(2)土御門家素描 ―正治・建仁期の和歌活動― 教育学研究科 博士一年 米田有里
正治・建仁期には後鳥羽院の和歌活動が活発化した時期であり、土御門家もまた当時歌人として既に名のあった通親とその子息、特に二男通具・三男通光らが活動している。当時の土御門家の和歌活動の中心には常に後鳥羽院があり、歌壇成立期ということもあって子息達は後鳥羽院に近侍すること、また和歌の修練を積むことが求められていた。正治頃から土御門家で頻繁に催された『通親亭影供歌合』は後鳥羽院の御幸を仰ぎその機能を果たしていたのと同時に、通具の和歌に関しては修練の成果が見え、また後代への影響も確認することができた。通具はこれに加え『通具俊成卿女五十番歌合』など私的な和歌活動を行い歌を磨き、歌壇への登竜門であった『十首和歌会』を経て歌壇に認められる。一方建仁元年に嫡子となった通光も熊野御幸に同行して後鳥羽院に気に入られ歌壇に参入した。これらの機会を設けたのは後鳥羽院歌壇の成立にも深く関わったと考えられている通親であり、通親はまだ年若い子息達の今後を考え、歌人として成長し、後鳥羽院歌壇に認められるための後押しをしていたと考える。
◆源通親とその子息たちの和歌活動は、詳しく知ることができる資料の量において御子左家のそれに及ばない。しかし後鳥羽院歌壇の形成期において彼らの和歌活動は決して小さくなく、後鳥羽院が院御所などで行った影供歌合も、もとは通親が自邸で開催していたものである。なかでも、実力主義であったこの歌壇において、通光が『十首和歌会』を経ずして『千五百番歌合』に参加を認められていることは興味深い。彼は熊野御幸で院に近侍し、また琵琶の名手であった。後鳥羽院の文化的支配を総合的に考えるために、米田氏は土御門家をとりあげた。
(司会・幾浦裕之氏)
(3)世阿弥における夢幻能完成の意味 文学学術院教授 竹本幹夫氏
世阿弥の発明にかかるとされる複式夢幻能の要件とは、夢中の告げによる神仏の託宣か、神の影向という出物登場を設定するのみならず、前場において出物の化身が登場し、能の構想に関わる物語を曲舞の段で語るという構想を有することにある。登場した化身が一度退場し、本体の霊鬼が再登場したり、舞台上で死んで霊鬼となり再登場する形など、霊的な役柄である「出物(でもの)」の出現についての約束事は、すでに観阿弥時代以前から存在していた。しかしながらこれらの能では、自らの過去を前シテが回想し、その世界を後シテが現出するという構想は備えていなかった。
回想の構想を備えながらも複式夢幻能完成以前の未熟な形態を持つ能に、応永十九年以前成立の〈松風村雨〉がある。また前半がシテによる回想場面ではなく、神徳称揚の語り舞という構成の能に〈鵜羽〉〈箱崎〉があり、これも夢幻能完成以前の実験的な作風と認められる。
これらに対し、複式夢幻能構造の比較的初期の作例に、応永二十一年成立の〈実盛〉や〈難波梅〉があり、ここから夢幻能の成立を応永二十年前後と比定した。
◆発表者は、貞和五年の春日臨時祭の記事を端緒に、世阿弥が夢幻能をいかに完成させたかということを検討した。世阿弥の能楽論を丹念に見ていくことによって、世阿弥が夢幻能を完成させるまでを追い、その卓越した理論や表現力が夢幻能の成立に大きく関わっていたことを明らかにした。場面展開にとどまらず、詞章や物語性にまで敷衍した意義は大きい。「能の構成と詞章が同期している」という言葉が印象的であった。
(司会・柳川響氏)