後へも逃れたとする記述については、あまり重視されることがないが、乱当時の記録である『看聞日記』応永二三年一〇月二九日条に「先越後国ヘ可被越之由」を京幕府が持氏に伝えたとあることから、この記述を持たない系統2に対する、系統1の古層を推測した。また、系統2では乱鎮定における今川範政の活躍に筆を割くことから、系統1に対し、系統2が今川氏叙述へ傾斜したものであることを強調した。
  また、諸書にこのような叙述の展開を見せる禅秀の乱の「大乱」としての評価を、応永当時の資料数点や、後代の記述である『松陰私語』(『旅宿問答』と同じく永正年の奥書を持つ)・『北条五代記』(『見聞軍抄』と同じく三浦浄心作、寛永年刊)から確認した。
 なお、『南朝記』(一九‐一一)は、貞治六〜寛正六年の編年記事(漢文表記)の各条に詳述記事(和文表記)を付すという叙述形式の資料で、『応永記』の他、同じ叙述形式の『細川頼之記』『上杉憲実記』『嘉吉記』『細川勝元記』(序盤のみ)とも同文関係にある。本報告では『南朝記』の如き資料から各書が抄出されたかと仮定したが、各書や他資料を編集して『南朝記』が成立した可能性を否定しない。今回は禅秀の乱叙述を持つ一書としての紹介であったので、該書の成立事情についての精確な検討は今後に試みたい。

◆上杉禅秀の乱関係の叙述を網羅的に扱い、そこから「後期軍記」の展開・俯瞰を試みた発表であった。膨大な資料の調査に基づくものであったが、それらの「読み」について、特に『南朝記』を中心として他作品との先後関係を推定する方法について、それぞれの本文内容のさらなる精細な検討が必要との意見などが質疑の際に出た。(北川陽二郎)

  (2)心敬の和歌自注を読む(お茶の水女子大学・浅田徹)
 連歌師心敬には、少なからぬ数の和歌が遺されている。宗祇や兼載のものと並んで、連 歌師の和歌がどういうものであったかを知る上での重要な資料であるが、さらに注目すべき ことに、約二百六十首ほどに対しては心敬自身の注釈が遺されているのである。ここでは 「連歌師にとって和歌とは何だったか」という問題意識から検討した。
 それに先立ち、資料となる心敬の和歌資料群について、基礎的考察を行った。
 (1)家集「権大僧都心敬集」後半の題詠歌群の構成について。従来、特に構成に注意が払われてこなかったが、実は某年(確定できず)の日次詠草であったと推定した。
 (2)自注付き歌集「芝草句内岩橋 下」の構成について。従来は年次順に詠歌を集積したような資料からの抜抄と考えられてきたが、そうではなかったことを指摘した。
 (3)「岩橋下」の原資料は、四季―恋―雑に編成された小集成を三つ重ねたものである。「心敬僧都十体和歌」との形態の類似から、あるいはそれは心敬が自作の和歌を「三体」に分類したものではなかったか、という仮説を提示した。ただし実証は難しい。
 次に自注の分析であるが、本発表では「よせ」という言葉、「心をふくむ」という言葉に注目 した。「〜に〜を寄せる」という言い方は、歌合判詞などでも極めて普通に使われるので、一 見当たり前の如くであるが、例えば和歌では「恋」題が出た場合、その題意を何かのもの(た とえば「衣」とか「雲」とか、あるいは何かの故事・本説でも)に「寄せ」て表現する、と考える。
しかし心敬自注では、「題意」に何かの事柄を「寄せ」ると表現することが多い。歌題が連歌 の前句のように見立てられていることになる。連歌師心敬にとっては、歌題は連想の起点と しか見えず、そこに何を「付け」て自分の世界を構築するか、という意識が先行していたわけ である。結果として彼の和歌は傍題(題に示された内容を逸脱しようとする)的傾向を見せる ことになる。和歌と連歌の本質的な差異が顕わになっている事例として、文学史的に注目 すべきことと考えた。

◆前半では「権大僧都心敬集」の題詠歌群について、従来の視点を変え、全体の歌題を俯瞰するという方法によって、それが日次詠草であることを証明した。それを端緒として、「岩橋下」は心敬の和歌を「三体」に分類したもの、とする仮定に行き着いた訳だが、一見しただけでは必ずしもそのようには言い切れないとの意見があり、この問題に関しては今後さらに踏み込んだ論証が待たれる。一方、後半は心敬の和歌自注を読み解き、「〈題意〉に〈事柄〉を寄せる」「心をふくめる」といった独特の言い回しが多くなされている点に着目し、そうした思考に基づく和歌の詠み方が傍題につながっている現象を指摘した。ただ、心敬の詠作姿勢は和歌の伝統から幾分外れてはいるものの、逆に伝統に縛られていないという見方をすることも可能である。その点を肯定する意見も出され、和歌と連歌が交錯して詠まれていた時代の資料として、心敬の自注は興味深い資料だということが改めて確認されるに至った。これからの心敬研究に新たな道筋が付けられた発表であったと言えよう。(錺 武彦)

2004年度9月例会(平成16年9月25日)

(1)謡曲曽我物の展開ー〈元服曽我〉・〈調伏曽我〉を中心に(修士課程2年・大津研・佐藤和道)
 本発表では、曽我物謡曲のうち、比較的早い時期の上演記録があり、作者付において共に宮増作とされている〈元服曽我〉・〈調伏曽我〉を取り上げた。
 まず、両曲の典拠とされる、『曽我物語』の真字本(妙本寺本)と仮名本(太山寺本)、さらに幸若舞「元服曽我」との間にどの程度の類似性が見られるかを確 認した。〈元服曽我〉は、特に後半部分の箱王の元服とそれに続く十郎の舞が、幸若舞「元服曽我」と構成面から一致していることから、〈元服曽我〉は、幸若 「元服曽我」から影響を受けて成立したものと推測できることを指摘した。一方、〈調伏曽我〉は後場の工藤祐経調伏の場面が、『曽我物語』の仮名本に見える 「伊藤祐隆調伏」と類似した趣向であることなどから、作者が仮名本を参照している可能性について指摘した。このように、〈元服曽我〉と〈調伏曽我〉の作風 には大きな隔たりがあり、同一作者の手によるという作者付の記述は、疑問視せざるを得ない。しかしながら、〈調伏曽我〉の原曲であろうと推定される、寛正 五年の糺河原勧進猿楽において上演された〈箱王曽我〉が、現行の前場のみで成立していた可能性を示し、それによって両曲の作者を宮増とすることの可能性に ついて言及した。 さらに、伝宮増作といわれる『能本作者注文』所収の十曲のうち五曲までが幸若舞や曲舞と何らかの関連を持つということ、さらに宮増の作風が曲舞、幸若舞の 芸態と類似している点を指摘し、宮増が曲舞を素材として能作を行っていた可能性を指摘した。
 今後は、本発表を端緒として、他の曽我物諸作品や伝宮増作品についても研究を進めて行きたい。また、質問にもあった〈春栄〉・〈盛久〉などの男舞物の諸曲 について、曲舞や幸若舞との関連を軸に研究を進めていきたいと考えている。

◆曽我物語を素材とした能が、曲舞を典拠に作られたという新見地を提示した発表であったが、発表者が典拠として指摘した曲舞の実体が不明なこともあり、問題が残される。質疑ではこの点のほか、男舞物の先後関係や、曽我の語りのバリエーションについてなど、多方面から意見が出された。今回扱った二曲だけでな く、〈小袖曽我〉〈虎送〉など他の曽我物語の能を網羅した上での研究成果が待たれる。(江口文恵)

(2)国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵『広幢集』をめぐって─和歌と連歌と禅と  (国立歴史民俗博物館(非)   酒井 茂幸)
 国立歴史民俗博物館蔵田中穣氏旧蔵(以下「田中本」と略称)『広幢集』は、川瀬一馬編『田中教忠蔵書目録』(昭五七・自家版)等に記載があり、書名は知ら れていた。近時精査したところ、連歌師の広幢息の猪苗代兼純が父の詠草を集成し編纂した、広幢の私家集であることが判明した。総歌数は四五八首を擁し、集 中には、天理大学付属天理図書館綿屋文庫蔵『広幢付句集』の兼載加点一巻の末尾に兼載が書き付けた詠も見出される。また、心敬に自句一巻への批点を得たこ と、広幢の関東下向に際して心敬と贈答歌を交わしたことが知られる。そして、広幢息の顕天の名も見える上、後に建長寺の首座に昇った用林顕材が鎌倉へ下向 した記事も存する。こうした広幢を取り巻く血縁・師承関係が明らかとなることに本家集の資料的意義がある。
 家集の構成は、前半は歌会歌と思われる題詠が殆どである一方、後半部には広幢自身が「道哥」と称し、仏典の法語を歌題とした歌が多く見出される。また、 『蒙求』や『老子注』を題材とした詠も存し、広幢の教養圏の一端が垣間見える。哀傷歌等の独詠歌にも見るべき作品は多く、室町中期の隠遁僧の生活や学問を 探究する上でも好資料と言えよう。後代に多くの連歌師・古典学者を輩出した猪苗代家の源流に位置する広幢の新出資料として、今後も様々な視点からの考究を 期したい。
 なお、『広幢集』の書誌解題と全文翻刻は、平成一六年九月発刊の『古典遺産』第五四号に掲載した。

◆国立歴史民俗博物館現蔵『広幢集』の内容を初めて紹介し、考察を加えた。渡邉裕美子・浅田徹・井上宗雄・竹本幹夫の各氏から、内容を確認する質問が相次ぐ。兼載との関係や、子息の兼純・顕天の動向など、室町期の和歌・連歌に関わる新しい情報が提供された点は意義深いが、なおも正確な資料読解と、論の整理 が望まれる。(兼築信行) )

(3)善光寺如来と聖徳太子の書簡往返をめぐって   早稲田大学教授 吉原浩人氏

◆発表は善光寺如来と聖徳太子の書簡往復説話について、絵画資料を含めて様々な資料を博捜され、適宜明快な解説を交えながらのものであった。質疑では、具 体的な説話の内容や、それらを秘事口伝とすることの根本的な発想について意見が交わされた。また、それらの流布・展開については、和歌のあり方と類似する との指摘があった。(高津希和子)
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