発表要旨

2007年度春の例会(平成20年11月8日)

(1)『建保内裏詩歌合』考―表現とその基盤―(修士課程二年  新井 敬子)
 順徳院の内裏で催された詩歌合のうちで唯一テキストが伝存する『建保内裏詩歌合』について改めて諸本調査を行い、作者の構成や漢詩句ならびに和歌の表現を検討し、その性格と意義とを考察した。
 伝本は宮内庁書陵部蔵本ほか十六本が知られていたが、近時、堀川貴司氏蔵本の存在を新たに確認しえた。現在までに十五本を調査しているが、室町期以前に遡る古写本は見出されない。諸本には系統分類をすべき大きな差異はなく、すべて同一系統である。なお、『新編国歌大観』本文の五箇所について、校訂しうる可能性を述べた。
 作者は、いわゆる建保期歌壇のそれと完全に一致し、順徳院歌壇のみで活動した初学者が多い。新古今集へ入集したような有力歌人は、藤原定家ほかごく僅かしか見られない。いっぽう詩歌合という性格から、菅原為長や藤原資実ら、儒者が比較的多く含まれている。為長・資実は九条家の詩文の催や、『元久詩歌合』にも参加しており、本詩歌合においても指導的な立場にあったのだろう。
 表現の特色として、和歌には新古今歌壇において詠み出された作との類似が非常に多く見られ、漢詩句には『和漢朗詠集』の語句との類似や、同趣の対句を数多く見出すことができた。漢詩句に用いられた典故の中には、同時に和歌の本説として詠まれた例もある。こうした背景には、初学者がおのずと著名な典拠に拠ったことが考えられる。為長や資実といった一流の作者は、直接『史記』や『漢書』を踏まえていただろうが、披講の席に連なる初学の人々(その頂点には勿論順徳院がいる)にも容易に理解されるように、同時にそれが『和漢朗詠集』にも収載される著名な表現であることが重要だったのではないか。和歌においても、初学者がどのように作例を学び、有力歌人から薫陶を受けていたのかという実態を垣間見ることができる。詩歌合という形態から、詩人・歌人いずれにとっても当時必読の書であった『和漢朗詠集』が、ここでは文学的な共通基盤となったものであろう。
  

◆二〇〇七年度修士論文「詩歌合の研究」に基づく発表。建保期に盛んに行われた詩歌合の研究は少ないため、本発表の意義は大きい。漢詩句の『和漢朗詠集』摂取については、確かにその傾向が強く感じられ、参加者周知の典拠として享受されたという意見にも首肯できる。質疑では、三段階の持の判が存在する点などに新たな関心が寄せられ、歌合と比較した際の特殊性が改めて確認された。鎌倉期における和漢の交流の様相を知るためにも、さらなる研究の進展を期待する。    (錺 武彦)

(2)逸翁本『大江山酒天童子』に見られる源頼光の人物造形(修士課程二年  近藤 晋一)
 酒天童子の物語はひろく享受されてきた室町時代物語の一つである。そのため伝本も数多く存在するが、現存する最古のものは逸翁美術館蔵『大江山酒天童子』(以下、逸翁本と略)である。この逸翁本をその他の伝本と比較した際、逸翁本のみの特徴的な描写に、頼光・酒天童子ともに「眼」の力が強調して描かれているという点がある。
 頼光は鬼達の正体を見極める特別な眼光を有し、その眼光で鬼達を退けるという描写がある。一方で、酒天童子を「眼井、ことから、誠にかしこく」と表す。この場面で他伝本に「眼」の描写はない。また、酒天童子は首を切られた後も頼光を襲おうとする。他伝本では甲に食いついたところで力尽きるが、逸翁本では眼をくじられることで力を失う。このとき頼光は、打ち落とされても力失わない「眼」に見られる事を怖れたのではないだろうか。「見られる」存在になる事は相手への屈服であり、一方で相手を「見る」という行為は、その相手への「霊力的には、恐るべき攻撃となり得た」(堀口育男 1992)という。ならば、互いに特別な「眼」を持つ頼光と酒天童子は、「見る」「見られる」という視線のあり方をめぐって争ったのではないだろうか。
 以上のように逸翁本において源頼光は、一方では特別な視線を用いて相手を屈服させる力を有し、他方で酒天童子の眼をつぶす事で鬼の力を封じるのである。つまり、「眼」(視線)の描写を軸として、頼光と酒天童子はともに強力な「眼」を有する、拮抗した存在として描かれているのである。(堀口育男「説話・儀礼・境界―<眼つぶらぬ首>説話をめぐって―」『国語と国文学』69巻5号1992年5月)
   

◆酒呑童子伝本で最古とされる逸翁美術館蔵「大江山絵詞」が源頼光と酒呑童子双方の眼を強調しており、両者が眼を通じてパラレルな存在として描かれていることを指摘する発表であった。質疑においては逸翁本の「まなこい」という表記が、酒呑童子とは別の本での使用のされ方と比較して、独自性のあるものなのかということに関心が集まった。また同本は絵巻物であることから絵における視覚的な違いが見られるのかということや、今後はどの方向へさらに研究を進めていくのかについて問う指摘も出た。                 (勝木 宏)

(3)南部藩の能(修士課程二年  青柳有利子)
 南部藩の能楽史について考察した。江戸時代前期は、江戸日記『御在府留』(盛岡市中央公民館蔵)から、宝生座出演の寛文七年南部行信叙任祝儀能番組や、将軍家御部屋役者中桐兵三郎(のち新右衛門)が幕府と南部藩の連絡役として重用されていた様子を紹介した。また『南部興補録』(同上)より、四座一流の役者が三日間に亘って出演した天和三年南部重信昇進祝儀能番組、宝生将監重友・宝生九郎友春・中桐新右衛門に合力金を下されていたこと、南部行信が宝生将監重友に入門していたことが分かる記事を示した。
 元禄期の特徴をなしているのが、「地謡の歩行」と呼ばれる職制である。これは御徒組に属しながら藩主の能相手を目的として召抱えられた者たちで、加賀藩における御細工所の兼芸と類似する。天和から元禄にかけて囃子方と地謡を担う約四十名の名前が見出せるが、宝永年間には藩主交代と財政再建に伴って廃止された。
 宝暦年間になると、宝生大夫・宝生新之丞・大蔵弥太夫が南部家へ頻繁に参上するようになる。恐らくこれは、宴席で謡を披露させる等の目的で、平生から合力金を与えられていたためであろう。
 また江戸時代後期で特に注目されるのは、第十三代藩主南部利済を中心に能楽サークルが形成されることである。藩主一門は宝生弥五郎友于に、藩士たちは宝生座地謡方の日吉平兵衛・日吉寿八等に入門をし、多くが大名招請能に出演した。現在、盛岡市中央公民館には、南部利剛が取得した宝生流と葛野流の免状十三通と、嘉永年間の免状相伝記録『能楽書留』が保管されており、当時の栄華を偲ぶことができる。その他、江戸日記中にみえる能番組を紹介しつつ、南部藩能楽史の盛衰を辿った。
    

◆青柳氏の修士論文に基づき、江戸初期から幕末に至る盛岡南部藩における能楽の様相について発表された。中でも定説を遡る〈弱法師〉の上演記録や、南部藩における能のコーディネーター的な役割を果たした中桐新右衛門の存在など、能楽の歴史研究上、興味深い報告がなされた。大量、かつ広範な史料を扱ったため、もう少し内容を絞る必要があるが、多数の新見が提示されており、今後に期待を持たせる有意義な発表となった。                       (佐藤 和道)
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