仏教の安らぎ



1 仏教は先ず自分を知ろうすることから始まる。

 私達は、目、鼻、耳、口、皮膚等の外界のものを感じとる器官を持っていますが、これは、常に他人を見る、他人のことを聞く等の外界を感じて、比較判断することにしか使われていません。他人のことは、美人だとか、醜いとかよく分かりますが、自分の隅々までゆっくり鑑賞したことが有りますか?せっかく化粧する時も、時間に追われ何も考えなかったり、醜さを何とか隠すことで精一杯で、いざ自分のことは、全くわからないのではないでしょうか?
お釈迦様は、先ず自分自身をながめて、私の本当の姿(真実)を求めるようにと教えて行かれたのです。仏教では、私の真実を学ぶ方法として、座禅を組んで静かに考える方法もあります。又人間の真理を語る仏教の教えを聞く(お説教を聴聞)する方法もあります。自分の考えている人間の真理について、周りの人達と語り合い確かなものにしていく方法(ご示談)もあるでしょう。

2 仏教の縁起の教えにより私の存在が私一人ぼっちでなかつたと知らされる

 現代の生物進化論、生命の遺伝子学、社会文化論なども考え合わせ、仏教の縁起を考えると、私の命を作るのに人類すべてが総がかりでかかわってきた事実が見えてきます。今生きている命も色々の命(縁)に支えられて生きてることが見えてきます。例えば、きのう食べた魚、さっき踏み潰したアリも、仏教では、すべて平等の生きるための権利を持っています、自分が怪我をすれば大騒ぎしますが、魚やありの命を奪ったことに気もつかない私達です。しかし仏の教えは、あらゆるものが平等の世界でお互いに敬う世界です。私は、一人でなく、私の周りは、多くの私を敬っているものに取り囲まれた世界でもあります。しかし私の煩悩の眼がねによりこれが、有る時は、憎しみの世界にもなり、さげすみの世界になったり、恨みの世界になったりします。しかしよくよく聴聞(仏法を聞く)して下さい、私が一人出なく、大勢の方々に生かされていることに気がつくことでしょう。

3 私達は、時空を越えた無限の宇宙に飛び出せます

 仏典では、この世は、煩悩から逃れがたく、また誰しもが避けることが出来ない老、病、死が迫り安住の世界がなく、苦を耐え忍ぶ世界(忍土、娑婆の意味)との冷静な見方をしています。それがゆえに命が永遠で、煩悩がなく、すべてが他のために尽くしきれる(慈悲・利他心)仏になる(悟りを開く)ことを勧め又その方法を説いたのが仏教でせす。仏の世界は、時空を超えた宇宙ともいえます。仏教では、宇宙に飛び出し仏の国で一切の苦から永遠に解放されて、人間世界では考えられない安らぎが得られるのです。しかし、仏の浄土は、一つでなく無数にあるそうですから、どこへでもというわけに行きませんので、よくよく聴聞して、信心をしつかりしなければなりません。例えば、阿弥陀仏の西方、極楽浄土。毘盧舎那仏の極楽中央の蓮華蔵世界。大日如来の宇宙中央の蜜厳浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土などが仏典に出てきます、これらの浄土に行くナビも、飛行機も有りませんので、皆様も迷わないように願います。

4 私は、仏の子、いつも多くの仏様に守られ、心円か(マドカ)に過ごせます。

 仏法にふれると、広大無辺の中にいる、小さな小さな自分が、あれに拘り、これに拘り片意地を張りながら生きている自分に少しづつぼんやりと気がついて行くでしょう。そして、こんなちっぽけでも、一生懸命もがき苦しんでいる私のそばにじっと離れず見守って応援して下さる仏がいることに気がつかれるでしょう。ああそうであった苦しい時も、悲しい時も私一人でなく慈父母となり、私に寄り添ってくださる仏様と一緒であったのだ、苦しみは、仏に任せて、私は、出来る限りを尽くしきろうとの思いも出るでしょう。即ち真の仏教徒は、角たらけの心が、円(マドカ)になり、日頃より安らぎの生活がおくることができるでしょう。



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