発表要旨

2005年度3月例会(平成17年3月19日)

(1)『浄照房集』の歌枕・地名歌について(修士課程2年・兼築研・小沢美沙子)
 『浄照房集』は藤原定家の一男藤原光家の家集である。浄照房という房号を外題にし、四一首(内他人詠三首)の小歌集であるという外貌を持つ光家の家集は、俊成・定家と続く御子左家の名跡に繋がる家集としては異色なものといえよう。その四一首の内約半数の二二首は、俊成、定家もまだ経験したことのない筑紫往還の歌枕、地名歌が占めている。家集の中心にこれらの歌を据えた家集編纂者の意識を検討し、あわせて自他撰の判別の検討をも試みる。
 『浄照房集』には光家の二度の筑紫往還の歌が対置されている。一度目は順徳天皇の即位を宇佐宮に告げる宇佐使としての侍従光家の歌が、二度目はその順徳院の御代は既になくなり、僧体に身をかえた浄照房の歌がそれぞれ収録されている。
 初度の旅の歌には最勝四天王院障子和歌に設題された歌枕や、源氏物語、栄華物語の文学遺跡である歌枕などをとりこみ、筑紫に左遷された道真、伊周ゆかりの地名を詠みこむなどして古典や故事に通じていることのアピールともとれる歌が並び、また定家の歌に依拠したと思われる歌が多く見られるところから、これらの歌は定家を宛先として詠歌されたものと思われる。また宇佐使いとしての任務を遂行しているというパフォーマンスともとれる歌もあるところから順徳院も宛先に想定していたと考えられる。
 さて、宇佐使の旅の途次で門司関を詠んだ光家の歌が、建保名所百首の順徳院の白河関題の歌に発想、設定、趣向が著しく類似していることについて、内裏名所百首題の選定者であり、順徳院の歌の指導者、光家の父である定家の介在を想定することは極めて自然なことと考えられる。光家の順徳院即位を受けて旅した初度の筑紫往時の歌は、定家の手によって、歌紀行か小歌集のようにまとめられ、順徳院の叡覧に供せられたのではないだろうか。自らの歌が叡覧に供せられたばかりか、順徳院の発想の根源になったとなれば、それは、光家の詠作史における最も輝かしい事跡に違いない。こうした折の作品を選歌して家集に編纂するのは当事者ならではの営為と考え、『浄照房集』は自撰であることの理由の一つと考えた。

◆これまでほとんど研究の対象とされなかった『浄照房集』の特異な構成と内容に着目し、その編纂に光家自身の明確な意図が働いていた可能性を指摘した点で、大いに意義のある発表であった。これにより、本家集が自撰であることはほぼ確実なものとなった。また、『建保名所百首』の各歌人に与えたであろう影響についても興味深い。質疑では、定家による『新勅撰集』撰進との関連、作品全体に強く感じられる良輔追慕の意味など、『浄照房集』に関する様々な問題性が提示され、今後の研究への期待を含ませた意見が出された。(錺武彦)

(2)『古事談』における小野宮説話の検討(修士課程3年・竹本研・高津希和子)
 『古事談』第二臣節にある四話連続の「小野宮説話」、一三八話「小野宮邸門閉事」、一三九話「実資女不堪事」、一四〇話「実資教通愛遊女香炉事」一四一話「小野宮殿薨時諸人悲事」をとりあげ、『古事談』編者源顕兼の視線が那辺にあったのかを考察した。
 これまで、四話の内の最初と最後にある「小野宮」説話が実資を主人公にする話か、実頼を主人公にする話か、『古事談』としての立場がどちらなのか解釈が分かれてきた。同内容の説話を収録する『中外抄』『富家語』では、これらは実頼の話として語られている事などから、『古事談』でも実頼の説話と捉えていると考えられる。さらに、『古事談』編者は、実頼・実資という具体的な人物ではなく、「小野宮」という冠詞に着目した説話採録であったことが、彼等の言説が共通のモチーフで語られていることや、それらが九条家対小野宮家の構造になっていることによって確認できる。
 四話の内に、実資と実頼の説話を混在させ、一つの小野宮殿像を構築するが如き『古事談』の姿勢は、藤原定家の『明月記』に、「僻案をもって万事を家の秘事を称す」と批評されている編者顕兼の故実受容態度に一脈通じるものではないかと思う。今回の小野宮説話群に関連していえば、『古事談』以前に成立し、共通の内容をもつ『中外抄』『富家語』のもつ価値基準そのもの、そして構成の面をも破壊している。編者顕兼の私意は、話題の面のみならず、作品の細部にわたって単なる切り抜きを超えた世界に及んでいる事が指摘できる。
 発表では、藤原摂関家から見た小野宮氏像との関連、『古事談』独自の発想が、女性関係説話に着目して語る点にあるのではないかなど、多くのご指摘を頂いた。今少し、小野宮説話全体を通じての『古事談』説話の位置を確認し、顕兼の語る「秘事」というものの解釈ともからめて、改めて検討したいと思う。ご教示頂いた皆さまにお礼を申し上げます。

◆今少し丁寧な論証・説明・資料提示も求められたが、『中外抄』『富家語』に対する『古事談』の創造性・独自性の解明に迫る興味深い発表であった。典拠未詳の小野宮女性関係説話が『古事談』以降に広まりを見せる問題は検討の深化が期待される。『中外抄』『富家語』との性質の違いを叙述スタイルの違いによるものではとする意見もあった。(田口 寛)

(3)平安末期における善珠撰述仏典注釈書の継承(早稲田大学専任講師・河野貴美子)
   日本の唯識・因明学の祖とされる興福寺僧善珠が残した仏典注釈書は、反切による音釈や外典を含むさまざまな典籍からの引用を駆使した訓釈をその大きな特徴とする。善珠の学問は、日本の唯識・因明学の展開の中で如何に受け継がれていったのか。本発表では、善珠撰『因明論疏明灯抄』及び蔵俊撰『因明大疏抄』を取りあげ、写本など伝本調査の成果も含め報告を行った。
 これらの著作はいずれも、唐・慈恩大師基の『因明入正理論疏』に対する注釈書であるが、善珠の『因明論疏明灯抄』は、奈良末期という早い時期に成立した、日本における因明注釈書の先駆的な存在で、一方、蔵俊の『因明大疏抄』は、『因明論疏明灯抄』を含めそれ以前の唐・新羅・日本の因明関係の書物の記述を蔵俊が集大成した、平安末期における因明学の一大成果といえるものである。発表では、善珠が施した反切注記の蔵俊『因明大疏抄』への継承状況に特に注目し検討することによって、各おのの時代の学問僧が、漢字・漢文というものに如何に向き合い、漢文を如何に読み解いていったのか、その営みの一端を明らかにすることを試みた。また、彼らが漢文を読み解く際に参照した資料、利用した辞書類や漢籍はどのようなものであったのか、という点にも言及した。
 具体的には、蔵俊『因明大疏抄』における反切注記のほとんどが善珠『因明論疏明灯抄』の注釈を継承するものであること、その中には善珠が漢字の四声の別を弁じつつ注釈を施した注目すべき箇所が含まれること、『因明大疏抄』各帖の表紙裏に書き入れられた反切注記の存在からは漢字の音義に関する訓詁学的な注釈が蔵俊にとっても重要な情報であったと考えられること、さらには、蔵俊が善珠の反切注記を主として継承しつつ、自らも『唐韻』など新しい資料に基づいて漢字の音義をめぐる記述を付け加えている場合があることを、「雋」の字の読みをめぐる注記を中心に考察し、述べた。
 日本古代の仏典注釈書からは、当時の仏家らの漢文知識や漢籍受容の実態を読み取っていくことが可能である。今後もさらに調査、検討を進めていきたい。

◆蔵俊『因明大疏抄』は平安末における南都法相宗の知の嚢中を知り得ることで、法相の教学の流れを研究する上では情報に富んだ資料である。善珠『因明論疏明灯抄』に引く漢籍の書目が明らかとなるのはその一例であるが、蔵俊の漢字・漢文に対する意識を考えるとき、とりわけ四声を含む半切注記の方法などから、彼の厳密な学究態度が知られて興味深い。発表では大正蔵底本を含む各伝本の奥書を翻刻・整理した「資料」をも提示しつつ、半切注記を詳細に読み取ったが、日下力・井上宗雄両氏との質疑で浮上したように、頼長や信西らを含めて、広く院政期の学問を考えさせる総体的な観点も見込まれ、今後に期待を持たせる内容であった。(横溝 博)

2005年度9月例会(平成17年9月24日)

(1)高階宗成の有馬温泉下向―『遺塵和歌集』の長歌をめぐって (博士課程3年・兼築研・錺武彦)
 『遺塵和歌集』は鎌倉期の私撰集である。全歌数二七四首中に高階家の人物による歌が二五五首を占めており、高階家歌人の歌を集めた特異な歌集と言える。その編者と考えられる高階宗成は、九二首という集中最多の歌数を収めているが、その中でも巻末の二首の長歌には特に注目される。一つは、「文永五年の春ありまのゆへまかりて、よみ侍りけるながうた」という詞書があり、宗成が有馬温泉へ赴いた際に詠まれたもの(二七二番歌)で、反歌(二七三番歌)が付される。もう一つは、「弘安のころあづまへまかりて侍りけるに、みちのほどの宿宿をよみつづけけるながうた」という詞書で、東国への旅の途次に詠まれたものと考えられる(二七四番歌)。後者は百箇所近くの地名を詠み連ねた長大なものであり、同時代の早歌との関係性も指摘されて興味深いが、今回の発表で取り上げたのは前者である。
 有馬温泉は、藤原定家の『明月記』等、当時の日記類にも京の貴顕が湯治のために訪れた多くの事蹟が残されており、宗成も同様の目的であったと思われる。歌の内容を考察すると、京から有馬への道筋に当たる地名が、平安〜新古今期の古歌を引いたり掛詞や縁語を用いたりして巧みに織り交ぜられ、まるで旅日記のようになっている。その中に、『伊勢物語』を踏まえた表現が見受けられるが、それが『遺塵和歌集』が成立するに至った過程と密接に結びつく。当時、高階家は在原業平の末裔として広く認知されていた。『江家次第』や『古事談』等にいくつもの記述があるように、在原業平と伊勢斎宮恬子内親王が密通することで師尚真人が生まれ、師尚が高階茂範の養子となって高階家を継いだという。その在原業平の後胤としての誇りが宗成を歌集の作成へ駆り立てたことが、序文において明確に述べられているが、当該歌に見られる業平追慕の姿勢も、宗成のそうした意識を強く裏付けるものと言える。
 宗成がこの歌を詠んだ目的としてもう一つ、有馬温泉の守護神である女躰権現への奉納歌という性格が加えられる。この時代において短歌ではなく長歌を詠むことには、阿仏尼の『十六夜日記』末尾の長歌のように、神仏への祈願といった特殊な意図が考えられるが、当該歌でも『温泉山住僧薬能記』等に見られる女躰権現にまつわる説話を下敷きにして、「あとをたれます 神がきの いもせの中を いましむる ちかひの程こそ かしこけれ」と詠んでいる。当時の有馬温泉下向は、湯治以外にも女躰権現への参詣を大きな目的としていたのである。
 以上のように、当該歌は、宗成による『遺塵和歌集』編纂の意識や当時の有馬温泉をめぐる信仰の様相をうかがい知るためにも重要な資料となることを述べた。

◆鎌倉時代に編まれた私撰集の内、『遺塵和歌集』は特に問題を含むものである。撰者とみられる高階宗成は、自らが在原業平の子孫であることに対する自負心を抱いていたことは、発表の内容から明らかにされた。それが端的に集中の長歌に現れているともいえる。『遺塵和歌集』編纂の意図が今後も明らかにされる鍵ともなろう。一方、長歌にみられる作者の「祈願」がどのように集の中で位置付けられるか、更なる検討が期待される。(スピアーズ・スコット)

(2)地域寺院と資料(信州大学助教授・渡辺匡一)
 地域寺院の調査・研究を通して、地域に拡がる知のネットワークについて考察した。福島県いわき市に所在する浄土宗寺院如来寺蔵『三語集』からは、『古事談』『宝物集』『元亨釈書』『徒然草』『私聚百因縁集』『三国伝記』などの享受が確認できる。また、真言宗寺院宝聚院の聖教からは、一五〇〇年代以降、京都醍醐寺との緊密な関係の中、様々な知識が、岩城に流れ込んでいたことが確認できる。さらに、真言律宗の寺院についても同様のことが窺えることから(叡山文庫真如蔵『教誡儀抄物』)、中世後期、奥州磐城は各宗派のネットワークを通じて、大量の知識が集積されていたと考えられる。また、その背景には戦国大名岩城氏の存在が予想される。
 地域に蓄積された知識は、中央からの一方的なものではない。岩城の真言宗寺院と信州諏訪の真言宗寺院の間には、学侶・書物の交流があることを、宝聚院蔵『糸玉鈔』『宝聚院縁起並代々略記』などと、諏訪市に所在する仏法紹隆寺蔵の印信、『堯雅僧正関東下向印可授与記 俊聡』『授与引付 天文二年六月十二日 俊聡』(醍醐寺蔵)などから考察した。
 また、醍醐寺の法流(松橋流)である仏法紹隆寺の聖教調査からは、一五〇〇年代、醍醐寺関係の典籍が、下野国氏家の能延寺から入ってきたことを確認できる(『秘抄』『薄草紙口決』など)。このことは、一五〇〇年代には、下野国の談義所である寺院に、真言宗の拠点が形成されていたことを意味する。
 能延寺から醍醐寺(松橋流)の聖教がもたらされるに及び、仏法紹隆寺は諏訪地方における真言宗の有力寺院として発展していく。ちょうど同じ頃、遠く奥州岩城の地でも真言宗の教学が盛り上がりを見せ始めていた。やがて諏訪、下野、岩城をつなぐ、真言宗の知のネットワークが形成されていったと考えられる。

◆現在に至るまでに発表者が蓄積された地域寺院の聖教調査から、知識の享受・蓄積・醸成を軸に、これらの資料の可能性を提示した発表であった。地域間に知識の伝播が確かに存在したこと、それらの交流も認められること等を明らかにされ、中央を介在しない知識伝播ルートの構図も指摘された。質疑では、地方寺院と大名家との関わりについて等、経済的基盤の問題も含めた意見が交わされた。中央・地方という地域性の問題を視座として、同時代の著述活動を媒介とした文化の生成と展開に切り込んだ示唆的な発表であった。(高津 希和子)

2006年度3月例会(平成18年3月18日)

(1)建保期の歌壇と西園寺公経 (修士課程2年・兼築研・北條暁子)
 本発表は、西園寺公経が、建保四年後鳥羽院百首にどのように応じたかを検討することで、建保期歌壇の一様相の考究を試みたものである。主に、当該百首の公経詠認定と、披講の実態(場所・日時・所役等)の解明に重点を置いた。
 最初に、先行研究の乏しい西園寺公経の歌歴について二点確認した。一点は、公経の作歌活動が活発となるのは後鳥羽院歌壇始動期であること。もう一点は、休止していた院歌壇が再び活況を呈した建保期にも、公経の参加が確認できることだ。後者のうち最も大きな催しが、建保四年院百首である。
 ついで、証本が散逸した当該百首の公経詠を、副文献資料から二〇首集成・検討し、その認定の根拠・過程を詳しく述べた。結果、先行研究によって公経詠と認定された二五種のうち六種を否定し、一首を新たに加えることとなった。
 また、『園太暦』貞和二年閏九月六日条の記事に見える、「建保四年水無瀬殿御百首記」という逸書の書名に注目し、当該百首の披講の場は水無瀬であった蓋然性の高いこと、その「記」も作られていたことを指摘した。そこから、従来、成立は「建保四年春」と漠然と言われてきた当該百首の成立過程について再考した。『順徳院百首裏書注』の披講関連記事、建保四年春の院の御幸・動向、『明月記』建保四年正月二八日条、後鳥羽院の当該百首の端作の「二月」という情報等を勘案すると、当該百首の披講月日(ひいては、ひとまずの成立時期)は、二月五日にごく近い某日であったと見なすのが自然だ。
 最後に、公経の建保期における後鳥羽院の近臣としての位置づけを確認した。建保四年院百首前後では、建保三年五月に院の逆修に奉仕、建保五年二月には水無瀬山上に院の新御所を造営している。院勘により籠居したのは、その建保五年の十一月のことであった。承久の乱における役割の大きさから院との不仲が強調されがちな公経だが、彼の歌歴は、後鳥羽院近臣として一貫していることを強調した。

◆新古今和歌集成立後の歌壇は様々な問題を内包しており、特に後鳥羽院を中心とした和歌活動は注目される。発表では、建保四年百首に注目した。藤原公経に焦点を絞ったとはいえ、更に多くの面を捉えることで、より具体的にこの百首の特異性を引き出そうとした。百首の披講形式は、興味深い着眼点であったといえる。残存資料の問題は多々あるが、今後は公経の問題を含め、建保期歌壇の特質を探ることが期待される。(スピアーズ・スコット)

(2)物語文学と手紙――処分される言葉、もしくは『堤中納言物語』「よしなしごと」論へ(早稲田大学助教授・陣野英則)
 物語文学と手紙という、〈書かれたもの〉どうしの関係について考察した。
  まずは、『竹取物語』の終末部、及び『源氏物語』正篇の最後、「幻」巻において手紙が焼却されていることに注目した。これら処分された手紙の言葉は、当の物語本文の一部分でもあった。ひとまとまりの物語が、自らの言葉の一部を焼却処分して終わる――これは物語文学の根本的な性格に関わる問題ではないか。口頭の語りを彷彿とさせる仮名文であっても、近時、池田和臣氏が論じているように、仮名で書かれた文学と仮名の手紙との連続性は看過し得ない。さらに日記文学にも眼を向けてみると、『土左日記』の「とまれかうまれ、とくやりてむ」という末文、あるいは『紫式部日記』で手紙の処分について殊更に言及している「消息的部分」の末尾などが注意されよう。これらすべてが、自らの尻尾を噛むウロボロス同様、自らの言葉を呑み込んでしまうような事態をあえて書き込んでいる。それは、仮名テクストのこの世におけるありようを示しつつ、実は、当のテクストが処分されるべき秘密の文書であることをも示唆するような方法と考えられる。
 さらに発表の後半では、物語自体が手紙とほとんど重なってしまう特殊な例として、『堤中納言物語』「よしなしごと」をとりあげた。この作品、「女の師にしける僧」によるナンセンスな手紙を書写したという体裁がとられているが、実は、どこからどこまでがその手紙なのかが判然としない。それゆえ、この物語全体も手紙の如きものとしてとらえ得るのではないか。『堤中納言物語』諸本のうち大野広城書写本系のみにみえる奥書において「元中二年三月書写」の「古写巻物」の存在に言及していることにも注意しつつ、この作品が物理的に仮名の手紙と同様の体裁で書き写されるという事態を想定した。すなわち、軸などをもたない、ただ巻いてあるだけの続紙の状態で存在した可能性である。あわせて、「冬ごもる……」と始まる断章(?)が、「よしなしごと」と紙の表裏の位置関係にあった(そのような体裁をとって書写された)可能性などについても述べた。

◆自らの言葉を処分するも作品それ自体は厳然として存在しているという、きわめてパラドキシカルな事態が、「手紙の処分」という場面においてたしかに生起している。物語から日記へと継続的に存在する問題系を、語り手の存在や書写行為そのものへと連続して捉えるとき、「手紙」とは何ものなのか。『堤中納言』の一編「よしなしごと」に相対するとき、〈書かれたもの〉への根源的な問いに逢着することを指摘された。井上宗雄氏、兼築信行氏、新美哲彦氏、浅田徹氏の質疑を得た。また大野広城本系に書写奥書中に見える「元中二年」が南朝の元号であることへの関心が集まった。※陣野氏はその後「日記文学と物語―自らの言葉を処分する仮名文書・試論」(「國文學」二〇〇六年七月)を発表していることを付言しておく。(横溝 博)

2006年度9月例会(平成18年9月30日)

(1)藤原顕綱伝再考――その和歌活動から――(博士後期課程4年・兼築研・中村成里)
 藤原顕綱は歌人として著名であり、同じく歌人であった堀河院乳母の伊予三位兼子、道経、『讃岐典侍日記』作者長子の父である。その家集『顕綱集』は、犬養廉・伊井春樹らによって研究がなされ、顕綱は後三条院ならびにその姉妹である娟子内親王の周辺で和歌活動を行っていたこと、法成寺蔵『万葉集』の書写(俊綱所蔵本を書写)、陽明門院本『古今集』の相伝、『源氏物語』の貸借が『袋草紙』や『顕綱集』本文によって既に指摘されている。本発表では『顕綱集』の構成を整理し、再吟味することによって、顕綱周辺の文学的な状況を分析した。
 まず、『顕綱集』八番歌は後三条院の東宮時代に詠まれたものであるが、『宇津保物語』の「内侍のかみ」巻における仲忠とあて宮との贈答場面と近似しており、影響関係がある可能性を指摘した。『万葉集』『古今集』『源氏物語』のみならず、顕綱が他の物語作品の影響を受けていたことも含め、再考察される必要があろう。また、顕綱の交友関係については、顕綱が陽明門院の別当であり、後三条院の子である有佐を猶子にしていたことから、後三条院周辺で活動していたことは先学の指摘するとおりである。本発表では、さらに「一宮女房」を後三条院の妹の高倉一宮祐子内親王女房である可能性を指摘した。これは顕綱も参加していた長治元年五月の「俊忠歌合」に祐子内親王に仕える一宮尾張、紀伊が参加しており、後三条朝から堀河朝にかけての「一宮」とは祐子内親王を指すことを論拠としている。最後に、『顕綱集』四二〜四三番歌は太皇太后宮大弐との贈答歌であり、後三条院の娘である令子内親王周辺の女房との交友関係が窺われ、同一〇四〜一〇五番歌にある「中宮女房」とは、堀河院中宮上総かその周辺の女房であることが考えられる。
 以上のように、本発表では顕綱が具体的にどの内親王の周辺で活動していたのか、その和歌活動の場を限定し、物語の享受という側面からも若干の検討を加えた。

◆十一世紀末から十二世紀初頭にかけての時期は、和歌文学史の上で様々な注目すべき事態が起こり、なお研究の余地を残しているようである。特に顕綱はその中にあって、和歌活動を多方面で展開すると同時に、『古今集』や『源氏物語』の書写活動等にも励み、当代において文化人としての存在が決して小さくなかったことは、発表で明かになった。今後は、範囲を絞って、より詳しい考察が望まれる。(スピアーズ・スコット)

(2)中世末期の地方の能楽(国士舘大学教授・表きよし)
 能は江戸時代に幕府の式楽となり、諸藩も幕府にならって能役者を召抱えたため、江戸や京都といった大都市のみならず、各地で能が上演されるようになった。一方、中世末期にはすでに地方で活躍する能役者が見られるようになる。本発表では、毛利氏と能役者の寅菊、相良氏と能役者の宗像との関わりを紹介し、中世末期の地方における能役者の活動の一端を考察した。
 寅菊姓の役者は、もともと京都で観世座の脇役者や金剛座の狂言役者として活動していたが、大内氏を滅ぼして中国地方一帯を支配した毛利氏と早くから縁ができたらしく、厳島での法楽能や遷宮能に出演した記録が残されている。毛利の支配地だった長府の忌宮神社では天正の頃にはすでに神事能が行われており、これにも寅菊が関わっていた可能性が考えられる。天正十六年の毛利輝元上洛の際には大坂などで寅菊が能を演じており、天正十八年に豊臣秀吉が毛利輝元邸に御成りした際の饗応能でも寅菊が活躍している。これらの記録から、寅菊が毛利家お抱えの能役者として活動していた様子がうかがえる。一方で寅菊姓の人物が毛利家の用務をも担当しており、寅菊は役者としてだけでなく様々な形で毛利家に貢献していた。寅菊の後裔は江戸時代には萩藩・長府藩それぞれのワキ方として活動を続けた。
 相良氏は鎌倉時代初期に肥後国人吉荘の地頭職となり、中世末期には一時八代を領有するなど勢力を拡大したが、江戸時代には人吉藩二万二千石の藩主となった。その相良氏のもとで活動したのが能役者の宗像であり、宗像は相良氏が遠州から人吉に移った時に同行してきたと伝えられている。『八代日記』などの資料によると、相良氏は八代で盛んに能を催しており、饗応能・法楽能・慰み能など多様な形の催しだったことが知られる。これらの能を担当した宗像の具体的な経歴は明らかではないが、京都へも出かけているので、京都で役者としての修業を積み、相良家の能で大きな役割を果たしていたと考えられる。相良家が早くから能に熱心だったのは、「当領偏鄙なれハ、別而可嗜学事」といった考えに基づくものと思われる。宗像は江戸時代も相良氏お抱えの能役者として活動を続けた。

◆中国地方の有力大名毛利氏とそのお抱え能役者寅菊、九州南部の大名相良氏と能役者宗像の二例を中心に、中世後期の地方における能楽の様子について、調査よって得られた史料等を基に発表された。後者の相良氏についてはこれまでほとんど活動が知られておらず、九州における能の伝播を知る上で貴重な報告であった。質疑では、中世における九州・中国地方の文化圏について話が及ぶなど活発な意見交換がなされた。(佐藤 和道)
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