親鸞聖人の生涯

親鸞聖人

 浄土真宗の開祖親鸞聖人は、自分で一つの宗旨を開こうという思いがなく、その生涯は、如来の本願を信じ、そのお慈悲に生きる一人の行者として、又恩師源空(法然)上人を慈父母と慕い、その弟子として、始終されました。「本師源空現れて浄土真宗開きつつ」と和讃にうたわれています。浄土真宗の意味は、よき師法然から承った浄土の真実の教えをあらわしたものです。親鸞聖人は、真宗の正しいみ教えを伝えてきた7人の高僧方の教えをそのまま伝えるのであるから「なにを教えて弟子というべきぞや、みな如来のおん弟子なれば、みなともに同行なり」と仰せられ、「親鸞は、弟子一人ももたずそうろう」と言い切られました。このような執われのない謙虚な人柄がらは、多くの人々の信望と尊敬を集め、現在、その教えは、浄土真宗という一大宗教集団になっています。又法然上人の教えは、浄土宗という宗教集団になっています。親鸞聖人にふれて頂くため、その生涯を簡単にまとめました。

1 誕生

聖人は、1173年京都の東南にある日野の里に父日野有範、母吉光女の子として生まれ、幼名を松若丸とよばれていました。日野家は、公家の家系でしたが、当時は、藤原家、平家、源家が権力争いをして、貴族政治から武家政治に変わる激動の時代でした。公家の流れを引く日野家も斜陽の現実の中で父をはじめ兄弟すべてが出家をしなければならないという、悲しい幼年時代でした。

2 出家と求道

いよいよ平家と源氏と戦いが始まり日野家も、悲況に追いこまれていく中で、1181年聖人9歳の時、京都東山の青蓮院で得度(出家)の式を受け、出家され、名前を範宴(はんねん)と改められました。得度が翌日にのばされようとした時、「明日ありと思う心のあだざくら、夜半に嵐の吹かぬものかは」といううたを詠まれ、出家をされ、比叡山に、登っていかれました。聖人は、比叡山で堂僧として、ひたすら仏のさとりを求めて、夜を徹して経典を読み、血のにじむような修行に専念されました。聖人は、どれだけ修行に励んでも清らかさも、まことも、持ち続けることができず、あさましい自分ばかりが目立つばかりでした。自力の行を励んで、仏の悟りを得る聖道門の教えに次第に疑問を持ちました。その時比叡山の横川で源信僧都が浄土教の教えを説いておられたので、聖人は、横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で堂僧として念仏の修行に入られました。これは、道場にこもり、身は、阿弥陀仏の像のまわりをめぐり、口は、常に阿弥陀仏のみ名を称え、心は常に阿弥陀仏を念じることによって、阿弥陀仏とひとつに融け合って三昧(悟り)の境地に至ることが出来るという教えです。しかし、聖人は、どれほど一心不乱に念仏を称えても、救われる喜びの心をもつことができなかったのです。聖人の心は、苦悩の闇につつまれ、悩まれ、ついに29才の時に山を降りられ法然上人を訪れられました。

3 法然上人の門で念仏に帰入

京都の吉水の草庵に源空(法然)上人がいて「弥陀の本願(南無阿弥陀仏)は、もとより凡夫を救うためにおこされたものであるから、信じて、み名を称えるばかりである」と親鸞聖人に教えられました。この念仏の教えを大きな感動をもって受け止められ、「源空上人の行かれるところならば、それがたとえ地獄であろうとも、私は喜んでついていく」とまで言いきられ、親鸞聖人が法然上人の念仏の道に入られたのは、29才のときでした。源空上人の教えは、「末法の世の人間は、智慧も力も劣っているから、どれほど修行にはげもうとも、思いつかず、雑念がまじり、行が断ち切れて、自分の力では、さとりきれるものではない。そこで、救いのてだての一切をすでに用意して、この自分を求めてくださる阿弥陀如来の本願の心を聞かせて頂き、その救いを信じて生きることである。この道こそが、力づよい如来の願力だから、迷いに沈み罪にけがれている身であっても、きっと生死を離れて、悟りに至らしめるただひとつの道である」と説かれた。聖人は、源空上人の門下に入り名を綽空(しゃくくう)とあらためられ、33歳のとき源空上人の「選択本願念仏集」の写本が許され、現空上人の信望も厚くこのときに名前を善信と改められました。

4法難・流罪

源空上人の念仏の教えが、盛んになると、その時の仏教を支配していた延暦寺、興福寺などから弾圧を受け、専修念仏を禁止する要望が出てきた。1206年法然の門弟が開催した念仏集会に関して、院の女官をめぐる風評が立ち、それが後鳥羽院の逆鱗にふれ、ついに1207年に専修念仏が禁止され、関係した門下生は、死罪となり、法然上人(75歳)は、藤井元彦と還俗させられ、土佐に、また35歳の親鸞聖人は、藤井善信と還俗し、越後の国府に流罪になり、地獄を共にとまで誓われた恩師と東西に別れられ、その後、再会することは、出来ませんでした。

5結婚・越後での布教

聖人は、越後では、愚禿(ぐとく)と名乗られ、僻地の民衆に如来の本願を伝える良縁として、念仏の教えの布教に励まれた。そして聖人39才のとき越後の豪族三善為教の息女、恵信尼様と結婚されました。恵信尼様は、聖人を心の中で観音菩薩の化身であると敬い、お仕えされたそうであります。

6関東の布教

流罪から5年で罪が赦され、聖人42歳の時関東の常陸の国に移られ、みじめな状態におかれている民衆の心に信心の灯をともし、民衆を苦悩から解放されたのでした。聖人は、生涯、寺を立てず、縁で集まる人々をおん同朋、おん同行と呼びかけ、あるときは、道端のお堂で、又あるときは民家の炉ばたで、ひざを交えて語り、自分の苦悩を自覚させ、問題を見つめる意識をよびさまし、心の底に如来の大悲が浸み透っていく教化をされました。このため関東では、70人前後の門弟を中心に、念仏者の同行は、10万人をこえたと言われています。親鸞聖人52歳の時、常陸の稲田で浄土真宗の根本聖典になる「教行信証」6巻を著わされました。

7帰洛と往生

聖人が62才の時に京都に戻られました。念仏に対する迫害、弾圧が厳しく、聖人は、ひたすら浄土真宗の教えを後の世の人に伝えるため、教行信証を手直しされたり、「浄土和讃」「高僧和讃」「尊号真像銘文」「一念多念文意」「正像末和讃」「末灯鈔」「御消息集」等の書物を執筆され、今日聖人の教え頂く人々の礎を作られました。聖人は、1262年、末娘覚信尼、三男益方入道他門弟に見守られて念仏のうちに静かに90才の生涯を終わられました

 



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