親鸞聖人の教え
    による安らぎ




 仏教の目的は、安らぎを妨げる人間の根本的苦悩を解決することにあります。即ち、老化による悩み、病気による悩み、死に対する不安、生きていくための欲望やさまざまの悩み等を解決し、人間の真実を求めて生き生きとこの世を送り、現世が終われば来世の素晴らしい世界も見通せるところに有ります。そこで親鸞聖人の教えをどのようにして頂き安らぎの生活に入れるのか少しお話します。

法然上人

1 私の真実の姿を求める

私は、毎日毎日、無数の欲望を持ち、嘆いたり、喜んだり、悲しんだりしています。そして、この一喜一憂している私の心や肉体自身も刻々変わっています。私自身が刻々変わっているにもかかわらず常に自分が正しく変わらないものとして判断して、怒りや、葛藤、不安の中に自分を陥れて安らぎを壊しています。これらを仏教では、煩悩が不安の原因と釈尊は、説いていかれました。多くの仏教で、戒律や修行により煩悩を取り除く方法を説いてきましたが、親鸞聖人は、90年の生涯を掛けて説いてこられたのは、人間生きている限り煩悩から逃れきれない身であると説かれました。だから仕方がないとは、申されません。そう言う自分をよくよく眺めて自分の真実の姿を求めよと説いて行かれました。真実を求めるということは、法(お経)を心より聞くことであると教えて行かれました。親鸞聖人の教えは、「私は、煩悩だらけの凡夫であります。」との自覚から始まります。これを妙好人の源左同行は、「悪い心は、地金、良い心は、(如来からの)借り物」と常に言われたとのことです。弟子一人も持たないと宣言された親鸞聖人の教えを、850年越えても多くのひとが求めるのは、まず「私も凡夫である」との自覚と慙愧の心が聖人の心と共鳴するからと思います。現代の人間社会の発展、進化は、人間の煩悩にもとずく競争、葛藤、努力がなければ存在しません。聖人は、これを認め、この煩悩と安らかに同居することをとかれたのです。


2 私のルーツを考え、一人ぼっちでなかったと気がつく世界

私のルーツを考えると親から細胞を頂いてきて、親に無数の手間をかけて生まれてきました。私の親も、その又親も同様に大勢の人の世話になり生きてきたはずです。即ち私には、人類始まって以来の過去世がずっと関わってきて今日有ります。この辺の実感は、子供を育てた親なら色々の苦労を味をっていらっしゃるので少々分かるでしょう、この苦労のお陰様が私のからだには、50万年分は、詰まっています。これは、文化論では、進化とか遺伝子論で言われますが、仏教では、過去世の業を持つと申し、現代科学と共通する面もありそうです。又現在私がいくら大金持ちでも、無人島で一人で生きようとしても大変です。現在私は、色々目に見えない無数の人の支援によって生きています。このように、私は、一人ぼっちで自分だけ苦しんでいると思ってしまいがちですが、仏法の世界は、周りが見えてきて、私の為に色々して下さるお蔭様が見える世界で、一人ぼっちでなかったと知らされる世界で、素直に有難うが言える世界です。一人ぼっちの不安が、和らぐ世界です。

3 如来(親様)にお任せの安心の世界

誰に相談することもなく一人で煩悩にもがき苦しみながら生活している私を、常に「苦しかろう助けるぞ助けるぞ」と見守ってくださる阿弥陀如来という仏の教えを「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」や7人の高僧方々の教えにより親鸞聖人は、お気ずきになり、90年の生涯を掛けて、この如来の衆生を必ず救うと言う願いをそのまま疑う心なく素直に頂くことが、衆生が救われる道であると説いて行かれました。即ち聖人の教えは、我執だらけの私を、そのまま引き受け、この世が終わったら、極楽で仏にまでするぞと私を励まして下さる仏が、常に私のそばにいらっしゃると教えておられますので、この私には、常に仏と共に大安心の世界が開けてくるでしょう。仏との会話は、苦しい時も「南無阿弥陀仏」「楽しい時も「南無阿弥陀仏」と会話してください。親鸞聖人の生涯は、肉体の人生は、波瀾に満ちていましたが、心は、常に仏に見守られながらの大安心の生涯だったといえます。浄土真宗では、如来様の願心を心より疑いなく信じることを安心(あんじん)と申します。これは、親様(如来)から、親様を頼り切れる安心の心頂くからこのような言葉があるとも部屋主は、考えています。信心の世界は、あなたを一人ぼっちにせず、親様と共に生かさせて頂き、周りに対してお蔭様の気持ちが広がり、私も出来る限りのご恩報謝をしたいとの活動の世界が広がり、不安の和らいだ、円か(まどか)な世界がひろがるでしょう。




ホーム