発表要旨

2007年度4月例会(平成19年4月7日)

(1)中学の教科書で取り上げられる人物、平敦盛・忠度・那須与一について(修士課程3年・大津研・勝木 宏)
 現在における平家物語の享受のされ方の一つとして、教育は大きな存在感を示している。そこで戦後の中学国語の教科書を中心として教育における平家物語の歴史を示した。まず教科書の典拠は何であるかをその変化が現れる時代ごとに四つの区分に分けて示した。次に、具体的に教科書における平家物語の歴史をやはりその変化が現れる時代ごとに墨塗り教科書から四つの区分に分けて述べた。その内容はやはり国語の学習指導要領に沿ったものであるが、区分の初めには平家物語を教科書に入れるべきかの可否が考えられており、中でも1952年頃から歴史社会学派によって「叙事詩文学」として平家物語は捉えられることで教科書に入れる必要があると考えられて入れられるようになったこと等を取り上げた。そして区分の中盤以降では入ることが当然となり内容の推敲が考えられていったことを述べて、特に1962年以降大きな変化が起こり、「忠度都落ち」が激減し、代わりに「扇の的」が中心になっていく歴史が存在することを示した。また他にも多くの平家物語の場面が教科書で取り上げられるようになり、戦後すぐには教科書からは失われていた「敦盛最期」が中学校の教科書でも復活することになったこと等を示した。
 また平家物語の別の受容の形態として漫画や映画の話も加えた。特に漫画においては悪書追放運動に関連して55年代に作られた良書漫画と、1980年代以降に多く作られるようになった歴史副読本としての学習漫画の二種類が中心となって、平家物語を題材とした作品は作り出されていったことを示した。そして現在の漫画作品増加の背景には、社会における漫画の評価の上昇による影響の増大があるのであろう。
 最後に平家物語は歴史の一場面を描き出した作品であり、そのため多くの解釈を生みやすい性質を持っている。従ってこれからも様々な関連作品を生み出していき、教科書においても新しい特徴が見つけ出されて載せられていくであろうと考察した。  

◆平家物語の戦後享受史ということで主に教科書の問題を取り上げた。そのため、中学教科書に限定した意味や、研究の方向性について問う声があがった。また、戦後発達したテレビ・映画・紙芝居などの子供を取り巻くメディアについても目配りが必要との指摘があった。広く戦後の社会状況とその変化を押さえ、歴史社会学派の影響や当時の学会の動向なども視野に入れた上で論じるべき問題だろう。教育の問題を扱う以上、戦前までの教材のあり方や、教育論の変遷についても調べておく必要がある。(渡瀬 淳子)

(2)『肖柏問答抄』の成立─松平本『源注』を資料として─(文学学術院非常勤講師・横溝 博)
 大方に説かれるように、『弄花抄』が三条西家源氏学の基礎となる重要な注釈書であることはみとめてよい。が、『細流抄』以下の三条西家源氏学の流れを重視するあまり、『弄花抄』の成立に実隆の関与をみとめようとしすぎているのではなかろうか。伊井春樹氏は『弄花抄』の成立を、永正元年の第一次と、永正七年の第二次に分けて想定するが、問題を複雑にしているようだ。少なくとも永正七年の「源氏抄物」(実隆公記)は、実隆個人の『源氏物語』についての覚え書きくらいに捉えればよく、肖柏の『源氏聞書』とは切り離して考えるべきである。
 『弄花抄』奥書に見るとおり、永正七年六月下旬から同八月下旬にかけて、はじめて『源氏聞書』全巻を書写したのであり、それは書本通りの書写であって、今日見る『弄花抄』は肖柏『源氏聞書』の姿を写し止めていると見てよいであろう。従って「一注」も伊井氏が説くように、『一答』『一勘』とは別体系であったのを実隆がまとめたのではなく、肖柏が『一答』『一勘』を兼良注として「一注」とまとめて表記し、『源氏聞書』において『一答』『一勘』の区別をしたのである。『一葉抄』ともあわせて肖柏『源氏聞書』の存在意義をみとめるべきであり、実隆の『源氏聞書』享受のあり方をもこの際、客観的に捉え直すべきであろう。
 『源氏聞書』『弄花抄』の根本資料ともいうべき『一答』『一勘』は松平本『源注』に収められている。『源注』は『花鳥余情』以降の兼良注を集成した書という趣きであるが、これには後人の手が加わっているようだ。『宗祇小事不審』には『一勘』の注記が加えられているし、また『源氏物語装束抄』は『一答』『一勘』から装束に関する注記を抜き出してまとめたものである。今後は『源注』所載の『肖柏問答抄』(一勘)を復元し、『源氏聞書』にいたる兼良注・宗祇説の集成の過程をたどり直すことで、連歌師たちの源氏学の内実を捉え直す必要がある。その時、『弄花抄』も三条西家源氏学とは別の角度から見据えられることになろう。

◆『源氏物語』の古注釈書『弄花抄』成立に関して、肖柏の『源氏聞書』を入手した実隆がこれを数次にわたり増補して成ったとする通説(伊井春樹氏ほか)が否定され、肖柏自身によって増補された『源氏聞書』を実隆が基本的に忠実に書写していることが論証された。伊井説は島原松平文庫本『源注』の構成等を根拠としていたが、今回、詳細な調査によって『源注』には後人の手がかなり加わっていることが確認された。質疑では、実隆が『源氏聞書』を『弄花抄』と名付けた顕彰の意義、室町時代のさまざまな問答注のありよう、現存する國學院大學蔵『源氏聞書』の原型的性格等々についての指摘があった。(陣野 英則)

2007年度11月例会(平成19年11月10日)

(1)宮内庁書陵部蔵『保元記』について(修士課程2年・日下研・藤田 哲子)
 宮内庁書陵部蔵『保元記』は、昭和三十六年に日本古典文学大系『保元物語 平治物語』解説において「第九類 その他の諸本」として初めて世に紹介されて以来、注目されずにきた本である。本発表では主に該本の依拠本文を検証した。また、阿波国文庫本『保元記』との関係にも言及した。
 該本が宝徳本系統本文を大幅に省略した本文に根津本系統の為朝説話を増補した本であることは、永積安明、犬井善壽両氏によって既に指摘されている。本発表では、宝徳本系統の中でも特に異文を有する陽明本系列本文が該本の依拠本文として想定されることを、本文の比較によって示した。また、同系列本文に根津本系統の為朝説話を増補した本が四本現存するが、該本とは為朝説話本文に相違があるため、該本はこれらの如き一本に依って作られたのではなく、その成立には陽明本系列と根津本系統、二系統(列)の本が関わっていると推測した。
 最後に、該本と阿波国文庫本『保元記』の関係に触れた。阿波国文庫本『保元記』は戦災焼失しているが、同本に関する高橋貞一氏の報告から、書陵部蔵『保元記』に共通する特徴を有していたことが窺われる。今後、書陵部蔵『保元記』という作品の存在を考えていく上で何らかの手がかりとなるであろうことを述べた。※両本の関係について、原水民樹氏「『保元物語』書写・購求・考証・利用の諸相―江戸時代における古典学・古典籍愛好の一齣―」(二〇〇七年十二月「言語文化研究 徳島大学総合科学部」)の中に言及があったことを付言しておく。  

◆標題の作品を正面から扱った初の研究であった。質疑では、現存本の書写年代や伝来が問われ、阿波国文庫本との関係から屋代弘賢周辺で成立した可能性もあるのではとする意見や、「為朝説話」を持たない系統の本に別系統の本から当該説話が補入された同様態の他伝本と、説話の補入位置を比べることによって、先行形態の踏襲という面から成立年代を推しはかれるのではとする意見があった。応答で言及された叙述傾向や乱認識の問題も含め、今後さらなる進展が期待される。(田口 寛)

(2)源実朝の和歌「初学」について(博士後期課程4年・兼築研・スピアーズ・スコット)
 『吾妻鏡』の承元三年(一二〇九)七月五日状に次の記述がみられる。
  丙申。將軍家依御夢想被奉二十首御詠歌於住吉社。内藤右馬允知親〈好士也定家朝臣門弟〉爲御使。以此次、去建永元年御初學之後、御歌
  撰卅首、爲合點、被遣定家朝臣也
 建永元年(元久三年、一二〇六)二月四日に、『吾妻鏡』は将軍実朝が鶴岡八幡宮で行われた祭の後、名越にある義時の山庄へ出かけ、そこで和歌御会が催されたと記録する。先述の「建永元年御初學」とはこの機会のことか、疑問は残るが、この他に同年の和歌関係記述は見当たらない。
 一方、建永元年の前年にあたる元久二年四月十二日に「將軍家、令詠十二首和歌給」とあり、建永元年に実朝が初めて和歌に手掛けたわけではないことは明かである。
 漢籍から「初学」という言葉の意味を探ると、例えば『史記』に「雒陽之人、年少初學。」や『文選』「褚淵碑文并序」(王倹)に「英華外發、神茂初學、業隆弱冠。」のように、若い時に学問に本格的に取り組む時期をいうようである。
 歌書等において、「初心」の言葉はよくみかけるが、「初学」は殆ど見当たらない。定家の「初学百首」が屈指の例だが、実朝同様に、これは定家が初めて詠んだ歌ではないことは確かだ(既に治承二年(一一七八)の別雷社歌合に参加、出詠している)。
 定家と実朝の例から、初学とは歌人としての「初舞台」、或いは「独り立ち」のような意味合いが込められていることが推測できる。
 実朝の歌人としての「初舞台」が建永元年に行われたことも注目してよいのである。二年前の元久元年に坊門信清女を嫁に迎えた。翌二年に正五位下となり、昇進がその後加速していく。ただその間、北条時政と牧の方が実朝を廃し平賀朝雅を新将軍に立てようという謀反が発覚する。しかし、同年八月までにこれが鎮圧され、再び幕府に安定が取り戻された。
 実朝の昇進が続き、将軍としての地位が確立され、鎌倉に平和が戻ったことを背景に、建永元年二月四日の歌会は「文化的な将軍」の出発点というように位置付けることも可能かと思う。

◆「初学」という語に焦点を当て、源実朝の初学期における詠作活動を探った研究発表である。「初学」の意味を知るには、より多くの漢籍等に用例を求める必要はあろうが、一方で、定家周辺においてのみ「初学」の語が使用されていることには注目されよう。質疑でもこの点に注意を喚起する意見が多く、『吾妻鏡』での用例は、建永元年の歌会における詠作を以て定家が実朝を歌人として認定したこと示唆するものではないか、とする指摘等があった。和歌に傾倒していく「初学」期の実朝の姿を通して、幕府周辺における当時の複雑な内情が浮かび上がってくる。今後、さらなる研究の進展が待たれる。(錺 武彦)

(3)近代国家の成立と〈中世文学〉という幻想 ―「資料学」の視座から―(早稲田大学高等研究所助教・藤巻 和宏)
 西洋の学問分類法に基づく官立大学の学科整備、三上参次・高津鍬三郎による「文学史」という枠組みの設定と大作家大作品への注目、そして芳賀矢一によるドイツ文献学の移入=「日本文献学」の提唱。こうした動きを受け、「国文学研究」という営為は、民族アイデンティティの追求を目指す、近代国民国家体制を支えるイデオロギーとして位置付けられた。一方、歴史認識のための時代区分法は、形式的事実に基づくものと時代の本質に立脚したものとがあるが、いずれにせよ統一的な区分は不可能であり、学問の進展や対象領域により多様かつ流動的なものとならざるを得ない。しかし、国文学の上代・中古・中世・近世・近代という五区分法は、「中世」等の言葉を用いるとはいえ、実質、政治史区分を無批判に適用しただけのものであり、種々の観点から時代の本質を追究する史学の方法とは対照的である。
 こうした、きわめて不確定性の強い枠組みの中で大学の学部・学科が編成され、また、科研費等の国家公認の研究システムも、これを基盤として成り立っている。我々は、そうしたシステムに組み込まれていること、フィルターを通してしか対象を捕捉しえないことを強く自覚しなければならない。しかし、その向こうに厳然として存在している研究対象それ自体は自由な存在であり、その事実を客観視できる目で対象を捕捉しつつ研究を進めてゆくことが求められる。
 その時に、どういった研究方法が有効であろうか。私は、学問領域や時代区分を超えたスタンスで対象にアクセスする一つの方法として、「資料学」の可能性に注目している。網野善彦の「史料学」は、人間生活の諸相を文献に限定されない種々の史資料から闡明すべく、史資料そのものに即した研究方法の確立を目指す。それを経由し、近年、諸分野で「資料学」が提唱され、寺院経蔵や公家文庫の調査を基盤とした研究が進められている。私も寺院調査を通じ資料「群」の動態を目の当たりにすることで、作家作品、学問領域、時代区分といった枠組みの無力さを実感するに至った。近代とは明らかに異なる知的体系が、そこから見て取れる。それは、例えば私の当面の課題である「中世南都宗教言説史の構築」を考えるに際しても、非常に有効な視点となるのである。
 

日本文学史の時代区分についてどのような概説がなされてきたか──レジュメはそうした文学史テキスト上の言説を広範囲に渉猟しており充実していた。ぜひ入手されたい。発表そのものは現行の文学史区分に対する異議申し立てであり、いわゆる「資料」学の立場からする幾分アイロニーを含んだ内容であったが、理解できるものであったし、示唆に富んでいたといえるであろう。質疑においては発表者自身の寺院資料研究の立場・「宗教言説史」そのものが問われていた。いずれにしても「文化資源」研究よりする学問領域の変革・再編が藤巻氏によってなされる日は遠くない!?(横溝 博)
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