高樹のぶ子『透光の樹』

高樹のぶ子 昭和二十一年山口県生まれ。東京女子大学短期大学部卒。五十五年、デビュー作「その細き道」を「文學界」に発表、創作活動を始める。 五十九年「光抱く友よ」で第九十回芥川賞を、平成七年「水脈」で第三十四回女流文学賞を、十一年「透光の樹」で第三十五回谷崎潤一郎賞を受賞。平成四年から芥川賞選考委員。

石川県鶴来町

山崎火峯  刀鍛冶   千桐の父 病気  多少痴呆の症状あり
山崎千桐  四十二歳  離婚経験あり
山崎 眉   十二歳 千桐の娘

今井 郷  四十七歳
      テレビ製作プロダクション「センチュリー・ユニオン郷」代表取締役社長 二十五年前ADとして山崎火峯を取材
      今回「北前船が日本海沿いの街々に残した歌、食べ物を紹介する旅番組」の仕事の後で再訪。



 まだ、真夜中とは言えない。真夜中の少し手前だ。まだ、非常識とは言えない時刻。

 夜中の二時三時まで仕事をするのはざらで、三日四日家に帰らないのもごくあたりま
えの生活を四半世紀も続けてきた今井郷にとって、夜の十一時は、他人の家へ電話をか
けても非常識とは思えないぎりぎりの時刻だったが、病人と十二歳の娘を抱える千桐に
とってはすでにその時刻は深夜、一日に起きる事はすべて終り、もはや何かが起きるこ
とへの期待さえ、四角く折り畳んで胸の箱にしまいこんだあとだった。
 ことにその夜、今井郷から電話がかかってくることへの期待は、早々に見切りをつけ
られていた。というのも、前の二晩に味わった千桐の期待と失望は大きく、電話なんか
かかってくるはずがないと思いながらも、どこかで待っている自分への歯痒さ苛立たし
さもとうに頂上を越え、強引な諦めのなかに自分自身を引きずりこんでしまっていたか
らだ。
 こっちからさっさと諦めて、気にもかけなくなったとき、ふいに実現するってことが
よくあるわ。探すのをやめたとき、見つかることもよくあるはなし。たしかそういう歌
もあったじゃない。
 本人は諦めたつもりになっていたが、千桐は結局諦めてなどいなかった。罠に捕えら
れた者がいくら罠を無視しようとしても、自由になんかなれないのである。
 そして十一時、間違い電話に違いないと、なぜか思い決めたうえで持ち上げた受話器
から、郷の声が流れてきたのだ。
「もう、おやすみでしたか」
「はい。いえまだです。大丈夫です」
「こっちに帰ってすぐに電話しようと思ったんですが、仕事が忙しくて」
 嘘ではないが、男はよくこういう見栄をはる。仕事が忙しくて、のひとことは、多く
の場合言い訳に使われるが、ときに男の身を飾るささやかなバッジの役目も果たすので
ある。
 この場合は、郷の本音を隠す効果ももっていた。しかし隠した本音を、慌てて差し出
さなくてはならないほど、郷も冷静ではなかった。
 「いや、仕事は本当に忙しかったんだけど、電話をかける勇気がなくってね」
 「……勇気ですか?」
 「電話をかけるのに勇気がいるなんて、この何十年もなかったですよ。ですから」
 言ったとたん、まずい、という思いが郷に走ったが、その声は堂々としていたので、
千桐には全く別の印象をもたらした。
 「じゃあ今も、勇気をふりしぼってらっしゃるの」
 「ええ、ふりしぼってます」
 「すごく馴れていらっしゃるみたい」
 「何がですか」
 「勇気をふりしぼってのお電話。とても何十年ぶりなんて思えない」
 いや本当なんです、と大真面目に言いかけて郷はやめた。千桐がいま思い描いている
男の姿に、自分を寄り添わせてしまえばいいのだ。
「女性に電話をかけるのは、いつだって勇気のいることですよ」
「いつだって?」
「はい、いつだって。好きな女性に対しては当然でしょう」
 ああ離れていく、自分の言葉が自分を裏切ってどんどん離れていき、別の像をつくり
始める。
 郷は慌てていた。こんなに軽い調子で、好きな女性、などと言える、いまの自分では
ないのだが。
 しんとした沈黙が郷の耳にのしかかった。彼はその間、当惑と軽い冷笑の表情を千桐
の顔に貼りつけ、声として戻ってくる反応を、怯えながら待っていたのだが、実際の彼
女の表情は、男の想像とは少し違っていた。彼女はただ、好きな女性、のひとことに金
縛りにあっていたのだ。
 ここ数日のあいだに千桐のなかには、″女たちと楽しいことがいっぱいあった″今井
郷の姿が、すっかり出来上がっていたし、そのプレイボーイぶりは、彼女の自己防衛本
能のような力をかりて、実際以上に大きく仕上がっていたかもしれない。
 あのときたしか彼はこう言ったわ。女の下半身だけなら、数をそろえることが出来る。
そういう世界に生きてきた人なんだもの。
 それでも生な言葉で、好きな女性、と言われたら、声が出ないのだった。
 「どうしました」
 「何でもありません。無責任な方」
 [正直なだけです。ああ、お礼を言うのを忘れてしまってた。金沢まで送って下さって
ありがとう。お父上はお変りないですか」
「あなたに、借金を払うようにってうるさいんです」
「では借金払ってもらうために、もういちど鶴来に行こうかな。誰か、返済を迫る男で
もいるのですか」
「はい。うちは貧乏だって言いましたでしょ?」
「そんなに明るくってやさしい貧乏なんて、許せないな」
 郷に千桐の笑顔が感じとれた。ふふっと笑う息が伝わってきた。
「明るくなんてありません」
「いや、素敵に明るい。あなたの笑う顔が見える。唇も見える。目のまわりが、ほんの
り赤らんでいる。あたってるでしょう」
 「ここ、台所なので、鏡がないからわからないわ。でも、そうかもしれない」
 「きっとそうだ。やっぱり借金払ってもらうために鶴来に行きたい」
 「いらっしゃっても、お払いするものがありません。でも、どうして今井さんにお払い
しなくちゃならないの?」
 「じゃあ、誰に借金返すんです」
¬鋼材屋さんと、親戚に。鋼材屋さんから平鉄や棒鉄を仕人れた代金、もう長いこと払
わないままなの」
¬だったら、払わなくっちゃ」
¬先方はとうに廃業して、何年も前に亡くなりました。二十年前の借金はありますけど、
お払いする相手がいなくなっちゃった。この世界って、こんなことが沢山あるんです」
 ¬二十年も経てば、借金はすべて時効だ」
 ¬父の記憶にも、時効があるといいのに」
 ¬やっぱり僕が行かなくちゃ」
 千桐は黙っている。
 郷が、理由にもならない理由をつけて鶴来に来たがっている、そのことは疑いようも
なかった。
¬借金があるなら、僕に手伝わせて下さい」
¬え」
¬借金じゃなくて、返済の方です」
¬ええ。でもなぜ?」
 喉元に刃先を突きつけられたように郷は追いつめられた。何か応えなくてはならなか
った。
 このときの郷のひとことは、後々まで思いがけず尾を引くことになる。とっさに口を
ついて出た言葉は、条件反射にも似た韜晦だったのだが、ともかくお互いに顔を合わせ
ていては、決して言えない質のものだった。
 彼は千桐以上に明るく冴えざえとした声でこう応えていた。
¬なぜって、決ってるでしょう。あなたが目あて。目的は、あなたしかない」
 多少の酔いもあった。それ以上に、ざまあみろと自分をつき放したあとの、やぶれか
ぶれな闇に、一瞬包まれてもいた。緊張やためらいののちに突然ゃってきた、崩壊だっ
たかもしれない。
 当然彼は、急いで修正をこころみた。
¬ああ、また叱られちゃいそうだ。最近は頭が悪くなったせいで、ろくな冗談も出てこ
ない」
 それは冗談ではなかったし、勿論彼の本心でもなかった。だが、一般的には女性に対
してきわめて失礼な、悪ふざけと呼んでもいい言葉の中に、これもよくあることだが、
いくらかの本音も隠れているものだ。
 郷は千桐の家の台所を想像し、台所のどこに電話が置かれていたかを思い出そうとし
た。火峯の枕元に座っていて、開けられていた間仕切りから見えただけの台所だったが、
電話は火峯の頭から遠い位置に置かれていたように思い、ほっとした。と同時に、その