川喜田_二郎『ひろばの創造』中央公論社(中公新書), 1977/05/25_発行, p162-p165.
自然は創造性を育てる貴族である
キャンパスはなるべく野性的な自然に囲まれたところにもつのがよいと思う. いまではほとんどの人が人工に取り囲まれた大都市のなかでくらしている.
こうして小さいときから人工物の環境ばかりで育った人間は欠陥があるように思う. 人工物のほとんどは人間の浅はかな知恵による作りものにすぎない.
そのために幼い魂は, 「この世は魂胆と策略で成り立っている技巧的な世界である」という悪悟りした人生観, 世界観をきずきあげてしまうだろう. したがって大きくなっても, 人の足を引っ張ったり, 技巧を使って世の中を渡ろうとするのではあるまいか. それが賢明な生き方だという人生観を,
若い時期に身体に浸みこませてしまうようだ.
それに比べると小さいときに田舎や自然のなかで育ったら, ぜんぜん違ってくると思う. なぜなら自然のなかにはみえすいた技巧はないからである.
こういう自然とつきあうことによって, 人間には気品ある自然さが生まれるのだと思う. 自然は貴族なのである. また自然は不定形である. そのためにかえって自分の創造的な能力を自然のなかに刻印する余地が多いのだ.
プラモデルばかりいじくって育ったのとは違う人間が育つのである. 島崎藤村は木曽谷で育ったけれども, 彼の小さいころのおもちゃは麦畑の麦の穂とか,
雑草, 木のはしくれであって, それらで夢中になって遊んだという. だから藤村は, 「おもちゃは野にも畑にも」という文章を書いている. 不定形の自然,
縫い目のない自然, 巧みのない自然から, 子供がなにかを探してきて, そこからおもちゃを発見し笹舟などを作る. そのなかで, 人間の大事な創造性が培われるのだと思う.
こういうことを, 私は移動大学を何回やってもやはり感ずるのである.
もうひとつは「自然はうそをつかない」ということである. 一人で山に行った場合でも, 自分が不注意で大事なマッチを湿らせてしまったら火はつけられない.
自分が注意し, 用意が十分であれば, 自然は正直に微笑んで報いてくれる. 逆に自分が不用意だと, 厳しくその不用意をとがめられる. 相手が人間でないから,
こちらは恨むわけにはいかない. その結果, 自分の我がとおらないことを悟るのである.
自然のなかを登山などで歩いており, その経験を若いときからやっていると, 「この世界はちゃんとした素直な道理があるのだ」という感覚が自然にできあがる.
その素直な道理に背いたら, われわれ人間はひどい目に会う. 逆に素直な道理にしたがっていれば, すべてがうまくゆく. このような経験をしている人は,
ついには「この広い世界のなかには, まともな筋, 正しい道があるのだ」という感覚をもつのではないか. これが人間の基本で有り, その倫理性は自然のなかで育ったときに素直に実感として身につくのだと思う.
曲がったことは好まないという, ストレートな素朴な人間ができる傾向がある.
そういう面ばかりもっていたら, 騙(=だま)し合いの世の中に出たときに, ずいぶん人に欺かれてひどい目にあうこともあるだろう.
しかしながら, たとえそうであっても, 人生全体の真の幸福からみた場合, 「世の中は, 素直な道理を基本にもっていると思う」人と, 「そんなものはありはしない」という悪悟りをもった人間とでは, 一生の幸せは天と地の相違なのだ. これほど重要なことがあろうか. 「なぜもの好きにテントを張って,
自然のなかでキャンパスを作るのか」という質問に対する答えは, これまでの十数回の経験から, 以上のようにいえるのである.
初めて移動大学を開いたとき, ある人びとは次のように批判した. いまの世の中には大きな矛盾がある. その矛盾は, たとえば不幸な大都市のスラム街に見られるではないか.
また都市の群衆の中にあるではないか. ほんとうにその矛盾と正面から闘う気なら, 新宿駅の西口でテントを張るのが本物ではないか. それなのに,
田舎に逃げて林と水のきれいな自然のなかにテントを張るのは一種の逃避である, と.
これは, うがったようで大きな錯覚である. 昔からの言い伝えでは, 質屋の小僧は, はじめて奉公したとき, 主人から本物の金貨ばかりをさわらせてもらうそうだ.
そして本物の手触りがわかると, にせ金がきたときにすぐ見破れるのだ. 初めから質の悪いものに接触していると, どれが本物かわからなくなってしまう.
それとおなじで, なるべく生まの自然のなかで生活することが本物の金貨にさわったというセンスだと思う. そのうえで大都会に帰って, いろいろなところで暮らしてみたらわかるだろう.