雑記_2014
備忘録のようなものです. 思ったことや, その時々の出来事を書き連ねておきます.
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「再開/再会を願う?文面」
北泉_ミライ_氏
さようなら けじめさん いつか わたしは ここへもどってきて ここで くらすつもりです もし もどれなかったとしても また どこかでおあいできるでしょう それが 地下のエネルギー炭坑か 月の鉱石採掘場かわかりませんが・・・・・・・・ わたしは あなたにあえて 本当の人間の姿を 見ました 機械よりも強い 人間の心を 見ました だから わたしは調査員をやめて・・・・・・・・ あなたと おなじ 無職の自由居住者に なります ではいつか また・・・・・・・・さようなら 北泉ミライ |
これは, マンガです. マンガなのだけれど, 妙に, 文面から, リアリティを感じるので, ここに引用します.
主人公の, 物野けじめ_氏が, ある登場人物から, 受けとった手紙の文です.
私が, 思うに, この作者, 松本_零士_氏は実際にこういう手紙を見たことがあるのではないかと. 松本_氏本人が受けとったかどうかは,
ともかく. . . .
なかなか, この文面は, 引き込むようなところがあると, 私は, 感じています.
(2.)実は, 別れのメール.
相手は, かつてのメールフレンド.
xxxx年xx月xx日に, 私が, いただいたメール.
このメールは, 最後のメールである.
事情は, 書きませんが, この後, この****氏から, メールが来ることはなかった. (ずっと以前にいただいたメールである)
イヤミなどではなく・・・・, 最後に「ではまた. 」とありますが, これが, 最後のメールになるであろうことは, 読んだ時点で予測していたし,
実際, その通りになった.
「また」といいつつ, この文面から, 予測がつくのは, これが最後の言葉だということ.
最後のメールになるだろうと, 予測できたメールの一例として, 引用しました.
Subject:楽園を抜け出すのに必要なもの ****です. 書く言葉がうまいこと浮かびません. たぶん考え過ぎなんだと思う. だけど自分の感覚は信じたい. もう少し時間をください. ではまた. |
「もう私, 死んでもいい?」
死と生との間に仁王立ちになる看護婦という仕事. しかし, その仕事はしばしば患者を死によって奪われるという結果で終わる. Fさんは, 死に奪われたもう一人の患者Yさんについて語ってくれた. 患者は女性. 年齢は20代後半. 会社員の夫との間に一児をもうけたが産後間もなくからだのぐあいが悪くなった. 白血病という診断を受けた. 治療に専念するために, Yさんと夫は, 赤ん坊を施設にあずける決心をした. Yさんは自分の母親と同居していたが, 母子分離ができておらず, 何につけてもYさんは母親の援助を求めてきた. 入院も母親のつきそいなしには不可能だと, Yさんは夫に懇願した. そんなわけで, 赤ん坊は施設へ, Yさんと母親は病院へという非常事態になったのだ. Fさんは入院当初からつきあってきた. Yさんは骨髄移植を希望していたが, 家族のなかにもまたバンクにも, 適合する骨髄はなかった. このままでゆくと余命は2年, Yさんの母親は内々覚悟を決めていたという. このYさんにはFさんのほかに受持ちの若い看護婦がついた. Fさんは主任として若い看護婦を指導しながら患者のYさんを中心に, 母親, さらに医師と, かかわりあう全員の呼吸を合わせてゆく役割をになっていた. 困難はいくつもあった. まず第一にYさんの病気は血液のがんであり, かなりむつかしいものであること, 母子分離が不十分で一刻たりとも母なしにはいられない心理状態であること, 母とは向きあうが, , 訪れる夫にはよそよそしく, 夫のほうもよそよそしい素振りを見せる. そのうえ, Yさんと担当医師とは折りあいがついていなかった. 症状は日を追い悪化していった. 呼吸困難がひどくなり, 常時酸素吸入を必要とし, 顔やからだは, ステロイドホルモンの副作用でパンパンに腫(=は)れた. 白血球が減少したため, 肛門のちょっとした亀裂から死の原因となる重い感染を引きおこすおそれもあって, 便は毎回かき出さないといけない状態. 心理は当然, 不安定になった. ただ, そういうYさんの気分に灯をともすものが, たったひとつあった. こどもの顔を見たい, こどもに会いたい, 家に帰りたい, という強い願望である. Fさんは酸素ボンベを携帯すれば, 帰宅も可能と判断し, その方向で帰宅作戦を練った. 医師との折りあいが悪いワケは, Yさん母子が, 処方されたクスリをめぐってあれこれ医師に質問し, それを医師をうるさがったことが原因で, またしばしばYさんが医師の指示通りにクスリをのまないということも理由だった. 医師はFさんに向かって「あの患者は嫌いだ」とハッキリ言ったほどだ. 医師のプライドを傷つける患者と受け取ったのだろう. しかしそれはYさんが治療に積極的に参加する姿でもあったのだ. インフォームド・コンセントを求めていたのだ. だが医師はそうとはとらず, 「嫌い」と, 切って捨てる態度に出てしまった. 受持ちの若い看護婦とFさんは, 医師とYさんとの関係回復をはかろうとしたが, これはあまり成功しなかった. その八方ふさがりのなかで, Fさんは, 帰宅作戦を成功させて状況の転換をはかった. 結局, Yさんは, 突然の脳内出血で亡くなってしまうのだが, 亡くなるまでの間に5回の外泊を実現した. 脳内出血が最後の引き金だったが, その前に突如として視力を失うというショックも, 重なった. これには全員があわてた. 本人はパニック状態におちいった. 酸素ボンベをたずさえ車椅子で帰宅, かわいいさかりのわが子を見たそのあとで, 視界は突然暗黒に塗りつぶされたという. 亡くなる1時間前のこと, Yさんが「お母さん, お母さん」と声をかけてきた. もう夜の11時を過ぎ, 病棟は闇に沈んでいた. 「どうしたの」とささやくとYさんは, 「もう死んでもいい?」と聞いた. とっさに答えられず「え? 何?」と問い返した. 発病以来「こどもはね, お母さんより先に死んではいけないのよ」という言い方で, 娘をはげましエネルギーを与えてきたのだった. だからとっさに返答はしかねた. Yさんはもう1度言った. 「お母さん, もう私, 死んでもいい?」 母親はひと息ついてこう答えたという. 「もういいよ」. こんなにがんばって, 医師の告知で去年の夏までの命をされていたのに, ここまで生きのびたのだから, もういいとシンから思った. するとYさんは「ああよかった」とほんとうに安心した声音でいって, 沈黙した. それから1時間あとの12時過ぎ, Yさんのさいごの異変がきた. 意識がなくなったのだ. 終わりのときが訪れていた. 「でもね」とFさんが言った. 「ひとついいことがあったんです. よそよそしい感じだった夫さんが, Yさんの視力がなくなったときからまったく変わったの. 不安定の極になって泣いてばかりいるYさんのかたわらで, ずっと訴えをきいて, もういまはとにかくなめまわすように包みこむほかはないって, からだ中をよしよしと触って撫でてあげていた. 若い看護婦はその姿を見て嬉しくて嬉しくて. ああよかった. そうなってくれてよかったと言いながら, 私の胸で泣きました. 家族の前では涙をおさえていたんですけれどね・・・・・・」 妻の死後, FさんのところへあいさつにきたYさんの夫は見違えるように自信にあふれたキリッとした表情をしていた. 最後に力をつくして, ありったけの思いをこめて介抱看病したことで, 安定した心境にはじめてなれたのだろう. やっと心をつくせたという満足が, 夫の顔を明るくしたのだろう. Fさんと若い看護婦は, しみじみ語りあったという. Yさんの死は悲しいけれど, 夫さんがそれで成長したみたい. こどもさんとのあたらしい生活をスタートさせるエネルギーにきっとなってゆくわよ. そしてFさんは, 当の若い看護婦にとって, Yさんとの出会いは看護の困難と救いの両面を知る過程のひとつだったと思うし, この若い看護婦の流した涙を尊敬する, と私に話しながら, 自分も涙ぐんだのだった. |
余計なことを, 書けば, 時系列順に, 書けなかったものかなと, 思ってしまいます.
わざと, こういうふうに, 時系列を前後させて書いてあるのかも知れませんが, 少々読みにくい.
それは, ともかく, 自分の死生観を, 考えていると, こういう事態に遭遇したとき, どうしたものかと, 考えこんでしまいます.
いや, 単に, 死生観だけでなく, 親子関係, 人間関係についても, 考えさせる記事でした.
(2014/02/04)
「書店の衰退?」
「情報」
「本の神話学」
脇_英世『文科系のパソコン』講談社(講談社現代新書), 1984/04/20_第1刷発行, 1985/06/22_第3刷発行,
p112-p114.
に, 紹介のあった山口昌男『本の神話学』の話である.
ワープロをデータ・ファイルとして使う 日本語ワープロは, 面白い機械である. 活用の仕方次第では, 非常に強力なものとなる. ここでは, 日本語ワープロをデータ・ファイルとして使うことを考えてみよう. よく引き合いに出されるのが住所録で, これは何といっても効果的であるが, 変化に富んでいないので, 読者に退屈の感じを与えるであろうから, ここでは少し変わった使い方を考えてみよう. たとえば, 山口昌男著『本の神話学』(中央公論社)という本を題材にとりあげさせていただこう. 一読されれば誰でも感じられるように, 著者は博覧強記で大変な読書家である. 引用文献の数も多く, 目もくらむほどである. 博引傍証趣味とは, こういう人をいうのかも知れないと思う. 『本の神話学』の中でも, 「二十世紀後半の知的起源」という章は面白いと思うので, これを取り上げて考えることにしたい. 引用はスチュアート.ヒューズに始まり, L.ガーショイの『ザコリンのベッカー解釈』に終わっているが, 実に多彩である. 読んでいると, どこまでが著者の意見で, どこまでが引用文献の著者の意見なのかわからなくなる. 冷静に分析するためには, まず引用文献の一覧表を作ってみるのがよいと思う. 文献の一覧表を作る場合, 項目をどう配置するかが問題である. これは穏当に, 著者名・文献名・訳者・発行所・発行年とすることにしよう. 普通, 学術文献では原典第1主義で, 原典の題名と発行所と発行年はやかましい. どのテキストを参照したかということが, まず議論の前提になるからだ. 同じ著者の同じ名前の本でも, 発行年が違うと, 書いてあることが違うことがある. ひどいのは, 逆の結論が出ていることさえある. したがって, 学術文献の場合, 仮に訳書があっても, 引用はしないで原典の引用をキチンとする. どのように入手が難しかろうと, 正確さを重んじる. この本の場合は, 訳書の間違いを指摘して, 出版文化のあり方を批判することにも力が注がれているので, 訳書の方も項目に取り入れることにした. |