2005年度3月例会(平成17年3月19日)
(1)『浄照房集』の歌枕・地名歌について(修士課程2年・兼築研・小沢美沙子)
2005年度9月例会(平成17年9月24日) (1)高階宗成の有馬温泉下向―『遺塵和歌集』の長歌をめぐって
(博士課程3年・兼築研・錺武彦)
2006年度3月例会(平成18年3月18日) (1)建保期の歌壇と西園寺公経
(修士課程2年・兼築研・北條暁子)
2006年度9月例会(平成18年9月30日) (1)藤原顕綱伝再考――その和歌活動から――(博士後期課程4年・兼築研・中村成里)
『浄照房集』は藤原定家の一男藤原光家の家集である。浄照房という房号を外題にし、四一首(内他人詠三首)の小歌集であるという外貌を持つ光家の家集は、俊成・定家と続く御子左家の名跡に繋がる家集としては異色なものといえよう。その四一首の内約半数の二二首は、俊成、定家もまだ経験したことのない筑紫往還の歌枕、地名歌が占めている。家集の中心にこれらの歌を据えた家集編纂者の意識を検討し、あわせて自他撰の判別の検討をも試みる。
『浄照房集』には光家の二度の筑紫往還の歌が対置されている。一度目は順徳天皇の即位を宇佐宮に告げる宇佐使としての侍従光家の歌が、二度目はその順徳院の御代は既になくなり、僧体に身をかえた浄照房の歌がそれぞれ収録されている。
初度の旅の歌には最勝四天王院障子和歌に設題された歌枕や、源氏物語、栄華物語の文学遺跡である歌枕などをとりこみ、筑紫に左遷された道真、伊周ゆかりの地名を詠みこむなどして古典や故事に通じていることのアピールともとれる歌が並び、また定家の歌に依拠したと思われる歌が多く見られるところから、これらの歌は定家を宛先として詠歌されたものと思われる。また宇佐使いとしての任務を遂行しているというパフォーマンスともとれる歌もあるところから順徳院も宛先に想定していたと考えられる。
さて、宇佐使の旅の途次で門司関を詠んだ光家の歌が、建保名所百首の順徳院の白河関題の歌に発想、設定、趣向が著しく類似していることについて、内裏名所百首題の選定者であり、順徳院の歌の指導者、光家の父である定家の介在を想定することは極めて自然なことと考えられる。光家の順徳院即位を受けて旅した初度の筑紫往時の歌は、定家の手によって、歌紀行か小歌集のようにまとめられ、順徳院の叡覧に供せられたのではないだろうか。自らの歌が叡覧に供せられたばかりか、順徳院の発想の根源になったとなれば、それは、光家の詠作史における最も輝かしい事跡に違いない。こうした折の作品を選歌して家集に編纂するのは当事者ならではの営為と考え、『浄照房集』は自撰であることの理由の一つと考えた。
◆これまでほとんど研究の対象とされなかった『浄照房集』の特異な構成と内容に着目し、その編纂に光家自身の明確な意図が働いていた可能性を指摘した点で、大いに意義のある発表であった。これにより、本家集が自撰であることはほぼ確実なものとなった。また、『建保名所百首』の各歌人に与えたであろう影響についても興味深い。質疑では、定家による『新勅撰集』撰進との関連、作品全体に強く感じられる良輔追慕の意味など、『浄照房集』に関する様々な問題性が提示され、今後の研究への期待を含ませた意見が出された。(錺武彦)
◆今少し丁寧な論証・説明・資料提示も求められたが、『中外抄』『富家語』に対する『古事談』の創造性・独自性の解明に迫る興味深い発表であった。典拠未詳の小野宮女性関係説話が『古事談』以降に広まりを見せる問題は検討の深化が期待される。『中外抄』『富家語』との性質の違いを叙述スタイルの違いによるものではとする意見もあった。(田口 寛)
◆蔵俊『因明大疏抄』は平安末における南都法相宗の知の嚢中を知り得ることで、法相の教学の流れを研究する上では情報に富んだ資料である。善珠『因明論疏明灯抄』に引く漢籍の書目が明らかとなるのはその一例であるが、蔵俊の漢字・漢文に対する意識を考えるとき、とりわけ四声を含む半切注記の方法などから、彼の厳密な学究態度が知られて興味深い。発表では大正蔵底本を含む各伝本の奥書を翻刻・整理した「資料」をも提示しつつ、半切注記を詳細に読み取ったが、日下力・井上宗雄両氏との質疑で浮上したように、頼長や信西らを含めて、広く院政期の学問を考えさせる総体的な観点も見込まれ、今後に期待を持たせる内容であった。(横溝 博)
『遺塵和歌集』は鎌倉期の私撰集である。全歌数二七四首中に高階家の人物による歌が二五五首を占めており、高階家歌人の歌を集めた特異な歌集と言える。その編者と考えられる高階宗成は、九二首という集中最多の歌数を収めているが、その中でも巻末の二首の長歌には特に注目される。一つは、「文永五年の春ありまのゆへまかりて、よみ侍りけるながうた」という詞書があり、宗成が有馬温泉へ赴いた際に詠まれたもの(二七二番歌)で、反歌(二七三番歌)が付される。もう一つは、「弘安のころあづまへまかりて侍りけるに、みちのほどの宿宿をよみつづけけるながうた」という詞書で、東国への旅の途次に詠まれたものと考えられる(二七四番歌)。後者は百箇所近くの地名を詠み連ねた長大なものであり、同時代の早歌との関係性も指摘されて興味深いが、今回の発表で取り上げたのは前者である。
有馬温泉は、藤原定家の『明月記』等、当時の日記類にも京の貴顕が湯治のために訪れた多くの事蹟が残されており、宗成も同様の目的であったと思われる。歌の内容を考察すると、京から有馬への道筋に当たる地名が、平安〜新古今期の古歌を引いたり掛詞や縁語を用いたりして巧みに織り交ぜられ、まるで旅日記のようになっている。その中に、『伊勢物語』を踏まえた表現が見受けられるが、それが『遺塵和歌集』が成立するに至った過程と密接に結びつく。当時、高階家は在原業平の末裔として広く認知されていた。『江家次第』や『古事談』等にいくつもの記述があるように、在原業平と伊勢斎宮恬子内親王が密通することで師尚真人が生まれ、師尚が高階茂範の養子となって高階家を継いだという。その在原業平の後胤としての誇りが宗成を歌集の作成へ駆り立てたことが、序文において明確に述べられているが、当該歌に見られる業平追慕の姿勢も、宗成のそうした意識を強く裏付けるものと言える。
宗成がこの歌を詠んだ目的としてもう一つ、有馬温泉の守護神である女躰権現への奉納歌という性格が加えられる。この時代において短歌ではなく長歌を詠むことには、阿仏尼の『十六夜日記』末尾の長歌のように、神仏への祈願といった特殊な意図が考えられるが、当該歌でも『温泉山住僧薬能記』等に見られる女躰権現にまつわる説話を下敷きにして、「あとをたれます 神がきの いもせの中を いましむる ちかひの程こそ かしこけれ」と詠んでいる。当時の有馬温泉下向は、湯治以外にも女躰権現への参詣を大きな目的としていたのである。
以上のように、当該歌は、宗成による『遺塵和歌集』編纂の意識や当時の有馬温泉をめぐる信仰の様相をうかがい知るためにも重要な資料となることを述べた。
◆鎌倉時代に編まれた私撰集の内、『遺塵和歌集』は特に問題を含むものである。撰者とみられる高階宗成は、自らが在原業平の子孫であることに対する自負心を抱いていたことは、発表の内容から明らかにされた。それが端的に集中の長歌に現れているともいえる。『遺塵和歌集』編纂の意図が今後も明らかにされる鍵ともなろう。一方、長歌にみられる作者の「祈願」がどのように集の中で位置付けられるか、更なる検討が期待される。(スピアーズ・スコット)
◆現在に至るまでに発表者が蓄積された地域寺院の聖教調査から、知識の享受・蓄積・醸成を軸に、これらの資料の可能性を提示した発表であった。地域間に知識の伝播が確かに存在したこと、それらの交流も認められること等を明らかにされ、中央を介在しない知識伝播ルートの構図も指摘された。質疑では、地方寺院と大名家との関わりについて等、経済的基盤の問題も含めた意見が交わされた。中央・地方という地域性の問題を視座として、同時代の著述活動を媒介とした文化の生成と展開に切り込んだ示唆的な発表であった。(高津 希和子)
本発表は、西園寺公経が、建保四年後鳥羽院百首にどのように応じたかを検討することで、建保期歌壇の一様相の考究を試みたものである。主に、当該百首の公経詠認定と、披講の実態(場所・日時・所役等)の解明に重点を置いた。
最初に、先行研究の乏しい西園寺公経の歌歴について二点確認した。一点は、公経の作歌活動が活発となるのは後鳥羽院歌壇始動期であること。もう一点は、休止していた院歌壇が再び活況を呈した建保期にも、公経の参加が確認できることだ。後者のうち最も大きな催しが、建保四年院百首である。
ついで、証本が散逸した当該百首の公経詠を、副文献資料から二〇首集成・検討し、その認定の根拠・過程を詳しく述べた。結果、先行研究によって公経詠と認定された二五種のうち六種を否定し、一首を新たに加えることとなった。
また、『園太暦』貞和二年閏九月六日条の記事に見える、「建保四年水無瀬殿御百首記」という逸書の書名に注目し、当該百首の披講の場は水無瀬であった蓋然性の高いこと、その「記」も作られていたことを指摘した。そこから、従来、成立は「建保四年春」と漠然と言われてきた当該百首の成立過程について再考した。『順徳院百首裏書注』の披講関連記事、建保四年春の院の御幸・動向、『明月記』建保四年正月二八日条、後鳥羽院の当該百首の端作の「二月」という情報等を勘案すると、当該百首の披講月日(ひいては、ひとまずの成立時期)は、二月五日にごく近い某日であったと見なすのが自然だ。
最後に、公経の建保期における後鳥羽院の近臣としての位置づけを確認した。建保四年院百首前後では、建保三年五月に院の逆修に奉仕、建保五年二月には水無瀬山上に院の新御所を造営している。院勘により籠居したのは、その建保五年の十一月のことであった。承久の乱における役割の大きさから院との不仲が強調されがちな公経だが、彼の歌歴は、後鳥羽院近臣として一貫していることを強調した。
◆新古今和歌集成立後の歌壇は様々な問題を内包しており、特に後鳥羽院を中心とした和歌活動は注目される。発表では、建保四年百首に注目した。藤原公経に焦点を絞ったとはいえ、更に多くの面を捉えることで、より具体的にこの百首の特異性を引き出そうとした。百首の披講形式は、興味深い着眼点であったといえる。残存資料の問題は多々あるが、今後は公経の問題を含め、建保期歌壇の特質を探ることが期待される。(スピアーズ・スコット)
◆自らの言葉を処分するも作品それ自体は厳然として存在しているという、きわめてパラドキシカルな事態が、「手紙の処分」という場面においてたしかに生起している。物語から日記へと継続的に存在する問題系を、語り手の存在や書写行為そのものへと連続して捉えるとき、「手紙」とは何ものなのか。『堤中納言』の一編「よしなしごと」に相対するとき、〈書かれたもの〉への根源的な問いに逢着することを指摘された。井上宗雄氏、兼築信行氏、新美哲彦氏、浅田徹氏の質疑を得た。また大野広城本系に書写奥書中に見える「元中二年」が南朝の元号であることへの関心が集まった。※陣野氏はその後「日記文学と物語―自らの言葉を処分する仮名文書・試論」(「國文學」二〇〇六年七月)を発表していることを付言しておく。(横溝 博)
藤原顕綱は歌人として著名であり、同じく歌人であった堀河院乳母の伊予三位兼子、道経、『讃岐典侍日記』作者長子の父である。その家集『顕綱集』は、犬養廉・伊井春樹らによって研究がなされ、顕綱は後三条院ならびにその姉妹である娟子内親王の周辺で和歌活動を行っていたこと、法成寺蔵『万葉集』の書写(俊綱所蔵本を書写)、陽明門院本『古今集』の相伝、『源氏物語』の貸借が『袋草紙』や『顕綱集』本文によって既に指摘されている。本発表では『顕綱集』の構成を整理し、再吟味することによって、顕綱周辺の文学的な状況を分析した。
まず、『顕綱集』八番歌は後三条院の東宮時代に詠まれたものであるが、『宇津保物語』の「内侍のかみ」巻における仲忠とあて宮との贈答場面と近似しており、影響関係がある可能性を指摘した。『万葉集』『古今集』『源氏物語』のみならず、顕綱が他の物語作品の影響を受けていたことも含め、再考察される必要があろう。また、顕綱の交友関係については、顕綱が陽明門院の別当であり、後三条院の子である有佐を猶子にしていたことから、後三条院周辺で活動していたことは先学の指摘するとおりである。本発表では、さらに「一宮女房」を後三条院の妹の高倉一宮祐子内親王女房である可能性を指摘した。これは顕綱も参加していた長治元年五月の「俊忠歌合」に祐子内親王に仕える一宮尾張、紀伊が参加しており、後三条朝から堀河朝にかけての「一宮」とは祐子内親王を指すことを論拠としている。最後に、『顕綱集』四二〜四三番歌は太皇太后宮大弐との贈答歌であり、後三条院の娘である令子内親王周辺の女房との交友関係が窺われ、同一〇四〜一〇五番歌にある「中宮女房」とは、堀河院中宮上総かその周辺の女房であることが考えられる。
以上のように、本発表では顕綱が具体的にどの内親王の周辺で活動していたのか、その和歌活動の場を限定し、物語の享受という側面からも若干の検討を加えた。
◆十一世紀末から十二世紀初頭にかけての時期は、和歌文学史の上で様々な注目すべき事態が起こり、なお研究の余地を残しているようである。特に顕綱はその中にあって、和歌活動を多方面で展開すると同時に、『古今集』や『源氏物語』の書写活動等にも励み、当代において文化人としての存在が決して小さくなかったことは、発表で明かになった。今後は、範囲を絞って、より詳しい考察が望まれる。(スピアーズ・スコット)
◆中国地方の有力大名毛利氏とそのお抱え能役者寅菊、九州南部の大名相良氏と能役者宗像の二例を中心に、中世後期の地方における能楽の様子について、調査よって得られた史料等を基に発表された。後者の相良氏についてはこれまでほとんど活動が知られておらず、九州における能の伝播を知る上で貴重な報告であった。質疑では、中世における九州・中国地方の文化圏について話が及ぶなど活発な意見交換がなされた。(佐藤 和道)