脇_英世『日本語ワード・プロセッサー入門』講談社(ブルーバックス), 1982/09/20_第1刷発行.



p30-p33.

  ドキュメンテーション(文書化)



  1ドル200円レートがしばらく続いた円高のころ, 私は外国製の計測器をたくさん買った. たくさんといっても, 貧乏な私のことだから, たかが知れている. しかし, 夢にまで見た外国製のピカピカの計測器が, 国産の計測器より安く買えるという, 信じられないような幸福がしばらく続いたのである.

  製品の到着とともに厚いバインダーにとじこまれたマニュアルが到着し, 読めば読むほど私は感心してしまった. あらゆることがらが細大もらさず記述されている. 極端をいえば, 使用されている抵抗の1本1本にまで部品番号がつけられ, 製造業者と規格が明記され, あらゆる回路図と動作原理と使用法が示されている. 悪魔的な感じさえする合理主義精神と徹底性である. 日本ではこういうことは絶対にありえないのである.

  そのころ, 私の研究室をたずねて若い青年がやってきた. 私の大学は2部を持っているのでいろいろな会社のエンジニアたちが, 学卒の資格をとるためにやってくることが多い. 彼もその1人であった. その彼が, 開口いちばん, 「インテルの昨年のマニュアルを持ってきたのですが, お使いになりませんか」というのである.

  私はデータの収集にはマニアックなところがあるので, 喜んでもらってしまった. するとその翌週, 彼はまたマニュアルとデータを持ってきてくれた. そういうことが何年も続いて, 私の部屋はインテル社のマニュアルと, データシートでいっぱいになってしまった. 最初のうちは, いつか役に立つだろうとしか考えなかったのであるが, 暇なときに眼を通して行くうちに, これは途方もないものであるということがわかってきた.

  ともかく圧倒的な文書量で, 非常に克明なのである. 秋葉原の店先に1000円くらいで売っているICに対してさえも, 懇切な説明が展開される. それまで, 雑誌や日本製のカタログ・ブックでは, どうしてもわからなかったようなことがらが, くわしく書かれているのである.

  私がとくに感心したのは, 教育用のマニュアルで, ちょっとやそっとでは読み切れないほど徹底的に説明されている. 世間では「教育のインテル」というのだそうだが, マイクロ・プロセッサーよりもドキュメントを売るのではないかと思ったほどである.

  日本では, こういうことはほとんどない. 国産のICを買っても, 1, 2ページのペラペラのデータ・シートしかついてこない.

  こうした経験を通して, 私はドキュメンテーション(文書化)の必要性を痛切に感ずるようになった. むろん, 米国でそれほどの徹底した文書化が必要になるという裏の事情もわからないわけではない. しかし, すぐれたことはすぐれているのである. すぐれた点は謙虚に学んで吸収しなければならない.

  日本では, なぜドキュメンテーションが普及しないのだろうか. それはやはりタイプライターのあるなしだと思う. 日本では文書化するということはたいへんな困難をともなう.

  作業をしながら文書をまとめることは, できないことではない. しかし, 手書きの文書は信頼性や流通性の問題から, どうしても正式の文書とはなりにくい. 半ペラの紙に書きなぐったのや, 読めない字で書かれたものは文書とはなり得ないのである. といって, これを印刷に出すと, また別種の問題が発生する.

  内容のわからない人に印刷させると, まちがいが多発するのである. ゼロ0をオーOのまちがいなど, たいしたまちがいではないようだが, 1字でもちがうとコンピュータは動かないのである. もとの原稿が完全原稿であれば, そういうことも防げるが, 完全原稿を出す人は, ほとんどいないだろう. そこで, 印刷してもしなくても同じだなどという意見が横行することになる. これは, じつに嘆かわしいことである.

  ところが, 日本語ワープロが普及してくると, 文書化ということが強く叫ばれるようになってくるだろう. 何をどういう風にどうやって文書化するか, こうした経験は, われわれにはあまりない. しかし, 今後, 文書化の問題はあらゆる分野において考えられなければならない.

  後章において, ドキュメンテーションについては, とくに重点を置いて考えてみよう.



////


p157-p158.



  要求される文章化能力

  さて, 個人の書斎に日本語ワープロが鎮座しても. 書く中身がなくては何にもならない. ワープロの前でウーンウーン唸って, 文章が思い浮かばないというのは, こっけいを通り越して悲惨でさえすらある.

  そこで, 文章化能力についての問題が発生する. この本をお読みいただけるような読者は, 個人の知的生活について, 深い関心をお持ちの方が多いと思われるので, 書く中身はたくさんあっても, それを打つべき日本語ワープロがない場合が多いだろう. しかし, 一般の人は文章化することにはかなりの苦痛を感じるものらしい.

  あまり, 固くなる必要はないから, 普段から文章を書くことを習慣にしておくとよいのではないだろうか. 名文家である必要はないし, 他人が読んでわかりやすい文章を書くことがたいせつなのである.

  学生たちを見ていると, 文化の質が変化していることは事実である.

  四角い漢字がびっしりと詰まった岩波文庫よりも, ひらがなと空白の多い文庫本を好み, 思想性よりもフィーリングをたいせつにする. 戯作の1種であったマンガが完全な市民権を持ち, 『朝日ジャーナル』の代わりに週刊マンガを小脇に抱えている. 手紙はあまり書くことがなく, もっぱら電話に頼る. 会話による自己表現は巧みだが, 文章で表現することは不得手のようだ.

  ゼミなどで, 本を読ませると, 漢字が読めない. レポートを書かせると誤字・脱字とひらがなが目立つ.

  70年代の歴史的試練において知性主義・教養主義の無力さが目立ったことによる反動もあるだろうし, 中流意識の普及による享楽主義の普及もあるだろう. しかし, 最大の原因は時代がせわしい, あきやすい時代になっていることにあるだろう.

  けれど, 口頭だけで話がすむわけではない. どのような時代になろうと, 文書化能力は絶対に必要なのだ. 毎日, 少しずつ自分の文脈で文章を書く(あるいは日本語ワープロで打つ)練習をしておくとよいのではないだろうか.




////

p171-p173.


  相互のコミュニケーションのために


  電子工学において文書を作るということは, とくにたいせつなことがらである. マイコンを作ろうとしても, 1人だけでは大したものはできない. どうしても共同作業が必要となるのである. そこで, お互いの共通の理解を確立するために信頼性の高い文書を作ることが必要となる.

  腕のいい職人芸的な技術者は図面1枚で(あるいは図面なしに)いともやすやすと機械を組み上げてしまう. ところが, そういうものは後がたいへんだ. 本人ですら, どう作ったかを忘れてしまうのだから, 他人には知るよしもない. これでは, まったく困ってしまう.

  そこで, キチンとした文書作りが絶対に必要となる. 私にとっては職人芸的な技術を持つ学生よりは, 図面通りにきちんとハンダ付けをする学生の方が貴重である. そして, 流通性の高い文書を残してくれる学生はもっと貴重なのである.

  マイコンのソフトウェア作りにおいては, 流通性の高い作業文書を作ることはもっとたいせつである. プログラムをコーディングすることよりも, プログラムを設計する方がより知的な作業であることは説明を必要としないだろう.

  プログラム設計の段階で, わかりやすい文書を作ることはたいせつなことである. 少し長い入り組んだプログラムともなると, 文書なしに理解することは不可能である. 文書化(ドキュメンテーション)技術はマイコンのソフトウェア作りには必須であって, これだけを扱った論文や参考書もあるくらいである.

  共同研究や共同作業の必要性が日毎に増加しているのは, マイコンの世界だけではない. 人文系の社会科学や経済学あるいは文学の分野でも共同研究の必要性が高まっている.

  共同研究は, 人数だけを集めればよいというのではない. お互いのコミュニケーションがうまく行かないと, 集めた人数そのものが作業の障害になってしまう.

  逆の場合も同様で, 多数の場所に人間が分散して作業をする場合, 相互のコミュニケーションがないと, 人数が多く存在しようとしまいと, 1人でやることと同じになってしまう.

  量の変化が質の変化を生まないのである. ただ単に, 人間を集めるだけではだめで, たがいのコミュニケーションを円滑にしなければならない. そのためには, 正確でわかりやすい文書を流通させなければならない.

  これはやさしそうでいて, なかなかむずかしい問題なのである. ふつう研究室で学生のやり方を見ていると, そこらへんに落ちている紙の切れっ端に, じつにさまざまな書式で書いている. 縦書きがあれば, 横書きがある. 必要なことがらだけ書く学生もあれば, 克明な学生もいる. ほとんどの場合, コミュニケーションがうまくできないのである.

  これは1つには文書の標準化ができていないことに原因がある. もう1つ, 案外見落とされがちなことがらに, 悪筆の問題がある. 共通文書の中で字体がちがうだけでも嫌な感じがするものである. 多様性といえば聞こえがよいが, 1貫性がなく散漫な感じさえ与える.

  日本語ワープロを使えば, このような問題は相当解決されるのではないかと思う. しかし, 断っておくが, 日本語ワープロがありさえすれば問題が解決するわけではない. 意欲のない人々には何を与えてもむだである.

  また, 創意と工夫に富んだ人たちは, 日本語ワープロなどなくとも, コミュニケーションをうまく行っている. このへんはよく心に止めておくべきだと思う.








////


脇_英世『日本語ワード・プロセッサー入門』講談社(ブルーバックス), 1982/09/20_第1刷発行, p138-p145.


  標準文例集の必要性


  日本語ワープロが普及してくると, すぐ必要になってくるのが標準文例集である. 散文的な文章には標準文例というものはありえない. ここでは芸術的な文書の話をしているのではなく, 日常的な知的生活のための文章の話をしているのである.

  日常的な文書の中には定型を持つ文書がたくさんある. とくに他人にあてた文書に定型が多い. 定型というより作法というものだろう. ラブ・レターのように自己主張を主としたものはできる限り斬新で奇抜なものが好まれ, 作法を無視したものが製造される傾向にあるが, 通常の文書では, 作法を無視するわけには行かない.

  定型文書にはいろいろな分類がある. 少し考えてみても大分類として法律文書, 社内文書, 取引き文書, 儀礼文書の4通りが考えられる.

  私は標準文例集というのを使ったことがあるが, 標準文例が1000もあるので, 驚いてしまった. われわれの日常生活に関係が多いのは儀礼文書と思いがちだが, 案外そうでもない. 最近は電話の発達で, 儀礼的なことがらは文書によらず, 電話ですませてしまうことが多いからだ.

  私にとって役に立ちそうだったのは, 記録性を重視する法律文書とか, 取引き文書であった. これは意外でおもしろかった.

  儀礼文書というのは手紙であることが多い. これに関しては, 梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』にある通り, 日本人の手紙は外国人の手紙に比較して, 日付, 宛名, 本文, 署名などのレイアウトにまったく定型化がなされていないし, 用紙も一定でない. 形式に関する限り, メチャクチャである.

  これは私自身にしても同じことで, まったくというくらい, 手紙を書かない私も, ときどきどうしても手紙を書かねばならないときは往生する. いつも梅棹先生の御指摘を思い浮かべては, あれもファウル, これもファウルだと苦笑する.

  だが, 定型とか作法とか堅苦しいことをいわずとも, 日付と宛先と発信人だけは手紙の本文には書いておいた方がよい. 封筒には書いてはあっても, 保存する場合には本文だけを残す場合があるからだ.

  これに関して, 私はじつに数奇な体験をしたことがある.

  ある会社から, アンケート依頼の手紙をもらった. 日本語ワープロで打ってあるのだが, 奇妙なことに日付と発信人が記されていなかった. 封筒に社名は入っているのだが, これでは, どこのセクションが発送しているのかがわからないと思った.

  さらにおかしなことに, アンケート用紙にこちらの名前と住所を書く欄がないのに, アンケートに応募すればマニュアルをお送りするという. 私は首をひねってしまった.

  2, 3日してから, また同じ会社から同じ製品に関するアンケートがきた. しつこいとは思ったのだが, コンピュータに入力された人名リストなどは, 相当好い加減なもので同じパンフレットが何部も送られてくるのはザラなので気にもとめず, 再び記入して投函した. 忌憚のない意見が欲しいというので, 私はきわめて率直に意見を述べた.

  これが大騒動の始まりになろうとは, 神ならぬ身の私には知るよしもなかった.

  アンケート依頼書には, アンケート到着後1ヵ月以内に全員に製品のマニュアルを送ると書いてあったのだが, 待てど暮らせどやってこない. 紙1枚に書き込んだだけで, マニュアルを早くよこせというのも大人気ないと思っていたのだが, そのうち, 3ヵ月が過ぎてしまった.

  ある日, 私に電話がかかってきて, アンケート結果についてお尋ねしたいという. 3ヵ月もたって問い合わせてくるのだから, アンケート用紙はグルグルとたらい回しになった挙句, しかし幸い途中で消失することもなく偉い人の手許にわたったのである.

  相手の質問は相当真剣かつ厳しいもので, 詰問ともとれるものだった. この場合, 私はその会社とは毎年取引きがあって, かなりの実績をあげていることと, マニュアルを送るといっておきながら, なぜ約束を守らないのかという考えがあったので, やりとりはかなりはげしいものとなった.

  1時間ほど電話で話しているうちにお互いに変だと思いはじめた. 話がまったく噛み合わないのである.

  後から判明したことだが, その会社の2つのセクションが別々に, 同じ製品に対するアンケートを発送していたのである. その会社の重役から, 「それでは, あなたのおっしゃるアンケート依頼書を見せてください」といわれたときには, 言葉につまった.

  ほしいと思ってもらった書類ではないので, 保存してあるかどうかわからなかったのだ. 調査を約束したが自信はまったくなかった. ところが, まことに不思議なことに当の書類が保存されていたので, たいへん助かった. この書類には発信人と発信月日がなく, 非常に不親切なものだが, ともかくあったので反撃に転じられた.

  この事件を考えてみると, 文書には発信人と宛先と発信月日は必ず入れておくるのが礼儀だと思う. そういう基本的な事柄が欠落していたのは, 標準文例集によらず, 秘書がオペレーターになって, 頭の中で組み上げた文章をササッとタイプして送るからいけないのである.

  文例集を見れば, 必要な事項はキチンと書いてあるのだから, 失敗は少ないはずである. 標準文例集を模範とすることは, 便利なことである. 装飾の多い文章や, 衒学的な文章が実用文の規範ではない. 必要なことがもれなく書かれていることがよい標準文例なのである.

  標準文例集は, 本の形でなく, フロッピー・ディスクで支給されるべきである. 打ち込みの手間が違う.

  さて. 少々脱線となるが, この事例は個人レベルの知的生産でなく, オフィス・オートメーション(OAと略称)もおける, 日本語ワープロ・シンドローム(日本語ワープロ症候群)と呼ぶべき新種の公害の発生を示唆している.

  米国のスタンフォード大学のリサーチ・インスティチュートという機関は, 米国式OAの権威として有名である. SRIといった方が通りがよいかも知れない.

  ここの研究員のアラン・パーチェスという人の講演を聞いたことがある. 私はよほどのことがないと, 講演会というのは退屈してしまうので出ないのだが, テレビの取材のレポーターとなったので, やむなく2時間つきあったのである.

  米国式のOAは, 文字文化がまったく異なる日本には, あまり参考にならないというのが率直な感想であった. これは, 日本語ワープロに対して米系企業のIBM, DEC, ヒューレット・パッカード社などが消極的なこととも通ずる.

  しかし, まったく参考にならなかったわけではない. その中でおもしろかったのは, ワープロを導入してOAを実行すると事務効率が悪くなるという話である.

  A・パーチェス自身はコピー・シンドロームという言葉を使い, ワープロ・シンドロームとはいわなかったが, ワープロが導入されると, 事務職が急にはりきってアンケートだの書類だのを濫造しはじめて, みなが迷惑するというのである. いくらでも書類は作ることができるので, やたらにダイレクト・メールや社内文書を作る. 米国では, みなが迷惑しているというのだ.

  私はこれを聞いて, じつにもっともだと感心した. 私がおそれ, かつ心配するのは, QCと呼ばれる宗教的生産性運動が日本語ワープロと結合した場合である.

  私はすでに被害者となり, 迷惑した. 知り合いのセールス・エンジニアに, どうして同じ社の2つのセクションが同一の製品について別々のアンケートを出すのか, ユーザーは迷惑だといったところ,

「ここのところ, 上層部はQC大はやりで, やたらにアンケートなんですよ.すみません」

  という答えが返ってきた. 生産性運動とか, 合理化運動は, 内部努力としてなすべきことで, 外部の人間まで巻き込まれるのではかなわない.

  ともあれ, 日本語ワープロ・シンドロームの恐怖の日はますます近よっているのである.